第1章 運命の出会い

『地味子』とか、『モブ子』という言葉は便利だと思う。

 そのまんま私だもの。

 その言葉がいつ頃からあったのかは分からないけど、もっと早く知っていればよかったと思う。

 言葉があると説明がいらなくなる。

 大学生とか団体職員とか、自分を表す言葉が一言で済むから楽でしょ。

 ただ、職業なら簡単だけど、性格とか、『あなたってどんな人?』と聞かれると困ってしまう。

『白沢百合です。よろしくお願いします』

 積極的に自己アピールできる性格ではないから、学生時代の自己紹介はこれだけで済ませていた。

 といっても、他人を拒絶したいわけでもない。

 面倒にならない程度に、少しくらいは自分のことを分かってもらいたいという気持ちはある。

 ――あまり人と関わることが得意ではないので、一人でもかまわない性格です。

 ――みんなと同じノリについていけなくてもべつに寂しくなんかないですよ。

 ――排除されるのでなければ、放置でいいんです。

 ――自分一人で充実してるので気をつかわないでください。

 だけど、そういうことを一言で説明できないもどかしさをなんとかしたかった。

 学生時代は空気に徹していたのがうまくいったのか、いじめられることはなかったし、就職先も昭和から時が止まったような文化振興の外郭団体にもぐりこむことができたのは幸運だったと思う。

 かといって、主役になりたい人たちのことを嫌っているわけじゃない。

 むしろ尊敬しているくらい。

 間違ってそういう場面に引き出されてしまったときの居心地の悪さは学生時代に嫌というほど経験させられてきた。

 どんな役割でも活躍できる人は本当にすごいと思う。

 自分にはできないって分かってる。

 だから、そんな自分を表現するのにぴったりの言葉があることを知ったとき、ものすごく楽になれた気がした。

 なんだか自分が、背景に溶け込んだその他大勢の一人としてそこにいてもいいのかなって。

『地味子』、『モブ子』という名札をつけていれば何も悩まなくていい今の生活はとてもありがたい。

 もうアラサーというかずばり三十になってしまったけど、それでも、知らなかった頃よりもずっとましだから。


   ◇


 恋愛に関しても同じ。

 中学から女子校育ちでカレシというのは二次元の世界のものだと思ってた。

 べつに女子校は関係ないかもしれない。

 カレシがいる人はいたし、出会いを求めようと積極的に行動する人もいた。

 私の場合はもともと恋愛に興味がなかったし、人を好きになる気持ちすら分からなかったから、出会いなんか求めたこともなかった。

 仮にこんな消極的な自分を好きになってくれる人が現れたとしても、それはそれでかえって気味が悪いなんて思ってたし。

 誰もが恋愛をするのが当たり前と言われても、それは自分ではなかったし、その考えを押しつけられたところで変われるわけでもない。

 自分には関係のないこと。

 ただそれだけのことだと思って生きてきた。

 今の職場にいるのは天下りのおじさんたちばかりだから出会いなんかない。

 かえって気楽で助かる。

『推し』という言葉も便利だと思う。

「推しがいるんで」と言えば、何も困ってないのに勝手に心配されたり、余計なものを押しつけられることもない。

 ――一人で適当に楽しんでるんで結構です。

 そんな空気を醸し出していれば干渉されずにす済む。

 一人で食事をするのは、そもそも学生時代からそうだったから全然気にならないし、散歩の途中でいいなと思ったカフェに一人でふらりと入って時間を潰すのも苦にならない。

 映画や展覧会にも一人で行く。

 自分のペースで見たいものを見たいだけ見られるのは最高だもん。

 べつにそれを誰かと分かち合いたいと思ったこともない。

 SNSはただの連絡手段としてしか使っていない。

 散歩や旅行が好きだからむしろ地図アプリの出番が多いくらい。

 スマホの写真ホルダーには、風景の写真よりも、旅先で街歩きの参考にした観光案内看板を写したものの方が多い。

 どうせ、『どこに行ったの?』とも聞かれないし、写真を見せてくれと言われたこともないし。

 食べたスイーツの写真なんて一枚もない。

 おいしかった記憶もあやふやだけど、べつに誰かに迷惑をかけているわけでもないんだし、そんなこと本当にどうでも良くなってくる。

 まわりの人たちは『アラサーお一人様』という言葉に何かトゲの刺さったような意味を込めがちだけど、私はそうは思わない。

 どうでもいいんじゃない?

 口には出せないけど、心の中では堂々と言えるようになった。

 ホント、どうでもいい。

 どうせ、恋をしなかったことを後悔する日なんて来るはずもないんだから。

 今までずっとそう思って生きてきたし、これから先もそうだとしか思えなかった。

 三十になってみて、一つだけ意外だったこと。

 人間、あんまり中身は変わらないんだなって。

 ――もうちょっと、大人になるのかなと思ってたんだけどね。


   ◇


 初めての海外旅行は八年前、卒業旅行のロンドン一人旅。

 英語は学校で習った程度しか分からなかったけど、不安はなかった。

 どうせ日本でもほとんど人と会話なんかなかったんだもの。

 実際のところ、自分の言いたいことはなかなか英語が出てこなかったけど、相手の言っていることはある程度聞き取れたし、標識や看板みたいに文字で書かれた物は単語の意味で想像できたからほとんど困ることはなかった。

 それ以来、まとまった休暇を申請しやすい職場ってこともあって、年に一度は土日を絡めて十日間くらいの休みを取ってヨーロッパへ行くようになった。

 何カ国も移動するのではなく、パリならパリ一カ所に滞在して、そこから日帰りで行けるところに脚を伸ばすのが私のスタイル。

 観光地でなくてもいい。

 前回はただひたすら小麦畑の中を歩いてみたりした。

 なんにもないのがいい。

 輪作の菜の花畑が見渡せる丘の上で炭酸水を飲み、ハムとチーズをはさんだバゲットをかじりながら時折吹き抜ける風の音を聞く。

 ――そんなの何が楽しいの?

