第5章 受胎告知、楽園追放
目を開けたとき、私は横向きに寝ていた。
淡い光の中に沈んだ部屋の様子が目に入った。
一瞬状況がつかめなかった。
体を起こすと、背後に男が寝ていた。
大里健介……。
ああ、そうだ。
私はこの男に身をゆだねたのだ。
いつの間にか終わっていたのか。
どうやら眠ってしまっていたらしい。
部屋にはベッド脇の小さなフットライトだけがついていて、窓の外は暗く、あいかわらず雨がまばらな音を奏でていた。
彼を起こさないようにベッドから抜け出して寝室の外のバスルームへ行った。
ライトをつけると、壁一面の鏡に下着姿の私が映った。
下着を脱ぎ捨てて浴槽にお湯を張る。
鏡に映った自分の裸体を見る。
私は何をされたんだろうか。
彼にどんなみだらなことをされたんだろうか。
これが私の望んだことなのか。
涙が止まらなかった。
まだ半分しか貯まっていない湯船に入って、手ですくいながら肩にお湯をかける。
馬鹿な私。
胸の奥から吐き気がこみ上げてくる。
比喩的な意味ではなかった。
本当に体の中が震えて、食道が痙攣しながら吐き気がこみ上げてきたのだ。
私はあわててバスルームの便器に駆けていった。
思えば朝食から何も食べていなかったから、実際には胃が痙攣しただけで何も出てこなかった。
どうやら空腹過ぎてちょっと貧血気味になってしまったようだ。
そういえば、グミを一つ食べたっけ。
幸い、いったん通り過ぎた吐き気はぶり返してくることはなかった。
鳥肌のたつ体をお風呂で温める。
馬鹿な私。
取り返しのつかないことをして……。
でも、なんで私は下着を身につけて寝ていたんだろう。
済んでからわざわざ下着だけ着たのかな。
何も覚えていない。
体が温まってきて、少しずつ眠気がさえてくる。
でも、やはり何も思い出せない。
全身をくまなく洗い流す。
あの男の痕跡を残したくはない。
バスローブをまとい、髪を乾かしてバスルームを出ると、ベッドの上であの男が目を開けていた。
上半身を起こして二つ重ねた枕にもたれかかりながら私を手招きしている。
嫌悪感をこらえながら私はベッドに腰掛けた。
腰に手を回して抱き寄せようとするのを私は拒んだ。
彼は顔を寄せてきて耳元でささやいた。
「あんたもおもしろい女だな。俺がシャワーから出てきたらグーグーいびきかいて寝てたぜ」
「え、いびきかいてましたか?」
「おいおい、気にするのはそっちかよ」
思わず顔が熱くなる。
男はそんな私を見て楽しんでいるようだ。
「それに、あんたは寝相が悪いな。寝てる間に二度蹴られたよ」
「ごめんなさい」
「一度目はイエローカード。二度目はレッドカードで退場だろ」
「じゃあ追い出しますか?」
彼はニヤリと笑った。
「いや。勝利の女神は離さないさ」
男は私の肩を引き寄せて正面に向き直らせた。
そして、枕元に落ちていたスマホを私に突きつけた。
「あんたの恥ずかしい動画を撮らせてもらったぞ。勝利の女神に逃げられたら困るんでね」
動画!?
とっさに奪い取ろうとするのをあざ笑うかのように彼はスマホを引っ込めた。
「いい反応だ」と下卑た笑みを浮かべてみせる。
「サイテー。そうやって今までも女の人を脅迫してきたんでしょう」
「なんとでも言えばいいさ。これも自衛のためだ。前にも言ったように、匂わせとかスキャンダル捏造で知名度アップの話題作りに利用されたくないんでね。安心しろよ。俺は紳士だから、あんたが黙っていれば誰にも見せないし、脅迫なんてするつもりもない」
私は何も言えなかった。
頭の中が真っ白で何も思いつかなかった。
「それとも俺を訴えるか? 裁判でこの動画を証拠として提出すれば、みなが興味津々であんたの痴態を眺めるだろうな。俺はかまわないぞ。俺は映ってないからな」
そう言いながら彼はベッドから抜け出し私の前に立った。
隆々とした肉体が私を見下していた。
「どちらがいいか自分の立場をよく考えるんだな。まあ、考える時間くらいはくれてやるよ。どうせなにも決められないんだろうけどな」
そう言い残して彼はバスルームへ消えていった。
ベッドの上にスマホが放り出されている。
奪い取ってみたところで、顔認証もパスワードも通らなければ起動もできないだろう。
破壊したところで、ネット上にデータを保管されていたら意味がない。
男はそれを分かっていて、狼狽する私を楽しむつもりなのだ。
また選択肢はなかった。
どうして私はいつも選択肢がないんだろう。
私の人生はいつも他人に決められてしまう。
選択肢をいつも一つに絞られて、あなたはこれが正解なんだから飲み込みなさいと無理矢理押し込まれるんだ。
フォアグラのように膨張した私のフラストレーションが爆発した。
こんなところから一刻も早く逃げ出さなければならない。
「おい」
男がバスルームから顔を出す。
「あんたの下着だ」
男はベッドに向かって放り投げてよこした。
まるで巨大なナメクジに体をなめ回されたような嫌悪感がこみ上げてくる。
叫び出しそうになるのをこらえて、脱いであった服を身につけると私は部屋を出た。
ホテルの外は真っ暗だった。
手ぶらで駆け出してきてしまった。
何時なのかすら分からない。
ぬるい雨が私を濡らす。
行くあてなどない。
涙よりも雨に濡れる。
泣いて感情を洗い流す気力すらない。
私は海岸沿いの棕櫚の並木道をさまよい歩いた。
ライトアップされていた町並みも今はすっかり闇に沈んでいる。
雨のせいか人通りも絶えている。
馬鹿な美咲。
自分から望んだことじゃないの?
あなたから抱かれようとしたくせに。
自分でそう決めたんでしょう。
また失敗しちゃったじゃない。
あなたが決めるといつもそうでしょう。
だから言ったじゃないの。
お人好しの美咲。
いい人ね、あなたは。
……そうよ。
だから何よ。
私が自分で選んだのよ。
こうなる運命を。
この無様な結果を。
全部私のせい。
誰のせいでもないわよ。
私が選んだの、一人で決めて。
闇の中で野獣の咆吼がこだまする。
振り向くとライトを付けたままの車のドアが開き、誰かの影が見えた。
美咲!
声が聞こえた。
美咲!
どこだ、美咲!
日本語だ。
ここはどこだっけ?
夢でも見てるのかな。
私、今、どこにいるの?
「美咲!」
顔を上げると彼がいた。
私の愛する人。
私を愛してくれた人。
ミケーレ……。
「美咲、どうしたんだ。ずぶ濡れじゃないか」
彼は私を抱きかかえて車へと運んでくれる。
エンジンをかけたままのフェラーリが私を待っていた。
「美咲、しっかりするんだ」
私を脚で支えながら助手席のドアを開けて、彼が中に入れてくれた。
運転席に回り込んで彼も中に入る。
ドアが閉まると、雨の音が遠くなる。
彼もずぶ濡れだった。
「美咲、だめじゃないか。真夜中にイタリアを一人で歩くなんて、いくら日本人でも無防備すぎるよ」
ごめんなさい。
口に出して言わなければならないのは分かっていても、声が出なかった。
彼が車を走らせる。
ワイパーが単調なリズムを刻む。
「僕はてっきり君があのホテルにいるものだと思っていたよ。アマンダから連絡をもらってびっくりしたさ」
アマンダが連絡?
