第2章 アラサーで初恋ですけど
背中に手を回されたままジャンに城館へ招き入れられる。
吹き抜けの広い玄関ホールの床は磨き上げられた大理石で、二階へ続く優美なカーブを描く階段の手摺りには、アールヌーボー風の流麗な蔓草文様がデザインされている。
板張りの壁には燭台型の照明器具がいくつもならんでいて、天井からつり下がっているのはクリスタルが幾重にも重なるシャンデリア。
正面の壁には昔の貴族の肖像画が飾られ、その周囲を飾る浮き彫りは一つ一つが金で縁取られている。
そのうち、男女の肖像画が二枚、現代風で新しい。
男の人は髪の薄い丸い頭で体のラインもどんぐりのように丸みを帯びている。
失礼だけどコメディアンみたいに見える。
女性の方はずいぶん若くて細身の体に顔のパーツもくっきりと女優さんのように描かれている。
「あれは僕の両親だよ」
ずいぶん釣り合いの取れない夫婦だ。
それが正直な感想だった。
あらためて肖像画を見ると、ジャンはあまり父親には似ていないような気がする。
「そうなんですか。こちらに住んでいらっしゃるんですか」
「父は僕が幼い頃に亡くなっていてね。母はパリ市内に住んでいるんだ」
ジャンは昔のことだからか父親のことはあまり気にしていないようで、母親の話をしてくれた。
「こういった古いお城は住んでみると不便なことも多くてね。母はあまり好きじゃないんだ。設備が古くて冬は寒いのに、文化財保護で改修には制限がある。おまけにまわりは田舎だから、買い物や娯楽もパリにはかなわないし、腕のいい医者もいないからね」
「そういうものなんですかね。私みたいな観光客は豪華さと歴史の重みに憧れますけどね」
「まあ、ユリは自分の家だと思ってくつろいでくれるとうれしいよ」
「ありがとうございます」
ジャンが向かい合って私の右手を取ると、両手で挟んだ。
「ユリ、敬語はやめようよ。僕らは恋人同士なんだから」
「あー、すみません」
ほんと、すみません。
恋人役の演技が下手で。
ジャンがさびしそうに首を振る。
「だから、そんなに丁寧でなくていいんだよ」
「まだ慣れなくて。こういう状況に」
うじうじと戸惑っている私に、次の瞬間、信じられないことが起きた。
「君はお姫様なんだから」
私はジャンに抱き上げられていた。
そして、優雅なカーブを描く階段を、まるでゆりかごに乗せられているみたいに軽々と上がっていく。
足下が大丈夫なのかなんてそんなことを気にしてしまう自分が情けないけど、ジャンはつねに微笑みを絶やさず、あっという間に私たちは二階から玄関ホールを見下ろしていた。
「お、重くないですか」
「お姫様はそんなことを気にしちゃいけないよ」と、私を抱きかかえたままバレエのように華麗なターンを決めてみせるけど、遠心力に飛ばされそうで思わず首に抱きついてしまう。
もう、遊園地のアトラクションじゃないんだから。
と、いきなり彼が私の唇をふさいだ。
それは突然の出来事で、私は何が起きたのか分からなかった。
彼の唇が私の唇に重なり、舌先が固く閉じた隙間をこじ開けようとしている。
それは未知の体験だった。
どうしたらいいのか分からず、私は目も唇もかたく閉じるしかなかった。
私の唇を優しく愛してくれた彼の唇と舌の動きが止まる。
「ユリ」
彼の声が聞こえて、目を開ける。
私の反応に戸惑っているのか、目の隅にしわを寄せながら彼が見つめている。
「嫌だった?」
彼が申し訳なさそうに私を下ろした。
足が少しふらついて彼の腕にもたれながら私は首を振った。
「ごめんなさい。くすぐったくて。びっくりしちゃって」
「驚かせてごめん」
ジャンは私を抱き寄せて背中を撫でながらわびる。
「いえ、そういうわけじゃなくて」
私は彼の胸に抱かれたまま正直に打ち明けた。
「こういうこと、初めてなんです」
「僕もだよ」
えっ?
