第3章 地味子の地味婚

 一夜明けて、朝からもう一度愛し合った私たちは淡い光に包まれた天蓋付ベッドで二度寝の惰眠をむさぼっていた。

 ドアがノックされて目覚めると、部屋の入口にクロードさんが立っていた。

「ボンシュー・マダム・ムッシュー」

「アー、クロード、ボンジュー」

 ガウン姿のジャンがベッドから起き上がると、歩み寄ってフランス語で会話を始めた。

 レースのカーテンで仕切られているとはいえ、私も裸のままでははしたない。

 二人の話が思ったよりも長くなりそうだったので、その間に私はナイトガウンをかきよせ、窓側からベッドを抜け出してバスルームへ行った。

 広いバスルームには壁一面と言っていいくらいの大きな鏡があって、絵画のように金の額縁で飾られている。

 マーブル素材の洗面台は、給水設備だけは最新の機能的な機器に交換されていて、お湯の温度調節も自由自在だった。

 トイレの横にはビデがあるけど、お風呂はバスタブがなくて、透明アクリルのブースで仕切られた簡単なシャワーだけ。

 古いお城だから元から設備がなかったのだろうし、パリのホテルでもそうだったから驚かなかったけど、せっかく豪華なんだから、薔薇のお風呂とかが楽しめればいいのに。

 フランス人にお風呂の良さを教えてあげたくなる。

 嗜好の違いとはいえ、短期間ならいいけど、長期間だと日本に帰りたくなっちゃうかも。

 海外に来るたびに思うけど、お風呂の魔力ってコタツ並みの吸引力なんじゃないかな。

 日本にいると気づかないことって案外多いのかも。

 そんなとりとめのないことを考えながら温かいシャワーを浴びていると、ジャンに愛された自分の裸がものすごくいやらしく思えて恥ずかしくなってしまった。

 いつもはさらりと済ませる部分も思わず念入りに洗ってしまう。

 田舎の空き地みたいに生え放題の毛とか、いろんなことが気になり出す。

 こんなの見られちゃったんだ、私。

 なんか、どうなんだろ。

 三十になるまで何してたんだろな。

 ありのままの自分なんて、見せるもんじゃない。

 さすがに脇毛の処理くらいはしてたけど。

 ちゃんとしとかなきゃ。

 フランス人って、あんまり気にしないのかな。

 腕毛のすごいおばさんはパリのメトロでよく見かけたし、眉毛がつながってる若い女性も見たことがある。

 でも、この左胸だけはこれでいい。

 少しいびつな乳房と赤黒くむき出しの傷。

 誰にも見せたことのない自分を愛してもらえた喜び。

 と、そんなことを思い出していたら、また、ジャンにされたあんなこととかこんなこととか、いろんなことがよみがえってきて、シャワーなのにのぼせてしまいそうになる。

 おまけに、シャワーブースを出て洗面台の鏡の前でバスローブをまとおうとしたら、右胸の乳首の下に長い毛が生えているのを見つけてしまった。

 うわあ、どうしよう。

 左胸のことばかり気にしていて、右胸は完全に油断してた。

 ぷちっ……痛っ。

 もう、やだ。

 こんなの見られてたんだ。

 あきれられてないかな。

 髪の毛もいつの間にか伸びてるし。

 美容院行ったのいつだっけ。

 私はいつも襟足の短いショートボブにしてもらっている。

 それが肩にかかるくらいまで来てるから、相当放置してたんだな。

 もともと毛が太くてボリューミーだから横にも広がっちゃってまとまりがないし。

 メイクもナチュラルにもほどがあるよね。

 今の職場はおじさんたちがセクハラとかコンプライアンスを気にして女性の外見のことは一切触れてこないから、みんな私とおんなじ感じなんだよね。

 そういえば顔の産毛処理なんて、お試しでやってみて以来ごぶさたしてるな。

 あれって、四捨五入でもうアラサーだわなんて笑ってた頃か。

 若い素材を生かすナチュラルメイクなんて歳はとっくに過ぎて、隠すためのメイクも覚えないといけないよね。

 洗面台に腰を預けて落ち込んでいたらジャンがやってきた。

「ああ、ここにいたのか。待たせたね」

 ――やだ、もう。

 下着つけてないし、ガウンの前も合わせてないじゃない。

 びっくりして、自分のことなんかどうでもよくなっちゃった。

「おっと、これは失礼」

 鏡に映った自分自身の姿に気づいたのか、くるりと背中を向けてジャンが腰紐を結び合わせる。

 クロードさんも目のやり場に困ったんじゃないの?

