第4章 サレルノの葛藤

 ホテル『サレルノ・ルミニオネ・スイート』にはアマンダが手配してくれた部屋が用意されていた。

 レストラン、会議室、ジムといった共用設備のある中央の建物から客室の連なる三階建ての両翼がのびた形のホテルで、壁の石材に浮き出た大きなアンモナイトの化石が不思議な雰囲気を放っていた。

 大里選手は受付係員と気さくに会話しながら、私のチェックイン手続きを代わりにやってくれた。

 カードキーをもらってエレベーターに乗り込む。

「俺の部屋に来てもいいんだぞ」

「いえ、結構です。自分の部屋がありますから」

「プレジデンシャル・スイートだから寝室が三つもある」

「無駄ですね。部屋を移ったらどうですか」

「君の部屋に?」

 同じ空気を吸うのも嫌で本当に息を止めた。

 気のせいだろうけど、エレベーターがなかなか到着しない。

 三階に到着してようやくドアが開いてほっとする。

 一緒に長い廊下を歩く。

 大里選手の部屋は私の隣だった。

「じゃ、明日を楽しみにしていてくれ」

 彼はあっさり自分の部屋に入っていった。

 ずいぶんドアとドアの間隔が遠い。

 私も自分の部屋に入ってみて、ようやく理解できた。

 入ってすぐは広いリビングで、それだけでも二十畳ぐらいはありそうなのに、寝室が二つとそれぞれにバスルームがついている。

 このホテルは全室スイートの客室で構成された超高級ホテルだったのだ。

 だから隣のドアが遠かったのか。

 寝室のベッドはミケーレの別荘の物ほどではなかったけど、明らかに大きなサイズで、やっぱり私が横向きに寝ても大丈夫なくらい広かった。

 部屋をひととおり見て回ってから、私は軽い失望を感じていた。

 結局、ミケーレの手の内にいる間は、こういった豪華な違和感から逃れることはできないのだろう。

 私は服を脱ぎ捨ててお風呂に入った。

 足を伸ばせる浴槽で、日本と同じように肩までつかれる深さだった。

 なんだか久しぶりだ。

 体が温まるだけでも、心が軽くなる。

『つきあってくれ……』

 車の中で言われた言葉が不意に思い浮かんでくる。

 まるで男子高校生みたいな勢いだった。

 私は中高生の頃に男子とつきあったことがなかった。

 地味でおとなしい女子だったから、男子と話すことすら無縁だった。

 サッカー部のキャプテンがもてていたけど、私は最初から自分は対象外だとあきらめていた。

 実際、何人か交替したその彼の恋人はみんなかわいい女子だった。

 あの頃の私に教えてあげたい。

『日本の至宝』と呼ばれるスーパースターに『つきあってくれ』なんて言われることになるんだよって。

 きっと笑われるだろうな。

『私って、そんな妄想こじらせ女子になるんですか!?』

 私は思わず声に出して笑っていた。

 そんな自分の恥ずかしさに、また笑ってしまった。

 昔の私が小声でささやく。

 夢かもよ。

 ただの冗談だって笑われるかもよ。

 本気にしたのかよって馬鹿にされるかも。

 ……いいじゃない。

 こじらせ女子なんだから。

 べつにうれしくなんかない。

 もてあそばれて落ち込んでいる女に声をかける男なんて、どうせろくな人じゃない。

 いくら私でも、それくらいのことは分かる。

 ヘリコプターで移動したり、世界の違いすぎるパーティーに出席したり、そして愛する人と別れた後の気持ち悪いオジサンとのやりとり。

 一日のうちにいろいろなことがありすぎた。

 頭が追いつかないのか、ベッドに横になったとたん意識が消し飛ぶように眠ってしまった。

 翌朝、朝食が部屋に運ばれてきた。

「テラスにご用意しますので、お好きな物をお召し上がり下さい」

 メイドさんとウエイターさんがテーブルをセッティングしている間、私はバスローブのまま顔を洗ったりしていた。

 インターホンが鳴る。

「お召し物をお持ちしました」

 別のメイドさんがドレスを持ってきてくれた。

 下着や靴もある。

 着替えてみるとサイズはぴったりだ。

 自分のことを全て把握されているのかと思うと気分が悪い。

 代わりに昨日の服をクリーニングに持ち出していく。

 至れり尽くせりなのはありがたいけど、これはつまり、この服を着て今夜の開幕戦を見に来いということなのだろうか。

 ウエイターさんたちが出ていったので、ため息をおさえながらテラスへ出ると、朝食が並んでいた。

 でも、メニューがなんか変だ。

 パンにスクランブルエッグは分かる。

 でも、ステーキとサラダに山盛りの果物?

 ペペロンチーノのようなシンプルなパスタもある。

 これ、朝から食べるものなのかな?

 なぜか椅子も二つ並んでいた。

 もう一度インターホンが鳴る。

「おはよう。朝食を一緒にお願いしようと思ってね。頼んでおいたよ」

 インターホンのモニター画面には大里選手が映っていた。

 椅子が二つというのはこういうことだったのか。

「お断りします。一人で過ごしたいので」

「でも、俺の朝食もそっちにあるだろ」

「ホテルの人を呼びますから、持っていってもらって下さい」

 画面の向こうで彼が苦笑している。

「金持ちに引け目を感じているくせに、俺にはズバズバ言うね」

「サッカー選手としては有名なんでしょうけど、サッカーに興味はないので私にとってはただの気持ちの悪いオジサンです」

「朝から元気なようで良かったじゃないか」

 画面の中で横からメイドさんが顔を出す。

「コーヒーをお持ちしました」

 ドアを開けると大里選手も入ってきた。

「叫びますよ」

「訴えれば? ふんだくれるぞ。ゴシップ誌も喜ぶだろうな。『日本の至宝オオサトがストーカー容疑』ってね」

「どうせ悪徳弁護士と組んで揉み消すんでしょう?」

「それもふくめてご相談させていただきたいものだね。なるべく示談で済ませたい。これでも紳士だからね。いいだろ、食べながらで」

 大里選手は勝手にテーブルについてナプキンを広げている。

 私が立ったままのせいで、両手にポットを持ったメイドさんが当惑顔で控えている。

 あきらめて私も席に着くとカップにコーヒーとミルクを注いでくれた。

 大里選手には炭酸水のボトルが用意されていた。

「では、ごゆっくり」

 ポットを置いてメイドさんが出ていく。

 昨夜は暗くて分からなかったけど、ホテルのテラスはサレルノ湾に面していて、すぐ目の前にはヨットハーバーがある。

「いい眺めだろ。俺はもう一週間ここに滞在してるんだ」

 彼はさっそくステーキに手をつけている。

「朝からステーキですか?」

「べつに変でもないだろ。ベーコン食べる人がいるじゃないか。ハムエッグとか。俺はヒレステーキの方が体質に合うんでね」

「パスタも?」

「練習でエネルギーを使うから炭水化物は欠かせない」

 サラダや果物などもまんべんなく食べている。

 昨夜のスーツ姿と違って、今朝はラフなTシャツとトレーニングパンツ姿だ。

 これだけ食べているのに贅肉がいっさいついてない筋肉質な体だ。

 食事の時にもしっかりと背筋が伸びている。

 ナイフとフォークを持つ腕の筋肉のラインをたどっていると目が離せなくなってしまった。

 原始的な狩猟民族が作った武器のようにシンプルでナチュラル、そして機能的な美しさを備えた肉体だった。

「これからすぐにトレーニングですか」

「まあ、ストレッチからね。俺もトシだから」

「え、おいくつなんですか?」

「三十だよ。サッカー選手としては下り坂だね」

 嫌味のつもりでオジサンとは呼んだけど、実際には若々しい肉体で、とても下り坂とは思えない。

「怪我なんかしたら億単位の迷惑をかけるからね」

「そんなに?」

「俺くらいのクラスになると、怪我一つでそうなるね。ただのスポーツじゃなくて、いつのまにかすっかりビジネスのレベルに変わってしまったからね。俺と関係のないところで大金が動いてる。年俸以外にもスポンサーとか日本代表とかマスコミとか、いろんなしがらみがあるさ」

「一流のサッカー選手ってそんなにすごいんですね」

 素直に感心した私の言葉に、大里選手もはにかんでいる。

 まるで少年のようだ。

「そういうお金のことに関しては俺自身よりもスポーツ記者の方が詳しいよ。確かこの前、生涯年俸が一億を超えたって記事が出てたみたいだけど」

 イチオク……か。

 一億円という金額を聞かされても全然ぴんと来ない。

 庶民にとっては宝くじの世界だ。

 彼が首をひねりながらたずねた。

「今、ユーロっていくらぐらいなんだ?」

 ユーロ?

 それで億って……。

 ということは百億円以上!?

「まあでも、大きすぎる数字って、意味がなくなるよな。数えられないし」

 小学校の頃に億とか兆の勉強で、ゼロがたくさん並んだ数を見るだけで嫌になったのを覚えている。

「使い切れないしさ」

 うらやましい話だ。

「ありすぎて困るとか、悩みはないんですか」

「なんで悩むんだ?」

「変な人が寄ってくるとか。取られるんじゃないかと心配したりとか」

「君のことか?」

「はいはい、そうですよ」

 そっちから言い寄ってきたくせに。

「管理は専門スタッフに任せてるから、俺は最低限のお金しか持ってないんでね。そもそもこっちだと日常生活ではカードしか使わないからな」

「そうなんですか」

「必要経費とかは全部そっちに請求が行くし、税金の計算なんかも全部やってもらってる。俺はサッカーのことだけ考えていればいいんだ」

 彼は炭酸水を一口含んで海を眺めた。

「お金はあるけど、なくても俺は俺」

 そして私の方を向いた。

「でもそれはミケーレだって同じなんじゃないのか」

 理屈では分かる。

 でも、実際にはそうじゃない。

 そんな単純な話ではない。

 それに、お金の問題だけなら簡単だ。

 家族、仕事、その他様々なしがらみがあるのだ。

 お金だけなら切り離せても、しがらみはほどくことができない。

「あんたはすぐにだまされるんだな」

 え?

