第4章 愛の形
夫婦となった私たちは午後からパリへ行くことになった。
それを聞かされたのは昼食のときだった。
サーモンのムニエルにアスパラガスとトマトパスタを添えたワンプレートを前に、ジャンが急に言い出した。
「母に紹介するよ」
聞いたとたん、もう味なんかまるで分からなくなる。
常識的に言えば、先に紹介してもらって、承諾を得るべきだったとは思うけど、今さら遅いか。
日本のうちの両親にだって事後報告になっちゃったわけだし。
いちおう母親にメールしたけど、まだ返信は来ていない。
結婚式もしてないし。
市長さんとの署名が式だったのかな。
地味子の地味婚。
全然、おもしろくないけど。
「フランスでは、こういった形の結婚って多いの?」
「手続きだけで済ませるってこと?」
「家族に伝える順番とか」
「まあ、普通ではないね。日本と変わらないと思うよ。日本のヒロウエンみたいなのはないけど、パーティーならするし」
じゃあ、なんでこんな強引に?
同意した私も私だけど。
本当は同意してないんだけど、しちゃったことになってるだけだし。
破り捨てることのできない婚姻届はパスポートに挟んである。
「ジャンのお母様は承知してるの?」
「いや、これから話すよ」
「反対されたらどうするの?」
「するわけないさ。ユリのことを気に入るに決まってるよ」
どこからそんな自信が湧いてくるんだろ。
身分も違うし、外国人だし、いきなりだし。
おまけに地味子だし。
歓迎される要素がまるでないんだけど。
ああ、もう、緊張する。
結婚しようと言ってきたのはジャンの方で、彼のペースに乗せられてしまったわけだから私は悪くないとは思うけど、やっぱりお母様に対面するとなると平静でいられるわけがない。
「フォーマルなワンピースに着替えた方がいいと思う?」
「身内に会うだけなんだから気にしなくていいよ。ユリはユリのままでいい」
うーん、それは違うと思うんですけど。
妻となったからには、それにふさわしい服装があるし、まして夫が上流階級なら、恥をかかせる格好もできない。
かといって、いきなり服を買ってくれとは言いにくいし、今はあきらめるしかないか。
そもそも今さらなんだけど、シャトーホテルのドレスコード対策として日本からわざわざ持ってきたフォーマルなワンピースを鏡の前で当ててみたら、授業参観のお母さんみたいで情けなくなっちゃった。
こんなの誰にも見せられない。
せめて、結婚式に呼ばれた新婦の友人くらいじゃないと。
もうなんかいろいろおばさん……。
もっと早く気づきなよ、私。
つくづく、予約していたシャトーホテルに泊まれなくて良かったと思う。
ホテルのレストランでこんな格好してたら裏で笑われてただろうな。
結局カジュアルな格好のまま出かけることに。
ジャンはビジネススーツ姿で釣り合わないけど、しょうがない。
車に乗り込むときにクロードさんから声をかけられた。
「ジャンと仲直りしてくださってありがとうございます」
スマホの画面越しの会話だけど、心のこもった言葉はやっぱりうれしい。
「賢い犬と愚かな男には躾が必要。愚かな犬と賢い男には近づくな、危険」
ええと……、ジャンは愚かな男ってこと?
「ウィ・マダム」と、車のドアが閉められた。
クロードさんの運転する黒塗りのベンツが森を抜け、幹線道路に入る。
ジャンは車の冷蔵庫からシャンパンを出して、もう二杯目だ。
私は酔っ払ってしまったらまずいと思って遠慮しておいた。
「僕も最近はあまり母とは会ってないんだ。月に一、二度、パリに出たときくらいだね。母は今時スマホも持たないし。持たせようとしても、『いらない』と冷淡でね。用事があるといまだに手書きの手紙を書いてよこすんだ」
その話から高齢者を想像してしまったけど、違うらしい。
「母は二十歳で僕を産んでるから、今五十だね」
うちの母親より十歳若い。
「まだお若いのにスマホを持たないって珍しいですね」
「あまり表に出たがらない人なんだ。パーティーとかも好きじゃないし。買い物も日本でいう外商って担当者が家に来るからね」
お金持ちの生活や考え方はやっぱり分からないことが多い。
大丈夫なのかな。
私みたいな庶民でもうまくやっていけるのかな。
市街地に近づくにつれて渋滞してくると、会話がなくなる。
パリの建物は同じような外観だから、どこを走っているのかさっぱり分からない。
ときどき、サクレクール寺院とかモンパルナスタワーとか、特徴のある建物が屋根の間にチラリと見え隠れするけど、現在地の手がかりにはならない。
そもそも観光で二回来たことがあるだけで、そんなにパリに詳しいわけじゃない。
中心部に入る頃には私も少しうとうとしかけていた。
気がつくとセーヌ川沿いの道を車が進んでいる。
観光客を乗せた船を追い越し、中州のシテ島先端にあるポンヌフのたもとを通り過ぎると、対岸に見慣れた建物が見えてきた。
ルーブル美術館だ。
その先は観覧車のあるチュイルリー庭園で、モネの睡蓮が有名なオランジュリー美術館には無料で入ったっけ。
車は左岸のオルセー美術館脇を通り過ぎる。
私、ここ来たことあるななんて思ってたら、減速して静かに路肩に停車した。
「さ、着いたよ」
ジャンがなんでもないことのようにシートベルトを外す。
ここって……。
嘘でしょ!?
