地中海の風に抱かれて 地味子の私がイタリア大富豪に見初められちゃいました
犬上義彦
第1章 イタリアでの出会い
一人旅は初めてだった。
まして海外なんて無謀だと言われた。
「あのさ、ヤケになってるのかも知れないけど、考え直したら? 団体ツアーで一週間とかなら分かるけど、美咲一人で一ヶ月って、無茶だって」
大学以来の友人遥香にまで止められたけど、でも、私はどうしても行ってみたかったのだ。
青く澄んだ空の下に広がる地中海の風景が見たくて……。
大学を卒業後に新卒で入社した会社を、先週退職した。
三年間勤めたけど、心身共に疲れてしまって、最近では蕁麻疹まで出てしまっていた。
嫌だったことはいろいろある。
通勤電車に慣れることができなかった。
幸い、痴漢の被害にあったことはない。
でも、息苦しいし、誰かに触られるのではないかと常に警戒してしまう感覚が嫌だった。
べつに潔癖性というわけではない。
ぬるりとする吊革につかまったり、誰が使ったか分からない公衆トイレの便座に腰掛けるのも全然平気だ。
ただやっぱり、あの狭い空間に詰め込まれて身動きが取れなくなると、背中のあたりから毛虫が這い上がってくるようなむずむずとした感触がわき起こってきて、片道約一時間、叫び出さないようにするのに必死だった。
もちろん、それが異常だという自覚はあった。
でも、どうしても消えることのない錯覚に悩まされながら通勤を続けていくのも限界だった。
職場の環境にも問題はあった。
私はシンプルなライフスタイルを提案する企業の雑貨が好きで、とくにナチュラル素材のボディケア用品を愛用していた。
念願かなってその企業に就職したときは遥香にもうらやましがられた。
「美咲って、やっぱり運がいいよね。うちらみたいな格下大学であんな有名企業に決まるなんてさ。勝ち組だよ、もう。まぶしくて拝ませてもらうしかないよ」
そんな遥香は遥香で、地元の市役所に今時正規職員で採用されたものだから、私以上にみんなにうらやましがられていた。
私の社会人生活だって、期待していたものとはほど遠かった。
配属先は総務部で、製品の企画どころか、商品に触れることすらない部署だった。
一部上場企業なのでコンプライアンスにはうるさかったから、いわゆるブラックということはなかったけど、出身大学の学閥だの、出世争いの派閥、複雑な男女関係なんかで、誰かと話をするときは常に背中に刺さる視線を気にしなければならないような雰囲気だった。
「さっき青山さんに呼ばれてたけど、なんだったの?」
「いえべつに。見積書のことで聞かれただけです」
「あら、そうなの。ならいいけど」
どうでもいいような会話にいちいちトゲが含まれていて、一日が終わって会社を出た瞬間、心臓がずきずきし始めることもあった。
決定的だったのは、四月からの新しい配属先だった。
私はもちろん入社以来ずっとボディケア部門への配属を希望していた。
三年間あたえられた職務をこなしながら待っていたのに、新しい配属先は食品部門だった。
前任者の中島さんは、シンプルなクラッカーにこれまた普通のジャムをはさんだだけのあまりにもシンプルなジャムクラッカーが大ヒットして、テレビの取材などにも応じて忙しそうだった。
「イチゴ味とレモン味、これにもう一つ、新しい味を加えるのが神楽さん、あなたの仕事だからね。三本柱で売上倍増!」
中島さんの個人的趣味で始めた企画を任されて、私は途方に暮れてしまった。
まったく興味のない分野だったし、中島さんは次の企画、『ご飯にかけるレトルトシチューシリーズ』の開発に夢中で全然相談に乗ってもらえなかった。
仕事から帰ってきてお風呂にゆっくり浸かっていても、あんなに愛用していたボディケア用品を見ると、急に貧血を起こしたようなめまいを感じるようになってしまっていた。
会社なんてそんなものだということくらい分かっている。
私だってそんなに子供じゃない。
でも、このまま続けていたら自分がどうなってしまうか分からない。