「なにかの話を別の話と結びつけるやつには気をつけろってことだよ」

「人生をサッカーにたとえるって話ですか?」

「そうだよ。全然関係ないだろ」

「あなたとミケーレも?」

「そりゃそうだ。あんなのと同じにされたらこっちがたまらないよ」

 あんなのって、そんな言い方しなくてもいいのに。

「俺は俺、あいつはあいつ。で、あんたはどっちを選ぶ?」

 私が黙っていると、大里選手が席を立った。

「今夜の試合、来るんだろ?」

 正直気が進まない。

「行ったらまたトラブルになりますよね」

「俺が招待するんだから、来いよ。賭けの結果を見届ける必要もあるだろ。それなら言い訳にもなるじゃないか。あいつと話すチャンスもあるかもしれないしさ」

「ミケーレと?」

「ああ、別れ話、な」

 また思わず平手打ちをしてしまいそうになるのをじっとこらえた。

「楽しい食事だったよ。ありがとう」

 彼が去った後に、私は一人テラスの椅子に座ったまま海を眺めていた。

 平手打ちをこらえたことを後悔していた。

 怒りの持って行き場がなくて、ずっと心の中で渦を巻いている。

 その渦の中心が沈み込んでいって、私自身も飲み込まれそうだ。

 私は拳を握りしめたまま、じっと耐えていなければならなかった。

 こういうことが嫌で日本を出てきたのに。

 私はどこに行っても同じ事を繰り返している。

 ホテル正面で急に歓声が上がる。

 何事かと思ってテラスから見下ろすと、大里選手が出てきて、エントランスに用意されたドイツ製の車に乗り込むところだった。

 昨日のフェラーリではなく、シルバーのセダンだ。

 スタッフの人が運転するらしく、彼は後部座席に乗っている。

 地元のファンが群がっていて、彼は窓から手を振って声援にこたえている。

 三階から地上を見下ろしていると、高校生の頃を思い出す。

 あのころ私は毎朝、三階の廊下の窓辺に立って、登校してくる生徒の中にサッカー部のキャプテンを探していたのだ。

 姿を見つけたところで何があるわけでもない。

 いつも隣には女の子がいて、楽しそうに話をしていた。

 べつに言い訳するつもりはないのだけど、彼とつきあいたいとか、他の女の子達をうらやましいと思っていたわけではなかった。

 ただ、自分には何かが足りないんだろうか、自分はなぜそういったことができないんだろうかと考えていたことを覚えている。

 結局のところ、私はいつも自分にできないことばかり探しているのかもしれない。

 そして、いざ、自分に出番が回ってくると逃げ出してしまうような人間になってしまったのだろうか。

 憂鬱な時ほど、過去の憂鬱な体験がよみがえる。

 二重、三重に重荷を背負わされて苦しくなってしまう。

 反対に、楽しい時には目の前にあるその瞬間しか見えなくて、重なり合うものはない。

 だから、幸せな思い出は薄っぺらくて、すぐにどこかに消し飛んでしまうのかな。

 大里選手を乗せた車がホテルを出ていった。

 インターホンが鳴る。

 メイドさんが朝食を下げに来たのかと思ったら、アマンダだった。

 ドアを開けると、朗らかな挨拶と共に入ってくる。

「おはようございます、美咲さん」

「おはよう。朝からどうしたの?」

「車を引き取りに来たんですよ。チームスタッフの車と入れ替えです」

「じゃあ、アマンダがあのフェラーリに乗って帰るの?」

「そうなんですよ。私に運転できますかね」

「傷でもつけてクビにならないようにね」

「クビですむならいいんですけどね」

 ああ、まあ、それで済まない可能性もあるのか。

 お金持ちの人の持ち物って、いろいろ面倒だな。

 アマンダがスマホを差し出す。

「これ、ミケーレから預かってきました」

「私に?」

「ええ、使い放題ですから、ご自由に。ミケーレの電話会社のものなので」

 そんな会社まであるんだ。

 逆に持っていない物を教えてほしいくらいだ。

「かけてみてください」

「ミケーレに?」

「はい。渡したらかけるように言われてますので」

 ちょっと嫌な感じがした。

 アマンダに義務を負わせて電話をかけさせるのは卑怯じゃないの?

 でも実際、彼女が責められると困るので私は登録された番号にかけてみた。

 まるで待ち構えていたかのように、一回目のコールが終わる前に彼が出た。

「やあ、美咲。かけてくれてありがとう」

 顔が見えないせいか、なんだか彼ではないような気がする。

 声に自信が感じられない。

「寂しい思いをさせて本当にすまないと思っているよ。二人でじっくりと話がしたいんだ。そうすればわかり合えると思うよ」

 どう返事をしていいのか分からなかった。

「そうね」

 返事をすることに意味があるのかも分からなかった。

 もう終わりでいいじゃない。

 そうすれば二人とも楽になれるわけだし。

 どうせ、あなたには他にもいい人がいっぱいいるんでしょうから。

 私はあなたのコレクションの一人。

 お城の大ホールに飾ってあった鹿の剥製や角と同じ、過去の獲物の残骸なのよ。

「今日の試合を見に来てくれるよね」

「そういう約束だったから」

 あなたとではなく、彼との……ね。

「そうか、それはよかった」

 電話の向こうでミケーレが喜んでいる。

「でも、お母さんも来るんじゃないの?」

「いや、大丈夫だよ。母はカルチョ……、サッカーに興味はないから」

「でも、昨日のパーティーには来てたじゃないの」

「あれは政財界の連中との顔合わせの意味があったからね」

「そう、分かった」

 ふと、大里選手の話を思い出す。

『別れ話をしに行くチャンス』

 ちゃんと言えるだろうか。

 言わなくちゃいけないんだ。

 ちゃんと、お別れを言わなければならないんだ。

 そしてこのスマホも返さなければいけないんだ。

「今晩、ちゃんとお話ししましょう」

「そうかい。そう言ってくれるとうれしいよ、美咲。本当にすまない。僕もずっと心配していたんだよ。君には嫌な思いばかりさせてしまって、どうしても誤解を解きたかったんだ」

 ミケーレは一生懸命しゃべっている。

 でも、スマホから聞こえてくる音声はただうるさいだけで、私の耳には入ってこなかった。

「……美咲?」

「はい」

「愛してるよ」

「グラツィエ、ミケーレ」

 彼が黙り込む。

 私も言うべき言葉が見つからなかった。

「……すまない。仕事で人を待たせているんだ。とりあえず、今晩スタジアムで会おう。アマンダに手配を頼んであるから」

「迎えに来てくれないの?」

「僕は無理だよ。待ってるからね」

 電話が切れた。

『僕は無理だよ』

 彼の言葉が何度も頭の中で繰り返される。

 私も無理なのよ。

 どうしてこんなところだけ気が合うのかしらね。

 ナポリに来てすぐに燃え上がった恋は、花火の火薬のようにお互いを激しく焼き尽くして、あっという間に燃え尽きてしまったのだ。

 アマンダがテラスで景色を楽しんでいる。

「いい部屋ですね」

「あなたも泊まれば? 寝室がもう一つあるから」

「エンリョしておきます」とテーブルの上に残った朝食のブドウを一粒口に入れた。

「どうして?」

「私、カレシと同棲しているんで。カレ、寂しがるから」

 ああ、そうなのか。

 なんだか彼女が急に大人に見える。

 納得しかけたところでアマンダがウィンクした。

「二次元ですよ」

 ニジゲン?

「アニメのキャラですよ」

 はあ?

 アニメのキャラと同棲?

 妄想ってこと?

「家に帰ったらどっぷり浸るんです。愛しのダーリンと」

 それって、寂しがってるのはアマンダの方じゃないの?

 でも、言えなかった。

 文化や個性やら個人の趣味の尊重とか、日本とイタリアの友好とか、いろんなキーワードが頭を駆けめぐったけど、結局のところ、面倒だと思っただけだ。

「アマンダは日本にいた頃は池袋とか秋葉原とかには行ってたの?」

「毎日ですよ。コスプレもやってました。イタリア人だとめちゃくちゃ注目されるんですよ」

 聞いちゃいけない世界だったかな。

「おっと、いけない。私はとりあえず車を返しに行くんで、午後にまた来ます。それまで自由にしていてください」

 アマンダが去ってしまうと、何もすることがなくなってしまった。

 私はカプリからポーチに入れて持ってきていた自分のスマホを取り出した。

 ずっと電源は切ってあったから、まだバッテリーはほとんど減っていない。

 四、五日ずっとほったらかしにしていたのなんて、高校生の時にスマホを持たせてもらって以来初めてのことだ。

 このホテルには無線が飛んでいる。

 セキュリティ・パスワードを入力すると、今までたまっていた通知が一気に届いて、まるでスマホが怒っているかのようにブウブウとうなり出す。

 親や遥香からのメッセージや、タイムライン、どうでもいいような広告。

『いまどこにいるの?』

『どうして連絡をよこさないのよ』

 今の私には全く必要のない情報ばかりだ。

 こんなメッセージにいちいち返信していた今までの私はいったい誰だったんだろう。

 そして、今の私もいったい誰なんだろう。

 自分なのに、自分じゃないみたいだ。

 かといって、このスマホにあふれかえるメッセージを必要としていた頃の自分に戻りたいわけでもない。

 自分の居場所がどこにもないような気分だ。

 なんだかへんだ。

 ついこの間、パズルのピースがカチリとはまるような爽快さを感じたんじゃなかったっけ。

 あれは錯覚だったんだろうか。

 美しい風景を見て舞い上がっていただけなんだろうか。

 私は自分のスマホを放置して、散歩に出かけることにした。

 サレルノの街はナポリのような大都会とは違って、見た目は整然としている。

 あまりゴミも散らばっていないようだ。

 カラスも飛んでいない。

 ただ、海はやっぱり汚い。

 ヨットハーバーもヨットとヨットの隙間にはゴミが浮かんでいて、水も濁っている。

 茶色く塗られたベンチがあるので座ろうかと思ったら、ケチャップがべっとりとくっついていた。

 やっぱりナポリとあんまり変わらないのかな。

 イタリアの街はどこもこんな感じなんだろうか。

 車が渋滞していないだけ街は静かだけど、落ち着かない。

 コンビニやファミレスはない。

 レストランやカフェは女性一人では入りにくい雰囲気のところばかりだ。

 あらためて日本の街は優しいんだなと思った。

 せっかくだからどこかカフェにでも入ってみたかった。

 でも、どうしてもあと一歩のところでためらってしまう。

 何軒かのカフェの前で迷っては通り過ぎてを繰り返しているうちに、いつしか全くお店のない区画に来てしまっていた。

 明らかに地元の住民以外の人間が立ち入る地域ではない雰囲気だったので、私は来た道を戻ることにした。

 そのときだった。

 路地から声をかけられた。

「チャオ、シニョリーナ! ジャポネーゼ?」

 エプロンをした中年の男の人だった。

 レストランの人だろうか。

 タバコを吸いに出てきたらしい。

 何と返事をしたものか分からなくて、とりあえず「イエス」と英語で答えた。

 すると、おじさんが目を丸く見開いて、両手を広げて近づいてきた。

「オサト! オサト!」

 え?

 ああ、オオサト選手のこと?

 おじさんの声を聞いたのか、路地から他の人たちも顔を出してきた。

 日本人が珍しいのか、「オサト! オサト!」とだんだん大合唱になってきた。

 日本人の名前は全員『大里』になっているらしい。

 みんなばらばらにイタリア語で何か言ってるけど、全然意味が分からない。

 男の人だけでなく、奥さんなのか太ったおばさんも出てきた。

 おばさんが私の手を引きながら路地の奥へと進んでいく。

 ちょっと不安はあったけど、引かれるままに着いていくことにした。

 カフェとレストランの中間のようなお店があって、外に並べられたテーブルで地元の人らしいお客さんたちが何をするわけでもなくワインやレモンの浮いた炭酸水を飲んでいた。

 おばさんが私をテーブルに座らせる。

 どうしよう。

 ちょうど何か飲もうかと思ってたからいいんだけど、大丈夫なのかな。

 おばさんがメニューを見せてくれる。

 イタリア語だ。

 読めるわけがないと思ったけど、ローマ字読みでカプチーノとか、意外と意味は分かる。

 水はウォーターかなと思って探したけど、waterとは書いてなかった。

 アクア……、あ、これが水か。

「アクア・ミネラーレ、ペルファボーレ」

「ガッサータ?」

 どういう意味?

