第2章 カプリの休日

 カプリ島の表玄関マリーナ・グランデには青の洞窟をはじめとした島の周辺を巡る小型遊覧船がたくさん停泊していた。

 しかし、ストライキで観光客の来訪が途絶えたせいか、まるで昼寝でもしているかのように波に揺られているだけで、どの船も開店休業状態のようだった。

 本当はバカンスシーズンの今が一番忙しい時期なんじゃないだろうか。

 ひまそうな街の人たちがミケーレに声をかける。

 狭い島だから地元の人はみんな顔見知りなのかもしれない。

 彼も一言二言陽気に返しながら港のそばにある広場の方へ入っていった。

「さあ、この車で家まで行こう」

 そこに駐車してあったのは日本でもよく見かけるイタリアの小型車だった。

 あちこちにこすったような傷がついている。

 二人乗って荷物を入れたら満杯だ。

 私はそれほどでもなかったけど、背の高い彼には窮屈そうだった。

 財閥の御曹司だから運転手がリムジンで待機しているのかと思ったら拍子抜けだ。

 エンジンをかけると、彼はシフトレバーを切り替えながら車を発進させた。

 石畳の上をガタゴトと車が進んでいく。

 船酔いよりも車酔いの心配をした方が良さそうだ。

 すぐに舗装された道に変わったけど、彼が小型車に乗っている理由がすぐに分かった。

 山の斜面にへばりつくようなカプリの街を登っていく道路は、住宅の間を複雑な刺繍のステッチのように折り返しながら通っていて、車一台分の幅も怪しいくらいなのだ。

 これでは車をきれいに保つのは無理だろう。

 それなのに対面通行の場所もあって、鉢合わせした時にはお互いに後退して道を譲り合わなければならない。

 そしてすれ違うたびに、みながいったん車を止めてミケーレに声をかけていく。

「やあ、ミケーレ、今日はどうしたんだい?」

 彼もグルグルとレバーを回して窓を下げる。

「なあに、お客さんさ」

 ちらりと私を見たおじさんがウインクする。

「ジャポネーゼ?」

「そうだよ。そういえばお母さんの具合はどうだい?」

「元気だよ。嫁とケンカしてるよ」

 そんな調子だから上りも下りもどちらも車の列がつながって収拾がつかなくなる。

 でも、誰もクラクションを鳴らさないし、まるで散歩の途中で通りすがりに挨拶していくような調子で、これはこれでここの流儀らしい。

 歩いた方が早いんじゃないかとあきらめているうちに、なんとか丘の上の街までやって来た。

 広場というよりは建物の隙間といった方が正しいような場所に華やかなお土産屋さんやカフェが並んでいる。

 でも、やっぱりほとんど人はいない。

 八月にこれでは経済的にも大打撃なのではないだろうか。

「観光客はいないみたいね」

「もう一週間になるからね」

「ストライキが?」

「ああ。チャーター船で団体客が来るけど、青の洞窟は入れないから、島を一周する遊覧船で観光をしたら、みな対岸のソレントやアマルフィに行ってしまうんだ。だから滞在している観光客はほとんどいないね」

 青の洞窟に入れない?

 どういうこと?

「青の洞窟に入れないのもストライキの影響?」

「違うよ。最近は海面が上がってきたのか入り口が水没してしまっていて、よほど条件が良くないと入れないんだよ。最近は、もう半年くらい閉鎖されているね」

 なんだ、そうなのか。

 せっかくここまで来たのにな。

 ミケーレがハンドルを握ったまま私の方を向いた。

「大丈夫。他にももっと素晴らしい場所がいっぱいあるから。がっかりしないでよ」

 私は彼の言葉を信じることにした。

 彼が親指を立てる。

「似合うよ」

 え、何が?

「笑顔が」

 どうやら自分でも気がつかないうちに笑顔になっていたらしい。

 狭い空間で密着しているせいか、なんだか緊張してしまう。

 変に鼓動が高まる。

 私は胸に手を当てた。

 さっきまでは、チョイ悪チャラ男がまた言ってるくらいにしか思わなかったのに、どうしたというのだろう。

 彼のそういう言葉を待っている自分を意識してしまう。

「ほら、あれが君が予約していたホテルだよ」

 白い壁に流麗な文字で『ヴィラ・レッジーナ・マレスカ』と書かれた建物の前を通り過ぎる。

「さっき秘書が電話しておいたから心配ないよ」

 あのホテルは朝食付きで一泊二万円くらいだったから、その分をただで泊めてもらえるのは正直ありがたい。

 車が狭い街を抜けた。

 ミケーレの家はこの街ではなく、もう一段上の地域にあるらしい。

 正面に白い絶壁が立ちはだかる。

 船から見た石灰岩の山だ。

「すごいだろ。ソラーロ山だよ」

「とてもきれいね」

「リフトで頂上まで上がれるんだ。パノラマの景色が楽しめるよ」

 道が広くなってミケーレは車を加速させた。

 エンジンをうならせながら小型車が坂道を登っていく。

 右手の眼下に青い海が見える。

「古代ローマ時代の人たちはこの道を歩いて登っていたんだよ」

 軟弱な現代人にはとても真似できそうにない。

 ソラーロ山の白い岩壁を大きく迂回しながら車はもう一つの街に到着した。

 アナカプリと呼ばれるこの地域には警察やバスターミナルがあって、広場には客待ちのタクシーも何台か止まっていた。

 でもやっぱり観光客はいないみたいだ。

 運転手さんが新聞を細く折りたたんであくびを隠している。

 学校の前でミケーレが車を止めた。

 校門から出てきた子供達が手を振りながら道を渡る。

 おしゃれなリゾート地にも生活がある。

 ボンジョルノ。

 おじゃまします。

 学校の少し先を曲がって小道に入ると、太い松の並木道を抜けたところに白い壁に囲まれた区画が現れた。

 ゆるい下り坂になっていて、低い壁の向こうに青い地中海が広がっているのが見える。

 鉄柵の閉じた門がある。

 車が近づくと自動的に開き始めた。

 ミケーレは車を敷地の中に入れた。

 珊瑚を砕いたような白くきらきら光る素材で舗装された通路の両側にきれいに剪定された樹木が並んでいる。

 庭園の中を車がゆっくりと進んでいく。

 池と噴水、テニスコートにプールまである。

 敷地の一番奥に白い壁の建物が見えてきた。

 どう見てもリゾートホテルだ。

「これが別荘なの?」

「まあね」

 建物正面の車寄せには中年の夫婦が立っていた。

 ミケーレが車を止めて外に出ると、エプロンを着けたおばさんが両手を広げて出迎えた。

「ミケーレ、どうしたの? 突然来ると言うから驚いたわよ」

「パオラ、お客さんを連れてきたよ」

 小さな車を回り込んでミケーレがドアを開けてくれる。

 正直なところ、慣れないイタリアの車で、ドアの開け方が分からなくて困っていたのだ。

 私も車の外に出ると、パオラさんがにこやかに出迎えてくれた。

「ジャポネーゼ、シニョリーナ、ようこそ。自分の家みたいにくつろいでくださいね」

「ミサキです。ボンジョルノ、グラツィエ」

 管理人ご夫妻は私でも分かる簡単な英語で会話をしてくれた。

 パオラさんの夫はとても日に焼けていて、ジュゼッペさんというそうだ。

 おじさんは挨拶を済ませると、庭仕事の途中だからと裏庭の方へ行ってしまった。

 どうやらこのすばらしい庭園全てを一人で守っているらしい。

 ミケーレが車から荷物を取り出してくれた。

「さあ、どうぞささやかな我が家だけどね」

 さっそく中に招き入れられると、そこは驚きの連続だった。

 百人くらいのパーティーができそうなホールの壁にはルネサンス時代のイタリア絵画が飾られていて、ミケーレの話ではすべて本物らしい。

「まあ、イタリアだからね。イタリアの絵画があっても不思議じゃないさ」

 いやいや、ルネサンスの絵画でしょう。

 一枚が億単位じゃないの?

 ホールの奥には裏庭が広がっていて、正面は地中海だ。

「すごい。きれいな海」

「君に丸ごとプレゼントするよ」

「まるでローマの皇帝みたいね」

「じゃあ、君はクレオパトラだね」

 こんなに鼻が低いのに?

 それこそ世界が変わっちゃうじゃないのよ。

 庭に沿って回廊が巡らされている。

 大理石の柱の間にローマ時代の彫刻が並んでいる。

 学校の美術室で見かけたような青年の胸像もあれば、ブロンズ製の全身像もある。

 その中でも、片方の胸をはだけてひときわ華麗な衣装を身にまとった女性の像が目立っていた。

「これは何の彫刻なの?」

 ミケーレがわざとらしくウインクする。

「君だよ、美咲」

 どういうこと?

「美の女神ビーナス。ギリシア神話のアフロディーテだからね」

 つまらない冗談。

 ちょっとはときめいてしまったこともあったけど、さすがの私もイタリア人の会話には慣れてきた。

「そういうことって数撃てば当たると思っているでしょう」

「僕はいつも本気さ、君にはね」

 だから……、もう。

 言えば言うほど、どんどんチャラくなるじゃない。

 ミケーレはビーナス像の前に立って女神に手を当てた。

「女神像に誓うよ。僕は君に嘘は言わない」

 真剣なまなざしなのに、触ってるのは女神の胸じゃないの。

 ていうか、揉んでるでしょう。

 もう、わざとならサイテー。

 ビーナス像のすぐ横の扉を開けるとそこは寝室だった。

 一部屋が高級マンションのリビングルームくらいの広さで、猫足の浴槽のついたバスルームと、トイレは別になっている。

 ベッドも寝相の悪い二人でもぶつからなくてすみそうなほど大きい。

 なんだかプロレスのリングみたいだ。

 私一人だったら絶対に大の字になって飛び込んでいただろうな。

「シニョリーナ、リモンチェッロをお持ちしましたよ」

 パオラさんが黄色い液体の入ったボトルと小さなグラスを運んできてくれた。

「ああ、ちょうどいいね。ありがとう、パオラ。これはカプリの名物だよ。レモンのお酒だね」

 さっそくミケーレが三つのグラスにリモンチェッロを注ぐ。

 三つ?