日本だと皇居前みたいな場所なんですけど。
アパルトマンではなくホテルなのか、濃緑地に深紅の襟が目立つ制服を着た若いドアマンがやってきて車のドアを開けてくれる。
軍人さんみたいにいかつい男性だけど、物腰は柔らかい。
「ボンジュ、ムッシュ・ラファイエット」
「メルシ、サヴァ」
顔なじみなのか、一言二言なごやかに会話を交わしてる。
ジャンに続いて降りると、ドアを押さえながら私にも挨拶してくれた。
「ボンジュ、マダム・ラファイエット」
一瞬誰のことか分からなかったけど、私のことだった。
そっか、私、『ユリ・シラサワ・ラファイエット』になったのか。
日本で『ラファイエット百合』なんて名乗ったらハーフモデルさんかと期待されそうだけど、こんな地味子じゃがっかりされちゃうだろうな。
またネガティブなことばかり思い浮かんでくる。
だめだめ、しっかりしなきゃ。
「メルシ」と、ちょっと背筋を伸ばしてお礼を言ったら、四角い顔に微笑みを浮かべながら丁寧に会釈してくれた。
気取りすぎてもやっぱり恥ずかしいな。
どう振る舞ったらいいのかまるで分からない。
私たちを残してロングベンツはそのまま大通りを進んでどこかへ去っていった。
歩きながらジャンがささやく。
「彼に『僕の妻だよ』と、紹介したんだ」
「『マダム・ラファイエット』って誰のことかと思っちゃった」
「そのうち慣れるよ」と、ジャンが吹き出して笑う。
だといいんだけど。
「クロードさんは来ないの?」
「駐車場に車を止めに行ってるよ。ちょっと離れててね。パリ中心部は車だと規制も複雑で不便なんだ」
私たちが玄関に歩み寄ると、待ち構えていたもう一人のドアマンがアールデコ装飾のガラス戸を引き開けて中へ招き入れてくれた。
「ビヤンヴニュ・マダム・ムッシュー」
「メルシ」
玄関を入って右手にエレベーターホールがある。
矢印式の階数表示が古風だ。
呼び出しボタンを押すと、派手にモーターと歯車の動作音が聞こえてエレベーターが下りてくる。
私たちの他にはお客さんもスタッフさんもいない。
「ここはホテルなの?」
「アパルトマンの一部が会員制ホテルとしても使われているだけだよ。ホテルスタッフが住人の世話もしてくれる。一般の観光客向けじゃないから、いつもこんな感じで静かなんだよ」
パリの一等地に住んでるんだから、みんなお金持ちなんだろうな。
ただ、建物も機械も古いのか、気がつくとさっきからずっとうなり声を上げているのにエレベーターがまだ来ない。
「水回りは最新の物に交換してあるんだけど、こういうところは昔のままでね。中もすごいんだ」
ようやく到着したエレベーターはドアが蛇腹式で、手動で開けて、乗ったら自分で閉める形式だった。
古い映画で見たことがあるやつだ。
っていうか、これ、百年くらい前から使ってるんじゃないの?
大丈夫なのかな。
落ちないだろうけど、途中で止まったりしないよね。
ジャンがボタンを親指で力一杯押す。
バッチンと最近はあまり聞かない音がする。
へこんでいるのは五階だった。
「このボタン、けっこう力が必要でね。ちゃんと押さないと戻ってきちゃうんだ。クラシックだろ」
笑い事じゃないんですけど。
洗濯機が止まる寸前みたいな振動と共にエレベーターが動き出す。
内部は作動音が反響して掃除機の中に閉じこめられたみたいで会話にならない。
そのわりにスピードは遅くて、上へ向かっているのか下りているのか感覚が分からなくなってくる。
まるで地下深くの炭鉱にでも連れて行かれるみたいだ。
一階から二階、二階から三階へと上がっていくたびに、室内灯が一瞬消える。
三階を通り過ぎたところで下から突き上げるような揺れが襲いかかってきて思わずジャンにしがみついてしまった。
「心配ないよ。いつもこうなんだ」と、ジャンが両手をメガホンのように私の耳に当てる。「パリのこのあたりは革命後の建築なんだけど、アールデコの時代に改装されたきり、中途半端な古さで残ってて、こういうエレベーターも文化財として保存されて使われてるんだよ。逆に言えば改修不可ってことなんだ」
まだ使えるのはすごいけど、いつ使えなくなるのか止まるのか、考えるのが怖い。
「その点、うちの城はエレベーターなんかなかった時代だから、不便だけど落ちる心配はなくていいだろ。僕のお姫様抱っこは今のところ足腰がしっかりしてるから心配しなくていいよ」
ジャンのエスプリに苦笑いを浮かべたところでようやくエレベーターが五階に到着した。
蛇腹を横に押して外に出る。
廊下はなく、エレベーターホールをはさんで左右にドアが一つずつあるだけだった。
ジャンが右側ドアの暗証ボタンを押すと、ブザーが鳴って解錠される。
「アロ、マモン?」
ドアを開けて呼びかけても返事がない。
「いないのかな。ちょっと奥の部屋を見てくるからそこらへんに座って休んでてよ」
彼はどんどん奥へ入ってしまう。
私は閉め出されると困るから中に入ってドアのところに立っていた。
日本のように靴を脱ぐ場所はなくて、入ってすぐがもう広いリビング。
窓枠や壁と天井のふちに施された装飾はアールデコ様式で、おそらく建築当時のものなんだろうな。
大理石の床にはテーブルセットやソファが置かれ、窓際には支柱に巻き付けられた大きな観葉植物の鉢植え、壁にはぐしゃぐしゃな絵の具としか言いようがない抽象画が飾られている。