 困惑している私に、おばさんがにっこり笑みを浮かべて瓶を開ける仕草をする。

「プシュ!」

 ああ、炭酸ね。

「はい、あ、イエス、プリーズ」

 もうイタリア語だか英語だか日本語だか自分でもなんだか分からない。

「ピッツァ?」

「あ……、ええと、マリゲリータ」

 それしか知らない。

 ハーイとおばさんはお店の奥に引っ込んで、さっきのおじさんに大声でイタリア語で何か伝えた。

 オーダーかと思ったけど、まわりのお客さんがくすくす笑っているから、何か違うことなのかもしれない。

 私には何のことだかさっぱり分からないのがちょっとくやしい。

 なんだかうまく客引きに乗せられた感じだけど、怪しい雰囲気のお客さんはいないから、べつにぼったくりとか危ないお店ではないだろう。

 いざとなったらミケーレに借りたスマホで連絡を取れば何とかなるはずだ。

 結局彼に頼ってしまうところがなんとも嫌な気分になる。

 でもここはイタリアだ。

 日本人の私が強がりを言っても仕方がない面もある。

 おばさんが半分に切ったレモンの入ったグラスと炭酸水のボトルを持ってきた。

 ふたをひねって半分だけ注いでくれる。

「グラツィエ」

 おじさんが奥で呼んでいる。

 おばさんが戻っていって、熱々のピザを運んできた。

「ブオナ・ペティート、シニョリーナ」

「いただきます」

 つい日本語で言ってしまった。

 生地がものすごく薄くて、でもムチッとした弾力と焼けた小麦の味がしっかりとしている。

 シンプルなトマトソースがバジルの香りを引き立たせ、とろけるモッツァレラがからんで一体化している。

 イタリアに来てからマルゲリータを何度も食べたけど作る人やお店によって全部違う。

 違うけど、ここのもとてもおいしい。

 あっという間に一枚ぺろりと食べてしまった。

 冷たい炭酸水が、ちょっと熱にあたった唇にひりひりする。

 店内の壁にテレビが掛かっている。

 スポーツ番組だ。

 サッカーのニュース情報番組らしい。

 三人の解説者が丸いテーブルを囲んで話し合いをしているけど、イタリア語だからなんだか分からない。

 日本のスポーツ番組と違って、まるで政治討論会みたいな雰囲気だ。

 真面目な日本ほどテレビはバラエティっぽくて、いい加減なイタリアほど真剣にサッカーについて語り合っているのはなんだか逆のような気がする。

 出演者達は落ち着いた声でにこりともせずに淡々と自分の意見を述べて、それに対する別の人の話に耳を傾ける。

 アナウンサーがそれをやはり淡々と仕切っている。

 画面に大里選手が映った。

 とたんに店の中の人たちが「オサト!」と歓声を上げながら私を見る。

「チャオ、ジャポネーゼ!」

「ジャポネーゼ!」

「オサト! オサト!」

 わざわざ席を立ってこちらに来て握手を求めていく人もいる。

 どうやら、この街に日本人はめずらしく、大里選手と同じ日本人を見ただけで興奮しているらしい。

 私はただの庶民なんですけどね。

 みんな今日の試合に期待しているんだ。

 本当に彼はスーパースターなんだな。

 すごい人気なんだとあらためて感じる出来事だった。

 ミケーレから借りているスマホが震えた。

 アマンダからの電話だ。

「はい。神楽です」

「美咲さん、今どこですか?」

「ええと、散歩に出たところなんだけど……」

 ここがどこだか分からない。

 ホテルからどうやって来たかも説明できない。

「今から迎えに行きますから、お店の人とかわって下さい」

 ああ、そうか。

 イタリアのことはイタリア人に任せた方が確実か。

 私はおばさんを呼んで電話に出てもらった。

 少しの間アマンダと会話したかと思ったら、そのままおばさんはお店の外に出てキョロキョロし始めた。

 すぐに黒塗りの車が路地に入ってきた。

 アマンダが後部座席の窓を開けて手を振る。

「チャオ、美咲さん。迎えに来ましたよ」

「ずいぶん早いのね」

「スマホのGPSでだいたいの場所は分かってましたから」

 あ、追跡機能がついてるわけか。

 それはミケーレが私の居場所を把握したかったとか?

 今どき私のスマホにだってそういう機能があるのは知っている。

 そこまで勘ぐることはないんだろうけど、やっぱりなんだか嫌な気分だった。

「乗って下さい。スタジアムにご案内します」

「待って。お金を払ってないから」

「『ごちそうします』って」

 え?

 おばさんは私に手を振っている。

 私はアマンダに確かめた。

「本当にいいの?」

「ええ、『日本人だからごちそうしたかった』って言ってますよ」

 理屈がよく分からないけど、大里選手のおかげってことなんだろうか。

 怪しいお店なんじゃないかと警戒していたことが恥ずかしかった。

「ねえ、アマンダ。イタリア語でお礼を伝えてほしいんだけど。『とてもおいしいピザをごちそうさまでした』って」

「ええ」

 アマンダがイタリア語で言うと、おばさんはとても喜んでくれた。

 私が車に乗ると、お客さんたちが窓や車の屋根をたたいて、「オサト! オサト!」と叫びながら踊り出した。

 陽気な雰囲気で楽しそうなんだけど、正直、ちょっとこわい。

「みんななんでこんなに興奮してるの?」

「開幕戦ですからね。当たり前じゃないですか」

「そうなの。これで普通?」

「イタリアですからね、ここは」

 アマンダは特に驚いた様子もなく淡々と答えた。

 スーツを着こなした運転手さんがゆっくりと車を発進させて、狭い路地を縫うように走っていく。

「スタジアムに来られない人たちは、ああやってカフェのテレビで試合を見たりするんですよ」

「ふうん、チケットは手に入らないの」

「年間シートで埋まってますし、開幕戦は一般枠もすぐに売り切れですよ。ビョウサツです」

 私みたいに興味のない人間が招待されるのは申し訳ない。

 大通りに出たところで少し車の流れが詰まってきた。

 こちら側の車線だけ渋滞している。

 前方に大きな建物が見えてきた。

「あれがスタジアムですよ」

 ユニフォームを着た人たちがぞろぞろと歩いている。

 結構家族連れが多い。

 関係者用の入り口なのか、車はスタジアムの地下へ入っていく。

 ガラス扉のエントランスがあって、インカムをつけた係員が何人も立っている。

 車が止まると、ほおひげの生えた男の人がドアを開けてくれた。

「ベンベヌータ、シニョリーナ」

「グラツィエ」

 イタリア語なので何と言ったかは分からないけど、とりあえずドアを開けてくれたことに対してお礼を言った。

「『ようこそ』って言ったんですよ」と、反対側のドアから出たアマンダが教えてくれた。

 ああ、そうだったのか。

 一般のお客さんが来ないところなのか静かだ。

 そのままほおひげの人に案内されて、私たちはエレベーターに乗った。

「今日はお兄さんは出るの?」

 私はエミリオのことをたずねた。

「ベンチ入りはしてますけど、出場機会はないと思いますよ。大里さんとはレベルが違いますからね」

 聞いてはみたものの、何と言っていいのか気まずくなってしまった。

 エレベーターの扉が開く。

 廊下かと思ったら、広い部屋だった。

 地下駐車場から直接上がれる招待者向けのラウンジらしい。

 他にも何人かの人たちが思い思いにくつろいでいる。

 ほおひげの人は、エレベーターでそのまま戻っていった。

 アマンダが部屋を見回しながら言った。

「今日はここから観戦するんですよ。飲み物はどうしますか?」

「何があるの?」

 アマンダがビュッフェに案内してくれる。

 カウンターに置いてあるワインやシャンパンの他にも、バーテンダーさんが作ってくれるカクテルもあるようだった。

 食事もパスタや肉料理などのしっかりしたものから、ピザやサラダ、果物、ビスコッティやナッツのようなおつまみ類まで、いろんなメニューがそろえられていた。

 私よりも先にアマンダがシャンパンを注いでいる。

 私はオレンジジュースをもらってラウンジの窓越しにスタジアムの風景を眺めた。

 客席の最上階にあって見晴らしはいい。

 でも、その分、フィールドはけっこう遠くにあって、整備中の係の人たちがごま粒のように見える。

 アマンダが隣でシャンパンを飲んでいる。

「全体を見るにはいいんですけど、ピッチまで遠くていまいち迫力がないんですよね」

 私もそう思った。

「テレビで見る方が分かりやすいのかもね」

「だから、ちゃんとモニターもあるんですよ」と、アマンダが壁に掛かったテレビを指した。

 社交の場であって、観戦はおまけという人たちの世界なのかもしれない。

 試合開始までまだ少し時間があるけど、客席はすでに半分以上埋まっている。

 ゴール裏の区画だけ色合いが違う。

「あっちはなんで色が違うの?」

「アウェイチームの応援席ですよ。対戦相手ですよ」

 ああ、そういうことなのか。

 そちらの席はもうだいぶ埋まっていて、旗が振られたり、跳びはねて踊ったりして賑やかだ。

 発煙筒まで焚かれて、興奮した観客がチームの応援歌を合唱し始めた。

「美咲さんは本当にサッカーのことは知らないんですね」

 あきれ顔のアマンダに、苦笑するしかない。

 スマホが震える。

 ミケーレだ。

「はい、神楽です」

「チャオ、美咲。いまどこだい?」

 GPSで分かるんじゃないの、とは言わなかった。

「アマンダと一緒にラウンジにいます」

「じゃあ、今からそっちに行くよ。僕も駐車場に着いたから」

 電話が切れた。

 アマンダがちらりとスマホに目をやった。

「ミケーレですか」

「これから来るって」

「美咲さんはミケーレと別れたいんですか?」

 ズバリ聞くのはイタリア流なんだろうか。

 逆に、論点がはっきりしていい。

「別れたいかと聞かれれば、別れたくない」

「じゃあ、愛してるんですね」

「愛してるかと聞かれれば、愛している」

「じゃあ、何が悩みなんですか?」

「お母さんに交際を反対されていること」

「じゃあ、どうしてミケーレと会うのを嫌がっているんですか」

 どうしてだろう。

「相性はいいんですよね、体の」

 カラダの……。

 返事しなくちゃいけないのかな。

 血管がドクドクいって顔が破裂しそうだ。

「カワイイですね、美咲さん」

 イタリアの女の子って直接的だなあ。

「お母さんに嫌われているっていうだけで、どうして美咲さんはミケーレを嫌うんですか」

「それは大きな問題じゃないの?」

「相手の家族なんて、そんなものじゃないですか」

「でも、結婚は許さないって言われたし」

「親が反対しても結婚は二人の問題だからできますよ。カケオチ・シンジューモノはチカマツ以来の日本の伝統でしょう」

 近松門左衛門なんて、中学校以来久しぶりに聞いた名前だ。

 ここ、イタリアだよね?

