第3章 アマルフィの憂鬱

 私はベッドから抜け出し、バスルームでシャワーを浴びた。

 すべてを済ませ、バスローブをまとってソラーロ山を正面に望む南側のテラスに出てくつろいでいると、目覚めたミケーレも出てきた。

「チャオ、ミサキ」

「ボンジョルノ」

 髪の毛がぼさぼさだ。

 髭も生えていて全体的にだらしない雰囲気が漂う。

 海の色が溶け込んだような青いシャツの似合うミケーレにもこういう一面がある。

 普通の人だと言っていた通りだ。

「どうしたんだい?」

「何が?」

「楽しそうだよ」

「あなたのことを考えていたからよ」

 ミケーレの頬が紅潮する。

「君にそういう風に言われるとイタリア男でも照れるね」

「シャワーでも浴びてきたら?」

「そうするよ」

 彼は私と頬を触れあわせてからバスルームに向かった。

 髭の感触が昨夜のことを思い出させる。

 鼓動が高まる。

 部屋に戻って冷蔵庫から炭酸水を取り出してコップに注ぐ。

 バスルームから鼻歌が聞こえてくる。

 私はその陽気なメロディを聴きながら弾ける炭酸の泡を味わっていた。

 朝食はホールに用意されていた。

 昨日と同じクロワッサンを用意してくれるパオラさんと顔を合わせるのが恥ずかしい。

 絞りたてのオレンジジュースを飲んでいると声をかけられた。

「カプチーノはいかが?」

「はい、お願いします」

 ミケーレが周囲を見回しながら人差し指を立てる。

「僕はあれを……」

「はいはい」

 パオラさんがこっそりとうなずきながらキッチンへ戻っていく。

 あれって何だろう。

「美咲は今日は何かしたいことはあるのかな?」

 あなたと一緒にいたい。

 その言葉をオレンジジュースで流し込む。

「特に何も。何かいいところはある?」

「僕はラヴェッロに行くんだけど、一緒にどうかな」

「それはどこにあるの?」

「アマルフィのとなりだね。高台にあるテラスからの絶景が楽しめるよ」

 元々アマルフィにも行くつもりだったからちょうどいい。

「そういえば私、アマルフィのホテルも予約してあるんだけど」

「ああ、じゃあ、秘書に言ってキャンセルさせておくよ」

 気になっていたことを聞いてみた。

「あの、ミケーレ、私はいつまでここにいていいの?」

「一生」

 イタリア男の冗談だとは分かっていても、当惑してしまう。

「真面目な話なんだけど」

「言っただろ。僕は君に嘘はつかないって。僕も真面目だよ」

「だから……」

 そのとき、パオラさんがトレイにコーヒーをのせてやってきた。

 私の前にはカプチーノが置かれる。

「はい、お坊ちゃん。カフェラテのドッピオね」

 おばさんはにやにやしながらミケーレの前にカップを置いて去っていく。

「パオラさん、どうしたの?」

「ああ、これがね……」

 ミケーレはカフェラテに砂糖を大盛りで何杯もいれながら説明してくれた。

「エスプレッソをダブルでなんて、ジュゼッペに見られたら、イタリアの男の飲み物じゃないって怒られるんだよ。エスプレッソはいれたらすぐに飲むものだからね。一杯をさっと飲むのが絶対の掟なのさ」

「こだわりはわかるけど、好きな飲み方でいいじゃないの」

「ああ、僕もね、日本にいたころにこの飲み方が気に入ってね。だから、ジュゼッペがいないことを確かめてから頼んでるんだよ」

 だからさっき辺りを見回していたのか。

「イタリアのバールではみな同じ飲み方をするから、日本にあるようなカフェチェーンがイタリアでは流行らないんだよ。エスプレッソのバリエーションがたくさんあるのはいいことだと思うんだけどね」

「意外と頑固なのね。イタリアの人って」

 ミケーレが笑う。

「日本人からするとイタリアの男はチャラ男だと思われてるかもしれないけど、僕なんかはジュゼッペから言わせるとイタリア男の風上にも置けないガキってことになるんだよ。どっちからも責められて板挟みってやつだよ」

「じゃあ、日本に逃げて来ちゃえばいいんじゃない」

 軽い冗談のつもりだったけど、ミケーレの表情が一瞬曇った。

「そうしたいけどね、なかなか難しいよ」

 そうだ。

 背負っている物が大きすぎる。

「ごめんなさい」

「いやいや、美咲は何も悪くないよ」

 せっかくのカプチーノも冷めてしまった。

 気まずい空気のまま朝食を終えて、私たちはアマルフィへ出発することになった。

 いつのまにか洗濯されていたブラウスとジーンズに着替える。

 ミケーレは昼間はアマルフィで私と時間を過ごし、夕方からまたサレルノへ移動するらしい。

「すまないね。今夜も一緒にいたかったんだけど、仕事の都合もあるんだよ」

「分かってる。私のために少しでも時間を作ってくれて感謝してるから」

 連れてこられたのは屋敷の隣にあるヘリポートだった。

「ヘリコプターで行くの?」

「ああ、すぐ着くよ」

 ミケーレがさっさと操縦席に乗り込む。

 正直不安だったけど、口にするのは失礼かと思って、黙って覚悟を決めた。

 後部座席に座ってベルトのバックルをはめる。

 ヘッドセットを装着するとすぐにエンジンがスタートした。

 浮いた瞬間はお尻がムズムズしたけど、上昇を始めると意外と安定していて、ソラーロ山のリフトよりも揺れなかった。

「ほら、全然こわくないし、楽しいだろ」

「そうね」

 後ろを振り向いてウィンクするのはやめてほしい。

 ヘリコプターは一気にアナカプリの街の上を通過して、島の東端からソレント半島に向かって進んでいく。

 地球が丸く見える。

 半島の入り組んだ海岸線に沿って飛行しながらミケーレが説明してくれる。

「ここがポジターノ。急斜面の街並みがすごいだろ。もうすぐアマルフィを通過するよ」

 狭いビーチをうめつくすように観光客がたくさんいる。

 あらためて今が八月のバカンス・シーズンであることを意識する。

「カプリ島とは違ってにぎやかね」

「ああ、船が動かないんで、みんなこっちに来てるのかもね」

 本来はこんな風に混雑しているはずなのだろう。

 昨日カプリ島の絶景を独り占めしていた私は複雑な気持ちだった。

 観光客目当ての商売をしている人は死活問題なんじゃないだろうか。

 V字型の狭い谷間にはさまれたミニチュアのような街が現れる。

 アマルフィだ。

 ヘリコプターは街の正面の海上でホバリングする。

 ドーム屋根の大聖堂や、修道院の回廊、丘の上にたたずむ砦の廃墟。

 それを包み込むように斜面両側に広がるレモン畑。

 それらすべてが一枚のイタリア絵画のようだ。

 ヘリコプターが動き出し、高度を上げる。

「ほら、あれがラヴェッロだよ」

 ミケーレの指さす前方に、海面から垂直に切り立つ断崖が見える。

 シフォンケーキのような高台にローマ時代風の壮麗な街並みが広がっている。

「ずいぶん高いところにあるのね」

「ああ、三百メートルくらいはあるかな。日本だと東京タワーくらいの高さだね」

 ヘリコプターはその高台の正面にあるひときわ豪華な建物に向かって進んでいく。

 断崖に刻まれたつづら折りの小道をタクシーが上ってくる。

 まるでジオラマ模型の小道具みたいだ。

 ヘリポートが見えてきた。

 着陸する直前にふわりと浮く。

 デリケートな部分をミケーレに愛されたかのような錯覚が背筋をはいのぼる。

 エンジンが止まって扉が開けられる。

 地面に降り立つと膝が震えていた。

 そんな私にミケーレが手を差し出す。

「怖かった?」

 風景に目を奪われていて、思ったほど怖くはなかった。

「慣れないだけ」

「そのうち慣れるよ」

 そんなに乗る機会があるのもやっぱりこわい。

 私たちを出迎えてくれたのは庭園に並ぶ大理石の女神像達だった。

 ギリシア風の三美神に胸をあらわにした乙女達。

 昨夜ミケーレに愛された時のことを思い出して顔が熱くなる。

「ここもあなたの家なの?」

「いや、ここはホテルだよ。アメリカの映画女優も宿泊したことで有名らしいよ。君のために貸し切りにしたんだ」

 さらりと言うけど、またいくら使ったんだろう。

 一歩歩くたびにお金の音が聞こえてきそうで落ち着かない。

 円が重なり合ったエンブレムのついた黒塗りの車が三台並んでいる。

 黒服の男性がドアを開けて待っている。

 私たちが乗り込むと、その人が運転席に座った。

 私はミケーレに耳打ちした。

「ここでは自分で運転しないの?」

「ドイツの車は運転しにくいからね」と真顔で言ってからウィンクする。「ふだんは運転しないんだよ。カプリにいる時だけかな。セキュリティとか、いろいろ問題もあるからね」