 毎朝こんな調子なのかな。

 ――ていうか、ずるいんですけど。

 ちゃんと、処理してあるじゃない。

 恥ずかしくてあの最中は全然見てなかったけど、無駄毛はないし、残ったところはきれいに刈りそろえられている。

 お金持ちだからエステでやってもらってるのかな。

 私だけボーボー。

 こちらに向き直ったジャンが両手を広げて肩をすくめる。

「どうしたんだい、ユリ。不機嫌そうだよ」

「なんでもないです」

「もう僕のことが嫌いになったの?」

 私は彼の胸に飛び込んだ。

「好きで困ってるの」

 ジャンが耳まで赤くしながらニヤける。

「困らせてごめんよ」

 ――もう……。

 私は彼の胸をキツツキのように指でつついた。

「私のこと、飽きてない?」

 それは正直な不安だった。

 一口つまみ食いしてみたら、案外つまらない女だったとか。

 揚げたての唐揚げはつまみぐいするくせに、いざ食卓に並べるとよそで食べた唐揚げがおいしかったなんて話ばかりする。

 男の欲望は気まぐれ。

 手に入らないうちは追い求められ、知ってしまえば捨てられる。

 学生時代からそんな話を嫌というほど聞かされてきたけど、全部他人事だと思ってた。

 いざ自分のことになると全然自信がない。

 おまけに私なんかお手入れもいいかげんだし。

 飽きられても文句言えない。

 でも、そんな私を抱きしめる彼の腕に力がこもる。

「どうしたんだい? そんな悲しいことを言わないでくれよ」

「ごめんなさい。なんだか不安で」

「どうして?」

「こんなに幸せだったことなかったから」

 ジャンが私の頭に頬をのせる。

「僕もだよ。こんなに幸せだったことはなかった。今が一番幸せだからね」

 同じ事を言ってるのに、正反対。

 私はネガティブ。

 彼はポジティブ。

 育ちの違い?

 お金持ちと庶民の感覚の差?

 この溝は埋まるのかな。

「心配ないよ」と、彼がささやく。「これからどんどんもっともっと幸せになるんだ。きっとそのうち、『幸せすぎてこわい』なんて言い出すよ」

「もう言いそう」

「そしたらいつでも僕の胸に飛び込んできなよ。震えを止めてあげるから」

「そうする」

 私はジャンの微笑みに向かって唇を突き出した。

 くちばしをつつきあう小鳥のようなキスから、お互いの波長を高めあうように……。

 ――少しはキスも慣れてきたかな。

 と、思ったら咳払いが強引に割り込んできた。

 ――え!?