 ていうか、心中はしたくないな。

「でも、その後、いろいろ大変じゃない」

「別々に暮らせばいいだけじゃないですか。ミケーレの家族のことはミケーレの問題ですよ」

 はっきりしていて分かりやすい。

 なんだか私の考え方が間違っているみたいだ。

 それがイタリアでは普通なのか、アマンダの考え方なのかは分からない。

 でも、いろんな人の意見を聞くのも大事なのだろう。

 自分一人の考え方や倫理観にとらわれていると、本質的なことを見逃してしまうのかもしれない。

 エレベーターが到着した。

 扉が開くと同時にミケーレが飛び出してきた。

「チャオ、美咲。会いたかったよ」

 人目もはばからず私を抱きしめる。

 たった今アマンダと話したばかりなのに、嫌悪感がこみ上げてきてしまう。

 もう私は彼を愛せないんだろうか。

「美咲、本当に済まなかった。母の失礼をお詫びするよ。僕は君を愛している。君も僕を愛してくれているだろう。話し合えば分かり合えるよ」

 話し合わなければならない時点で、もう分かり合えていないというのが日本人のとらえ方だ。

 アマンダは私たちから離れて飲み物のおかわりを取りにいっている。

 ミケーレは窓際の席に私を座らせて、自分も並んで腰掛けた。

「母の説得は僕に任せて欲しい。君に迷惑はかけない。ちゃんとするから、少し時間をくれないか」

 私は曖昧にうなずいた。

 彼は私の手を取って愛おしそうに撫でている。

「僕らは愛し合っている。そうだろう? こんなすれ違いはおかしいよ」

「そうね」

 また、エレベーターの扉が開く。

 エマヌエラさんが私たちのところへまっすぐにやってきた。

 ミケーレがとっさに私から手を離そうとする。

 私は彼の手をつかんだまま離さなかった。

 お母さんが座ったままの私を見下ろしている。

「あら、またあなたですか。大里さんのご招待かしら」

「いえ、ミケーレに話し合いたいと呼ばれました」

 英語で話すお母さんに、私は日本語で返事をした。

 すぐ横に二杯目のシャンパンを持ったアマンダが立って通訳してくれる。

「スマートフォンをお出しなさい」

 GPSで居場所がばれているのだろう。

 だからこそ、ここに来たのだろうし。

 隠しても無駄だ。

 私はミケーレから借りているスマホを取り出してお母さんに渡した。

 彼が止めようとするけど、お母さんが手で制する。

「ミケーレ、これはどういうことですか。自分の会社のものだからといって、あなたが勝手に流用するのは業務上横領ですよ」

 ミケーレが歯を食いしばるようにして黙っている。

「通信会社の五十一パーセントの株式を所有しているのはわたくしです。株主の意向に沿うように職務を遂行するのが経営者の務めでしょう。いいですね、ミケーレ」

 お母さんは私の方を向いて言った。

「交際は認めないと言いましたよ」

「でも彼は私を愛しているそうです」

 ミケーレが立ち上がって私から手を離した。

「そうだよ、母さん。僕は美咲を愛している。どうしてそれがいけないんだ」

「あなたはドナリエロ家の跡継ぎです。ふさわしき家柄の相手を見つけることがあなたには必要なのです」

「そんなのどうでもいいじゃないか。会社の経営とはなんの関係もないことだろう」

「おおありですよ。あなたがドナリエロ家の人間だからこそ、周囲の人間はあなたを尊敬するのです。尊い貴族の血を引くあなただからこそ財閥を一つにまとめられるのです。あなたの生まれ育ち、それが会社経営の基盤となっていることを自覚なさい」

 私は座ったまま、アマンダの通訳を介して二人のやりとりを聞いていた。

 だんだん興奮していったミケーレがお兄さんのことを持ち出した。

「もしもロレンツォ兄さんがいたら、僕のことなんかほったらかしだったんじゃないのか。僕が誰と交際しようが自由だったんじゃないのか」

「仮定の話をしても意味がありませんよ」

「母さんだってフランチェスカのことを自分の娘のようにかわいがっていたじゃないか。ロレンツォとの交際を認めていたし、むしろ喜んでいた。なのに、どうして美咲じゃだめなんだよ」

「あの時と今は違うのです」

「それじゃ説明になっていないだろ。母さんはもしもフランチェスカが生きていてロレンツォが結婚したいと言ったら同じように反対するのかい?」

「ですから、仮定の話はしないと言っているでしょう」

「仮定の話じゃないよ。フランチェスカが死んでいるからどうでもいいっていうのかい?」

 エマヌエラさんは黙ったままじっと彼を見つめていた。

 私は立ち上がってミケーレの手を取った。

「ミケーレ、やめて」

「いいんだよ、美咲。はっきりさせなくちゃいけないんだ。母さんは兄さんの巻き添えになって死んだフランチェスカのことなんかちっとも考えていないんだよ。君のことをないがしろにしているのと同じようにね。僕はそんな冷たい母さんが嫌いだよ」

「やめて! お願いだから、ミケーレ」

 我に返ったのか、荒い息を整えながらミケーレが黙り込む。

 私たちが日本語で話したことをアマンダが律儀にお母さんに通訳している。

「お母さん」

 私はエマヌエラさんと向き合って言った。

「ミケーレとは別れます。すみませんでした」

 お母さんは無言で私の話を聞いていた。

 ミケーレが割って入る。

「美咲、なんてことを」

「ミケーレ、今までありがとう。楽しい旅行でした。いい思い出をありがとう。何もお返しはできないけど、感謝しています」

 納得していない表情のミケーレに私は言った。

「私のためにお母さんと喧嘩をしないで。お母さんにあんなことを言ってはいけないでしょう。あんなことを言うあなたを愛することもできません。さようなら」

「待ってくれ、美咲」

「新しい滞在先が決まったら連絡しますから、カプリに置いてきた荷物を送って下さい」

 私は彼に背を向けた。

 アマンダがついてくる。

「いいんですか、美咲さん」

「無理に続けても、こういうことが何度も起こるなら、今のうちにあきらめた方がいいでしょう」

 エレベーターの扉が開く。

「モッタイナイですね」

「どうして?」

「桁違いの財産ですよ。使っても使い切れないお金が手にはいるのに」

「お金で愛は買えないでしょ」

「でも、お金があれば楽しいことがなんでもできますよ」

 エレベーターの扉が閉まって動き出す。

 私はちょっと笑ってしまった。

「どうしたんですか?」

「ちょっと、もったいなかったかなって」

「でしょう?」

 アマンダも笑っている。

「お金と結婚すれば良かったんですよ。それで、もっといい男を捕まえる。イッセキニチョウって言うんですよね」

 エレベーターの扉が開く。

 地下駐車場を歩いていると、外の歓声が地響きのように聞こえてくる。

「試合が始まったみたいですね」

 アマンダが立ち止まった。

「美咲さん、せっかくだから試合を見ていきませんか」

「でも、どこで?」

「関係者の入れるところがありますから」

 私はアマンダについていった。

 地下から階段を上がって狭い通路を抜けたところに非常口のような小さな扉がある。

 それを押し開けると、そこは競技場だった。

「すごいでしょう。ピッチがすぐ目の前なんですよ」

 プロのカメラマン達やテレビ中継のスタッフがいる専用区画のすぐ横だった。

 少年サッカーの観戦席よりももっと近い。

 芝生よりも少しだけ段が低くなっていて、ちょうど選手の膝くらいの高さに視点が来る。

 本当に今私の目の前で選手がボールを蹴った。

 ボールを蹴る音がはっきり聞こえる。

 選手の靴下にできた引っかき傷まで見える。

 こんなスポーツ観戦は初めてだ。

「ねえ、アマンダ、こんなところに入ってきちゃって大丈夫なの?」

「べつに誰にも止められなかったじゃないですか」

 泥棒もびっくりの根拠だ。

 私は大里選手をさがしていた。

 すぐ目の前とはいえ、フィールドは広いし、人の動きが激しいから、誰が誰なのかよく分からない。

「大里選手はどこ?」

「ほら、あそこですよ」

 アマンダはすぐに反対側を指さすけど、私にはやっぱり分からない。

「背番号はいくつなの?」

 アマンダが呆れ声でつぶやく。

「七ですよ」

 七番の選手をさがすけど、やっぱり見つからない。

 ボールがこちら側に来て、ようやく七の人を見つけたけど、大里選手ではない。

「あの人、違うよね」

「あれは相手側の七番ですよ」

 ああ、そうか。

「向こうはユニフォームが赤。こっちは水色です。少しは関心持ちましょうよ」

 アマンダは苛立ち始めていた。

 ごめんね。

 私は黙っていることにした。

 ボールが私たちの目の前でラインを割ってサレルノFC側のスローインになる。

 ラインの外に出てきた選手に向かって、観客席の子供からボールが投げ返される。

 選手が子供に軽く手を上げて受け取ると、客席から拍手と歓声が上がる。

 ……背番号七。

 大里選手だ。

 すぐにボールを投げ入れてプレイが再開する。

 大里選手はこちらのサイド際に立ったまま反対側に行ったボールを見守りながら動かずにいる。

 観客の中からイタリア語で声がかかると、他の観客から笑い声が起こる。

 大里選手はボールの方を向いたまま背中に手を回して、人差し指を振る。

「『がっかりさせるなよ』っていう野次だったんですよ」

 アマンダが教えてくれる。

 だから否定の合図をしたのか。

 すると今度は背中に両手を回して、客席に向かって拍手を求める仕草をしはじめた。

 それを見た観客がみんなでリズミカルな手拍子で応じると、大里選手は一気に中央に向かって走り始めた。

「オサト! オサト!」

 客席が沸く。

 ゲームが動く。

 サイドからのクロスに合わせた大里選手がいったんパスを出し、味方がダイレクトで返す。

 相手ディフェンダーに当たってこぼれたボールを右足に引っかけたかと思うと、大里選手はゴルフクラブを振り抜くようにボールを蹴り上げてふわりとディフェンダーの頭の上に浮かせた。

 あわてたディフェンダーが後退してゴールキーパーとぶつかりそうになり、一瞬の隙ができたのを彼は見逃さなかった。

 体ごとゴールになだれ込むように蹴り込んでホイッスルが鳴る。

 スタジアム中が総立ちで歓声を上げる。

「オサトー! ケスケー!」

 場内アナウンスも絶叫だ。

 イタリア語で興奮気味にまくしたてているけど、観客の歓声の方が爆発的で、スピーカーの音声がかき消されてしまうほどだ。

 ゴール上の巨大スクリーンに大里選手の笑顔と『1-0』という得点が表示される。

 私の隣でアマンダが叫びながら号泣していた。

 興奮しすぎて、イタリア語なのか日本語なのかも分からないほど何かをわめき散らしている。

 しきりに私の腕をつかんで何かを言っているけど、何を言っているのか分からない。

 ボールがセンターサークルに戻されたところで、対戦相手の応援席から発煙筒がたかれて試合が一時中断する。

 ホームの観客席からはブーイングが起こり、スタジアムがざわつく。

 目の前で起きていることに圧倒されて私が黙り込んでいると、アマンダが私の顔をのぞき込んだ。

「なんでそんなに冷静でいられるんですか」

 また怒られてしまった。

 私は大里選手との賭けの内容を思い出していたのだ。

 一点だったら何の約束だったっけ?

 一緒にコーヒーを飲むんだっけ?

