第6章 破局

 タクシーで城館に帰ってきて、クロードさんからもらった黒いクレジットカードで支払う。

「メルシ・マダム・ラファイエット」

 タクシーの運転手さんが手を振って去って行った。

 なんで私の名前を知ってるのかと一瞬驚いたけど、カードの名義人だから当たり前だよね。

 と、納得しかけて、ふとカードを見たら、もっとすごい事実に気がついた。

『ラファイエット・ホテルズ・アンド・リゾーツ』のカードだったのだ。

 自前のクレジットカード・ブランドまであるなんて、どんだけ金持ちなのよ。

 すごいところに嫁に来ちゃったな、私。

 カードを持つ手が震えて落っことしそうになっちゃったし。

 朝、出がけに言っていたとおりジャンは帰ってなかったから、夕食は一人でとることになった。

 メイドさんがわざわざ私の寝室まで運んで下さった。

 ホテルのルームサービスみたいだったけど、一人で食べるのはさびしい。

 もともとお一人様だったくせに……。

 でも、フランス料理のコースを一人って、もしこれがクリスマスとかだったら泣いちゃうでしょ。

 ジャンが一人だと冷凍食品を食べてるっていうのも、かえって当然のような気がする。

 そもそも城館に住むって、現実感がなさすぎる。

 もしこんなところで納豆に味噌汁のご飯を食べたら、自分のしてることをテレビで見てるみたいな気がしちゃうんだろうな。

 ヒレステーキも鱒のグリルもおいしいんだけど、食べてる実感がない。

 そんなふうに感じるのがおかしいってことも分かる。

 だって、自分はそもそもシャトーホテルのお客さんになるはずだったんだから。

 多分、豪華な雰囲気に浸りきって、お姫様気分なんて浮かれていたはずだもの。

 なのに、生活することになった途端に、違和感を感じてしまう。

 まあそれは、日本の暮らしとかけ離れてるから仕方がないのかもしれないけど、これに慣れるのって、どれくらい時間がかかるんだろう。

 そんなことを考えながら夫の帰りを待ちわびる妻の役を忠実に演じていたら、ジャンが帰ってきたのは日付が変わりそうな時間だった。

 寝室のベッドの上で耳を澄ませていたから、車寄せに静かにロングベンツが到着したのは分かった。

 ナイトガウンの上に薄い肩掛けを羽織って玄関ホールまで出迎えにいく。

「お帰りなさい」

 階段の踊り場から声をかけたら驚いた表情で彼が私を見上げた。

「な、なんだ。ユリか」

 急に心にさざ波が立ち始める。

 なんだろう、この違和感。

 ただの勘としか言いようがないのに、ものすごく確信的に心の中に沸き起こる不信感。

「どうしてそんなに驚いてるの?」

「いや、だいぶ印象が変わっていたからさ」

 そんな言い訳をしつつ、階段を上がってくる。

「似合うかな?」と、自分の髪にさわってみる。

「ああ、似合うよ、とても」

 顔を赤くしながら私のことを上から下まで何度も視線を往復させて眺めている。

 踊り場まで来ると、彼は私の肩を抱き寄せて頬にキスをした。

「前の方が良かった?」

「いや、なんていうか、前も良かったし、今もいいよ。どっちも素敵だよ」

 なんか、期待してた反応と違う。

 気に入ってもらえなかったかな。

「どっちも正解じゃないみたいだね」と、ジャンが肩に手を置いたまま私の目を見つめた。「ユリはいつも僕を驚かせるよね。だからいつも、『素敵』以外の言葉が見つからないんだ。愚かな僕を許してくれよ」

 そして、そっと背中に手を回して力を込めた。

「ごめんよ。抱きしめることしかできなくて」

 あれ?