 べつに楽しいわけでもない。

 ――疲れるでしょ?

 もちろん。

 ――退屈じゃない?

 うん、そうだよね。

 だけど、それでいい。

 こんなこと一人じゃなきゃできない。

 誰かがいたら、何か話さなきゃとか余計なことばかり考えちゃうでしょ。

 だから旅は一人がいい。


   ◇


 五月の連休明け。

 世の中が仕事に戻るとき、逆に私は十日間の休暇を取って今回もパリへやってきた。

 これで三年連続三回目。

 イギリス、イタリア、ドイツといろいろ行ってみたけど、特にフランスの居心地の良さが気に入ってしまった。

 いい意味で放っておかれる。

 町の広場のベンチでのんびり休んでいても誰も私のことなど見向きもしないし、もちろんこちらも自分が何者かなんて考えなくてすむ。

 私は私。

 それだけでいい。

 初めてフランスに来たときすぐに私はその気楽さに魅了された。

 過去二回はパリ市内の安いホテルに滞在してルーブルやオルセーをまわったり、モンマルトルの丘を散策したり、エッフェル塔にも登ってみた。

 でも、今回はパリ郊外のシャトーホテルに滞在してみようと思っている。

 自然に囲まれた貴族の館に滞在しながら穏やかに流れる時間に身を任せる。

 前回やってみた小麦畑の散歩みたいに退屈でいい。

 自分だけの時間を贅沢に使う。

 誰にも遠慮なんかしなくていい。

 一人旅の理想型。

 思い立ったら、もうほかのプランは考えられなくなっちゃった。

 ちょっとどころではない出費だけど、シャトーホテルなんてなかなか体験できないことだもの。

 貯金だって頑張りましたよ。

 そして今、期待で胸を膨らませて羽田空港を飛び立ち、エコノミーの狭い座席を十二時間我慢してシャルル・ド・ゴール空港にようやく到着。

 ちょっと生意気だけど、三度目なのに帰ってきた気分。

 現地時間は夕方の五時だけど、緯度が高いからか、まだまだ昼みたいに明るい。

 予約しておいたシャトーホテルは空港から北へ三十キロほどのシャンティイという街のはずれにある。

 オテル・ドゥ・シャトー・ドゥヴォーセは、ナポレオン時代の貴族が狩猟用の別荘として所有していた城館を改装したものらしい。

 それだけに、森の中の交通の不便なところにあるのが唯一の難点。

 自然を散策したいという私の希望にはぴったりの場所だけど、公共交通機関はないからタクシーを使うしかなかった。

 タクシー乗り場に止まっていたのはベンツだった。

 日本では考えられない高級車だ。

 ちょっとラッキーかも。

「ボジュー・マドマゼー」と抑揚のない挨拶をしながら振り向いた運転手さんに日本で印刷してきた予約サイトの紙を見せる。

 伝わるかな……。

 フランス語で説明できないからちょっと不安になる。

 でも、唇を突き出すようにうなずきながらプリントを突き返してくるなり、車が急発進した。

 うわお。

 せっかくのベンツなのに運転が荒い。

 シートベルト、どこ?