 その後の試合は、得点を決めた大里選手へのマークが厳しくなり、相手ディフェンダーが滑り込んで彼が倒されてしまう。

 イエローカードは出ない。

 スタジアムがブーイングに包まれる。

 彼はすぐに起き上がり、痛そうなそぶりも見せずに味方に声をかけながらゴールに向かって駆けていく。

 一転してスタジアムが大歓声に包まれる。

 ボールを受け取った大里選手がサイドの選手に絶妙なパスを出す。

 駆け上がってきた味方がサイドの選手と入れ替わるようにボールを受けてゴール前にクロスを入れる。

 飛び込んできた大里選手の頭にあたって向きを変えたボールは、ゴールキーパーが弾き飛ばしてしまう。

 場内にため息があふれかえる。

 ディフェンダーが大きく蹴ってクリアしたところでホイッスルが吹かれ、前半が終了した。

 選手達がベンチ裏に下がっていく。

 場内から拍手がわき起こり、トイレや買い物に観客が動き始める。

「すごかったですね。さすが大里選手です。期待以上ですね」

 アマンダが興奮して私に抱きついてくる。

「ベンチ裏に行ってみましょうよ」

 そんなところに行ってもいいんだろうか。

 いったん地下に戻り、細い通路を通り抜けてから階段を上がる。

 出たところは観客席とロッカールーム出口の境目にある狭いスペースだった。

 オレンジ色のベストを着て胸からプレートをさげた係員がいる。

「チャオ」とアマンダが自分の胸のプレートを見せて、係員とイタリア語で話している。

 話を聞いた係員が私に握手を求めてきて、場所を譲ってくれる。

「なんて言ったの?」

「『ミケーレの招待で日本から来た特別な人だ』って言ったんですよ」

『だった』と過去形で言うべきなんじゃないだろうか。

 まあ、この係員には関係のないことか。

 後半に向けてロッカールームから選手達が出てくる。

 ベンチ裏の階段を上がって出てくる選手の中にパーティーで見かけた顔があった。

「チャオ、エミリオ」とアマンダが声をかける。

「アマンダ! ワオ、ミサキサンモダネ」

 気さくに手を振ってくれる。

「ボンジョルノ。頑張って下さい」

 大里選手が出てきた。

 視点をどこかに集中させて呼吸のリズムを整えているのか、全く私のことに気づいていないようだ。

 アマンダが彼を呼ぼうとしているのを私は止めた。

「どうしたんですか?」

「試合に集中したいだろうから、そっとしておきましょうよ」

「サムライみたいですね」

「そう、彼はサムライなのよ」

 めちゃくちゃ恥ずかしいセリフだと思ったけど、そうとでも言うしかないオーラが感じられたのは確かだ。

 自分がやりたいことを宣言し、それを実行に移し、なんでも成し遂げてきた男。

 彼は今ここにない新しい風景を自ら作り出す力を持った予言者なのだ。

 誰も見たことのない世界を、彼だけが作り出し、満員の観客に見せることができるのだ。

 みなの期待にこたえるために、今、彼は気合い充分にピッチに向かって駆け出した。

 センターサークルに向かう彼に、盛大な拍手が送られる。

 しかし、後半がスタートしたところで流れが一変した。

 味方ディフェンダーのミスでボールを奪われ、キーパーと一対一になってあっさりゴールを決められてしまう。

 ディフェンダーとキーパーが軽く口論になりかけたところに大里選手が割って入って仲裁する。

 さらに、ゲームが再開されたところでまた悪夢が待っていた。

 ゴール前にドリブルで切り込んでいった大里選手が倒されてボールが奪われる。

 でも、ホイッスルは鳴らずに試合はそのまま続行となった。

 観客からはブーイングがわき起こり、味方の選手も主審にアピールするけど、結果は覆らない。

 それどころか、ディフェンダーの隙を突いて敵の放ったミドルシュートがゴール右隅に決まってしまう。

 あっさり逆転されてしまって、場内は沈黙してしまった。

 こんなにもあっさりと流れが変わるものなのか、それ以降もサレルノFC側はまったくいいところがない。

 おまけに大里選手はがっちりとマークを固められてしまって、ボールが回ってこなくなった。

 後半三十分を経過したところでベンチが動き出す。

 選手交代だ。

「美咲さん、エミリオです!」

 アマンダが大きく手を振りながら名前を呼ぶ。

 右サイドのディフェンダーと交代するためにエミリオがライン際に立っている。

 観客から期待の声援で迎えられながらエミリオがピッチに入った。

 アマンダは私のことなど忘れてしまったかのようにイタリア語で一生懸命叫んでいる。

 顔つきまで変わっていて、ちょっとこわい。

 でも、ほとんど彼にボールが回ってこないまま時間が過ぎていく。

 観客席にもあきらめの雰囲気が漂い始めた時、ゴール前でパスを受けた大里選手が倒され、今度は笛が鳴った。

 イエローカードが提示され、ペナルティーキックになる。

 ペナルティーエリアで大里選手ともう一人が立って何か相談をしていた。

 蹴るのは大里選手だ。

 彼は一度ボールを持ち上げて、ゆっくりと芝生に押しつけるようにまた置き直した。

 主審が笛を鳴らす。

 小刻みな助走から思い切り右足を振り抜く。

 キーパーが右に飛んだ。

 ボールは左隅に真っ直ぐ吸い込まれていく。

 沈んでいた観客達が一斉に立ち上がって雄叫びを上げる。

 同点ゴールが決まって、チームのみんなが大里選手のところに駆け寄り、重なり合って喜びを爆発させている。

 二点目の約束は何だっけ?

 なんでも言うことを聞くんだっけ。

 いったいこんな私に何をさせようというのだろうか。

 体が熱くなる。

 追いついたものの後半も四十分を過ぎていた。

 このまま同点で終わってしまうのだろうか。

「大里さん! 頑張って!」

 私は思わず声を張り上げていた。

 日本語の声援が届いたのか彼が顔を上げる。

 表情は変えずに軽く右手を挙げて人差し指で私を指した。

 それは間違いなく私を向いていた。

 センターサークルからプレイが再開されて相手チームはボールを回して時間稼ぎをし始めた。

 同点狙いなのだろう。

 長いシーズンの最初の試合なのだから、お互いに勝ち点を一つずつ取れば悪くはない結果なのかもしれない。

 スタジアム内の空気も緩んだ感じになってきたそのときだった。

 右サイドで相手からボールを奪ったエミリオが対角線上に走り込んだ大里選手にロングパスを蹴った。

 ラインぎりぎりでボールを受けた彼がディフェンダーをかわしながら内側に切り込んでいく。

 迫ってくるディフェンダーを向いたまま、かかとで後ろの味方にパスを出す。

 受け取った選手がディフェンスをかわそうとするのを、相手は二人がかりではさみ込もうとする。

 苦し紛れに放ったシュートは勢いもなく相手ディフェンダーの腕に向かって飛んでいく。

 ハンドを避けようとして体をよじったディフェンダーの胸に当たったボールの前にはいつのまにか飛び込んできていた大里選手がいた。

 オオオオー!

 観客が総立ちになって叫ぶ。

 と、そのときだった。

 彼の脚がもつれて、芸人がコケるみたいに前のめりに姿勢が崩れてしまった。

 駆けつけていた別のディフェンダーと交錯して、体がねじれ合うように入れ替わり、よけた彼の背中にボールが当たってコロコロとゴールに転がり込んでいく。

 相手のゴールキーパーが腰に手をやってあきれかえった表情で見送っていた。

 ホイッスルと共に、大爆笑がわき起こる。

「まるで漫画ですね。エミリオが読んでいたサッカー漫画に、こんな場面がありましたよ。転んでお尻でゴールを決めちゃうんですよ」

 アマンダも目に涙を浮かべながらお腹を抱えて大笑いしている。

 でも、ゴールはゴールだ。

 ゴール内に転がり込んで倒れていた大里選手がエミリオに手を引かれて起き上がると、場内の笑いが大歓声に変わる。

 口笛が吹かれ、チームの応援歌の大合唱が響き渡る。

 場内アナウンスも、「トウゥゥゥゥゥリプレッッッッタ!」と最上級の巻き舌で大興奮だった。

 ゴール前から苦笑しながら歩いてくる彼が指を三本口元にあてて、それを私の方に向けた。

 その動作を見逃さなかったのか、観客から口笛が浴びせられる。

 ただ、みんなは誰に対して向けられたものなのかは分かっていなかっただろう。

 私だけが彼の合図を受け取っていた。

 試合はそのまま三対二でサレルノFCが勝利した。

 試合終了と同時に彼をたたえるコールがわき起こる。

 ケスケ! ケスケ!

 ケスケ! ケスケ!