 パオラさんが当然のようにグラスを一つ持ち上げて、サルーテと微笑んだ。

 サルーテ!

 乾杯!

 二人が一息であおっているので私も真似をしてみたけど、思わずむせてしまった。

 何これ。

 レモンの香りがとても爽やかだけど、喉が焼けそう。

 額に汗が浮かんできてしまった。

 おさえようとするとますます咳が出てしまう。

「あらあら、お嬢さんには強すぎたかね」とパオラさんが背中をさすってくれる。

「ごめんなさい。こんなに強いお酒だとは……、思わなか……ったから」

「いや、僕の方こそ、説明が足りなかったね。美咲は東洋人だから、お酒には弱いのかもしれないね」

 ベッドに腰掛けて呼吸を落ち着かせていると、外で音がした。

 ヘリコプターの音だ。

 建物の上を旋回しているらしい。

 私も立ち上がって三人で裏庭へ出た。

「美咲、すまない。僕はいったんサレルノへ行かなければならないんだ」

 どうやら彼を迎えに来たらしい。

「お仕事?」

 ミケーレがうなずく。

「本当にすまない。せっかく君と素敵な一夜を過ごしたかったんだけどね。今日は元々、外せない用事があったものでね。重要な契約なんだ」

 素敵な一夜という言葉をさらりと入れてくるところがほほえましい。

 本当はナポリからサレルノまで高速船で戻るつもりだったのを、私のためにわざわざ予定を変えてくれたのだろう。

 だから時間がなくなってヘリコプターまで呼ぶことになったらしい。

 いったいいくらの費用がかかっているんだろうか。

 請求書なんか回ってきたら目が回ってしまいそうだ。

 リモンチェッロで酔ったふりをして笑ってごまかすしかないだろうな。

「そんなに忙しい時に、私のためにここまでしてくれてこちらこそありがとう」

「僕は明日の夕方には戻れると思うから、一緒に夕食を楽しもう」

「ええ、楽しみにしてるわ。グラツィエ、ミケーレ」

 私は背伸びをして軽く頬にキスをした。

 ほんのちょっとしたお礼のつもりだった。

 ミケーレはそれ以上求めようとはしなかった。

 その代わり、私の頬を両手で優しく包み込んでじっと私の目を見つめた。

「イタリアの男には気をつけなくちゃだめだよ」

 ミケーレは裏庭から外へ出ていった。

 すぐ隣がヘリポートになっているようだ。

 私はパオラさんにたずねた。

「あれもミケーレの物なんですか?」

「ヘリポートは観光客も遊覧飛行に使う公共のものよ。ヘリコプターは彼の会社の物だけどね。自分で操縦もするわよ」

 それは怖いな。

 乗せてあげるよと言われても断ろう。

 いつのまにかすっかり日も傾いてきていて、夕焼けの光に包まれたカプリ島をヘリコプターが飛び立っていく。

 ガラスに光が反射して操縦席の様子は分からないけど、私は爆音と風圧に圧倒されながら彼を見送った。

 西側にあるヘリポートから東側へ向かって彼のヘリコプターが消えていく。

 海を隔てたソレント半島が真っ赤に燃えるように輝いていた。

 パオラさんは夕食の支度をすると言うので私はそのまま裏庭を散策することにした。

 海に向かってゆるく傾斜した裏庭はちょうど地中海のパノラマを楽しめるようになっている。

 漁船だろうか、小さな船がゆっくりと波を引いて通り過ぎていく。

 少しずつ空の色が濃くなっていく。

 ずいぶん久しぶりだ。

 空の色の変化を眺めるのは。

 東京でも、ふとした時に向かいのビルに反射した夕日に目を奪われたりすることはあった。

 でもそれはほんの一瞬の驚きで片付けられてしまって、ブラインドを下ろすきっかけになるだけだった。

 空の色って、こんなに表情豊かだったっけ。

 ずっと眺めていたくなるような空だ。

 それは私に向かって微笑みかけるミケーレのように感情豊かな風景だった。

 白い壁に囲まれた敷地から突き出るように、円形に組まれた石積みの台がある。

 展望台のようだった。

 芝生を迂回するように通路をたどってそこまで行ってみた。

 風に乗って何かが燃えるような香りが漂ってきた。

 ジュゼッペさんが海を眺めながらたばこを吸っているのだった。

 近づく私の姿に気がついて、たばこを足元に落として踏み消した。

 おじさんはそれを手元の箒とちりとりでさっと片付けた。

「これはローマ時代の砦の遺跡ですよ」

「そうなんですか」

 行き来する船を監視するために作られた見張り台なのだそうだ。

 大航海時代には砲台として使われていたらしい。

「きれいな景色ですね」

 パオラさんと比べるとジュゼッペさんは口数の少ない人だ。

 お互いにあまり得意でない英語で会話するので、ぎこちなさが気になってしまう。

「向こうがナポリ、あれがソレント」

 おじさんの指さす方を見て、うなずく。

 でも実際は、もう薄暗くなってきていて、なんとなくしか分からない。

「サレルノって、どの辺ですか?」

「サレルノはソレント半島の付け根にある街だよ。ここからは見えないね」

 ジュゼッペさんが砦の縁を指さしながら、位置関係を説明してくれる。

 ナポリ、ベスビオ火山、ソレントがナポリ湾をかたどるように弓なりに並んでいる。

 海に突き出たソレント半島の先端にカプリ島。

 ソレント半島の南側にポジターノやアマルフィといったリゾート地が連なり、その一番東の付け根の部分にミケーレがヘリコプターで向かったサレルノという街があるらしい。

 紺色の空に少しずつ星が輝きだしてきた。

 エンジョイと言い残してジュゼッペさんが箒とちりとりを持って展望台を下りていった。

 海を背にして、砦の石壁にもたれながら私はしばらくぼんやりとしていた。

 リモンチェッロで火照っていた体もだいぶ落ち着いてきた。

 視界の左側にはソラーロ山がそびえている。

 夕暮れの薄闇の中でも白い壁がぼんやりと浮かび上がっていて、なかなか存在感がある。

 私は今カプリにいる。

 改めてそんな実感がわいてきた。

 ナポリに着いた時はどうなることかと思ったけど、ミケーレに出会ってからは順調にいきすぎてこわいくらいだ。

 今日からここに滞在するわけだけど、いつまでいていいんだろうか。

 もともと一週間カプリ島に滞在して、その後でアマルフィにもう一週間、その後の予定はまだ決めていなかった。

 スマホがあればネットでホテルの予約はできるから、シチリア島でもミラノでも、気が向いたところに行ってみようと思っていたのだ。

 航空チケットだけは一ヶ月後にナポリからフランクフルト経由で帰国する旅程で確定していた。

 さっき車で通り過ぎたホテルはキャンセルしてしまったというのだから、一週間はいてもいいということなんだろうか。

 分からないことだらけで思考が同じところをぐるぐると回り始めた時、思わず笑ってしまった。

 どうして私はこんなところまで来て細かなスケジュールにこだわっているんだろう。

 ぼんやりするために来たのに。

 先のことなんか考えていたら東京にいるのと変わらない。

 次の就職先だって決まっていない。

 だけど、今はそう言うことを全部忘れて自分をリセットするためにここにいるんだ。

 そのためにあえて決めてこなかったのだから。

 遠慮も甘えもないと言っていた通り、ミケーレの好意を素直に受け止めればいいんだ。

 明日から好きなだけ何もしない日々を楽しめばいい。

 美しい空と海、そしてこのカプリの風景に染まる。

 そのためにここに来たのだから。

 染まりすぎて、日本に帰りたくなくなっちゃうかな。

 ……それはないか。

 いろんな物を置いてきたけど、捨てたわけじゃない。

 生活、仕事、人間関係、将来。

 この旅にもちゃんと終わりが来る。

 そうしたらまた新しい仕事を見つけて地に足をつけて生きていくんだ。

 いい仕事が見つかるといいな。

 ああ、またそんなことを気にしている。

 頭を空っぽにするって難しい。

 滝に打たれる修行僧みたいに空っぽにする練習からしなくちゃならないのかな。

 見上げた天空の薄闇に、絵筆で線を引いたように飛行機雲が伸びていく。

 海の向こうに沈んだ太陽が残した最後の光を反射してかすかに輝いている。

 建物の照明が淡く芝生を照らしている。

 私はいったん部屋に戻った。

 スマホを持ち上げるとメッセージが並んだ画面が一瞬光った。

 でも、私はその内容を確認しようとは思わなかった。

 羽田を飛び立つ前に、ローミングは設定しないで、機内モードにしてきた。

 ドイツの空港を経由した時にフリー無線でデータを受信したきりになっていた。

 遥香には無事にいるかどうか毎日連絡ちょうだいねと言われていた。

 でも、このお屋敷にはフリー無線がない。