 なんの匂いだろう……。

 ――ココナッツオイルの香り。

「ミレイユさんに会ってたの?」

「え、どうして分かる?」

 あからさまに動揺している。

「まあ、いや、その……、ミレイユと夕飯を食べてきたんだ。彼女が君に会ったという話も聞いた」

「今日の午前中、ここに来たの。いい友達になれそうねって」

「そ、そうなのか」

「でも、お食事くらいでこんなに匂いが残るってことはないでしょう」

 思わずクンクンかいでしまう。

「いや、これはつまり、その……だな、フランス式挨拶ってやつで触れ合っただけだ。別れ際に……その、いわゆるハグというやつだ。だからだよ」

「本当?」

「本当さ。日本語で『やましい』だっけ、『後ろめたい』だったかな。そういう気持ちはないよ。君も聞いてるだろうけど、僕らの婚約は解消されたし、お互いにずっとそうしたいと思っていたんだ」

 と、車を駐車場に移動してきたクロードさんが玄関ホールに現れた。

「コンバンワ、マダム」

「ボンニュイ、クロードさん。お疲れ様です」

 クロードさんは一礼して廊下の方へ去って行った。

 また見られたくないところを見られちゃったかな。

 私はジャンの手をつかんで階段を駆け上がった。

「ちょっと来て」

「なんだ。どうした?」

 寝室に入って扉を閉めると、私は彼をベッドに座らせた。

 明かりの消えた暗い部屋で彼が私を見上げている。

 窓から差し込むかすかな光が闇の底に沈んでいる。

 暗闇に慣れた目に彼の困惑した表情が浮かんでくる。

 静寂に包まれた寝室で、私の心だけがざわついていた。

「どうして黙ってたの?」

「何を?」

 ――私は……。

 ――いったい……。

 いったい、何をしようとしているんだろう。

「いろいろ全部よ」

「全部って……」と、彼の視線が右往左往している。

 そんな彼の態度にいらつく。

 こんな気持ちを彼に抱くことになるなんて、ついさっきまでは思ってもみなかった。

『アナタハ、ジャンヲ、シンジマスカ?』

 お母さんの言葉が思い浮かんでくるけど、感情の荒波にすぐに押し流されてしまう。

「だから、婚約してたこととか、ミレイユさんのこととか、お仕事の影響とか。私、何も教えられてないじゃない」

「いや、べつに関係はないんだ。確かに僕とミレイユは婚約していたけど、家同士の関係だから恋愛感情なんかなかったし、君と出会ってむしろ僕は本当に人を愛することを、ユリ、君から教わったんだ。この人だってね。この気持ちが本物なんだって。僕の気持ち、僕の言葉に嘘はないよ。僕が愛しているのは君だけだ」

 違う。

 そういうことじゃない。

 私が言ってほしいのはそういうことじゃない。

「お仕事にだって影響があるんでしょ?」

「ボワイエ財閥との関係のことか? だから、今日も一日そのための話し合いをしてきたんだ。他の金融グループと融資の交渉は進んでいるから心配はないよ。それにこれは以前から計画していたことだから、今、急に動き出したわけじゃない」

「計画って、私と出会う前から?」

「そうだよ。先を見据えて計画を立てるのが経営だからね」

 違うの。

 そうじゃないの。

 どうして分かってくれないの。

 そういうことを言ってほしいんじゃないの。

 ――プツン……。

 私の中で、かろうじてつながっていた赤い糸が音を立てて切れた。

「私との結婚も予想してたの?」

「落ち着いてくれ。それはまた別のことだよ。君との出会いを予想できたはずがないだろ。一目惚れなんだから。偶然だよ」

「婚約を解消する理由として都合が良かっただけ? だから意味なんかないの? この結婚に意味なんかないってそういうことなの? 誰でも良かったんでしょ! すべて計画通り!」

「待ってくれ」と、ジャンが立ち上がろうとする。

 私は彼の肩を押さえつけた。

 自分でもビックリするくらいの力で、ジャンがベッドに倒れ込む。

 それだけでおさまらず、私は上に飛び乗って彼を押さえつけた。

「ねえ、極上の大トロにベシャメルソースがかかったみたいってどんな感じなの?」

「ちょっと、待て。何の話だ。ミレイユから何を聞かされた」

「私、ミレイユさんのことだなんて言ってない!」

 ジャンの目が大きく見開く。

「いや、あの、それはだな……。ええと、つまり、なんだその、ええと……。もう十年も前のことだ。確かにそういうこともあったかもしれないけど、ノン、僕も覚えてないよ。ジャメ、ジャメ。なんでもないんだ。何もなかった。本当だ」

 馬鹿ね。

 何も分かってない。

 肯定も否定もどっちも正解じゃない。

 どうして正解を探そうとするの?