 総立ちの観客が一斉に跳びはねてスタジアムが揺れる。

 彼はすべての観客席の方を向きながら手を振り、日本風にお辞儀をして答えている。

 しかし、直後に事件が起きた。

 劇的な勝利に興奮した観客がピッチに入り込んできてしまったのだ。

 警備員が大里選手を守るように囲みながらベンチ裏の通路へと誘導していく。

 その間も彼は観客に向かって手を叩いて共に勝利を祝うことを忘れていなかった。

「すごいですね。やっぱり彼はスターですよ」

 アマンダがほうっと大きく息を吐きながら言った。

「お兄さんのパスが良かったんじゃないの」

「ええ、絶妙なロングパスでしたよね」

 アマンダもうれしそうだ。

 観客がフィールドにあふれかえってしまって場内は大混乱だった。

 スタッフ用通路を通って私たちは外へ向かった。


   ◇


「美咲さん、このあと、どこへ行きますか?」

 駐車場まで来たところでアマンダに聞かれた。

 今夜から滞在するところをまだ決めていなかった。

 自分のスマホをホテルに置いてきたままだったことに気がついた。

「あのホテルはまだチェックアウトしてない?」

「はい、私は指示を受けてませんから」

「じゃあ、とりあえず、あのホテルに行きましょうか」

 スタジアムに来るときに使った車をアマンダが呼ぶ。

 この車もまだ私が使っていていいんだろうか。

 結局、ミケーレに頼っている自分の中途半端さが嫌になる。

 でも、今すぐに全部自分で手配しろと言われても困ってしまう。

 とにかくスマホがないと検索もできないし、カプリやアマルフィと違って、元々来るつもりもなかったサレルノという街のことは何も知らない。

 強がってもしょうがないので、今はなりゆきにまかせることにした。

 スタジアムからの道は渋滞していて、私は車の中でいつの間にか居眠りをしてしまっていたらしい。

 目が覚めたのはホテルに着いたときだった。

「美咲さん、着きましたよ」

「あ、うん、ありがとう」

 まるで新宿で拾ったタクシーみたいな錯覚を感じてしまった。

 このまま帰るというアマンダと別れて私は一人でホテルに入った。

 カードキーは外出したときに持ったままだった。

 エレベーターで三階に上がり、長い廊下を歩く。

 私の方が先にスタジアムを出てきたのだから、大里選手はまだ戻ってきていないだろう。

 自分の部屋のドアにカードをかざすと、鍵が解除された。

 部屋はそのまま使えるようだった。

 掃除とベッドメイキングがされていて、私の荷物はそのままだった。

 スマホをオンにする。

 興味のないメッセージが流れてくるのを放置しておいて、部屋に備え付けられたカプセル式のコーヒーメーカーでカプチーノを作った。

 泡に唇をつけながら、久しぶりにネットのニュースを見てみた。

 大里選手の活躍もさっそく出ている。

『異次元のイタリアデビュー戦』

『貫禄のハットトリック』

『イタリア人を魅了した日本の至宝』

 大げさな見出しが踊っている。

 本当に世界的スーパースターなんだな。

 でも、私の目の前にいた大里選手は一人の人間だった。

 同じ人間なのに、やっていることが違いすぎる。

 ついさっき目の前で起こった出来事が遠い昔の記憶のように感じられる。

『イタリアのファンに投げキッス』と三点目を決めた後の写真も出ていた。

 真相を知っているのは私たち二人だけだ。

 カプチーノを飲んだところで、お風呂に入ることにした。

 肩までお湯につかっていると、急に現実的な思考がわいてきた。

 私はこれからどうしたらいいんだろうか。

 今夜はいいとして、明日からの滞在先を探さなければならない。

 予約していたホテルは全てキャンセルされてしまった。

 日本に帰るべきだろうか。

 でも、飛行機の予約はまだまだ三週間くらい先だ。

 考えてみても、まったく結論がまとまらない。

 またこうやって先延ばしにしてしまうのかな。

 私の悪い癖だな。

 自分で自分の問題を解決できないんじゃ、これからも同じようなことを繰り返してしまうんじゃないだろうか。

 仕事も続かないし、人間関係も自然消滅。

 こんな大人になるはずじゃなかったんだけどな。

 お風呂を出て髪を乾かし、バスローブを羽織ってテラスに出た。

 夏の終わりと言うべきか、秋の入り口と言うべきか、八月末のイタリアの夜はとても過ごしやすい。

 風呂上がりでも体は冷えないし、汗もかかない。

 サレルノはそれほど都会ではないけれど、海沿いの町並みがライトアップされている。

 ただ、このホテルからの角度だと、残念ながらその一部が見えるだけで、全体的には地味な夜景だ。

 でもそのくらいの方が考え事をするにはちょうどいい。

 インターホンが鳴る。

 モニター画面に大里選手が映っている。

 私は一瞬ためらったけど、ドアを少しだけ開けて顔を出した。

「よう」

「こんばんは」

「約束は果たしたぞ。中に入れてくれよ」

「もうお風呂に入ったから」

「廊下で話すとうるさいから、他のお客さんに迷惑になるだろ。話したらすぐに帰るよ」

 帰らなかったら私の方が出ていけばいいかと思って、彼を中に入れて背中でドアを閉めた。

「見に来てくれてたんだな」

「ええ」

「あんな所にいるとは思わなかったから驚いたよ。VIPラウンジだと思ってたからさ」

「最初はそうだったんですけど……」

「ミケーレと別れたってことか?」

 私は彼から視線をそらせてうなずいた。

「占いが当たっただろ」

『別れ話をするチャンスがある』

 確かにその通りだった。

「それで良かったのか?」

「え?」

「理解し合うことは可能だろ。世界が二つに分かれているわけじゃない」

 ミケーレと同じ事を言っている。

「あいつが金持ちだから理解するのが難しいと思ってるのか?」

 それもあるけど、それだけではない。

「日本で普通の会社員同士の恋愛なら簡単に理解し合えるものなのか?」

 そうかもしれないけど、そういう問題でもないような気がする。

 彼が急に私に顔を近づけてきた。

「二人の問題を二人で協力しあってすりあわせていくのが面倒だというのなら、ただ抱き合って快楽に浸っていれば良かったんじゃないのか。あんたもその方が良かったんじゃないのか」

 畳みかけてくる相手から思わず顔を背ける。

 そんな私を逃がすまいと彼がドアに手をついてニヤける。

「なら俺でもいいじゃないか」

「見損なわないで、あなたに何が分かるんですか」

 平手打ちをしようとした私の右腕を彼が左手でつかむ。

「だからさ……、分かり合おうって誘ってるんじゃないかよ」

 強い握力でつかまれていて腕がまったく動かせない。

「今夜、あんたと一緒に過ごしたい」

「いえ、ごめんなさい。あなたの予言は一つだけ外れました。私はミケーレを裏切れません」

 すると彼は目を伏せて手を離すと、一歩私から退いた。

「じゃあ、一つだけ、お願いがある。二点目を入れたら、なんでも言うことを聞くっていう約束だろ」

「何ですか」

「『あなた』じゃなくて、『健介』って呼んでくれ。そうしてくれたら、おとなしく帰るから」

「ケンスケ……さん」

「『さん』はいらないよ」

「もう言いました」

「じゃあ、帰らない」

「ケンスケ」

「美咲」

 彼は私の手をそっと握って私の目を見つめた。

「お礼に、これからのあんたの未来を占ってやるよ」

「占い師じゃないのに?」

「占い師っていうのは、外れても責任なんか取らないだろ。でも、プロサッカー選手は負けたら責任を取らなくちゃならない。期待を裏切るわけにはいかないんだ。だから俺の言うことの方が確実に実現するよ。なんていったって、『日本の至宝』と言われる大里健介だからな」

 彼は優しい微笑みを向けて私に一言つぶやいた。

「あんたは幸せになる」

「どうしてですか?」

「だから、俺がそうしてやるからだよ」

 彼は私の唇に人差し指をそっと重ねた。

「続きは次に会ったときだ」

 そして、彼は本当に去っていった。


   ◇


 翌朝、また朝食のルームサービスで起こされた。

 パスタ以外は前回と同じメニューだったので、大里選手が来るのだと分かったから急いで身支度を調えた。

 頃合いを見計らったようにインターホンが鳴る。

「おはよう。いいかな?」

「どうぞ。おはようございます」

 素直に招き入れた私を意外そうな顔で見ながら大里選手がテラスに出る。

 今日はTシャツにチノパンだ。

 いい素材の物なのが分かる。

 言わないけど、結構似合っている。

「約束は覚えてるだろ?」

「『コーヒーを飲むくらいいいだろう』でしたっけ?」

「それは一つ目だろ」

「二つ目は昨日消化しましたから」

「まあ、そうか。今日も『ケンスケ』で頼むよ」

「はいはい、ケンスケ」

「なんか違うんだよな」

 お互いに笑い合いながら私たちはテーブルについた。

 メイドさんがコーヒーを注いでくれる。

「では、ごゆっくりどうぞ」

 今日は大里選手も炭酸水ではなくコーヒーだ。

「じゃあ、一つ目の約束はこれで帳消しでいいですね」

「オーケー。まだ三つ目が残ってるしな」

 三つ目の約束。

『俺の女になれ』

 でも私は……。

 私の返事を待たずに、彼はさっそくヒレステーキを食べている。

「今日はパスタは食べないんですか」

「今日はオフだから、炭水化物もオフ。でも、コーヒーはオーケー」

 私はクロワッサンと果物をつまんだ。

 今日は灰色の雲が薄く広がっている。

 いちおう空は明るいけれど、雨が降ってもおかしくないような天気だった。

「この後、デートしてくれるんだろ」

 三十のおじさんにしては、男子高校生みたいな食いつき方だ。

「女性と二人でいるところなんて、写真に撮られたらまずいんじゃないですか」

 まあね、と軽く笑ってから真面目な顔になった。

「この街は小さな地方都市だし、観光地でもないから静かでいいよ。ローマやナポリみたいな都会だと日本から来た記者もいるだろうけど、連中もここまでは来ないから、プライバシーは尊重されるし、サッカーに集中できる」

「でも、自分がデートに夢中じゃ、意味ないじゃないですか」

「少しくらいの息抜きは必要さ。この一杯のコーヒーのようにね」

 顔の前にカップを持ち上げてウィンクしている。

 CMでも狙ってるんだろうか。

「日本に戻りたいとか、思わないんですか」

 私の質問に、彼はサレルノ湾の方を眺めながら答えた。

「こっちの方が居心地はいいからね」

「イタリア語も上手でしたよね。パーティーのスピーチはびっくりしました」

「スペイン語に英語、あとはドイツ語もいけるよ」

「どうやって覚えたんですか」

「中高生の時から海外に出るって決めてたから、学校の勉強は捨ててたけど、英語だけは頑張ってたよ。日本でプロになってからはスペイン語とイタリア語の家庭教師をつけて特訓してたね。自分で言うのもなんだけど、言葉を覚えるのは結構得意みたいなんだ」

 案外真面目な答えでかえって驚いた。

 すっかり話に聞き入っていると、彼が椅子の背もたれから起き上がって微笑んだ。

「あ、すまん。現地の美女にベッドで教わったと言うべきだったよな」

「サッカーに関係したことになると真面目なんですね」

 ちょっと耳を赤くしてはにかんでいる。

「女に対しても真面目だぞ」

 私はあえてスルーした。

「試合中もすごい集中力でしたね。後半にロッカールームから出てきた時に、声をかけようか迷ってしまって」

 私は後半開始の時に見た彼の様子を話した。

 頭をかいて鼻の頭をこすりながら笑っている。

「日本ではビッグマウスのチャラ男キャラで通しているけど、実際には極度のアガリ症でね」

「でも、何万人という観客の前であんなすごいプレーをしてたじゃないですか」

「まあね。ピッチに立つときはあらゆる物を排除して集中するんだ。観客のプレッシャーから自由になるためにゴールに意識を集中するわけだ。プレッシャーがあるからこそ、集中できる。まあ、逃避かもしれないけどな。だから、あんたのようにサッカーに興味がないと言ってくれる人の方が話してて落ち着くのさ」

 真面目な話をしている時の彼の横顔は、目つきが鋭いのに、どこかあどけない少年のような雰囲気を放っている。

「スターというのは常に作られたイメージを見せるように期待されてるからな。有名になればなるほど、そのギャップが苦しくなっていくんだよ」

 スケールは全然違うけど、分かるような気がした。

「どうした?」

「いえ、自分と同じだなって一瞬思ってしまって。ごめんなさい。ふつうの会社員の悩みとは違いますよね」

「べつに自分を卑下することはないだろ。あんたの悪い癖だよ」

 何度指摘されてもなおらないんですけどね。

「確かに人それぞれ悩みは違うし、やっていることは違っていても、感じていることは同じ。お互いに理解し合うことは可能だ」

 うーん、そうなのかな。

 分かるようでいまいちスッと入ってこない。

「想像力の欠けた頭の悪い連中にはそれが分からないから、おまえごときが出しゃばるなって釘を刺そうとするんだよ。でも、それに負けちゃだめさ」

「負けた人間がここにいます」

「笑ってやれよ、自分を。弱い自分を追い払うんだよ」

 そこまでメンタルが強くない。

「なんで大里さんはそんなにメンタルが強いんですか」

「だから、極度のアガリ症だって」

「信じられませんよ。いつも堂々としてるじゃないですか」

「まあ、そうだな。一つは慣れだな」

 確かにそれはあるんだろう。

「最初は緊張でバクバクだけど、何度か経験すると慣れてくる。俺の場合、常に人前で何かをさせられていたから慣れたね。あと、ある時点から逆転するんだよ」

 逆転?

「たとえば、スピーチで失敗すると恥ずかしくて落ち込むし、二度とやらないって思うだろ」

「やる前から嫌ですし、終わってからも自己嫌悪に苦しみます」

「でも、ある程度有名人になると、ちょっと失敗した時もそれを笑いのタネに変えられて、かえってスピーチがうまくいくことがあるんだよ。『あ、なんかこの人意外と気さくな人なのかも』なんて思われたりしてね」

