二日目 ♡ーJ

 僕はこの光景を失ったその瞬間からずっと欲していたのだと思う。

 だがしかし、いざその時になると言葉が出ないものだった。

「二人ともさあ!もっと、こう話すことあるだろ!」

 沈黙に我慢できなくなったのか、先に口を開いたのは右隣に立つ岸山だった。

 場所は生徒会室から移動して、先ほどと同じ特別講義室。僕を含め三人とも席に座ることなく、壁に背を預けている。いつも授業を行う教室と同じく規則的に座席が並べられたこの教室の何が特別なのかは、三年間通っていても理解できなかった。

「そうはいってもさ、男子高校生からしてみれば、女子大生の話なんて面白くも何ともないでしょ。愛川もそう思わない?」

 に左隣の天岳先輩は苦笑しつつ僕に話題を振る。

「……僕は天岳先輩の話、興味ありますよ」

「え、本当?」

 好意的な反応を示したのが意外だったのか、天岳先輩はどこか嬉しげに表情を輝かせた。どことなく天然な天岳先輩の様子に、岸山は頭を押さえる。

 と、ここで岸山は携帯を確認すると、

「衣装について目途が立ったみたいだ。ちょっと、部活の方は確認しに行ってくる。――天岳先輩も、舞台観ていってくださいよ!」

 と前半の言葉は僕に対し、後半の言葉は天岳先輩に向けて伝える。

 岸山は教室を出る前に僕に近づくと、

「……まあ。二人とも積もる話もあるだろ。あとは上手いことやれ」

 そう耳元で囁いてそのまま教室を後にした。

 残されたのは僕と天岳先輩の二人だけ。

 こちらの方がより気まずいという可能性を、岸山は考慮しなかったのだろうか。

 少しの間をおいて、何かを決意するように、天岳先輩が息を飲んだ音が、微かに聞こえた。

「愛川の事情はさっき大方聞いたよ。――本当に部活辞めちゃったんだね」

「えぇまあ」

 何と答えるのが正解か分からなくて、曖昧な返事になる。

「私が卒業したら、また再開してくれるのかなって思ってたんだけどさ」

「期待に沿えなくて申し訳ないです」

「いいって全然。愛川が決めたことなら全然かまわないと思うよ」

 当たり障りのないことをいおうとしてくれている天岳先輩の気遣いが、僕には痛かった。

 だからこそ、隣にいる彼女にどのような顔を向ければ良いのか分からない。

「……先輩の方も雰囲気が変わりましたね」

 天岳先輩は小さくうなずく。

 改めてみると、秋らしいタイトスカートの装いからは大学生らしく垢ぬけた印象を受ける。

「うん。姉さんの真似をしていても仕方がないと思って」

「やっぱり、真似だったんですか」

 天岳先輩は耳元にかかる毛先をいじりながら答える。

「……そうだよ。憧れだったんだ、あれでも」

 その口調には、どこか自虐的な含みがあるように感じられた。

「先輩の進学先って、お姉さんと同じ恒枝でしたよね。家からは結構遠いんじゃ」

「そう。いまは家を出て一人暮らししてて。思いのほか気楽だよ。愛川も大学生になったらやってみるといい」

「楽しいですか。大学生活」

「自由な時間が増えるってのは良いね。否応なしに視野が広がる。自分がいかに狭量な価値観で生きていたのか実感させられるのは、少し辛くもあるけどさ」

 そういうものなんですかと、僕は相槌をうつことしかできなかった。大学生活を具体的に思い描けない以上、適当な受け答えしかできない。

 そのうち二人とも言葉に詰まる。天岳先輩は沈黙を楽しむように目を閉じていた。

 ここは僕が踏み出さねばいけない場面なのだろう。

「先輩は、どうして学校に来てくれたんですか」

「ようやく聞いてくれた」

 その質問を待っていたとばかりに、天岳先輩は頬を緩めた。

 天岳先輩は壁に背を預けると、そのままずるずると腰を下ろしていく。やがて体育座りをするような格好になった。

「愛川が部活を辞めた理由を知りたかったんだよ」

「……やっぱり、気になりますよね」

 僕は苦笑しつつ、床に座った。

 僕の視線の高さと、天岳先輩のそれとが同じくらいになる。彼女の視線は、まっすぐに僕を捉えていて、思わず目を逸らしてしまう。

 天岳先輩はそんな僕を咎めることなく話を続けた。

「ねえ、愛川。愛川が部活を辞めた理由は私にあるのかな」

「……」

 僕のことを責めるような口調ならまだしも、こちらの内心を慮るように、弱弱しくいわれてしまっては、返すものもなかった。

 沈黙する僕を見て、天岳先輩はゆっくりと語りだした。

「いまだからいうけどさ。最初は愛川たちに嫉妬してたんだ」

 それは、初耳だった。

「君たちが入部してくるまでの私は、誰もやる気がない中で、一人だけ真面目に部活再建に動く、誰もが応援したくなる努力家なヒロイン。その役割を全うしようと私も必死になってた」

 天岳先輩は膝を抱える腕に力を入れて、体を縮こまらせた。

「それなのに、愛川と岸山が入部したらあっという間に再建したんだもの。私が一年間かけたのにどうしようもできなかったことを、君たちは半年足らずでやってのけた。それだけじゃない、君たちには何というか華があったし。それを見ていると、自分がいかに役立たずか思い知らされたよ」