 体が左右に持って行かれそうになるのをこらえながら必死にベルトを装着したころにはもう車に酔い始めていた。

 まさに命綱だわ。

 帰宅時間帯だからなのか交通量の多い幹線道路を日本では考えられないようなスピードで突っ走っていく。

 今まで行った国では市内の地下鉄やバスだけで済んでいたので、外国でタクシーを使うのは初めてだった。

 荒っぽいのがこの運転手さんだけなのかどうかは分からない。

 飛ばしてるからかメーターの上がり方も荒っぽいし。

 大丈夫なのかな。

 あらかじめ八十ユーロくらいだというのはネットで調べていたけど、なんだか心配。

 幹線道路から森の中へ入る脇道へタイヤをきしませながら曲がる。

 さっきまでまぶしいくらい鮮やかだった外の景色が一気に暗くなった。

 道が細いのに相変わらずのスピードで危なくないのか心配だけど、対向車も人も見かけることなく深い森へと分け入っていく。

 と、いきなり前方が開けて明るくなったかと思うと、広い庭園が現れた。

 雰囲気を壊さないためかずいぶんと控えめな木彫りの看板に、『オテル・ドゥ・シャトー・ドゥヴォーセ』の文字がかろうじて読めた。

 開放された門をくぐり抜け、本来なら優雅に馬車が通るはずの通路を、タクシーが砂利を蹴散らしながら正面の城館に向かって進んでいく。

 ――予約サイトで見た画像と同じだ――。

 最初の印象はあまり感動的ってわけでもなかった。

 それは城館のせいじゃなくてタクシーの荒っぽさのせいかも。

 砂利でちょっと滑ったら通路の両側にきれいに咲いている花や幾何学的に整えられた庭木に突っ込んじゃいそうでこわい。

 ただ、それ以外にも、なんだか妙な雰囲気も感じていた。

 ほかのお客さんがいる様子がないし、城館の左側にある円錐屋根が似合う円筒形の塔には足場が組まれて、工事の車両が並んでいる。

 まあ、古い建物だから、修理しながら使ってるんだろうな。

 写真なんて、いくらでも加工できるんだし。

 中身が豪華ならいいんじゃない。

 どうせ滞在中はほとんど中にいるんだもん。

 大事なのは内装の雰囲気とかレストランの食事でしょ。

 と、なんか自分に言い訳みたいに言い聞かせていたら、後輪を横滑りさせながら車寄せにタクシーが止まった。

 運転手さんがメーターを指さす。

 八十二ユーロ。

 ほぼ予想通りかな。

 運転が荒っぽいだけで案外ちゃんとした運転手さんだったらしい。

 疑ったりしてごめんなさい。

 私は心の中でおわびしながらクレジットカードを差し出した。

「メッシー・マドマゼー」

 タクシーを出てトランクを引っ張り出し、ドアを閉めた瞬間、ベンツが猛スピードで去っていく。

 どうせ見ていないだろうけど、なんとなく手を振ってタクシーを見送った。

 ふう、と思わずため息をつく。

 なんだか膝も震えている。

 ジェットコースターの方がましだったんじゃないかな。

 まだ少しめまいが残ってるし。

 気を取り直して、改めて庭園を眺めてみると、さすがにベルサイユ宮殿とまでは言えないけど、庭園から奥の森の方へ運河が延びていて、それに沿って野草の花咲く草原も幅広く開けていて、結構敷地は広いみたい。

 これならホテルの敷地を散歩するだけでも楽しめそう。

 それこそ、貴族の生活をなぞるような体験ができるんじゃないかな。

 また高揚してきた気分に足取りも軽く、私はホテルの正面扉を押した。

 あれ?

 動かない。

 どうして?

 年季の入った風合いの木の扉に堅牢な鉄の枠がはまっていて重たいからかな。

 もっと力を入れないと開かないのかも。

 私は両手で体重をかけて扉を押してみた。

 籠城でもしているかのようにうんともすんとも言わない。

 あ!

 もしかして引くのかな。

 やだ、恥ずかしい。

 でも、外側には取っ手がついていない。

 やっぱり押すしかないみたい。

 どうしたらいいんだろう。

 私は仕方なく扉をノックしてみた。

 コンコン。

 すみません。

 日本から来たシラサワです。

 数秒間待っても中の様子に変化はない。

 もう一度、ちょっと強めにたたく。

 トントン。

 半年前から楽しみにしてた白沢ですけど。

 でも、何の気配も感じられない。

 ここが入り口じゃないのかな。

 立派な扉だけど、お城だから、裏口ですらこんなに豪華なのかも。

 タクシーの運転手さんも間違えたのかもしれない。

 私は城館の壁に沿って、左方向へ歩いてみることにした。

 さっき工事関係の車が見えたから、誰かいるかもしれない。

 砂利道ではスーツケースのキャスターを転がして引けないから持ち上げて歩く。

 来たばかりで中身は着替えとか最低限のメイク用品だけだから、あまり重たくなくてよかった。

 角張った大粒の砂利が靴裏に当たって歩きにくい。

 お城っておしゃれだけど、結構不便なところもあるのね。

 と、歩き出したところですぐに私はさっき感じた違和感の正体に気がついた。

 窓の鎧戸がすべて閉まってる。

 なんで?

 おかしい……。

 まだ明るいのに、幽霊屋敷じゃあるまいし。

 霊に取り憑かれたみたいに急に体が冷えていく気がする。

 左隅の塔に近づいていくと、作業服を着たおじさんがトラックに何かを取りに来たところだった。

 砂利を踏んで歩く私の足音を聞いてチラッとこちらを見る。

 あ、ちょうど良かった……。

 入口を教えてもらえるかも。

 なのに、興味なさそうに背を向けてしまう。

 こういうときはフランス人の無関心さを批判したくなる。

 だけど、それはこちらから声をかけないからであって、向こうが悪いわけじゃないか。

 自分のコミュ症を棚に上げちゃダメだよね。

 ここでは私が異邦人なんだから。

 ちゃんと言わなくちゃ。

「あ、あの……、すみません……」

 声をかけたくても日本語しか出てこない。

 おじさんは私に顔を向けることもなく仕事に戻ってしまった。

 ああ、どうしよう……。

 えっと、『ボンジュー・ムッシュー』だっけ?

 私はいったん立ち止まって、頭の中で会話のシミュレーションをしてみた。

 知ってるフランス語なんて、ボンジュー、メルシー、オーボワだけなんだけどね。

 数はアン、ドゥー、トワ、カトルまで知ってる。

 ……ほとんど役に立ちそうにないか。

 フランスだと幼稚園児以下の語彙力だよね。

 いちおう他にも基本的なフランス語会話を練習してきたつもりなんだけどな。

 と、その時だった。

「ボンジュー、マドマゼール?」

 え?