 ああ、芸人さんが『オイシイ』っていう状況みたいなものか。

「だから、失敗しても取り返せるし、かえってうけたりしてアレンジもできるようになる。まあ、それも『慣れ』の一つなのかもしれないけどね」

 いつのまにかすっかり話し込んでしまっていた。

 普通だったら絶対に一対一でなんか話せないスーパースターなのだ。

 ただの嫌なオジサンだったらよかったのに……。

 ちょっと尊敬の気持ちがわいてきたのが悔しかった。

「デートって、何かプランはあるんですか?」

「特にないな。一緒にいられるならなんでもいいと思ってたからさ。逆に、何かしたいことはあるか? なんでもかなえてやるぞ」

「じゃあ、これでお別れ」

「それはないだろう。散歩くらいはつきあってくれよ」

「じゃあ、散歩に出ましょうか。ちょっと支度しますね」

 彼が立ち上がったので、私も日焼け止めを塗りに洗面台へ行くことにした。

「おう、ここで待ってるよ」

 彼はテラスで両手をあげてあくびをしながら、思い切り背伸びをしていた。

 約束だから一回だけ散歩におつきあいしようと覚悟を決めた。

 ふと、ミケーレのことを思った。

 彼は悲しむだろうか。

 私のことを嫌うだろうか。

 今さらどうしてそんなことを気にしているのかと言われれば確かにそうだ。

 私の方から別れを伝えたのだ。

 もうその段階で失望されたはずだし、終わったことなのだ。

 それでも私はまだ引きずっているのだろうか。

 でもそれは仕方のないことだろう。

 一日二日で切り替えられるほど軽い気持ちではなかったのだ。

 私だって本気で彼を愛していた。

 本当は……、できれば別れたくはない……のかも。

 また同じ思考が頭の中で渦を巻いてしまう。

 いつもの決められない病気がぶりかえしてしまった。

 私は逃げようとしているのだろうか。

 だから大里選手とのデートに応じようとしているのだろうか。

 二人に対して、どちらにも後ろめたい気持ちを抱きながら私は鏡の中の自分をにらみつけていた。

 でも、これだけ悩んで支度をすませたのに、私が戻ってみると彼はベッドに大の字になって眠っていた。

 思わず苦笑してしまう。

 疲れてるのかな。

 私はそのまま寝かせておこうと思ってベッドカバーをかけておいた。

 べつに散歩に出なくてすむと思ってせいせいしたわけではない。

 なんだかこういう彼の様子を見ているとなぜか落ち着くのだ。

 私もベッドに腰掛けた。

 指の長い大きな手がすぐそばにある。

 すこし振り向くと穏やかな寝顔。

 普通の人なんだな。

 だけど、どれだけすごいプレッシャーに立ち向かって戦っているんだろうか。

 疲れるのも当然だよね。

 無邪気に眠っている姿を見ているだけでなんだか飽きない。

 ふと見ると、ベッドカバーからはみ出した右脚が腫れている。

 そういえば、昨日の試合で相手の選手にスライディングで倒されてたっけ。

 まさかこんなにひどい怪我だとは知らなかった。

 あの後、すぐに立ち上がってゴールに向かって駆け出していたんじゃなかったっけ。

 チームを鼓舞するための自己犠牲。

 やっぱりただのオジサンじゃないんだな。

 そのうちに私もベッドに腰掛けたまま、うとうとと眠っていたらしい。

 ふと目を開けて振り向くと、彼も横になったまま目を開けていた。

 いつのまにか私の手を握っている。

「あんた、無防備だな」

「警戒する必要ありますか」

「ものすごくいやらしいことをするかもよ」

「すればいいじゃないですか」

 瞬間、彼は背中から私に抱きついたかと思うと、大きく体をひねらせて広いベッドの上に私を押し倒した。

 飢えたライオンに組み敷かれたように、私は抵抗できなかった。

「どうされたい? めちゃくちゃ恥ずかしくてみだらでいやらしいことをされたいのか」

 私は黙って目を閉じていた。

 私には選択肢はなかった。

 むしろ彼に蹂躙される方が全てを終わらせるのには都合が良かった。

 恋も、人生も、自分自身も……。

 全部めちゃくちゃになってしまえばいい。

 私を抑えつけていた力が軽くなる。

「どうして俺を試す?」

 試す?

「そうやってミケーレを忘れようとするのか、俺を利用して」

 違う。

 そうじゃない。

 でも、声が出なかった。

「もっと苦しめよ。あんたは絶対にあいつのことを忘れることなんてできないさ」

 どうして?

 どうしてそんなことを言うの?

 彼が起き上がってベッドから離れる。

「起きろよ。散歩に行くぞ」

 私は仰向けに寝たまま彼の広い背中を見ていた。

 自分では何も変えられず、丸投げしても見捨てられ、私はいつまでたっても私のままだ。

 彼が振り向く。

「そんなにヤリたいのか?」

「はい」

 私の返事を鼻で笑うと、彼は腰を入れてしゃがみ込んで私を抱き上げた。

「ほら、お姫様抱っこしてやるから機嫌直せよ」

 こんなことしてほしいんじゃない。

「大里健介にお姫様抱っこされた女はあんたが初めてだぞ」

 だからってうれしくない。

「介護してるのと変わらないけどな」

 抱っこされたまま彼の頬を両手でグニッて引っ張ってやった。

 笑いながら彼が私を下ろす。

「ほら、行くぞ」

「『続きは次に会ったときだ』って言ってたじゃないですか」

「言っただろ……」

 彼は私の唇に人差し指を当てた。

「俺は詐欺師だって」

 そして、もう一言付け加えた。

「続きは次に会ったときだ」

「雨天順延の運動会じゃあるまいし」

「サッカーは雨でもやるけどな」

 彼はドアを開けて私を廊下にいざなった。

「せっかくのオフだ。無駄にはしたくない」

「はい」

「いい返事だ」

 ホテルを出ると空にはちょっと厚い雲が広がっていて、少し風も出てきていた。

 私たちは二人並んでサレルノの街へ歩き出した。


   ◇


 サレルノには大聖堂がある。

 中世のモザイク画や地下墓所が有名らしい。

 でも、彼はそういった観光地には興味がないようだった。

 あまり人のいないところがいいと、中世の石造りのアーチが残る街の小道をあてもなく進んでいく。

 窓辺の鉢には花が咲き、建物同士に張り渡したロープに洗濯物が翻る。

 空模様を気にしながらおばさんが真っ白なシーツを見上げている。

 横を通り過ぎたときに彼がつぶやいた。

「人目を気にせず、ふつうのデートが楽しめるようになるとはな」

「やっぱり人の目は気になりますか?」

「日本では常にマスコミやファンに追いかけられていたからね。でも、ヨーロッパだとプライベートに干渉されることはないから気楽でいいよ。もちろん、ここでも俺は有名人だけど、彼らはみなお互いのプライバシーを尊重するからね。握手を求められるときもあるけど、こうして自分の時間を楽しみたい時には、そっとしておいてくれる。日本ではそんなことはなかったからね」

 私は、アマルフィで観光客に写真を撮られたり、パーティーのレッドカーペットを歩かされた時の気分を思い出した。

 プライバシーが全くない生活なんて、私だったら一日で引きこもりになってしまうだろう。

 私の話に彼がうなずく。

「それは災難だったな。鼻もほじれないだろ」

「そんなことしませんよ」

 彼が私の顔をじっと見つめる。

「え、鼻に何かついてますか?」

「ちがう、歯に青海苔がついてる」

「タコヤキなんか食べてませんよ。イタリアなんだから」

 彼が朗らかに笑う。

「女性とこんなどうでもいい会話をしたのは初めてだな」

 馬鹿にされたのかと思ったけど、そういうわけでもないらしい。

「俺はふつうの恋愛をしたことがないんだよ」

「またまた、いくらなんでも」

「俺は十代の頃からプロに行く選手だって注目されていて、その頃からプライバシーなんかなかったよ。つねにまわりに誰かがいたし、ちょっと友達としゃべったことなんかもニュース記事にされたりしてたからね」

 ああ、そうか、そういうことか。

「学校でも部活ばかりで、自由な時間なんてなかったから、女の子としゃべったり、一緒に登下校したりなんてことすらなかったし、ましてつきあうなんてこともできなかったよ。だから恋愛なんてしたことなくてね。今思えば普通の高校生活がしたかったよ」

「バレンタインにチョコとかもらいませんでしたか」

「それはあったよ。段ボールで山ほど。スーパーの在庫かっていうくらいあったな」

「やっぱりモテモテじゃないですか」

「でもさ、そんなの、もらってうれしいと思うかい。そりゃあさ、応援してくれるファンの人たちの気持ちはありがたいけど、全然知らない人からチョコなんて送られてきても、正直、安心して食べられないし、処分に困るだけなんだよ。そもそも食べきれない量だしな」

「ふだんはお菓子なんて食べないんですか?」

「実は一つだけあるんだ」

 彼は通りがかりのキオスクで立ち止まると、ポケットから小銭を取り出してグミの小袋を買った。

 色とりどりの熊の形のグミだ。

 日本でも洋物雑貨ショップでよく見かけるブランドだ。

「トレーナーにお菓子はなるべく食べるなって言われてるんだけどね。これだけはやめられないんだ。中毒みたいなものさ」

「体に悪いものは入れないんじゃないんですか」

「悪い物じゃないからね。試合のない日にほんの少しだけ食べるんだよ」

 そう言いながら彼は緑色の熊を一つ口に放り込んだ。

「『自分へのご褒美』ってやつさ」

「じゃあ、今日は三点分食べればいいじゃないですか」

「三粒? 厳しいねえ」

 笑いながら一度に三粒口に入れる。

 私も赤いのを一つもらった。

「ダンボール箱いっぱいのチョコよりも、今あんたとこうして食べているグミ一粒の方がよっぽどかけがえのない物なんだよ」

 そう語る横顔はちょっと寂しそうで、でも、グミの味を噛みしめて楽しんでいるようでもあった。

 路地裏の散策を楽しんでいるうちに、昨日偶然立ち寄ったカフェの前を通りかかった。

 子供達がサッカーをしている。

「昨日散歩していたらたまたまこのカフェでごちそうになったんですよ。日本人が珍しかったみたいで、大里さ……ん、……ケンスケと同じ日本人だからってことでしたよ」

「へえ、そうなのか」

 彼は子供達の輪の中に入り込んでいき、ボールを奪ってドリブルでどんどんかわしていく。

 華麗な技にすぐ気づいたのか、『ケスケ!』コールが路地にわき起こる。

 興奮している子供達の様子に気づいてお店の中からも大人達が出てくる。

 ボールを軸に体を回転させてかわしたり、足技で一度に二人の間を抜けて見せたり、曲芸を見ているようだ。

 と、彼の膝上くらいの身長の幼い女の子がトットコと歩いてきた。

 少年達をかわしていて気づかなかったのか、ぶつかりそうになった大里さんが右脚を上げて股の間を通してなんとかよける。

 ボールは女の子の足に当たって転がっていく。

 彼は苦笑いを浮かべると、イタリア語で少年達に語りかけ、グミを配ったり頭をなでてやったりしていた。

 みんなは彼の体にべたべたと触ったり、口々に何かを言っているけど、収拾がつかない。

 昨日お世話になったおばさんが私を見つけて「チャオ!」と声をかけてくれた。

「ハイ、ボンジョルノ」

 大里さんはおばさんに話しかけた。

 おばさんはスマホを取り出して子供達に声をかけて写真を撮る。

 すると、お店にいたお客さん達もみんな次々に写真をせがみ始めた。

 彼は嫌な顔一つせず、女性には顔を寄せ、男性とは肩を組んで写真撮影に応じている。

 だんだんと人が集まりだしてきて、収拾がつかなくなってきたところで、彼がイタリア語で大きな声を出した。

 みんなは彼を中心にお店の前にかたまって立つ。

「なあ、面倒だからまとめて写真を撮ってくれよ」

 私はおばさんからスマホを借りて写真を撮った。

 日本だったらみんな気をつけだったりピースだったりして固まるところだけど、イタリア人はみんな笑ったりしゃべったり、跳びはねたりと、どのタイミングで撮っていいのか分からない。

 しかたがないので適当に何回かシャッターボタンを押しておいた。

 だんだん興奮してきたのか、肩を揺すりながらチームの応援歌を合唱し始める。

 私はビデオに切り替えて撮影した。

 最後まで歌い切ったところでみんなが「オサトー! ケスケー!」と叫んで両手を挙げてジャンプした。

 昨日、このカフェでもみんなはテレビで観戦していたのだろう。

 スタジアムの興奮がよみがえる。

 彼は握手に応じながら私に目で合図した。

 収拾がつかないから、ここを立ち去ろうということらしい。

 私はおばさんにスマホを返して、彼と一緒に手を振りながらカフェを後にした。

 ごちそうになった分の恩返しができたようでうれしかった。

 路地を離れて海沿いの大通りに出てきたところで彼がつぶやいた。

「さっきの見ただろ」

「ええ、みんな大喜びでしたね」

「子供だよ」

 子供?