「ジャン……、あなたが?」
――まさか。
「君のような素敵な女性に出会ったのは僕も初めてさ」
――ああ。
「そうじゃなくて。そういう意味じゃなくて」
違うの。
全然違うの。
私は分かってもらえないことに絶望していた。
二階の通路はガラス戸がならんでいて、テラスに出られるようになっているらしい。
その暗いガラス戸に私たち二人の姿が映っている。
抱き合う二人の姿は間違いなく恋人同士なのに、でもそれはかりそめの影。
彼が私の髪を撫でながらつぶやく。
「やっぱり僕のことが嫌い? 不愉快だった?」
「いいえ。ただ、なんだか信じられなくて」
「僕の気持ちが?」
「いえ、現実が。旅先だし、外国で知り合った人とこんなことになるなんて思ってなかったから」
ジャンが私の頭に頬を乗せてささやく。
「少しずつ慣れていけばいい。少しずつ僕を知っていってほしい」と、腕を伸ばしてしっかりと私と向き直って、彼がまた私を見つめた。「知らないことはなんでもいきなりの出来事に感じるだろうけど、僕を信じてほしい。それじゃダメかな?」
私はすぐに返事ができなかった。
もちろんそれでいいのに、素直にうなずくことができない。
なんだかそれが申し訳ないけど、でも、頭の片隅にこれは夢なんだと浮かんできて、かえって悲しくなってしまう。
こんなこと、慣れてるんだもんね。
彼にとってはいくつも重ねてきた唇の一つ。
私、馬鹿みたい。
ただ遊ばれているだけ。
恋人ごっこのお姫様。
初めてのキスがこんなに悲しいなんて。
頬が引きつって涙がこぼれそうになる。
泣いちゃだめだ。
私は涙をこぼさないように無理に頬の筋肉を引き上げて、彼に笑顔を向けた。
「何も知らなくてごめんなさい」
ジャンがまた私を抱きしめる。
「あやまらないでくれ。ユリは何も悪くないよ」
と、そこでガラス戸が静かに開いて、外からクロードさんが現れた。
「お食事のご用意が整いました」
「ああ、今行くよ」と答えて、ジャンが私をテラスへいざなう。「ユリ、こちらへ来て。いいものを見せるよ」
ガラス戸から外へ出ると夕方とは違うひんやりとした空気に包まれて軽く身震いしてしまった。
ジャンが私の肩を抱きながらクロードさんの後ろをついていく。
外はテニスコートくらいのテラスで、その正面に階段がある。
そこを下ると、さらに半円形のテラスがあって、そこにはテーブルと二人分の椅子が用意されていた。
「わあ、すごい」
私は思わず声を上げていた。
テラスから見える庭園は暗いけど、樹木に取り付けられた照明器具に明かりが灯っていて、それがまるで巨大なケーキに立てた蝋燭のように闇に浮かんで並んでいる。
クロードさんが椅子を引いてくれて席に着くと、テーブルの上に置かれたランタンにも灯がともされた。
二人だけの空間がスノードームのように闇から切り取られる。
テーブルのそばには温風ヒーターも用意されている。
夢の世界へいざなうように揺れる炎をはさんで、私はジャンと向かい合っていた。
クロードさんに代わって別の男性がやってきた。
どうやらソムリエさんらしい。
「アペリティフはどうしようか。さっきは少し酔っていたみたいだけど、大丈夫かな?」
「軽いものなら」
本当は酔ってしまいたいけど。
夢に溺れていたいけど。
「梅酒ソーダはどうかな」
「フランスでも梅酒を作ってるんですか?」
「日本のものだよ。梅酒は最高の食前酒だからレストランのお客さんにも好評なんだ」
ジャンがフランス語で頼むと、テラスの隅に用意されたカウンターですぐに梅酒ソーダカクテルが用意された。
お酒と一緒にオードブルが置かれる。
クラッカーよりも小さなトーストしたパンに具材がのっている。
ホタテとハーブのマリネ、プチトマトにサーモン、アボカドにエビの組み合わせだ。
「ユリ、乾杯の前に向こうを見て」と、ジャンが庭園を指す。「明かりが見えるだろ」
「ええ、なんだかデコレーションケーキみたい」
「あれを吹き消してみて」
吹き消す?