私は生まれて初めて決断をした。
大学も会社も、親とか友達に認めてもらいたくて頑張って決めてきた。
今思えば、自分の本当の気持ちとは違っていたのに、まわりの評価ばかりを気にしていたから、それに気づかなかったのだろう。
順風満帆にレールに乗ったままだと気づかないこと。
それだって、いつもの電車を一つやり過ごすだけでいい。
目の前で発車したばかりのあの電車の中にいた、苦痛の表情を浮かべる人たちが昨日までの私だったのだ。
それに気づいてしまったら、あとは迷う必要なんてないじゃない。
心も体も悲鳴を上げていて、私は自分に素直になろうと思った。
レールから外れてみれば、電車は勝手に去っていく。
でも、別の電車を待てばいいだけだ。
それが来なくても、歩けばいい。
電車の中の人は線路沿いを歩く人を笑うだろうか。
関係ないんだ、お互い。
なんで今までしがみついていたんだろう。
八月のお盆休み明けに旅立つために準備を始めた。
実家暮らしだったおかげで貯金はあった。
反対されて揉めるのがいやだったので親には相談しなかった。
まず最初に、イタリア行きの航空チケットを購入した。
ネットでやってみたら、意外と簡単に手続きできたし、ホテル予約も日本語で全部完了できた。
パスポートは持っていた。
大学を卒業するとき、遥香とロンドンに行ったことがある。
プランは全部遥香が考えて、遥香が率先して行動した。
「美咲はさ、ぼんやりしてるから気をつけなよ。あのね、『地球の迷い方』なんてコテコテのガイドブックなんか持ってたら、日本人だってバレバレじゃない。私は日本からネギしょってきたカモですって宣言してるようなもんだよ。そういうのがつけいる隙なんだからね」
だけど、べつに危ない目にあったわけでもなかったし、道に迷って遥香があわてていたときにも現地のお兄さんが「日本から来たのかい?」と、親切にナショナルギャラリーまで案内してくれた。
入場料がただなのに観客が少なくて、フェルメールの名作を私たちだけで独占できたのはいい思い出だ。
三年前に作ったきり、出番のなかったパスポート。
ホログラムに封印された写真の私は今とは違う表情をしている。
私って、こんなにぼんやりした顔してたっけ?
今度は私一人で行くんだ。
期間は一ヶ月。
次の就職先を決めるのはそれからでいい。
勝ち組人生なのにもったいないとか、わがままだと言われようと、馬鹿だって笑われようと、私には関係ない。
私の人生は私のものだから。
体が嫌がっていたんだ。
心が泣いていたんだ。
ごめんね、私。
さあ、羽を伸ばしに行こう。
澄んだ空の下に青い海の広がる南イタリアの街へ。
青の洞窟のカプリ島。
世界遺産の街アマルフィ。
絶景に飛び込んで、身も心も解き放つ。
そして私は生まれ変わるんだ。
すべての準備が整った時、会社に辞表を提出した。
引き留められることもなく、たまっていた有休の消化で退職日も早まった。
私が決めれば、私の思うように世の中は動いていく。
さようなら。
短い間でしたが、ありがとうございました。
八月下旬、日付の変わった深夜の羽田空港を飛び立ったとき、窓の下に夜景が広がっていた。
宝石をちりばめたような、なんて陳腐な言葉しか思い浮かばなかった。
あの中の一つでも、私の心に残っていたなら……。
ううん、違う。
もう、いいじゃない。
頑張ったんだよ、私。
真っ暗な東京湾を旋回しながら上昇していく飛行機の中で、薄い雲にまぎれて消えていく東京の街を見下ろしながら、私はそっと涙を拭いていた。
◇
大学の頃、つきあっていた人はいた。
同じ大学の同級生だ。
穏やかで優しくて、どちらかといえば見た目もよかった。
好きだったかと言われればもちろん好きだったし、一緒にいて楽しかったのも事実だ。
でも、就職先が決まったとき、彼はなぜか私と距離を置き始めて自然消滅してしまった。
「釣り合わないから」
遥香を通して伝え聞いた言葉はそれだけだった。