 私が知りたいのはオリコウサンな答えじゃない。

 何を言ったところで過去が変わるわけじゃないし、そもそも過去を変えてほしいとも思ってない。

 過去のあなたがほしいわけじゃないし、過去のあなたを責めているわけじゃない。

 最初から言ってほしかった。

 事実を知る前に自分から言ってほしかった。

 後から知らされたのが嫌なのよ。

 先に知ってたら許せたのに……。

 ――ううん、嘘。

 許せないし、結局同じ事になってたと思う。

 だんだん自分でも何を言ってるのか、何を言いたいのか、分からなくなってくる。

 なんかもう全部投げ出したい。

 本当は私も最初からあなたのことなんか好きじゃなかったのかも。

 ……なんてね。

 ――馬鹿じゃないの、私。

 後出しじゃんけん。

 好きだったくせに……。

 抱き合って、あんなに愛し合って溺れたくせに。

 私だって嘘つき。

 嘘ついてるのは私の方。

 だけど、それをどうしようもなくしたのはジャン、あなた。

 あなたのせいよ!

 自分でもどんどんおかしくなっていくこの気持ちをどうにもできない。

 感情だけが高ぶっていって、理性も思考も吹き飛んでしまう。

『何があってもあなた自身で考えて答えを選ぶのですよ』

 ごめんなさい、お母さん。

 何も考えられない。

 フランス人とか日本人とか関係ない。

 恋なんてうまくできるはずがない。

 愛しているから愚かなのか、愚かだから愛したのか。

 そのどちらなのかなんてどうでもいい。

 ただ確実なのは、私が愚かな女だということだけ。

 初めて出会った男にだまされた馬鹿な女。

 勝手に始めた一人芝居に陶酔する悲劇のヒロイン。

 生理的な嫌悪感しか感じなくなっている自分をどうにもできない。

 気持ち悪い。

 なんで私はここにいるの?

 どうしてこんな人と一緒にいなくちゃならないの?

 自分でもどうしていいのか、何をしてほしいのかなんて分からない。

 ただ、もう、分かってるの。

 私たち……、もう終わりなのよ。

 だって、こんなに悲しいのに涙すら出ないんだもん。

 永遠なんてただの幻。

 終わるときは一瞬。

「待ってくれ」

 ジャンがゆっくりと上体を起こす。

 私が視線をそらすと、目を追いかけようとしてくる。

「見ないで」

 彼は両手のひらを私に向けて力なくうなずいた。

「僕たちはケンカばかりしているね。でも、分かってほしいんだ。僕は君に対して誠実でありたいと思っているよ。なのに君を不安にさせたことは申し訳なく思う。僕の言葉が足りなかった。説明が必要だったんだよね」

 彼のため息が聞こえる。

「だけど、信じてくれ。本当に何もなかったから何も言わなかったんだよ。君との出会いは偶然で、でも僕にとっては最高の幸運だった。偶然か必然かに意味なんかないよ。ただ、僕たちは出会ってしまったんだ」

 そう言ってしばらく息を詰めていた彼がまた口を開いた。

「なあ、ユリ」

 私は黙っていた。

 言葉を待っていた彼が、ため息の後に続ける。

「僕たちは出会うべきじゃなかったのかな」

「あなたがそう思うなら、そうなんでしょ」

 冷めたスープみたいな言葉が喉に引っかかる。

 だから何?