……って言われても。
「誕生日みたいに蝋燭を吹き消すんだよ」
なんだかよく分からないけど、私は深く息を吸い込んでふうっと蝋燭に見立てた樹木に向かって息を吹きかけるフリをした。
と、その瞬間、明かりが消える。
暗く沈んだ庭園が静まりかえったかと思うと、奥の方で火の玉が空へ向かって上昇しはじめた。
それが扇形に広がっていって、天空で一斉に花開く。
西洋式のクラッカーみたいな花火だ。
色とりどりの火花がいくつもの星座を描くように夜空に散りばめられていく。
そのどれもがはかない夢を描いて消えていく。
少し遅れて弾けるような火薬音がテラスにこだました。
それにしても、お金もかかってるんだろうな。
お城にご招待してもらった上に、こんなことまでしてもらって申し訳ない。
魅了されつつ、どうしても庶民の感覚からは抜け出せない。
花火の光と音が静まったところでジャンのささやきが聞こえてきた。
「今日は二人の記念日だ」
触れ合わせるグラスの音がキャンドルの明かりに紛れて揺れる。
「人生最高の日が今日だったなんて昨日までは知らなかったよ」
それは私もだ。
「ええ、本当に」
でも、それがただの夢だということも分かっている。
恋人のふりも、お姫様みたいな扱いも、どちらも本当の私ではない。
甘いお酒に口をつけても、気持ちをざらつかせる苦みが消え去ることはなかった。
手をつけないのも失礼なので、丁寧に盛り付けられたオードブルをいただく。
爽やかなハーブの香りがとろりとしたホタテの甘みを引き立ててお酒にも良く合う。
すごくあからさまな色気を感じさせる味覚だ。
ありそうでシンプルな食材のマリアージュなのにこんなの食べたことがない。
「おいしいです」
「それはなにより」と、ジャンも同じ物を口に運んでいる。
私は遠慮なく目の前のおいしさに向き合うことにした。
この味は夢なんかじゃない。
人の気持ちは戯れであっても、食事のおいしさは裏切らない。
残りの二つもペロリと平らげてしまって、ちょっとはしたなかったかと反省してしまう。
「日本でも食べ慣れている食材なのに、やっぱり違いますね。特にホタテがこんなにおいしいと思ったのは初めてです」
私の感想にジャンも満足そうに笑みを浮かべる。
「この後のお酒はどうしようか?」
「あの、お水ではいけませんか」
そんなに酔ってしまったわけではないけど、ブレーキもかけておきたい。
「もちろん、かまわないよ。炭酸入り?」
「いえ、炭酸なしのお水で」
「炭酸は苦手だった? 梅酒もソーダ割りじゃない方が良かったかな」
「いえ、おいしかったですよ。でも、水は炭酸なしの方が慣れてるので」
本当は、ゲップしたら恥ずかしいからなんだけど。
ジャンは日本人にも合いそうな軟水を選んでくれた。
次に出されたのはアスパラガスのポタージュだった。
真ん中がくぼんだ大きなお皿にグリーンアスパラの池、そこにホワイトアスパラのポタージュで向かい合った白鳥が描かれている。
二羽の白鳥はハートをくちばしでつつき合っている。
ジャンは平気な顔でスプーンを差し入れて飲んでいる。
手をつけない私にジャンがささやく。
「どうしたの? 猫舌? そんなに熱くないよ」
「崩すのがもったいなくて」
「大丈夫」と、ジャンが微笑む。「白鳥がいなくなっても、僕らの愛はここにあるだろ」
だから……。
そういうことを言わないでほしい。
どうせ演技なんだもの。
お芝居のセリフだから、そんなこと気軽に言えるんじゃないの?
ただの恋人ごっこなんでしょ。
さびしさを振り払うために私は思いきってスプーンを差し入れて、グリーンアスパラの池の真ん中に浮かぶハートをすくい上げた。
「甘い」
アスパラガスの味はもちろんだけど、採れたてのコーンのように甘みもある。
それは野菜から出る自然な甘みが凝縮されたものだった。
予想もしなかった味わいに、思わず率直な感想を言ってしまった。
「僕らの愛のこと?」
いえ、違いますけど。
思い切りツッコんでしまって恥ずかしい。
ちょっとむせってしまったけど、声に出さなかったからセーフ。
次の料理はロブスターのアメリケーヌソースがけ。
日本でもありそうだけど、でも、ちょっとお皿が華やかだ。
真ん中の料理を取り囲むように、お皿の縁に色とりどりのソースで模様が描かれている。
給仕の女性がフランス語で説明するのをジャンが訳してくれた。
「縁のソースを混ぜて食べると少しずつ違う味を楽しめるそうだよ」
味変というやつか。
スプーンですくって食べられるようにゆでたロブスターの身を一口サイズに切ってある。
まずはシンプルなアメリケーヌソースで一切れ味わう。
想像通りの濃厚な魚介の香り。
これはこれでもちろんおいしい。
次はスプーンに赤いソースをすくって一緒に味わってみる。
あ、辛みが加わった。
黄色いソースはナッツとゴマかな?
とてもクリーミーな香りだ。
緑のソースはバジルとセロリのパンチのある味わい。
白いソースはなんだろう?
