第5章 泥棒猫!?
一夜明けると、雨は上がって艶のいい青空が広がっていた。
ベッドにジャンの姿はなかった。
ぬくもりもない白いシーツの海に転がるとかすかに彼の匂いがする。
思わず深く息を吸う。
何やってるんだろ、私。
――誰も、見てないよね。
うん、大丈夫。
手早く身支度をして城館の中を歩いていたら、廊下にクロードさんがいた。
スーツに、相変わらず結び目の素敵なネクタイ。
「ボンジュ・マダム」
「おはようございます、クロードさん」
昨日聞いた話が頭をよぎったけど、とりあえず、知らないふりをしておくことにした。
あ、そういえばスマホは充電してるんだったっけ。
カタカナ英語で聞いてみた。
「ウェアイズジャン?」
「ディスウェイプリーズ」と、廊下の先へ案内される。
応接間の少し先の部屋から機械の動く金属音がする。
「ヒア」
「アー、メルシ」
軽く頭を下げてクロードさんはレストランの方へ去っていった。
案内された部屋はトレーニングルームだった。
個人用の居室といった感じで広くはないけど、一通りのマシンがそろっている。
ジャンはベンチプレスを上げていた。
私を見て手を止めると、汗で光る上半身を起こす。
「やあ、おはよう」
「おはよう。いつも朝からこんなに?」
「まあね」
かたわらのタオルを取ろうとジャンが体をよじる。
肩の後ろにぷっくりとふくらむ僧帽筋と、引き締まる背筋に目を奪われる。
脇腹に筋肉とあばらが織りなす溝の深さに、思わず指でなぞりたくなって手を出しかける。
「ん、どうした?」
こちらに向き直ったジャンが顔の汗を拭きながら私を見上げる。
「引き締まってるなって」
「君もどう?」
「え、私は……」
運動なんて学生時代の体育しかしたことないし、それだって得意じゃなかったな。
トレーニングなんて三日坊主どころか一回目だってやりきる自信がない。
「簡単だよ」
立ち上がったジャンが肩にタオルを掛けて私の頬に口づけた。
汗に混じって甘い香りが漂う。
気づかれないようにそっと息を吸う。
「日課にすればどうってことない」
言葉は甘くないのね。
その日課にすること自体、めちゃ高いハードルなんですけど。
こういう人は、ぽっこりお腹の矯正下着を間違って他の洗濯物と一緒に洗濯機にかけてしまったときのアラサー女子の絶望感とか、理解できないんだろうな。
「私は散歩が好きだから」
「ウォーキングマシーンもあるよ」
まわりにはあんなに素敵なお庭と森があるのに、なんでこんな狭いところで散歩の真似事をしなくちゃいけないのよ。
――言わないけど。
「汗拭いてあげる」
私はジャンの肩からタオルをはずして、胸に浮いて流れる汗をぬぐった。
「ねえ、さわってもいい?」
返事を聞く前に筋肉を撫でる。
ベッドの中でさんざん抱き合ってるのに、その時はじっくり見てる余裕なんてない。
脇腹をなぞると、かすかにピクリと引きつった。
「くすぐったい?」
「いや、そんなでも」と、わざとらしく表情を硬くしてる。
「ホント?」と、指先でコチョコチョっと遊んじゃう。「我慢してる?」
「そういうわけじゃないけど」と、ジャンがはにかむ。「クロードが見てる」
え!?
振り向くと入口にクロードさんが立っていた。
あわてて離れたけど、もう、顔から火が出そう。
「チョウショクノヨウイガデキマシタ」
クロードさんがスマホの画面を見ながら日本語をしゃべっている。
「わあ、ありがとうございます」
「日本語の勉強を始めたんだってさ」と、ジャンが私と一緒にトレーニングルームを出る。
「じゃあ、私もフランス語を勉強しなくちゃ。トレーニングは後回しでいいでしょ」
「先に行っててよ。シャワーを浴びてくるから」
苦笑してるジャンと別れて私はクロードさんについていった。
雨上がりでテラスがまだ濡れているらしく、今朝の朝食は結婚のサインをした応接室に用意されていた。
昨日のおばさまがコーヒーとミルクのポットを持ってやってきた。
「オハヨウゴザイマス」
え、また日本語?
「カフェオレニシマスカ?」
「はい、お願いします」
ニッコリと微笑みながらおいしいカフェオレを入れてくださるおばさまに日本語で「ありがとう」と言うと、「ドイタシマシテ」と返ってきた。
みんな私のために頑張ってくれてるんだな。
うれしくてちょっと涙が出そうで、カフェオレのカップで顔を隠しながらジャンを待った。
「やあ、お待たせ」
またいつものビジネススーツ姿だ。
クロードさんに劣らず今日もネクタイの結び目が素敵。
「今日はお仕事?」
「ああ、食べたら出かけなくちゃならないんだ」
ふだんは城館内に構えたオフィスで仕事をしているらしい。
「僕の仕事は経営だからね。現場には指示を出せばいいから、基本的にはリモートでいいんだ。でも、今日はホテルの改装工事の状況を確認しておかなければならないのでね」
私が泊まるはずだったシャトーホテルのことだ。
「工事は順調なの?」
「ああ、問題ないよ。新しい支配人、ほら、君も会っただろ」
「ちょっと太めの人?」
「そう。彼はホテル再生の専門家でね。僕がスカウトしたんだよ。彼の提案に沿って今回のプロジェクトを進めてるんだ。設備が古かったから今までは稼働率が悪くてね。固定費の見直しも進めて、収益が五割は増えるはずだよ」
笑みを浮かべながら話す夫の表情を眺めていると、こっちも幸せな気分。
「うまくいくといいわね。楽しみ」
「改装が完了したらご招待するよ。もともとそのはずだったんだからね」
それがきっかけでまさかこんなことになるなんてね。
つい三日前のことなのに、もう三年くらいたったような気がする。
朝食後に、ジャンはクロードさんの運転する車で仕事に出かけていった。
「行ってらっしゃい」
「パリで商談もあるから夕食は済ませてくると思う」
「寝ないで待ってる」
「なるべく早く帰るからね」
行ってらっしゃいのキスをするなんて、夫婦なんだなって思うけど、心の中に引っかかる疑いは消えない。
この結婚に意味はあるの?
