二日目 ♧ーQ

 開演まで時間がなかった。

 だいやから衣装を受け取ると同時に目的地へと駆けだす。

 一歩足を踏み出すごとに血の巡りが加速する。呼吸が浅くなる。

 木製のタイルを、リノリウムの床を、踏んだと感じるよりも早く足を動かす。

 階段を踏み飛ばし、人をかき分ける。

 廊下を曲がると、死角から現れた生徒とぶつかりそうになった。

「ごめん!」

 おざなりな謝罪をして、さらに走る速度を上げる。

 生徒が非難の声をあげたようだが、気にしている暇はない。

 目指す場所はすぐそこにあった。

 

 



 肩で息をする。自身の心音が耳元で聞こえるような錯覚に襲われる。

 汗が流れる額を手の甲で拭って、眼下を望む。

 あとは、あいつが来るのを待つだけ――

「ここだ!成!」

 そう、下から呼び掛ける声があった。

 あいつはもう到着していた。

 声に従い中庭の方を見る。

 鏡写しのようにそっくりな顔をしたブレザー姿の男は、大仰に両手を振って自身の存在をアピールする。

「咲!受け取れ!」

「分かった、成!」

 そのままアリスの衣装を中庭に向けて落とす。

 ――アリスの衣装は咲の胸元めがけて、ふわふわと優雅に舞い落ちていく。

 咲はその衣装を抱きしめるようにしてしっかりと受け止めた。

「咲、早く行け!」

 腕時計で時間を確認。開演まであと一分。

 アリスの出番まで、残り五分。

 問題はない。後はただ走るだけ。

 あらん限りの声で俺は中庭の咲に向かって叫ぶ。

「間に合う!」


※  ※  ※


 が衣装を無事に受け止めると、あたりから歓声が上がった。

「上にいるの誰?」

「なんで四葉が二人いるんだ?」

「ドッペルゲンガーって本当にいるんだ……」

 だよねと思わず苦笑い。だけど、いまはそれよりも。

 衣装をしっかりと脇に抱え、方向を転換。急激な移動のせいで思わず転びそうになる。

 バランスを崩すよりも先に足を前へ。

 四足歩行の獣のような恰好になることをいとう暇すらない。

 息が荒くなることすらいまは煩わしい。

 いまはただ衣装を届けることだけを考えろ。

 人の間をかき分ける。ぶつかったって構いはしない。

 とにかく届ける。だいやちゃんが作ってくれたこの衣装を。

「結愛さん!」

「ちょっと、四葉くん⁉どういう!何でこんな早く⁉」

 結愛さんの待機場所である体育館の裏口に到着すると、彼女は、状況を掴めていないのか驚いた声をあげる。

「詳しいことは後で話します。だからいまは早く舞台の方へ!」

 急かすように彼女の背を押すと、結愛さんは駆け足で着替えへと向かった。

 その様子を見送って、そのまま、息も絶え絶えに体育館へと入る。既に館内の照明は落とされ、暗幕によって閉め切られている。

 館内はこれから始まる舞台への期待からか、観客たちの話し声に満ちている。

「――四葉せんぱい、おつかれさんです」

 こちらに気づいておどけて敬礼するのは漆原さん。

「ありがとう、漆原さん」

「いくらなんでも早すぎじゃないですか?衣装取りに行くっていってから五分もたってませんけど」

「そこは、こう。上手いこと、何とか」

 いまは疲れていて説明する気になれない。もっとも、疲れていなくたって説明が面倒なことに変わりはないんだろうけれど。

 漆原さんの追及の手から逃れていると、桐生くんが僕の肩を叩いた。

「席用意しておきましたよ」

 桐生くんが指差す場所は、席が二人分ほど空いていた。

「あとは、おれ達がやりますから。先輩は舞台を楽しんでください」

 桐生くんと漆原さんにお疲れさまとばかりに軽く頭を下げた。ありがたく甘えることにしよう。

 用意された席に座ると、暴れまわっていた心音がようやく落ち着いた。

 リラックスしたところで開幕を告げるブザーが鳴った。それと同時に、館内が静謐によって満たされていく。

 緞帳が完全に開ききると、スポットライトが舞台の中央を照らす。

「やあやあ。紳士淑女の皆様ごきげんよう!今宵始まります舞台は何とも奇妙な裁判劇。この物語を語る名誉を授かりしは、何のとりえもない、しがない帽子屋でございます――」

 うやうやしく礼をしつつ、長口上をのべつまくなしに口にするのは、恭介先輩演じる帽子屋。

「それでは早速、今回の舞台の主役を御覧に入れましょう。何も知らぬ無垢なる少女アリスでございます!」

 帽子屋はステージの上手側を右手で示す。

 現れたのは、先ほど、僕が渡した衣装に身を包んだ結愛さん演じる――アリスだった。

 その姿を見てようやく安堵の感情が胸の内を占めていく。

 ようやく。

 ようやくここまで来たんだ。

 僕のやるべきことはこのあとだ。

 だって僕はこのために、すべてを準備したのだから。

「となり、いいですか?」

 僕の隣にだいやちゃんが座った。

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