メレンゲっぽいけど……、あ、甘い。
お菓子みたいに甘い。
でも、不思議。
ちゃんとした料理になってる。
続いて出された肉料理はローストビーフで、付け合わせは野菜のシチュー、それに薄く切ってカリッと焼いたバゲットが添えられていた。
柔らかなシチューとバゲットの食感の対比が心地よいリズムを奏でてシンプルな味わいのローストビーフを引き立てる。
こんなにおいしいフルコースを味わっているのに私の心の半分は冷えていく一方だった。
本気になってもいいの?
あなたにとっては遊びなの?
本当は信じたい。
疑いたくなんかない。
でも、知り合ったばかりで、どうしてそんなに確信が持てるの?
どうしてあなたは自信に満ちあふれているの?
どうして私だって分かるの?
ふと、ため息が漏れる。
「どうしたの? 口に合わなかった?」
「ううん。とてもおいしかった」
チーズが運ばれてくる間、私は気になったことをたずねてみた。
「いつもこういったお食事なんですか。レストランみたいで、ご自宅だということを忘れてしまいそうです」
すると、ジャンが朗らかに笑い始めた。
「だってレストランだからね」
えっ?
「このお城の半分はレストランとして営業しているんだよ。このテラスはプライベートの領域だけどね」
「だから、こんなにスタッフさんもいるんですね」
「そういうこと。これだけの施設を個人だけで維持したり、設備を無駄に遊ばせておくわけにはいかないよ。ふだんはいたって普通のものを食べてるよ。冷凍食品だって食べるし。最近はよくできてるからね」
「え、そうなんですか。毎日こんなお食事をしているのかと」
「今夜は特別な夜だから」と、片目を軽くつむる。
もう、またすぐそういう話に持っていこうとする。
と、そこへチーズが運ばれてきた。
トレイにのった何種類からか選ぶようだけど、私は全然詳しくないから分からない。
「じゃあ、おまかせでいいかな」
「はい、お願いします」
「日本人はあまり匂いのきついのは苦手だけど、どうだろう」
「せっかくなので、ふだんあまり食べない物を試してみてもいいかも」
ジャンはうれしそうに給仕の男性にオーダーしている。
盛りつけられたのは三種類。
カマンベールに蜂蜜、ロックフォールにキャラメリゼしたリンゴとカシューナッツ、クリームチーズにラム酒漬けのドライいちじく。
「このクリームチーズはなんていう種類ですか?」
「日本のスーパーでも売ってるんじゃないかな」
言われた銘柄は確かによく見かけるし、子供が食べそうな一般的ブランドだった。
でも、ドライフルーツと一緒だと、おしゃれに見えるから不思議。
カマンベールは日本で食べるのとはひと味違っていた。
ロックフォールは食べたことがなかったけど、塩気とリンゴの甘みと、ナッツの食感がリズミカルでおもしろかった。
「チーズをこんな風に食べたのは初めてですけど、楽しいですね」
「食べているときのユリの表情を見てるとこっちもうれしくなるよ」
やだ、食いしん坊だったかな。
そして、いよいよデザートが登場。
意外にも、シンプルなチョコレートムースだった。
お皿にはラズベリーソースが添えられているけど、それだけだ。
でも、一口食べたら思わず手で口元を押さえてしまった。
「ものすごく濃厚ですね。舌触りは滑らかなのに。ちょっと油断しました」
「もっと驚くことがあるかも」
え?