 そんなのどうでもいい。

 考えたくもない。

 やっぱりいくらなんでもお互いのことを知らなすぎた。

 理解し合えたなんて幻想。

 結婚なんて無茶だったのよ。

 三十にもなって何の経験もない女が浮かれてもてあそばれただけ。

 一人芝居の幕は勝手に下りる。

 知ってたくせに。

 分かってたくせに。

 ただ夢に溺れていたかっただけ。

 私はパスポートに挟んでいた結婚宣誓書を取り出した。

「こんな紙切れ、なんの意味もないんでしょ。書類だってそろえてないんだし。こんなの全部嘘。こんな紙切れに縛られるなんて馬鹿みたい」

 ジャンの目の前に突きつけてビリビリに破く。

 彼の膝の上に、ただのゴミくずになった婚姻届が舞い散る。

 うつむいたまま彼はじっとその紙くずの山を見つめていた。

 張り詰めていた気持ちが真っ白になる。

 私は床の上に崩れ落ちてジャンの膝にもたれかかった。

 もういいの。

 疲れちゃった、私。

「実は、ユリ、君のことを話していたんだ。皮膚の再生手術のことでね」と、彼が私の髪を優しくなでる。「ミレイユが知り合いの医者を呼んでくれてね。三人で食事をしながら相談したんだ。医者が言うには二、三十年前と今では医学も進歩しているから治療方法も増えてるそうなんだ。昔治療できなかった症状でもできる可能性が高いらしいよ。もちろん、お金の心配もいらないから、可能性があればやってみる価値はあると思うんだ」

 なんで……。

 どうして……?

 ありのままの私を受け入れてくれたんじゃなかったの?

 私は顔を上げて彼を見つめた。

「やっぱり醜いと思うの? 本当はそう思っていたの?」

 ジャンが目を伏せながら首を振る。

「いや、すまない。そんなつもりじゃなかったんだ」

 私自身、自分の口から出た言葉に驚いていた。

 ずっと誰にも見られたくないと思っていた。

 自分自身が一番それを否定的に負い目として受け止めてきた。

 だけどそれは私自身の問題。

 誰が悪いわけでもない。

 ジャンを責めてはいけないし、ジャンがそんなつもりで言ったわけではないことも分かっている。

 みんなが私のことを気づかってくれていることもありがたいと思わなければいけないはずだ。

 でも、触れ合っているのに、二人の間にある隔たりの大きさに今さら気づいてしまったのだ。

 夢はいつか覚める。

 でも、それが今だとは思ってもみなかった。

 ただそれだけのこと。

「いい夢を見させてくれてありがとう」

 私は彼に微笑みかけようとした。

 でも、頬がこわばるだけだった。

「瞬間を積み重ねれば永遠になる。でも、崩れるのも一瞬」

 涙なんか出ない。

「出ていって」と、言って思わず笑ってしまう。「ごめんなさい。私が出ていくべきよね」

 彼が静かに首を振る。

「明日、出て行きます。お世話になりました」

 抱き寄せようとする彼に私は手を突き出した。

「お願いだから……。あなたを拒みたくないの」

「ユリ」と、彼は立ち上がってドアに向かって歩いていく。「僕は君を愛しているよ。今でも、これからも。僕の永遠はまだ終わっていないよ」

 無意味な言葉が闇にむなしく溶けていく。

「もういい!」

 閉まるドアに向かって私は枕を投げつけた。


   ◇


 翌朝、私は荷物をまとめて寝室を出た。

 日本に帰ろう。

 最初の旅程ではあと三日滞在するはずだったけど、もうここにはいられない。

 玄関ホールには誰もいなかった。

 城館全体が静まりかえっている。

 タクシーを呼んでもらいたいのに困ってしまう。

 ジャンはもう仕事に出たんだろうか。

 クロードさんも一緒かな。

 最後に一言お礼を言いたかったな。

 私は廊下を歩いてレストランの方へ行ってみた。

 朝食を出してくれたおばさまがいるかもしれないと思ったからだ。

 でも、レストランは暗く、人の気配がなかった。

 トレーニングルームも器具が整然と並んでいて、使った様子がない。

 なんかおかしい。

「誰かいませんか」

 私は日本語で呼んでみた。

 返事がない。

 そんなはずはない。

 昨日まではメイドさんや庭師の人たちが大勢いたのに。

 今日は定休日?