聞けばいいのに、聞けない。
聞いたら終わってしまう。
終わるのがこわい。
――ああ、そうか。
私、恋を終わらせたことがないんだ。
誰ともつきあってこなかったから、初めての恋だったから、終わらせ方も知らないし、終わったときのつらさや乗り越え方も知らないんだ。
歳ばかり三十になったのに、中学生より経験がないんだ。
――まあ、終わらせるつもりはないからいいんだけど。
私の方はね……。
ジャンも永遠を積み重ねようとしてくれているわけだけど、一人芝居の幕はいつも勝手に下りるみたいだし。
はあ……。
新婚さんなのにため息しか出ない。
ジャンが出かけて一人になると、何もすることがない。
そういえば、私、観光客なんだよね。
森を散歩するためにフランスに来たんだっけ。
なんでこんなことになっちゃったんだろ。
トレーニング代わりに散歩に出ようとしたら、ミシェルさんのところから直しが終わった服が届けられた。
メイドのおばさんが箱を何段も重ねて部屋に運び入れてくれる。
私も手伝おうとしたけど、自分たちの仕事だからと断られてしまった。
人を使うのって難しい。
これからはお願いすることにも慣れていかなければならないのね。
どうしても遠慮したり気をつかってしまう。
日本の職場でも指示を受けて仕事をする立場だったからな。
あれ、そういえば私、仕事はどうするんだろう?
これからもフランスに住むんだったら退職しなくちゃいけないし、それはそれで、いったん日本に帰らなくちゃいけないよね。
そういえば親から連絡は?
充電が切れていたから、スマホを見ていなかったんだっけ。
見ると、母親からメッセージの返信が来てた。
『結婚!? 冗談じゃないのよね? 相手は? 写真くらい送ってくれないと分からないじゃない』
お父さんからは何もない。
べつに仲が悪いわけじゃなくて、急に娘が外国の男と結婚したら、黙っちゃうんだろうな。
ごめんね、お父さん。
こんなお騒がせな娘で。
今まで地味に生きてきたからビックリだろうな。
ていうか、絶対にだまされてるって心配してるよね。
そういえば、ジャンと写真も撮ってないな。
こういうところでふだんの自分が出ちゃうのよね。
誰かに見せるために写真なんて撮ったことないもんな。
帰ったら、一緒に撮ってもらおう。
チューしてるところがいいかな?
――お父さん泡吹いてひっくり返るな。
山積みの箱を開けてミシェルさんの服を取り出してクローゼットにしまう。
ピスタチオグリーンのチュニックを着てみる。
下に履くグレーのレギンスパンツも一緒になっていた。
軽くて肌触りも良くて、散歩に行くのにちょうどいい。
そういえば、服に合う靴も買わなくちゃね。
こんなふうに物が欲しくなったのも久しぶりかな。
毎日同じ服を着て同じ靴をはいて、同じところに通勤して同じ家に帰ってくる。
服は穴が開いたら買えばいいし、靴はぼろぼろになるまで履き潰す。
そういう今までの生活が悪いわけじゃないけど、コーディネートを楽しんだり、それを着ていくための場所を見つけて楽しむ生き方もある。
これからはそういう生活に慣れていかなくちゃいけないのかも。
と、一人ファッションショーをしていて、ふと思い出してしまった。
で、この結婚の意味は?
この結婚、この生活は、本当に続くのかな?
素敵な服を着てるのに、なんでため息が出るんだろう。
もしかして、これってマリッジブルー?
結婚してから出るなんて、やっぱり私は私……なのかな。
なんかまたため息が出ちゃった。
◇
とりあえず運河のまわりを歩いてみようかと城館から裏のテラスに出たときだった。
表の方で獣の咆吼みたいな音が聞こえた。
何事かと思って建物を回って見に行くと、正面玄関前の車寄せに真っ赤なスーパーカーが止まっていた。
私でも分かる。
フェラーリだ。
スマホみたいに薄い車のドアが開いてすらりとした脚が差し出され、私と同年代くらいの女性が颯爽と降りてくる。
グレーのビジネススーツ姿で、先のとがったパンプスをはいているにしても、ジャンと並ぶくらい背が高い。
透明感のある金髪に灰色の瞳、くびれをこれでもかと強調する腰つきに、タイトスカートから伸びる足首の締まった脚。
そのどれよりも目を引くのがブラウスがはちきれそうな……はちきれてる胸。
自分の浅い谷間と比べて、思わずたじろいでしまう。
そんなスタイルの良い美人が前髪をかきあげながら私に向かって歩み寄ってくる。
「こんにちは」
あれ?
日本語だ。
「こ、こんにちは」
私も日本語で返すと、彼女は両手を広げて笑みを浮かべた。
その笑顔も映画スターの演技みたいに完璧だ。
モデル並みの西洋人の顔に流暢な日本語で、吹き替え映画を見ているような錯覚にとらわれる。
「やっぱりあなたね。日本から来たんでしょ」
「ええ、はい、そうです」
「私は、ミレイユ・ドゥ・ボワイエ。よろしく。ニッポンのお客様は大歓迎よ」
フランス式の挨拶ではなく、日本人みたいに両手を横にそろえて軽く頭を下げながらの自己紹介で、思わずつられてこちらも頭を下げてしまう。
「ジャンと同じ時期に私も日本に留学していたのよ。今はアジア貿易のビジネスをやってるわ」
「ああ、そうなんですか。だから日本語がお上手なんですね。私は白沢百合です。こちらこそよろしく」
すると、一歩間合いを詰めてきたミレイユさんが私の耳に顔を寄せてささやいた。
ココナッツオイルの香りがする。
「名前、間違えてない?」
あ!
「あ、はい、ええと……。ユリ・シラサワ・ラファイエットです」
慣れない名前だなあ。
なんか照れくさいし。
「結婚おめでとう」
「ありがとうございます」
と、ミレイユさんが急に目をつり上げて私の胸を人差し指でつついた。
「この泥棒猫!」
――え!?