「ほら、デザートの中にプレゼントとか」
「あるんですか?」
「ごめん。ないよ」
はあ、なんなの、この話。
「いや、ごめん。サプライズって、失敗しやすいだろ。気づかずに食べちゃったら大問題だし」
「もしかして、実体験……とか?」
「い、いや、ち、違うよ」と、耳が赤く染まる。「やろうとして、クロードに止められた」
おじさま、グッジョブ。
「『誠意ある男性はそのような演出などなさいません』って、怒られたよ」
うん、ますますおじさま素敵。
そして、コーヒーが運ばれてきて食事が終わった。
◇
私たちはテラスの縁で夜空を見上げた。
いくらか星は見えるけど、お屋敷の照明もあるから、それほどすごい星空というわけでもなかった。
「ごちそうさまでした。とてもおいしかったです」
「本来なら、予約していたホテルで楽しんでもらいたかったけれどもね」
「でも、ここも豪華じゃないですか」
「そう言ってもらえるとうれしいよ」
手すりに置いた私の手に彼の手が重なる。
「どう? 少しは僕のことを理解してくれたかな」
「ごめなさい」と、私はうつむいてしまった。「やっぱり自信がなくて」
「それは、どういうこと?」
「今こうしていることが信じられなくて」
「現実だよ。僕は君を愛している」
「それはうれしいんですけど」
「じゃあ、どうして?」
「信じられないのは私の方。自分自身のこと」
ジャンがうなずきながらため息をつく。
「愛される自信がないんです。愛されたことがないから。愛したこともないから」
「だけど、今までのことなんか今とは関係ないよ。僕たちの前にはこれからしかないんだから」
それはそうだけど……。
「住む世界も違いすぎるし。私は日本で普通の暮らしをしている会社員ですから」
「僕だって朝はクロワッサンにコーヒーだけだよ」
彼の一生懸命さが伝わってくる。
自分を理解してもらいたいという気持ちがよく分かる。
だけど、彼が前のめりになればなるほど、私はどんどん殻に引きこもりそうになる。
目に涙がにじんできた。
泣いちゃだめ。
こらえて、私の涙。
でも、手遅れだった。
頬を涙が伝っていく。
私は子供みたいに手の甲で涙をおさえた。
「ユリ、どうしたんだい?」
彼が私を抱き寄せる。
優しくしないで。
お願いだから。
「私、日本に帰らなくちゃならないんですよ。そうしたら、この恋人ごっこだって終わりでしょう」
本当はこんなこと言いたくなんかない。
ジャンが私の頭に手をやって髪に指を絡めてかき撫でる。
「恋人ごっこじゃないよ。僕は真剣だよ」
「夢を見て、もてあそばれて捨てられて、あなたを嫌いになりたくないの」
「待ってくれ、ユリ」
私の言葉をさえぎったきり、ジャンも黙り込んでしまった。
彼も言葉を探しあぐねている。
答えなんかどこにもない。
見つかるはずもない。
もう答えは出ているんだもの。
抱き合ったままの私たちを夜の空気が包む。
と、天空から星が降ってくるようにヴァイオリンの演奏が聞こえてきた。
聞いたことのある曲だ。
たしか元はチェロの演奏曲だったような……。
「サン=サーンスの『白鳥』だよ」
ジャンが城館を見上げる。
私たちがテラスに出てきた本館の屋根裏部屋の窓が開いている。
そこにいるのはクロードさんだった。
あまり音楽には詳しくないけど、細やかな情感まで表現された完璧なソロ演奏だ。
もの悲しくも心穏やかな曲に私たちは聴き入っていた。
言葉なんかじゃない。
信じられる証は言葉なんかじゃない。
だとしても、じゃあ何なのかと言われたら、分からない。
「ユリ」
白鳥が頬を寄せ合うように、くちばしを絡め合うように、ジャンが私を求めていた。
目を閉じる。
重ね合わされた唇を彼の舌がくすぐる。
私もそれに合わせる。
お互いに刺激を与え合い、受け取り合う。
くすぐったさに似た刺激が次第に安らぎへと変わっていく。
これが……本当の……キス……なの?
これが……答えなの?
分からない。
でも、それが答えかどうかなんてどうでもいい。
私はジャンの背中に回した手に力を込めた。
離したくない。
離れたくない。
こんな気持ちになったのは初めてだった。
一人でいいと思っていた。
ずっとそう思ってきた。
だけど、彼に私を知ってほしい。
私も彼を知りたい。
こんな気持ちは初めて。
私は彼を愛してしまったんだ。
彼なら、ジャンだったら……。
何の心配もいらないのかも。
いつのまにか、ヴァイオリンの演奏が終わっていた。
私たちのキスも終わる。
見上げるとクロードさんの姿はなかった。
「ユリ。愛してるよ」
「私も」と、私はジャンの胸に顔を押しつけた。「本気になってもいいの?」
彼が私の頭を優しく撫でる。
「本気だよ。君に出会ったその瞬間からね」
私たちを冷やかすように夜風が吹き抜けていく。
「冷えてきたね。中に入ろう」
と、彼が私に右手の小指を差し出してきた。
え?