 車が動き出す。

 ホテルの敷地を出た時には、同じ黒塗りの車が前後をはさむ隊列ができあがっていた。

 あらためてミケーレの背負っている物の大きさを思い知る。

 高級車が通るには狭い道なのにかなりのスピードで坂を下っていく。

 ある意味ヘリコプターよりもこわい。

 ミケーレが私に腕を回して肩を抱く。

 私はおとなしく彼の胸にもたれかかっていた。

「これからどこへ?」

「アマルフィだよ。少し散歩でもしよう」

 何度折り返したか分からないくらい続いた坂が終わって海沿いの道に出る。

 左手側に広がる海を眺めていると少し落ち着く。

 前方の急なカーブでバスが鉢合わせしていて、お互いに後退したり脇に寄せたりしながらやり過ごそうとしている。

 バスのミラー同士がぶつかり合っても、運転手さんたちは全然気にしていないようだ。

 このあたりはどこも道が狭いらしい。

 カプリの街中の細い道と違って、ガードレールの下は断崖だ。

 ミケーレが運転しない理由も分かる気がした。

 車列はようやくアマルフィの市街地に入った。

 海に面した小さなロータリーを回ったところで車が止まった。

 前後の車から出てきた黒服の人たちがドアを開けてくれる。

「ボンジョルノ、シニョリーナ」

「グラツィエ」

 男の人たちは周囲の監視をおこたらないようにしながら遠巻きに私たちについてくる。

 他にも耳に何かをはめた私服の女性も何人かいるようだ。

 観光客が何事かと注目している。

 映画スターか何かと勘違いしてスマホで写真を撮る人たちもいる。

 ああ、有名人ってこんな感じなのか。

 これじゃあ、どこに行っても落ち着かないだろうな。

 ただの日本の庶民ですみません。

 海と街を隔てるアーチをくぐる。

 壁には昔の海図を描いたモザイク画がはめこまれている。

「かつての海洋国家としての姿を今に伝える遺物だよ」

 アーチをくぐったところは広場だった。

 お土産物屋さんやピッツェリアの並ぶ広場を見下ろすように、ヘリコプターから見た大聖堂がそびえている。

 ミケーレがまず最初に入ったのは広場の片隅にあるオーダーメイドのドレススタジオだった。

「チャオ、用意できてるかな」

「もちろんですよ、ミケーレ。シニョリーナ、どうぞこちらへ」

 お店のおばさんに招き入れられたところは全面ガラス張りの小部屋で、さっそく出された服に着替える。

 半透明な生地で百合をモチーフにしたノースリーブワンピース。

 まるでルネ・ラリックのガラス細工のように繊細な生地だった。

「ああ、とても似合いますよ。ミケーレのイメージ通りですね」

 細かなサイズを調整して、いったんそれを脱ぐ。

 次に出てきたのは茶系の透ける素材を何枚か重ねて縫い合わされたシックな夜会服だった。

 アールヌーボー調の柄が浮き上がっていて、エミール・ガレのランプシェードに似たイメージだった。

「とてもエレガントでお似合いですよ」

 地球の反対側から来た庶民なんですけど。

 こちらも細かなサイズを調整している間に、さっきのワンピースが直されて戻ってきた。

 ずいぶん手際のいいスタッフさんだ。

 あらためてワンピースに着替えると、帽子とサンダルも別の物が用意されて、昼用のコーディネートが整った。

「ワオ、すばらしいね」

 スタジオを出た私をミケーレが両手を広げて出迎えた。

 着たことのない服を着せられて、どう着こなして良いのかまるで分からない。

 ミケーレはそんな私の戸惑いに気づいていないのか、街の路地をどんどん奥へと歩いていく。

 アマルフィの街は谷に挟まれていて、奥へ行くほどどんどんせまくなっていく。

 観光客がジェラートを持って歩いている。

 私がその姿を目で追っていると、ミケーレが顔を寄せてきた。

「君も食べるかい?」

 答える前に彼はすぐそばのカフェの店先にいる店員に話しかけていた。

「何がいい?」

「じゃあ、ピスタチオで」

「美咲はピスタチオ・マニアだね。他のフレーバーは? 何種類でも試せるよ」

「ピスタチオだけでいいの」

 オーケイと笑いながらミケーレは店員さんに注文をしてくれる。

 彼の持つコーンにはミルクとチョコナッツとパッションフルーツの三つのフレーバーがとんがり帽子のように立っていた。

「あなたは甘い物が好きね」

「イタリアの男はだいたいそうだよ。恋もジェラートも」

 ああそうですか。

 だいぶ受け流せるようになってきた。

 少し通路が開けたような場所に出た。

 せまい広場の中央に涼しげな音を奏でる泉がある。

 私たちはその石組みの縁に腰掛けてジェラートを食べた。

 黒服の人たちが広場の四隅や奥の道路に立っている。

 ずっとこうして監視されている生活は息が詰まる。

 ミケーレの話では、目立つ服装にしているのは警護していることをあえて印象づけるためらしい。

 どう考えても私たちの生きている世界は違うんじゃないだろうか。

「ほら、美咲、味見しなよ」

 ミケーレがパッションフルーツジェラートをすくってスプーンを突き出す。

「自分のがあるから」

 私が断ると、彼は肩をすくめた。

「日本の女の子はアーンってすると喜ぶんじゃないのかい?」

「大人の女性は違うのよ」

「どうしたんだい。不機嫌だね」

 単純に、護衛の人たちに見られているのが嫌なのと、見知らぬ観光客にも遠巻きに写真を撮られているから恥ずかしいだけだ。

 やはり世界の違いをすりあわせるのは難しいのだろうか。

 せっかくのジェラートの味なんて分からない。

 不意に、昨夜のことがよみがえる。

 ほとんど記憶はないけれど、足をつるほどの快楽だったことは覚えている。

 どれほどわたしを愛してくれているか。

 何度も繰り返しお互いの名を呼び、求め合った。

 私は自分の叫び声で時々我に返り、素面の私を再び彼が快楽の淵に引きずり込むのだった。

 男と女の本質的な感覚が刺激され、お互いの相性に惹かれ合う。

 その気持ちはまぎれもなく本物だった。

 一夜を過ごしたことでそれは充分に伝わった。

 だけど、どうしても素直になれない自分がいる。

 本当はうれしいはずなのだ。

 なのに……。

 どうしてあなたはあらゆる点で私と反対の場所にいるの?

 ジェラートが溶け出し、だらしなく垂れ落ちる。

 せっかくのドレスの裾を汚してしまった。

「ごめんなさい」

「いや、心配しなくても大丈夫だよ。どうしたんだい。具合でも悪いのかい?」

「あなたのことを考えていたから」

 ミケーレが私の頬に口づける。

「僕も君のことを考えていたよ」

 違う。

 全く違うことを考えていたのよ。

 お互いが違いすぎること。

 それを考えていたのよ。

 幸いウェットティッシュで汚れを揉み出したらほとんど目立たなくなった。

「器用だね」

 庶民だから。

 ……とは言わないでおいた。

 私はよく食べ物をこぼす。

 行儀が悪いと怒られたものだけど、決して食べ方が汚いわけではない。

 でもなぜか、ぽろりと箸から唐揚げが落ちたりするのだ。

 遥香に言わせればぼんやりしているからということらしい。

 おかげで汚れの落とし方についてはいくつもの方法を知っている。

 ……つまらない特技だ。

 私たちは泉の広場から路地裏に入って狭い階段を上った。

 ミケーレが先に歩いていく。

 でも、その先には黒服の護衛の人がいる。

 ミケーレの行く先を知っているということは、この小道は彼がよく通るところなのだろう。

 私以外の誰かを案内したことがあるから、ということなのだろうか。

 それはもしかすると今まで関係した女性なのかもしれない。

 もちろんいい歳したイタリア男に過去の恋人の一人や二人どころか十数人いたところで驚きはしないし、嫉妬もない。

 昨夜の愛し方がなによりもその経験値を物語っている。

 それなのになぜだろう。

 ずっとネガティブな感情ばかりわいてくる。

 どうして私は彼を否定するようなことばかり考えているんだろう。

 かなり急な階段が右へ折れ左へ曲がり、山を向いていたかと思えば正面に海が顔を出し、街全体が迷路のようだ。

 軽いめまいを覚えるような混乱に耐えながら彼の後をついていく。

 突然彼の背中にぶつかってしまった。

「あ、ごめんなさい」

「大丈夫かい。ほら、着いたよ」

 その瞬間、教会の鐘が鳴り響く。

 目の前にさっき見た大聖堂の屋根がある。

 アマルフィの街を見渡す高台に来ていたのだ。

 鐘の音は谷間を何度も往復しながら反響しあい、複雑な音色を響かせながら世界遺産の街に溶け込んでいく。

「いい眺めだろう。それに落ち着くだろ。ここはあまり観光客も来ないからね」

「ありがとう、ミケーレ」

 彼は少しほっとしたような表情で私の肩に手を置いた。

 私も彼にもたれかかって鐘の音に耳を傾けていた。

 ふと、あたたかな気持ちがこみ上げてきた。

 好きなのだ。

 愛しているのだ。

 だから失うことを恐れているのだ。

 本当はそれを恐れているからネガティブな理由ばかり探して自分を納得させようとしているのだ。

 彼を否定することで自分の自信のなさをごまかそうとしているのだ。

 私が外国人だから。

 私は庶民だから。

 住む世界が違うから。

 本当は私自身を否定しているんだ。

 だからすっきりしないんだ。

 私はミケーレの手をつかんだ。

 一瞬驚いたような表情を見せた彼も私の手を握りかえしてくれた。

 捨てられることを恐れているんだ。

 いつだって切り捨てられてもおかしくない自分の立場が嫌なんだ。

 それを彼のせいにすることで自分を正当化しようとしているだけなんだ。

 どうしたらいいの?

 私はいったいどうしたらいいの?