 低くて控えめなのにはっきりとした優しい声。

 顔を上げると、いつの間にか私の目の前に黒いスーツを着たグレイヘアの男性が立っていた。

 おじいさんと言われる年齢のようだけれども、背筋が伸びていておじさまという呼び方の方が似合いそう。

 フランス人は日本人より背が低い人も多いくらいだけど、この人は背が高くて細身のスーツが似合っている。

 引き締まった結び目のネクタイがさまになっていて、ホテルの支配人のような風格を感じるおじさまだ。

「あ……、ええと……」

 無理。

 フランス語なんか出てこない。

「アー、マイネームイズ、シラサワユリ。ジャパン」

 やっと出てきたのがこれ。

 まだ中学生かと自分が恥ずかしくなってしまう。

「オウ、ジャポネーズ」と、おじさまが青い目を細めながら優しくうなずいてくれる。

「アー、ウイ」

 フランス語で返事しちゃったけど、ちょっと照れくさい。

 でもその後は日本語しか出てこない。

「……えっと、予約してある白沢です」

 もちろん相手には伝わっていないだろう。

「んーと、えーとですね……。リザベーション、トゥナイト・フロム、えーと、ワン・ウィーク」

 焦れば焦るほど単語も文法もどこかへ吹き飛んでしまう。

 こういうときほど学生時代の自分を叱りたくなるんだけど、今の自分のせいだよね。

 反省したところでどうにもならないし。

 私の焦り具合を見て、おじさまが両手のひらを私に向けてにこやかに微笑んでくれた。

「プリーズ、ウエイト、ヒア、マドマゼール・シラサワ」

 素敵なおじさまはそう告げると、工事現場の方へ去っていく。

 日本人にも聞き取りやすい英語とフランス語だったな。

 とりあえずここで待っていろという意味でいいんだよね。

 私は庭園の花や木を眺めながら素敵なおじさまを待つことにした。

 あらためて観察してみると、規則正しく並んだ植木の根元に雑草が一本も生えていなくて驚く。

 ハーブの株も一種類ずつはっきりと分けられていて、すべて同じ形と大きさに刈り込まれている。

 まるでコピーして作られているみたい。

 まさか造花を並べてあるわけじゃないよね。

 近づいてみるとそよ風に葉が揺れているし、触れば爽やかな柑橘系の香りが指先につく。

 ――本物か。

 当たり前だよね。

 思わず苦笑してしまう。

 それにしてもここまで徹底的に管理するのは、相当な手間がかかっているんだろうな。

 学校の校庭よりも広い庭園を見回しながら私はお金の計算ばかりしていた。

 そういえばさっきのタクシーみたいに、予約サイトを印刷した紙を見せれば良かったかな。

 そんなとりとめのないことを考えていると、先ほどのおじさまが小柄で小太りの中年男性を連れて戻ってきた。

 小太りの男性は慌てた様子でタブレット端末を操作している。

 と、さらに、もう一人長身のやや若い男性も現れた。

 一目で分かるほど仕立てのよいスーツを着たビジネスマンだ。

 ネクタイの結び方もおじさまに似ていて清潔感がある。

 私と同じくらいの年頃かな。

 栗色の髪に目は澄んだ湖のような青。

 ラテン系のフランス人というよりは、ゲルマン系の白人に近いような気がする。

 私と頭一つ分くらい身長差があるせいで、見上げるような感じになって、ちょうど彼の頭の後ろにようやく傾いてきた太陽があってまぶしい。

「どうかなさいましたか?」と、長身の男性が私に微笑みかける。

 あれ?

 意外にも流ちょうな日本語で、とっさに返事ができなかった。

「あの、ええと……。日本語、お上手ですね」

 なんでこんなことを言ってしまったんだろうか。

 用件とは全然関係がないのに。

 こんなところでコミュ障を発症するなんて。

「ああ、ええ」と、彼が微笑む。「私は十年前に日本の大学を卒業しました」

 彼の口から明かされたのは都心にあるカトリック系の有名大学だった。

 なるほど、それで日本語を話せるのか。

「私はジャンです。ジャン・カミーユ・ド・ラファイエット。このホテルのオーナーです。初めまして」

「あ、どうも、初めまして」

 と、返したところで、ここは自分も名乗るところだろうと気がついたときにはジャンが話を続けていた。

「当時はアキハバラ、ナカノブロードウエイ、カブキチョー、イチマルキュー、いろいろなところに行きました。ニッポンはとても楽しいところですよね。僕のことは気軽にジャンと呼んでください」

 彼が緊張をほぐそうとしてくれたおかげで、私も用件を伝える心の準備ができた。

「あの、私、シラサワユリと言います。今夜から予約を入れてあるんですが、どこがホテルの入口なのか分からなくて困っていたんです」

 それを聞いた彼の眉が八の字になる。

「ああ、そうでしたか。少々お待ちください、マドマゼール・ユリ」

 かたわらの男性が持つタブレット端末をのぞき込みながらフランス語で私の用件を伝えると、しばらく二人は議論をしていた。

 肩をすくめながら「ジャメ」とか「ノン」と繰り返す小太りの男性に対して、ジャンは少し厳しい表情で何かを命じているようだった。

 最初に応対してくれた長身のおじさまは庭園の樹木のように直立不動で控えている。

 タブレットの男性が去っていき、こちらへ向き直ったジャンが申し訳なさそうに両手を広げた。

「どうやら支配人の話では予約システムの不調があったようです。実はこのホテルは今月から改装工事に入っていて、全館休業中なんですよ」

 え!?

 じゃあ、半年前から楽しみにしていた私の予約は?

「他のお客様にはキャンセルの通知をしてご了承をいただいたのですが、シラサワ様のご利用になった提携予約サイトのエラーで通知が行かなかったようです。大変申し訳ありません」

 ……そんな。

 どうしよう。

 今から別のホテルを探さなければならないなんて……。

 一気に全身の力が抜けていく。

 全然言葉も分からない異国の地で泊まる場所がなくなってしまうなんて、一人旅の女性でなくても恐怖の事態でしょ。

 ここまでかかったタクシー代がもったいないけど、今はそれどころじゃない。

 こんな森の中で帰りのタクシーを呼ぶにはどうしたらいいんだろう。

 幹線道路まで出たところで拾えるとは限らないし、一度傾いてきた夕日はあっさりと森の木々に隠れて周囲は暗くなり始めている。

 パリまで行けばなんとかなるかもしれないけど、その頃にはもう真っ暗だろうな。

 過去二回パリ市内に滞在したけど、治安が心配で夜中に出歩いたことはない。

 もしもどこにも見つからなかったら本当にどうしていいのか分からない。

 最悪、空港ならロビーの椅子とかで一晩過ごせるかな。

 追い出されちゃうかな。

 そんな不安が一瞬のうちに頭の中を駆け巡っていった。

「あの、このあたりに別のホテルはありませんか?」

 ジャンが申し訳なさそうに首を振る。

「それが、実は今週いっぱいこの地域のコンベンションセンターでヨーロッパ最大の自動車部品見本市が開催されている関係で、このあたりのホテルはすべて満室だと思います。パリ市内も空室がなくはないでしょうけど、相場が高くなっているでしょうね」