どうして私がホテルを出たことを知っているんだろう。
「どうしたんだい、美咲。いったい何があったんだ?」
説明などできるわけがなかった。
私はあなたを裏切ったのよ。
ごめんなさい、ミケーレ。
「私たち、もう終わりでしょう?」
「まさか、何を言うんだよ」
「私が別れると言ったから。もう元には戻れない」
彼は私の方を向いて言った。
「美咲、僕は君を愛しているよ。君と別れたくはないし、別れるつもりもないよ」
「前を見て」
彼は減速しながら私の言葉に従った。
「信じてくれ。僕は君のためならなんでもするよ。君を手放したくなんかないんだよ。僕は君を崇拝している。君は僕のヴィーナス。僕のアフロディーテなんだから」
私はいつも間違える。
取り返しのつかない失敗を繰り返す。
そして、こんなにも愛してくれている彼を裏切ってしまったのだ。
体が震え出す。
「寒いのかい? もうすぐだ。頑張るんだよ」
彼は車のヒーターを最大にする。
熱い風が吹きつけてきて、汗だか雨の滴だか分からないものが額から流れ落ちる。
寒いのは心だ。
心の芯が凍りついていく。
車が到着したのは市街地の集合住宅だった。
四階建ての建物が中庭を囲っている造りで、外の道路からフェラーリを内側に面した玄関前まで乗り入れる。
玄関口で待っていたのはアマンダだった。
「僕の家はまずいだろ。だから彼女に頼んだんだ」
「ありがとう、アマンダ」
「さ、こっちです」
階段を上がって二階の部屋がアマンダの住んでいるアパルタメントだった。
部屋中に、日本のアニメのポスターやらフィギュアが飾られている。
彼女の趣味を知らないミケーレがびっくりしていた。
「僕はいったん家に戻るよ。明日の朝、必ず迎えに来るからね」
ミケーレはずぶ濡れの私を抱きしめた。
「本当はずっとそばにいたいんだけど……、すまないね」
お母さんが家にいるのだろう。
迎えに来てくれたことだけでも感謝しなければならない。
「ありがとう、ミケーレ。待ってる」
私は自分から彼と頬を触れあわせた。
ミケーレが帰っていって、私はシャワーを借りた。
気持ちも体も少し落ち着いてきた。
「美咲さん、これ使って下さい」
アマンダが『衣装』を貸してくれた。
ゴシックメイド?
「似合いますよ」
せっかくのご厚意に逆らうわけにもいかないので、言いなりになるしかなかった。
テーブルの上に湯気の立つマグカップが置かれていた。
シャワーを浴びている間にホットココアを用意していてくれたらしい。
私はソファに腰掛けて、温かい飲み物をありがたくいただいた。
私の服を洗濯機に入れようとしたアマンダが顔をしかめる。
「これ、シルクですね。ミケーレからもらったんですか。なんでお金持ちって乾燥機にかけられない服ばっかり買うんですかね」
文句を言いながらも、ハンガーに掛けてバスルームに干してくれた。
本当に申し訳ない。
「それにしても、どうしたんですか。大里選手から美咲さんがホテルを出ていったと電話をもらったときは驚きましたよ」
「彼が?」
「大里さんと何かトラブルでもあったんですか?」
アマンダが心配顔で私の隣に座った。
何から説明して良いものか、どこまで説明するべきか、また思考が頭の中で渦を巻く。
『動画を撮らせてもらった』
彼を責めるようなことを言えば、どんな報復をされるか分からない。
「何もなかった。さびしかっただけ」
アマンダは静かにうなずいただけで、それ以上何もたずねなかった。
「寝ましょうか。疲れたでしょう」
イケメンアニメキャラの抱き枕にしがみつきながらアマンダがベッドに寝ころぶ。
……愛しのダーリン様、お邪魔します。
私はどこに寝ればいいかと思ったら、ソファの背もたれを倒すとベッドになるのだった。
「この衣装のまま寝ちゃっていいの?」
「はい、よろこんで。最高のシチュエーションですよ。眠れる黒髪ゴシックメイドさんと同じ部屋で一夜を過ごせるなんて」
私には分からない趣味だった。
◇
翌朝、約束通りミケーレが迎えにやってきた。
カプリに戻ろうと言う彼と一緒にサレルノの港から船に乗った。
私はミケーレに内緒でアマンダに、ホテルに置いてきた荷物を送ってくれるように頼んだ。
「大里さんに任せてあるから」
彼女は特に事情をたずねることもなく、業務の一つとして受けとめてくれた。
港にあったのは、アマルフィから乗ったのと同じ漁船くらいの大きさのクルーザーだった。
サレルノからヘリコプターで飛び立てば目立ってしまうという配慮なのだろう。
雨は上がっていたけれども、まだ波は少し高いようだった。
ときおり跳びはねるような揺れがあって、私はすぐに酔ってしまった。
船酔いの薬をもらったけど、すぐに効くわけでもなく、キャビンのソファに横になって耐えるしかなかった。
ミケーレが心配そうに私の額に手を当てている。
「ごめんなさい」
「船は大丈夫だから、安心して寝てるといいよ」
私が謝っているのは船酔いのことではない。
でも、それを彼に説明する気力もなかった。
何度もこみ上げてきては引いていく吐き気と戦うのが精一杯で、そんな余裕はなかった。
揺られているうちに眠くなってきた。
私は彼の手を握って目を閉じた。
ミケーレ。
どうして私はあなたを裏切ってしまったのだろう。
占い師のつまらない予言のままに、詐欺師の罠にはまるなんて。
馬鹿な私。
こうしてあなたのそばにいることなんて許されないのに。
あなたは何も知らないから私のことをまだ愛していると言ってくれる。
本当のことを知ったら、あなたは私を軽蔑するでしょうね。
私は愚かだ。
つまらない失敗をしないと愛を信じることすらできないんだ。
閉じた目から涙が流れ落ちる。
「大丈夫かい、美咲。しっかりするんだ。もうすぐ薬も効いてくるだろうからね」
涙の意味を勘違いしている彼の顔を見ることができない。
目を閉じたまま私は手に力を込めた。
そんな私の手を彼はしっかりと握りかえしてくれた。
お願い、離さないで。
私のミケーレ。
愚かな私を離さないで。
私は波に揺られながら、心の中でずっと彼に謝り続けていた。
船が減速を始める。
カプリ島だ。
今頃になって船酔いも落ち着いてきて、私はミケーレと並んでデッキに出た。
ソラーロ山が今日も輝いている。
懐かしいふるさとに帰ってきたような気分だ。
カプリのマリーナ・グランデには大型フェリーが何隻も停泊していた。
「ストライキが終わったんだよ」
港の前の広場も人であふれている。
あの閑散とした島がなんだったのかというくらい観光客でごった返している。
青の洞窟には入れなくても、やはり世界中の人々が訪れる楽園なのだ。
絵はがきを壁一面に並べたお土産屋さんにはひっきりなしに人が出入りし、島の周囲を巡る遊覧船のチケット売り場には行列ができていて、ふらつく頭を押さえながら歩いていたら彼とはぐれてしまいそうだった。
広場にはいつもの小さな車がなかった。
「今日は上の街までフニコラーレで行くよ」
「フニコラーレ?」
「ケーブルカーだよ」
ミケーレの顔を見た係員が改札口の扉を手で開けてくれる。
チケットはいらないらしい。
「改札機が壊れてるんだよ」
そうだった。
ここはイタリアなんだった。
陽気な観光客で満杯の車両に私たちが乗り込むとすぐに発車して、急な坂をほぼ垂直なイメージで上がっていく。
あっという間に港の船が小さくなっていく。
ホテルの屋上プールで肌を焼く人たちや、窓辺であくびをしている猫。
壁にもたれてタバコを吸っていたおじさんが照れくさそうに手を振ってくれる。
ちょっと息苦しいけど、どんどん展開していくガラス越しの風景から目が離せなかった。
上の街に着いて外に出たところで事情が飲み込めた。
港から上がってくる細い道が大渋滞しているのだ。
「観光客が多いといつもこうなんだよ」
ミケーレと車で上がった時ですら、行き違うのに苦労していたのに、バスやタクシーが多くなると、もうどうしようもなくなってしまうらしい。
坂の下の方のあちこちでクラクションが鳴り響いている。
小さなホテルの一階部分に作られた駐車場に、いつものイタリアの小型車が置いてあった。
「ここからだと、まだましなんだよ」
彼の言葉通り、狭い街を抜けると、ソラーロ山を巡ってアナカプリへと登っていく道路はいつも通り快適なドライブだった。
あいかわらず眼下の地中海は青く、空は広い。
でも、同じ風景を見ても心は弾まない。
左側の運転席にいるミケーレを見ることができなくて、私は退屈な景色を眺めているふりをしていた。
アナカプリの街まで来たところで、いつもの見慣れた松並木の小道に入らずに、彼は西の灯台へと続く坂道を下り始めた。
「パオラに別の家の手配を頼んだんだ」
「別の家? お母さんに知られないように?」
「ああ。それなら美咲も安心してここにいられるだろう」
どうだろうか。
エマヌエラさんに分からないことなんてあるんだろうか。
あの人は南イタリアのすべてをその手の中に握っているような人だ。
ばれるのも時間の問題だろう。
でも、少しでも長くいられるのなら、そうした方がいいだろう。
車は坂の途中で赤松の林へと入っていき、山の斜面に沿って坂を少し上がって海の見える開けた丘の上に出た。
白い壁の小さな家がある。
車が止まると中からパオラさんが出てきた。
「チャオ、ミサキ。あらあら顔色が悪いわね」
「船に酔ったみたいで」
「波が高かったのね。中で休むといいわよ」
家の中も白い壁で、窓枠は青く塗られていた。
床も青と白の市松模様のタイル張りで、開いた窓からは涼しい風が入ってくる。
正面は広い地中海だ。
ミケーレが背中から私を抱きしめた。
「美咲、すまない。僕はこれからすぐに仕事でナポリに飛ばなければなければならないんだ。僕がここにいることを母に知られたくないからね」
「ありがとう、ミケーレ。いつも私のために、何から何まで用意してくれて」
「いいんだよ。それよりも本当にすまないね。ずっと君と一緒にいたいのに、そういうわけにもいかなくて。分かってくれよ。時間がほしい。必ず解決できるはずさ。愛しているよ、美咲」
「ええ、大丈夫。分かっているから。ティ・アーモ、ミケーレ」
私はパオラさんの見ている前で彼に口づけた。
人前でも自分の気持ちを素直に伝え合う。
イタリアのやり方に自分から慣れる必要がある。
私にできることはそれくらいのことしかない。
「すまない。行かなくちゃ」
彼はもう一度私と頬を触れあわせてから外に出ていった。
パオラさんと二人きりになる。
丘の下から風に乗ってかすかに波の音が聞こえてきた。
「ここはね、私が生まれ育った家なのよ」
「そうなんですか」
「両親が亡くなって以来、長いこと使ってなかったけど、結構きれいでしょ」
「掃除が大変だったんじゃないんですか」
「仕事だもの。たいしたことなかったわよ」
「ありがとうございます、パオラさん」
「それにしてもなつかしいわね」
窓から見える地中海に目を細めながら、パオラさんは急に昔のことを語り始めた。
「私たちね、ここで初めて結ばれたのよ」
「ジュゼッペさんですか?」
「彼ね、もう夢中で私にしがみついてきてね。今でこそ、無愛想なくせに、昔は結構情熱的だったのよ。ちょっと魚臭かったけどね」
魚臭い?