 ミケーレに尋ねるわけにもいかない。

 私にできることは彼を信じることだけだ。

「ねえ、ミケーレ」

 大聖堂を眺めている彼を見上げながら私は名前を呼んだ。

「なんだい?」

「愛してる」

 彼が微笑む。

「僕もだよ」

「違うの」

「何が?」

「そうじゃないの」

「だから、何が違うんだい?」

「私はあなたを愛しているの。でもそれを伝える言葉が分からないの」

 ミケーレはじっと私のことを見つめながら私の一言一言を聞き逃さないように耳を傾けていた。

「美咲」

 彼が私の名を呼ぶ。

「心配ないよ。気持ちを伝えるために言葉があるわけじゃないからね。むしろ、言葉が不完全だからこそ、お互いの気持ちを伝え合うために、昨夜僕らは愛を確かめ合ったんじゃないか」

 ミケーレは哀しそうに私の耳たぶに口づけた。

「まだ信じられないのかい?」

「違うの」

 彼が肩をすくめる。

「また『違う』だね。一つも当たらないな。どうやら僕は恋愛の落第生らしい。イタリア男失格だな」

「違うの。そうじゃないの」

 頬にあたたかなものが流れていく。

 彼がそれをぬぐってくれる。

「あなたを失いたくないの。あなたの愛を知ってしまったから」

 体が震え出す。

「私はあなたを愛してしまったから。あなたがかけがえのない人だから」

 言葉をさえぎるように、私はきつく抱きしめられていた。

「全然違わないじゃないか」

 ミケーレのぬくもりが私を包み込む。

「美咲、君も僕のかけがえのない存在だよ。僕の世界に君がいなくなったら、僕もいなくなるよ」

 涙が止まらない。

「でも大丈夫。僕は君のそばにいる。君も僕のそばにいてくれ」

 抱きしめられたまま私はうなずいた。

「僕らの気持ちは同じじゃないか。気持ちは一つ。僕らのいるこの世界も一つ。愛し合う僕らも一つになったようにね」

 彼の言葉に思わず体が熱くなる。

 と、そのとき、彼のお腹が鳴った。

 思わず笑ってしまった。

「ようやく笑ってくれたね。そろそろラヴェッロに戻ろうか。昼食の用意もできた頃だろうから」

 手をつなぎあって二人並んで歩く。

 たとえそれが迷宮であったとしても、二人でさまよい歩けるのを喜べばいい。

 路地の角を曲がると思いがけない表情を見せるこのアマルフィの街のように。

 彼を信じてその風景を味わえばいいのだ。

 彼がそばにいてくれる限り、そこがこの世の楽園なのだから。


   ◇


 車でラヴェッロに戻る。

 貸し切りにされたホテルには人の気配はなく、藤棚の淡い影に覆われた回廊に並ぶギリシア彫刻が私たちをテラスにいざなっていた。

 超高層ビルの最上階に匹敵するほどの断崖に張り出すように作られたテラスからはアマルフィ海岸の絶景がどこまでも続き、小鳥たちのさえずりをのせながら爽やかな風が吹き抜けていた。

 ちょうど今は太陽の位置に雲があって日差しが遮られている。

 私たち二人だけのためにテーブルが用意されていた。

 庭園を背にして海を正面にしながら並んで席に着く。

 ミケーレが顔を寄せてくる。

「シャンパンでいいかな?」

「あなたはもうヘリコプターの操縦はしないの?」

「ああ、食事の後はサレルノで仕事があるんだけど、車の運転は運転手に任せるからね」

「じゃあ、大丈夫ね」

「今夜は一人にさせてすまないね。美咲は船でカプリまで送らせるから」

 ミケーレがわざとらしくウィンクする。

「それともヘリコプターの方がいいかな」

 ゆっくり海を眺めたいからと、船をお願いしておいた。

 シャンパンが運ばれてきた。

 繊細な泡の立ち上るグラスに彼の顔が映る。

「僕らの愛に乾杯」

 天使の鳴らす鐘のように祝福の音色が響く。

 最初の皿が運ばれる。

 濃厚なエビの出汁にイカやアサリなどの海鮮が盛りだくさんのスープだ。

 あぶった白身魚にスープが染みこんでいておいしい。

 ミケーレはパンをちぎって浸して食べている。

 ロンドンで遥香と食べたローストビーフのソースがおいしくて私もそうしたら、「田舎者だと思われるから止めなよ」とたしなめられたことがある。

 彼のような上流階級の人がやるとは意外だった。

「日本ではお行儀が悪いって言われることもあるわよ」

「まあ、場合によるね。今は僕ら二人のプライベートだから。それに……」

 彼がちょっと寂しそうな表情を見せた。

「まだ僕に『エンリョ』なんてしてるのかい?」

 私もパンをちぎってスープに浸してみた。

「これが一番おいしい食べ方ね」

「そうだろ」と彼が笑う。

 しかし、次の一瞬、急にミケーレが黙り込んだ。

「ねえ、美咲……」

 めずらしく言い淀んでいる。

 私は彼の言葉を待った。

 彼はスプーンでスープを一口飲んでからようやく続きを言った。

「明日サレルノで、リーグ開幕前のチームのパーティーがあるんだ。そこで君を僕のパートナーとして御披露目したいんだけど、どうかな?」

「パートナーって?」

「つまり、フィアンセということさ」

 フィアンセ。

 婚約者。

 言葉が重くのしかかる。

 世界が違いすぎるし、結婚ということになると、私たち二人だけの問題ではなくなる。

 彼のパートナーになるということは、イタリアで暮らすことになるだろうし、イタリア語を学ぶ必要もあるだろう。

 簡単にはいかないことがあまりにもはっきりしすぎていた。

「どうかな、美咲」

 私は返事ができなかった。

「君の返事を聞かせてくれよ」

 確かに私は彼を愛している。

 でも、今すぐに受け入れられる話ではない。

 それを伝えればよいだけなのに、口が開かない。

 自分の意思を伝えようとすると体が硬直してしまう。

「あの、あまりにも急なことで」

「でも、僕らの愛は本物だろう?」

「それはそうだけど……」

「だけど?」

『自信がない』という言葉を言う自信がない。

 さまざまな想いや言葉が浮かんできては消えていく。

「美咲?」

 え?

「どうしたんだい? 怒っているみたいじゃないか」

 いつの間にか険しい顔になってしまっていたらしい。

「ちょっとまぶしかっただけよ」

 太陽は相変わらず雲の陰に隠れている。

「海がきらきらしていて……」

 結局、私は返事をすることができなかった。

 そうしているうちに、豚バラ肉の塊を焼いた料理が出てきた。

 炭で焼いたのか脂がとても味わい深い。

 ソースがフルーティでとても合うけど、何を使ってるのだろうか。

 私がミケーレにたずねると、彼がそばに控えていた給仕さんを呼んだ。

「イチジクと赤ワインのソースだってさ」

「そうなの。初めて食べる味ね」

 ミケーレが微笑む。

「これからも知らないことがたくさん出てくるさ。二人で一緒に楽しんでいこうよ」

 彼は一生懸命私のことを考えてくれている。

 やっていけるかもしれない。

 それに、その期待に応えるために努力することだってできるはずだ。

 なんでも二人でやっていけばいい。

 そのためのパートナーなのだから。

 目の前には複雑に入り組んだアマルフィ海岸の風景が広がり、私たちはそれを二人で堪能しながら料理を味わっていた。

「ミケーレ」

 背後で彼を呼ぶ声がした。

 振り向いた彼は驚いた様子で立ち上がった。

「母さん。どうしてここに?」

 そこには細身の黒いドレスに身を包んだ女性が立っていた。

 ミケーレのお母さんらしい。

 彼の歳から考えると、六十歳くらいなのだろうけど、肌には張りがあり、髪も白髪はなく、染めているとしてもつやがいい。

 何よりも声が良く通る。

 常に人に指示を出しながら生きてきた人の声だ。

 私も立ち上がろうとすると、彼女が手で私を制しながらミケーレと話を続けた。

「それはわたくしの方が尋ねたいことです。ここのところ仕事をキャンセルしているというので具合でも悪いのかと心配してきてみたのですよ。こんなところで何をしているのです」

 私にも分かるようにするためなのか、ややゆっくりめの英語で話している。

「具合は悪くないよ。別の用ができたから予定を変えただけさ」

「そのようですね」と冷ややかな目で私を見下ろす。

「紹介するよ。日本から来たカグラミサキさんだよ。ミサキ、僕の母親だ」

 挨拶をしようとする私をまた手で制する。

「ようこそ。エマヌエラ・ディ・トリコンテ・ドナリエロです」

 ずいぶん長い名前だ。

「あなた、ご職業は? 今までのようなモデルでも女優でもないみたいだけど」

 私を上から下まで眺め回す。

「私は……オフィス・ワーカー、エンプロイ」

 本当は今は無職だけど、雇われている会社員というつもりで言ってみた。

 通じたかどうかは分からない。

 するとエマヌエラさんは笑みを浮かべながら語り始めた。

「我がトリコンテ家はラヴェッロ総督を務めた貴族の家柄です。ミケーレの父のドナリエロ家も千年前にサレルノ大学創設に関わった名門の出です。そして今は百以上の会社を束ねる財閥の経営者であることはご存じですね」

 はあ、そうですか。

 すごすぎて感想なんて何もない。

「お分かりかしら。あなたのような下々の人とは住む世界が違うのです」

 ミケーレが口を挟もうとするのをにらみつけて制する。

「あなたの結婚相手は、ふさわしき家柄のお嬢さんを、このわたくしが選びます」

 そして私の方を向き直ってはっきりと告げた。

「お食事が済んだらお引き取りください」

 あまりにもはっきり言われると逆にスッキリする。

 というよりも、私が感じていたことそのものだった。

 釣り合わないんだ。

 言われるまでもなく、私とミケーレが出会ったこと自体、間違いだったのだ。

 キューピッドの矢が気まぐれな地中海の風に流されて、間違って当たっただけなんだ。

 変な夢を見てしまっただけ、ただそれだけのこと……。

 言われているのはひどい侮辱だけど、私はお母さんに感謝していた。

 ここで別れてしまえば、重荷から解放される。

 思い出だけを胸に帰国して、またいつもの生活に戻ればいい。

 夢から覚めるいいきっかけを与えてくれたようなものだった。

 黙っている私との間にミケーレが割って入る。

「待ってくれ、母さん。美咲は僕のお客さんだよ。僕がカプリ島に招待したんだ。追い出すなんて失礼じゃないか」

 エマヌエラさんは彼の言葉にうなずいた。

「そうですね。あなたの言う通りです、ミケーレ」

 そう言うとお母さんは私の方を向いて東洋風にお辞儀をした。

「遠い異国の旅人であれば宿を提供するのは尊いおこないでしょう。いくらでも滞在するといいでしょう」

 今さらそんなことを言われても、素直に受け止められるわけもない。

「ですが、ミケーレとの交際は一切認めません。二人だけでいるところを見つけたらすぐに追い出しますからね。身の程を知りなさい」

 ミケーレが両手を広げてイタリア語で反論した。

 思い切り巻き舌で長々とまくし立てている。

 おそらく私に聞かせたくない内容なのだろう。

 お母さんは時々ノン、マイと首を振ったりしながら、イタリア語で答えている。

 私はただ首を引っ込めて黙っているしかなかった。

 いつでもそうなのだ。

 子供の頃に母親から怒られている時もそうだった。

 言い訳をしようものなら、『口答えするな』と怒鳴られた。

 私はいつしか反論することのできない人間になっていたのだ。

 学校や会社では従順さは真面目さと受け止められ、かえって評価されることが多かった。

『君はいい子だね』

『美咲はいい人だよね』

 でも、そういったことが積もり重なって、私はいつしか息ができないくらいに追い詰められていたのだ。

 そして逃げ出してきたこのイタリアでも、また同じことをしている。

 気づかないうちに私は拳を握りしめていた。

 英語なんて考えている余裕はなかった。

 私は立ち上がって日本語でしゃべった。

「お母さん、確かに私はお金持ちじゃないし、仕事も辞めた人間です。でも、ミケーレを愛する気持ちは世界中の誰よりも本物なんです。財産目当てなんかじゃありません。それだけは分かってください」