 クロードさんがドアのそばに立っていた。

 あわててジャンから飛びのく。

 ――ク、クロードさん……、まだいたんですか。

 おじさまはジャンに向かってわざと丁寧な口調で何か言っている。

 フランス語だから分からないけど、『プティデジュネ』という単語だけは分かった。

 ジャンが頭をかきながら訳してくれた。

「片づかないから早く朝食にしろだってさ」

「はい、すみません。今行きます」

 日本語だったけど通じたらしい。

「ウィ・マダム」と、軽く頭を下げてクロードさんが去っていった。

 それから私たちは手早く着替えて、夕食の時と同じテラスへ出た。

 私は日本から持ってきたコットンデニムのワンピースに薄手のカーディガンだったけど、ジャンはアイロンのかかったワイシャツにきっちりプレスされたスラックス姿だった。

 自宅とはいえ城館だから、Tシャツに短パン姿でいるわけにもいかないのかな。

 シャトーホテルに泊まるつもりだったから、私もカジュアルとはいえそれなりにラフではない服だけど、もっとフォーマル寄りの方が良かったかも。

 クロードさんなんか、朝からビシッとスーツだったし。

 そういえば、今日もネクタイの結び目が格好良かったな。

 テラスのテーブルにはパンと果物のかご、お皿にはスクランブルエッグとスライスしたサラミのようなソーセージ、それと軽く焼いたハムがのっていた。

「さ、なんでも好きなものを召し上がれ」

「いただきます」

 食べ始めたところで、年配のウエイトレスさんがやってきた。

 白鳥の首のように注ぎ口の長いポットを両手に持っている。

「マダーム、カフェ・ウ・カフェオレ?」

「カフェオレ・シルブプレ」

「ウィ」

 右手のポットからコーヒー、左手からミルクを同時にカップに注ぎ始め、一息にポットを高い位置に引き上げる。

 かき混ぜなくてもコーヒーとミルクが空気の泡と一体化してまろやかな味に仕上がる。

 一口飲んだだけで、今日もいいことありそう、なんて気がする。

「ありがとう。おいしいです」

 日本語だけど通じたらしい。

「メルシ・マダム」と、おばさまもうれしそうだ。

 ジャンも同じカフェオレを頼んで、フランス語で和やかに会話を楽しんでいる。

 テラスの手すりに雀くらいの小鳥がとまる。

 鮮やかなオレンジ色のお腹をゆすりながら、首をせわしなく左右に振ってかわいらしい。

 まるで会話に加わってるみたい。

 早朝の森から飛び立ったのもこの小鳥の群だったのかな。

 パンくずを狙ってるのかも。

 ジャンと楽しそうに会話を交わしていたウエイトレスのおばさまが去っていく。

「あの方はクロードさんの奥さんですか?」

「いや、違うよ。レストランで働いているパートの人だよ。ここの近所に住んでるんだ」

「そうなんですか。なんだか品が良くて穏やかで、歳もクロードさんに近いみたいだったから」

「クロードは独身だよ。僕の生まれる前からずっとこの城館で働いてくれているんだ」

「そうなんですか」

「僕の母の家にクロードの父親も仕えていて、クロード自身も母が子供のころから世話をしてくれていたらしいよ。家庭教師もやってたとか聞いたことがある」

「かっこいいおじさまですよね」

「そう?」と、ジャンがちょっといたずらっ子のような笑みを浮かべる。「そんなことを言うと、妬いちゃうよ。クビにしちゃおうかな」

 と、手すりにいた小鳥がひょいとテーブルの上に飛び移ってきたかと思うと、パンくずをくわえて去っていった。

「おっと、鳥には冗談が通じなかったか」と、ジャンが笑う。「まあ、実際、クロードみたいに有能な執事はいないからね。僕も子供の頃は家庭教師をしてもらってたし」

「へえ、そうなんですか」

「僕は父が早く亡くなったって話しただろ」

 玄関ホールの肖像画の人だ。

 あんまり雰囲気が似てないお父さんだったっけ。

「それで、クロードに世話になっていたから、ほとんど父親の代わりみたいな感じだったんだ。今でも頭が上がらないよ」

 そういう話をするときのジャンは穏やかな目をしている。

 青い瞳が柔和な光を放っているようでこっちまでほっこりした気分になる。

 朝食はどれもありふれた料理に見えるけど、普段日本で食べているのとは全然味わいが違う。

 特にサラミソーセージとハムがおいしい。

「フランス語では乾燥させたソーセージはソシソン、ハムはジャンボンって言うよ」

「どちらも見た目ほど脂身がくどくなくて朝食にいいですね。毎日食べても飽きない味」

「僕らみたいだろ」

 ジャンは、『私のこと、飽きてない?』というさっきの会話に絡めたんだろうけど、つい、彼とした行為を思い出してしまう。

 毎日食べるって……私のこと?

 毎日どころか、一日三食とか……求められちゃったらどうしよう……なんてね。

 やだ、何考えてるんだろ。

 はしたないし、度が過ぎる。

 昨日まで何も知らなかったくせに。

「どうしたの?」

「な、なんでもない。なんでもないから」

 思わず顔を手であおぐ。

 ほんと、どうしちゃったんだろう、私。

 おかしな妄想を振り払おうと、私はカフェオレのカップで顔を隠すようにしながら庭園を眺めた。

 昨晩は蝋燭に灯がともるように等間隔に並んでいた樹木の間に、長方形の運河が延びて、お日様の光が宝石をちりばめたように反射して輝いている。

「広いお庭ですね。運河も長くて滑走路みたいですよね」

「フランス革命前にこの城を作らせたクレイユ公爵は一度だけ運河に船を浮かべて遊んだらしいよ。でも、それっきり二度目はなかったんだそうだ」

「もったいないですね」

「貴族の道楽なんて気まぐれだからね」

 運河を二羽の白鳥が泳いでいる。

 お互いを追いかけるように首を伸ばしたり、並んで漂ってみたり、くちばしでちょっかいを出し合ったり、なんだか楽しそうだ。

「もしかしたら、鳥たちの邪魔をしたくなかったのかも」

 私が運河を指さすと、ジャンがうなずく。

「ああ、そういうことか。なるほどね。たしかに鳥たちの恋を邪魔するなんて、フランス貴族らしくないかもね」

 カフェオレを飲み終えたジャンが立ち上がる。

「食後の散歩はどうかな? 運河のまわりを歩くくらいなら鳥たちの邪魔にはならないだろ」

「今日は予定はないの? お仕事は?」

「さっきクロードに連絡を頼んだから、もう少ししたら市長が来ることになってる」

「じゃあ、お仕事しなくちゃ」

「仕事じゃないんだ。どちらにしろ市長が来るまでは暇だよ」

 経営者って忙しいんじゃないの?

 それなのにジャンはお構いなしにテラスから庭園へ下りていく。

 靴を履き替えなくちゃなんて一瞬思ったけど、日本じゃないものね。

 ずっと靴を履いてる生活だと、外も中も関係ないけど、やっぱり慣れないな。

「ほら、おいでよ」

「待って、今行く」

 私もジャンを追いかけて運河のそばへ行ってみた。

 さっきの白鳥は私たちが近づいても逃げるというわけでもなく、静かに向きを変えただけで同じ場所を漂っている。

 頭をくっつけあって仲睦まじそう。

 近くで見てもやっぱり運河の大きさに圧倒されてしまう。

 かすんでしまうほど遙か先までまっすぐに伸びていて、その周囲を樹木が整然と並んで、空の青と若葉のコントラストが鮮やか。

 波一つなくそれを映し出す水面は磨き上げられた鏡のよう。

「絵画みたいね」

「実際、ここの風景を描いた作品がルーブルにあるんだよ」

 ジャンが白鳥を追い越して歩いていく。

「あんまり遠くまで行くと戻るのに時間がかかるんじゃないの?」

「もう少し行ったところに噴水があるんだ。そこまで行こう」

 そう言って背中を向けたジャンの腕に駆け寄って私は腕を絡めた。

 自分からそんなことをするようになるなんて、本当に昨日までは想像もしていなかった。

 でも今はそうしていたいし、そうしていなくちゃいられない気分。

 離れたくないし、離したくない。

「そうだ」

 急にジャンが立ち止まった。

 ――何かあるの?