パオラさんは壁に掛かった額の写真を見つめている。
「昔はね、あの人漁師だったのよ。親の手伝いで海に出てたの。エビを捕っては、うちに持ってきてくれてね」
「へえ、そうだったんですか」
いろいろな思い出の詰まった家。
「自分の家だと思って使ってね。家は人が住んでいないと傷んでしまうから」
おばさんは水道やガスの具合を確かめてから、ミケーレの別荘に戻っていった。
一人になって南向きの窓から海を眺める。
太陽の光に照らされた地中海はきらきらとまぶしい。
遠くでヘリコプターの音が聞こえる。
ミケーレがナポリに向かって出発したのだろう。
寝室にはベッドが整えられていて、私のスーツケースが置かれていた。
中には財布が入っている。
日本で交換してきたユーロはほとんど減っていない。
ナポリのバス代を払ったくらいで、全然使う機会がなかった。
私はアナカプリの街まで買い物に行くことにした。
自分の食事くらい用意しなくちゃ。
これからここで、『生活』するのだ。
いつまでになるかは分からない。
でも、自分のことは自分で決めて、自分でやる。
これからどうなるのかは分からないけれど、目を閉じてじっとしていても何も始まらない。
きゅるるとお腹が鳴る。
さて、何を食べようかな。
私は白い家を出て丘の上から地中海を横目に街へ向かって歩き出した。
◇
カプリでの生活が始まって、一週間が過ぎた。
パオラさんは毎日やって来て、料理のお裾分けやジュゼッペさんが菜園で作ったハーブなどを置いていってくれる。
サレルノに残してきた荷物がアマンダから別荘あてに送られてきて、それもおばさんが届けてくれた。
特にメッセージなどは同封されていなかった。
大里選手からは何も聞いていないらしい。
自称『紳士』の彼は、あの日のことは約束通り口外していないようだ。
彼が遠征でジェノヴァに行っていたという話はジュゼッペさんから聞いた。
「開幕戦であの活躍だからね。ジェノヴァでも大騒ぎだったらしいよ」
サレルノFCは大里選手のゴールで開幕二連勝を飾り、得失点差でリーグ二位につけているらしい。
『好調の原因は?』という日本のスポーツ記者のインタビューに、『おもしろい動画を見ながら寝るとぐっすり眠れる』と答えていた。
私の恥ずかしい動画のことを匂わせているのだろうか。
気にし過ぎかもしれないけど、疑心暗鬼になってしまう。
ミケーレは仕事でいそがしいらしく、パオラさんの話では、ナポリ、ミラノといったイタリア国内はもちろん、パリやロンドンなど、ヨーロッパ中を飛び回っているようだった。
連絡を取る手段はないけれど、私は彼が来てくれるのを気長に待っていた。
一瞬で燃え尽きてしまうことはない。
今の私たちには、揺らめくろうそくの炎を見つめ合うような静かな時間も必要なのだろう。
彼が必ず来ると約束してくれたのだ。
時間が解決してくれる。
今はそれを信じるしかなかった。
私は自分のお金で生活に必要な物を買いそろえながら、何もない退屈な時間を楽しんでいた。
九月に入ったカプリ島はまだまだ観光客であふれていた。
一緒に買い物に出かけたパオラさんが肩をすくめる。
「ストライキの反動かしらね、いつもより混んでるくらいよ」
観光で成り立っている島だから、その方が働く人にはいいんじゃないだろうか。
「でもね、ほら、ここはイタリアでしょう。いそがしいとみんな仕事したくなくなっちゃうのよ。みんな退屈が大好きだからここにいるんだもの」
それでも生活が成り立つんだから、日本人からしたらうらやましい限りだ。
パオラさんの旧宅は観光客の多いアナカプリの街からは少し外れたところにあって、たまにソラーロ山のハイキングを楽しむ人を見かける程度で、とても静かだった。
のんびりとした時間が過ぎていく日々の暮らしが私の心にも落ち着きをもたらしていた。
ミケーレはナポリからサレルノへ行く途中でわざわざ立ち寄ってくれることもあった。
ヘリコプターの給油の合間にほんの三十分だけだったけど、むしろそこまでして来てくれるところに彼の誠意を感じた。
「母とは話し合いをしているんだけど、まだ説得はできていないんだよ。本当にすまないね」
「ううん、大丈夫よ。もう、あなたを責めたりしないから」
「僕の愛は変わらないよ。ティ・アーモ、美咲」
「私も愛してる。ティ・アーモ、ミケーレ」
どうして私はこんなにつくしてくれる彼を裏切ってしまったのだろうか。
私はおびえていた。
大里選手に撮られた動画という爆弾がいつ炸裂するのか。
暴露されれば、私とミケーレの関係に終止符を打たれることになるだろう。
後ろめたさを寛容さでごまかそうとする私のずるさにミケーレは気づいていないようだった。
愚かな私をアフロディーテと崇拝する彼にしてあげられることは何もなかった。
時がたてばなおさら深みにはまっていくだけなのか。
引き返すなら今なのか。
結局私は何も決められずにいた。
生活のリズムがゆったりしているせいか、私は居眠りをすることが多くなっていた。
昼と夜が逆転気味だった。
最初のうちは時差ボケの影響かと思ったけど、イタリアに来てから二週間以上たっているからその可能性は低そうだった。
短期間にいろいろなことが起きたことによる精神的疲労かと思ったりもした。
実際、動画のことや後ろめたさについて思いを巡らしていると頭がぼんやりしてしまう。
しかし、そのうち、本格的に体調不良になってきて、あまり出歩く気力さえもなくなってきてしまっていた。
胸のむかつき、だるさが主な症状で、熱や咳などは出なかった。
じっとしているだけでやたらと唾液がたまってしまうのも不快な症状だった。
一週間たっても改善しないので、パオラさんが心配して医者に診てもらったらとすすめてくれたけど、精神的なものだろうからと、私は家にこもって海を眺めながら静養していた。
そうこうしているうちに、日本へ帰国する予定の日が迫ってきた。
私たちの関係に進展はなかったし、お母さんの説得や大里選手とのことも解決した問題は何一つなかった。
具合を心配してこっそりお見舞いに来てくれたミケーレが、航空券をキャンセルして取り直すことを提案してくれた。
「その日に必ず帰国しなければならないわけではないのだから、体調が良くなってからにしたらいいよ。長距離だからね。ビジネスクラスを用意するよ。フルフラットシートで寝てるうちに日本に着くよ」
イタリアから日本への直行便にはファーストクラスがなく、ビジネスクラス止まりなのだと彼が申し訳なさそうに説明してくれた。
それでももちろん元々エコノミーのチケットだったのだし、庶民の私にはとてもありがたい提案だったので、手続きをお願いして素直に受け入れることにした。
いちおう日本の両親には帰国がのびることを連絡しておいた方がいいかと思って、海外通信の設定をしてスマホを接続してみた。
たまっているメッセージの内容がヒステリックなものばかりになっていた。
『どうして連絡しないの?』
『なにかあったの?』
『日本大使館に問い合わせるわよ』
『連絡をちょうだい』
私は帰国をのばすという短いメールを送信した。
すぐに返信が来る。
『無事なの?』
『大丈夫なの?』
『どこに滞在しているの?』
『お金はあるの?』
『悪い人にだまされたりしてない?』
否定的な言葉ばかりが並んでいてうんざりする。
帰る必要なんてあるのかな。
自分でもあまり気づいていなかったけど、私は親から離れたいと思っていたのかもしれない。
社会人になる時に会社に近いところで一人暮らしをしたいと思ったことがあるけど、親に話したらものすごく怒られたことを覚えている。
女の子が一人暮らしなんてとんでもない。
頭ごなしに否定されて、私は頭の中からその考えを消したんだった。
遥香にも言われた。
『美咲が一人暮らしなんかしたら、一週間で犯罪に巻きこまれるよ』
確かに言うとおりだったね、遥香。
いつだって間違っていてるのは私。
彼のお母さんと揉め事を起こした私。
恥ずかしい動画を撮られた私。
私はどうしていつも他人の予言通りに動いてしまうんだろう。
自分で決めたつもりなのに、『全部私が言った通りじゃない』と笑われる。