ど、ドロボウネコ!?
「……なんてね」
彼女は肩を揺すって笑いながら咳払いをした。
「こんなセリフ、本当に言うチャンスが来るなんてね。あなたに感謝しなくっちゃ」
事情が分からなくて困っていると、ミレイユさんも腕を組みながら首をかしげる。
「あら、ジャンから何も聞いてないの?」
「はい」
「しょうがないわね、あいつ」と、つぶやいてから、彼女は笑みを浮かべた。「私ね、ジャンの婚約者なの」
心臓が止まりそうになる。
どういうこと?
日本語なのに意味が分からない。
「婚約者、フィアンセ……、分かる?」
すみません、分かりません。
「まあ、『元』婚約者になっちゃったわけだけどね」と、肩をすくめながらぷっと吹き出す。「婚約破棄された悪役令嬢。私って最先端じゃない?」
日本の文化には詳しいみたいだけど、今はそれどころじゃない。
「少し、散歩しましょうよ。あなたもそのつもりだったんじゃないの」
ミレイユさんは自分の家みたいに庭園の方へ歩いていく。
私は市場へ連れて行かれる子羊のように彼女の後ろについていった。
昨日ジャンとケンカした運河のほとりを歩く。
細かな砂利と砂が敷き詰められた遊歩道は水たまりもなく歩きやすかった。
ミレイユさんが水平に腕を伸ばしながら、水気をまとった新緑のまぶしさに目を細める。
「ここね、リセエンヌの頃、よくジャンと散歩したの」
はあ、そうなんですか。
私の反応の薄さに苦笑している。
「ねえ、ちょっとぐらい嫉妬してよ。これじゃつまらないじゃない。爪立てて引っ掻きあいするとか」
そんな余裕もないんですけど。
「あの、ミレイユさんはジャンに用があるんですか。出かけてますけど」
「知ってるわよ。だから来たの。あいつじゃなくてあなたに会いにね。アレックスから聞いたから」
お母様から?
「あなたたちが結婚するから、婚約解消するって話」
「あの……」
私は何か言わなくちゃと思ったけど、焦って何も言葉が出てこなかった。
「心配ないわよ。文句を言いに来たわけじゃないから。『元』婚約者がお祝いを言いに来たの」
真意が分からなくて困っていると、ミレイユさんが軽く手をたたいて揉み手をしながら昔の話を聞かせてくれた。
「私たちが社交界デビューしたのが十二歳の時でね。そのときからのフィアンセね。もちろん、親同士が決めたことよ。今時、そんなの馬鹿馬鹿しいでしょ。上流階級って窮屈よね」
まあ、私みたいな庶民にはうらやましい世界ですけどね。
ミレイユさんが肩をすくめる。
「でも、お互い子供だったから、それからしばらくはただの知り合いって感じだったかな。二人とも初めての経験は別々の相手だったし、結局、私たちの相性を確かめ合ったのは東京に留学してた時ね」
ふと、彼女が唇の端をゆがめた。
「それがもう、ひどいものでね。極上のトロにベシャメルソースがかかってたみたいな感じで……って分かる? ベッドの上で笑っちゃったわよ。ジャンはショックを受けてたみたいだけどね」
はあ……。
何も言葉が出てこない。
「ああ、誤解しないで」と、ミレイユさんが片目をつむりながら微笑む。「べつに下手とかそういうことじゃないのよ。あなたも分かるでしょ? 単純に合わないのよ」
すみません。
そういうことが分からないままこの歳になってしまったんですけど。
「で、私には他に相性のいいパートナーがいるし、彼も私以外の人とつきあった方がいいって分かってるわけだから、私とジャンにはこの婚約を維持する意味がなかったのよね。でも、お互いの家とか会社の事情もあるから、今までズルズルと続いてたわけ。それで、関係を解消したいと思っていたときに、ユリ、あなたが現れた。あなたは私たちの救世主ってわけ」
「そうだったんですか」
ジャンも、お母様と同じように財産とか会社の経営とかの都合に縛られてたんだ。
でも、私で良かったのかな。
「あの、本当に婚約を解消しても良かったんですか」
「ええ、私はありがたいけど」
「でも、会社の経営とかに影響あるんですよね」
「そうね」と、ミレイユさんが口を曲げながらうなずく。「うちの父は怒るでしょうね。貴族の称号が手に入らなくなるから。そんな物に意味なんかないのにね。現代では何の意味もないものにこだわってる。持ってないから余計ほしくなるんでしょうね」
ミレイユさんがくすっと笑って続けた。
「手に入らないなら、いっそ潰してしまえ、と。ニッポンのオダノブナガも言ってるでしょ。『鳴かぬなら、殺してしまえホトトギス』ってね」
そんな言葉まで知ってるんだ……って、感心してる場合じゃない。
ミレイユさんがそんな私の肩に手をのせる。
「心配ないわよ。ジャンの言うとおりにしておけば大丈夫」
「心配ですよ。私のせいでそんなことになったら……」
「信じなさいって。あいつ、経営の才能はあるから。確かに今はラファイエット・グループの経営は赤字続きだけど、前の経営陣が良くなかったのよ。ジャンが自分で経営に取り組むようになったから、立ち直るんじゃないかな」
ミレイユさんの話によれば、去年までジャンはEU最大の金融グループでファンドマネージャーとして働いていたらしい。
「いろいろ経験を積んで、それでようやく、アレクサンドラの夫の親戚とか、無能な重役たちを会社から追い出したってわけ。案外やり手なのよ」
もしかしたら、私の予約トラブルも前の経営者のミスだったのかも。
「本当に大丈夫なんでしょうか」
「信用してあげたら? 夫なんだから」
でも、私がジャンの経営の邪魔になったら困るんですけど。
「あなたは彼との相性はどうなの?」
え、急になんですか?