 まあ、このシャトーホテルに支払う予定だった金額に比べればまだましだろうけど、狭いシングルルームに割増料金を請求されたらせっかくの旅行が楽しめそうにない。

「ニッポンのゴールデンウィークの方がヨーロッパでは何もないので、意外とホテルは取りやすいですし、安いんですよ」

 そんな業界裏話を今さら言われてもどうにもならないんですけど。

 どうしよう。

 でも、迷っていてもしょうがない。

 とにかく泊まるところを探さないと。

 私は一人なんだ。

 頼れるのは自分だけ。

 こんな旅のトラブルも日本に帰れば誰かに聞かせる武勇伝になって元が取れるかもしれないでしょ。

 ……まあ、そんな相手はいないんですけどね。

 今は目の前に日本語が話せる人がいるだけでもラッキーだと思わないと。

「あの、タクシーを呼んでもらえませんか。パリ市内へ行って探してみようと思います」

「ええ、それはかまいませんが……」と、ジャンが私の目をまっすぐ見つめて微笑む。

 本当にきれいな目をしている。

 なんか見とれちゃうな。

 青い瞳に吸い込まれそう。

 と、彼が私の手を取った。

 え、何?

 とまどう私に微笑みかけながら、ジャンが手の甲に優しく口づけをした。

 思わず顔が熱くなる。

 こんなお姫様みたいな扱い初めてなんですけど。

「よろしかったら私の屋敷へご招待しますよ」

 突然の申し出に私は返事ができなかった。

「ここほどの規模ではありませんが、そこも貴族の城館だった建物ですし、おくつろぎいただけると思いますよ。パリ観光へ出かける際には送迎のお車もご用意させていただきます」

「あ、ええと……」

 あまりにも好条件の申し出にますます言葉が出なくなる。

「もちろん、私どもの落ち度でシラサワ様にご迷惑をおかけしたのですから、私個人のゲストとしてご招待いたします」

 つまり、無料ということだ。

 でも、ちょっと待って。

 こんなうまい話ある?

 私は少し警戒心を抱いてしまった。

 どうやらそれが表情に出ていたらしい。

 ジャンが軽く片目をつむる。

 さまになるウィンクなんて初めて見た。

「ご心配なさらないでください。私も日本にいたときはみなさんに親切にしていただきました。そのご恩返しですよ」

 ああ、そうなのか。

「ミキ、エミ、ナツミ、エリカ……」

 全部女性じゃないの。

 ジャンが記憶を呼び起こすように額に手を当てながら目を空へ向ける。

「ええと、それとカスミにマナカ……」

 まだ、おるんかい!

 と、心の裏拳ツッコミが炸裂しそうになる。

「すみません。ツマラナイ冗談ですよ。日本で見たアニメやゲームのヒロインの名前を挙げただけです」

「あ、ああ……」

「ですが、本当に日本にはいい思い出ばかりです。だから今度は私がシラサワ様をオモテナシする番です。ぜひそうさせてください」

 ジャンが腰を直角に折って頭を下げた。

 そんなことまでされたら断れない。

 こんな立派なシャトーホテルの経営者なら、怪しい人ではないんだし、そんなに警戒することもないかも。

 なにより、日本語が通じるのは助かっちゃうし。

「では、よろしくお願いします」

 起き直った彼が右の眉を上げて微笑む。

「良かった。きっと楽しんでいただけますよ」

 ジャンは控えていた長身のおじさまにフランス語で用件を伝えると、私のスーツケースを持ち上げて歩き出した。

 一瞬出遅れた私はあわてて彼と並んだ。

「大丈夫です。自分で持てます」

「いえ、軽いですね。車までご案内しますよ」

 あらためて並んで歩いていると、歩幅が違いすぎてなんだかリズムに乗れない。

 すらりとした脚にも見とれてしまう。

 一緒にいるだけで緊張して汗までかいてるし。

 私、どうしちゃったんだろう。

 経験したことのない感情が私自身をからかうように顔を出す。

 くすぐったいような、ふわふわとした不思議な気持ち。

 これって……まさか。

 思わず首を振る。

 今さらそんなのありえないし。

 でも、その気持ちを振り払うこともできない。

「どうかしましたか?」と、私に顔を向けながらジャンが微笑む。

「いえ、何も」

 そう、何もないの、何も。

 ここは異国の地。

 だからふだんと違うことを期待してしまっただけ。

 日本に帰ればアラサー地味子に戻るんだもの。

 そんな自分が今さら恋なんてするわけないでしょ。

 ちょっと親切にされてそんな気分になれただけでも良かったじゃない。

「ありがとうございます」

 唐突なお礼にジャンが戸惑いの表情を見せた。

「どういたしまして。お役に立てて何よりですよ」

 宿泊のお礼と受け取られたのは当たり前。

 内面を見抜かれてなくて安心する。

 こんな気持ち、バレたら恥ずかしい。

 私は自分の左胸に手を当てた。

 するわけないでしょ。

 今さら恋なんて。


   ◇


 さっきいた正面入口まで戻ってくると、建物の裏から黒塗りのベンツがゆっくりと出てきて、私たちの前で止まった。

 リムジンみたいにやたらと長い胴体だけど、ラスベガスのカジノにありそうなのと違ってとても品がある。

 運転しているのはさっきのおじさまだった。

 そういえば小太りのタブレットおじさんのことを支配人と呼んでいたから、この人は運転手さんだったのかな。

 それにしては高級車に似合う品のあるおじさまだ。

 おじさまが私のスーツケースをトランクにしまってくれる。

「どうぞ」と、ジャンがドアを開けてくれた。

 音が違う。

 今までに聞いたことがない心地よい音だ。

「失礼します」

 後部座席は脚をまっすぐ伸ばしてもつっかえないほど広い。

 向かい側にはグラスの並ぶ戸棚と冷蔵庫、そしてその上の空間にもプライバシーガラスがはめこまれて、運転席と完全に空間が仕切られている。

 ミニバーなんてあるんだ。

 つい、車内を見回してしまう。

「あとでシャンパンを差し上げましょう」

 そっとドアを閉めてからジャンが反対側へ回って乗り込んできた。

 おじさまが車をスタートさせると、砂利道とは思えないほど音も振動もなく滑らかに庭園を進んでいく。

 優雅で、まるで貴族の馬車みたい。

 同じベンツなのにさっきのタクシーとは大違い。

 私は窓の外を眺めているようなふりをしながらジャンに話しかけた。

「素敵な庭園ですね」

「ええ、ベルサイユ宮殿の庭園をデザインしたル・ノートルの設計だと言われています。あちらに見える運河も、ベルサイユをモデルにしたそうですよ。規模はさすがに小さいですけどね」