それ以来、恋人と呼べるような人はいない。
ただ、今思うと、あれすらも恋と呼べるものではなかったんじゃないかという気がする。
同級生に声をかけられてつきあい始め、一通りの経験を済ませ、世の中の流行にあわせたデートスポットをめぐってSNSでいいねをもらう。
それを恋愛というなら、それ以外のなにものでもなかったはずだ。
でも、心が躍ることは一度もなかった。
バレンタインにチョコを選んでも、クリスマスにプレゼントをもらっても、ときめくということはなかった。
だから、お互いの就職活動が忙しくなって会う回数が減っても、毎日やりとりしていたメッセージが来なくなっても、私の方から何かしようとは思わなくなっていたのだ。
なんでもそうだ。
本当に自分がそうしたかったのか。
本当に自分がそれを好きだったのか。
それすらも考えないで生きてきたのかもしれない。
目の前に五円玉をぶら下げられたとしても、絶対に催眠術になんかかからないと人は笑う。
でも、自分の生活、自分の人生そのものが催眠術にかかっているとしたら、もしかしたら、かかったままの方が幸せなのかもしれない。
その呪縛から解き放たれてしまうと、かえって人は混乱してしまう。
そんな嫌な夢から覚めたとき、私はフランクフルトの空港に降り立っていた。
そこから別の飛行機に乗り換えて南イタリアのナポリへ向かう。
乗り継ぎの時間は十分にあったから長い入管審査の列にも焦らなくて済んだし、ワン・マンス、サイトシーイングとか用意していた片言の英語すら必要なくて拍子抜けしてしまった。
英語は学校で習った程度は分かるけど、なかなか単語が出てこなくてあまりしゃべれない。
知っているイタリア語はガイドブックで見たボンジョルノ、グラツィエ、チャオ、アリベデルチくらいだ。
アミーゴ?
アモーレ?
……ってなんだっけ?
そもそもイタリア語?
スペイン語のような気もする。
その程度しか知らない。
でも、なんとかなるだろう。
乗り継ぎ便は三時間ほどで無事にナポリに到着した。
空港ターミナルビルを出て市内行きのリムジンバスに乗る。
第一印象はゴミの匂いだ。
生ゴミの匂いが風に乗って流れてくる。
バスの車窓から見るナポリの街はゴミだらけで、生活ゴミが回収されずにあちこちに山積みになっていた。
バスはナポリ中央駅の広場手前で渋滞にはまってしまって、あきらめた運転手さんが「ここから歩いてくれ」と私たち乗客を放り出した。
巨大なマクドナルドのある駅前広場から、カプリ島行きのフェリーが出る港までは結構歩かなければならない。
普通はタクシーを使うところらしいけど、私は街を歩いてみたかった。
イタリアにはスリやマフィアが多いなんて脅かされていたけど、ゴミと犬の糞と渋滞でまったく動かない車が街にあふれていて、小型のスーツケースを転がしながら歩くのも大変で、よけいな心配どころではなかった。
割り込みだらけのカオスの真ん中なのに、私が道を渡ろうとするとどの車も必ず止まってくれた。
嫌な顔一つせず待ってくれて、ちゃんと渡り終わったところで発進していく。
乱暴な運転のようでいて、慣れてくると歩行者は日本より歩きやすいことに気がついた。
落書きだらけのアパートの並ぶ区画を抜けると、急に前が開けた。
海だ。
弓なりのナポリ湾の向こうにベスビオ火山がくっきりと見える。
海沿いの大通りを渡って近くに行ってみると、濁った海にはゴミが浮かび、波打ち際にはカラスが群がっていた。
思っていたのとだいぶ違うけど、空が青いから、まあいいか。
工業地帯のような潮の匂いに鼻をくすぐられながら大通りを少し歩くと船着き場に出た。
何隻かのフェリーが接岸しているけど、どれがカプリ行きなのかは分からない。
そもそも、チケット売り場はどこなんだろう。
私は周囲の暇そうなおじさんに「チケット?」とたずねてみた。
でも、おじさんたちはみな両手を広げながら肩をすくめて「ノー」と言うばかりだ。
売り切れ?