相性って……。
あの、ことですか。
「いいから結婚したんでしょうね」
そんな……、そうですけど。
言葉に詰まっていると、そんな私の表情を見てミレイユさんの頬が赤く染まる。
「ユリは顔に出すぎよ。バレバレじゃない」
だって、恥ずかしいんだもん。
そういう話題を他人と話したことないし。
「極上のトロにはやっぱりわさび醤油が合うってことね」
「はあ、そうなんでしょうか」
分かるようで分からない。
曖昧な返事しかできなかった。
「あいつもそう言ってなかった?」
「言ってました。『君を抱きしめているときの幸せはこの上ない喜びだった』とか、『お互いの相性はすばらしく良かった』とか」
と、昨日ケンカしたときのことを思い出しながら話していたら、ミレイユさんがくすぐったそうに身をよじりながら視線をそらしていた。
「ユリも意外と大胆なこと言うわね」
――あ、あの……、ええと……。
「あ、こ、これは私じゃなくてジャンが……」
「だから、思いっきりのろけてるんでしょ。妬いちゃうかも、私」
「ご、ごめんなさい」
ほんと、何言っちゃってるんだろ、私。
「聞いた私がいけなかったか」と、笑いながらミレイユさんが話題を変えた。「あなたいい服着てるわね」
「はい、アレクサンドラさんがデザイナーさんに頼んでくださったんです」
「なかなか似合うじゃない」と、手を伸ばしてきて私の髪に指を通す。「だけど、ヘアスタイルが合ってないかも。ああ、ごめんなさい。直接的な言い方って日本人には合わないわよね。馬鹿にしてるわけじゃないの。率直な感想ね。ほら、モッタイナイってやつ」
まあ、自分でもなんとかしたかったんで気にしてませんよ。
「ねえ、いいサロン紹介しましょうか」
「そこまでしてもらわなくても……」
日本人的遠慮を見せる私に、ミレイユさんが一番効果的な言葉を投げかけてきた。
「日本語が通じるんだけど」
そう言われると断れない。
「ぜひお願いします」
華麗な手のひら返しにミレイユさんも苦笑している。
「じゃあ、今からでもいい?」
「どこですか?」
「パリだけど」
「ミレイユさんは大丈夫なんですか。お仕事とか」
「ちょうどパリに戻るところなのよ。私の車で一緒に連れてってあげる」
あのフェラーリか。
乗りにくそうだったなあ。
腰痛くならないかな。
ミレイユさんが私の肩に手をのせる。
「心配ないから。案外乗り心地いいのよ」
やっぱり私はすぐに顔に出るらしい。
彼女はスマホを取り出して電話をかけた。
顔は笑ってるのに、口調はケンカしてるみたいに聞こえる。
フランス語って優雅な言葉っていうイメージだったけど、後ろにアクセントがあるからか、なんでも言い返してるみたいに聞こえるのよね。
私もこれからフランス語を覚えていかなくちゃいけないな。
アラサー地味子お一人様がフランス語のお勉強をすることになるとはねえ。
ホント、人生何があるか分からない。
なんて、日本語を勉強し始めたクロードさんに比べたら、私なんか小学生みたいなものだよね。
頑張らなくちゃ。
「オッケー。予約しといたから。行きましょうか」
「はい、ありがとうございます。ミレイユさん」
城館へ引き返しながら、彼女が私の顔をのぞき込む。
「ねえユリ、『さん』はいらないわ。『ミレイユ』って呼んでいいのよ」
突然そんなことを言われてもかえって緊張してしまう。
私、日本でも同級生には全員『さん付け』だった。
「日本人は敬称をつけた方が言いやすいのは知ってるけど、ここはフランスだから。あなたも知ってるでしょ。ローマ人のことわざ」
郷に入れば郷に従え。
学生時代に英語の例文を覚えさせられたけど、全然思い出せない。
なんとかかんとかローマンズドゥー?
「でも、まだ知り合ったばかりだし」と、私はささやかな抵抗を試みた。
ミレイユさんが微笑みを浮かべる。
「フランスじゃあ、そんなの気にしないから。出会って話したら友達」
ですけど、とまだ渋ろうとする私の口にミレイユさんが人差し指をあてた。
「私たち、いい友達になれそうでしょ」
日本語でそんなことを言われるとものすごく照れくさい。
「それに、あなた、ジャンにも『さん』をつけてた?」
あ、そういえば……。
ジャンは最初からジャンだったかも。
「でしょ。なんで私だけ『さん』づけにこだわるのよ。寂しいじゃない」
なんでだろう。
なんでジャンには最初から『さん』をつけなかったんだろう。
出会ったときから通じ合ってたのかな。
言われるまで気づかなかったけど、やっぱり運命の出会いだったのかも。
と、そんなことを考えているうちに城館前まで戻ってきていた。
フェラーリに乗り込むときに、腰が沈むせいで、つい「よっこいしょ」と言ってしまった。
聞いていたミレイユさんが吹き出して笑う。
「私も声には出さないけど、この車に乗り降りするときには日本語で『よっこいしょ』って呪文を唱えるの」
「ミレイユさんも……」と、言いかけていったん言葉を飲み込む。
「ミレイユも……、そんなこと言うの?」
言い直したら、満面の笑みを浮かべてミレイユが私の方を向いた。
やっぱり照れくさい。
「そんなに見つめられたら恥ずかしいですよ。せっかく『さん』づけしないで話そうとしたのに」
「ごめんね。だってうれしかったんだもん」
シートベルトを装着するときにミレイユが体をこちらへ傾けた。
「よっこいしょっと」
声に出してる。
と、思わず笑ってしまったら、私の頬に口づけ……って、ええ!?