 ジャンが指さす方向にある水辺は夕暮れのかすかな光を反射して静かに輝いていた。

「維持していくのも大変でしょうね」

「文化の伝承ですからね。そういった社会貢献も我々の役割だと考えています」

 急に経営者の表情になったジャンの横顔を見て、私は鼓動が高まるのを感じた。

 ホテルの敷地を出た車はさっきとは別方向の道を進んでいく。

 森の中は真っ暗で、車のライトに照らし出される道がどこへ続いているのかは分からない。

 ジャンが冷蔵庫に手を伸ばしてボトルを取り出す。

「シャンパンがちょうどいい具合に冷えてますよ」

 細長いフルートグラスがトレイに二つ並べられ、コルクの栓がささやくように抜かれる。

 まるで国際線のファーストクラスにいるみたい。

 ついさっきまで十二時間我慢してきたエコノミー座席の窮屈な現実を思い出すと急に疲れが押し寄せてきたような気がした。

 細やかに泡立つシャンパンが注がれ、ジャンが目の高さに掲げて私に差し出す。

「二人の出会いに」

 気の利いた返事なんて何も思いつかなくて、「ありがとうございます」なんて言葉しか出てこなかった。

 飲む前から思いっきり耳が熱くなる。

 一口飲もうとグラスを近づけた瞬間、清涼な香りと歌うようにはじける泡の音が私を包み込んだ。

 飲む前から魅了されてしまうお酒なんて初めて。

 おそるおそる口に含むと舌先から喉まで濃密な蜂蜜のような感触が流れていく。

 後から遅れて愛撫するような泡の刺激と葡萄の香りが口いっぱいに広がる。

 官能的な誘惑に酔ってしまう。

 キスってこんな感じなんだろうか。

 アラサーにもなってそんなウブな想像をしてしまった自分が恥ずかしい。

 ――だってしょうがないじゃない……。

 本当に知らないんだもの。

「いかがですか」

 ジャンに見つめられて思わず無駄に何度もうなずいてしまった。

「ええ、はい。とてもおいしいです」

「私どものホテルでお出ししているものなんですよ」

「そうなんですか」

 私は当たり障りのない返事でつまらない妄想を振り払った。

 車内は静かで、肘掛けのトレイに置いたグラスもまったく揺れることがない。

 シャンパンの心地よさで長旅の疲れもほぐれていく。

 ふと、気づくと、私たちは無言になっていた。

 ドアの下部と肘掛けのトレイに運転の邪魔にならない程度の室内灯がともっていて、お互いの表情は分かる。

 相手に悟られないように、目の隅だけでジャンの様子をとらえようとしたのに、微笑みを浮かべる彼と目が合ってしまった。

 思わず視線をそらしてしまって、かえって不自然すぎて気まずい。

 何かしゃべらなくてはと焦ってしまう。

 ふだんならこんなことまったく気にならないのに。

 いったいどうしちゃったんだろう、私。

 もう酔っぱらっちゃったのかな。

 車酔いじゃないものね。

「素敵な車ですね」

 庭園も車も同じ言い方しかできないの、私?

 ジャンが何でもないことのように言った。

「ええ、防弾仕様なんですよ」

 ボウダン?

 ジャンが身を乗り出して、運転席との間のプライベートガラスを指さした。

「ボディに分厚い鉄板が入ってましてね。このガラスも防弾ガラスです」

「は、はあ」

 思いがけず返事に困る流れになってまた会話に詰まってしまった。

 隣の席との間にある幅広い肘掛けには深みのある色合いの木製トレイがついていて、その側面には飛行機のシートみたいにエアコンとか照明関係のスイッチがいろいろならんでいる。

 一人一人すべてお好みで設定できるんだろうけど、たくさんありすぎて、使い方を覚えるだけでも大変そう。

 勝手にいじったら、スパイ映画みたいにルーフに穴が開いて座席が飛んでいってしまうかも。

 やだ、私、何くだらないこと想像してるんだろう。

 防弾仕様なんて言うから……。

 隣でシャンパングラスを持ったジャンが俳優さんに見えてしまう。

「広い割に窮屈な車ですよ」と、ジャンが豪華装備の肘掛けを指さす。「こんなのがあると女性と親密になるのに邪魔でしょう」

 はあ……そうなんですね。

 あ、ここ笑うところだったのかな。

 返事に困って黙っていたら、急にジャンが真顔になった。

 経営者の顔じゃなくて、獲物を狙う男の顔だ。

「気をつけて。フランスの男は日本人女性を甘く見てるからね」

 困る。

 私はこういう会話が苦手。

 こういう会話じゃなくても苦手。

 いくら日本語でも、思考が停止どころか逆回転を始めてしまう。

「大丈夫ですよ」と、またジャンが笑顔に戻る。「僕は信用してください」

 本気なの?

 冗談なの?

 もちろん軽い冗談だろうし、フランスではこういう会話は普通なんだろうな。

 こういうのなんて言うんだっけ。

 エスプリ……だっけ。

 なんだかキウィフルーツの名前みたい。

「ユリは笑顔が似合いますね」

 は?