これって……。
ジャンが片目をつむって笑みを浮かべている。
私もそれに小指を絡めた。
「僕らの誓いの証だよ」
こんなことまで知ってるんだ。
「日本の漫画で読んだんだ。いつかやってみたいと思ってたよ」
思わず笑ってしまう。
――指切りげんまん嘘ついたら針千本飲ーます――。
指を絡め合ったまま彼と二人で石段を登る。
上段のテラスから屋敷の中へ入ろうとしたとき、ジャンが私にささやいた。
「さあ、僕らの永遠を積み重ねよう」
私は彼の目を見つめて答えた。
「出会ったときから、もう始まってるんでしょう?」
「そのとおりさ」
彼は私を軽々と抱き上げ、玄関ホールの吹き抜けの壁に沿った階段を駆け上がっていく。
「そんなに焦らないで」
「がまんできないよ。早く君を知りたい。もっと知りたいんだ。君のすべてをね」
――私のすべて――。
ジャン、私、あなたが初めてなの。
そして、それが最初で最後。
私のすべてを知ったとき、私たちの永遠はそれで終わる。
さよなら、初めて好きになった人。
私たちに永遠なんてない。
あるはずがないんだから。
◇
連れていかれたのは城館の隅に突き出した円筒形の建物だった。
廊下の一番奥にあたる場所に、花模様の浮き彫りが金色に縁取られた木製の扉があって、私を抱きかかえたままもどかしげにジャンが取っ手を引く。
下ろしてくれてもいいのに。
せっかちな王子様。
入ってすぐそばの壁を肘で探ってジャンが明かりをつけた。
彼の腕の中で天井を見上げる姿勢だった私は、まぶしさに思わず一瞬目を閉じてしまった。
「ここが僕らの愛の巣だよ」
明かりに慣れてきて目に入った光景に私は思わず息をのんだ。
大粒のクリスタルがきらめくシャンデリアに照らし出された部屋の中は、まさに貴族の生活をそのまま切り取ってきたような雰囲気だった。
まずは部屋の中央に置かれた天蓋付きのダブルベッドに目を奪われる。
軽やかなレースのカーテンに包まれた秘密の空間には大きな枕が二つ並べられている。
部屋の壁には大小様々な絵画が飾られている。
豊満な肉体の女性が森の中で横たわっている絵は、流れるようなタッチが特徴的で似たような作品をオルセーで見たことがあるような気がした。
もしかして、ルノワール?
「これは全部本物?」
私がたずねると、ジャンはなんでもないことのようにうなずいた。
「もちろん。昔からここにあったものだよ」
いったいいくらくらいするんだろう。
他のもなんだか美術の教科書で見たことのあるような絵ばかりだ。
セザンヌ、モネといった印象派だけでなく、少女の顔の部分だけを描いたアングルの習作に、ドガのパステルもある。
そんな美術品が無造作に飾られた部屋を日常生活の場にしているなんて、やっぱり私とは住む世界が違うんだな。
落胆を悟られないように私は努めて笑顔を絶やさないようにしていた。
彼が私をベッドへ連れていく。
そっと横たえると、上着を脱ぎ捨て、シャツのボタンを引きちぎる勢いでシャツの前をはだける。
ミケランジェロの彫刻に命が宿ったような肉体が私を見下ろしていた。
彼の前ではこの部屋のどんな美術品も霞んでしまう。
俊敏な獣のように精悍で獰猛。
私をベッドに押さえつける彼の視線が熱い。
なのにその瞳は冷たい湖。
「僕だけを見て」
言われなくても目が離せない。
もう彼しか見えない。
「君しか見えない」
彼の声しか聞こえない。
「君だけしか見えないよ」
その瞬間、彼の腕に力がこもり、私はきつく抱きしめられていた。
溺れそうなほどの口づけが浴びせられる。
どうしてこうなったのか分からない。
――嘘。
本当は全部分かっている。
自分でも意外なほど冷静だもの。
なすがままに身を委ねているのに心にはさざ波しか立たない。
――幸せなのに。
ただそれを受け入れるのがこわいだけ。
ずっと諦めてきた。
今まで知らなかっただけ。
こんな幸せを……。
知らなかっただけ。
頬が触れ合う。
「ああ、ユリ……」
彼の吐息が私の耳をくすぐる。
「君のすべてが知りたい」
彼のささやきは私の心を解きほぐす鍵。
ブラウスのボタンはいつの間にか外されていた。
私の肌を撫でる彼の繊細な指先が未知のリズムを奏でている。
冷めていた私の心の中で、小さかった波が重なり合い、大きなうねりとなり、私を飲み込んでいく。
触れあう肌が熱を帯びていき、経験したことのない刺激に身もだえするたびに私は彼の名を呼ぼうとした。
……ジャン……。
でも、声にならない。
私はもう彼の思うままに踊らされる操り人形。
このままでいたい。
ずっとこうしていたい。
彼の腕の中にいたい。
離さないで。
抱きしめていて。
こんな私だけど、このまま時が止まればいいのに……。
「君のすべてを見せて」
背中に回った彼の指先がいとも簡単に留め具を外した。
私の秘密が暴かれる。