そんな自分から逃げたくて、そんな予言者達から離れたくて日本を旅立ったのだ。
なら、私はずっとここにいればいいんじゃないだろうか。
それはとても良い解決方法のように思えた。
日本に戻らなければならないと思うから解決を焦るのだ。
時間にこだわる必要がないのなら、いっそのことミケーレとの結婚という形式にこだわることもないのだ。
彼が言い出したことだからそれにとらわれてしまったけれど、お互いに割り切った関係を続けていけばいいだけなのかもしれない。
アマンダが言っていたように、極端な話、お金だけもらっていればいいのだ。
結婚しないという意思を明確にして、ただの彼の女友達という立場を守っていれば、私はずっとここにいてもいいのかもしれない。
それならばエマヌエラさんだって特に反対はしないかもしれない。
イタリア語を覚えて、何か日本人観光客相手の仕事でもして生活ができるなら、それはそれでありなんじゃないだろうか。
両親や遥香はそんな私の考えには反対するだろう。
『日本でちゃんとした仕事につかないとだめだ』
『そんなのうまくいくはずがない』
『本当にそんな立場に甘んじていていいの?』
……うん。
いいんじゃないかな。
少なくとも、あの息苦しく先の見えなかった日本での会社員生活よりは良いような気がした。
私の心を覆っていた雲がすうっと流れ去って、青空がもどってきたようだった。
元々目の前には青い海と広い空が広がっていたのだ。
どうして今までそれに気づかなかったのだろう。
彼の方が前のめりになりすぎていたんだ。
私を愛してくれていることはとてもうれしいけれど、一つの形式にこだわる必要はなかったのだ。
ミケーレから離れることを考えなくて済むようになってからは、精神的にも少し落ち着きを取り戻してきて、体調も良くなったような気がした。
最初に予定していた帰国日が実際に過ぎてみると、まったく日本に帰る気がなくなってしまった。
帰りの航空チケットがなくなって吹っ切れたのかもしれなかった。
私は少しずつ散歩に出るようになり、パニーニを持ってソラーロ山に歩いて登ることもできるところまで回復した。
誰もいない山頂から地中海に向かって叫ぶ。
「ティ・アーモ、ミケーレ!」
いつだったか、彼がヘリコプターで現れたことがあった。
もちろん、そんな偶然、もう二度とおこらない。
魔法の呪文を唱えたからといって、あの時に戻れるわけではない。
でも、これでいいのだ。
もっと穏やかに、燃え尽くすことなく、ゆっくりと愛を育んでいけばいいのだ。
私は山頂からパノラマの風景を見回した。
ソレント半島、真っ青な地中海、眼下の西の灯台、遠くナポリ湾に霞むベスビオ火山。
私は楽園の頂上に立っていた。
ここが私の居場所。
私の来たかった場所。
私は彼を愛している。
そして、彼に愛されている。
今度彼が来たときに、話をしてみよう。
納得するかどうかは分からない。
でも、解決を急ぐ必要もないのだ。
彼の言うとおり、時間をかけてゆっくりと丁寧に説得していけばお母さんの考えも変わるかもしれない。
なにも変わらないとしても、その変わらない愛をあたためていけばよいだけだ。
しかし……。
私はやっぱり私だった。
そうやって自分で思い描いたストーリーはまた実現することはなかった。
体調不良が続いていたせいかと思っていたのもあって、大事なことを忘れていたのだ。
生理が来ていなかった。
これまではだいたいきちんと周期的に来ていたから、前回から二ヶ月近くも来ないというのは異常だった。
パオラさんに相談すると、医者を紹介してくれた。
アマンダに付き添いをお願いして診察してもらう。
医者から聞いた言葉を彼女が通訳してくれた。
「おめでとう。赤ちゃんですって。ミケーレも喜びますね」
妊娠……。
一番最初に思い浮かんだのは、この子の父親のことだった。
この子の父は二人いるのだ。
◇
できることなら、お腹の中にできた新しい命を笑顔で迎えてあげたかった。
でも、子供を授かるということは新たな問題の火種でしかなかった。
その事実を受け止めなければならないのはとても寂しいことだった。
なによりもまず、この子を授かったことを素直に喜べなかったのが悲しかった。
また、自分は無職で、生計を立てるあてなどない。
日本でだってお産はものすごく苦しいはずなのに、言葉も分からない異国で子供を産むなんて、なおさら無理だ。
そして、父親はどちらなのか。
生理の周期と性交渉のタイミングを考えればミケーレの子である可能性が高かったけど、大里選手の可能性も捨てきれなかった。
第一、ミケーレの子供であれば良いというわけでもない。
それはそれで大変な事態を招くだろう。
ミケーレの子供ということは財閥の跡継ぎになることを意味している。
それこそエマヌエラさんが許さないだろう。
最悪な要求をされるかもしれない。
一方で、大里選手の子供であっても、それはそれで大問題だ。
言い訳なんかできるわけがない。
ミケーレとは別れなければならないだろう。
『馬鹿だよね、美咲は。自暴自棄でやってしまったことが原因で自己嫌悪に陥るなんて』
言われなくても分かってる。
こんなはずじゃなかった。
こればかりは本当に私一人では何も解決できない。
この子を授かってしまったのだ。
後戻りはできない。
なのに、前に進むこともできないのだ。
いったいどうしたらいいんだろうか。
アマンダには口止めを頼んだ。
「ミケーレに言えばいいじゃないですか。喜びますよ」
「そんなに単純な話じゃないから……」
大里選手との関係を説明するわけにもいかず、とにかく自分の口から説明したいと言って押し切った。
パオラさんはエマヌエラさんに知られると困ることを理解してくれたから、ミケーレには黙っていてくれた。
「とにかく体を大事にしないとね。特に、安定期に入るまでは無理しちゃダメよ」
出産予定日は来年の五月中旬だった。
日本へは連絡をしなかった。
どうせ言われることは決まっている。
『ほら、だから言ったのに』
『やっぱりだまされたじゃない』
『もてあそばれているだけでしょう』
そう言えば物事が改善されるとでもいうのなら甘んじて受け入れよう。
でも、そこにあるのは『善意』という名のただの毒だ。
もう、向こうに自分の居場所はないのかもしれない。
漠然としていた気持ちが決定的なものに変わっていった。
それを望んでここに来たのだ。
ここで起きたことは私には必然だったのかもしれない。
それでもまだ、私は迷っていた。
ミケーレに知られるのは時間の問題だ。
大きくなっていくお腹を隠し通すことはできないだろう。
その前にするべき決断が頭をかすめる。
この子の運命を決めるのも私なのだ。
その考えが頭に思い浮かぶたびに、口の中に苦い唾液がわき出してきて不快な症状に悩まされる。
新しい命と私の運命が静かに戦っているのだった。
私は毎日散歩に出ていた。
坂道を下って西の灯台に出て、灯台の下から断崖の遊歩道を歩く。
カレンダーの上では秋というべき季節だったけど、少し過ごしやすくなっただけで夏と風景は変わらない。
ときおり通り過ぎる遊覧船には満員の観光客がいて、陽気に手を振っている。
イタリア民謡を合唱しているのが風に乗って聞こえてくる時もある。
以前とは違って向こう側から歩いてくる人もいて、すれちがうときに広い場所で待っていてくれる。
ハロウ。
グラシアス。
シェイシェイ。
誰一人いなかった遊歩道に、様々な言語が飛び交っていた。
青の洞窟の桟橋が見えてくる。
港から遊覧船で来た観光客は、ここでゴンドラに乗り換えて小さな入り口をくぐることになっているらしい。
でも今は観光客の姿はなく、桟橋に並んだいくつものゴンドラが退屈そうに波にもてあそばれている。
ストライキが終わって島には観光客がもどってきたけれど、入り口が水没していて入れない状態がまだ続いているのだった。
本当なら島で一番賑わうのはここなのだろうけど、今は逆に見捨てられた場所になってしまっている。
崖の上から見下ろしていると、急に私の心を黒い霧が覆い始める。