でも、全然お客さんらしい人もいないし、混雑していないけど。
しばらく周辺を歩き回ってみると、プレハブ小屋の並んでいるところがチケット売り場のようだった。
どうして人がいないんだろう。
窓口に紙が貼られている。
なんとなく英語っぽい単語をローマ字読みすると、どうやらストライキで欠航と書かれているようだった。
ちょっと、どういうこと?
ここまできて、どうすればいいのよ。
今日の宿はカプリ島のホテルを予約してあるのに、もし島に渡れないんだったら、私はどうしたらいいのよ。
地元のおじさん達は暇なのか、私のまわりにふらふらとやってきてはみな同じように両手を広げながら肩をすくめて、「パツィエンツァ」と言い残して申し訳なさそうに去っていく。
パツィエンツァ?
頭の中にローマ字が思い浮かぶ。
patient?
あ、忍耐ってこと?
耐えるしかない、仕方がないってことか。
いや、それは分かるけど。
私はカプリ島に行きたいのよ。
通りがかりの太ったおじさんに「カプリ!」と叫んでみても天を仰ぐばかりだ。
そのときだった。
「ニッポーンノカタデスカ?」
巻き舌訛りの混ざった日本語が聞こえてきた。
振り向くとそこには私よりも少し年上くらいのイタリア人男性が立っていた。
さっきまでのおじさんたちとはちがって背が高く、ウェーブがかった色の濃い髪の毛がきちんと整えられていて、くっきりとした目鼻立ちの男の人だった。
イタリアの青空で染めたようなシャツが似合っている。
茶色い瞳のまなざしがまっすぐに私に向けられている。
にこやかな微笑みのまま私に歩み寄ってくる。
私はとっさに身構えてしまった。
一人旅の日本人女性なんて、イタリア人にしてみたらカモをしょってきたネギ……じゃなくて、あれ、どっちだっけ?
動揺している間に間合いを詰められてしまった。
「カプリへ行きたいんですか?」
「あ、ええ、はい」
イタリア人男性に日本語で話しかけられたせいで、なんだか調子が狂ってしまう。
それほどの歳ではなさそうだけど、テレビに出てくるチャラいチョイ悪オヤジに見えてしまう。
「ははは、チョイ悪オヤジに見えますか?」
図星過ぎて鼻に汗が浮かんできてしまった。
「僕はミケーレ・ドナリエロ。日本に留学したことがありまして、会話ならできます」
「あ、そうなんですか」
それでも私はまだ警戒を解いたわけではなかった。
観光客を引っかけるために日本語を覚えただけかもしれないのだ。
「日本のどこの大学にいたんですか?」
「留学といっても、大学ではなく、日本語を習ったり、個人的に日本文化を学んだ程度です。でも、京都や奈良にも行きましたし、一番印象に残っているのは秋田県のカクノダテですね。武家屋敷に枝垂れ桜が幻想的でした。ニュートー温泉は最高です。また行ってみたいですね」
秋田県の角館とか乳頭温泉なんて私も行ったことがない。
いくら詐欺師でも、そこまで細かい設定なんて思いつかないんじゃないだろうか。
そんな話をするくらいだからたぶん本当なんだろう。
彼は海の方を向きながら大げさに手を広げた。
「カプリ行きのフェリーはストライキで欠航になっています。イタリアではめずらしいことではないんですよ。すみません」
「いえ、べつにミケーレさんが悪いわけじゃないですし」
私はまだ自分が名乗っていなかったことに気がついた。
「あ、あの、私、カグラミサキと言います」
「カグラ?」
ミケーレは軽く首を傾げながら私に微笑みを向けた。
「それって、もしかして、神の音楽と書く『神楽』ですか?」
「はい、そうです。そんなことまで知っているんですね」
「とても素敵な名前ですね。あなたにふさわしい名前だ」
ミケーレは私のスーツケースの引き手を握ると歩き出した。
「どこに行くんですか?」
私はあわてて彼の後を追いかけた。
名前をほめられたとき、つい油断してしまった。
でも、あんな微笑み、見たことがない。
やっぱりイタリア人なんだなと思った。
日本人がやったら絶対チャラくて様にならない。
私はもう一度彼の背中にたずねた。
「ねえ、どこに行くんですか?」
「カプリですよ」
「どうやって?」
「僕の船で」
ボクノフネ?