 腕を絡めたまま向き合う。

 私の顎を彼の親指が押し上げる。

「さっきクロードに邪魔されたままだったね」

 彼の唇が私の口を塞ぐ。

 青空の下でするキスも嫌いじゃない。

 目を閉じているから空の青さは分からないけど。

 でも、なんだか変。

 気がついたら、彼の手が私の背中から下の方へ移動していく。

 裾をまくり上げられそうになって、私は彼の手を押さえた。

「ここじゃだめ」

「どうしても?」

 彼の手がなおも私を求めようとする。

「お願い、止めて」

 なんかやだ。

 はっきりとした嫌悪感におそわれて彼から一歩離れる。

「ごめん」と、彼が間合いを詰めようとするのを私はさらによけた。

 背中が並木の幹に当たる。

 逃げられないと思うと、鳥肌が立って全身が震えだす。

 彼が私との距離を保ったまま両手を広げて肩をすくめた。

「君を傷つけるつもりはなかった。本気だったんだ。本気で君がほしかった。でも、度が過ぎたね。すまない。もう二度と君の同意無しにこういうことはしないと誓うよ」

「フランスではこういうのが当たり前なの?」

「いや、そういうわけじゃないよ。お互いの気持ちや意思を尊重し合うべきなのはフランスも日本も変わらないよね。本当に僕が悪かった。悪かったのは僕だよ」

 ジャンが一歩下がって頭を下げた。

「許してくれ。すまなかった、ユリ」

 と、足下が悪かったのか、頭を上げようとした彼がバランスを崩す。

 すぐ後ろは運河だ。

「アイ! モンデュー!」

 とっさに手を差し伸べたけど、間に合わなかった。

 ジャンの右足が運河に落ちてそのまま尻餅をついてしまった。

 爆弾が落ちたみたいに水しぶきが上がって髪の毛まで泥が跳ねる。

 幸い膝下くらいの深さで溺れることはなかったけど、岸に上がった彼がずぶ濡れの自分を見下ろしてため息をついた。

「こういうのを、日本語で『バチが当たる』って言うんだろ」

「そんなことより、早く戻って着替えましょうよ。風邪ひくといけないから」

「そうするよ」

 彼は素直に肩をすくめてうなずくと、城館に向かって歩き始めた。

 二人並んで歩くのがなんか気まずい。

 生理的に合わない気がしてしまう。

 仲睦まじかった白鳥も騒動に驚いたのかどこかへ飛び去っていた。

「ユリ、本当に許してくれ。君を失いたくないんだ」と、彼がつぶやく。

 謝罪の気持ちは受け入れているけど、嫌悪感が消えない。

 さっきまで、三食食べられちゃったらなんて妄想していた自分が馬鹿みたい。

 好きになったり、嫌になったり、ちょっとしたきっかけであっという間に反対側に振り切れてしまうものなのかな。

 それは逆に言えば、ジャンだって私に飽きるのは何がきっかけになるのか分からないということ?

 拒んだら、それっきりとか?

「ねえ」

「なんだい?」

 私の方から声をかけるとジャンはうれしそうに私に顔を向けた。

「拒んだ私のこと、嫌いになった?」

「なるわけないよ」と、彼が両手を広げる。「悪いのは僕だよ。きみこそ、僕のことが嫌いになったんじゃないのかい?」

「正直、少しがっかりしたかも」

「本当に失礼なことをしたよね。焦りすぎたよ。君のことをもっと深く知りたい気持ちが先走ってしまった」

 そういうことなのかな。

 男の人ってみんなそうなのかな。

 経験がないから全然分からない。

「ジャンは私のどこが好きなの?」

「うーん」と彼が黙り込む。

 運河の並木を小鳥たちがが枝から枝へと飛び交う。

 チチチと陽気な鳴き声があちこちから聞こえてくる。

 なのに私たちはぎこちない空気を抱えたまま歩いている。

 ――ねえ、なんで黙ってるのよ。

「ごめん、一言では言い表せないよ」と、ジャンがアヒルのように口を曲げながら首をかしげる。「一目惚れって説明がつかないよね。でも、決していい加減な気持ちじゃないし、間違っているわけでもない。人にはお互いに一瞬で理解し合える感覚ってあると思うんだ」