ソファのそばに天秤のような物が置いてあるから何かと思ったら、受話器がラッパのような形をしたアンティークデザインの固定電話だった。
ダイヤルを回す電話機なんてまだ使えるんだ。
他には本や小物を置いた棚があるくらいで、良く言えばシックでシンプル、悪く言えば倒産セールの家具屋さんみたいに殺風景な部屋だった。
城館の華麗な雰囲気とは対照的で意外な気がした。
入口に立ったままなのもかえっておかしいかと思って部屋へ足を踏み入れたとき、私は正面の窓に吸い寄せられていた。
窓のすぐ下にはセーヌ川が流れ、対岸にはルーブル美術館のガラスのピラミッドからチュイルリー庭園、コンコルド広場、そしてそこから始まるシャンゼリゼ通りのマロニエ並木が一望できた。
その奥にはパリの屋根が広がり、遙か向こうにはモンマルトルの丘の上に真っ白なサクレクール寺院もくっきりと見える。
なんて贅沢な景色なんだろう。
こんなパノラマを自宅から楽しめるなんて。
と、そのときだった。
「退屈な風景がお好みのようね」
背中からトゲのある声をかけられて振り向くと、渋い顔のジャンと小柄な女性が立っていた。
思わず息をのむ。
城館に飾られていた肖像画そのままの人だ。
五十歳と聞いていたけど、四十くらいに見える。
ちょっと歳の離れた姉と言われても納得しちゃいそう。
オブシディアンブラックにパールドットのワンピース。
肩から襟には色反転した生地をフリルのようにあしらってある。
それが角度や光の当たり具合で紺やメタリックに変わる。
遠目にも分かる生地の違い。
体のラインにぴったりなのに、まとわりつくような窮屈さがない。
いいなあ。
すごくおしゃれ。
アールデコ様式の部屋ということもあって、昔の映画から抜け出してきた女優さんみたい。
古くささなんかなくて、今見ても憧れてしまうような王道でエレガントなスタイル。
そもそもそのオーラを醸し出す体型を維持しているだけでもすごい。
やっぱり生まれたときから違うんだな、こういう人は。
生まれたときから庶民の私。
かなわないとかじゃなくて、最初から立っているステージが違う。
とにかく、挨拶しなくちゃ。
「ジュマペール・ユリ・シラサワ。ジャポネーズ。ええと、あの、結婚しました……、よろしくお願いします」
フランス語だと名前しか言えないのはしょうがない。
スマホの翻訳画面を見せようと差し出したら、ハエでも追い払うように手で払われてしまった。
「さすが日本はメイド・イン・ジャパンの国。スマートフォンが挨拶するのですか」
お母様のきつい言葉だけが表示される。
「礼儀もわきまえず。すみません」
私の日本語をジャンが通訳してくれるけど、帰ってきた言葉はトゲの塊。
「よろしかったらフランス語の家庭教師をご紹介しましょうか」
もうなんなのよ。
ウニのキャッチボール……。
いくらなんでもひどくない?
私だって、ちゃんと先にご挨拶してからとか、常識的な手順を踏むべきだと思ってますよ。
ていうか、先にお会いしてたら、もちろん結婚なんかしてませんでしたけどね。
――言わないけど……。
ジャンが手のひらを向けて首を振った。
「ユリは悪くないよ。母の言い方が悪い」
当たり前でしょ!
言い方だけじゃなくて内容もひどいわよ。
そもそもこんなことになったのはジャンのせいなんだし。
私の味方をしてるフリなんかでごまかされないんだからね。
かといって、直接本人に文句を言う勇気もないし、お母様の目の前でジャンを非難するわけにもいかない。
歓迎されないだろうとは思ってたけど、ここまでとは……。
話は平行線のまま、途切れてしまった。
沈黙に耐えられなくて、褒め言葉を贈ってみた。
「服、素敵ですね」
「あなたの服はそうではないようね。そんな格好でここに来られては困ります」
やっぱりだめか。
ジャンはあきらめたのか、はるか遠くのサクレクール寺院なんか眺めてるし。
と、また無言になりかけたところへクロードさんが入ってきた。
お母様が両手を広げて迎え入れる。
「ああ、ちょうど良かった、クロード」
「なんでしょうか、奥様」
「この遠来のお客さんをミシェルのところへ連れて行きなさい」
「はい、かしこまりました」
「ノン」と、お母様が右手の人差し指を立てた。「いえ、クロードには車で私を連れて行ってもらいたいところがあります。ジャン、あなたが自分でこちらの日本のお客さんをミシェルのお店にご案内しなさい。いいですね」
「わかったよ」と、ジャンは口をとがらせながら小刻みに首を振った。
「その癖、おやめなさい」と、お母様が顔をしかめる。「あなたはキツツキじゃないんですよ」
「アー、ウイウイ」と、今度は肩をすくめながら私の方へ歩み寄って、そのまま腕を引っ張って出て行こうとする。
「あ、あの」
せめてご挨拶ぐらいしないと……。
「あなたにもう用はありません」と、最後までお母様は冷たい。
「だそうだ」と、ジャンが私を外へ連れ出す。
なんか、お腹が痛くなってきちゃった。
ガコンガコンうるさいエレベーターの中でため息をついていたら、ジャンも一緒にため息をついた。
彼の耳に向かって大声で文句を言ってやった。
「うまくやっていく自信がないわよ」
「心配しないでいいよ。母と同居するわけじゃないから」
「そういう問題じゃなくて」
「時間がかかるだろうけど、少しずつ歩み寄れるよ」
「エレベーターの方が先に着きそうね」
「そりゃ、そうだろ」と、ジャンが真顔で答える。
フランス人のくせにエスプリも分からないなんて!