見られてはいけない秘密。
今まで隠していた本当の私。
左胸が露わになった。
彼の手が止まる。
……ああ……。
これで終わりだ。
熱く火照っていた体の芯が急激に冷えていく。
ここまでだ。
私はそっと目を閉じた。
……なのに……。
なんで涙があふれるの。
なんで涙がこぼれるの。
……だから……。
恋なんてしない。
ずっとそう思ってきたはずなのに。
◇
私の左胸には皮膚がない。
先天性の皮膚欠損症で、赤黒く変質した筋肉が露出している。
その変質した部分が皮膚の代わりになっているので痛みや違和感はない。
ちょうどブラジャーで隠れてしまう部分だから、親以外の誰にも見られたことはないし、ふだんは自分でも忘れてしまっているくらい。
小さい頃に皮膚の移植手術を検討したこともあったけど、私の場合は技術的に難しい症例だったみたい。
もうあまり覚えていないけど、遠くの大学病院まで通うたびに申し訳なさそうにしていた親の顔だけは忘れられない。
誰の責任でもないし、私自身は気にしていなかったし、この左胸のせいで親を悲しませたくなかった。
学校の勉強を頑張っていたのも、内にこもりがちな性格でいじめられないためだけでなく、親の自慢の娘になりたいという気持ちがあったからなのかもしれない。
成長してからも、右胸に比べると左胸はひきつれたみたいに不格好で、正直、男性には見せられないと思っていた。
だから何人かの男性に交際を申し込まれたことはあったけど、みんな断っていた。
私のような『地味子』が断るなんて偉そうに見られることもあって、直後に態度が豹変する人もいた。
まあ、そんな人とはおつきあいしなくて良かったなとは思うけど。
みんながうらやましがるようなハイスペック男子からの交際を断ったときは友達だと思っていた女子からも敵視された。
べつに高慢とか高飛車とか、勘違いうぬぼれ女というわけでもないのに、『バカじゃないの。信じられない』とか、『あんたみたいなのにこんなチャンスもう二度とこないんだからね』とか、あらゆる悪口を浴びせられた。
今まで、この人だったら秘密を打ち明けてもいいと思えるような人には、男女問わず出会わなかった。
無意識だったけど、それは理科実験の試薬みたいなものだったのかもしれない。
自分の秘密を打ち明けて理解してもらいたいと思う相手とは、それはつまり、私自身がその人を信頼しているということ。
だけど、そんな人は学校にも職場にもいなかった。
それはある意味、私が他人を信頼したことがないということの裏返し。
だから、私には本当の自分をさらけ出せるような親友もいなかったということなんだろう。
さびしいと思ったことはない。
強がりなんかじゃない。
それが当たり前なんだとずっと思っていたから。
そうじゃない世界があるって知らなかったから。
――ううん。
少し違うのかも。
まわりの女の子達が仲良くしている姿や、素敵なカレシと連れだって楽しそうにしている様子を見て、そういう世界があるってことは分かっていた。
でも、それはみんなには手の届く現実の世界のことでも、私にとっては切り離された別世界、たとえば二次元の漫画や映画の世界のことのように思えただけ。
だから女子の友達も同級生や同僚という立場以上には踏み込めなかったし、男性とは接する機会すら持とうとはしなかった。
二人だけで会うこともなかったし、手をつないだこともない。
拒んでいた自分が悪いのかもしれない。
知ってほしい、本当の自分を見せて受け入れてほしい。
そういう男性は私の前には現れなかった。
――本当は待っていた。
いつかそういう時が来ると。
ずっと信じてた。
私から飛び込んでいきたくなる男性が現れると。
でも、それがかなったとき、私はすべてを失ってしまう。
それも分かっていた。
『地味子』、『モブ子』として背景に溶け込んでいれば傷つかない。
なのに、どうして出会ってしまったんだろう。
――ジャン……。
彼が私を求めている。
私も彼を求めている。
それは幸せのはずなのに。
なのに、私の目から流れる涙はどうしても止まらなかった。
◇
――ユリ……。
彼が私の涙に口づけている。
――ユリ……。
涙に溺れそうで息ができない。
私は魚のように口を開けて嗚咽の中で思いを打ち明けた。
「隠しててごめんなさい」
ジャンが優しく私の髪をかき撫でる。
「あやまらなくていいんだよ。あやまっちゃいけないよ。君は何も悪くないんだ、ユリ」
「だって……、だって……」
「泣かないでくれ、愛してるよ」
だけど涙は止まらない。
止められない。
「あなたに嫌われたくないのに。あなたのそばにいたいのに。ずっとそばにいたかったのに」
「嫌うはずがないだろ。僕は君を離さないよ。そばにいるよ。僕らが今こうしていることが答えのすべてだろ」
――本当に?