 パオラさんに聞いてみればあるのかもしれないけど、つなげてしまうとよけいな情報まで流れてきそうなのがいやだった。

 日常のことを忘れるために来たんだから、スマホも地図のGPS機能くらいで充分だ。

 それなら無線通信は必要ない。

 万一の時だけデータ通信を使えばいい。

 でも、この平和な島ではその心配もないだろう。

 充電だけはしておいた方がいいかと、変換プラグをつないで壁のコンセントにさしておいた。

 部屋にはホテルみたいにミニバーがあって、冷蔵庫にはミネラルウォーターや氷も入っていた。

 私はガス入りの水をコップに注いだ。

 炭酸の泡が音を立てて激しくはじける。

 リモンチェッロで喉が渇いていたのか、少しくらい強めの刺激の方が心地よい。

 カプセル式のエスプレッソマシンもある。

 イタリア人も家庭ではこういう手軽な物を使うのかな。

 ミニバーのスツールに腰掛けて一口ずつ炭酸水を味わう。

 水の味なんていつも気にしたことはなかった。

 遠い異国まで来て一人になると、何もすることがない。

 水を飲むことに意味なんてない。

 でも、退屈がつまらないというわけでもない。

 まさに異国だからこそ、ふだんと同じことでも全く違う経験になるのだ。

 退屈のおかげで心がほぐれていく。

 でも、水を飲んだら本当に何もやることがなくなった。

 思わずまた一人で笑ってしまった。

 退屈すぎてあくびも出ない。

 一週間滞在する予定だったけど、これでは時間をもてあましてしまう。

 スマホで電子書籍でも読もうかと思ったけど、それにはデータ通信が必要になる。

 SNSでよけいな情報が流れてこないようにアプリを整理したり設定を変えるのも面倒で、けっきょくあきらめてしまった。

 部屋を出て回廊を歩く。

 足元に並んだ照明で彫刻がぼんやりと照らされていてちょっと不気味だ。

 リゾートホテル並みの大きさなのに、パオラさん夫妻以外、他に誰もいないらしい。

 ミケーレのお気に入りの女神像もなんだか寂しげだ。

 ときおり微風に乗って波の音が聞こえてくるだけだ。

 と思ったら、パオラさんの声が聞こえてきた。

 何度もノンとかマイとかわめいている。

 なんだろう。

 ジュゼッペさんとケンカでもしてるのかな。

 私は声のする方に行ってみた。

 そこは思ったよりも狭いキッチンだった。

 リゾートホテル並みの規模だからキッチンも大きいかと思ったのに、街の個人食堂くらいの設備なのだ。

 二人はお互いに背中を向けあって調理中だった。

 パオラさんは鍋をかき回し、ジュゼッペさんは果物を切っている。

「チャオ」

 何と声をかけていいのか分からなくて、いつでも使えそうな挨拶をしてみた。

「チャーオ、ミサキ。おなかすいた?」

 パオラさんが陽気に返してくれる。

 ジュゼッペさんはムスッとした表情のままだ。

「キッチン、小さいですね」

「ふだんは私たちしかいないから、使用人用のしか使ってないのよ」

「そうなんですか」

「これでもちゃんと石窯もあるからけっこう使えるのよ」

 ジュゼッペさんが無言のまま盛りつけた果物を運んでいく。

「すねてるのよ、いいエビが入らなかったから」

 パオラさんがこっそりと教えてくれた。

「おまえの料理にエビがなかったら一番のおもてなしができないだろうって」

 あれ?

 ケンカかと思ったら、のろけですか?

「ないものはないのって言ったら、あんななのよ」

 鍋の中のかたまり肉からいい香りが漂ってくる。

「それは何を作っているんですか」

「牛肉のワイン煮込みよ」

「何かお手伝いすることありますか」

「とんでもない。お客さんにやらせるなんて」

 パオラさんは両手を広げて肩をすくめてから、人差し指を立てた。

「味見してもらおうかしら」

 小皿にソースを少しだけよそってくれた。

 赤ワインベースでトマト味のソースはシンプルな味付けなのに、肉のうまみとまろやかな酸味のバランスが絶妙だ。

「おいしいですね」

「このワインはミケーレの会社のものなのよ。日本にも輸出してるんじゃなかったかしらね」

 へえ、そうなのか。

 パオラさんが顔を寄せてきて耳打ちする。

「バジルはうちのだんなが栽培してるものだから、あとでほめてやってね」

 お互いに笑い合ってしまった。

 食事はキッチンの隣の小部屋で三人で囲むことになった。

 庶民にはこの方が落ち着く。

 大ホールで一人だけ給仕されたら、味なんか分からないだろう。

 前菜のルッコラとバジルのサラダは新鮮でみずみずしい。

 牛肉のワイン煮込みもとても柔らかくてとろけるようなおいしさだった。

「バジルの香りがすばらしいですね」

 お世辞ではなく、自然に言葉が出てきてしまった。

 私の気持ちが伝わったのか、ジュゼッペおじさんは食卓では意外と饒舌だった。

「昔はこの島にも日本人がたくさん来たもんだよ」

「今はいないんですか」

「お嬢さんみたいに個人でやってきて何日も滞在する日本人は最近ではほとんど見かけなくなったね。とくに今はストライキのせいもあるけどな」

「来てみるとこんなに素晴らしいところなんですけどね」

「この島に来る日本人はみな団体ツアーばかりなんだよ。青の洞窟に入れなくてガッ

カリして帰っていくんだ。本当はわしらももっとこの島のことを見てもらいたいんだけどな」

 パオラさんもうなずく。

「この島には他にも良いところはいっぱいあるのにね」

「西の岬には灯台があるし、ソラーロ山なんか最高だよ。この世の天国さ」

「リフトで登れるんですか」

 ミケーレが話していたことをたずねてみた。

 おじさんは大げさに両手を振った。

「歩きでも一時間もかからないよ」

「でも、ものすごい断崖ですよね」

「ああ、マリーナ側から見るとそうだけど、こっちのアナカプリからはふつうの坂道だよ。そんなに険しくもない。ただ、日差しをさえぎる木陰がないから、帽子が必要だな」

「木が生えていないんですか」

「夏場は晴天続きで乾燥するから松の木がまばらに生えているくらいだね。その分、視界をさえぎる物はないから絶景を独り占めできるさ」

「そんなにすごい場所なのに、人がいないんですか?」

 パオラさんが笑う。

「地元の人間はわざわざ登らないもの。団体さんもバスでは登れないから、下から見上げるだけね」

 食後のデザートには、さっきジュゼッペさんが切っていたフルーツ盛り合わせと、ティラミスにカフェラテが出てきた。

「好きな物を食べてね」

「じゃあ、ティラミスを」

「日本人はみんなティラミスが好きよね。どうしてかしら」

 パオラさんに聞かれても、私にも分からない。

「イタリアのデザートと言えばそれしか知らないからじゃないですか。あとはジェラートくらいだと思います。あ、あとはパンナコッタ……」

 ジュゼッペさんがカフェラテに砂糖を入れながら言った。

「ミケーレが言ってたよ。日本にはあちこちにイタリア料理を出すファミレスというリストランテがあって、そこのティラミスが安いのに最高においしいって」

 そのファミレス、私もランチによく利用してました。

 でも、何と説明したらいいのか、ますます返事に困ってしまう。

 私が言葉を探していると、パオラさんが続けた。

「ティラミスは元々北の方のデザートで、カプリでは誰も知らなかったのよ。外国から来た観光客がやたらとティラミスが食べたいって言うものだから出すようになったのよ」

「え、そうなんですか」

「イタリア自体が南と北では全然文化が違うからね。今でもお互いに別の国だと主張する連中も多いし」

 ジュゼッペさんの言葉に、パオラさんがちらりと視線を向けてうつむいてしまった。

 おじさんもそれ以上、その話題を続けなかった。

 横を向いてリモコンを持ち上げると、テレビをつけた。

 スポーツニュースだ。

 パオラさんが顔をしかめる。

「あんた、お客さんがいるんだよ」

「いえ、どうぞ」

 私の方がご夫妻の食卓にお邪魔しているのだ。

 普段の習慣なのだろう。

 おじさんはうんざりしたような顔で、「ティ・アーモ」とつぶやいたきり、テレビの方を向いてしまった。

 ティ・アーモ……。

『愛してる』だっけ?

「ほんと、しょうがないね」とパオラさんがお皿を下げてキッチンへ行ってしまった。

 ジュゼッペさんがちらりとおばさんの背中を見送りながらささやく。

「イタリアの男はいい加減だけど、『ティ・アーモ』と言うときだけは嘘をつかない」

「へえ、そうなんですか」

「だって、イタリアの男は世界中の女を愛しているからね」

 ジュゼッペさんは真顔だ。

 え?

 これ、笑うところ?

