最終章 サクラ咲く角館

 半年ぶりに帰国して家に帰ったら、そこに私の居場所はなかった。

 親には家の恥だとののしられた。

「外国の男に騙されて帰ってくるなんて、ご近所に顔向けできないじゃないの」

「産むつもりなのか」

 遥香もあきれていた。

「だから一人旅なんてやめなよって言ったじゃない。旅先でだまされちゃって。どうしてもっと早く帰ってこなかったのよ」

 予想していたとおりの言葉だったから、私は思わず笑ってしまった。

 それがまた、この人達を怒らせてしまったらしい。

 別にだまされたわけでもないし、もちろん産むつもりだ。

 この子は何も悪くないし、私たちだって愛し合っていたのだ。

 私なりに考え、私なりに選んだことなのに、この人たちにはそれが理解できないようだった。

 あらゆることを自分の価値観に合うストーリーに書き換えなければ気が済まなくて、それに合わないものは徹底的に糾弾するのだ。

 今まで二十五年間、こんなところでよく生きてこられたものだと、ため息しか出なかった。

 この世にはちゃんと楽園があるというのに。

 話しても頑なにそれを信じない人がいるのだ。

 とはいっても、無職の状態でアパートを借りるわけにもいかなかったので、とりあえず実家に居候しているしかなかった。

 検診に通ったり、出産の準備をしなければならなかったから、今から仕事探しをするのは無理だ。

 幸い、半年間のイタリア滞在中はほとんどお金を使わなかったので、貯金だけでも当面の生活費や分娩費用はまかなえそうだった。

 いいお医者さんも見つかって、出産そのものはなんとかなりそうだった。

 この子が生まれて落ち着いてきたら、仕事を見つけてどこか別のところで暮らしていけばいい。

 甘くはないかもしれないけれど、ここよりはずっとましだ。

 この子と暮らしていける場所が私たちの楽園なのだから。

 アマンダは少しの間日本に滞在していて、いろんなイベントに参加してコスプレをしたり、薄い本を買いまくって楽しんでいたらしい。

「もう、ほんと、ニッポン最高ですよ。また来ますよ」

 彼女にとってはここが楽園なのだろう。

 ヨーロッパでは大里選手の活躍でサレルノFCが優勝争いに絡んでいて、日本でも盛んにニュースが流れていた。

 そして、四月下旬。

 出産まであと一ヶ月弱となった。

 私は体調も良く、お腹の子の経過も順調だった。

 関東ではとっくに葉桜になった頃、SNSで『#角館のイタリア人』というハッシュタグが拡散していた。

 秋田県の角館は関東よりも三週間くらい遅く桜が開花する。

 その桜の下で、イタリア人男性と写真を撮った人々がそれをSNSにアップして拡散しているのだ。

 SNSによると、その男性は愛する女性を追いかけて日本に来たと言っているらしい。

 でも、その女性がどこにいるのか分からないので、みんなで写真を撮って拡散するのに協力してあげているということだった。

 彼は角館で桜が咲き始めたころから毎日その場所に立って、観光客と写真を撮っているらしい。

 写真のイタリア人男性は『ティ・アーモ、ミサキ』という札を持って女性達と肩を組んでいる。

 イタリアの空の色で染めたような青いシャツを着たその人は、まぎれもなくミケーレだった。

 ちょっと、そんなところで何してるの!?

 臨月で体のことが不安だったけど、私はいても立ってもいられなくなって秋田新幹線で東北に向かった。

 角館は武家屋敷の街だ。

 枝垂れ桜やソメイヨシノに彩られた古い町並みを求めて、国内はもちろん、海外からもたくさんの観光客が押し寄せる。

 タクシーを降りて、SNSで噂されている場所に来てみると、彼は確かにいた。

 今日も『愛している』という札を持って私を探していたのだ。

 ミケーレのまわりには女の子達の輪ができていた。

 まるでタレントみたいな扱いだ。

 桜と武家屋敷だけでも映えるのに、ネットで話題のイタリア人と写真を撮りたがる女の子達が群がっているのだった。

 なんだかモテモテじゃないのよ。

 ほんと、イタリアの男って、どうなってるのかしらね。

 少し離れて様子を眺めていると、私に気づいた彼が頭の上に札を掲げて大きく手を振った。

「美咲! 僕だよ!」

 分かってるわよ。

 恥ずかしいから逃げようとすると、女の子達をかき分けて彼が追いかけてきた。

「どうしたんだよ、美咲!」

 じろじろ見られて恥ずかしいのよ。

 ひそひそ話が聞こえてくる。

 もしかして、あの人が美咲さん?

 アモーレの人?

 ティ・アーモの相手?