のろのろと降下するエレベーターの中で、私たちは顔を背けあっていた。
◇
アパルトマンホテルを出て、ジャンがドアマンにタクシーを頼んでいた。
「どこへ行くの?」
「母が服を頼んでいるブティックだよ」
「やだ。行きたくない」
「着替えの服はいるだろ。日本から持ってきた物だけじゃ、足りないじゃないか」
それはそうだけど。
「見たらきっと気に入ると思うよ」
「私に似合わないんじゃない?」
「子供みたいに拗ねてないで来てくれ」
何よ、その言い方。
誰のせいだと思ってるの?
やってきたタクシーに乗り込むと、運転手さんに行き先を告げたきりジャンはシートにもたれかかって黙り込んでしまった。
車はセーヌ川沿いの道を走り抜け、橋を渡る。
正面にコンコルド広場のオベリスクがそびえていた。
車窓から見えるシャンゼリゼ通りのマロニエ並木は新緑が鮮やかで、カフェでくつろぐパリジェンヌの姿はもちろん、日本とは違う信号機にまで目を奪われる。
パリは好きだけど、ジャンもお母様も好きになれない。
コンコルド広場を半周してチュイルリー庭園の北側を進む。
格式の高いホテルと高級ブランドのお店が並ぶ界隈に来たかと思うとタクシーが急停車した。
五分も乗ってないのにもう着いたの?
ジャンが財布から黒いクレジットカードを取り出す。
「メルシ・マダム・ムッシュー・オーボワ」
運転手さんが上機嫌に手を振ってタクシーが去っていく。
あらためてまわりを見回したら、チュイルリー庭園とセーヌ川を挟んでちょうど正面にお母様のアパルトマンの屋根が見えた。
「ずいぶん回り道だったけど、歩いてきた方が早かったんじゃないの?」
「パリは道が一方通行なんだよ」
なんか会話がかみ合わない。
どのブランドのお店に入るのかなと思ったら、ジャンは建物の角を曲がって路地裏に入った。
少し先の突き当たりにユニクロの看板が見える。
パリの市街地に溶け込むように控えめな大きさだけど、やっぱり見慣れた看板はすぐ目につく。
いいなあ。
着慣れた服が一番だわ。
できれば、私、あっちで買い物したいんですけど。
ジャンはそんな私の気持ちなどまるで気づいてくれない。
さっさと道を渡ると、もう一本細い路地へと入っていく。
こんなところにお店なんかあるのかなとついていったら、ジャンが立ち止まった。
え、ここ?
看板どころか、ショーウィンドウもないし、そもそもお店の名前すら出ていない建物だ。
普通のアパルトマンにしか見えない。
ジャンがドア脇のインターフォンのボタンを押すと、鍵が解除されてドアが開いた。
中にいたのは肌つやのいい小柄なおばあさんだった。
でも、ただのおばあさんじゃない。
見てすぐにファッションデザイナーさんだと分かった。
着ている服は黒いニットに黒のスキニーパンツだけど、シルエットが私が知っているのとは全然違う。
トカゲみたいなぎょろりとした目で私たちを見上げている。
「サヴァ・ミシェル」と、ジャンが右手を軽くあげた。
「アロ、ジャン」
声も張りがあって若い。
二人はお互いの頬に音を立てて口づけをし合う。
フランス人の挨拶って、日本人はまねできないなって思う。
おばあさんが私の方を向いたので、こちらから名乗った。
「ボンジュー。ジュマペール・ユリ。オンションテ」
「コンニチワ。ミシェルデス」
一瞬、日本語が分かるのかと思ったけど、知っているのはそれだけみたいで、後はフランス語だった。
スマホのアプリを立ち上げたけど、充電が少なくなっていた。
便利だけど電池を消耗するのね。
車の中でしておくんだったな。
招き入れられたのは工房のような場所だった。
トルソーが何体も並んでいて、棚には巻かれた色とりどりの生地がぎっしりと積まれている。
狭い通路、というよりも荷物の隙間を縫うように奥へ行くと、日本の着物を着たマネキンが立っていた。
「これは何ですか?」
「トメソデよ。私の趣味だけど、仕組みを研究しているの。色彩やデザインはもちろんだけど、平面と立体の関係性が洋服とは根本的に違うでしょ。魔法よね」
はあ、そうなんですか。