 日本語で言ったところで通じないのは分かっている。

 でも、だからこそ言えたのかもしれない。

 それに対するエマヌエラさんの返事は英語だった。

「イタリア語もしゃべれない人を家族に迎え入れるわけにはいきません。おわかりでしょう?」

 お母さんは人差し指を立てた。

 黒服の人が二人やって来た。

「ミケーレ、あなたは今すぐサレルノへ行きなさい。ミサキさん、あなたは船でお送りしましょう」

 ミケーレは怒った調子でお母さんにイタリア語で何かをいいながら黒服の運転手さんと去っていった。

 私の前にもう一人の黒服の男性が立ちはだかる。

 抵抗する気もないので私はおとなしくここを去ることにした。

「先ほどのうちの息子の見苦しい姿をお詫びいたしますわ。もっとも、どんな口汚いことを言っていたのかはお分かりにならなかったでしょうけども」

 私はお母さんの目を見つめて英語で答えた。

「あとでミケーレに教わります」

 エマヌエラさんはにっこりと笑って一言つぶやいた。

「かわりにイタリア語の教師を紹介しましょう」

「ノー・グラツィエ。アリベデルチ・シニョーラ」

 心臓が破裂するかと思ったけど、言うだけのことは言った。

 私は黒服の人に案内されて車に乗り込み、ラヴェッロのホテルを後にした。

 つづら折りの坂を下っていく車の中で私は泣いた。

 運転手さんがときおりミラーでこちらを見ていた。

 でも、そんなことなんか気にせず、私は泣いた。

 思いっきり声を上げて鼻水を垂らしながら泣き続けた。

 持っていたハンカチもすぐにグショグショになったけど、そんなことはどうでも良かった。

 ボタボタとワンピースに涙がしたたり落ちる。

 汚れても濡れてもどうだっていい。

 侮辱されたことではなかった。

 ミケーレと別れさせられたことでもなかった。

 元々釣り合うはずもなかった。

 自分でも分かっていた。

 変な夢を見ようとしていた自分の甘さが許せなかった。

 似合わない、釣り合わない、世界が違いすぎる。

 誰がどう見たって分かりきっていることなのに、それでも甘い夢を追いかけようとしていた自分の愚かさが許せなかったのだ。

 お母さんはただそれをはっきりと忠告してくれただけなのだ。

 今となってはむしろミケーレを恨んでいた。

 私を誘惑して、甘い夢を見させて、結局はこんな目に遭わせた彼がいけないのだ。

 彼にとっては他にいくらでもいる女の一人だったに過ぎないのだ。

 甘い言葉をささやきかけたら尻尾を振ってついてきた馬鹿な日本の女の一人なのだ。

「シニョリーナ、シップ」

 車はいつのまにかアマルフィの桟橋に着いていた。

 釣り人を乗せる漁船くらいの大きさのクルーザーが停泊している。

 私ははれぼったい顔を隠すこともなく船に乗り込んだ。

 キャビンに入ってソファに座ると、エンジンがうなりを上げて船はすぐに動き出した。

 アマルフィの街が遠ざかっていく。

 空には雲が広がっていて、少し波も高いようだった。

 船酔いを避けたくて私はソファの上に横になった。

 乾いた涙で顔がカサカサする。

 私はキャビンの天井を見上げたまま、また泣いていた。

 やっぱり彼が好きだった。

 やっぱりミケーレを愛していた。

 やっぱり私は彼と一緒にいたかった。

 やっぱり離れたくない。

 彼を恨んでなどいないし、彼と会わせてくれた運命を憎んでなどいなかった。

 彼が私に見せた優しさも、彼が私に与えてくれた愛も、どちらもかけがえのない私の宝物なのだ。

 彼に会いたい。

 引き裂かれたままこのまま二度と会えないなんて、そんなことは耐えられない。

 でも……。

 私にできることは何一つない。

 やっぱり、いつもの私なんだ。

『何もできない美咲』

 そう、私はそんなつまらない人間なのだ。

 どうせ頑張ったってなんにもできないんだ。

『素直にあきらめなよ』と心の中の遥香が私の頭を撫でている。

 そうだよね。

 また、言うことを聞かないで失敗ちゃった。

 ごめんなさい。

 私が悪かったんだよね。

 間違っていたのは私です。

 そんなに責めないでよ。

 ゆるしてよ……。

 泣き疲れたのか意識がもうろうとしてきた。

 私はだらしなくソファに寝そべったまま眠ってしまっていた。


   ◇


 揺れたような感覚で目が覚めた。

 船が減速を始めているらしい。

 窓からはソラーロ山が見える。

 カプリ島に帰ってきたのだ。

 船はマリーナ・グランデにゆっくりと入っていく。

 桟橋にはジュゼッペさんが迎えに来ていた。

 特に言葉を交わすこともなく、小さなイタリアの車に乗り込む。

 船から下りてきた黒服の男性がジュゼッペさんに箱を渡して去っていった。

 どうやら衣装箱らしい。

 アマルフィで試着した夜会服だろうか。

 そういえば私の服も置いてきたままだった。

 車は細い路地を何度も折れ曲がりながら上っていく。

 おじさんは私に何も尋ねなかった。

 港の上の町を抜けてソラーロ山を回り、アナカプリの街までやって来た。

 ミケーレと来た時に通りかかった小学校の前まで来ると、車が手前の小道に入る。

 ミケーレの別荘に続く道とは違う。

 おじさんは黙ったままだ。

 松林に囲まれたゆるい坂道を下っていくと、海の見える開けた場所に出た。

 白い石や十字架が並んでいる。

 墓地のようだ。

 ジュゼッペさんは車を止めて外に出ると、いつものように回り込んで助手席のドアを開けてくれた。

 おじさんは海の方を見つめて指さしている。

 なんだろう。

 とりあえず行ってみることにした。

 後ろでエンジンのかかる音がしたので振り向くと、おじさんがゆっくりと車を進めて墓地を出ていくところだった。

 一人残された私はまたかかとでターンして、海へ向かって歩いた。

 花が供えられている墓地もあれば汚れのついた墓石もある。

 静かな墓地に一人だけ跪いている人がいた。

 パオラさんだ。

 西の空から日が差す。

 空を見上げると雲が流れて晴れ間が広がっていた。

 おばさんが私に気づいてゆっくりと立ち上がる。

「チャオ、ミサキ。オカエリナサイ」

 懐かしい日本語だ。

「ありがとう。ただいま」

 おばさんは西日でまぶしそうに手をかざしながら私に言った。

「奥様に会ったのね」

「ええ、お会いしました」

「気にしちゃだめよ」

「いえ、いいんですよ。お母さんの言っていることは当然のことですから」

 おばさんが悲しそうに首を振る。

「奥様も昔はあんなふうじゃなかったんですよ」

 海を見つめながらおばさんが語り始めた。

「私たち夫婦には娘がいたんですよ」

 娘さんがいた?

「フランチェスカといって、サレルノの大学で学んでいたんですよ」

 パオラさんはまるで英文法の例文をなぞるようにきっちりと過去形で話している。

「ミケーレにはお兄さんがいたっていう話はしたでしょう」

「ええ」

「ロレンツォといって、子供の頃は休暇になるとお二人がカプリのこのお屋敷にやってきて、フランチェスカをつれて三人そろって崖から海に飛び込んだりしてたものよ」

「崖から?」

「この辺の子たちはみんなやってるわよ。自然に泳ぎを覚えるし」

 日本だと禁止されるだろうな。

「フランチェスカはちょっと内気なところもあったんだけど、お二人ともうちの娘とは仲良くしてくださってね。旦那様も奥様も決して身分とか家柄なんてものを気にするような人ではなかったのよ」

「そうだったんですか」

「慈善事業にも多大な寄付をしてきたんだけど、難民救済事業がイタリア人の職を奪っていると批判されたのよ。でも、そもそもドナリエロ家の財閥がどれだけのイタリア人を雇用していると思ってるのかしらね。それこそ何万人、何十万人の従業員に、家族まで含めたらそれこそ一つの国になるくらいの人たちの生活を支えているっていうのに」

 おばさんの英語は過去形にもどった。

「フランチェスカは内気で本を読んだり勉強ばかりしているような子でね。この島に留まっているような子ではなかったのよ。それで、高校の時にあの子だけサレルノに渡ってドナリエロ家にお世話になってね。サレルノ大学の医学部に進んだのよ」

 パオラさんは私の方を向いて少しうつむいた。

「いつごろからかあの子達がお互いを意識し始めて、愛し合うようになるのは自然の成り行きだったわね。ミケーレが日本に留学している間に、ロレンツォとフランチェスカだけが大人になっていたのね」