急に、高校の頃に覚えさせられた原子記号の周期表を思い出してしまった。
スイヘーリーベーボクノフネ。
スイが水素で、ヘーが……。
そんなことはおいといて。
「僕の船って、なんですか?」
「あれ、日本語は間違ってないはずだけど。僕の船ですよ」
そう言いながらも彼はどんどん港の船を横目に歩いていってしまう。
なんだろう。
漁師さんとかなのかな?
でも、そんな風には見えない。
肌が白くてあんまり外で働いているようには思えないし、どちらかといえばモデルでもやっていそうな体型だ。
もしかしたら、カプリ島まで連れていくかわりに、ものすごい料金をふっかけてくるとか?
「あの、私、そんなにお金持ってないんですけど」
「大丈夫だよ」
ミケーレが立ち止まって振り向く。
「キミのカラダで払ってもらうから」
不思議と不安ではなかった。
彼がウインクしていたからだ。
「それはイタリアンジョークですか?」
「そうだよ。おもしろいだろ」
全然おもしろくない。
でも、青い空に向かって大きな声でハハハとわざとらしい演技をする彼を見ていると、私もつい笑ってしまった。
「これが僕の船だよ。笑顔の素敵なシニョリーナ」
彼の指さす方を見たとき、もういいかげんにして、と叫びそうになってしまった。
いくらイタリアンジョークでも、ひどすぎる。
私たちの目の前にあるのは、さっき船着き場に停泊していたフェリーほどもある巨大なクルーザーだったのだ。
なによ、もう、なんのイタズラなのよ。
私はほんの少しでも気を許したことを後悔していた。
何が僕の船よ。
水兵にでもなって出直してきなさいよ。
ヤマトナデシコを馬鹿にしないで。
でも、ミケーレはさっさと荷物を持ってタラップを上がってしまった。
ああ、そうか。
この船の船員さんってことね。
僕が働いている船っていう日本語を知らなかったのかな。
それなら、べつに遠慮することもないか。
ぼったくりでもなさそうだし。
クルーザーの甲板には白い制服を着た、いかにも航海士らしい人がいた。
ミケーレと打ち合わせをしているらしい。
「かしこまりました。では、さっそく手配いたします」
背筋をまっすぐに伸ばしてミケーレに敬礼すると、航海士さんは操舵室に向かって去っていく。
「すぐに出航するよ。キャビンでくつろいでいてよ」
彼に案内された船室は、テレビや映画で見たようなホテルのスイートルームばりの部屋で、正面の壁一面がディスプレイになっている。
「映画でも見るかい? 日本のアニメもあるよ」
「いえ、海を見ていた方が船酔いしなくていいかも」
「ああ、それなら心配ないよ。この船はそんなに揺れないからね」
彼の言葉通りだった。
気づかないうちに船は動き出していて、もう港を出るところだった。
防波堤の区域を抜けると、船は速度を増して、急に風景が流れ出す。
それでも船はほとんど揺れない。
制服姿の若い男性がコーヒーをトレイにのせて持ってきてくれた。
ミケーレがたずねた。
「エスプレッソでよかったかな」
「あ、はい。コーヒーは好きです」
それはよかったと微笑みながら私に正面の席をすすめつつ、ミケーレも窓側のソファに腰掛けた。
小さなカップに入った黒い液体からいい香りが立ち上る。
彼はスプーン山盛りの砂糖を立て続けに三杯入れた。
「そんなに入れるんですか?」
「だって、苦いだろ」
それはそうだけど。
「日本人は不思議だよね。こんな苦い物をわざわざブラックで飲むなんて」
私はとくに反論もせずに彼の真似をして山盛りの砂糖を三杯入れてみた。
「この方がおいしいだろう」
