第7章 愛の問題/ジャンside

 ため息などついている場合ではなかった。

 ただ、他にできることも何もない。

 今はシャンゼリゼ通りを見下ろすホテルの部屋から外に出ることもできないのだ。

 追いかけ回す記者たちを振り切ってこの部屋に入ってからは、ルームサービスで頼んだ昼食にも手をつける気にならなかった。

 しかし、思いもよらぬところから計画が崩れるとは……。

 融資の交渉を進めていた金融グループの裏に、追い出した旧役員連中が隠れていたなんて。

 危うく株式の過半数を抑えられるところだった。

 チェックメイトの寸前で踏みとどまれただけ、まだチャンスはある。

 早急に別の融資元を見つけないと破産だ。

 だが、そう簡単に一億ユーロもの資金を融通できる相手が現れるとも思えない。

 ユリ、どうしたらいい……。

 もう何度目のため息だ。

 窓ガラスに映る弱気な自分の影を振り払う。

 何を弱気になっている。

 おまえはジャン・カミーユ・ド・ラファイエット、名門ラファイエット家の主だろう。

 だが、だめだ。

 頭の中にはユリのことしか思い浮かばない。

 今朝は顔も見ずに出てきてしまった。

 昨夜、あんなことになってしまって、挽回する言葉が思い浮かばなかった。

 自分は経営者としても夫としても失格なのか。

 愛してるのに、何が足りないんだ。

 スマホが鳴る。

 ミレイユ?

「ちょっと、ジャン!」

「どうした?」

「ユリが空港に向かったって! アランから連絡が来たの」

 なんだって!

「空港!? どうして?」

「日本に帰るんだって」

 ――まさか……。

 出て行くとは言っていたが、帰国はまだ先のはずだ。

「ちょっと待ってくれ」

 いったん通話を切ってユリにかけ直す。

 ――プルルッ、プルルッ……。

 どうしたんだ。

 出てくれ。

 話がしたい。

 話せば分かる。

 待てよ。

 行くな。

 もう一度……。

 もう一度でいいんだ。

 話をさせてくれ。

 ――ツーッ、ツーッ……。

 電源が切られている。

 そんな……。

 電話を切った途端、またミレイユから着信が入る。

「出ない。なぜだ?」

「だから空港にいるからでしょ。日本に帰るんだって」と、ミレイユが声のトーンを落とす。「で、あんた、どうするの?」

「行かせるわけにはいかない」

「じゃあ、早くしなさいよ」

「でも、今は出られない。記者たちが待ち構えてるんだ」

「大丈夫よ。ホテルの裏口に車を止めてあるから。来て」

 このホテルは宿泊者以外誰も客室フロアに上がってくることはできないから、廊下に記者たちはいない。

 ホテルのコンシェルジュに頼んで、従業員用の階段から裏口へ案内してもらった。

「はあい」

 ミレイユが車に寄りかかって右手をひらひらさせている。

「なんだよ、これ」

 ボロボロの2CV。

「いつものV8フェラーリはどうした?」

「あれはアランに使わせてるの。男って、ああいうおもちゃが好きでしょ」

「だからって、よりによってこれかよ」

「我がフランスの名車よ。おばあちゃんがくれたの。女はいい車に乗らなきゃだめよって。乗られるだけじゃだめ。たまには男にも乗らなきゃねって」

 正直どうでもいい。

 二人乗るのも狭い車内で肩を寄せ合いながらドアを閉める。

 鞭打ちになりそうな振動とともに車が動き出す。

「形見の車だったら、博物館にでも保管しておけよ」

「失礼ね。まだピンピンしてるわよ。コートダジュールで毎日がバカンスだって」

 表通りに出ると、ホテルの玄関前には報道陣やカメラマンが大勢集まっていた。

「スターじゃない、あんた」

「国民的モデルのミレイユ様ほどじゃないよ」

「あの人たちも、まさかこんな車にラファイエット家の御曹司が乗ってるとは思わないでしょ」

「おまえには似合いそうだけどな」

「でしょ、最高にオシャレ」

 おんぼろ車が石畳のパリの道を蛙のように飛び跳ねながら進んでいく。

「ケツが痛い。お尻に穴が開くぞ」

「やだ、あんた痔なの?」

「もっとスピード出ないのかよ。いつもみたいに」

「これでも精一杯。機嫌が悪いと途中で止まるかも。私みたいでしょ」

 勘弁してくれ。

 車はパリ市街を抜け、ようやく幹線道路に入る。

 ほかの車が邪魔そうにどんどん追い抜いていく。

 と、いきなりミレイユがハンドルを右に切った。

「おい、どこへ行くんだ」

「うるわいわね。あんたのリクエストでしょ」

 一面の小麦畑の中に糸のように伸びた道を通って、車が丘を越える。

 その前方に開けた空き地が現れた。

「ほら、早く!」

 車を止めたミレイユがドアを開けて髪を押さえる。

 すでにエンジンをかけてローターを回したヘリコプターが待ち構えていた。

「七分で着くから」

 ふわりと浮いたかと思うと、あっという間に水平飛行に移って、小麦畑も森も高速道路も足下に消え去っていく。

 言葉通り七分で空港が見えてきた。

 頼む。

 行かないでくれ、ユリ……。

 国際線ターミナル屋上にヘリポートのマークが見える。

「ほら、こっち」

 着陸したとたん、ミレイユに引きずり下ろされる。

 目の前のターミナルビルに駆け込むと、そこは吹き抜けのロビーのてっぺんだった。

 どこだ?

 どこにいる、ユリ!