つい二ヶ月前まではこの世の楽園だと思っていた。
青い海と広い空を独り占めにして喜んでいた自分を呪いたい。
いろんなことが短期間に降りかかってきてしまった。
人生が私を追い越していったんだ。
遥香の言う通り、私はだまされやすくお人好しで、だから実際こうしてイタリアでこんな目に遭っているんだろう。
『だから気をつけなくちゃだめだって言ったでしょ』
やっぱり私は自分一人ではちゃんとしたことができない人間なんだ。
目の前に水たまりがあるよと言われても、靴を濡らしてしまうような愚かな子供なんだろう。
こんな私が母親になんかなれるわけがない。
仕事もうまくいかなかった。
逃げるようにやってきたこの場所で軽はずみなことをして……。
だからこんな苦しみにさいなまれているんだろう。
私には生きている価値なんかないんだ。
崖の下に打ち寄せる波が白く砕け散る。
その波の形がまるで私を呼び寄せる死神の手のようだ。
私は呼ばれていた。
本当の楽園を見せてあげよう。
なんの苦しみもない、本物の天国を。
寄せては返す波の間から声が聞こえた。
さあ、おいで……。
……こっちだよ。
さあ、来るんだ……。
だが、それは死神の声ではなかった。
「チャオ、シニョリーナ! カモン! グロッタ!」
グロッタ……。
洞窟?
青の洞窟のことだろうか。
崖の下でゴンドラのおじさんが大きく手を振って私を呼んでいた。
「ユー、ラッキーガール! カモン!」
私は足元に気をつけながら崖に刻まれた階段を下っていった。
誰もお客さんがいないゴンドラ乗り場まで来ると、おじさんが興奮気味に手招きする。
「ファーストタイム、ハーフイヤー。ラッキー」
半年ぶりに入れるということらしい。
よほど小さいのか、桟橋からはどこが洞窟の入り口なのか分からない。
おじさんは大げさな身振りでしきりに私に乗れと合図している。
どうやら波の加減でまたすぐにだめになるかもしれないらしい。
おじさんに手を引かれて私はゴンドラに足を踏み入れた。
「入り口は狭いからね。寝そべらないと入れないんだ。仰向けになって空を見てごらん」
観光客になれているからか、分かりやすい簡単な英語で説明してくれる。
「レッツゴー」
私はまるでリュージュの選手のように、ゴンドラの中で気をつけの姿勢で仰向けになって澄んだ空を見上げていた。
すうっと洞窟が息を吸い込んだかのようにゴンドラが飲み込まれる。
一瞬暗くなって目の前に青い世界が現れる。
天井に海の色が反射してすべてが青に満ちていた。
「起き上がってもいいですよ」
おじさんがそっと告げる。
静かだ。
揺れる波の音が洞窟に反響するけど、それすらも青に溶けていって、次第にあらゆる感覚が奪われていく。
サファイアの中に入り込んだかのように私は青そのものだった。
海が青く光り、天井が青く輝き、私自身も青い光を放っているかのようだ。
ゴンドラはゆっくりと洞窟の中を回っていく。
そうか、これがこの世の楽園なのか。
ゴンドラのへりに置いた手に水がひとしずくかかった。
でもそれは波しぶきではなく、私の涙だった。
青が涙でにじんでいく。
視界がぼやけていく。
私は青を取り戻すために、涙をぬぐった。
おじさんがそっとささやく。
「シニョリーナ、仰向け」
ゴンドラが外に出る。
まぶしすぎて真っ白な世界が私を出迎えてくれる。
起き上がって洞窟の出入り口を見ると、もう波に沈んで見えなくなっていた。
船着き場でおじさんが手を差しだしてくれた。
「グラツィエ」
「ウエルカム」
「あの、お金は?」
「いらないよ」
困惑している私におじさんが両手を広げた。
「きっと神様が見せてくれたんだろうさ」
そうか、さっき聞こえたのは幻ではなかったんだ。
「あんたがあの崖の上にいるのを、見ていてくれたんだろうさ。だから神様が呼んだんだよ。あんたは神様のお客さんってわけさ。だからお金はいらないよ。楽しんでもらえたら、うれしいよ」
「ありがとう」
日本語でお礼を言うと、おじさんは照れくさそうに「アリガト」と手を振ってくれた。
私は崖の小道を上りながら生きる意味を噛みしめていた。
そうか……。
だから、私はこの子を授かったんだ。
この子に楽園を見せるために。
この子に生きる喜びを伝えるために。
だから私は母親になるんだ。
◇
ミケーレは週に一度くらいの頻度で時間を作ってカプリに来てくれた。
つわりを隠すことができなくなって、私は彼に妊娠した事実を伝えた。
彼は両手を広げて私を迎え入れながら、とても喜んでくれた。
「きっと僕らの愛を祝福してくれているんだよ」
そういった彼の素直な気持ちは私もうれしかった。
海の見える窓辺のテーブルで、私の焼いたピザをおいしそうに食べる彼の笑顔は素朴で、いい父親になりそうだった。
遠い世界の人だと思っていたのが、急に自分と同じ一人の人間なのだと思えるようになった。
結婚はしなくてもいいという意思も伝えたけど、それについては彼はあくまでも形式にこだわっているようだった。
「なんとか母を説得してみせるから。なんといっても、僕は父親なんだからね」
「形式にこだわる必要はないんじゃない?」
「いや、これは僕の気持ちなんだよ。君と子供に対する責任だ」
彼のその気持ちはもちろんうれしかったけど、そううまくいくとは思えないのもやはり重荷になっていた。
逆に彼を説得しなければならないのかもしれない。
新しい命はどんどん大きくなっているのだ。
時間をかけてじっくりという状況ではなくなってしまったのだ。
そして、もう一つ、重大な問題も解決していなかった。
この子がミケーレの子であるという保証はないのだ。
私はそれを言うことができなかった。
彼のうれしそうな顔、彼の優しい言葉、彼の誠実な気持ち。
それが私に重くのしかかっていた。
大里選手は活躍を続けていて、連続得点記録を更新していたし、リーグの得点王ランキングでトップを独走していた。
チームも首位争いに絡んでいて、ジュゼッペさんはご機嫌が良かった。
ワールドカップ予選の日本代表チームに合流するためナポリを発ったというニュースも流れていた。
時々カプリにやってくるアマンダにそれとなく聞いてみても、特に彼から何か言ってきたり、私のことをたずねたりすることはないようだった。
もう彼の中では私は終わった女なのだろう。
ゆきずりの戯れであったのなら、それはそれでかまわない。
むしろ、その方がお互いにとって都合がいい。
私の方から騒ぎ立てなければ、彼の言葉通り、あの動画は用済みフォルダに封印されるのかもしれない。
でも、もし父親が彼だとしたら……。
その時は私が一人でこの子を育てていくしかないだろう。
秋が過ぎ、クリスマス・シーズンを迎えたカプリ島は街にイルミネーションがきらめき、夏とは違った華やかな雰囲気に彩られていた。
しかし、島はまた賑わいを失っていた。
フェリー会社が経営不振で運行を停止し、さらに給料未払いに抗議する従業員のストライキも重なって、チャーター船以外の人の往来が全くなくなってしまったのだ。
お店からは目に見えて生活物資もなくなってきて、とても安心していられないような状況なのに、パオラさんは落ち着いたものだった。
「まあ、これもイタリアなのよ」
冬のカプリは気温はそれなりに下がるけど、上着を着ていれば冷えこまない程度で、過ごしやすいのだけはありがたかった。
体調はだいぶ安定してきていた。
つわりは続いていたけど、朝起きた時に吐いてしまえば、昼間は特に悩まされることはなかった。
食事も普通で、バナナが食べられなくなった以外は、何も問題はなかった。
ただ、唾液が止まらない症状は続いていて、それだけは不快だった。
眠って起きると、必ず枕が唾液でぐっしょりと濡れていた。
いくらタオルを巻いておいても追いつかない量だった。
パオラさんはそういう症状は初めて見るらしく、不思議がっていた。
「まあでも、つわりが全くない人もいるし、腰が痛くなったり、足がむくんだり、人によって症状はいろいろだからねえ。私なんか、血糖値で医者に怒られてたわよ。今の方が太ってても全然問題ないのにね」
確かにそういう意味では私の場合はまだ軽い方なのだろう。