ほんとだ、と私は思わず声を漏らしてしまった。
そもそもコーヒー自体が日本で飲むものとまったく違う。
砂糖の甘さでまろやかさが加わって、上質なチョコレートが舌の上でとろけていくような味わいだった。
コーヒーがこんなに官能的な飲み物だったなんて初めて知った。
「これは何か特別な砂糖なんですか」
「いや、ごく普通のものだと思うけど」
イタリアってすごい。
みんな毎日こんなにおいしい物を飲んでいるんだ。
なんかそれだけでも楽しく生きていけそうな気がする。
私は気になったことを聞いてみた。
「あの、ミケーレさんは、仕事をしなくてもいいんですか?」
「仕事って?」
「船員さんなんでしょう?」
「違うよ。僕の船だってば」
結局話がもとに戻ってしまった。
私の聞き方が悪かったのかもしれない。
「じゃあ、ミケーレさんは何をしている人なんですか?」
「職業ということ?」
うなずく私に彼は微笑みを返した。
「うーん、そうだね。一言では言い表せないな。簡単に言えば社長かな」
社長?
「僕は金融グループを中心とする財閥の経営者なんだ」
ミケーレは流暢な日本語で話している。
でも、私の方が理解できないでいた。
「財閥?」
「銀行、証券、流通、発電、貿易、重化学工業……、とにかくいくつもの会社を束ねる複合企業の経営者というわけさ」
全部日本語だけど、全然意味が分からない。
さっきコーヒーを運んできてくれた船員さんが焼きたてのピザを運んできてくれた。
モッツァレラとバジルのシンプルなマルゲリータだ。
「どうぞ。この船の石窯で焼いたものだよ」
これもまた日本で食べていた物と香りからして違う。
「あ、そうそう。このモッツァレラはうちの牧場で作っているものだよ」
もしかして、私、今夢でも見ているのかな。
急に目の前の光景が現実味を失って、頭がぼんやりしてしまった。
ミケーレの声が遠のいていく。
「大丈夫かい?」
気がつくと彼が私の隣に腰掛けて顔をのぞき込んでいた。
ものすごく近くて、顔が熱くなる。
「あ、ええ……」
私は曖昧な笑みを浮かべてごまかした。
「なんていうか。現実感がなくなってしまって」
「つまり、僕の話が信じられないってこと?」
「ああ、いえ、そういう意味ではないんですけど」
「何度聞かれても同じだよ。僕は財閥の経営者。そして、これは僕の船」
窓の外を見ると、ものすごい勢いで船は波の上を滑るように進んでいく。
高速ジェット船というものだろうか。
僕は財閥の経営者……。
これは僕の船……。
言葉では理解しているつもりでも、ミケーレの顔を見ると全てが吹き飛んでしまう。
もちろん、彼が嘘をついているとは思えない。
これは現実なんだろう。
私はとんでもない人と知り合ってしまったらしい。
普通なら絶対に会うことすらできない雲の上の人なんだ。
でも、やっぱり私にはまったく実感のわかない現実だった。
私は必死にそれを受け入れようとしていた。
いつの間にかまたぼんやりとしてしまっていて、気がつくと、そんな私を見てミケーレが微笑んでいた。
彼は立ち上がると、私の頭をポンとなでた。
「カプリまではあと三十分くらいだから、自分の船だと思ってゆっくりくつろいでいてよ」
キャビンを出ていこうとする彼を私は呼び止めた。
「どうしてこんなに親切にしてくれるんですか」
「日本では僕もいろいろな人に親切にしてもらったからね。異国ではお互いに助け合いさ」
ああ、そうなのか。
「マユだろ、ナツミ、カスミ、マリコ……、それにユウカ、ええと……、そうそうアヤネもだ」
はあ?