 ジャンに顔を向けたとき、その先の暗い車窓に映る自分は確かに笑顔だった。

 やだ、つまらないダジャレでウケてただけなのに。

 顔から火が出そう。

 思わずグラスの中身を飲み干してしまった。

 そんな私の表情の変化を楽しむように彼が顔を寄せてくる。

「こちらの手違いでご迷惑をおかけしたとはいえ、素敵な女性とお知り合いになれて良かったですよ」

 ああ、なんだろう、フランスの男性はこういう言葉をさらりと言えるのかな。

 まさかこんなところで、しかも日本語で言われるとは思わなかった。

「どうかしましたか?」

 返事ができずにとまどう私に、彼が優しくたずねる。

「言われ慣れていないので、返事に困ってしまって」

「素敵だってことが、ですか?」

 私はかろうじてうなずくことだけはできた。

 彼の青い瞳が私の目を射抜いている。

「素敵ですよ。あなたのような素敵な女性は他にいませんよ」

 いやいや、何を言ってるんですか。

 他にいるでしょ。

 ていうか、素敵最上級って何よ。

 私、違いますから。

 他にいますって。

 なんだろう。

 変なところでツッコミ癖が出てしまう。

 まあ、でも、調子に乗って素直に受け止めてたら恥をかくだろうな。

 フランス流の社交辞令。

 どうせ、天気がいいですねと同じくらいの軽いあいさつなんでしょ。

 と、思っているうちに、ジャンが手を伸ばしてきて私の手に重ねた。

 肘掛けが邪魔だなんて言ってたくせに。

「嘘じゃありませんよ。ユリ、あなたは素敵な女性だ」

 もういいですよ。

 そんなに言われるとかえって信じられなくなる。

 なのに、顔がどんどん熱くなる。

 火事になりそう。

 お世辞だ、お世辞なんだと頭の中で何度も自分に言い聞かせてみても、私はジャンの手を払いのけることができなかった。

 男慣れしていないチョロい女だと思われちゃったかな。

 その通りなんですけどね。

「フランスの男性は女性をほめるのがうまいですね。日本人は恋愛に消極的なので素直になれないんです」

『日本人は』というより、『私は』と言うべきなのは分かってる。

 でも、今は『地味子』とか『モブ子』とか、そんなことまで自分から説明する余裕なんてない。

 ジャンが微笑む。

「フランスの男は浮気者だけど、女性の前にいる瞬間だけは正直なんですよ」

 やっぱりそうか。

 フランス人お得意のエスプリだよね。

 キウィフルーツみたいに甘くはない。

 気まずくならないようにそっと手を離そうとしたとき、ジャンの手に力がこもった。

 私たちは見つめ合っていた。

 彼の目が真剣だ。

「でもね、瞬間と永遠に違いはないんですよ。今この瞬間を重ねていけば永遠になる。永遠を作るのは今のこの瞬間なんです。今この瞬間の僕の言葉に嘘はありません。今もこの先も永遠に」

 急に哲学的になったけど、ちょっと意味ありげな言葉を並べただけかもしれない。

 だまされちゃいけないという警報が頭の中に鳴り響く。

 私は地味子。

 恋愛漫画では、アシスタントの人が描くモブ子なんだから。

 背景に溶け込まなくちゃ。

 車は闇の中を滑るように進んでいく。

 私はシートに座り直す流れでジャンの手をそっと離した。

 すると、彼も正面を向きながら思いがけないことを言い始めた。

「ユリ、正直に言うよ。僕は君に一目惚れしてしまったんだ」

 私は言葉を失っていた。

 日本語で言われているのに理解できない。

 辞書にない言葉で受け止めきれない。

 ナポレオンの辞書には『不可能』という言葉はなかったらしいけど、私の辞書には『恋愛イコール不可能』という説明しかない。

「おかしいかな?」

 ジャンが不安げに私を見る。

「いえ、そういうわけじゃ」

「僕は真面目だよ。真剣だ。本気なんだ」

 そう言われれば言われるほど今のこの現実が遠ざかっていくような感覚に囚われる。

「急に言われても」

「ユリは僕のことが嫌い?」

「でも、その……知り合ったばかりですし」

 それに、私は恋なんかできない女。

 ずっとそのつもりで生きてきた。

 今までも、これからも。

 それでもジャンはたたみかけてくる。

「僕には分かるんだ。君は運命の人だよ」

 その根拠は?

 ――なんて聞けなかった。

 本気なんだろうか。

 私みたいな女じゃなくても、もっときれいで性格も明るくて積極的な人はいくらでもいる。

 わざわざ私を選ぶ意味が分からない。

「こんな気持ちになったのは初めてなんだ。三十年生きてきて、初めて分かったんだ。君なんだって」

 私と同じ年月を生きてきて、なんで私なの?

 他にも素敵な人はいたでしょうに。

「ユリ、君の気持ちを聞かせてくれないか」

 はっきりとした返事をしない私に、肘掛けから身を乗り出してジャンが迫ってこようとした。

 シャンパンのグラスを倒しそうになって、彼はいったん冷静になったようだった。

「すみません。急に言われて困ってしまって」

「いや、あやまらないで」と、ジャンが人差し指を振る。「こちらこそ、突然すまなかった。ただ、恋はいつでも急だからね。それが今だっただけなんだ。僕だって冷静になるのが難しいよ」

 彼はまたシートに体を預けて軽く天井を見上げながらつぶやいた。

「ユリ、お願いがある」

「何ですか?」

 私にできることなんてあるだろうか?

「少しの間でいい。恋人のふりをしてくれないかな」

 コイビト?