「でも、それが最初の印象と変わる可能性もあるでしょ」

「だけど、もっともっと好きになっていくことだってある。より深く知り合うことでお互いを大切に思う。そういう形の愛し方もあるだろ」

「でも、途中で失敗することもある」

「今の僕みたいに?」

「あなたを責めるつもりはないの。ただ、本当にがっかりしてしまっただけ」

 急に涙が浮かんできた。

 体の芯が震えて涙がぽろぽろと頬をこぼれ落ちる。

 ジャンがとっさに私を抱き寄せようとして、ためらいがちに手を引っ込めた。

「そこは迷わず抱きしめてくれなくちゃ」

 あなたがしてくれないのなら、自分で自分を抱きしめるしかないじゃない。

 この涙をどうしてくれるのよ。

 私は自分の体に腕を巻き付けるようにして彼を拒んだ。

「ごめんよ。本当にごめん」

 彼が額に手をやりながら首を振る。

 やだな、自分が……。

 なんてわがままなんだろう、私って。

 彼を拒んでおいて、彼を求める。

 でも、私の嫌なこと、してほしいこと、それを正直にぶつけられるのも、私が彼を愛してるから。

 今までそんな人に出会ってこなかった。

 彼が初めてだった。

 だからこそ、がっかりしてしまったんだし。

 だから……こんなに悲しいんだ。

 ジャンが私の手を取って、それから優しく抱き寄せて頭を撫でてくれる。

 濡れて泥臭いスラックスとワイシャツの水気が私の服ににじんでくる。

 でも、そんなのどうでもいい。

「ねえ、ジャンは私の体が目当てなの?」

「そんなこと言わせてしまってすまない。本当に君に嫌な思いをさせるつもりはなかったんだ」

「私の体なんか、どこがいいの? 処女だったから? 何も知らない私だから、自分の思うように操れる都合のいい女ってこと?」

「違うよ」と、ジャンがため息をつく。「君は素敵だよ、ユリ。僕は君がバージンだったなんて知らなかったし、君を支配しようと思ったこともないよ。実際、君を抱きしめているときの幸せはこの上ない喜びだったよ。それを与えてくれた君には感謝してるさ。お互いの相性は素晴らしく良かったと思うんだ。女性に対してこんなに真剣になったのは僕も本当に初めてだったんだよ。今までこんなに夢中になったことはなかった。だからこそ君をほしかった」