時は過ぎていく。
お腹の子は着実に大きくなっていた。
ジュゼッペさんの話では、大里選手はワールドカップ予選の試合で右脚の裏に張りを訴えてイタリアに戻ってからも何試合か欠場しているそうだ。
アマンダに聞いてみると、怪我はたいしたことはなく、年明けには復帰できるとのことだった。
動画で脅迫してくる人の怪我を心配している自分はお人好しなのかもしれなかった。
あいかわらず、彼の方からは特に何も言ってこないし、なるようにしかならないと、私は覚悟を決めていた。
もうすでに後戻りのできないところまで来ているのだ。
そして、年が明けて大里選手がチームに復帰した頃、もう一つの問題が動き出した。
黒塗りの車が三台狭い坂道を上がってきて、家の前で止まった。
エマヌエラさんだった。
かたわらにはアマンダも控えている。
「お邪魔しますよ」
私が招き入れる前に、お母さんは勝手に中に入ってきて、部屋を見回しながら笑みを浮かべていた。
「パオラもよけいなことをしてくれたものですね」
「おばさんは悪くありません」
「まあ、女同士、分からないでもありませんけどもね」
アマンダは淡々と通訳としての役割を果たしていた。
エマヌエラさんは窓辺に立って目を細めていた。
沈黙に耐えられずに、私はどうでもいいことを言った。
「ヘリコプターではないんですね」
音が聞こえなかったので、直前まで来訪に気づかなかったのだ。
おそらく船でやって来て、港から車で上がってきたのだろう。
「あんな野蛮な乗り物、ごめんです」
それには私も同意する。
「ミケーレにも危険だからやめなさいと言っているのですよ。『時間をお金で買うんだ』なんて言ってますけど、命はお金では買えませんからね」
お母さんは二枚の書類をテーブルの上に置いた。
「これは何ですか」
「信託財産の契約書です。日本語訳も作ってあります」
私のお腹を冷たい目で真っ直ぐに見つめている。
「お腹の子にとって最善の解決策ということです」
書類まで用意してあるのだ。
隠してきたつもりでも、とっくに私の妊娠はばれていて、ドナリエロ家として万全の準備を整えてきたというわけだろう。
私が専門用語の並ぶ書類に目を通していると、簡単に内容を説明してくれた。
「生まれてくる子供に、養育費として毎年十万ユーロを一生支払うという契約書ですよ。将来的な物価変動にも対応する付属条項付です」
十万ユーロ……。
一千万円以上を毎年……。
「その他に、必要であればドナリエロ財団から奨学金も支給します。世界最高水準の教育が受けられるでしょう」
生活費以外に学費まで不自由しないというのだ。
生まれてくる子供にとっては充分な生活保障だろう。
エマヌエラさんがペンを差し出す。
「決して悪い話ではないでしょう。あとはあなたがサインするだけです」
しかし私はサインできなかった。
お母さんの一言が、心の奥に突き刺さった。
「ただし、子供はドナリエロ家で引き取ります。あなたは親権を放棄する。いいですね」
私はペンを置いた。
「お金は受け取れません」
「どうしてですか」
私はアマンダに席を外すように頼んだ。
彼女が外に出ていってから、私は英語で話した。
「私もこの子もドナリエロ家に関わるつもりはありませんので。養育費も、将来の相続権もいりません」
「それを信用するわけにはいかないからこそ、契約を結ぶのです。養育費を受け取る代わりに、認知および相続権を放棄するのです。そして、ドナリエロ家の管理の下で生きていくのです」
「ですから、それは受け入れられません」
「契約を結ばずに子供を産むというのなら、こちらにも考えがあります。有能な弁護士ならいくらでもいます。イタリアの法律はイタリア人の味方ですからね」
「この子はミケーレには関係ありません」
「どういうことですか。あなたとミケーレがそういう関係だというのは、今さら隠すことでもないでしょうに」
「この子は大里健介の子だからです。ミケーレの子ではありません」
エマヌエラさんは、「ハッ」と声を上げて天を仰いだ。
「それはスキャンダルね。パパラッチが喜ぶでしょうよ。彼は終わりね。それに……」
エマヌエラさんは急に優しい笑顔を見せた。
「そんな話、誰が信じると思うのですか」
「信じようが信じまいが、事実ですから。私はミケーレに内緒で大里健介に抱かれました。私はそういう女なんです」
「それは、ミケーレは知っているのですか?」
「いいえ。不貞をわざわざ告白する女なんていませんから」
「では、ミケーレに伝えておきましょう。あの子があなたをどう思うか……。とても残念ね。でも……」
彼女は言葉を継いだ。
「サレルノではミケーレをたしなめてくださってありがとう。あの子は誰に似たのか、少し熱くなりやすくてね。冷静さを欠くところがあるのです」
そして、ふっとため息をついた。
「これからはわたくしも日本語を学ぶべきかもしれませんね」
そう言い残して彼女は家を出ていった。
狭い坂道を黒塗りの車が連なって去っていく。
アマンダも一緒に帰ってしまった。
膝の力が抜ける。
私は震える脚を押さえながら窓辺のテーブルまで歩いて椅子に腰掛けた。
言うだけのことは言った。
でも、エマヌエラさんは私を許さないだろう。
ドナリエロ家の総力を挙げてこの子を取り上げるはずだ。
『イタリアの法律はイタリア人の味方ですからね』
どんな手を使ってもやりぬくだろう。
日本に帰るべきだろうか。
イタリア人がイタリアの法律で攻めてくるのなら、日本人は日本の法律で守るしかない。
私からこの子を引き裂こうというのなら、もうミケーレとの関係は終わりだろう。
財産が欲しいわけでも、形式にこだわっているわけでもない。
でも、やっぱり無理だったんだ。
こうなった責任を彼だけに押しつけるつもりはない。
彼に、一緒に『駆け落ち』してくれと言えない隠し事を作ってしまった私もいけないんだ。
ただ、日本に帰るのは簡単なことではなかった。
飛行機のチケットを取らなければならない。
ミケーレに頼ることはできないどころか、エマヌエラさんにも知られてしまうことになるから、自分で手配しなければならない。
そもそもカプリ島から出る手段すらないのだ。
フェリー会社の混乱がいつ収まるのかは全くめどがたっていなかった。
バスでマリーナ・グランデへ行って港の人に聞いてみても、みな同じことを繰り返すばかりだった。
「パツィエンツァ」
忍耐。
ふだん我慢なんかしないくせに、イタリア人ってどうなってるんだろう。
ただの面倒くさがりなのかな。
自分ではどうにもならないことには抵抗しない。
それがここの生き方なのは仕方がない。
でも、私はそうしているわけにはいかないのだ。
イタリア人のまねをしている場合ではない。
とは言っても、島から出ることすらできない状態では、できることなど何もなかった。
群青の海に囲まれた楽園がいつしかただの監獄になってしまっていた。
そしてまた一週間後、檻に閉じこめられた私に、もう一つの手が伸びてきた。
大里健介から連絡が入ったのだ。
「これはどういうことかしらね」
昼過ぎにパオラさんが、アマンダを通じて届いたメールを、私に見せにきてくれた。
その連絡は不可解なものだった。
「取引をしよう。ソレントで待つ」
取引といっても、むこうが動画を押さえている以上、こちらから要求できることなど何もない。
むこうが一方的に要求を突きつければいいだけのことだ。
お腹の子が彼の子かもしれないと言えば、動画消去の取引ができるだろうか。
でも、そういう時のために押さえてある物を彼が手放すはずはない。
いったい私に何を求めるというのだろうか。
私は何も持っていない女だ。
いまさら彼に差し出せる物など何もない。
最初から取引など成立しないことは明らかだった。
でも、彼は取引を求めてきた。
その内容は分からなくても、行ってみるしかなかった。
「でも、ソレントまで行く交通手段がないですよね」
私が困惑していると、パオラさんが人差し指を立てた。
「あるわよ」
「フェリーが動いてるんですか?」
「船ならあるわよ。さあ、パスポートも忘れずにね」
パスポート?