 そんなのあるのかな。

「エクスキュゼモワ! 誰かいませんか!」

 すると、吹き抜けの玄関ホールの上の方から足音が聞こえてきた。

「マダム?」

 三階の踊り場にメイドさんが顔を出した。

 ミシェルさんの服を運んでくれた人だ。

「あの、誰もいないんですけど、どうしたんですか?」

 私は日本語で話しかけながら階段を上がっていった。

 メイドさんはフランス語で何か言っている。

「あの、すみませんが、タクシーを呼んでもらえませんか」

 私はスマホの翻訳画面を見せた。

「ウイウイ、メー」と、メイドさんが部屋へ私を手招きする。

 テレビを見ていたらしく、画面がついたままだった。

 思わず目が釘付けになる。

 そこに映っているのはジャンだった。

「なんでジャンが!?」

 テレビ画面の中でジャンがカメラマンの群れからフラッシュを浴びている。

「提携解消だそうです」と、メイドさんがぼそっとつぶやいた。

 スマホの画面に次々と表示される翻訳画面と見比べながら私はニュースの内容を追った。

『ボワイエ財閥がラファイエット・ホテルズ・アンド・リゾーツとの提携解消を発表』

 画面の中でジャンが報道陣の質問に答えている。

「現在、複数の新しい出資者と交渉中です。当面のホテルやレストランの運営に影響はありません」

 画面が切り替わってキャスターが原稿を読み上げる。

「株式市場にも動きがありました。ラファイエット・グループの株価は十パーセント以上下落。市場関係者はラファイエット・ショックの行方を見守っています」

 どういうこと?

 もしかして、私のせい?

 やっぱり全然大丈夫じゃなかったじゃないの。

 ジャンのうそつ……。

 言いかけて言葉を飲み込む。

「マダム、タクシー」

 メイドさんが私を呼んでいる。

「はい、今行きます」

 私は荷物を持って城館を飛び出した。


   ◇


「パリ、ミュゼ・ドルセー、シルヴプレ」

「ウイ、マダム」

 日本に帰る前にとりあえず私はパリへ行ってみることにした。

 お母さんにもう一度会ってお礼とお詫びを言っておこうと思ったからだ。

 詳しい状況も聞けるかもしれない。

 タクシーの中でジャンと連絡を取ろうかと思ったけど、いざスマホを取り出すと手が止まってしまう。

 何を話したらいいのか、何も思いつかない。

 私なんか何の役にも立たないし、ただじゃまなだけ。

 パリ市内は昨日までと何も変わりない。

 なのに私たちを取り巻く状況は大きく変わっていた。

 オルセー美術館の前でタクシーを止めてもらう。

 黒いクレジットカードを渡したら、読み取り機械にエラーが表示された。

「ソーリー・マダム、インヴァリッド」

 英語で『無効』という意味だ。

 私は手持ちの現金で支払ってお母さんのアパルトマンへ急いだ。

 でも、そこには報道陣が集まっていて、近づける状態ではなかった。

 テレビ局のレポーターが中継をしたり、あのいかつい顔のドアマンと押し問答を繰り広げている。

 一瞬、彼と目が合ったけど、かすかに首を振って合図していた。

 日本人の私の顔はまだ知られていないだろうけど、一度カメラに捉えられたら追いかけられるのは時間の問題だろう。

 とりあえず今は近づけない。

 私はいったん橋を渡ってセーヌ川の右岸に移った。

 対岸のアパルトマンの窓にはカーテンが掛かっていて中の様子は分からなかった。

 どうしよう。

 お母さん。

 ごめんなさい。

『私のせいでこんなことになってすみません』

 日本語をアプリでフランス語に翻訳してお母さんのスマホにメッセージを送ってみた。

 すぐに日本語で返信が来た。

 フランス語を翻訳したらしい。

『もういいのです。こうなることは分かっていました。すべて終わりでいいのです。愛を犠牲にするのはもうおしまい。それは愛の問題。それが人生』

 ――セラヴィ。

 そんな……。

『お話しさせていただきたいのですが、アパルトマンの前に報道陣がいてお部屋まで行けません』

『イマドコニイマスカ』

『セーヌ川の反対側です』

 すると、カーテンが開いて大きな紙が掲げられた。

 墨と筆で書かれた漢字。

 お母さん、書道も習い始めたんですか!?