 なによ、もう、ミケーレじゃあるまいし。

 ジュゼッペさんまで……。

 いくつになっても、やっぱりイタリアの男なんだ。

 と、その時、私は目を疑ってしまった。

 テレビにミケーレが出ていたのだ。

 イタリア語だから細かい内容は分からなかったけど、イタリアのサッカーチームが日本人サッカー選手の大里健介を獲得したというニュースだった。

「おお、決まったか。さすがミケーレだな」

 ジュゼッペさんは手をたたいて大喜びだ。

 どうやらこのニュースを見たくてテレビをつけていたらしい。

「この選手がどうしたんですか」

「ミケーレのチームに移籍が決まったんだよ」

 ミケーレのチーム。

 僕の船。

 僕のヘリ。

 僕のチーム。

 まるでおもちゃみたいにいろんな物を持ってるんだな。

 さすがにもう、驚くというよりはあきれるばかりだ。

 アナウンサーの言葉は分からなかったけど、テレビ画面に出てくる単語を見ていると、どうやらサレルノFCというチームがミケーレの所有するチームらしい。

 おそろいのユニフォームを着て二人が握手をしている映像が映った。

「この日本人の選手はすごい人なんですか」

「日本人なのにオオサトを知らないのか」とあきれられる。

 私はサッカーのことは全然分からない。

 遥香なんかはワールドカップの時にスポーツバーでフェイスペイントまでするくらいだけど、私は日本代表チームの選手ですら一人も知らない。

「日本代表で、前回のワールドカップの時に得点王争いに絡んでいたすごいやつさ。『日本の至宝』と呼ばれていて、スペインのマドリードからミケーレが獲得したんだよ」

 興奮気味のジュゼッペさんには申し訳ないけど、はあ、そうですかと適当な相づちしか返せない。

「もしかして、重要な契約って、これのことだったんですか」

「そうだよ。ここのところずっとこの契約の噂で持ちきりだったからね。ここの連中は仕事がなければ釣りかカルチョくらいしか楽しみがないからね」

 イタリア語でサッカーはカルチョって言うんだっけ。

「カプリに観光客が来るのは夏だろう。カルチョは秋から冬にかけてが本番で、優勝が決まるのが五月。仕事とカルチョの季節がちょうどうまく分かれてるってわけさ」

「じゃあ、この大里選手は今日移籍して、開幕戦から出場するっていうことになるんですか」

「どうだろうね。開幕戦は今週末だから、コンディションが間に合えば出るのかな」

 ええと、今日は何曜日だっけ?

 月曜日に羽田を出発して……、じゃなくて、離陸したときは日付が変わっていたから火曜日で、時差があって、結局、今は水曜日?

 あ、違う。

 日本は水曜日だけど、イタリアは火曜日か。

 会社だったら、寝ぼけてんじゃないよって怒られてたな。

 なんだか、少しの間に人生が変わりすぎてしまった。

 私が一人で苦笑していると、ジュゼッペさんが不思議そうな顔でこちらを見ていた。

「週末が楽しみですね」

「ああ、ミケーレがいい買い物をしてくれたからね」

 庶民の買い物とは大違いだ。

 サッカー選手まで買っちゃうなんて。

 食事を済ませて部屋に戻ってお風呂に入った。

 湯船につかる習慣がないのか、猫足の浴槽はおしゃれなわりに、意外とくつろげない。

 日本からシャンプー類を持ってきていたけど、用意されていた物を使ってみた。

 イタリア語しか書かれていない知らないブランドのボトルだ。

 ちょっと試してみると、調合されたハーブの香りがシャワーのお湯になじむ感じでいい具合だ。

 もしかしたらこれもミケーレの会社の製品なのかもしれない。

 ボディケア用品も肌に合うのか、洗い上がりがすべすべで肌に刺激もない。

 ドライヤーで髪を乾かしていると急に眠気がこみあげてきた。

 考えてみたら、窮屈な飛行機の中で寝ただけでここまで来てしまったのだった。

 そうだ、まだ大の字になってなかった。

 ベッドに背中からドサッと倒れ込む。

 なんか、起き上がる気力もなくなってしまった。

 次の瞬間、意識がもうろうとしてきて私は眠りに落ちていた。


   ◇


 夜中に一度だけ目が覚めた。

 一瞬、自分がどこにいるのか分からなくて焦ってしまった。

 大きなベッドの上で起き上がって、明かりのついたままの部屋を見回してようやく思い出した。

 改めて照明を消してベッドに潜り込む。

 今、日本は何時だろう。

 そもそもここは何時だろう。

 時間を気にしなくていいなんて、もしかしたら人生で初めてかもしれない。

 私は朝が弱い。

 それがずっと悩みだった。

 日本では朝が弱いと生きていけない。

 子供の頃の夏休みだってちゃんと起きないと親に怒られたし、社会人になったら目覚まし時計を三個置いても起きられなかった。

 ミケーレは今頃何をしているだろう。

 ……って、寝てるよね。

 一人、笑ってしまった。

 ふいに体が熱くなる。

 ベッドに三つ並べられた枕を一つ抱きしめた。

 ……あれ?

 私、なんで泣いてるんだろう。

 一人になってさびしいなんて、初めてのことだ。

 経験のない感情に襲われてまた意識がもうろうとしていく。

 次に目覚めたときは朝だった。

 肌の潤いがいつもと違う。

 髪の毛も寝癖一つついていない。

 なによりも気分がスッキリしていて、今すぐ走り出せそうなほど体が軽い。

 私はスキニージーンズとブラウスに着替えて裏庭に出てみた。

 正面には地中海、振り向けばソラーロ山。

 そして今日も青い空。

「チャオ、ミサキ」

 パオラおばさんがキッチンから顔を出して手を振ってくれる。

「おはようございます」

 つい日本語で返事をしてしまった。

 会社じゃないんだから。

「朝食よ」

「はい、今行きます」

 昨夜と同じキッチン横の小部屋にはジュゼッペさんもいた。

「ボンジョルノ」

「ボンジョルノ、ミサキ。コーヒーでいいかな。カフェラテ?」

「はい、ペルファボーレ」

 パオラさんがテーブルにパンと果物を並べてくれる。

 パンはクロワッサンだ。

「イタリアでもクロワッサンを食べるんですね」

 パオラさんが笑う。

「アナカプリのホテルから買ってきたのよ。おいしいでしょ。朝はいつもこれ」

 焼きたてらしくサクサクしていて、小麦の香りを感じるだけで活力が湧いてくるようだ。

「ミサキは午前中はどうする予定かな?」

 ジュゼッペさんに聞かれても、特に何もない。

「散歩でもしてこようかと思うんですけど」

 パオラさんが言った。

「ミケーレからスパと身の回りの支度を手配するように言われてるから、あまり遠くには行かないようにね」

 スパ?

「移動の疲れを癒してほしいって」

「ああ、そうですか。西の灯台は遠いですか」

「散歩にはちょうどいい距離だな。海沿いに遊歩道がある。きのうの砦跡から階段で下りられるよ」

 そう言ったジュゼッペさんが立ち上がってコーヒーをもう一杯取りにいった。

「ミケーレのことを聞いてもいいですか?」

「気になる?」

 パオラさんが顔を寄せてきて微笑む。

「何歳ですか」

「三十ね。独身よ」

 まだそこまで聞いてもいないのに、パオラさんはいろいろ話してくれた。

「私たちは三十年前にちょうどミケーレが生まれたときにここの管理人に雇われてね。それからずっとお仕えしてるのよ。彼はふだんはサレルノにいるんだけど、小さい頃は休暇になるとここに来てたものよ。彼は私たちの子供みたいなものよ」

「ここでパーティーなんかもするんですか」

「夏のシーズンにはいろんなお客さんを呼ぶこともあるわね」

「広いから大変でしょうね」

「地元の人たちを臨時で雇うのよ。若い人たちはみんな暇だから」

 ああ、だから地元の人たちはみんな知り合いみたいな感じなのか。

「ミケーレに兄弟はいるんですか?」

 パオラさんが一瞬、表情をこわばらせた。

 イタリアでは家族のことをたずねるのは立ち入ったことなんだろうか。

 するとコーヒーを持って戻ってきたジュゼッペさんが話を引き継いだ。

「ミケーレは大学時代に日本に行っていてね。十年前だな」

 家族の話かと思ったら、違う話だった。

「その時に、父と兄が爆弾テロの標的になって亡くなったんだよ」

 え?

 爆弾テロ?

 パオラさんが目頭を押さえている。

「真相は闇の中なんだが、いちおう過激派が犯行声明を出してね。『北部独立を妨げる南部の資本家を処刑した』なんてさ。でも、政治に深く関与していたわけじゃなかったから、金持ちへの無差別攻撃の犠牲になったと言われているよ」

 思いがけず重たい話になって、私も言葉が出てこなかった。

「それでミケーレは留学を中断してイタリアに戻ってきたわけさ」

 そうか、そういうことがあったのか。

「今はね、母親が財閥を引き継いで、実質的な経営はミケーレが見てるのよ」

 パオラさんがぽつぽつと話してくれた。

「ミケーレもいつテロに狙われるか分からないでしょう。いつもこの島にいてくれればいいんだけど、そういうわけにもいかなくて、心配なのよ」

「カプリにはマフィアはいないんですか」

 ジュゼッペさんが私の質問を鼻で笑う。

「イタリアでこわいのはマフィアじゃなくて過激派だよ。マフィアはイタリアそのものだけど、過激派はイタリアを破壊することに喜びを見いだす連中だからね。イタリアを二つに引き裂こうとしているのさ」