 お腹が大きいね。

 まわりの人たちが私たちにスマホを向け始めた。

「美咲! 待ってくれよ!」

 走って逃げるわけにもいかないし、私はあきらめて周囲の視線に耐えていた。

 向かい合った彼は変わらぬ笑顔を私に向けてくれた。

 それはあのナポリの港で初めて会ったときの笑顔そのままだった。

「さがしたんだよ、美咲」

「ずいぶんモテモテね」

「言っただろ。日本の女の子はみんな親切だって。僕に協力してくれたんだよ」

 確かにそのおかげでこうして会えたわけですけどね。

 でも、ちょっと納得いかないな。

 ミケーレは私の手を取ってさすりながらたずねた。

「体調はどう?」

「うん、順調」

「この何ヶ月か、君のいなくなったイタリアで僕はさびしい思いをしていたんだ」

「ごめんなさい」

「君のいないこの世にはなんの意味もないよ。仕事も会社も財産もなんの意味もなかったよ。僕が欲しいのは君だけだ」

 彼は興奮気味にしゃべり続けた。

「君は僕のヴィーナス、僕のアフロディーテ。君がいなければイタリアの空も日本の桜もみな色あせてしまうんだ。お願いだから、僕の世界からあらゆる色彩を奪わないでくれ。どこにも行かないでくれよ。僕のそばにいて欲しいんだ」

 まわりの人たちが私たちを遠巻きに眺めている。

 めちゃくちゃ恥ずかしい。

 それなのに彼はお構いなしだ。

 ほんと、イタリアの男って、どうなってるんだろう。

 どんどん声が大きくなっていく。

「僕は君を愛している。何度でも言うよ、美咲。ティ・アーモ。結婚しよう」

 それができないからこんなことになったんじゃないのよ。

 だから私は楽園にいられなくなってしまったのに……。

 そんなに愛を叫ばないで。

「お願いだから黙って」

 うつむいた私をそっと抱き寄せながら彼が耳元でささやいた。

「どうしてだい。僕はこの子の父親だろう? あの日僕らが愛し合ったその証。その愛の結晶だろう?」

「いいから黙って」

 私はミケーレの手を取ってお腹に当てた。

「ほら……ね。分かる?」

 お腹の子供がしきりに蹴飛ばしている。

「パパ、うるさいって」

 お腹の中で新しい命が動いている。

 私たちの子供だ。

 ミケーレは愛おしそうに私のお腹に手を当てていた。

 彼のお腹がきゅるると鳴る。

「ねえ、美咲」

「何?」

「十年ぶりにあのイタリアンファミレスで極上のティラミスが食べたいな」

 私は首を振った。

「あのチェーン店は秋田県にはないって知ってた?」

「なんだって!?」

 こんな絶望的な彼の表情は見たことがなかった。

 それに比べたら、私たちの問題なんて全然たいしたことないのかもしれないと思った。


   ◇


 赤ちゃんは無事に生まれた。

 お産は大変だと聞かされていたし、私も覚悟はできていた。

 でも、いざ陣痛が始まってミケーレに病院に連れて行ってもらったら、まるでスリッパでも脱ぐみたいにスポーンと産まれてきて、私よりも産院の人たちの方があわてていた。

 ミケーレはその時ちょっとトイレに行っていて、産まれる瞬間に立ち会えなかったのを悔しがっていた。

 そんなちょっとお騒がせな赤ちゃんは女の子だった。

 娘の名前は『サクラ』になった。

 名付けてくれたのはパオラさん夫妻だ。

 日本の桜をまだ見たことがないというおばさんたちを来年のいい時期にご招待しようと思っている。

 ヨーロッパではサッカーシーズンが終わり、早くも移籍の話題が出始めていた。

 大里健介選手はサレルノFCを去って、ドイツリーグの下位チームに移籍した。

「イタリアではリーグ優勝という目標を達成したので、もう一度挑戦する心を取り戻したいと思い、ここに来ました。チームに貢献して欧州カップ出場資格の獲得を目指します」

 昨シーズンの活躍から考えれば、この移籍は不可解と受け止められたようだった。

 移籍して間もなく、あるお菓子のCMが日本でも流れ始めた。

 ゴールを決めた大里選手が熊のキャラクターと肩を組んでグミを食べている。

『少しくらいの息抜きは必要さ。この一粒のグミのようにね』

 彼のチームのスポンサーがお菓子メーカーだったのだ。

 CM向けの笑顔ではない。

 まるで少年のような笑顔だ。

 まさかとは思ったけど、おそらく移籍の本当の理由を知っているのは、世界中で彼と私だけだろう。

 ニュースがもう一つあった。

『大里選手が一億ユーロを寄付して財団を設立。海外を目指す若い選手を支援するプログラムを開始』

 一時帰国した彼の記者会見動画がインターネットで話題になっていた。

 半笑いの記者が挙手して質問した。

「ご自身のご結婚については? お子さんを将来サッカー選手に育成するプランについて聞かせてください」

 大里選手は表情を硬くし、声を抑えながら答えた。

「最初の質問がそれですか。がっかりですよ。そういう質問をしているから、日本のマスコミは百年遅れてるって言われるんでしょう」

 会見場が凍りつく。

「誰の子供かなんて関係ありません。日本のサッカー界全体を十年は進めるためのプログラムですから。十年でも遅いくらいですよ。日本が十年分を一年で進めようとしても、ヨーロッパはその間に二十年先に行ってるでしょう。それが現実なんです」