 おばさんはちょっとだけ微笑みを見せた。

「休暇で島に帰ってきたときに、内気だったあの子が頬を赤く染めてね、『お母さん、私、ロレンツォに愛されたの』って……」

 おばさんが両手を広げて私を抱きしめた。

「あの子はとてもうれしそうだった。あの子は幸せだったのよ」

 おばさんが私の髪を撫でる。

「思えば、あのとき、もう少し休暇を延ばしていれば良かったんでしょうね」

 手が止まる。

 私は目を閉じておばさんの話を聞いていた。

「ロレンツォに会いに行くからと、早めに休暇を切り上げて、フランチェスカはサレルノに戻ったの。そして、あの事件が……」

 おばさんはそれっきり黙ってしまった。

 風に乗って波の音が聞こえる。

 運命の重さに押しつぶされそうで、私も何も言えなかった。

 話を続けるおばさんの声が震えていた。

「奥様も昔はそんなに高慢な人ではなかったのよ。でも、あの事件で旦那様とロレンツォが亡くなって、会社の経営を全てやっていかなければならなくなってね。名門であるがゆえの宿命を背負わされたことでかたくなになってしまったのよ」

 お金持ちを標的にしたテロの犠牲になったことで、身分や出自を意識せざるを得なくなってしまったのだろう。

「ミケーレも留学をあきらめて日本から戻ってきて、すぐに奥様の仕事を手伝うようになって。ビジネスと大学を両立させて、彼もまだ若かったから大変だったでしょうよ」

 そういえば、私はミケーレの気持ちを想像したことがなかった。

 ミケーレは十年前に自分の置かれた境遇を素直に受け入れられたのだろうか。

 いくら名門の家庭に生まれたからといって、会社の経営やら、人に注目される生活にストレスを感じないものなんだろうか。

 でも、もう、それをたずねることもできない。

 それを確かめたところで、私にはなんの参考にもならない。

「奥様はね、これまでもミケーレの恋人を別れさせてきたの。それに反発するように、ミケーレもいろんな女性と噂になるような行為を繰り返していたこともあったわよ」

 おばさんは私を抱きしめていた手をゆるめて、涙の浮かんだ目で私の目を見つめた。

「でもね、ミサキ。彼はあなたのことは本気よ。それだけは分かってあげて」

 それは分かっている。

 だけど、私一人ではどうにもならない壁が立ちふさがっている。

 これまでの女性達と同じで、私もそれを乗り越えることなどできないだろう。

「さ、お夕飯にしましょうか」

 おばさんが私の手を引いて歩き出す。

 墓地のすぐ横はミケーレの屋敷だった。

「夕飯が遅れるとジュゼッペの機嫌が悪くなるから」

「今夜は何ですか」

「いいエビが入ったのよ」

「じゃあ、おじさんも御機嫌ですね」

 おばさんがようやく笑ってくれた。

 西の海に日が沈む。

 ソラーロ山が夕日に燃えている。

 前と同じ景色なのに、ただ、そこに楽園はなかった。


   ◇


 翌日、私は朝食をとらずに遅くまで寝ていた。

 目は覚めていたけど、ベッドから起き上がる気力がなかった。

 なんだか体がだるい。

 リゾート地なんだから何もしないのが正しい過ごし方なのかもしれない。

 でもやっぱり日本人なのか、罪悪感ばかりわき起こってきて、ちっとも休まる気がしない。

 十時近くに起きて、自分の部屋のマシンでコーヒーをいれ、テラスで飲んでからまた西の灯台へ散歩に行ってみることにした。

 昨日ジュゼッペさんが港から運んでくれた夜会服の箱には、クリーニングされた私のブラウスとジーンズも入っていた。

 私はそれを着て出かけた。

 パオラさんがパニーニを持たせてくれたので、海を眺めながら昼食だか遅い朝食だか分からない食事も済ませた。

 トマトとモッツァレラにローストビーフのと、もう一つはおばさん特製のエビのサラダをはさんだものだった。

 一つでも充分だったけど、お腹がいっぱいになるまで全部食べた。

 食べること以外、何もすることがない。

 誰もいない海を眺めながら、私はもそもそと固いパンを必死に噛み、ひたすら飲み込んでいた。

 泣きながら食べることはできない。

 食べながら泣くのも難しい。

 だからこんな時はモリモリ食べるのだ。

 ソラーロ山にも歩いて登ってみた。

 次第に広がっていく景色を楽しみながら一時間もしないで登ることができた。

 山頂からは変わらず美しいパノラマの風景が楽しめた。

 独り占めだ。

 そう、私は一人なのだ。

 咳をしても、泣いても、思い出し笑いをしても、ミケーレのことを想って体が熱くなっても、一人なのだ。

 下りはリフトに乗った。

 アナカプリの終点にはウニみたいなもみあげのおじさんがいて、チャオと声をかけてくれた。

「ボンジョルノ」と手を振ると満面の笑みで答えてくれる。

 お客さんが一人もいなくてリフトが廃止にならないか心配になってしまう。

 街の小学校では子供達がサッカーをやっていた。

 まだ八月だから夏休みなんだろう。

 にぎやかで楽しそうだ。

 オレンジ色の小型バスが灯台の方から坂を上がってやって来た。

 お客さんは一人もいない。

 小学校前のバス停から地元のおばあさんが一人乗った。

 そのうちバスもお客さんがいないから勝手に休んでしまうかもしれない。

 外からの交通が途絶えると有名な観光地ですらこんな風になってしまうのだ。

 なんだかこの島が急に色あせていくような気がした。

 私は昨日ジュゼッペおじさんが車で入っていった小道を歩いた。

 墓地でフランチェスカさんのお墓にお参りした。

 キリスト教のしきたりは知らなかったから頭を下げて手を合わせただけだけど、気持ちは伝わるだろう。

 目を上げるとさっき登ってきたソラーロ山がそびえている。

 墓地の隅にベンチがある。

 腰掛けると目の前には地中海、そのはるか向こうにはベスビオ火山が見える。

 海と山だ。

 海と山しかない。

 この島には何もない。

 フランチェスカさんも退屈だったんだろうか。

 お客さんがいないと運転手さんが勝手にタバコを吸ってサボってしまうような島だ。

 本を読むだけでは足りなくて、まだ知らない世界を見たくて島を出たんだろうか。

 ロレンツォという人に愛され、広い世界で一緒に生きていくつもりだったんだろう。

 予測できるはずもない事件に巻き込まれ、その瞬間まで、死ぬなどと考えたこともなかったんだろう。

 お互いに愛し合う気持ちがあっても、全く関係のないところで人生を絶たれてしまう。

 ある意味それは私とミケーレの関係にも似ていた。

 他人事とは思えない。

 私たちはお互いに愛し合っていたはずだ。

 でも、やはりそれだけでうまくいくわけではないのだ。

 自分たちではどうしようもない壁や溝というものがある。

 死で希望を絶たれてしまったフランチェスカさんと違うのは、私は生きているということだ。

 でも、生きていることに意味なんてあるのだろうか。

 この世の楽園で知った喜び。

 もうそれが手に入らないと分かっているのなら、これ以上、生きていてもなんの意味もないではないか。

 私一人いなくなったところで、この世は何も変わらない。

 そこに二人の愛があったことすら誰も知らないし、本人達ですら覚えてもいないだろう。

 ならばここに私はいなくてもいいのだ。

 日本に帰ろうかな……。

 考え事をしていたら眠くなってしまったらしい。

 いつのまにか私はうとうとしてしまっていた。

 眠っていた時間はそれほど長くもなかったようだ。

 ヘリコプターの音で目が覚めた。

 東の方からやって来た機体がすぐ上を通過してヘリポートに着陸する。

 私は屋敷に戻った。

「ああ、ちょうどよかった」

 パオラさんが私をさがしていたらしい。

「サレルノから迎えが来ましたよ。給油している間に支度をしてね」

 なんで迎えなどよこしたのだろう。

 お母さんに近寄るなと言われたのだから、パーティーになんて行けるわけがない。

 パオラさんが私を抱きしめる。

「ミサキ、ミケーレにはあなたが必要なのよ。あなたは?」

 必要はない。

 ……とも言えない。

 返事を迷っていると、パオラさんが私を抱く腕の力をゆるめてじっと顔を見つめた。

 ミケーレには幸せになってほしいとパオラさんは言っていた。

 つい昨日までは私も彼にできることを探していた。

 昨日までの自分が嘘だったら、今の自分は存在しないことになる。

 まだ私にできることはあるのだろうか。

 私は視線を合わせられなくて、うつむきながら言った。

「……彼が必要です」

「ならば迷うことはないでしょう? シャワーを浴びて支度してらっしゃいな」

 背中を押されて私は自分の部屋に戻った。

 シャワーを浴びていても、まだ迷いがあった。

 正直なところ事態が改善するとは全く期待できなかった。

 彼のお母さんを説得できる材料は何もない。

 実際のところ、パーティーに行こうとした一番の理由は、ヘリコプターだった。

 おそらく相当な費用がかかっているのだろう。

 もし断ってキャンセル料でも請求されたらおしまいだ。

 小心者の庶民の貧乏性のおかげで断りにくかっただけだ。

 これが船だったら、断っていたかもしれない。

 それに、そういう理由だと思っておけば、自分自身を納得させることもできる。

 しかたなく行くんだ、と

 髪を乾かし、夜会服に着替える。

 衣装に着られている感じはするけど、気持ちが前向きになる。

 ミケーレに、私を手放したら後悔するぞって、見せつけてやる。

 それくらいの気持ちがあってもいいじゃない。

 ドレスに合う靴も用意されていた。

 久しぶりにヒールの高い靴を履く。

 ちょっと背筋が伸びると気持ちもしゃきっとする。

 よし!

 がんばれ、私!