「僕が知り合ったニッポンの女性たちはみな優しくて親切だったよ」
うわ、やっぱりサイテー。
立ち去りかけていた彼がそばに戻ってきた。
「でも、イタリアでは少し気をつけた方がいいね。ニッポンの女性はみな優しすぎるよ。悪い事を考えている男も多いからね」
「ミケーレさんもですか?」
「ミケーレでいいよ、『さん』はいらない」
「でも……」
「日本人の習慣としては理解できるけど、ここはイタリアだからね。イタリア語にも敬語はあるし、初対面では尊重しあうのは同じだけど、やっぱり敬称をつけて呼ばれると悲しくなるんだよ。せっかく親しくなろうとしているのにね」
それでも戸惑っている私に、腰をかがめて顔を近づけてくると、ミケーレは私の耳元でそっとささやいた。
「ミケーレって呼んでみてよ」
「ミ、ミケー……レ」
だめだ、言えない。
彼は私が照れる様子を眺めて楽しんでいる。
「やっぱり美咲は日本人だね。その表情、懐かしいよ」
ああ、もう、なによ。
ほんと、サイテーなんだから。
ミケーレはソファに座り直して私に言った。
「カプリに着いたら僕の家にご招待するよ」
「あなたはカプリに住んでいるの?」
いきなり名前の呼び捨ては難しいので、丁寧語を崩すところから試してみた。
「家はいくつもあるからね。イタリア中に。カプリの家はその一つさ」
お金持ちだから、リゾート地に別荘くらいあるのか。
ただ、そんなところにご招待されても落ち着かないんじゃないだろうか。
「でも、私、ホテルを予約してあるから」
「どこ?」
「ヴィラ・レッジーナ・マレスカ」
「ああ、とてもいいホテルだね。でも大丈夫。秘書に連絡させるよ」
「でも、キャンセル料がかかるだろうし、ドタキャン……、ええと、直前だと迷惑がかかるんじゃ」
「心配ないよ。あそこのオーナーとは知り合いだから」
なんだろう。
もう何を言っても無駄な抵抗のような気がしてきた。
「じゃあ、今晩だけ」
「どうして? いくらでもいてくれていいよ。リゾートに一泊だけなんて、日本人はせっかちだね」
ミケーレは笑いながら立ち上がると、手配してくるからと言い残してキャビンを出ていった。
一人になったとたん、ため息が出てしまった。
やっぱりだめだ。
世界が違いすぎて実感がわかない。
今このクルーザーのキャビンにいること自体、映画を傍観しているような感じだ。
自分がここにいないような気分がして居心地が悪い。
このままカプリ島に着いて彼の別荘へ行っても、同じような気分が続くんじゃないだろうか。
それならむしろホテルに滞在した方が気が楽でいい。
やっぱり断った方がいいのかもしれない。
でも、せっかくの好意を断るのも悪い気がする。
ああ、また結局、こうなんだ。
私はいつも決められない。
こうかもしれない、ああかもしれないとグダグダと結論を先延ばしにしてしまう。
迷っているうちに、物事が進展していたり、まわりが勝手に決めたりして、私はいつもそれに従ってきたのだ。
イタリアにまで来て、何も変わらない自分が歯がゆかった。
窓から外を見る。
前方に島影が見えた。
「あれがカプリ島だよ」
振り向くとミケーレがいた。
「あの、やっぱりお断りしようと思うんですけど」
勝手に口が動き出していた。
「こんなに大きな船まで出してもらって、これ以上ご厚意に甘えるわけにはいきませんから」
「美咲は日本人だね」
もう何度言われた言葉だろうか。
「甘えるとか、遠慮とか、そういうのはイタリアにはないから心配ないよ。僕も日本人の考え方や気持ちは理解しているつもりだから、無理にとは言わないけど、そろそろ僕のことを信じてくれてもいいんじゃないかな。こんなの、本当にたいしたことじゃないんだよ」
「ミケーレさ……ん、ミケーレにはそうかもしれないけど、私はあなたみたいな世界の人間じゃないし」
「この世は一つだよ。日本でも言うだろ。地球は一つって。イッツアスモールワールド」
ミケーレがおどけた調子でハミングを始める。
「そういうことじゃなくて」
さえぎろうとして思わず声が大きくなってしまった。
やばい。
涙がにじみ出してきてしまった。
「あの、私の方からお返しができないことをしてもらっても、本当に困るからです」
ミケーレがそっと私の手を取って両手を重ねた。
「美咲はカプリ島がすばらしいところだと思ったから、ここまでやってきたんだろう」
え?