 だから昨夜パオラさんは南北対立の話が出た時にうつむいてしまったのか。

「この島の住民は全員知り合いだから、変なやつが上陸したらすぐに島中に知れわたる。だから安全だよ」

 爽やかな朝の日差しが差し込む部屋なのに、すっかり暗い気分になってしまった。

「朝っぱらからする話じゃないな」

 ジュゼッペさんが立ち上がってコーヒーを持ったまま出ていってしまった。

 パオラさんも両手を広げて首をかしげた。

「私たちはミケーレに幸せになってほしいのよ」

 あの笑顔の下に、そんな哀しみが隠れていたとは知らなかった。

 いくらお金があっても幸せは買えない。

 そんな当たり前のことがミケーレにも当てはまる。

 私が彼にしてあげられることは何かあるだろうか。

 日本に行ったときにおもてなしをしてくれと言われた。

 でも、重たい話に胸が押しつぶされそうで、ファミレスでティラミスをごちそうするくらいしか思いつかなかった。

 考え事をしていてもしょうがない。

 せっかくだから散歩に行ってみよう。

 部屋に戻って、日本から持ってきた日焼け止めを塗って準備した。

 帽子を持ってこなかったのは失敗だ。

 私は冷蔵庫からペットボトルの水を一本取り出して部屋を出た。

 裏庭ではジュゼッペさんが庭木の手入れをしていた。

「散歩に行ってきます」

「ああ、階段はそっちだよ」

 おじさんが見張り台の階段を一緒に降りて、遊歩道との境界にある門の鍵を開けてくれた。

 正面のナポリ湾の向こうにベスビオ火山が見える。

 エンジョイと言って、おじさんは階段を戻っていった。

 カプリ島は全体的に急峻な断崖に囲まれていて、昨日船が接岸したマリーナ・グランデと、その反対側にマリーナ・ピッコラという浜辺があるだけらしい。

 ジュゼッペさんが教えてくれた遊歩道というのも、その海沿いの断崖に刻み込まれた石段で、人が一人通れるくらいの幅しかない。

 真下は波の打ち寄せる海なのに、柵も手すりもついていない。

 日本とは全然考え方が違うようだ。

 高所恐怖症ではないので私は大丈夫だったけど、足がすくんで歩けなくなる人もいるんじゃないかと思った。

 岩壁に手を当てて、足下に気をつけながら歩く。

 夏の日差しは強いけど、心地よい風が吹いていて、やはり日本とは空気が違う。

 でも、やっぱり帽子は必要だ。

 あとで買いに行ってみようかな。

 遊覧飛行用のものなのか、岩壁の上にヘリコプターのしっぽが見える。

 ミケーレは夕方には帰ってくると言っていたけど、またヘリコプターで来るんだろうか。

 狭い石段を上り下りしながら断崖を巡る。

 誰かと鉢合わせしたらどうしようかと心配していたけど、観光客どころか地元の人も誰もいなかった。

 青い海、広がる空を独り占めだった。

 途中に少し突き出た岬があって、ミケーレの家の裏庭にあったような石積みの見張り台があった。

 狭い石段から広い場所に出た途端、膝に震えが来た。

 無意識のうちに緊張していたらしい。

 岬を回り込むように小型の遊覧船が通り過ぎていく。

 観光客が十人くらい乗っている。

 向こうが手を振るので私も手を振った。

 あの人達は上陸しないで次の目的地に行ってしまうんだろうか。

 なんだかもったいない気がする。

 波を引きながら船が去ってしまうと、また私は一人になった。

 南イタリアの絶景を見ているのは私一人だけだ。

 キミはさびしくないの?

 キミはこんなに素敵なのにね。

 私のためだけに待っていてくれたんだね。

 打ち寄せる波だけがゆったりと時を刻む。

 風景は哀しむこともなくただそこにある。

 美しかろうとどうだろうと、ただありのままにそこにいる。

 いつのまにか私は海の青さに染まり、広い空に溶け込んでいた。

 ここが私の居場所。

 しかるべき場所にパズルのピースがカチリとはまるように、最初からここに私の居場所があったような気がした。

 それは心の奥底に安らかな気持ちがわいてくるようなとても自然な気持ちだった。

 ミケーレのことを考える。

 私が彼にできることはなんだろうか。

 理不尽な運命に立ち向かう彼に、私ができることなんて何もない。

 理解してあげること。

 理解しようとすること。

 それはつまりありのままの彼を受け入れるということだ。

 私にそれができるだろうか。

 彼の持っている物は大きすぎる。

 私の想像のつかないものだ。

 このカプリの海と空よりも大きくて重たいものだ。

 私はそこに染まり、溶け込んでいけるのだろうか。

 ふっと笑みと共にため息が漏れた。

 私がそんなことを考えたところで、私と彼の間に何があるわけでもない。

 ただ偶然出会い、ただ少しの間家に泊めてもらっているだけの旅人だ。

 その親切な行為を好意と勘違いなどしてはいけないだろう。

 通りすがりの人間はただ過ぎ去っていけばいいだけだ。

 でも私は彼のことを考えるのをやめられなかった。

 きらめく青い海を見つめながら彼のことばかりを考えていた。

 彼の着ていたシャツの色が思い浮かぶ。

 ミケーレ……。

 全身を血が駆け巡る。

 鼓動が高まる。

 私は水を一口飲んだ。

 まるで彼が私の中に溶け込んでくるように染みわたる。

 体が震え出す。

 私はぎゅっと胸の前で手を交差させて自分を抱きしめた。

 私は彼を欲している。

 愛しているんだ。

 私は彼を求めているんだ。

 ミケーレ……。

 なんだかじっとしていられない。

 私は立ち上がって先の道へ歩き出した。

 心地よい風がソラーロ山から吹き下ろしてくる。

 日差しは強いけれども、不快ではない。

 また海に突き出した断崖が現れた。

 先端の高台に赤レンガの灯台がたっている。

 近くまで来てみると、灯台の下には広場があり、オレンジ色の小さなバスが二台止まっていた。

 運転手さんが岩に腰掛けてたばこを吸っている。

 二人とも私をチラリと見て、いったん目をそらす。

 でも、目の端では私のことを追っているようだった。

 ソラーロ山の裾野に松林が広がっている。

 木々の間を見覚えのある小さな車が下ってくる。

 ミケーレの車だ。

 広場に入ってきた車を運転していたのはジュゼッペさんだった。

 バスの運転手さんたちが驚いたような表情をしている。

「シニョリーナ、スパの支度ができましたよ。行きましょう」

 ああ、そういえば、そんなことを言われていたっけ。

 わざわざ迎えにきてくれたのか。

「グラツィエ、ジュゼッペさん」

 車に乗り込むとき、バスの運転手さんたちの視線を感じた。

「ここまでバスが来るんですね」

「ええ、でも観光客がいなくて彼らも暇なんでしょう」

 車は広場をぐるりと一周して松林の中の小道を上っていく。

 坂道を登り切ったところはアナカプリの街だった。

 ジュゼッペさんは車を脇道に入れる。

 スパはどこにあるお店なんだろうか。

 どこかのホテルの施設なのかもしれないか。

 ぼんやりと街の風景を眺めていると、昨日ミケーレと一緒に通った道に出た。

 車は白い壁に沿って進み、鉄柵の門の前に来た。

 自動的に門が開き、当然のようにジュゼッペさんは車を中に入れる。

「スパに行くんじゃないんですか?」

「そうだよ」

「どこにあるんですか」

「ここだよ」

 ここ?

 ミケーレの家なのに?

 ジュゼッペさんは正面の車寄せから少し奥へ車を進めて、ガラス屋根の温室のような建物の前で止まった。

 ジュゼッペさんが車を降りたので、私も自分でドアを開けて外に出ようとした。

 でもドアが開かない。

 開け方は昨日見ていたから分かるはずなのに、何か間違えているんだろうか。

「どうぞ、シニョリーナ」

 結局ジュゼッペさんが回り込んで開けてくれた。

「ごめんなさい。開け方が分からなくて」

 ジュゼッペさんが笑う。

「この車は助手席のドアが外からしか開かないんですよ」

「そうなんですか」

 おじさんが肩をすくめる。

「こわれてるものでね。イタリアの車だから」

 おじさんがガラス屋根の建物に招き入れてくれる。

 中は小型のプールと温浴施設がそろっていた。

「ボンジョルノ」

 白い服を着た女性達が数人待ち構えていて、にこやかに挨拶してくれる。

「ボ、ボンジョルノ……」

 事情が分からず困惑気味に挨拶を返すのが精一杯だった。

「じゃ、私はこれで」

 ジュゼッペさんが出ていってしまう。

 困っていると、女性の一人が私に近づいてきた。

「ドウゾ、コチラヘ」

 日本語だったけど、ミケーレほど流暢ではない。

「ニホンゴ、スコシワカリマス。ワタシハ、ジュリアデス」

「よろしく、ジュリアさん」

 まずは全部服を脱ぐように言われる。

 更衣室は?

 スタッフさんが見ている前で?

 スキニージーンズを脱いで、ブラウスのボタンを外す。

 スタッフさんが服を受け取ってハンガーに掛けてくれる。

 このまま下着も?

 スタッフさんは全員女性だから問題はないけど、バスタオルとかで隠さないのだろうか。

 ほんの一瞬ためらっていると、スタッフさんに後ろでブラのホックを外された。

 もう、しょうがないや。

 私は観念して全裸になった。

 上がってくださいと言われて、大理石でできた台に広げられたバスタオルにうつぶせになる。

 岩はガラス屋根から差し込む日差しに当たっていたせいか、思ったよりもほかほかと温かい。

 散歩の疲れがほぐれて眠ってしまいそうだ。

 その段階でようやくバスタオルを背中にかけられた。

 ジュリアさんが日本語と英語を交ぜて説明してくれる。

「まずはストレスを解き放つ全身マッサージ。カイロプラクティック。リンパを流すレッグ・インテンシブ・マッサージ。フルボディ・スクラブの後に肌のコンディションを整える海藻セラピー。むだ毛とうぶ毛の処理にフェイシャルマッサージ。そしてホットストーン・リフレクソロジーをおこなったあと、最後にハーブのジャグジーにつかっていただきます」

 ちょっとアクセントのずれた日本語だからと言うわけではないだろうけど、あまりにもいろいろなことを一度に説明されて頭に入ってこなかった。

 数人いるスタッフさんはそれぞれの分野の学位を持つ専門家だそうだ。

 もうすでにマッサージが始まっている。

 ナチュラル・ヒーリング成分を配合したアロマオイルが塗られて一瞬ひんやりとするものの、筋肉繊維を一本一本読み解くような丁寧なマッサージのおかげで、体がほかほかとしてくる。