 部屋を出ると、パオラさんが待ち構えていた。

「ああ、ミサキ。とても似合うわよ。楽しんできてね」

「はい」

 夕焼け空を背にしてヘリポートを飛び立つ。

 操縦しているのはプロの操縦士さんで、隣に女性のアテンダントが座っていた。

 一気に上昇して水平飛行に移る。

 ミケーレよりも操縦が荒い。

 まるで最前線に出撃するような勢いだ。

 ミケーレが相当気をつかって操縦してくれていたことに今さら気がついた。

 ヘリ酔いしている場合ではない。

 私は目を閉じて眠ろうとした。

 でも、眠ろうとすればするほどかえって眠くならないものだ。

 夕闇に沈んでいくアマルフィ海岸を眺めながら、私は恐怖と吐き気と戦っていた。


   ◇


 あたりがすっかり暗くなった頃、前方に街の光が見えてきた。

「サレルノに到着です」

 隣の女性アテンダントの声がヘッドセットから聞こえてきた。

 闇の中でぼんやりとしか分からないけれど、市街地のはずれにライトアップされたお城が見える。

 テーマパークにありそうな華やかなものとは対照的で、四隅に並んだ円柱の塔をシンプルにつないだだけの要塞のようなお城だ。

 刑務所ですと言われても納得してしまいそうな外観だ。

 闇に浮かび上がる照明も、かえってどこか幽霊屋敷のような雰囲気を強めているようだった。

 それでももちろん規模はかなりのものだった。

「あれもドナリエロ家のものですか」

 私の質問にアテンダントさんがうなずいた。

 ヘリコプターは庭園の空き地に無造作に降りたった。

 扉が開けられ、外に出ると、インカムをつけた黒服の若い女性が待ちかまえていた。

「ようこそ、サレルノへ。私はアマンダです」

 ミケーレよりも流暢な日本語だ。

「日本語がお上手ですね」

「はい。アニメが好きで今年の春まで日本の大学に留学していました。今日からあなた専属の通訳として雇われました」

 専属?

 私と一緒にすぐに解雇されないといいけど……。

 急に後ろでヘリコプターのエンジンがうなりはじめた。

 爆音と風をまき散らしながら上昇していく。

「さあ、こちらへ!」

 大声で叫びながら城館に向かって彼女が歩き出す。

 私はヒールで足をくじかないように気をつけながら彼女についていった。

 城館正面にはレッドカーペットが敷かれ、高級車が続々と車寄せに止まっていく。

 カメラマンのフラッシュが花火のようにきらめく。

 記者達が来場者にマイクを向けたり、テレビカメラも来ていてレポーターが何かしゃべっている。

 アマンダがレッドカーペットに私を案内する。

 いやいや、そこを通るの?

 ひるんでいる私を怪訝そうに見て彼女が手を差し出す。

 私も手を差し出そうとすると、その手をすっと城館の方に向けられて、自然と私の足が動き出してしまった。

 覚悟を決めるしかなかった。

 私はレッドカーペットに足を踏み入れた。

 この東洋人女性は誰だと周囲がざわつく。

 すみません、日本代表の庶民です。

 無駄にフラッシュなんか焚かせてすみません。

「ボナセーラ、シニョリーナ?」

 マイクを向けられても引きつった笑顔しか返せない。

 後半は自然に足を速めて私は城館の中に逃げ込んだ。

 城館内は外の様子から想像していたとおり、中世の装飾が古めかしく、照明もどこか暗い印象だった。

 アマンダがインカムで何か話している間、私は玄関ホールの装飾を眺めていた。

 壁に飾られた絵画とタペストリーが美術館よりも豪華だ。

 あまり知識はないけど、ルネサンスよりも古い時代の物のようだった。

 その時代の特徴なのか、キリスト教の宗教画が多い。

 磔にされるキリスト、天地創造、マリアに光が当たる受胎告知。

 なんとなく知っている話が元になっているようだ。

 もちろん複製ではなく、本物なのだろう。

 この玄関ホールだけでどれだけの芸術的価値があるのか、ため息しか出ない。

 レッドカーペットの洗礼といい、この城館といい、やはり私の来る場所ではなかったのだろう。

 分かっているのに何度こんなことを繰り返すのか。

 自分の未練がましさを呪うしかない。

「美咲さん、こちらへどうぞ」

 アマンダに案内されたのは大ホールだった。

 壁には古い絵画や彫刻が飾られ、鹿の剥製や角が数え切れないくらい並んでいるところもある。

 カプリの屋敷のホールも大きいと思ったけど、こちらも二倍くらいはある。

 それでも、もうかなりの人が来場していて息苦しいほどだ。

 いかにもサッカー選手といった体格の人たちの他にも、政財界の人たちなのか年輩の男女や、モデルか芸能人なのか華やかな装いの女性達もいる。

「ミケーレはあちらです」

 アマンダの指す方には若い女性達に囲まれたミケーレがいた。

 大胆に胸を露出した衣装の女性が彼にもたれかかっている。

 ミケーレもきちんとした服装が似合っているけど、まわりの女性達のせいか、ただのチャラいオッサンに見えてしまう。

 私はその場に立ち止まって周りを見回していた。

「ミケーレのところへ行きませんか?」

 首を振って断ると、アマンダが不思議そうな顔をした。

「じゃあ、後にしますか。あ、スクージ……」

 急にイタリア語になって、彼女がウェイターさんからシャンパンを二杯もらってくれた。

 アマンダも飲むらしい。

 前にパオラさんも一緒にリモンチェッロを飲んでいたけど、ここでは仕事中でもこれが普通なんだろうか。

 まあ、私専属だから、私が認めればいいことなんだろう。

 パーティーだからあまり堅苦しいことは言わない方がいいのかな。

 彼女がグラスを持ち上げる。

「とりあえず乾杯。ビールじゃないですけど」

 なんだろう。

『とりあえずビール』というのはイタリア人にうけるニッポン・ジョークなんだろうか。

 お酒を一口含んでみたものの、まわりはまったく知らない人たちばかりだ。

 何をしたものか困ってしまう。

 しかたがないので、あっというまにシャンパンを飲み干してしまったアマンダに話しかけてみた。

「アマンダさんは日本のアニメが好きで日本に留学したんですか」

「はい。元々は兄が日本のサッカーアニメに夢中で、私もネットでいろいろ見るようになったんですよ。日本語も自然に覚えました。日本のアニメのおかげで兄はサッカー選手になって、私は日本に留学したんです」