「島を出たらそのまま日本に帰るつもりなんでしょう?」
「分かってたんですか?」
「女だもの。母親の考えることは同じよね」
パオラさんは私を抱きしめてくれた。
「無事に生まれたら連絡ちょうだいね」
「はい」
おばさんはスマホを取り出して電話をかけた。
イタリア語で何かまくしたてている。
だんだん声が大きくなっていく。
どうも相手が渋っているらしい。
しまいにはケンカを始めてしまったようだ。
「ほんと、しょうがないねえ」
電話を切ったパオラさんが腰に手を当ててため息をついた。
「さあ、行きますよ」
荷物をまとめていつもの小さな車に乗って向かったのは、青の洞窟に入るゴンドラが並んだ桟橋だった。
小型の漁船が待ち構えている。
漁船の上で私に手を差しだしたのはジュゼッペさんだった。
「やあ、シニョリーナ。いらっしゃい」
「ジュゼッペさんが操縦するんですか」
「心配いらないよ。今でも仲間の手伝いで漁に出ることはあるから。ソレントなんてうちの庭先みたいなもんだよ」
パオラおばさんに手を振ると、おじさんはすぐに船を出航させた。
空は青いけど、風があって波が高い。
私はすぐに気持ち悪くなってしまった。
船の外に顔を出して吐きながら私はおじさんにたずねた。
「ミケーレに怒られませんか?」
「かまわんよ」
でも、と言いかけた私にジュゼッペさんが微笑む。
「言っただろう、シニョリーナ。イタリアの男は世界中の女を愛してるんだって」
本当に、イタリアの男ってどうなってるんだろうか。
「二番目がうちのかみさんだ」
おじさんは真顔だ。
ごめんなさい。
笑う余裕がありません。
私はまた船の舷側に顔を出して吐いた。
ソレントはおじさんの言う通り目と鼻の先で、吐き気がおさまる前に到着した。
ふらつく私を岸に上げてくれたおじさんがぽつりと言った。
「お腹の子供を大事にな。神様からの授かり物だ」
「ありがとう、ジュゼッペさん」
「ああ、アリガト。元気でな」
ソレントの街は断崖の上にある。
港から急な坂道を登ったところが市街地らしい。
妊婦にはきついと思って崖を見上げていたら、名前を呼ばれた。
「美咲、来たか」
大里選手がタクシーの窓から顔を出していた。
「乗れよ」
私に選択肢はなかった。
素直に乗ると、車は坂道を登っていった。
崖の上の市街地にある小さな駅でタクシーが止まった。
大里選手は五十ユーロ紙幣を差し出して運転手にイタリア語で何か言った。
運転手さんは満面の笑みでグラツィエと言って去っていった。
「おつりもらわなくていいんですか。港からここまで、ほんのちょっとだったじゃないですか」
「口止め料だよ。俺がここにいたことを誰にもしゃべらないでくれって頼んだのさ」
「やましいところがあるからですか」
「まあな」
軽く片目をつむってみせると、彼は二人分の切符を買って駅に入っていく。
「どこに行くんですか」
「雨で延期になったデートの続きに、ちょっとつきあえよ」
ずいぶん昔のことのように思える。
あの時はこんなことになるなんて思っても見なかった。
駅に止まっている電車は、ソレントからナポリまでベスビオ火山の麓の街をつなぐベスビアーナ鉄道だった。
平日昼間の始発だからか、私たちの他に乗客がいない。
ボックス席の窓側に向かい合って座る。
すぐにドアが閉まって、電車はゆっくりと動き出した。
彼は何も言わない。
私の方からたずねるしかなかった。
「取引って何ですか」
「約束通り、デートをしようってことさ」
「それで、どこに行くんですか」
「日本だろ」
え?
日本?
この電車で?
大里選手は真顔だ。
「どういうことですか?」
「あわてるなよ。ナポリまで一時間。最後のデートくらい、楽しませろよ」
最後のデート?
「いいことを教えてやろうと思ってな」
彼はニヤリと笑みを浮かべながらスマホを取り出した。
「あんたの恥ずかしい動画だ。見るか?」
今ここで?
彼はスマホの画面を私に向けた。
それはめちゃくちゃ恥ずかしい動画だった。
あまりにも恥ずかしくて直視できない。
一瞬で顔が熱くなる。
『ミケーレ……』
私が枕を抱きしめていびきをかきながらミケーレの名前を呼んでいる動画だったのだ。
コリコリと歯ぎしりまでしているオマケ付きだ。
「恥ずかしいだろう。消してほしいか」
「なんですか、これ」
「あんただよ」
「だからそれは分かりますけど、なんでこんな動画撮ったんですか」
「おもしろいからだよ」
恥ずかしい動画……。
ある意味確かに、こっちの方が恥ずかしい。
「なんの動画だと思ってた?」
「そういうこと聞くのって、会社だとセクハラですよ」
「何言ってんだよ、合意の上だっただろ。第一、俺はあんたと添い寝しただけだ」
添い寝?
「見りゃ分かるだろ。あんたはいびきかいて好きな男の名前をつぶやきながら眠ってたんだぞ。俺に何ができる」
じゃあ、このお腹の子は?
彼が窓の外の景色を目で追いながらつぶやいた。
「俺の子供のはずがないだろ。キリストじゃあるまいし」
なんだ、そうだったのか。
「なんですか、もう、ずっと心配してたんですよ」
「何を逆ギレしてんだよ。なんなら、やっておけば良かったか?」
「べつに、いいですけど」
「なんだよ、その言い方」と彼があきれ顔で笑う。
「べつに、なんでもありませんよ」
彼がスマホの画面を私に向ける。
「あんたが消していいぞ」
消去ボタンを押そうとして、私はやめた。
「ケンスケ」と、彼の名前を呼んだ。
「ん?」
驚いた表情の彼に尋ねた。
「もしかして、自分じゃ消せなかったんですか?」
彼の耳は真っ赤だ。
「そんなわけないだろ」
そして彼は笑みを浮かべながら首を振った。
「あんたいいディフェンダーになれるよ。この俺がかわせなかったんだからな」
お腹をさする私を見て、彼がつぶやいた。
「安心して産めよ」
「はい」
私は気になったことをたずねた。
「なんで、脅迫みたいなことしたんですか?」
「復讐だよ。ささやかな抵抗」
復讐?