 私はすぐに眠ってしまっていた。

 ときおり体を起こされて背骨や骨盤の矯正をされた時以外はほとんど何も覚えていない。

 完全にリラックスした状態の中で、いつのまにか施術が終わっていたらしい。

 呼ばれて目を覚まし、起き上がるとスタッフさんが掲げてくれた鏡の中に汗ばんだ私がいた。

 眉毛が整えられ、顔のつやも違うような気がする。

 頬に触ってみると、張りと滑らかさが自分ではないように思えた。

「さあ、ではジャグジーへどうぞ」

 ジュリアさんに導かれて大理石の台を下りる。

 全裸に気づいて急に恥ずかしさがこみ上げる。

 うつむくと下半身が目に入る。

 そちらもしっかりと処理されている。

 ああもう、逃げ出したい。

 ハーブの溶け込んだお湯の張ってあるジャグジーに体を入れると、泡が吹き出てきた。

 背中に当たる部分とふくらはぎに当たる部分は強弱のリズムがついている。

 側面からの吹き出しは強さや吹き出す場所が細かく変化するようになっていた。

 まるで泡の交響曲に包まれるようだ。

 私の自意識があっという間に吹き飛んでいた。

『あ』に濁点がつくような声で叫びたくなる。

 私は肌を滑らかに撫でていく泡をまといながら、ふと、施術中にいびきをかいたりしてなかったかなと不安になった。

 ジュリアさんたちはにこやかに談笑しながら道具を片付けている。

 つきあっていた人と別れ、社会人になって三年、女であることを忘れていたような気がする。

 もちろん、ほったらかしにしていたわけではない。

 自分へのご褒美としてたまにはお金を使ったこともある。

 だけど、こんなにリラックスできたのは生まれて初めてなんじゃないだろうか。

 むしろ、自分の中にこんなに活力があったことに驚いてしまった。

 自分は何もできない人間だと思っていたけど、すくなくとも、何かをする力を持っていることを実感する施術だった。

 ジャグジーを出てバスローブを羽織る。

 私だけに特別に配合されたハーブティーを飲みながらジュリアさんの説明を聞く。

「腰椎と骨盤にゆがみがありましたので矯正しておきました。仕事のストレスなど、心のゆがみが体をゆがませ、その体のゆがみがまた心に負担を与えます。そうやって人は自己回復力を失っていきます」

 そう言われてみれば、少し腰が立っているような気がする。

『腰が立つ』という言い方自体おかしなことだけれど、そうとしか言いようのない不思議な感覚だ。

 上半身をしっかりと支えているのに、とても軽いのだ。

 ジュリアさん達と入れ替わりに年上の男性が入ってきた。

 四十歳くらいだろうか。

 あごひげと口ひげを生やしている。

 流暢な英語で自己紹介してくれる。

「美容師のエンリコです。ミケーレも担当していますよ」

 早口で巻き舌だから聞き取りにくい。

「ミサキです。よろしく」

「日本人は髪質の良い人が多いけど、ミサキ、あなたは特にいいですね」

「そうですか」

「私はミラノのサロンにいましたが、日本人も最近は染めたり、ストレスが多いのか、ダメージヘアばかりですからね」

 エンリコはサラサラと流れるような手さばきでハサミを入れていく。

 サイドを梳いてやや軽くし、前髪は丁寧にそろえ、後ろを菱形のラインにまとめていく。

「東洋の女性を美しく見せるのに一番いいヘアスタイルですよ。軽めの色にしてもいいけど、ミサキの髪はすばらしいから、そのままの方がイタリアではもてますよ」

「グラツィエ、エンリコ」

 また入れ替わりに、今度は服が届けられた。

「コンニチハ、ルイーザです。カプリらしいワンピースをお届けに上がりました」

 あいさつだけは日本語で、他はイタリア語だ。

 何を言っているのかは正直よく分からない。

 とりあえずジェスチャーでやりとりしながら言われたとおりに着てみる。

 カプリらしい小さなレモン柄の散らばる白いノースリーブ・ワンピースにホワイトシルクのショートカーディガンを羽織る。

 ルイーザさんが帽子を差し出す。

 ホワイトコットンの広つば帽で、つばの部分にウェーブが施されている。

 よく見ると薄紫の細かなステッチで縁取られていてなかなか手が込んでいる。

 そして、サンダルはやや厚底のコルクソールで、クロスした琥珀色のラインテープでしっかりと甲をおさえるデザインになっていて、歩きやすそうだった。

 助手の人が青と白のタイルで縁取られた姿見をコロコロと引いてきて見せてくれる。

「レモンイエローの柄に葉っぱの緑がちょうどいいアクセントになってますね」

 片言の英語で言ったつもりだけど、ルイーザさんは肩をすくめながらうなずいている。

 どういう意味のジェスチャーなのかはよく分からない。

 でも、鏡の中の私は軽やかなリゾートファッションに身を包んだセレブモデルのようだった。

 パオラさんがやってきた。

「お昼の用意ができましたよ」

「はい、ありがとうございます」

 いたれりつくせりの施術プログラムだったので、もう二時を過ぎていた。

 少し遅めの昼食だ。

 ルイーザさんはパオラさんに早口なイタリア語で何か言っている。

 なんとなく、途中で『ミケーレ』と言っていたように聞こえた。

「チャオ、シニョリーナ」

 話が終わってルイーザさんが私に挨拶してくれる。

 思わず頭を下げて挨拶を返してしまった。

 どうしても日本的習慣が抜けない。

 ルイーザさんも頭を軽く下げて私に合わせてくれた。

 ルイーザさんが笑顔で退出していく。

 急に温室の中が静かになる。

「さっきミケーレの話をしていたんですか」

「ミケーレが惚れるのも当然ねって」

 もっといろいろなことを言っていたような気がするけど、まあ、まとめるとそういうことなんだろうか。

 でも、どこが『惚れる』要素なんだろうか。

「ミケーレは私のことが好きなんですか?」

 他に言い方が分からなかったのでストレートな英語で聞いてみた。

「当たり前ですよ、シニョリーナ。好きでもない女性を家に誘ったりはしないでしょう」

 それもそうか。

 そういう下心を持ったイタリア男に手玉に取られている私は軽い女なんだろうか。

 昨日、ミケーレが『イタリアの男には気をつけなくちゃだめだよ』と言っていた。

 それは彼自身にも当てはまることなんだろうか。

 さっきのスパにしても、料理の下ごしらえのようなものだろう。

『キミをよりおいしくいただくためのひと手間さ』

 ミケーレはそんなことを言うだろうか。

 言われたら、頬をはたいて『見損なわないで』なんて言えばいいんだろうか。

 なんだか顔が熱くなる。

 私自身、少しは期待しているからなんだろう。

 すばらしい景色、居心地の良い場所、いたれりつくせりのおもてなし。

 こんな快楽を与えてくれる人と出会えたことを感謝するべきなんだろう。

 私はそれを素直に受け止めればよいのだ。

 裏庭に面したテラスでパオラさんと一緒に昼食のパスタをいただく。

 ムール貝とアサリのパスタだ。

「ジュゼッペさんはどうしたんですか」

「先に食べて、昼寝してるわよ。おなかがすくと我慢できなくて機嫌が悪くなるのよ」

 思わず笑ってしまった。

 爽やかな微風が吹き抜けていく。

「ミサキもお昼寝したら?」

 それはさっき施術中にすませてしまった。

「せっかくだからソラーロ山にリフトで登ってみようかと思うんですけど」

「素敵な帽子が飛ばされないようにね」

 食後にエスプレッソをいれるというパオラさんに、ついでに部屋にあるカプセル式マシンの使い方を教えてもらった。

「カプセルを入れてスイッチをポンと押すだけ。簡単でしょう。イタリア人でも使えるんですからね」

 カプセル式なので香りの劣化もなく、きめ細やかなクレマもできている。

「便利ですね」

「ええ、ここらの家はみんなこれよ」

 簡単にできておいしいコーヒーをいただいてから、私はまた散歩に出かけた。

 そんなに大きな島ではないけど、まだまだ見所はたくさんある。

 サンダルがとてもよくできていて、ゆるい上り坂が続くわりに、足取りが軽い。

 かかとを支えているものがないのに、歩くと自然にコルクソールがくっついてくる。

 まるで特注のウォーキングシューズのように負担がなくて歩きやすい。

 アナカプリの街に出る。

 おしゃれなカフェや、地中海風のカラフルなお皿の並ぶお土産屋さんがあるかと思えば、店先にただ果物を並べただけのお店とか、おじさん達が暇そうに店先でタバコを吸ってワインを飲んでいる床屋さんもある。

 ガイドブックなどに載っているセレブなリゾートというイメージ写真ばかり見ていたから、けっこう庶民的な場所もあるので安心した。

「チャオ、ボンジョルノ」

 おじさん達が気さくに声をかけてくれる。

「あ、ボンジョルノ」

「ソラーロ山?」

「はい」

「その右の小道に入ったところだよ」

「グラツィエ」

 日本語とイタリア語の混ざった会話でもなんだか成立してしまうところが不思議だ。

 街自体が小さいせいか、教わったとおりに進むとすぐに広場に出た。

 古いスキー場にありそうな椅子型のリフトが気怠いうなり声を上げながら動いている。

 でも、お客さんは一人もいないようだ。

 チケット売り場にすら誰もいない。

 機械は動いているのに、お休みなんだろうか。

 私がうろうろしていると、口ひげを生やしたおじさんがどこからか現れた。

 もみあげがウニみたいだ。

 笑ってはいけないとは思うけど、見たことのないヘアスタイルで困ってしまう。

「シニョリーナ、ミケーレのお客さんかい?」

「あ、はい、そうです」

「どうぞ」

 え、チケット代は?