「お兄さんはサッカー選手なの?」

「そうですよ。サレルノFCの選手ですよ。ほとんど控えメンバーですけどね。今日も来てますから、ご紹介しましょう」

 アマンダが人の間を縫うようにしながら奥へ進んでいく。

「チャオ、エミリオ」

 壁際に立って談笑していた若い男性に軽くハグしながら頬を触れ合わせる。

「こちら日本から来たカグラミサキさん。ミサキさん、うちの兄のエミリオです」

「ナイストゥミーチュー」

 初めましてというイタリア語を知らなかったので、英語で言ってみた。

 エミリオは日本語で答えた。

「ハジメマシテ」

「日本語分かるんですか」

「スコシデスネ。キミカワイーネ! チョイワルオヤジ! ゴーコンオモチカエリ!」

 ダメだこの人。

 エミリオの話し相手をしていた男性も苦笑している。

 よく見ると東洋人だった。

 私よりも少し年上、三十前くらいだろうか。

 日焼けした肌で、腕や脚が長く、全体的にがっしりとした体つきだからおそらくチームの関係者なんだろう。

 ただ、背が高いからそれなりに見栄えはするけど、あまりスーツを着慣れていないようだ。

 どことなく新入社員が部長の高級スーツを着ているようなちぐはぐな感じがしてしまう。

 目が合うと「どうもこんばんは」と軽く頭を下げてくれた。

 日本人のようだ。

「あ、どうも、こんばんは」

 元会社員の習性で思わず名刺入れを探しそうになってしまった。

 アマンダがお兄さんと話がはずんでいるようなので、私はこの日本人男性と二人で向かい合ったまま間を持たせなければならなかった。

 彼は私のグラスが空になっているのに気づいたのか、ウェイターさんに合図をしてグラスを交換してくれた。

「お酒でいいかな。それともジンジャエール?」

「あ、まだシャンパンで大丈夫です」

 それほど飲めるわけではないけど、少しくらい酔ってしまった方が良さそうだった。

 居心地の悪さをなんとかしたい。

 初対面の人との共通の話題も分からないので困っていると、男性の方から話を切りだしてくれた。

「悩み事ですか?」

 いきなりそんな質問をされること自体、困ってしまう。

 はい、あなたと何を話して良いのか分からないので。

 もちろん、そんなことは言えなかった。

「どうして分かるんですか」

 白い歯をのぞかせながら肩をすくめる。

 欧米風のジェスチャーになれている人なのだろうか。

「悩み事のない女性はいないからですよ。健康、仕事、恋愛。たいていはどれか一つくらい悩みがあるものですからね。占い師とか詐欺師のテクニックですよ」

「じゃあ、あなたは占い師さんですか?」

「残念。詐欺師ですよ」

 あ、ここ笑うところか。

 ごめんなさい。

 引きつった笑いしかできませんでした。

 彼もちょっと顔を赤くしながら苦笑している。

「占い師に見えますか、俺が?」

 私は首を振った。

「俺は大里健介。サッカーやってます」

 オオサト……。

 ああ、そういえば、ジュゼッペさんとテレビのニュースで見た人だ。

 スーツ姿だと印象がまるで違う。

「日本人で俺のことを知らないっていう人はなかなかいませんよ」

「ごめんなさい。サッカーのことは全然分からなくて」

「いや、その方が助かりますよ。いつも誰かに見られてるものでね。全然関心のない人と話してる方が落ち着きますよ」

 私はまだ自分から名乗っていなかったことに気がついた。

「神楽美咲です。イタリアには旅行で来ています」

「旅行? ただの観光?」

「ええ、そうですけど」

「でも、関係者なんでしょう? このパーティーにいるくらいだから」

「知り合いに招待されたんです」

 ミケーレの名前を出していいものか迷ってしまった。

 大里選手は口ごもった私の顔をのぞき込みながらささやいた。

「で、本当に悩んでいるようですね。恋わずらい?」

「どうしてそうだと分かるんですか」

「だって、ここはイタリアだから」

 思わず苦笑してしまう。

「まさかうけるとは思わなかったな」

「苦笑いですよ」

「いや、真面目な話、病気の人は海外旅行をしないし、旅行中なら仕事の悩みでもないだろうから、残りは恋愛関係だろうなと思ったんですよ」

「名探偵ですね。でも、半分だけ」

「半分?」

「仕事がうまくいかなくて会社を辞めてきて、それで旅行に来たんです」

「なるほどね。で、恋わずらいは?」

「あの……、まあ、外国なので、いろいろすれ違いとか……」

「文化の違いとか、考え方の違いとか、確かにいろいろありますからね。俺も新しい国になじむのは苦労しますよ」

 そういえばジュゼッペさんがスペインのチームから移籍してきたと言ってたっけ。

「今までどんな国でプレーしてきたんですか」

「最初はオランダですね。それからスペイン。そして今回のイタリアで三カ国目ですよ」

「すごいですね」

 大里選手がかたわらのテーブルに置いてあるボトルを持ち上げて、自分でグラスに注いだ。

 泡が立つけど、シャンパンのボトルではない。

「それは何ですか」

「これは炭酸水ですよ。俺はお酒は飲まないのでね」

「弱いんですか?」

「コンディション維持のためですよ。体に悪い物は極力入れないようにしています。食べ物も専属トレーナーの用意したものしか食べません」

 ああ、プロの選手はそういうところにも気をつかっていて大変なんだな。

 でも、まわりのイタリア人選手はみなお酒を飲んでいるし、けっこう酔っぱらっている人もいる。

 ふと見ると、エミリオも赤ら顔でアマンダと楽しそうにおしゃべりしていた。

「俺を占い師と間違えたのはあんたが初めてですよ」

「すみません」

 丁寧語のわりに呼び方が『あんた』なのが引っかかる。

「でも、俺と同じで、半分間違ってないですよ」

 どういうこと?

 首をかしげた私に彼が微笑みかけた。

「俺は自分のやりたいことを宣言して、ことごとく実現させてきたんでね。みんなが無理だということでも自分がそうしたいと思ったことは必ず口にしてきたんですよ。ついたあだ名はビッグマウス」

 でもね、と彼は炭酸水を一口飲んだ。

「それが実現したんだから、占いが当たったようなものでしょう?」

「でもそれはあなたが努力家だということではありませんか」

 彼が私の目を見つめてふっと笑う。

「あんたはまっすぐで単純な女ですね」

 なにそれ。

 馬鹿にされた?

 ムッとした気持ちが思わず顔に出てしまったのかもしれない。

 大里選手が人差し指を振る。

「ほめたんですよ」

「そんなこと言わなかったじゃないですか」

「まっすぐすぎるから生きづらいんじゃないのかな、と」

 どうして……。

 どうして分かるの?

「サッカーだって同じですよ。ボールを持ったからって一直線にゴールに向かったら、自分からディフェンダーに突っ込むようなものだし、パスを出したり、時にはフェイントでかわすことだって大事でしょう」

 言っていることは分かる。

 遥香に言わせれば『真面目すぎて融通が利かない』ということだ。

 嫌な思い出があれもこれもと顔を出す。

 黙り込んでしまった私に、彼がそっとつぶやいた。

「でもね、人生をサッカーにたとえるようなやつは信用しない方がいい。素直すぎるんですよ、あんたは」

 大里選手が口を拳で隠しながら笑う。

「男にも逃げられるタイプでしょうね」

 何も言い返せない。

 彼は少しだけ真面目な表情でたずねた。

「だから、恋わずらいなんですか?」

「それは分かりません。私たち二人だけでは解決しない問題もあって。家族のこととか」

「でも、互いに惹かれ合っている、と」

 私はうなずいた。

「ミ・スクージ、オオサトサン」

 イタリア語で黒服の女性が声をかけた。

 彼はイタリア語で受け答えをしている。

 笑顔でうなずきながら流暢に会話をし、最後に軽くハグをした。

「すまないけど、スピーチを頼まれたので行ってくるよ」

「はい、どうぞ」

 彼が去っていくと、アマンダがようやく私のそばに戻ってきた。

「大里選手と何を話してたんですか」

 あらためてそうやって聞かれると何を話していたのか思い出せない。

「占い師とか詐欺師のこと」

 アマンダが困惑している。

「私が彼のことをサッカー選手だと知らなかったと言ったら興味を持たれたみたいで」

「え、そうだったんですか。日本人で大里選手を知らないなんて、パスタを食べたことのないイタリア人みたいじゃないですか」

 それほど大げさなことだとは思わなかった。

 そんなにすごい人と話してたのか。

 それにしても、内容はたいしたことではなかった。

 ただ、なんとなく気分が軽くなったのも事実だ。

 ほんの少しの間ミケーレのことを考えなくて済んでいた。

 チームフラッグの掲げられたホール正面に置かれたマイクステージに大里選手が上がる。

 司会者が彼を紹介すると、拍手がわき起こり、酔った同僚選手の間から口笛が吹かれる。

 軽く両手を挙げながら落ち着くのを待って彼が話し始めた。

 原稿も見ないで、観客の反応を見ながら即興でしゃべっている。

 とても流暢なイタリア語だ。

 どこで覚えたんだろうか。

 もちろん、イタリア人からしたら訛りや不完全な感じはあるのだろうけど、私には全く区別のつかない話し方だった。

 アマンダが横で通訳してくれる。

「初めまして、みなさん。大里健介です。このチームに来ることができて光栄です。この街に来て良かったことが二つあります。一つは、伝統はあるが長らく二部リーグに低迷していたチームをわずか二シーズンで一部リーグに引き上げた敏腕オーナーとパートナーになれたこと」

 ここでいったん間を取ってからスピーチを続ける。

「二つ目は、今日ここにとても美人が多いこと。これだけ勝利の女神がいれば、負ける気がしません」

 笑いと拍手が起こる。

 彼も誰に向かってしているのか、人差し指を立てながらわざとらしくウィンクしている。

「明日は必ずゴールを決めますから、期待していてください」

 拍手喝采を浴びながらステージを下りる。

 イタリアの女性達に握手や写真撮影を求められて、笑顔で対応している。

 ああいう姿を見ていると、やはり世界的スター選手なのだなという気がしてくる。

 ここにもまた、私とは違う世界の人がいる。

 よくないとは分かっていても、ため息をついてしまった。

「あら、あなた」

 声をかけられてふりむくと、エマヌエラさんが私をにらみつけていた。

 かたわらにはミケーレが立っている。

「なぜここに? 関係者でもないでしょうに」

 ミケーレに呼ばれたとは言えなかった。

 かといって、言い訳も思いつかない。

「あれほど言ったのに、まだつきまとうとは」

 彼はすまないと言いたげな表情で私に目で合図を送っているけど、お母さんとの間に入ってくれるわけではなかった。

 私はあなたに呼ばれたからここに来たのに。

 私だけを悪者にして、あなたは知らないふりをするの?

 失望が絶望になり、ふっと私の中で何かが消えていくのを感じた。

 ぽっかりと空いた穴にどさりと砂が落ちていくように、これまでこらえていた気持ちが、一気に崩れ落ちていった。

 その時だった。

 大里選手が私とお母さんの間に割って入った。

「失礼、奥様。私のパートナーが何か失礼なことを? それでしたらお詫び申し上げます」

 イタリア語でしゃべっているのを、アマンダがとっさに私に通訳する。

 すると、エマヌエラさんは口元に笑みを浮かべて彼にうなずいた。

「あなたのパートナーでしたか。ならば結構です」

 そして私の方を向いて、はっきりとした発音の英語で言った。

「乗り換えるのが素速いようね。お金の匂いに敏感なようで、結構ですこと」

「母さん、なんてことを」

 ミケーレが口を挟もうとするのを手で制しながらエマヌエラさんは去っていった。

 彼もそれ以上反論することもなく、一緒に行ってしまった。

 もう、終わりね……。

 さよなら、ミケーレ。

 私は会場を出ることにした。

「敏腕オーナーも、母親にはかなわないらしいね」

 玄関ホールまで大里選手が私について来る。

「あんた、ミケーレの女なのか?」

 急に話し方が変わる。

 丁寧語の消えたなれなれしい感じが、満員電車でうなじに息をかけられたみたいで不快だ。

 私が返事をしないでいると、彼がもう一言つけ加えた。

「だった、と言うべきか?」

 私は立ち止まって彼と向き合った。

「だったら、どうだって言うんですか? もてあそばれて捨てられた馬鹿な日本人とでも言いたいんですか?」

 大里選手は私をじっと見つめたまま固まったように黙り込んだ。

 少し間があって、ようやく口を開く。

「あんた、今夜はどこに泊まるんだ?」

 全く関係のない質問だったけど、確かに大事なことだった。

 アマンダに帰りの手配をお願いしようとすると、肩をすくめて首を振った。

「今夜はここにお泊まりになるというふうに聞いてますが……」

「ミケーレがそう言ってるの?」

 アマンダがうなずく。

「私は嫌です。カプリに戻るか、それが無理ならどこか泊まるところを自分で探します」

「少々お待ちください」

 アマンダがインカムで何かを相談している。

 人通りの多い玄関ホールの中央をさけて、大里選手が私を隅の方にいざなった。

「俺の車で送っていくよ」

「飲酒運転は危ないですよ」

「俺は酒は飲んでないからね」

 そういえば炭酸水しか飲んでいなかった。

「アマンダに頼みます」

 彼がニヤリと笑う。

「二人きりでもっと話がしたいんだよ」

「明日は開幕試合で大事な日なんじゃないですか」

「だから、素敵な一夜を過ごすのも大事だろ」

 私は思わず彼をにらみつけた。

「一人で帰ります」

 まあ、落ち着けよと彼は引き下がらない。

「イタリア語を教えてやるよ」

「ティ・アーモくらいなら知ってます」

「ミケーレをイタリア語でののしれるくらいにはなれるぞ。悪口だけなら、何カ国語も知ってるからね。サッカー選手は口で挑発するのも仕事だからな」

 そして彼は壁に手をついて私に顔を近づけてきた。

「素直になれよ。捨てられて悔しいんだろ」

 何をしてしまったのか、一瞬分からなかった。

 気づくと彼が頬を手で押さえていた。

 思わず私は彼に平手打ちをしてしまっていたのだ。

「ご、ごめんなさい。つい……」

「なんだよ。そんなときだけ素直なんだな。だったら、もっと素直になれよ」

「嫌です」

「そういうふうにされると、ますます俺も引き下がれなくなるな。他人の物ほど欲しくなる。それが男ってもんだろ」

 美咲!