「ありがと。よろしくね、ユリ……さん」
今さらミレイユに『さん』づけで呼ばれるとかえって照れくさい。
もう、私のことからかって。
フランス人のコミュニケーションってやっぱり慣れないなあ。
私からできるようになるとは思えない。
でも、いちいち恥ずかしがってたら何もできないんだ。
言葉もそうだし、いろんなことを覚えてできるようにしなくちゃな。
「さあ、行くわよ」
獣に吠え立てられるように背中から爆音が鳴り響いてフェラーリが急発進する。
空港で乗ったタクシーよりも荒っぽい。
私はシートに体を押しつけられながらギュッとベルトを握りしめていた。
◇
スーパーカーとはいえ、渋滞を飛び越えられるわけもなく、パリ市街地に近づくとのろのろ運転になる。
ミレイユは何度もシフトレバーを切り替えて進んでいく。
私は日本でオートマしか運転したことがないけど、クラッチペダルを踏むのが大変そう。
「この車、運転大変ですか?」
「良い運動になるわよ。ジムのマシーンなみに体力消耗するかな。ペダルが重たいから鍛えられて足首キュッとするかも」
そういえばものすごい説得力のある足首だったっけ。
「運転してみる?」
「オートマティックしか運転したことないです」
「じゃあ、今度うちのサーキットに来て練習しましょうよ。他にもいろんな車あるから」
レース場まで持ってるって、どういうこと?
「お金持ちなんですね」
「親がね」と、シフトレバーに置いていた右手を上に向けて軽く首をかしげる。「私も会社経営してるけど、税金対策みたいなものよね。こういう車って資産価値も落ちないし」
ちょっと会話が途切れたところで、別の話題を持ち出してみた。
「ミレイユはジャンと婚約解消して、結婚しないんですか? さっき、相性のいいパートナーがいるって言ってましたよね」
「考えたことないかな。私は仕事があるし、しょっちゅう外国にも行くし、結婚という形にこだわる必要がないから」
「それ、ジャンも言ってたんですけど、フランスではそうなんですか?」
「たとえば子供を持ったときに結婚してるかどうかに行政の支援の差はないから、形式にこだわる人は減ってるでしょうね。貴族の称号と同じ。なくても困らないし、あっても役に立たない。でも、それにこだわる人はいる」
なんだかなぞなぞみたいだ。
「ただ、私の場合は、ただ単純に意味が見いだせないのと、相手もたぶん考えてないってだけね」
「聞いたことはあるんですか?」
ミレイユはハンドルを握り替えて黙ってしまった。
ああ、余計なこと聞いちゃったかな。
私、こういうこと、やりがち。
「夢中なのは私の方」と、しばらくしてからようやくミレイユが重たい口を開いた。「彼と一緒にいるときはいつも『捨てられたらどうしよう』って切なくなるの。フランス人がみんな恋愛上手なわけないでしょ。好きなくせに下手なのよ。だからみんな悩んでる」
と、ふっと軽くため息を漏らしてミレイユがつぶやいた。
「ジャンは運がいいわよね。ユリみたいな相手に巡り会えて。ユリはジャンのどこが気に入ったの?」
突然聞かれても困ってしまう。
どこっていうか、何というか、なんだろう。
「答えになってるかどうか分からないんですけど、実は……」
私は自分の左胸の傷のことをミレイユさんに打ち明けた。
「ああ、そうだったの」と、前を向いたまま彼女がうなずく。「そういうのって皮膚の移植とか治療はできなかったの?」
「子供の頃、医者に通ってたんですけど、免疫とか肌質とか、いろいろ適合できないことがあって諦めたんです」
「それは残念ね」
「でも、ジャンは全然気にしないでくれて、ありのままの私を受け入れてくれたんです」
「あいつ、いい男でしょ」
「はい」
「人としては信用できるのよ。基本的にお坊ちゃん育ちだから紳士的で、優しいし親切だし」と、左手をハンドルに添えたまま右手を天に向ける。「私とは相性が合わなかったってだけ」
やっぱりそこは強調するんですね。
「でも、ユリも良かったじゃない。心が通じ合える人間がこんな外国にいたなんて、思ってもみなかったでしょ」
「ホントですよ。今でも信じられないですもん」
「そうなの? 幸せいっぱいじゃないの?」
「不安なんですよ。結婚に意味があるのかなって」
「ああ、さっきの話? いろんな偶然が重なると不安になるのかもね。大丈夫よ。間違いなくあるから」
「どうしてですか?」
「私たち二人が自由になれる。あなたも幸せになれる」
「答えになってないですよ」
「答えなんかないからじゃない?」
なんだかごまかされた気分。
と、急に目の前に凱旋門が現れた。
フェラーリが周回路をまわり、右前方にちらりとエッフェル塔が見えたところで路地に入って止まる。
「着いたわよ」
シートベルトの外し方が分からなくてもたもたしていたらミレイユが身を乗り出して私に覆い被さるような体勢で外してくれた。
ココナッツオイルのいい香りが漂う。
思わず息を吸い込んでしまった。
起き上がる瞬間に、チュッと頬に口づけされる。
え!?
もう、『イケメン』なんだから。
「行くわよ。ドアは開けられるでしょ」
よっこいしょと唱えながら車を降りると、すぐそこがシャンゼリゼ通りだった。
ミレイユはネイビーブルーに塗られた金属の扉を押して建物の中に入っていく。
私もついていったら、そこは周囲をアパルトマンの建物に囲まれた中庭だった。
大通りの喧噪から隔絶された不思議な空間。
その一画に紅茶色のウィンドウとプロヴァンスアーチ型のエントランスが目を引くこぢんまりとしたサロンがある。
「アロ、アラン、サヴァ?」
ミレイユがドアを開けて中に声をかけると、カットの手を止めて男の人が振り向いた。
「サヴァ。もうすぐ終わるからちょっと待ってて」
ちょっとフランス語アクセントが混じってる日本語。
縮れた黒髪にがっしりとした肩幅の男性美容師さん。
シャツのボタンを外して胸毛がちらりと顔をのぞかせた姿が鏡に映っている。
どうしよう。
ちょっと苦手なタイプかも。
私、女性だとばかり思ってた。
どうしよう。
今さら断れないし。
椅子から立ち上がったお客さんの髪型は、くしゃくしゃっとした栗色の髪に、ちょっと明るめのアクセントをつけてある。
フランス人の顔には似合うけど、私には似合いそうにない。
「心配ないって」と、また顔色に出ていたのか、ミレイユが私の肩を軽くたたく。「アランはね、表参道のサロンでも修行してたの。日本人の髪質はよく分かってるんだから」
「そうなんですか」
「まかしときな」と、アランさんが私に向かって手を挙げる。「ほら、どうぞ」
「じゃあ、アラン、車おいていくから、彼女を送ってってあげてね」
「はいよ」
ミレイユはカツカツと靴音を響かせながらサロンを出ていった。
「わざわざ申し訳ないです」と、私はアランさんに頭を下げた。
「いいんだよ。あんたを送っていくだろ。その後、あいつに車を返しに行かなくちゃならない。つまり、今夜会いに来いってことさ」
あ、そういうことですか。
じゃあ、余計な遠慮したらかえってお邪魔ですね。
あれ……、え!?