急に話がそれて、ただうなずくことしかできなかった。
「僕はイタリア人だ。この辺りは僕の生まれた地域だし、僕もカプリ島が大好きだよ。だから、美咲にもその良さを堪能してもらいたいんだ。お返しなんていらないよ。ほら、日本人がよく言っている、あれだよ」
あれって?
「お・も・て・な・し」
思わず笑ってしまった。
私の表情を見たミケーレも微笑みを浮かべてくれた。
「じゃあさ、こうしよう。僕が日本に行ったときに、美咲がおもてなしをしてくれ。それならいいだろう?」
それはいいんだけど、なんだか別の意味で大変そうだ。
私みたいな庶民ではお金持ちの人が楽しむようなところに案内することなんてできない。
京都の御茶屋さんとか、そもそもどこにあるのかすら知らない。
「おもしろいところを案内できる自信がないんですけど」
ミケーレが軽く私の肩に手を置く。
「美咲、もっと自信を持っていいんだよ。僕は君が案内してくれるところなら、近所の公園でも、コンビニでも、ファミレスでもなんでもいいんだよ。どれもイタリアにはないものだからね。ありのままの君が一番さ」
ありのままの君が一番さ。
うわ、やっぱりチャラい。
こんなセリフ、さらりと言ってのけるなんて、やっぱりイタリア人なんだな。
「それとも、あれかな……」
答えを言いあぐねている私の顔をのぞき込みながら彼がウインクした。
「やっぱりカラダで払ってもらうのが一番手軽かな」
正直ちょっとムッとした。
そんな私を見て彼が人差し指を立てた。
「最低のジョークだろ」
そして彼は私に顔を近づけてきて、耳たぶに軽く口づけた。
「失礼なことを言ってすまなかった」
私の耳元でそっとつぶやくと、ミケーレはまたキャビンを出ていった。
頭の上で、ボーッと汽笛が鳴る。
船が減速を始めた。
窓の外にはもうカプリ島が目の前に迫っていた。
白い石灰岩の壁が剥き出しになった山がそびえて、狭い土地にへばりつくように階段状の街が点在している。
白い海鳥が一羽旋回していく。
私はキャビンから甲板に出てみた。
そよ風に運ばれてくるさらりとした空気が心地よい。
振り向くと背中には青い空と広い海が広がっていた。
遙か彼方にさっきまでいたナポリの街がかすんで見える。
ベスビオ火山には白い雲がかかっている。
船はゆっくりとマリーナに入っていく。
港を散歩しているおじさんが私に手を振ってくれる。
私も大きく手を振り返した。
そびえ立つ白い岩壁を見上げながら私はこぼれそうになる涙をそっとぬぐった。
うれし涙なんて、いったいどれくらい久しぶりだろう。
これがカプリ島。
私の来たかった場所。
「どうしたんだい、美咲?」
ミケーレが操舵室から見下ろしていた。
え、何が?
「とても素敵な笑顔だよ」
そうだ。
ここに涙は似合わない。
接岸した船からタラップが降ろされ、ミケーレが私の荷物を持って先に降りた。
「ようこそ、カプリ島へ」
差し出された大きな手に、私も手を差し出した。
「グラツィエ、ミケーレ」
「プレーゴ」
記念すべき私の第一歩。
生まれ変わるためにやってきたこの国で、あなたに会えてよかった。
でも、あなたの顔を見てしまうと、それを素直に伝えるのはまだ恥ずかしい。
そんな私を眺めながら彼が微笑む。
この世にはこんな夢みたいな場所がある。
連れてきてくれてありがとう、ミケーレ。
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