「あなたの服はこちら」と、ミシェルさんが手招きする。
着物の隣に並んだトルソーに服がかけられている。
「とりあえずあるもので用意してみたけど試着してみて」
ミシェルさんが私の服に手をかけて、あっという間に着ていたカットソーもキュロットも脱がされてしまった。
いや、あの……、ジャンがいるんですけど。
何見てるのよ。
何なら俺が下着も脱がせてやろうかなんて顔してる。
もう、馬鹿。
にらみつけてやったら、くるりと背中を向けた。
でもあの、ショーのモデルさんじゃないんで、カーテンとかないんですか。
下着姿を隠そうとすると、ミシェルさんがピスタチオグリーンのチュニックを投げてよこす。
「何してるの。早くしなさい。私も暇じゃないのよ」
「はい、すみません」
「あなたは何になりたいの? 最高の自分を見たくないなら出てってちょうだい」
叱られながらチュニックを着ると、ミシェルさんがすぐにピンであちこち留めて直していく。
針治療を受けてるみたい。
でも、どんどんスタイルが良くなっていくのが分かる。
「あんた、素材はいいわね」
「そうですか」
「ほら、次!」
褒められているんだか怒られているんだかわからないうちにまた脱がされて、今度はアイボリーパンツに、肩から胸にかけて透け感のある生地をあしらった淡いレモン色のシャツ。
「それいいね」と、いつの間にかこっちを見ていたジャンが口笛を吹く。
「あっち向いてて!」
キャミソールとか下に着てないとめちゃくちゃ恥ずかしいんですけど。
透けてるのって丸裸より恥ずかしい。
「ほら、これ、羽織って」
ミシェルさんがキャメルジャケットを突き出す。
言われたとおりに羽織ったら、またすぐに全部脱がされてしまった。
「はい、次これ」
今度はゆるめの白ブラウスにレース生地のタイトスカート。
ネイビー主体のレースに黒い糸が編み込まれていて暗色系なのに繊細。
ブラウスのボタンをはめようとしたら怒られた。
「ダメダメ! これは胸元を大きく開けなくちゃ」
え?
「ボタンなんて飾り。分からないの? 襟も立てて!」
ミシェルさんの後ろでジャンが親指を立ててウィンクしている。
あっち向いてなさい!
まったく、もう。
躾がなってないんだから。
でも、鏡に映る自分を見たら、ミシェルさんの言ってることが分かる気がした。
胸元を開けても左胸の傷があらわになるわけじゃないし、地味子の私だって全然無理なスタイルじゃない。
今まで自分を隠そう隠そうってしていたんだなって気づかされた。
ずっと二番で良いと思って生きてきたけど、もう一歩ぐらい前に出てみるのも悪くないかも。
「あの、ミシェルさん」
「何?」
「知らなかった私に会えた気がします」
スマホの翻訳画面を見たミシェルさんが微笑む。
「世界は広いの。分かった気にならない。明日のあなたはもっと素敵になれる。でも、今日のあなたは最高のあなた」
あっという間に十着以上着替えて一人パリコレ状態。
シックな夜会服もあつらえてもらった。
大胆に肩を出した服なんて自分じゃ買えないけど、ミシェルさんがショールを掛けてくれた。
「とりあえず今日はこれくらい。直したら家に送っておくから」
ミシェルさんがジャンを指さす。
「あんたも女を見る目があるじゃないの」
「ジュセ」と、彼が一言つぶやく。
スマホに示された訳を見て笑ってしまった。
『知ってる』だって。
そんなあなたに見初められましたよ、私。
着てきたカットソーとキュロットを着て鏡を見る。
あ、いつもの私だ。
でも、笑ってる。
鏡の中の私が笑ってるのって、ずいぶん久しぶりって気がする。
服を選ぶのがこんなに楽しいなんて知らなかったな。
ここでもまた知らない自分に会えた。
それにしても、あわただしくて疲れちゃったな。
本職のモデルさんは体力勝負なのね。
「こんなにたくさん服を試着したのは初めてです」
「アレックスから電話で頼まれたのよ。まとめて世話してやってくれって」
アレックス?
ジャンが顔を寄せてささやく。
「母だよ。アレクサンドラって言うんだ」
そういえば私、お母様の名前すら伺ってなかったっけ。
あれ?