「じゃあ、お二人は恋人ってことですか」
「あんた、今頃気づいたのか」
ホント、鈍くてすみません。
さっき車の中で聞いたミレイユの悩み事が生々しく思い浮かぶ。
椅子に座ると、すぐにカットが始まる。
濡らさずにドライなままでハサミを入れるやり方だ。
「あらためまして。オレはアラン」と、鏡の中の私に向かって話しかけてくる。
「あ、はい、白沢……、ええと、ユリ・シラサワ・ラファイエットです」
「あっそ、ユリね」
まあ、それでいいです。
「あんたの髪は太くてボリュームの多い典型的な日本人の髪質だからサイドをすいてやや明るめのカラーにして、アクセントにウェーブを入れたらいいかな」
無難なスタイルでけっこうですけど。
「西洋人の髪は細くてボリュームもないから、日本人の髪をいじれる美容師はパリにはあまりいないんだ。あんたみたいな髪をよそでやらせてたら悲惨なことになってたぜ」
「そうなんですか。ミレイユさんに紹介してもらってよかったです」
「でも、あんた、オレのこと見て、『苦手な人だな』って思っただろ」
あ、また、バレてたらしい。
「十年前、日本にいた頃は『チョイ悪オヤジ』なんて言われてたからな。あの頃はまだ二十五だったのによ。今だって三十五で、ワルでもないしオヤジでもないんだけどな」
口も動くけど、手つきも速い。
もっさりとしていた私の髪がどんどん軽くなっていく。
鏡の中の私は笑顔だ。
「アランさんはミレイユさんとおつきあいして長いんですか」
「あんたの中途半端なショートヘアよりは長いぜ」
すみませんね、ほったらかしで。
「あ、これ、美容師のエスプリ。笑うところね」
アハ、アハハハ……。
アランさんが手を止めて肩をすくめる。
「あいつが日本に留学してたときに東京で知り合ったんだ」
「そうなんですか。」
「でもまあ、つきあいは長いけど、恋人とは違うな。都合のいい男、都合のいい女。それ以上でも、それ以下でもない」
割り切った大人の関係なんですね。
三十になったのに、そういう話を聞くとドキドキしてしまう。
アランさんが身の上話を始めた。
「オレの親父はイタリアの男で、オレが生まれる前に母親とは別れてたそうでね。母親もオレの世話なんかしないでほったらかしさ。そういう環境で育ったから二十歳になった頃、フランスにいられなくなっちまってね。いや、ワル自慢とかするつもりはねえんだよ。ホントに、言えないようなことばかりいろんなことに巻き込まれて命が危なかったんだ。それで、遠く離れたところへ行こうと思って日本に逃げてきたってわけさ」
軽くため息をついて、ニヤリと笑みを浮かべる。
「まあ、日本でも同じようなトラブルばかり抱えてたけどな。フランス人ってだけでモテてたからな」
ああ、そういうことですか。
でしょうね。
「でも、ミレイユと知り合って、それからだな、オレの運命が変わったのは。今のオレがあるのは、あいつのおかげだよ」
「じゃあ、一途なんですね」
「そういうわけでもないさ」と、アランさんが鼻で笑う。「会いたいときだけ会う。会いたいと言われれば会う。だからお互い都合のいい相手なんだって。あいつだって金持ちと婚約してたんだし、お互い様ってやつだろ。ミレイユがオレを相手にしてくれないときは何してたってオレの勝手さ。それとも、首輪でもつけてオレをずっと縛りつけておくか? そういう趣味はないけどな」
しゃべりながらでも、華麗な手さばきで鏡の中の私がどんどん変わっていく。
軽くなったサイドに幾筋かのウェーブを作って、ゴールドのアクセントをつける。
大胆で目立ちすぎかと思ったけど、全体では落ち着いた雰囲気が保たれているから不思議。
見たことのない私が鏡の中で私に驚いている。
この人、天才かも。
苦手だけど。
「オレはあいつの前にいるときだけはあいつのことしか考えてないぜ。それで十分じゃねの?」
ミレイユさんはどう思ってるか。
車の中で話した悩み事を言いそうになって私は口をつぐんだ。
軽はずみにペラペラしゃべっていいことじゃない。
と、鏡の隅にテレビの画面が映っているのに気がついた。
画面に映る女性に目が釘付けになる。
夜のパーティー会場だから録画映像なんだろうけど、胸元が大胆に開いたドレスを着て笑顔を振りまきながらレッドカーペットの上を歩くあの女性って……。
嘘でしょ!?
今そこにいた人だよね。
どういうこと!?