 彼が必死になればなるほど、気持ちが冷めていく。

 抱きしめられればられるほど、心の距離が開いていく。

 私、メンドクサイ女かな。

 相手を責めてばかりいて、結局何がしたいのか分からなくなってる。

 そっか。

 ケンカもしたことないから、おさめ方も分からないんだ。

「ジャン……、あの、私……」

「いいんだ。何も言わなくていいよ。悪いのは僕なんだ。お願いだ。少しの間だけでいい。こうして君を抱きしめさせてくれ」

 と、私を抱きしめるジャンの体が震えていることに気づいた。

「ねえ、寒いんじゃないの?」

 五月とはいえ、濡れた服では風邪をひいてしまう。

 私も水がしみてきてるし。

 心だけじゃなくて体も冷えてきた。

「先に着替えましょうよ」

「そうだね」

 私たちは二人並んでテラスの階段を上った。

「ねえ、ジャン」

「なんだい?」

「私ね、あなたを嫌いになるのが怖かったの。嫌いになりたくなかったの。あなたを責めたかったわけじゃないの」

「ユリ……」

「私、あなたに愛されてるのがうれしいの。だから、あなたの愛情に応えたいとも思うけど、あなたのことを尊敬していたいし、素敵なあなたでいてほしいの」

 右の眉を上げながらジャンが肩をすくめる。

「僕は君の王子様にふさわしいかな」

 私は彼の手をとって引き寄せながら答えた。

「もちろん」

 私の方から彼に口づける。

 彼は驚いたようだったけど、私の髪に指を絡めながら優しく応えてくれた。

 これで……いいのかな。

 仲直りの仕方。

「マダム・ムッシュー」

 キスの最中にまたフランス語で呼ばれた。

 もう聞き慣れた声だ。

 クロードさんが玄関ホールに入る裏のガラス戸を開けて待っている。

「ああ、クロード、着替えを頼むよ」

 ジャンがフランス語で会話を続けていた。

 私は自分の部屋へ先に行って着替えをすることにした。

 泥臭くなった服を脱いで、もう一度軽くシャワーを浴びてメイクも直す。

 トランクに入れてきた服は、飛行機の中で着てたものも含めてカジュアルが三着、それと、いちおうドレスコードに対応できるフォーマルなワンピースだけ。

 残りはカットソーにキュロットしかない。

 荷物を少なくするために旅行中はいつも洗濯して着回してたけど、まさか汚れて服が足りなくなるとは思わなかったな。

 本当は昨日の夜に下着くらいは洗っておくつもりだったけど、『初めて』のイベントでそれどころじゃなかったものね。

 とりあえず着替えたところで、ドアがノックされた。

「エクスキュゼモワ・マダム」

 クロードさんだ。

 フランス語で何か言ってるけど、全然分からない。

「あ、あの……」

 すると、クロードさんは手に持っていたスマホの画面を私に見せた。

『あなたは必要です。洗濯物を渡す』

 翻訳アプリだ。

「あー、そういことですか。便利ですね」

 すると、今度はクロードさんがスマホの画面を見てうなずく。

「シ・マダム」

 私はクロードさんから渡された袋を持って洗面所へ行き、服を詰めて戻った。

「下着は入ってますか?」と、クロードさんがスマホを介してたずねる。

「自分で洗おうと思います」と、私もクロードさんのスマホに向かって答えた。

「遠慮なさらずに、お出しください。業者に出しますので、夜までには戻ります」

 よけい遠慮したくなるけど、実際、下着も替えがなくなるから迷っててもしょうがない。

 すぐに下着も袋に入れて戻ってきたら、クロードさんがまたスマホの画面を私に向けた。

「あなたはジャンとケンカをしましたか」

 すぐに返事ができなかったけど、かえってそれで察してくれたみたい。

「彼を許してください。彼は真剣です。男の本気は愚か者を先走らせる。ただし、恋をしている男はつねに愚か者である」

 思わず笑ってしまった。

 翻訳アプリのぎこちない文章が重たい格言みたい。

「大丈夫ですよ。私もジャンを愛してますから。ただ、仲直りが下手なだけです」

「見つめ合う相手を思うがゆえにすれ違う。また並んで歩こうとすれば、二人の絆は深まる。あなたたちは仲直りできます」

「全部お見通しなんですね」

「恋の二歩先は見通せる。一歩先にはつねに落とし穴が待ち受けているのだが」

「失敗するのがあたりまえってことですか?」

「あなたの恋の主人公はあなたですよ。あなたが決めれば良いのです」

「私にもうまくできますか。私、恋したことないんです。こんな気持ちになったの初めてなんです」

「知らないことは何でもいきなりの出来事に感じる」

 あれ、このセリフ……。

 どこかで聞いたような気がする。

「それが不安の元だと分かっていれば、大丈夫です。恋は誰にでもできる。いつだって恋は自作自演ですから。一人芝居で始まって勝手に幕が下りる」

 いえ、あの、幕が下りたら困るんですけど。

 苦笑した私にクロードさんが肩をすくめてつぶやく。

「セラヴィ」

 ――それが人生。

「なるようにしかなりませんか」

「その通り。つまりあなたはもう恋を知っている」

「ありがとうございます。気分が楽になりました」

「どういたしまして」と、クロードさんが軽く頭を下げて去っていった。

 なるようにしかならないか……。

 恋って怖いな。

 自分がよかれと思っても、相手がそう思っていなかったらすれ違う。

 すれ違いが溝になり、亀裂が二人を引き離す。

 そのとき、私はジャンに手を差し伸べようとするだろうか。

 それよりも、ジャンの方が私の手をつかんでくれるだろうか。

 思わずため息をつく。

 ホント、一人芝居。

 自作自演。

 窓から見える運河には、いつの間に戻ってきたのか、また二羽の白鳥が泳いでいる。

 さっきは邪魔してごめんなさい。

 鳥には素直に謝れるのね、私。

 振り返って天蓋付きのベッドを見ると、きれいに整えられていた。

 私たち、愛し合ったんだよね。

 あんなに乱れた私たちの痕跡はどこにもない。

 朝食の間にメイドさんがやってくれたのかな。

 そういえばここはホテルじゃなくてジャンの自宅なんだった。

 当たり前のようにやってもらえるなんて、やっぱりお金持ちはすごいな。

 ベッドに腰掛けると、レースのカーテンがベールのようにふわりと頭にかぶさる。

 ウエディングドレスみたい。

 ――なあんてね。

 似合わないよね。

 釣り合わないよね。

 お金持ちと庶民じゃ。

 私は外国人だし、文化も違いすぎる。

 またネガティブな思考に押しつぶされそうになる。

 もとから重なるところなんかなかったんじゃない。

 そう思った途端に悲しくなって、私は枕に顔を埋めて泣いた。


   ◇


 ――ユリ……。

 いつの間にかまた眠っていたらしい。

 時差からくる体の倦怠感と精神的な動揺でいくらでも寝ていられそう。

 枕が濡れている。

 目を開けるとベッドにジャンが腰掛けていた。

 昨日出会ったときと同じビジネススーツ姿。

 ネクタイの結び目が素敵。

 私の素敵な王子様。

 なのに彼は私を見ているだけ。

 ――目覚めのキスはしてくれないの?