「さっきお母様の家を出てきたばっかりなのに、すぐに連絡をくださったってことですか?」
「さあ、それは私は知らないけど、電話が来たのはついさっきね。あなた達が来るほんのちょっと前」
あのアンティーク電話で話すお母様を想像してしまう。
小指立ててそう。
「ミシェルさんも短時間でこんなに服をそろえてくださって、すごいですね」
「仕事だから。できて当たり前」と、軽く首をかしげながら笑う。「アレックスはいつも急なのよ。今回の請求も彼女につけておくから」
「それはまずいんじゃないですか」
「なんで? お祝いでしょ」
「歓迎されてなかったみたいですけど」
「だったら私に服なんか頼まないわよ。あなたに着せたいから注文したんでしょ」
はあ。
そういうものなんでしょうか。
「はいはい、じゃあ、忙しいからあなたたちは出てってちょうだい」
小柄なミシェルさんにブルドーザーみたいに背中を押されて私たちは外に出た。
◇
路地裏のお店を出て、左手にルーブル美術館が見える大通りまで戻ってきた。
「ねえ、お母様のところにお礼を言いに戻った方が良くない?」
ジャンは渋い顔で首を振る。
「また今度でいいよ」
「だって、お母様の家まで歩いたってすぐじゃない」
チュイルリー庭園を横切ってセーヌ川を渡ればすぐだ。
車と違って回り道する必要もない。
「クロードと行くところがあるって言ってただろ」
そういえばそうだった。
「ねえ、じゃあ、私たち、帰りはどうするの?」
「母の用事が済んで戻ってきたらクロードに乗せてもらえばいいし、今すぐ帰りたいならタクシーを呼ぶよ」
べつに用事なんかない。
「せっかくのパリなんだから楽しまなくちゃ」
私はジャンの手を引いて歩き出した。
「お供いたしますよ、姫様」
彼の腕にからみつく。
スーツの彼とカジュアルな私。
ちぐはぐな二人だけど、遠慮なんてしないんだから。
ミシェルさんのおかげで素敵な服が着られるって思うとますます気分が上がる。
自然の中を散歩するのが好きなんて思ってた自分を今はしまっておこう。
やっぱりパリはパリ。
華の都なんて言い古されてるけど、そこにいるだけで幸せになれる街。
チュイルリー庭園は平日の午後だからか人もまばらで、パリの中心にぽっかり穴が開いているみたいだった。
ぴったり寄り添って歩く老夫婦がいる。
どっちがどっちを支えているのか分からないけど、私たちの未来もあんな感じなのかな、なんて。
今日結婚したばかりなのに、もうそんなこと考えてる。
浮かれてるのかな、私。
たぶんパリのせいだ。
三度目のパリだけど、過去二回とは何かが違う。
もちろんそれはジャンの存在なんだろうけど、彼に愛されたこと、ありのままの私を解放してくれたことが一番大きいんだろうな。
庭園を出ると目の前はセーヌ川。
決してきれいな川ではないのに、どの角度から見ても風景が映える。
鉄骨に木の橋桁を組み合わせた歩行者用の橋がかかっている。
ランニングや散歩の人もいれば、セーヌ川を行き交う船をぼんやりと眺めている人もいる。
「どうしたの?」と、急にジャンが私の顔をのぞき込んだ。
「え、何が?」
「楽しそうだね」と、言ってるジャンも微笑んでいる。
彼を見上げると、その後ろにエッフェル塔のてっぺんがほんのちょっと見えるだけでも心が躍り出す。
「だって、楽しいんだもん」
「そんなユリを見てる僕の幸せ、分かるかい?」
彼の腕が背中に回って抱き寄せられる。
欄干に寄りかかりながら橋の真ん中で口づけ。
もう、こんなところで……。
みんな見てるってば。
ほら、スマホ向けてる人もいるじゃない。
写真撮らないでよ。
「人が見てるでしょ」
「ごめん。また先走ってしまったね」
寂しそうなジャンの顔を見ると申し訳なくなる。
フランスでは当たり前なんだろうけど、人前でキスしたりするのはまだ慣れない。
だけど、こっちの気持ちや都合ばかり押しつけてもいけないんだろうし。
また喧嘩になるのは嫌。
「あの……」
「ん? どうした?」
「今は怒ってないからね。慣れなくて恥ずかしかっただけ」
「ああ、大丈夫。お互い、喧嘩しないってことだろ。分かってるよ」
良かった。
通じてる。
一度目の過ちはしかたがない。
ちゃんと伝えれば、二度目の過ちを繰り返さないように歩み寄ってくれる。
やっぱり、私、この人が好き。
橋の下を通り抜ける船から乗客みんながこちらに手を振っている。
みんな浮かれてる。
だってパリにいるんだもんね。
ジャンが手を振りかえしている。
ちょっと照れくさいけど私も手を振った。
なんか勝手に私たちの結婚を祝福してもらってる気になったりして。
私も浮かれてるんだ。
だってパリにいるんだもん。
橋を渡ると、大通りを隔てて右斜め向かいにお母様のアパルトマンがある。
と、ジャンがセーヌ川の岸辺に続く階段を、小走りに三歩下りて立ち止まる。
「そっち? 岸辺を散歩するの?」
「隠れて」
え?
どういうこと?