「アランさん! テレビに映ってるのミレイユさんですよね」
「ん?」と、後ろを振り返って、また前を向いたアランさんが鏡の中の画面をのぞき込みながら笑い出す。「なんだよ、知らなかったのか。あいつフランスじゃ有名なモデルだぞ」
「そうなんですか!?」
アランさんがマガジンラックから雑誌を何冊か持ってくる。
「ほらよ」
表紙が全部ミレイユさんだ。
「これ全部、アランさんのコレクションですか? 大事にとってあるんですね」
「違えよ。客の暇つぶし用に置いてあるだけだよ」
「これ、三年前のですけど」
重たい山の中から一冊引っぱり出して見せたら、舌打ちしながら取り上げられてしまった。
「散らかっててスマンね」と、マガジンラックに放り投げる。
鏡の中のテレビ画面を見ながらアランさんが通訳してくれた。
「婚約解消のニュースだな。セレブのゴシップネタってやつだ。くだらないねえ。もっとも、あいつが日本に留学したのも、パパラッチから逃げるためだったんだけどな」
「婚約が解消されたらアランさんはミレイユさんと結婚できますね」
「まさか!」と、映画の台詞みたいに声を張ってニヤリと笑みを浮かべる。「今までと変わらないさ」
「どうしてですか?」
「オレは美容師。あいつは金持ち。釣り合わないよ」
それは私とジャンも同じだ。
やっぱり、そういうものなのかな。
「でも、相性はいいんでしょう?」
「セックスの? そりゃあね。あいつは極上の女だ」
さらっと大胆なことを言われてしまうけど、聞いたのは私か。
「オレも喜びを与えてやれてるうちはあいつに利用されていられるんだろうけど、いつまで続くかなんて誰にも分からないさ。なら、お互い自由でいいだろ」
アランさんは私の耳に顔を近づけてぼそりとつぶやいた。
「捨てられたら、オレだって立ち直れないぜ。だから、今のままでいい」
ミレイユも同じ事を言ってた。
二人とも同じ事を考えているのにどうして二人とも寂しがってるんだろう。
「男ってのは臆病な生き物なんだ。傷つきたくないし、笑われたくない」
意地を張ってるだけなのかな。
と、私のスマホに着信があった。
見覚えのない番号だった。
そもそも、フランスの番号からかかってくるはずがない。
いちおうジャンとクロードさんには教えてあるけど、それならそう表示されるはずだ。
「出れば?」と、アランさんが手を止める。
とりあえず出てみることにした。
「はい、ユリです」
「ワタシハ、アレクサンドラデス」
一瞬何語なのか分からなくて頭が混乱する。
お母様?
なんで日本語なの?
「イマ、アエマスカ?」
今から会うって、なんでだろう。
でも、複雑な日本語は伝わらないだろうし、私もフランス語では言えない。
「あーあの、はい。ウイ」
とりあえずそう返事するしかない。
「ワタシノ、イエニ、キテクダサイ」
「はい、分かりました」
その後はフランス語で何か言い始めたので、困ってしまった。
「代わろうか?」
アランさんが出てくれて、フランス語で何か説明してくれているようだった。
「アー、ノン、アヴェクプレジール。オーボワ、マダム」
通話を終えて私にスマホを返しながら、アランさんが会話の内容を教えてくれた。
「こっちはもう終わるって言ったら、執事がここまで迎えに来るってよ。あと七、八分くらいだってさ」
クロードさんのことかな。
ジャンと一緒じゃないんだ。
鏡の中の私は自分でも信じられないくらい雰囲気が変わっていた。
中途半端と言われていた長さはそのまま活かしてサイドのボリュームを減らして全体をゆるふわに仕上げてある。
ブラウン基調の髪にゴールドのアクセントがリズム感を出していて、しかもそれが強すぎない。
すごい。
私でもこんなふうになれるんだ。
今まで地味で背景に溶け込むことばかり考えていたけど、私の中にもみんなに見せたくなる自分がいたんだ。
学校とかでキラキラしてた人たちってこんな気持ちで生きてたんだ。
初めておしゃれな人たちの気持ちが分かったような気がする。
髪型一つでこんなに変われるんだ。
変わるために頑張ってたんだね、みんな。
今からでも遅くないかな。
大丈夫かな。
なりたい自分になれる。
見せたい自分を見せられる。
その二つの自分が一致したときのうれしさと楽しさ。
こんなの知らなかったな。
「びっくりしました。アランさんの腕はすごいですね」
「違えよ。あんただろ、すごいのは」
アハ。
お世辞なんだろうけど、ありがとうございます。
「オレは素材を活かすだけ。寿司職人にでもなれば良かったかな。つまみ食いしすぎてクビかもな、女を」
やっぱり苦手かも。
「あの、お会計は?」
「ミレイユにつけとくよ」
「そんな、払います」
「トモダチのためだから気にするな」と、人差し指を振る。「それより、また都合のいい時に来てくれよ。顔剃りとか、ネイルなんかもできるからよ」
「あ、そうなんですか」
「オレは美容師、理容師、ネイルにエステ、一通りの資格は持ってるぜ」と、私の膝に手をおく。「アンダーの脱毛もやってやろうか」
「そこは結構です」
「結構っていうのはグッド、ボンってことだろ」と、太股に手が伸びる。
「違います。いらない、ノーサンキューの意味です。分かってるくせに!」と、私は椅子から飛び降りた。「ミレイユさんに言いつけますよ!」
ホントにもう、油断も隙もないんだから。
「アー、ニホンゴ、ムズカシイデス! ゴメンナサーイ」
ああ、はいはい、そうですか。
アランさんと一緒に路地裏へ出たところで、ちょうど黒塗りのベンツがシャンゼリゼ通りの角を慎重に曲がってやってくるところだった。
アランさんがフェラーリにもたれかかって私にウィンクする。
「あんたを送らなくて良くなったから、この車で女でも引っかけに行くかな」
「サイテーですね」
「色男へのお褒めの言葉と受け取っとくぜ」
笑いながらアランさんがお店に戻ろうとする。
なんだ、ただの冗談なんだ。
「この車、防犯用にGPSがついててミレイユに居場所がバレるんでね」
やっぱりサイテー。
「今日はありがとうございました」
お礼を言うと振り向かずに右手を挙げて、「じゃあな」と中庭に入っていった。
ちょっと苦手だけど、またお世話になろうかな。
ベンツの運転席から出てきていたクロードさんが後部座席のドアを開けて待っていてくれた。
「オマタセシマシタ」
「こちらこそありがとうございます。ジャンと一緒じゃなかったんですか」
つい、日本語でしゃべってしまうけど、まだクロードさんは挨拶ぐらいしか分からない。
――それでもすごいことだし、ありがたいんだけどね。
アランさんと日本語で話していたから、またスマホを介しての会話にもどると、仕方がないとはいえ、やっぱりまどろっこしい。
「今この近くで商談中ですので、奥様のご依頼でお迎えに上がりました」
「そうだったんですか」
「大変美しいお姿でございますね」
急にほめられてびっくり。
「本当ですか」
「ええ、フランスの男はお世辞は言いません。新しい髪型も大変お似合いでございますよ」
「わあ、うれしいです。ありがとうございます」
今まで外見をほめられたことがない。
正直照れくさいけど、クロードさんの言うことだから、素直に信じよう。
「ユリ様、こちらをお渡ししておきます」
クロードさんが黒いカードをくれた。
「ラファイエット家のクレジットカードです。ご自由におつかい下さい。暗証番号は……」
え、いきなりこんな物持たされても困るんですけど。
と、言いつつ、いくらまで使えるのかなとか妄想が膨らんじゃったりして。
すぐそこのシャンゼリゼ通りでさっそく試してみたくなる。
――ううん、今はお母様のところに呼ばれてるんだから……。
無駄遣い、ダメ! ゼッタイ!