「君が勇気を出してくれたことを何よりも愛しく思うよ」
――いいの?
「だって、僕だからなんだろ。僕だから打ち明けてくれたんだろ。僕を選んでくれたんだろ」
――私でいいの?
「僕だけが君という宝を愛することができるんだろ」
――本当に、私でいいの?
「ユリ、僕は世界一幸運な冒険者だよ。君という宝を手に入れたんだからね」
彼が私を抱きしめ、素肌を密着させる。
「僕を見て。僕だけを見て」
私も答える。
「私を見て」
「見てるよ」
「私だけを見て」
「君しか見えないよ」
ブルーの瞳がありのままの私を愛でている。
「信じていいの?」
「言っただろ」と、彼が私をまっすぐに見つめていた。「僕らの永遠はもう始まっているんだよ」
――ジャン……。
「うれしい」
「僕もだよ」
「ありがとう」
彼は私の首筋に口づけると、少しずつゆっくりと舌先を這わせていった。
鎖骨をゆるやかに越えて丸い肩をたどり脇と腕の溝を軽くなぞると脇腹を一息に滑っていく。
思わず身をよじる私の反応を楽しみながら彼の舌と唇はフィギュアスケートのように臍から先へと流れていく。
自分でも気がつかないうちに私は声を漏らしていた。
彼にされるままにいつの間にか下も脱がされていた。
そして彼が繊細な場所に顔を埋める。
うそ、そんなところ。
うそでしょ。
ちょっ……と……いったい……な……にを……。
――だめ。
あらがおうとした私の脚を毒サソリのように抱え込み、むしろ容赦なく彼が攻め入ってくる。
一瞬で頭の中が真っ白になる。
ほんの一瞬が永遠のようで、その永遠が一度に襲いかかってきたようで、遙か遠いどこかへ意識が吹き飛ぶ。
思わず私は彼の頭を押さえつけていた。
『だめ』なんて叫んでおいて。
彼を求めてしまう。
恥ずかしいのに我慢できない。
今まで知らなかったことばかりで、私はただなすがままに彼を受け入れるしかなかった。
どれくらいの間そうされていたのか何も分からない。
――ユリ……。
彼の息が耳をくすぐる。
気がつくと彼はまた私にのしかかっていた。
私の手には彼の栗色の髪の毛が握られていた。
無我夢中で引き抜いてしまったらしい。
「ご、ごめんなさい。私……」
「平気だよ。それより、そんなに夢中だった?」
恥ずかしさに返事なんかできない。
私は手で顔を覆って恥じらいを見られないようにするのが精一杯だった。
「ユリ、愛してるよ」
引き裂かれるような痛みと共に彼が私の中に入ってきた。
でもそれはほんの一瞬だけのことだった。
充分に解きほぐされた体が意思とは無関係に彼を奥へ奥へと招き入れる。
汗ばんだ肌を密着させて彼の漏らす吐息が耳にかかる。
彼のエンジンは回転を高めていき、むき出しの配管を思わせるほど贅肉をそぎ落とされた脇腹の筋、隆々とした肩や背中の筋肉、それらすべてが一体となって雄の本能をほとばしらせていた。
その熱さに思わず私は彼の背中に爪を立ててしまった。
焦りぎみだった彼が我に返ったのか、私の中で動きを止めた。
息を整えながら私の前髪をそっと撫であげると、額に軽く口づける。
「最高の人生に必要なものが分かったよ」と、あらためて私の反応を確かめながら彼が再び動き出す。「君だよ、ユリ。もう、君のいない人生なんて考えられないよ」
それは私も同じだった。
「離さないよ。ほんの一瞬でも。二人で永遠を作ろう」
私の体も彼の動きにシンクロを始める。
こんな自分を今まで知らなかった。
――わかる。
私には分かる。
この人に会うために今まで生きてきたの。
これまでの年月は決して無駄じゃなかった。
この瞬間を迎えるために必要だったの。
私は彼の名を呼び、彼を求めていた。
こんなにも感情があらわになったことはなかった。
それどころか、自分にこんな感情があったことすら知らなかった。
彼がうめく。
崩れ落ちる彼を受け止めながら、私は生まれて初めて、これまで生きてきたことの喜びをかみしめていた。
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