 声のトーンが高くなる。

「私が第一線で活躍できるのもあと数年でしょう。次の日本代表の育成は今からでも遅いんです。いざ海外に出ようと思っても、すぐに適応できるわけじゃない。若いうちから海外に出るためには、逆算して何をどの段階で準備していかなければならないか。そういった経験を伝えていくことも大事なんです。想像を絶するメンタルが要求される。甘くない現実が待っている。だけど、日本に閉じこもっていては味わえないとてつもない達成感と、巨額の報酬、そして何よりも世界的名声が手に入る。それをしっかりと日本全国のサッカー少年少女達に伝えるのがあなた方の仕事でしょう。違いますか?」

 記者達は誰も発言できないでいる。

「私ならそれができる。だから財団を設立してこのプログラムを企画したんです」

 彼のお説教は続く。

「私だけじゃない。マスコミだってもっと危機感を持たないと。あなたも日本代表チームの提灯記事を書くために記者になったわけじゃないでしょう。それなら前の記事のコピペでじゅうぶんじゃありませんか。AIにまかせておけばいい。勝っても負けても『感動をありがとう』ばかり。こっちとしては『どういたしまして』ですよ。もっとプロフェッショナルな質問はないんですか?」

 記者達の沈黙は続く。

 彼らを見回しながら大里選手が口を開いた。

「最近私はある女性に振られました。だからイタリアを去ったんです。知りたかった情報はこれですか? 他に質問は?」

 記者がおずおずと手をあげた。

「別れた原因は何ですか?」

 その質問に彼はイタリア語で答えた。

 動画はここだけ字幕がついている。

「サッカーは一流でも、男としては最低だからでしょう。次のプロフェッショナルな質問は?」

 会見の後、イタリアのアマンダからメールが届いた。

「なんか日本で私の写真が出回ってるそうですね。大里健介の恋人だったとか。私、二次元にしか興味ないんでメイワクですよ」

 サクラが生まれて、もう一つ世界が動いていた。

 エマヌエラさんは所有する株式を全てドナリエロ財団の信託財産として寄付したそうだ。

「普通のおばあちゃんになります」

 財閥のあらゆる権利を捨てて、引退するということらしい。

 その後、突然来日したお母さんが文化庁長官と握手をしている姿がニュースで流れていた。

『大規模なイタリア絵画展を日本で開催。名家秘蔵の逸品を初公開。日伊友好に貢献』

 お母さんはその後京都を訪問して、美術工芸、料理やお茶といった日本文化を存分に堪能したらしい。

 よほど気に入ったのか、着物姿でおみやげを持ってきてくれた。

「この山芋のわさび漬けがね、とてもおいしいのよ」

 孫娘を抱きながらとても御満悦だ。

「あなた達、結婚式はいつするの?」

 あなたのせいでできなかったんですけど、とは言わないでおいた。

 内緒だけど、実はもう籍は入れてある。

 角館から戻ってきてすぐに婚姻届を出しておいたのだ。

 お母さんは日本語を習っていて、私のイタリア語よりよっぽど上手に話すようになった。

 最近は書道も始めたらしい。

『爛漫とサクラが美咲角館』

 変な俳句を色紙に書いてベビーベッドに飾るのはやめてほしい。

 ミケーレはずっと日本に居続けている。

「会社なんて、僕がいなくたってどうにでもなるよ。そのために優秀な連中を雇ってるんだからね」

 私たちはイタリア料理のファミレスチェーンがある街に引っ越して暮らしている。

 もう少し娘が大きくなったらイタリアに移住しようと思う。

 この子に見せてあげたいものがたくさんあるからだ。

 私は体質なのかあまり母乳が出なかった。

 でもその方が、夜中にぐずって泣いたときにミケーレがミルクをあげられるので、かなり助かっている。

 ミケーレはミルクを飲ませたあとにゲップをさせるのがうまい。

「はーい、ゴキゲンですね。ほら、おねんねですよ」

 彼はしわしわ顔の娘を抱っこしたままリビングを歩き回る。

 おとなしくなったところで、そっとベッドに置いて、布団を掛ける。

 彼も寝るのかなと思ったら、ベッドの柵にもたれかかってじっと娘の寝顔を見ているようだ。

 甘いささやきが聞こえる。

「ああ、僕は君の虜だよ、サクラ。君は僕のヴィーナス、僕のアフロディーテだ」

 蹴っ飛ばしてやりたいくらいの溺愛ぶりだ。

 イタリアの男って……。

 本当に、どうなってるのかしらね。

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地中海の風に抱かれて 地味子の私がイタリア大富豪に見初められちゃいました 犬上義彦 @inukamiyoshihiko

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