「では、参りましょうか」
車がゆっくりと走り出す。
狭い路地を少し進むといきなりセーヌ川沿いの並木道に出た。
右手に現れたエッフェル塔の威容に圧倒される間もなく車は左折して川沿いに進む。
緑豊かなプティ・パレの前で、金の彫刻やアールヌーボーの街灯が華麗なアレクサンドル三世橋を渡ると、左方向にお母様のアパルトマンが見えてきた。
でも車は直進して街中へ入っていく。
いくつかの大通りを通過して、大きく迂回してまたセーヌ川に出た。
どうやら一方通行でしかたがないらしい。
クロードさんの車だからいいけど、タクシーだったらぼったくりかと誤解しちゃうところだった。
ジャンの言う通り、パリ市内は車だと不便なのね。
ようやくアパルトマンの前に着いて、顔なじみのいかついドアマンさんがドアを開けてくれた。
「ボンジュ・マダム・ラファイエット」
「メルシ。ボンジュ」
二回目だと『マダム・ラファイエット』という呼び名にも、気恥ずかしさが薄れてきたような気がする。
クロードさんが運転席の窓を開けて私に名刺サイズのカードをくれた。
「わたくしはジャン様のところへ戻ります。帰りはタクシーをお使い下さい。こちらが城館のレストランのメッセージカードです。住所が書いてありますから、運転手に見せてください。お支払いは先ほどのカードで」
「分かりました」
「奥様のアパルトマンはインターフォンを押せば中から鍵を開けてもらえます」
そう言い残してクロードさんのベンツは去っていった。
言われた通りに旧式のエレベーターに乗って五階まで上がってベルを鳴らすと、お母様が出てきて私を迎え入れてくれた。
「コンニチワ、ユリ。イラッシャイ」
電話もそうだったけど、どうして日本語?
「あ、えっと、こんにちは」
お母様の後についてリビングの奥へ行くと、ソファにお母様と同じくらいの年代の女性が座っていた。
私を見ると立ち上がって、日本式に頭を下げて挨拶して下さった。
「私はサラ・フェルミエです。初めまして」
物腰が柔らかで流暢な日本語に驚く。
「白沢百合ラファイエットです。初めまして」
お母様が早口のフランス語で何かを言い始めた。
意味はまるで分からないけど、サラさんのことを紹介してくれているらしい。
「私はフランス外務省で通訳として働いていました」と、サラさんがお母様の言葉なのか自分で言っているのか、どちらにしろ日本語で説明してくれた。「大統領の随行員として洞爺湖や伊勢志摩のサミットに参加したことがあります。日本の総理大臣にも会いました」
「そうだったんですか」
そんなすごい人なんだ。
と、お母様がスマホを取り出した。
え、持ってないんじゃなかったっけ。
そういえば、さっきかかってきた電話、スマホからだったのかも。
『フランス語の家庭教師をご紹介しましょう』
画面に表示された日本語訳を見て笑いそうになってしまった。
昨日同じことを言われた時は皮肉だと思ったけど、本当に紹介して下さったんだ。
「コレカラハ、ワタシモ、ニホンゴヲ、ベンキョ、シナクテハ、ナリマセン」
お母様……。
私は思わずアレクサンドラさんに抱きついていた。
「ありがとうございます。メルシ、おかあさん」
左右の頬に口づける。
お母さんも同じように返してくれた。
「フランス式の挨拶はもう教えなくてもいいみたいね」
「はい。フランス語も一生懸命覚えます」
ソファに並んで座って、お母さんが私の手を握る。
「ワタシハ、アナタガ、シンパイデス」
二回まばたきをしてため息をつく。
「若い頃、私は過ちを犯しました。私は不幸を選んだ。私は間違えたのです。子供だった。弱かった。私はずっとそれを後悔しながら生きてきたの」
私は左胸に手を当てた。
ジャンから聞いた話を思うと私も心が痛む。
「フランス人はみな恋が下手なの。だからフランス人は愛を裁かない。みんな間違えるから。愛を裁いていたら、フランスから人がいなくなる」
そしてお母さんは日本語で続けた。
「アナタハ、ジャンヲ、シンジマスカ?」
「はい」
なんかの信者みたい。
「ユリさん、ジャンを頼みますよ。愛し合って生まれた自慢の息子。あなたを選んだ賢い息子ですから」
「はい。こちらこそよろしくお願いします」
お母さんは口元に柔らかな笑みを浮かべてつぶやいた。
「これでいいのです。これですべてを終わらせましょう。過ちを二度繰り返すことはないのです。不幸の連鎖はこれで終わり。ユリさん、あなたに私と同じ苦しみを味わってほしくない。何があってもあなた自身で考えて答えを選ぶのですよ」
「はい。分かりました」
サラさんと三人でスマホの連絡先を交換し合って、昼食に下のホテルから取り寄せたお寿司をごちそうになった。
部屋を出る時に、お母さんがフランス語で私に何か言っていた。
エレベーターの中でスマホの画面を見たら、『ミシェルはあなたに素敵な服を作った。とても似合う』と表示されていた。
ありがとうございます、お母さん。
私、この国で生きていけるような気がする。
いい人達に助けられて、幸せ。
私も恩返しができるように、がんばらなくちゃ。
これから何が起こったとしても、乗り越えていける。
そのときは私もそう思っていた。
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