 えっと、それって……。

「だめかな? 恋人のつもりになって、そして僕を知ってほしい」

 正直嫌ではない。

 むしろ、私だってジャンに好意を抱いている。

 ただ、どうしてもブレーキがかかってしまうだけだ。

 でも、恋人のふりをするのなら、演技でいいのならそんなに身構えなくてもいいのかもしれない。

 お試しのおつきあい。

 悪くないかも。

 なんて……私、なんで上から目線なんだろう。

 慣れてないからしょうがないんですよ、こういうことに……。

「もうすぐ着きますよ」

 ジャンが前方を指さす。

 森の中にぼんやりと明かりが見え始めていた。

 会話が途切れる。

 三十分ほどのドライブだっただろうか。

 終わってしまうのがちょっと切ない。

 なんだろう。

 こんな気持ち、初めてかも。

 私だって本当はジャンのことを好きだし、彼のことをもっと知りたいと思う。

 でも、心のどこかで、警戒する気持ちも消えてはいない。

 ただ、なんていうか、彼のことを疑いたくないとも思っている。

 わざわざ私みたいな女を選ばなくたって他にもいい人を選べる立場なんだから、お客さんへのおもてなし以上の扱いは不要だろう。

 それなのに私を想ってくれるのなら、冗談でも遊びでもなく、むしろ本当のことなのかもしれない。

 泊まるところをなくした窮地の女に救いの手を差し伸べた王子様がわざわざそんな女をもてあそぶだろうか。

 自分の立場が危うくなるだけだ。

 考えれば考えるほど分からなくなる。

 直感なんて働かない。

 なのに彼は一目惚れだと言う。

 私はどうしてそんなふうに人を一瞬で愛することができないんだろう。

 疑ってばかりいるんだろう。

 失うものなんて何もないのに。

 飛び込んでいけばいいのに。

 何を恐れているんだろう。

 私は自分の左胸を手で押さえた。

 悟られないように隣に座る彼の横顔を見る。

 だめだ。

 見るとかえって分からなくなる。

 彼の表情は真剣で、情熱的で、嘘なんかついているようには見えない。

 でも、私に何が分かるの?

 三十年、恋なんかしないで来たのに。

 何の経験もないのに。

 からかわれているだけ。

 遊ばれて捨てられるだけ。

 ネガティブなストーリーしか思い浮かばなくなっていく。

 でも、考え事をしている時間は残されていなかった。

 減速しながら車が近づくと門の柵が自動的に開く。

 車は静かに門柱の間を通り抜けてさっきのシャトーホテルと同じような庭園に入っていく。

 等間隔に設置された庭園灯が淡く通路を照らしている。

 舗装された通路を滑らかに進むと、すぐにベンツが車寄せに止まった。

「ようこそ我が屋敷へ」

 車内から見える建物はさすがにホテルよりは小さいけれど、それでも貴族の邸宅らしい立派な城館だった。

 あちこちの窓に明かりが灯っていて、人の住んでいる温かみが感じられる。

 ふっと肩の力が抜けるのを感じた。

 男性と二人きりで車内にいたことで、相当緊張していたようだ。

 わざわざ意識するまでもなく、やっぱり私は私なんだろうな。

 告白なんかされて舞い上がっちゃってるし。

 ていうか、恋人のふりなんて、私なんかにできるわけないんですけど。

 でも、今さら断ったらお屋敷から追い出されちゃうのかな。

 どこだか分からない森の中でどうしたらいいのよ。

 と、困っていると、運転手のおじさまがドアを開けてくれた。

 やっぱりいい音がする。

 宝石箱を開けるような心が落ち着く音だ。

 なんだか覚悟ができたかも。

 しょうがない。

 なんだか分からないけど、やってみますよ。

 なるようにしかならないもの。

「メルシー・ムッシュー」

 つたないフランス語でおじさまにお礼を言うとフランス語が返ってきた。

「ジュブゾンプリ、マドマゼール」

 たしか、『どういたしまして』だったっけ。

 会話集で見てきた言葉がかろうじて頭の片隅に残っている。

 黒塗りのベンツがゆっくりと駐車場に向かって動き出すのを見送りながら、私はジャンに聞いてみた。

「あの方は運転手さんなんですか?」

「クロード?」と、車を指さしながらジャンが顔を寄せてくる。「執事だけど、運転手としても秘書としても有能でね。いつも僕のサポートをしてくれているんだ」

 クロードさんか。

「本物の執事さんなんて初めて見ました」

「ニッポンのアニメや漫画ではよく見かけますけどね」

 よくご存じですこと。

「では、どうぞよろしく、ユリ」

 手を差し出す彼に、私も手を差し出す。

 その手を引き寄せて彼が頭を下げた。

「では、参りましょうか」

 ジャンがさりげなく腕を回してくる。

 思わずのけぞってしまいそうになる私に彼が微笑みかける。

「こわがらないで。ユリは僕の恋人でしょう?」

「えっと、まあ、そうですけど……」

 お芝居とはいえ、いきなりうまくできるわけない。

 私、どうしたらいいんだろう。

 ジャンの歩幅に合わせて歩くのが精一杯。

 ムリムリ、私には無理!

「大丈夫? シャンパン一杯なのに酔ったかな」

 膝が崩れそうになる私を彼が優しくエスコートしてくれる。

 でも、恋人というより、なんだか警察に連行されてるみたい。

 おかしいな。

 そんなにお酒が弱いわけじゃないのに。

 顔も熱くて鼻の頭に汗がにじみ出てきちゃってる。

 雰囲気に酔ってるんだよね、私。

 恋人か……。

 気づかれないようにそっとため息をつく。

 本当はこれが演技じゃなければいいのに。

 私だってそう思うのに。

 ホント、演技じゃなくてもいいの。

 でも……。

 私には無理。

 恋なんて無理。

 ジャンに寄り添いながら私はもう一度ため息をついた。

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