 あの女の子につまずきそうになったこと?

「だんだんああいうとっさの時に体が思うように動かなくなってきてるんだよ。だから、あの試合みたいに後半になるとあんなふうに脚がもつれることもあるんだよ。衰えてるんだろ。まあ、おかげで三点目が取れたわけだけどな」

「でも、あのとき、相手の選手とぶつからないように体をよじっていたじゃないですか。あれだって結構大変なんじゃないですか」

「まあ、まぐれだな。それに結果的にゴールが決まったのもあんたのおかげだろ」

「私?」

「俺の勝利の女神だからな。三点取るのを祈っててくれたんだろ」

 海沿いの遊歩道には南国風の棕櫚の木が生えている。

 私と彼はその棕櫚の木をはさむようにしながら歩いていた。

 空模様はあいかわらず曇りで、ぬるい風が海の方から吹いてくる。

 木の陰に隠れて一瞬彼の顔が見えなくなる。

 次に現れた時の表情はどことなく穏やかな顔つきだった。

「サッカーが楽しいなんて、もうずいぶん思ったことなかったけどね。すっかり忘れてたな」

「ああ、さっきの子供達ですか」

「まあね」

 また棕櫚の木に隠れて、ひょっこりと顔を出す。

「日本では写真を撮られるのも嫌だったんだけどね」

 たしかに、これだけ人気者だと、次から次へときりがないのだろう。

 でも彼の話はそういうことではなかった。

「芸能界の連中っていうのは、俺といるところを写真誌に撮らせて名前を売ろうとするんだよ。女優さんと食事に行っただけでマスコミにバラされたり、つきあってると匂わせて利用されたり」

 ああ、彼ではないけれども、スポーツ選手のそういう噂話は聞いたことがある。

「じゃあ、ああいうネットに出てるニュースは全部根も葉もないウソなんですか」

 彼が髪をかき上げて頭をかく。

「……ああ、まあ、その」

「なんですか?」

「まあ、おためしというかなんというか……、くらいはあったけども……」

 うわ、ダメだこの人。

「サイッテーですね」

「正直に言うよ。俺もただの男だってことさ。そりゃそうだろう。目の前に美人がいて言い寄られたら、もったいないって思うじゃないか」

「結局チャラ男じゃないですか」

「かもしれない。でも、それでうまくいってたなら、今こうして一人でいるわけはないだろう」

「それは人格的に何か問題があったんじゃないんですか」

 思わず言ってしまったけど、彼も苦笑していた。

「おいおい、ひどいな」

「ごめんなさい」

「さっきも話したけどさ、俺はずっとサッカー漬けで、女性とおつきあいしたことがなかっただろ。だから、いざ、交際が始まっても、気の利いた会話もできないし、女性を喜ばせるプレゼントも分からないし、おしゃれなデートコースも知らない。そんなつまらない男とつきあいたいっていう女性なんているわけないじゃないか」

 思いがけずそんな弱点を話されるとチャラいオジサンが純朴な青年のように見えてしまう。

 私って、だまされやすい女なのかな。

「イケメンサッカー選手だと思ったら、ヤリたいだけのただのダサいガキだったってことさ。それで振られるんだよ」

 自分でイケメンと言っているところには反応しないでおいた。

「まあ、そんなことが続いて、女性とはますます疎遠になってしまってね。ヤッたかどうかの結果だけが残ったわけさ」

 彼が深いため息をついた。

「いくらお金や名声があっても、その代償として失う物もあるってことさ」

「純粋な愛とかですか?」

 私の言葉に彼が立ち止まる。

 耳が赤い。

「あんたのそういう普通なところが好きだよ」

 それは告白というより、本当にただの感想のようだった。

「ミケーレも、あんたのそういう普通のところに惚れたんじゃないのか」

 なんで今彼のことを持ち出すんだろう。

 私の気持ちの変化に気づいたのか、彼が一歩間合いを詰めてきた。

「うれしくないのか?」

 私は視線をそらせて、灰色の雲の下で鈍く輝く海を見つめた。

「だって、普通じゃなくなったら、いらなくなるっていうことでしょう」

「あんたは男が分かってない」

 視界の隅で彼が首をかしげている。

「それはただのきっかけだ。男が女を愛する理由は他にある」

「なんですか?」

「それはミケーレに聞けよ」

 またそれだ。

 何度話したところで、もうどうにもならないことではないか。

 ぽつぽつと顔に滴が当たる。

「あ、降ってきましたよ」

 雲の色が濃くなっていた。

 私たちは海沿いの道をホテルに向かって歩き出した。

 目の上に手をかざしながら彼が笑った。

「雨天順延の運動会だな」

 そういえば、散歩に出る前にそんな話をしたっけ。

「続きはいいんですか?」

「続き?」

「三つ目の願い事」

 彼は何も言わない。

 私は彼と歩調を合わせながら言った。

「私をあなたの女にしてください」

 彼は前を向いたままだ。

「……そうすれば、ミケーレも私から離れていくでしょう」

 彼はまだ無言だった。

 ホテル近くの交差点で道路を渡った時に、ようやく口を開いた。

「そういう利用のされ方は好きじゃない」

 私は彼の手を握った。

 彼が立ち止まる。

「利用じゃありません」

「じゃあ、なんだよ」

「幸せにしてくれるって言ったじゃないですか」

「だから、俺は詐欺師だって」

「いえ、あなたは日本の至宝、大里健介です。言ったことは必ず実現する男です」

「だが、それは今すぐじゃない」

「それは占い師の逃げ口上です。本当の詐欺師なら、もっとうまくごまかすはずです」

 私は彼の手を離さなかった。

 彼は反対側の手で鼻の頭をかいた。

 雨に濡れた髪の毛が額に張りついている。

 それはまるで私たちの関係を暗示しているかのように波打っていた。

 ホテルに入ると、彼が私にカードキーを出すように言った。

 私が差し出した鍵を彼は受付の係員に渡した。

「チェックアウトしておいてくれ」

 え?

「それでいいんだろ?」

 私はうなずいていた。

「彼女の部屋にある物はあとで俺の部屋に運んでおいてくれ」と彼はホテルマンに依頼した。

「かしこまりました」

「じゃあ、俺の部屋に行こうか」

 ケンスケが私の肩に手をやってエレベーターへといざなう。

 これで私とミケーレの関係は終わったということなのだろう。

 どちらにしろ、こうなる運命だったのだろう。

 心の穴に砂時計の砂が一度にどさりと落ちる。

 その時が来たのだ。

 私はミケーレを裏切るのだ。

 私は彼と一緒にエレベーターに乗り込んだ。

 前は時間がかかると思ったエレベーターなのに、あっという間に到着してドアが開く。

 今朝までいた部屋の前を通り過ぎて、隣の部屋のドアの前に立つ。

 ふと、足が止まる。

 後戻りはできない。

 かといって、先へ進んでも道が開けるわけでもない。

 扉の向こうは楽園ではなく、破滅の淵だ。

 彼がカードキーをかざしてドアを開ける。

 私のいた部屋と同じような広さのリビングへといざなわれる。

 寝室は三つあり、それぞれにシャワールームがついている。

 それとは別に深い浴槽のついたメインのバスルームもある。

 確かにこれで一人住まいは無駄だ。

 窓の外のテラスは本降りになった雨に濡れて鈍い光を反射していた。

 まだ早い時間なのに雨雲のせいでもう外は暗い。

 私はまるで初めての時のように腕で体を隠すようにしながらベッドのそばに立っていた。

 彼はそんな私の様子を眺めながらTシャツを脱いだ。

 ミケランジェロが彫りだしたような鍛え抜かれた肉体がさらけ出される。

「すまないが、体を冷やすとコンディションにさわるんで、広い方のバスルームを使わせてもらうぞ。あんたも寝室のシャワーを使えよ。湯船を使いたかったら、悪いが終わったあとにしてくれ」

「あの、もう服は脱いでいた方がいいですか」

 バスルームに入ろうとした彼の背中にたずねる。

「ミケーレの女のくせにあんたもおもしろいこと聞くんだな」

 戻ってきた彼が私のあごを持ち上げて、じっと目を見つめた。

「俺はいたってノーマルだぞ。裸でサッカーをする趣味もないし、服を着せたままヤリたがる変態でもないさ。服がしわになるとか文句言われるのも面倒だから裸のままでかまわないぞ。本当は下着ぐらいは脱がせてくれた方が俺も興奮するけどな」

 そして、手を離すと、またバスルームへ去っていった。

 シャワーのお湯の音を聞きながら私はベッドに腰掛けた。

 今ならまだ逃げられる。

 本当にこれでいいの?

『美咲、ヤケになるのも分かるけど、本当にこれでいいの?』

 うるさい!

 よけいな口出ししないで!

 私のことは私が決めるの。

 これでいいの。

 他に選択肢なんかないの。

 他にどこにも行けないし、私の居場所はどこにもないんだから。

 ……選択肢がない。

 結局私は自分で決めることができない女なんだ。

 ギリギリまで迷って、ためらって、成り行きに身をゆだねて、それが自分の選んだ選択肢だと思いこんできただけなんだ。

 自分では何も決められないくせに、枠をはめられてしまうとストレスを感じて投げ出してしまうんだ。

 昔つきあっていた人も、自然に交際が消滅してみると、だいぶ無理をしていたことに気づいた。

 彼に合わせなくちゃとか、カノジョらしく振る舞わなければとか、みんなにイイネをもらわなくちゃと、自分に合わないことをやっていただけなんだ。

 ため息しか出ない。

 私は服を脱ぎ捨てて、彼に言われたように寝室のシャワー室に入った。

 シャワーで頭を空っぽにして、覚悟を決める。

 体を拭いて、彼のリクエスト通り下着だけ身につけてベッドに潜り込んだ。

 彼はどんな顔でこれを剥ぎ取るのだろうか。

 体を温めるためなのか、男のシャワーが長い。

 何だか急に嫌なことばかり思い浮かんできてしまって、ベッドに四つも並んでいる枕を顔に押しつけて音を遮断した。

『勝手なことばかりして失敗しちゃって』

『つまんない強がり言ってないで、やりなおせばいいじゃない』

『みんなと同じことをやってればよかったのにね』

『どうせ美咲は自分一人では何もできないんだから、言うとおりにすればいいのよ』

 やめてよ。

 私だって自分で決めて自分の人生を生きたっていいでしょう。

 馬鹿にされたって、失敗したって、それが自分で決めたことなら自分で責任を取れる。

 でも、人の言うとおりにしてその結果に満足できなかったら、怒りのやり場をどこにも持っていけなくて、自分の中にぽっかりと穴が開いていくだけなんだ。

 そうやって穴に向かって渦を巻いて私自身の心が沈んでいくだけなんだ。

 今までずっとそうやって『いい子、いい人』を演じてきたんじゃないの。

 それで私は幸せになれたの?

 その結果がこれでしょう。

 好きでもない男のベッドに潜り込んで、辱めにあうことを望むような女になっただけじゃない。

 私、ばかだ。

 後悔?

 してないよ。

 ……ミケーレ。

 どうして終わってしまったんだろう。

 泣いたらだめだ。

 きっと馬鹿な女だと笑われる。

 今さらそんなことを気にしても無駄か。

 あの男はどうせ一晩だけの遊びで私を捨てるつもりなんだから。

『あんたは幸せになる』

『俺がそうしてやるからだよ』

 ホント、ただの詐欺師じゃない……。

 シャワーの音はまだ続いている。

 あれが止まったとき……。

 私は詐欺師に抱かれるのだ。

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