 王子様なのに。

 私が手を伸ばすと、彼が困惑したように顔を寄せてきて私の額に口づけた。

「そっち?」と、私は唇を突き出した。

「いいの?」

「だってここは私たちが愛し合う場所でしょ」

 私は横になったまま体をずらせて彼をベッドに招き入れた。

「時と場所をわきまえてくれれば拒んだりしないから」

「じゃあ、もう怒ってない?」

「最初から怒ったりしてないわよ。悲しかっただけ」

「じゃあ、仲直りのキスをしよう」

 ジャンの青い瞳が私を見つめている。

 火がついたように体が熱くなる。

『キスをしよう』なんてあらためて言われるだけでものすごく照れくさい。

 それ以上のこともいっぱいしたのに。

 やだ、鼻に汗が浮いてきちゃった。

 思わず枕に顔を埋める。

「どうしたの。仲直り、嫌なの?」と、耳元で彼がささやく。

 嫌なわけがない。

 でも、こんな顔、見られるのはもっと嫌。

「キスは恥ずかしいからギュッてして」

 彼は素直に私を抱きしめてくれた。

「次は何をお望みですか、姫様」

「ずっとこうしていて」

 こうしていれば火照った顔を見られなくて済む。

「僕が我慢できなくなっちゃうよ」

 私の太股に彼の固い何かが当たっている。

「我慢しなくていいのに」

「残念だけど」と、彼が腕をついて体を起こす。「もう市長が来てるんだよ。ユリにも来てほしいんだ」

「市長さん?」

 そんな偉い人がわざわざ家まで来るなんて、やっぱり上流階級の交際って庶民とは違う。

 彼に優しく手を引かれて体を起こす。

 と、不意打ちで唇を奪われた。

 えっ?

 全然予想もしてなかったから口も半開きだったかも。

「もう、恥ずかしいってば」

 思いっきり猫パンチで撃退してやる。

 受け止める彼は澄まし顔。

「言っただろ。我慢できないって。かわいいからいけないんだよ、ユリが」

 んん……、もう。

 ああ言えばこう言う。

「すねた顔もかわいいよ」

「じゃあ、もう、見せない」と、私は背を向けた。

「じゃあ、そのままさらっていくしかないか」と、私の肩に手を回して後ろ向きに引きずっていこうとする。

「ちょっと、危ないじゃない」

「わがままなお姫様だ」

 彼はそうため息をつきながら私の膝裏に手を入れて軽々と抱き上げた。

「これでいいですか? 姫様。行きますよ」

 私が返事をする前にもう彼は部屋を出ていた。

 首に手を回してしがみつく。

 私だけのゆりかご。

 なんて浮かれていたら、あっという間に階段から廊下を通って、城館の一室に連れてこられた。

 応接間のような調度品が並ぶ小部屋だ。

「アー、ボンジュー・マダム。コマタレヴ」

 ソファに腰掛けていた赤ら顔で丸い頭のおじさんが私たちを見て立ち上がる。

 お腹が出ていて、それを支えるために背中を反らせているからかナポレオンみたいに見えるけど、市長さんと聞いてなかったらどこかの酔っ払いと間違えちゃいそう。

 恥ずかしいところを見られちゃったっていうか、ジャンも抱っこしたまま部屋の中まで入ることないじゃない。

 ジャンのお姫様抱っこから飛び降りて私も挨拶した。

「あ、ええと……。ボンジュー・ムシュー。ジュマペール・シラサワユリ。オンションテ」

 私がカタカナ読みのフランス語で自己紹介したせいか、おじさんもフランス語で話し始めた。

 ジャンがいちいち通訳してくれそうだったけど、私はクロードさんのようにスマホの翻訳アプリを起動させた。

「私は市長のポール・デュトワです。日本のお客様は大歓迎です。このあたりは日本人観光客は少ないので交流を深めたいです」

 市長さんと握手を交わす。

 大きくて柔らかいけど、汗ばんだ手だった。

 テーブルをはさんで向かい側に市長さんが座り、私たちは並んでこちら側に腰掛ける。

 木製のローテーブルは猫足のアンティークで、磨き上げられた表面がまるで琥珀みたい。

 カメリア柄の刺繍が全面に施された布張りソファは座るのがもったいないくらいの華やかさ。

 私だけ一人場違いな感じがして落ち着かない。

「では、さっそく手続きに入りましょうか」

 市長さんがテーブルの上に書類を三枚取り出す。

 フランス語だから何が書いてあるのかさっぱり分からないけど、三枚とも同じ文面みたい。

「では、こちらにご署名を」

 市長さんが一枚目を私に差し出す。

 ジャンがスーツの内ポケットから万年筆を取り出して私に貸してくれた。

 これは何の書類なの?

 私が戸惑っていると、市長さんが澄まし顔で言った。

「漢字で結構ですよ」

 署名の仕方じゃなくて内容なんだけど。

 とりあえず、私は漢字で『白沢百合』と書いた。

 市長さんが二枚目を私に差し出し、一枚目の私の署名の横に自身の署名も書き入れている。

「漢字は素晴らしいですな。いつ見ても美しい。あなたのお名前も聖母マリアの純潔の象徴ですな」

 スマホの画面に表示されるフランス男性のお世辞にのせられながら、私は二枚目にも同じ場所に署名した。

 三枚目も同様に書き終えてジャンに万年筆を返す。

「ねえ、この書類は何?」

 彼は何でもないことのように言った。

「結婚の宣誓書だよ」

 はあ?

 え?

 ケ、ケッコン!?