 おじさんはしきりに手招きしている。

 どうやらただでいいらしい。

 回ってきたリフトに座る。

「グラツィエ」

「プレーゴ。ボーシ」

 なぜか最後だけ日本語だった。

 私は帽子を左手で押さえながら、右手で椅子の手すりをつかんだ。

 ちょうど真正面に太陽があって、見上げるとまぶしい。

 緩い傾斜をのんびりと進んでいく。

 少しずつ右側にアナカプリの街が広がっていく。

 少し傾斜が急になってきて、松林の向こうにミケーレの別荘が現れた。

 上から見るとその広さに驚く。

 アナカプリの集落とあまり変わらないくらいの大きさだ。

 だいぶ上がってきたような感じだけど、まだ頂上ははるか先だ。

 足の下はけっこう高さがある。

 その瞬間、ゴトリと揺れる。

 かなり古そうな設備だけど、大丈夫なんだろうか。

 ジュゼッペさんの言葉を思い出す。

『こわれてるものでね、イタリアの車だから』

 車……、だけですよね?

 せっかく右の眼下に地中海の絶景が広がっているのに、ちょっとこわくて目をやることができない。

 朝歩いた海辺の断崖といい、高所恐怖症の人には向かない島だ。

 私は左側の山の斜面にまばらに生えている松の木を眺めながら早く頂上に着くように祈っていた。

 十五分くらいで頂上に到着した。

 私の姿を見て、係員の太ったおじさんがあわてて小屋から出てきた。

 久しぶりのお客さんで驚いたらしい。

「ボンジョルノ、シニョリーナ」

 手すりを上げてくれて、私はぽんと飛び降りた。

 展望台の方を指さすと、おじさんはまた小屋に入ってしまった。

 山頂には誰もいない。

 ジュゼッペさんが言っていたように、木が生えていないからパノラマの絶景を独り占めだ。

 日差しに焼かれてくたびれたような草を踏みしめながら展望台まで歩く。

 東側はソレント半島、西側は朝行ってきた灯台、すぐ足元は切り立った断崖で、はるか下を海鳥の群れが羽を広げて旋回している。

 雲一つない青空で、景色がくっきりと鮮やかな色で輝いている。

 日差しは強いけど帽子があるし、心地よい風が吹いていてそれほど暑くはない。

 思い切って来て良かった。

 この世にはこんな素敵な場所がある。

 もし、また何かつらいことがあったら、ここに来ればいいんだ。

 それを知っているだけでも生きていくのが楽になるような気がした。

 東のソレント半島はだいぶ奥の方まで見渡せる。

 それでもサレルノという街はかすんでいて見えそうにない。

 ミケーレはまだ仕事で忙しいのだろうか。

 ここに連れてきてくれてありがとう、ミケーレ。

 あなたに出会えなかったら私はこの場所を知らなかったかもしれない。

 彼のことを考えていると心が弾む。

 思いっきり叫びたい気持ちがこみあげてくる。

「ティ・アーモ! ミケーレ!」

 私ははるか水平線の彼方に向かって叫んだ。

 好き。

 私、あなたを愛してる。

 もちろん返事なんかない。

 でも、足元で草が揺れた。

 風?

 断崖から海鳥の鳴き声が上がってくる。

 帽子があおられて、私はあわてておさえた。

 次の瞬間、断崖から爆音と共に眼前に姿を現したのはヘリコプターだった。

 え!?

 ミケーレ!?

 操縦しているのは間違いなく彼だった。

 私の正面でホバリングして風をまき散らす。

 ワンピースの裾がまくれ上がる。

 帽子と裾のどちらも押さえなくてはならなくて私は身をかがめた。

 操縦席ではミケーレがにやけながら右手を挙げて私を見ている。

 かろうじて私は手を振り返した。

 瞬間、裾がまくれ上がって太股のあたりまで露出してしまう。

 ちょっと、もう、どうしたらいいのよ。

 爆音で会話はできない。

 ヘリコプターが向きを変えて少し距離を取る。

 彼は指で山の下の方を指している。

 下で会おうという意味なのだろう。

 私は親指を立てて右手を真上に挙げた。

 それを見た彼がヘリコプターを傾けてアナカプリの街へと降りていった。

 ようやく風が収まる。

 私はリフト乗り場まで戻った。

 太ったおじさんがあわてて小屋から出てきて、回ってきたリフトに私を乗せてくれる。

「グラツィエ」

「プレーゴ」

 そしておじさんは日本語で「ボーシね」とつけ加えた。

 よほど帽子を飛ばされる日本人がいたんだろうか。

 私は帽子を手で押さえながら、おじさんに日本語でお礼を言った。

「ありがとう」

「チャオ、シニョリーナ」

 下りのリフトは正面にアナカプリの街が広がっている。

 地中海の青と広い空に白い壁の建物が映える。

 左側にミケーレのヘリコプターが降下していくのが見える。

 上りの時は見下ろすのが怖かったけど、今は全然平気だ。

 早く下に行きたいせいか、上りの時よりもリフトが遅いような気がする。

 終点まで下ってきた時、私をリフトから降ろしてくれたのはミケーレだった。

 あの小さな車でヘリポートから広場まで先回りしていたのだ。

「チャオ、美咲。帰ってきたよ」

 両手を広げて笑顔を向ける彼に、私は淡々と返事をした。

「お帰りなさい」

 本当は抱きつきたい気持ちだった。

 でも、さっきのヘリコプターのエッチなイタズラのこともあったし、ちょっと無感情を装ってみた。

「どうしたんだい。ずっと会いたかったんだよ」

「そう?」

 ミケーレが車のドアを開けてくれる。

 助手席に乗り込んで私は自分でドアを閉めた。

 ちゃんと閉めたはずなのに半ドアになってしまったらしい。

 ミケーレが苦笑しながらもう一度ドアを開けて閉め直す。

 イタリアの車のせいで、私もつい笑ってしまった。

 運転席側に回り込んできた彼がエンジンをかけながら私の顔をのぞき込んだ。

 私はもう一度澄まし顔を取り戻して視線をそらした。

「本当にどうしたんだい。不機嫌じゃないか。君にそんな顔は似合わないよ」

 ああ、もう。

 無理。

 あなたの前では気持ちを隠すことなんてできない。

 私は彼に唇を軽く突き出した。

 まるで子供同士みたいなキスだった。

 驚いている彼に向かって私は言った。

「すごく、会いたかったからよ。待ちくたびれたの」

「ごめんよ、美咲。僕はここにいるよ」

 彼は私に手を回して抱き寄せながら車を発進させた。

 エンジンをうならせながらセカンドギアからのスタートだ。

「だって、君を抱いていたらギアチェンジできないだろ」

 車は加速と減速を繰り返しながらアナカプリの狭い路地を進んでいく。

 ガタゴトと揺れる狭い車の中で私は彼にもたれかかっていた。

 夢ではない。

 あなたのそばにいる。

 ここが私のいる場所。

 ティ・アーモ、ミケーレ。


   ◇


 ミケーレの邸宅まで帰ってきて、私たちは夕暮れの地中海を望む裏庭のテラスでコーヒーを飲んでいた。

 ミケーレはエスプレッソにビスコッティを浸しながらサレルノでの大里健介選手との契約のことを話してくれた。

「うちのチームは長年二部リーグだったんだけど、三年前から一部リーグに昇格してね。昨シーズンは上位争いに食い込んで欧州カップの出場権を得られるところまできたんだよ。それで大型補強も可能になったというわけさ」