 玄関ホールに私の名前が響く。

「待ってくれ、美咲」

 ミケーレが駆けてくる。

 大里選手は何事もなかったかのように私から一歩脇によけた。

 ミケーレには他の人が目に入っていないらしい。

 私のところに一直線にやってきて、今度は彼が私を壁に押しつけた。

「さっきのことは謝るよ。母のしたことは失礼だった。申し訳ない」

 彼の言葉に私はあらためて失望していた。

 お母さんのことを責めているのではない。

 私が嫌なのはあなたのそういう態度なのに……。

「僕にも家族や会社がある。いろんな責任だってある。すぐにはどうにもならないことなんだよ。僕だって何も考えていないわけじゃないんだ。お願いだから時間をくれよ」

 私は返事をしなかった。

 できなかったのではない。

 したくもなかったからだ。

「僕らは子供じゃないだろう。君にだって仕事も日本での生活もあるだろう」

「そうね……」

 私はうなずいた。

「日本に帰って新しい仕事を見つけます」

「違う。そういうことじゃない」

「ミケーレ……」

「今夜、話を聞いてくれ。ちゃんと話し合えばわかり合えるよ」

「ミケーレ、興奮しないで」

 私は彼にまわりを見るように促した。

 私を壁に押しつけている彼は気づいていなかったけど、玄関ホールにいる全員が彼に注目していた。

 彼は有名人なのだ。

 おこないには注意しなければならない。

 日本語で会話していても、雰囲気で痴話げんかだというのは誰でも分かってしまうだろう。

「お願いだから、大声を出さないで」

「すまなかった」

「そうやってあなたが言えば言うほど、私は返事ができなくなってしまうのよ」

「どうしてだよ。わかり合うために話をするんじゃないか」

 違うでしょう。

 あなたは全然反対のことを言ってたじゃない。

 言葉が気持ちを伝えるのには不完全だから、私たちは愛し合うのだと。

 愛し合うことで愛を確かめ合うのよ。

 でも、もうそれも無理なのよ。

 お願いだから分かって。

 お願いだから……。

 彼が視界の中でぼやけていく。

 涙が頬を伝って落ちていく。

 大里選手がミケーレに日本語で声をかけた。

「今夜は話しても無駄だろう。まずは彼女を落ち着かせた方がいい。君も頭を冷やせ」

 ミケーレが荒い息をしながらうなずいた。

「俺がホテルまで車で連れていくから、アマンダ、君が連絡して部屋を手配しておいてくれ。俺のホテルは分かるだろう?」

「かしこまりました」

 大里選手がミケーレに言った。

「君はまだパーティーを抜け出すわけにはいかないだろう。早く戻るんだ」

「ティ・アーモ、美咲」

 ミケーレは私と頬を触れあわせてから大ホールに戻っていった。

「イタリアの男を興奮させるなんて、あんたもなかなかの女だな」

 大里選手が彼の背中を見送りながら、私にハンカチを差し出す。

「すみません」

「鼻水ふいてもいいぞ。遠慮するな」

 私は彼に肩を抱かれながら玄関ホールを後にした。

 車寄せに止められていたのはフェラーリだった。

 カプリの車の二倍くらい大きいのに、助手席に座るのが一苦労だった。

 ヒールが引っかかって脱げてしまった。

「イタリアの車って、どうしてこんなに乗りにくいんでしょうね」

「女をセクシーにするためだろ」

 どういうこと?

「裾、直せよ」

 ヒールが脱げただけでなく、ドレスの裾までまくれ上がっていることに気がつかなかった。

 思わず顔が熱くなる。

 運転席でニヤついている大里選手がエンジンをスタートさせた。

 野獣の咆吼のような音が背中に響く。

 エンジンが後ろにある車なんて初めてで驚いた。

 車が動き出す。

 思ったよりゆっくりだ。

「こんな車に乗るのは初めてです」

「俺もだ」

 え?

「そうなんですか」

「ああ、ミケーレのものだからな」

「借りてるんですか?」

「チームが送迎車を手配するまで使ってくれってさ」

 城の庭園を抜けて門まで来る。

 大きな鉄柵が開いてフェラーリが闇の中に突き進んでいく。

 サレルノの市街地は現代的で、道路の舗装もアスファルトで道幅も広い。

「外国で運転するのは怖くないですか?」

「俺はもうこっちの生活が長いからね。慣れたよ。まあ、さすがに他人のスーパーカーだから、傷でもつけないかとヒヤヒヤだけどな」

 なぜか鼻で笑っている。

「万一、修理代の請求が来たら、あんたに回すよ」

「なんでですか」

「慰謝料ってことで、逆に十倍ふっかけてやれよ。なんなら、この車を手切れ金にもらったらどうだ」

 なんてつまらない冗談なんだろう。

 センスのかけらもない。

「止めてください」

 私はなるべく冷静に伝えた。

「え、なんだって?」

「いいから止めてください」

「ここで?」

「あなたと一緒にいたくはありません。ここで降ろしてください」

 彼はスピードをゆるめない。

「止めてくれないなら、飛び降ります」

「ここは日本じゃない。イタリアで夜中に若い女が一人で歩いていたら、どんな目にあうか分かってるのか」

「あなたと一緒にいるよりはましです」

「そうだな。俺は最低の男だ。なんなら車を止めて、ここで一発やろうか。フェラーリの中で抱かれるのも悪くないだろ」

 下卑た笑いを浮かべながら彼が一言つけ加えた。

「ミケーレの車だしな」

 赤信号で車が止まる。

 外に出たいのにドアが開かない。

 いろんなレバーやらボタンをいじっても、しまいには窓をたたいても、蹴っ飛ばしてもドアは全く動かない。

 もう、なんなのよ。

 イタリアの車ってどうして助手席が開かないのよ!

 でもおかげで少し冷静になれた。

 信号が変わった。

 あきらめた私を横目で見て彼が車を発進させる。

 暗闇の中で彼がつぶやく。

「怒れるじゃないか」

 え?

「あんた、怒れるじゃないか」

 ゆるい左カーブを曲がる。

 街灯に照らされて彼の横顔が浮かんでは消えていく。

「いい子でいると疲れるだろ。もっと怒ったっていいんじゃないか」

 その横顔は少しだけ少年のような優しさをたたえていた。

「そうやってもっとミケーレにも言ってやればいいんだよ。金持ちとか、そんなの関係ないだろ。もっと自分の意見を言って、これは嫌だ、あれがしたいと要求を突きつけなくちゃ」

 彼はまるで私のことをなんでも知っているかのように、私の心をほぐしてくれた。

 たしかにそうだった。

 いい人、いい子、そう言われてきた。

 でもそれは自分の意見を自分で押しつぶして、全部他人の言いなりになってきたからなのだ。

 そして、何も言えない無口な心をかかえた大人になってしまったのだ。

「日本ではそれでもやって来れたかもしれないし、むしろその方がほめられたかもしれない。でも、ここはヨーロッパだ。そんなメンタルじゃ、通用しないし、誤解されるだけだ」

 何も言い返せない。

 言おうとする言葉が浮かんできては渦を巻いて引っ込んでしまう。

 涙が浮かんできてしまった。

「泣いても何も解決しないぞ」

 強がって見せようとすればするほど涙があふれてきてしまう。

 彼が思いがけないことを言った。

「あんたの代わりに俺が慰謝料ふんだくってやるよ」

「どういうことですか」

「インセンティブ・ボーナスっていうのがあるからな。ゴールを決めるごとにいくら上積みって、そういう契約になってるわけさ」

 だからさ、と彼が私の方を向く。

「あんたのためにゴールを決めてやるから、そしたら一日俺につきあってくれ」

「前、見て下さい。あなたとそんな約束はしたくありません」

「コーヒーを飲むくらいならいいだろう?」

 私は黙っていた。

「じゃあ、二点目を決めたら、俺の言うことをなんでも聞くってことでいいな?」

 一点目の約束だってしてないのに、何よそれ。

「そんな約束はできません」

「トリプレッタ、つまり三点目のハットトリックなら俺の女になれ。君はミケーレを裏切るんだ」

 彼は一方的に話を進めてしまう。

「やっぱり止めてください。これ以上、あなたとお話しすることは……」

「つきあってくれ」

 え?

「俺とつきあってくれ」

 つきあってくれ……って。

 フェラーリが減速する。

 ほとんど止まるくらいの速度まで落ちたところで、ゆっくりと道路脇のホテルエントランスに向かって向きを変えた。

 車高が低いから下をこすらないように注意しなければならないのだろう。

「サッカー選手なんてみんなチャラいと思ってるんだろ」

 ええ、そうでしょうとも。

 ゆっくりと車をエントランス正面まで進めながら彼が私の顔をのぞき込む。

「その通りさ」

 そういうところがまさにチャラいんじゃないの?

「いいだろ。あいつがあんたを捨てたんだ。今さら義理立てすることはないだろう」

「だからって、あなたとつきあう義理もありません」

「あるさ」

 どうして?

「俺は明日ゴールを決める。そしたら俺につきあってくれるって約束だろ」

「だったら、三点決めて下さい。そしたらミケーレを裏切ってあなたのものになります」

 車が正面に止まると待ち構えていたホテルマンがドアを開けてくれた。

 思わず、よっこいしょと言いそうになりながらなんとかフェラーリから脱出できた。

 さっさと外に出てきていた彼がそんな私に手を差し出しながらウィンクをした。

「言っただろ」

 何が?

「俺は占い師だって。あんたはミケーレを裏切るさ」

 そして、それは本当に彼の言う通りになった。

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