困惑している私の腕を彼がそっと引っ張って抱き寄せた。
スパイ映画みたいに頭だけ出して大通りの向こう側を見ている。
何があるのかと私も彼の陰に隠れて顔を出してのぞいてみたら、アパルトマンホテルに腕を組んで入っていく二人組の姿が見えた。
なんだかさっき公園で見た老夫婦みたいに仲睦まじい。
ちらりとその横顔が見えたとき、私は思わず声を上げそうになってしまった。
ジャンが私の口に人差し指を立てて頭を引っ込める。
「だって、あれ……」
「いいから、こっち来て」と、ジャンが私の腕を引っ張って階段を下りていく。
しかたなくついていくと、彼は私の手を離してそのままセーヌ川の岸辺を歩いていってしまう。
「ねえ、ジャン」
私は立ち止まって彼を呼んだ。
彼は振り向こうとしない。
私は彼の背中に向かってたずねた。
「さっきのお母様でしょ」
「ああ、そうだよ」
「一緒にいたのは……」
ジャンが立ち止まって振り向く。
「邪魔しないでやってくれ」
だって……、あれは……。
見間違いなんかじゃない。
あれはクロードさんだったじゃない。
「ここは、愛の国フランス」と、ジャンが両手のひらを天に向けて首をすくめた。「セ・ラムール。これは愛の問題なんだ」
◇
私たちはセーヌ川に係留されたボートカフェに入った。
遊覧船と違って団体客がいないからか、意外と空いていて、エッフェル塔の見える窓際の席に座ることができた。
ジャンはペリエ、私はカフェオレを頼んだ。
レモンの入ったグラスに炭酸水を注ぎながらジャンは家族の話をしてくれた。
「母のアレクサンドラは貴族の末裔だけど、現代ではもちろんそんな称号はただの飾りで、特権なんかないし何の得にもならないんだ。無駄に城や土地を持ってるから莫大な税金や管理維持費がかかって、母の父、つまり僕の祖父の代にはすでに財産のほとんどを切り売りしていたんだよ。バブルの頃、日本企業に城を売ったこともあったらしいよ」
昭和と平成の境目頃、私が生まれるちょっと前の時代だ。
「父の方は新興石油化学会社の跡継ぎでね。日本でいう成金の息子だったんだ。母が十八の時に家の資金繰りが切迫してきて、父方の会社が借金の肩代わりをすることで急に結婚が決まったんだそうだよ。父は三十だったって聞いたな。父の方は母の持つ貴族の称号という新興成金にはない名誉、母の方は父の一族の財産が目当てで、双方の利益が一致した政略結婚ってやつだね。もちろん、そこに愛なんかなかった。だから、夫婦仲は最初から冷え切ってたね。僕は両親が触れ合っている姿を見たことがなかった」
ジャンはグラスに口をつけて窓の外を通り過ぎる遊覧船に目をやった。
「あれは同時多発テロの数年後だったね。父の乗った車が爆弾テロに巻き込まれて亡くなったんだ。当時、父の会社が紛争地域の石油プラント建設に関わっていたのが原因だと言われたけど、実際のところは分からない。過激派組織が実行犯だったのは事実らしいけどね」
「だから、ジャンの車は防弾仕様なの?」
そういうことさ、と彼はもう一口炭酸水を飲んだ。
「ただそのとき、問題が起きたんだ」
「お父さんが亡くなったことだけじゃなくて?」
「それもそうだけど、事件発生当時の母の居場所が分からなかったんだ」
「それって、お母様が疑われるかもしれなかったってこと?」
「関係者は基本的に全員調べられるからね。テロに関係がないというアリバイを証明する必要があるわけだ」
「でも、いくら愛がなかったからって、お母様は事件に関係がないでしょ」
「それはもちろんだけど、母はかたくなにアリバイの証明を拒んだんだ」
「テロの関与を疑われるのに?」
「言えなかったんだよ、本当のことを」
あ、つまり、そういうこと……か。
私はさっき見た二人の姿を思い浮かべていた。
考えてみたら、さっきクロードさんはお母様の部屋にいつの間にか入ってきてたけど、暗証番号を知ってたからだ。
執事だからおかしくないかと気にしなかったけど、こういうことだったんだ。
「そういうことさ」と、ジャンがグラスに炭酸水をつぎ足した。
レモンに泡がまとわりついてグラスの中を踊る。
「お母様はクロードさんといつから愛し合っていたの?」
「母とクロードの関係は母が十歳、クロードが二十五歳の時から始まっていたんだ。もちろん最初は家庭教師から始まった関係だったけど、教え導く立場の大人の男を尊敬し、それが愛に変わるのはリセエンヌにはありがちなことだろ。だけど、身分が違うし、クロードは立場をわきまえていたからあくまでも執事と奉公先の娘という関係は保たれていたんだと思うよ。それが母の結婚で崩れた。愛のない結婚に絶望した母はクロードに愛を求めた」
ジャンは首のこりをほぐすように軽く頭を振ってから肩を回した。
「フランスでは不倫自体が咎められることはない。そういう文化だからね。よくあることで済む。フランスでは人を裁くことはあっても愛を裁くことはない。だけど、事件の容疑者となったら話は別だ。居場所を明かせなかったら潔白であることの証明は難しいし、金持ちの夫の死亡後に不倫相手と結婚したとなると、母だけでなくその相手、つまりクロードも財産目当ての共犯だったのではないかと疑われる。だから、母は隠し通したんだ」
私はカフェオレのカップで顔を隠すようにしながら話を聞いていた。
「その後の事件の捜査で、もちろん母は何の関係もないことが証明されたわけだけど、だいぶ時間はかかったし、父が亡くなって母は自由になったはずなのに、クロードとは結婚しなかった。愛のせいで二人は結婚をあきらめなくてはならなくなったというわけさ」
ジャンが細く長いため息をつく。
「父が亡くなった後、母は城館を出て今みたいに一人で暮らすようになった。クロードと離れてね」
頭の後ろに手を回して背もたれに上体を預けながら、ジャンはまた窓の外のセーヌ川に視線を流した。
「僕は母とクロードを責めようとは思わないんだ。父だって仕事で外国へ出かけてばかりいたけど、現地で何をしていたかなんて、いちいち母に報告してたわけじゃないからね。むしろ知らない方がいいことばかりだったみたいだし。子供だった僕の耳にもいろいろな噂は聞こえてきてたよ。もう、そういう話を理解できる歳だったから父のことをあまり好きにはなれなかったな。二人とも最初から結婚なんかしなければ良かったんだよ。財産に縛られたせいで、お互いに不幸になっただけなんだと思うよ」
お金持ちの家にもいろんな悩みがあるものなのね。
「今のフランスでは結婚という形に意味があるとは誰も思ってないから、愛があればその形は何でもいいんだよ。むしろ、形を与えない方が壊れたり消えたりしなくていい」
あれ?