『愛』

 それがいったん引っ込んで次の文字が見えた。

『信』

 そして三文字目。

『幸』

 報道陣が気づいて窓を見上げたときにはまたカーテンが閉じていた。

『愛を信じれば幸せになれる』

 でも、私は……もう。

 お母さんに言われた言葉が脳裏によみがえる。

『ユリさん、ジャンを頼みますよ。愛し合って生まれた自慢の息子。あなたを選んだ賢い息子ですから』

 ――そうだ。

 私は約束したんだ。

 お母さんと約束したんだ。

『アナタハ、ジャンヲ、シンジマスカ?』

 私はあのとき、『はい』と答えたんだ。

 ジャンは私を選んだんだ。

 私を選んでくれたんだ。

 だから私にだってまだできることはある。

 こんな結婚に意味なんかない。

 最初から意味なんかなかったんだ。

 だからこそ、まだできることがある。

 大切なのは形じゃない。

 形のないものに形を見つけようとした私が間違ってたんだ。

 急がなくっちゃ。

 ガラゴロとキャリーケースを引きずりながら私はセーヌ川の岸辺を駆け出した。

 道行く人が私を怪訝そうな目で見る。

 そんなの今はどうでもいい。

 行かなきゃいけない場所がある。

 息が苦しくたって急がなきゃ。

 左胸を手で押さえながら、私はパリの街を走り続けた。


   ◇


 建物に挟まれた路地の向こうに凱旋門が見えてきた。

 狭い路地を塞ぐようにフェラーリが止まっている。

 ネイビーブルーの扉を押して中庭に入る。

 ――よかった。

 いた。

 アランさんはお店にいた。

 テレビのニュース映像を見ている。

「なんだ、あんたか」

 アランさんは私の顔を見て唇をゆがめながら笑みを浮かべた。

 息が苦しい。

「ミレイユさんは……。ミレイユさんに会わせてください」

「会ってどうする。今さら」

「私たちの結婚は成立していないんです。だから、元通りにしてもらえるように頼んでみます」

「結婚? どうして?」

「日本からまだ書類を取り寄せていないので結婚が正式には成立してないはずです」

「そんなのミレイユにはどうでもいいことなんじゃないか。それに、話はもうあいつだけの問題じゃないみたいだぜ」

 アランさんがテレビを指した。

「ジャンが会社から追い出した旧役員も動いているらしいぞ。株式の譲渡をボワイエ財閥と交渉中、ラファイエット・グループの経営権を掌握か、だとよ。つまり、逆にあいつが会社を追い出されるってわけだ。それはそうだな。将来の婿だから社長として経営を任せてたんだ。その前提が崩れたら契約の変更は仕方がないだろうな」

「だから、それをなんとか思いとどまってもらえないかお願いしてみます」

「手遅れだよ。そんなことしてもどうにもならないさ」

「ミレイユさんにジャンと別れると言います。それがジャンのためなら……」

 アランさんが鼻で笑う。

「あいつのこと、愛してないのか?」

 私は言葉に詰まってしまった。

 言えなかった。

 この期に及んでも私は言えなかった。

 でも、時間がない。

 こうしてはいられない。

 急がないと。

「愛して……ます。でも、私のせいで破産させてしまいたくないから。すべてを白紙にして日本に帰ります」

「なるほど、それがあんたの愛の形ってわけか」

 アランさんがドアに向かって歩き出す。

「来いよ。連れてってやるよ」


   ◇


 アランさんが私の荷物をフェラーリに入れてくれた。

 後ろを開けるのかと思ったら、前だった。

「エンジンが後ろだからな」

 スマホみたいに薄いボディだからラゲッジスペースも狭くて、そんなに大きくない荷物がギリギリ収まった。

 背中でエンジンが吠えてパリの街を走り出す。

 もう見ることもない景色に私はさよならを告げた。

 車は市街地から郊外へ向かう。

 鉄道の車両基地や工場が並ぶ地域に入る。

「ミレイユさんは今どこにいるんですか」

「さあな」

 え?