「日本人の観客も増えるでしょうね」

「そうだね。ユニフォームなんかの売り上げも期待できるね」

 サッカー選手としての試合での活躍はもちろん、ビジネス投資としての効果も当然考えているのだろう。

「開幕戦は今度の週末なんでしょう? 大里選手も出場するの?」

「それを決めるのは監督だね。僕が口出しすることじゃないよ」

「ジュゼッペさんが期待してたけど」

「そりゃ、みんなそうだろうね。まあ、コンディションしだいさ」

 コーヒーを飲み干しながらミケーレが微笑む。

「美咲も開幕戦を見に来てよ。オーナーズルームに招待するよ」

「あなたも行くの、ミケーレ」

「もちろんだよ。試合を観戦しながらワインや食事も楽しめるよ」

 私の想像するスポーツ観戦とは世界が違うみたいだ。

 エスプレッソの染みこんだビスコッティが口の中で溶けていく。

 イタリアの飲み物や食べ物はどうしてこんなに官能的なんだろうか。

 ただおいしいだけでなく、官能を呼び起こす媚薬のようだ。

「美咲は、何をしていたんだい?」

 私は海辺を散歩したことを話した。

「ずっと考え事をしていたの」

「深刻なこと?」

 私は軽く首を振った。

「あなたのこと」

 ミケーレが指で頬をこする。

「海を見ながら、私があなたにできることをずっと考えていたの」

「ずっと僕のことを考えていてくれたんだね」

 私がうなずくと、彼が私を見つめた。

「僕も君のことを考えていたよ」

「契約のことで頭がいっぱいだったんじゃないの?」

「そんなことはないさ」

 彼が少し寂しそうな顔をした。

 ちょっと嫌味がきつすぎたかと、私も反省した。

 パオラさんが夕飯の支度ができたと呼びに来た。

 微妙な距離感を隔てたまま並んで歩く。

 今日の夕食は大ホールに用意されていた。

 ルネサンスのイタリア絵画に囲まれながら食事が始まる。

 ミケーレがワインを開ける。

「それはあなたの会社で作っているワインなんでしょう?」

 パオラさんに聞いていたことをたずねてみた。

「そうだよ。日本にも輸出しているんだ。知ってたかい?」

 私は首を振った。

「日本ではワインはあまり飲まなかったから」

「お酒に弱いから?」

「それもあるけど、日本ではワインはおしゃれなお酒で日常的に飲むものじゃないのよ」

「日本には素晴らしい日本酒があるからね。あと、『とりあえずビール!』だよね」

 思わず笑ってしまった。

 そうやって彼はいつも私との距離を縮めようとしてくれている。

 そんな彼に私は甘えているんだろう。

 そういう彼の優しさを感じる瞬間がとても愛おしい。

 でも、それを素直に伝える手段を私は知らない。

 それがとてももどかしかった。

 前菜は地元で捕れた魚の刺身だった。

 サラダのような感覚なのか、オリーブオイルに岩塩と胡椒で味がついている。

 刻んだルッコラがいいアクセントになっていた。

「昔は生で食べる習慣はなかったけど、最近は日本の寿司や刺身が知られるようになってきたから、こういう料理もめずらしくはなくなったんだよ」

 メインの前に石窯で焼いたマルゲリータが出てきた。

 船の中で食べたものよりもおいしい。

 メインの牛ヒレ肉のステーキを運んできたパオラさんに伝えると、「グラツィエ、シニョリーナ」と微笑みながら頭を下げていった。

 メイン料理が終わったところで、そんなに食べていないようなのに、けっこうお腹がいっぱいだった。

 デザートはピスタチオのジェラートだった。

 荒く砕いたナッツも混ざっていて、ピスタチオの味わいが濃厚だ。

「日本で食べるのと違う。とてもおいしい」

「それはなにより」

 あまりにも早くぺろりと平らげてしまった私のお皿を見ながらミケーレがパオラさんを呼んだ。

「ジェラートをもう一皿頼むよ」

 パオラさんは私の方を向いて、「シィ、シニョリーナ」とお皿を下げて戻っていった。

「彼女はとても喜んでいるよ」

「どうして?」

「君がなんでもおいしく食べてくれるからさ」

「だって、とてもおいしいんだもの」

 ミケーレはそれ以上何も言わずに、私のことを眺めながら微笑んでいる。

 二皿めもあっという間に食べてしまった。

 お皿を下げに来たパオラさんにたずねた。

「これはパオラさんの手作りですか?」

「ええ、そうですよ」

「今まで食べた中で一番おいしいジェラートです」

 おばさんは満面の笑みを浮かべている。

「朝昼晩、いつでも言ってくださればお出ししますからね」

 食後にまたエスプレッソをいただいてミケーレとの夕食が終わった。

 すっかり暗くなった裏庭の芝生を横切ってローマ遺跡の見張り台まで散歩する。

 昨日はなかったガーデンテーブルが置かれていて、淡い光を放つランプとよく冷えたシャンパンがのっている。

 ジュゼッペおじさんが用意してくれたのだろうか。

 ミケーレがボトルを持ち上げる。

「それもあなたの会社で作っているの?」

 彼が片目をつむる。

「フランスのシャンパンだよ。日本では『ドンペリ』だっけ?」

 柔らかい音と共に栓が抜かれ、グラスに注がれる金色の液体に優しい泡が立ち上る。

「二人の出会いに」

 彼がそっとグラスを触れあわせる。

 それはとても甘いキスのようで、澄んだ音が闇の中に溶け込んでいった。

 私たちは見張り台の石壁にもたれながら星空を見上げた。

 ミケーレが日本の思い出を話し始めた。

「美咲は秋田の角館に行ったことはあるかい?」

 私は軽く首を振った。

「僕は日本のいろいろなところで桜を見たけど、あれほど美しい桜は他にないと思ったよ」

 ミケーレが不思議なことを言い出した。

「あの桜を見たとき、僕はいつかとても大切な人に出会えるんじゃないかと思ったんだ」

 彼がグラスで顔を半分隠しながら私を見つめる。

「初めて日本の桜を見たとき、僕は一人だった。今度は君と二人で見てみたいよ」

 いつかそういう時が来るんだろうか。

「この世には美しいものがたくさんある」

 彼はもう一度私とグラスを触れあわせた。

「でも、君が一番だよ」

「桜じゃないの?」

「君と一緒にいればもっと世界が輝いて見えるんだ。君は世界を幸せにする香辛料なんだ」

 イタリアの男の甘い言葉にもだいぶ慣れてきた。

 私はただ黙って星空を見上げていた。

「どうしたんだい、美咲」

 え?

「なんだか僕に興味がないみたいじゃないか」

「そんなことはないわよ。ただ……」

「ただ、何?」

「何が本当なのかが分からなくて」

 ミケーレが私に顔を近づけてささやく。

「僕は君に嘘を言ったことはないよ」

「ごめんなさい。そうじゃなくて。ふだん、あまりそういう甘い言葉を言われ慣れてないから」

「僕がイタリア人だからかい?」

 そういうことなんだろうか。

「チャラ男のチョイ悪オヤジだと思うのかい?」

 さすがにそんなふうにはもう思ってはいない。

「最初はそう思っていたけど」

「じゃあ、今は?」

 私は答えられなかった。

 私はあなたを……。

 先に言葉をつないだのは彼の方だった。

「君は僕の女神。君は僕のヴィーナスだ」

 私は視線を合わせることができなかった。

「君は僕のアフロディーテ。そして……」

 そして……?

「ティ・アーモ」

 彼が私の耳たぶに口づけた。

「僕は君を愛している」

 私はうつむいたままうなずいた。

 私も、あなたを愛している。

 でもそれを言葉にすることはできなかった。

 本当にそれを口にしてしまったら、この夢から覚めてしまうのではないかと不安だった。

「美咲」

 彼が私を抱き寄せる。

「これでもまだ信じてもらえないのかい?」

「違うのよ。世界が違いすぎて」

「世界は一つだよ。だから僕らも会えたんじゃないか。どうして君はありのままの僕を見てくれないんだい?」

「ありのままのあなたがすごすぎるからでしょうよ」

 分かってはいたことだけど、やはりため息が出てしまう。

「持っている物が違いすぎるのよ。私は普通の人間で、クルーザーも、ヘリコプターも別荘も持ってないもの」

「僕だって普通の人だよ。宇宙人でも異世界人でもない」

 私はただの会社員で、あなたは……。

 そう言おうとした時、私は思わず言葉を飲み込んだ。

 資本家と労働者。

 それはつまり、ミケーレの家族が過激派に殺された原因の一つではないか。

 危うくそれを口にしそうになってしまった。

 ミケーレを傷つけたくはない。

 言うべき言葉を見つけられなくて、私は口を開いたまま固まってしまった。

「……魔法にかけられているみたいで」

 やっと出てきた言葉は自分で聞いていても恥ずかしいセリフだった。

 ミケーレが微笑む。

「違うよ」

 違う?

「君だよ。君が僕に魔法をかけたんだ。だから僕は無敵だ。君のためならなんだってできるよ」

「お金で買えるから?」

「お金で買える物はもうなんでも持っているよ。日本の至宝、大里健介だって僕が買った」

 ならば、私が彼に与えられる物など、もう何もないんじゃないんだろうか。

 私は彼を真っ直ぐに見つめた。

「私があなたに与えられる物があるなら教えて欲しい」

「君の存在そのものだよ」

 彼の唇が重なる。

 私も彼を求めていた。

 彼に抗うすべを知らなかった。

 置かれた境遇の違い以外に彼を拒む理由はない。

 夢であるなら見ていればいい。

 出会いは偶然。

 必然とするのは運命。

 ならば私はそれに身を委ねればいいのだ。

 気がつくといつのまにか私は彼に抱き上げられていた。

 思わず彼の首に腕を回す。

「日本ではこれを『お姫様抱っこ』と呼ぶんだろう。マイ・プリンセス」

 ミケーレが見張り台の石段を下りて芝生の上を歩く。

 私は彼と目を合わせることができずに星空を眺めていた。

 私の部屋まできて、彼は私を膝の上に乗せながらベッドの上に腰掛けた。

 一瞬目が合っただけで耳が熱くなる。

 そんな私の様子を彼は愛おしそうに眺めている。

 そんな彼の視線から逃れるために胸にもたれかかろうとすると、彼はそのままベッドに倒れ込んだ。

 それからのことは覚えていない。

 何が起きているのか分からなかった。

 意識も感覚もみな吹き飛んで私の心は真っ白だった。

 握りしめたシーツのように純白で、彼はそれを自分の色に染めていくのを楽しんでいた。

 私はそんな彼の全てを受け止め、何度も求め合い……。

 人生で一番濃密な一夜を過ごし……。

 ……そして、朝を迎えていた。

 広いベッドの上に起き上がると、二人の服が重なり合って散乱していた。

 鈍い空の色がしだいに青みがかっていく。

 南側に面した窓の外には、先取りした朝焼けに赤く染まるソラーロ山がそびえている。

 まるで燃え上がる彼の情熱のようだ。

 柔らかい光に包まれた部屋の中で、私はかたわらで満足そうな寝息をたてているミケーレの髪をそっと撫でていた。

 私は幸せだった。

 幸せをこの手につかむことなんてできないと思っていた。

 それは空気のように儚く、霧のようにぼんやりしているものだと思っていた。

 でも違う。

 今私は幸せを知っている。

 この手にしっかりと触れることができる。

 心の底から叫びたいほど私は幸せだ。

 グラツィエ、ミケーレ。

 ティ・アーモ。

 私のミケーレ。

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