じゃあ、なんでジャンは私と結婚したの?
結婚に意味がないと思うなら、私と結婚する意味だってないじゃない?
「そろそろ行こうか」とジャンが席を立つ。
「どこへ?」
「帰るんだよ。クロードの車で」
ジャンはボートカフェを出ると、セーヌ川の岸辺でスマホを取り出して電話をかけた。
「クロードが上に車を回してくれる」
電話を切ったジャンは大通りへ上がる階段を上っていく。
私は黙ってその背中についていった。
聞けなかった。
意味のないものにどんな意味があるのかなんて、聞けなかった。
◇
クロードさんはいつもと変わらない様子で淡々と車を運転して、私たちは城館へ帰ってきた。
車内で会話はなく、ジャンも私もいつの間にか眠ってしまっていた。
夕方になって少し雨が降ったので、夕飯は城館に付属したレストランでとることになった。
一般のお客さんに混じって昨日と同じようにフルコースをいただいた。
結構混んでいて、会話で盛り上がったり、時々笑いが起きたりするけど、決して場の雰囲気が壊れることもなく、お客さんたちはみんな和やかに食事を楽しんでいる。
「いいレストランね」
「だろ。ここは黒字なんだ」
夫が経営者の顔になる瞬間って、ちょっとキュンとくる。
今日は自分でチーズを選んでみた。
グリュイエールとミモレット、それとロックフォールにしてみた。
「ジャンはいつもチーズを食べるの?」
「いや、そうでもないよ。一人の時はワンプレートの食事で済ませることが多いからね。日本人が毎日納豆を食べてるわけじゃないのと同じだよ」
「ジャンは日本にいた頃に納豆は食べたことあるの?」
「あるよ。最初、京都に行ったときに納豆を食べたいと言って恥をかいたよ。東日本のものだとは知らなかったからね。『ガイジンサン』の洗礼を受けたってわけさ」
「臭いとか粘りとか大丈夫だった?」
「奇妙な食べ物だと聞いていたわりに全然悪くなかったよ。むしろ滞在中は結構食べてたね。安いし、おいしいし、栄養満点で卵かけご飯と納豆があれば何もいらないよ。箸の使い方に慣れるまでが大変だったけどね。納豆をのせたご飯をこぼさず箸で食べられるようになったときは人生で一番というくらいうれしかったよ」
やばい、私の方が食事のマナーが悪いかも。
「ああ、でも、ユリと出会ったときの方が一番うれしかったけどね」
なんのフォローよ。
「納豆と比べないでよ」
「僕にとって最高のごちそうは君だよ」
その言葉の通り、私はまた彼に食べられることになった。
明かりを消した部屋で私たちは窓辺に立っていた。
静かに雨の降る窓の外から差し込む庭園灯の青白い光がかすかに彼の横顔を照らす。
キスをしながら私はもう下着姿にされていた。
ブラジャーの肩ひもだけ外しながらジャンがひざまずく。
胸の浅い谷間に顔を埋めながら祈りを唱えるように彼がささやく。
「あとは自分で外してみて」
私は背中に手を回して留め具をはずした。
左胸の傷があらわになる。
「ああ、ユリ、君は僕の女神だ。君をこんなに愛しているのにそれを伝える言葉が分からないよ」
私を立たせたまま彼が下半身に口づけを浴びせ、手は胸を優しく撫でたかと思うと時には激しく……。
そのどれもが的確に私の秘められたスイッチをオンにしていく。
「教えてくれ。もっと知りたいんだ。ユリ、教えてくれ、君のすべてを」
あふれ出る私の愛を彼の舌が吸い上げる。
腰がとろけそう。
崩れ落ちる私を抱き上げて彼がベッドへと運ぶ。
待ちきれない私と焦る彼が愛を求め合う。
彼の奏でるリズムに体の奥が反応していく。
私の腕を押さえつけて上体を反らした彼の姿が淡い光に照らされて青白く輝く。
飢えた狼のように私をむさぼり尽くす彼。
愛すること、愛されること。
そのすべてを彼が教えてくれた。
この瞬間に嘘はない。
なのにどうしてこんなに切ないの?
なのにどうしてこんなに悲しいの?
快楽に突き上げられる私が声を漏らすと、彼が私の頭を抱え込んで肌を密着させた。
「もっと聞かせてほしい。ユリの声をもっと聞かせてくれ」
耳元でささやかれる彼の声を私も求めていた。
意味なんかない。
この瞬間に意味なんかない。
何も考えられないくらい彼に愛されている。
形がないからこそ壊れないし消えない。
だからつかむことすらできない。
でも、ここにある。
彼に抱きしめられている今だからこそ感じられる。
頭の中が真っ白になる至高の快楽に溺れながら私は愛を抱きしめていた。
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