「ジャン、あそこ!」

 ミレイユが指したのは二階にある日系航空会社のチェックインカウンターだった。

 チケットを受け取ったユリが手荷物検査へ向かうところだ。

「ユリ! ユリ!」

 下へ降りるエレベーターはロビーの反対側。

 すぐそばには階段しかない。

 迷っている暇などなかった。

「ユリ! 待ってくれ!」

 声を張り上げて階段を駆け下りる。

 まわりの人々が気づいてこちらを見上げている。

 なのに、ユリ、なんで君は気づいてくれないんだ。

「ユリ、こっちを見てくれ。僕だ、ジャンだ。君を世界一愛してる僕だよ!」

 彼女がようやくこちらに気づいたのは、もうすでに検査場のゲートを通り過ぎてからだった。

「ジャン、あなたどうして……」

「待ってくれ! 行くな!」

 ロビーを駆け抜け、ゲートに飛び込もうとすると屈強な警備員が左右から立ち塞がる。

「行くな、ユリ!」

 困惑する彼女に向かって警備員の間から手を伸ばそうとすると、腕を拘束され、振りほどこうとすればするほど後ろにねじられる。

 こんな苦痛がなんだっていうんだ。

 君を失うことに比べたら……。

 心臓を撃ち抜かれたって僕は君を離さないよ。

 僕は君を愛しているんだ。

 僕らは夫婦だろ。

 どんな困難でも一緒に乗り越えていくんだ。

 ユリ、君はこの世で一番大切な僕の宝物じゃないか。

 初めて会ったときからこの愛はずっと、ずっと変わらなかったんだ。

 これが僕らの愛の形だろ。

「離してくれ。僕らの邪魔をしないでくれ。C'est l'amour. これは僕ら二人の愛の問題なんだ」

 警備員たちが肩をすくめながらあっさりと手を離す。

 まったくフランス人ってやつは……。

 どうしてこうもみな愚か者ばかりなんだ。

 誰にも愛を裁くことなどできない。

 ――それは愛の問題だから。

 誰にも解けない問題だから。

 呆れた表情の彼女を抱きしめる。

「行くな」

 行かないでくれ。

 僕の愛しい人。

 彼女がそっとつぶやく。

「だって、日本に帰らなくちゃならないでしょ」

 ん?

 どういうことだ?

 なんでそんなに冷静なんだ?

「僕が嫌いになったから……なんだろ?」

 彼女が耳を赤くしながらうつむく。

「ううん。だって、元々帰る予定だったし。これからもフランスに住むには正式な結婚の書類がいるでしょ。職場の上司にも退職の挨拶だってしなくちゃならないし」

 ああ、そうだな……。

 ん?

「本気で私もジャンを支えたいから」

 はあ?

 な、なんだよ。

「帰るって……。そういうことなのか?」

「そうだけど」と、彼女が鼻をクンクンさせた。「またミレイユさんの匂いがする」

「そりゃそうだろ。あんな狭い車で肩を寄せ合ってたんだから」

 ていうか、おい、あいつ!

 ――トントン。

 警備員に肩を叩かれる。

 何だ!?

「あちらの人からです」

 差し出されたのは航空チケットだった。

 東京行きのファーストクラスが二枚。

「それは私からのお祝いね」

 アランと腕を組んだミレイユが笑いながらこちらを指さしている。

「おまえ! いい加減にしろよ!」

「あとこれも」と、ゲート越しに紙切れを突き出す。

「何だよ、これ」

「イタリアの大富豪、ミケーレ・ドナリエロが今ね、日本にいるの。これ、連絡先。彼の奥さんも日本人だから話が合うかもね。向こうはあんたのビジネスに興味を持ってたわよ」

「よかったじゃない、ジャン。ミレイユ、どうもありがとう」

 ユリがミレイユに頭を下げている。

 これじゃあ、文句を言うわけにもいかない。

 まったく、降参だよ。

「あとね、うちの父は手を引いたけど、私が個人で出資するわ」と、ミレイユが髪をかき上げる。「ミケーレと私で株式の過半数を抑えさせてもらうけど、経営再建はそのままあんたに任せるから」

「いいのか?」

「だって、あんたたちだけ幸せになるなんて許せないもの。少しぐらい重荷を背負わせなくっちゃ。できるもんならやってみなさいよ。その代わり、期限は三年。それ以内に黒字化できなかったら、あんたはお払い箱。いいわね」

「ああ、なんとかしてみるよ」

「なんとかじゃないのよ。あんたはユリを幸せにする覚悟はできてるの?」

「もちろんだよ」

「この場で誓いなさい。三年以内に黒字化。あと、浮気はしない」

「それはできないよ」

「なんでよ?」

「僕には浮気なんかできない」

 ミレイユが口を曲げてユリにウィンクする。

「ね、こういう男だからやなのよ」

 ――悪かったな、相性最悪の男で。

 しかし、やれやれ、しかたがない、東京へ行ってくるか。

 ずいぶん久しぶりだな。

 ――トントン。

 ん?

 今度は誰だ?

 なんだ、ユリか。

「なんだい?」

 彼女が腕を広げて目を閉じる。

 おいおい。

 待ってくれよ。

 ここで……か?

 ゲートを塞ぐ僕らを、みんなが注目している。

 めちゃくちゃ恥ずかしいじゃないか。

 あれだけ騒いだ自分がいけないんだけどな。

 こういうのを日本語で『バチが当たる』って言うんだろ。

 ユリが唇を突き出す。

 分かりましたよ。

 覚悟しろって言うんだろ。

「結婚、おめでとう!」

 ミレイユの拍手とアランの指笛につられてまわりの旅客たちからも拍手や口笛が浴びせられる。

 まったく、フランス人ってやつは……。

 熱いキスがお好きなようで。

「愛してるよ、ユリ」

「私も、ジャン」

 まあ、いいか。

 C'est l'amour.

 これが僕らの愛の形。

 そういうことなんだろ。

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