彼がはにかむ。
「高校の頃にさ、あんたみたいな女の子が好きだったんだよ」
「普通ってことですか?」
「練習の時に、彼女がグラウンドの横の道を通って下校するんだけど、その時だけ意識してでかい声出しちゃったりしてさ。でも、全然俺に興味を持ってもらえなくてね。一度だけ話をしたことがあるんだけど、思い切って好きだって告白したら、信じてもらえないどころか嫌われちまってさ。チャラいサッカー部の男子にからかわれたって思われたんだろうな。それが悔しくてさ。思い出に復讐したくなったんだ」
俺はそんなにいい人間じゃない、と彼は視線を窓の外に向けた。
「部屋をキャンセルさせてあんたを俺の部屋に誘い込んだところまでは俺の作戦通りだった。ただ、あんたが寝ぼけて他の男の名前を呼んでいるのを見たら、どうでも良くなったってわけさ。あんたとミケーレの間に割り込んでやろうかと思ったけど、最初からそんな隙間なんかなかったんだよ。バスルームから出た時に、あんたがいびきをかいて寝てるのを見て、正直ほっとしたよ。あんたの無防備さが、あんたを救ったってわけさ」
「私も高校の頃、サッカー部のキャプテンを見てました」
彼がため息をつく。
「あんたに見てもらってたら良かったのにな。最初から運命がずれていたんだろうさ」
「片想いって、いい思い出になりますよね。一度つきあっちゃうと、最後は嫌いになって別れるわけですけど、片想いのままだと、その人のことが美化されて、ずっと好きでいられる」
「そのうち、神格化されていくのかもしれないな」
そして彼は私に顔を近づけて、耳元でささやいた。
「あんたは俺のヴィーナス、永遠のアフロディーテだ」
耳に息がかかる。
身をよじる私を見て彼がにやけている。
「忘れるなよ」
「何をですか?」
「俺は詐欺師だぞ。何もしてないと見せかけておいて、もっとすごくいやらしいことをしてたのかもよ」
「たとえばどんな?」
そうだな、と彼が目を泳がせる。
「……腕枕とか?」
「エッチ」
「最高の褒め言葉だ」
電車は崖沿いの街を抜けて開けた平原に出た。
ベスビオ火山がそびえている。
古代遺跡が見えてきた。
ポンペイの遺跡だ。
観光客が大勢乗ってきて、あっという間に席が埋まる。
私たちのボックス席にも腰の太いイタリア人のおばさんが二人座った。
ケンスケは窓の方を向いて顔を隠していた。
電車は現代人の住む住宅と古代遺跡が混ざり合う混沌とした街を縫うように走っていく。
時々光の加減で彼の顔が窓に映る。
窓の中の彼は真っ直ぐに私を見つめていた。
近代的な高層ビルが並ぶ風景が近づいてきた。
彼が思いがけないことを言った。
「もうすぐナポリだ。あんたはそこから特急電車でミラノへ行く」
「どういうことですか?」
「だから、日本へ帰るんだろ」
ベスビアーナ鉄道の地下終着駅に到着して、乗客がホームにあふれ出す。
人込みから守るように彼は私の肩を抱いて、ゆっくりと歩いていく。
エスカレーターを上がって地上に出たところがナポリ中央駅だった。
日本と違って改札はなく、自由にホームに出入りできるヨーロッパ式の駅だ。
彼はチケット売り場を素通りしてホームに停車している特急電車に向かっていく。
相変わらず生ゴミの匂いが漂ってくる。
妊婦にはきつい街だ。
電車の乗降口前で手を振っている女性に見覚えがある。
「大里さん、チケット買っておきましたよ」
アマンダだ。
「おう、ありがとさん」
ほら、と彼が私に特急電車の切符をくれた。
「ナポリの空港はドナリエロ家の手が伸びているだろう。だから、この列車で終点のミラノまで行くんだ。そこからドバイ経由で飛行機を手配してある」
これです、とアマンダが封筒に入った書類を取り出す。
それはファーストクラスのチケットだった。
「日本への直行便だと把握されるかもしれないから、わざとドバイ経由にしたんだ。それに直行便にはビジネスクラスしかないんだが、ドバイ経由だとファーストクラスがあるんでね。いくら安定期でも、少しでもゆったりしている方が、妊婦にはいいだろう?」
「ありがとうございます」
「ここからはアマンダが案内してくれる」
「はい、任せて下さい」
「でも、大丈夫なの?」
私が心配していると、アマンダは「大丈夫ですよ」と微笑んだ。
「ドナリエロ財閥との契約では、私は美咲さんの専属通訳ですので、あなたがイタリアを離れる場合は自動的に解雇となります。ですからもう私はドナリエロ家の使用人ではありません。フリーになったので、今日から大里さんに臨時で雇われました。日本まで同行します」
アマンダが先に電車に乗り込んで席まで荷物を持っていってくれた。
二人だけで残される。
発車までもう時間がない。
私はデッキに立ってお礼を言った。
「なにからなにまで、ありがとうございます。どうして、そんなに良くしてくれるんですか」
彼は視線を冬の夕空に逃がしながら両手を広げた。
「俺は恋愛のゲームを楽しんだだけだって。もともと本気だったはずがないだろ。ただの遊びさ。サッカー選手なんてチャラ男に決まってるじゃないか。サイテーだろ」
彼の言葉の優しさに思わず涙がこみ上げてきた。
泣いちゃだめだ。
笑顔でお別れしなくちゃいけないんだ
「どうした? 平手打ちしないのか?」
チャラ男がわざとらしく私に頬を向ける。
平手打ちのかわりにその頬に軽くキスをしてあげた。
「さようなら、嘘つき詐欺師さん」
でも、ケンスケ……。
やっぱりあなたは立派な占い師。
あなたの予言通りだった。
だって私は……。
今……、とても幸せだから。
あなたが幸せにしてくれたから。
でもそれを口に出してはいけないんだ。
言ってしまったら彼のついた嘘がすべて無駄になってしまう。
電車のドアがゆっくりと閉まり始める。
だめだ涙が止まらない。
どうしてもこらえることができなかった。
最後まで嘘をつきとおせなかったのは私の方だった。
閉まったドアの窓の向こうで彼が手を振っていた。
ずるい男。
どうしてそんな素敵な笑顔で私を見つめているの?
彼の口が動く。
声は聞こえなくても気持ちは伝わる。
ア・イ・シ・テ・ル。
それは彼にふさわしい最高にチャラいセリフだった。
◇
ミラノに到着して、空港でドバイ行きの搭乗手続きをする。
大行列のエコノミークラスのカウンターを横目にレッドカーペットを歩く。
ファーストクラス専用カウンターは並ぶ必要さえなかった。
羨望の視線を感じるけど、サレルノのパーティーと違って写真を撮られたりインタビューされるわけじゃないから気後れはしない。
アマンダは上機嫌だ。
「久しぶりに日本に行きたかったんですよ。しかも、交通費まで出してもらえるんですからね。最高の上司ですよ、大里さんは」
搭乗してすぐにウェルカムドリンクを勧められる。
私はオレンジジュース、アマンダはシャンパンだ。
アマンダが個室席のパーティションを下げて、グラスを差し出した。
「とりあえずファーストクラスに乾杯」
「ビールじゃないけどね」と私が応じると、ちょっと口をとがらせる。
「あ、それ私が言いたかったのに」
離陸して水平飛行になった時に、着替えを案内された。
エコノミーの庶民なので知らなかったけど、ファーストクラスでは自分の家のようにくつろいで眠れるように、ナイトウェアに着替えるのだそうだ。
そのためなのか、ファーストクラスキャビンの専用トイレはエコノミーの二倍広くて、ちゃんと着替え用の台まで用意されていた。
でも、アテンダントさんが持ってきてくれたナイトウェアを見たアマンダが顔をしかめる。
「これ、ドナリエロ・グループのファッション・ブランドですよ」
「気にしなくたっていいじゃない、それくらい」
「こういうのを、日本のことわざで『坊主憎けりゃ袈裟まで憎い』っていうんですよね」
そんなことわざ、実際に使う機会が来るとは思わなかった。
アマンダが笑う。
「私、最初、お坊さんは人格者だから、憎くても今朝までには仲直りできるっていう意味だと思ったんですよ」
ああ、『ケサ』だけにね。
「そもそもお坊さんがケンカしちゃだめですよね」
そう言って肩をすくめるとアマンダは、どこで買ったのかタレ目のかいてある変なアイマスクをつけてフルフラットベッドに横になった。
パーティションを閉めて私も横になる。
仲直り……か。
そうやって私たちも仲直りできたらよかったのに。
ミケーレ……。
ううん、違う。
あなたのことを嫌いになったわけじゃないわよね。
ただ、一緒にいることができなかっただけ。
やっぱり私たちの世界は二つに分かれていたのよ。
もう、いいじゃない。
振り返るのはやめよう。
私が決めれば、私の思うように世界は動いていく。
私のおなかの中で、新しい命が育っている。
この子と一緒に生きていく。
この子の居場所。
そこが私の楽園。
さよならイタリア。
さよなら私のミケーレ。
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