「ちょ、え、どういうこと?」

「結婚するんだよ、僕らは」

 ちょっと待って!

「私、聞いてないんですけど」

「お、痴話げんかですか。結婚は人類が生み出した戦争よりもむごい悲劇である」

 つぶやきながら市長さんが三枚目の書類に署名を終えてジャンに三枚そろえて紙を渡した。

 ジャンが万年筆のキャップをはずす。

 私は手でそれを制した。

「ねえ、ちょっと待って」

「結婚は愛の出口、不幸の入口」

 スマホに市長さんの格言が次々と表示される。

 今はそういうのどうでもいいですから。

「こんなのおかしいでしょ」

「どうして?」と、ジャンが私に微笑みを向けながら一枚目にサインする。「愛し合ってるし、永遠を誓い合っただろ、僕らは。それを証明するんだ。君に僕の誠意を見せるよ」

 でも、結婚なんて、私……。

「しょ、書類はどうするのよ。戸籍とか、何も取り寄せてませんけど」

 スマホの画面をチラリと見た市長さんが額に手をやって天を仰ぐ。

「アー、ドキュマン! そんなもの、どうにでもなります。それは弁護士の仕事です。後からでもかまいませんよ。市長である私の署名に勝るものはありません。愛し合うお二人の署名、そして、古来よりの伝統にのっとった証人として、私の署名。これ以上何がいりますか」

 いや、いるでしょ。

 身分証明書とかいろいろ。

 日本から取り寄せなきゃならない書類もあるんじゃないの?

 法律のことは全然分からないけど。

 ていうか、私本人の承諾がないんですけど。

 それ一番大事でしょ。

 市長さんが肩をすくめながら首を振る。

「でも、ユリさん、あなたはもうご署名なさったではありませんか。法的にも一番重要な意思表示ですよ」

 いえ、あの、婚姻届だなんて知らなかったからなんですけど。

 なのに私の抗議なんか無視して市長さんはジャンと話をしている。

「デジタル時代でも署名が一番物を言う。お役所仕事とは滑稽なものですよ。愛もまたしかり。どちらも人がなすものであるが故に」

「ヴォルテール?」と、ジャンが流れるような筆跡で三枚目にサインを終えた。

「飲み屋の酔っ払いですよ」

 そう笑いながら市長さんが私たちに一枚ずつ書類を分けてくれた。

「では、これにて婚姻は成立。控えをお手元に保管をお願いしますよ。破くことのないように。では、お幸せに!」

 市長さんが立ち上がりながら私に手を差し出す。

 私たちも席を立って握手を交わしたけど、納得いかない。

 さっき、『不幸の入口』って言ったくせに。

「昨日出会ったばかりなのにこんなのおかしいでしょう」

 私がジャンに詰め寄ると、その横で市長さんがお腹を揺らしながら部屋を出て行く。

「女は愛を日付で数える。男は深さではかる。賢い夫婦はそのどちらも気にしない」

 意味分からないんですけど。

「結婚に意味などない。あるのは後悔だけ」

 もう!

 頭に血が上ったまま取り残されて、感情の持って行き場がなくなる。

 思わず市長さんの背中に向かって舌出しちゃった。

「ユリ」

 振り向くと、笑みを浮かべながらジャンが両手を広げている。

 なによ、飛び込んでこいって言うの?

 心配しないで僕に飛び込んでおいでよって?

 できるわけないでしょ。

 こんな書類、ただの紙切れよ!

 破いてやる!

 ビリビリのバラバラにしてゴミ箱にポイするんだから。

 と、ジャンの方から私の手を取って抱き寄せる。

 私は倒れかかるように彼の胸に飛び込んでいた。

「これが僕らの愛の形なのさ」

 納得なんかしてない。

「こんなのおかしい。ありえないでしょ」

「そのありえない奇跡を僕らが起こしたんだ」

 いや、あの、あなたが勝手にやったことでしょ。

「嫌かい?」

 ジャンが私の顎に手をかける。

「出会って二日で結婚。五秒で離婚。それが僕らの愛の形?」

 私は目を泳がせて彼の青い瞳から逃げるのが精一杯だった。

「では、あらためて誓いのキスを」

「神父さんは? 誰もいないじゃない」

「恋はいつだって自作自演さ」

 あれ、そのセリフ……。

 口を開きかけた私の唇をジャンが塞ぎ、隙間に舌が入ってくる。

 ずるいな。

 おぼれちゃう。

 やっぱり私、あなたが好き。

 それが答えのすべて。

 チョロい妻ですけど、愛してくれますか?

 結婚を誓い合った二人きりの部屋でどれだけ愛を絡め合っていたか分からない。

 息が苦しくなってお互いに離れる。

 思わず笑みがこぼれる。

「僕の妻になってくれるね」

「はい」

 人生何が起こるか分からない。

 三十年生きてきたけど、今日がこんな日になるなんて、思ってもみなかった。

 明日もまた幸せな今日の続き。

 私はそれを信じて疑わなかった。

 ――疑いたくはなかった。

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