 フェラーリが急停車した。

 人通りのない倉庫の路地裏だ。

「ここにいるんですか?」

 アランさんがシートベルトを外す。

「いるわけないだろ」

 と、いきなり私にのしかかってきた。

 狭い車内で逃げ場がない。

 シートも倒されてしまった。

「な、何をするんですか」

「馬鹿な女だ」と、下卑た笑みを浮かべながらシャツをはだける。

 胸毛から野獣の匂いが立ち上る。

 ベルトのバックルに手をかけてカチャカチャと音を立てる。

「あんたなんにも分かってねえな。あんたに本物の男ってやつを教えてやるよ」

 彼の手が固く閉じた私の内ももに差し込まれ、押し開こうとする。

「やめてください」

「騒いだって無駄だ。誰もいねえよ」

 ――助けて、ジャン!

 ごめんなさい。

 私、あなたのことを信じてあげられなかった。

 あなたは私を愛してくれたのに。

「ふん、久しぶりだな、日本の女を味わうのは」

 ざらつく髭が私の頬をこする。

 獣のような体臭に押しつぶされて、固く目をつむる以外、私にできることはなかった。

 ジャン……、ごめんなさい。

 ――助けて……。

 ジャンと出会ったときからの出来事が頭の中に広がる。

 彼の笑顔、彼のぬくもり、ケンカしたことですら愛おしい。

 なのに、私……。

 後悔の念が膨らんで意識が遠のいていく。

 最後に思い浮かんだのは寂しそうなジャンの後ろ姿だった。


   ◇


 ――どれくらい時間が過ぎたんだろう。

 何があったんだろう。

 目を開けると私は車の中に横たわっていた。

 そうか……。

 終わったんだ。

 ――人生も、愛も。

 ゆっくりと体を起こすと、私は服を着たままだった。

 ……あれ?

 なんで?

 アランさんは運転席のシートにもたれかかって、じっと前を見ていた。

「さっき、誰のことを思った?」

 どういうこと?

 服も乱れていないし、どこも痛くない。

 シャツのボタンをはめながらアランさんがつぶやく。

「目を閉じたとき、誰の顔が思い浮かんだ?」

 それは……。

「あいつだろ?」

 ――ジャン……。

「つまらない意地張ってないで、あいつと幸せになれよ。二人一緒なら、どんな困難でも乗り越えていけるだろ」

「……はい」

 ふっと、彼が鼻で笑う。

「どうせ、あいつの腕の中ではオレのことを思い出すんだろ」

「サイテーですね」

「色男には最高の褒め言葉だな」

 本当に――。

 一番大切なものを思い出させてくれてありがとうございます。

 私は気になったことを聞いてみた。

「アランさんはミレイユを愛してるんですか?」

「さあ、どうだろうな」と、フロントウィンドウの向こうに広がる霞んだ空を見上げる。

 しばらくしてから、彼がぽつりとつぶやいた。

「あいつの髪だけは他の男に触らせたくないな」

 ふうん。

 そうなんですか。

 アランさんが笑う。

「オリコウサンな答えだろ」

「満点ですね」

 私の返事に、満足そうにウィンクをしてみせる。

「男ってやつは女が思ってる以上に繊細で臆病な生き物だって言っただろ。いつも抱きしめてないと不安になる。だから、しょっちゅう他の女の味見をしたがるんだけどな」

 肩をすくめながらアランさんは私に微笑みを向けた。

「ま、それはオレだけか。怖がらせて悪かったな。ミレイユのところへ連れていくよ」

「空港へ行ってください」

「なんで? 今度は本当に……」

 私は彼の言葉を遮った。

「いえ、いいんです。国際線ターミナルにお願いします」

 アランさんが目を見開いている。

「私、やっぱり日本に帰ります。彼のために。これは愛の問題。私たちの愛の形なんです」

「そうかい」と、アランさんがため息をつく。「それがいいかもな」

 ちょっと失礼、と彼はスマホを取り出した。

「アロ、ミレイユ。今から空港へ行く。ユリが日本へ帰るそうだ」

 スマホをしまってアランさんがエンジンをかける。

 跳ね馬が足を引きずるように車が動き出した。

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