「……すみません」

「謝らないでよ、私が勝手に逆恨みしてただけなんだから」

 天岳先輩は大げさに手を横に振る。

「嫉んで羨んで、そして憧れた。私も君たちみたいになれれば特別になれるんじゃないかなって、そう考えたんだ」

 それからと、天岳先輩は膝の上に顎をのせて続ける。

「ありがたいことに、愛川と岸山は私のことを慕ってくれた。君たちに認められることで、私自身も才能があると思ったんだ。私は君たちに劣っていないんだ。部活の再建ができなかったのも、一年の時の発表会で端役だったのも、たまたま運が悪かっただけだったと」

 そこまで話すと天岳先輩はふうと息をつく。

「でも、それは所詮、錯覚に過ぎなかったんだよ。一年前のいまごろだね、オーディションの結果、文化祭で発表する舞台の主役は愛川がやることになったと先生から聞いた時に、分かったんだ。私は特別でも何でもないって」

「――そんなことはないですよ。僕にとっては、いや、岸山にだって先輩は特別な人です」

「君たちは本当にそう思ってくれてるんだろうね。それは十分に分かってるよ。だけど、私自身がそれを認められない」

 天岳先輩は自嘲するように笑う。その表情に、僕は胸が締め付けられた。

 彼女は、天岳朱巳は、こんなにも自分を卑下していたのか。

 自分の価値に自信を持てずにいたのか。

 ならば。

 僕が去年したことは。

『せめて、僕に何かあった際、代役を天岳先輩にお願いすることはできませんか』

 ――あまりにも残酷だ。

「あんまり落ち込まないでよ。要は、天狗の鼻が折れたってだけの話なんだから」

 天岳先輩は慰めるように僕の背を撫でる。

「それに、心まで折れてたら、いまも演劇続けてたりしないって」

「……続けてるんですか」

 頬をかきながら天岳先輩は答えた。

「なんだかんだいっても好きなのは変わりないからね。指導は厳しいし、下手だけど。私なんか基礎の基礎すらできてなかった。高校の時、自信満々に演劇論を語っていた自分が恥ずかしいよ」

 恒枝大の演劇サークルといえば、現在も活躍している俳優を多数輩出していると聞く。

 そのような環境の中で、先輩はいまも挑戦し続けている。

 自分が天岳先輩を潰したわけではないと安堵したことに気づいて、顔を伏せた。僕はどこまで自分本位なのだ、と。

「愛川は色々と責任を感じているのかもしれないけれどさ。これは私自身の問題なんだよ」

 天岳先輩は。

 僕の抱える罪悪感など、取るに足らないといいたいのだろう。

「――そんな風に考えられるほど、僕は楽観的じゃありませんよ。岸山なら納得してくれるでしょうが」

「相変わらず、人の話を素直に聞かない後輩だなぁ」

 君は悲観的すぎるんだよと、どこか呆れたようにいう天岳先輩。

「なら、天岳先輩は自分の在り方に悲観することはないんですか」

「話聞いてた?十分に私も悲観的でしょうが」

 天岳先輩が優しく頭をはたいた。それは撫でるといっても相違ないほど優しかった。

「でも、私と愛川に違う点があるとしたらそれはきっと、軸だろうね」

「軸、ですか?」

「そう。でもこの場合、敢えて優劣をつけるのであれば、劣っているのは誰かに憧れている私の方だよ」

 天岳先輩は寂しそうに続ける。

「私が演劇を始めたのも、もとはといえば姉さんがやっていたからだ。いつだって私は何かに憧れていた――要は自分がなかった。でも憧れたところで私は姉さんにも愛川にも岸山にもなることはできない。かといって誰かからの肯定でしか自分の価値を見出すことができないようじゃあ、特別になんてなれないんだ」

 私も大概モラトリアムだねえとしみじみとした口調でいう。

「それなら僕も」

「愛川の方がマシだよ。愛川みたいなタイプは、なりたいと思ったその時には、願いを実現できているんだから。私がどれだけ努力しても手に入れられないものを、君は簡単に手にできる。――願いを叶えるために自分が何をすべきか。何をしたいか。愛川はそれを自覚できるタイプの人間なんだ」

 先輩は僕の言葉を遮った。

「だから、諦めないでよ。愛川。君は明確な軸を持っている人間だ。私なんかのせいで、君の可能性が狭められるなんてあってはいけないことなんだから」

「呪いみたいなことをいいますね。先輩は」

 私にもそれくらいいわせてよと天岳先輩は笑った。

「……いまの話、岸山には内緒にしておいてよ。あいつ、あれでも結構純粋なんだから。夢を壊すわけにいかない」

「あいつなら、先輩が気にすることないと思いますよ。いまだって何だかんだ楽しそうにやっているみたいですし」

 とはいえ、いまの話を岸山に伝えるつもりは、もとよりなかった。

 天岳先輩は時計を見ると、よいしょといって立ち上がる。

「舞台の方は見ていかれるんですか」

 すると天岳先輩は苦笑いを浮かべて、

「そこまでは、ちょっと。姉さんも気まずいだろうからさ――それに私もこのあと、サークルの集まりがあるし」

 その言葉は、ひどく他人行儀に思えた。

「それよりも四葉くんにお礼をいっておいてくれないかな」

「――四葉、ですか?」

 一瞬、それが生徒会長のことを指しているのだと理解することができなかった。

「そ。昨日、わざわざ私に会いに来てさ。恭介先輩たちに会ってあげてくれませんかって直談判されてね」

 四葉と僕の間に関わりは一切ない。彼がなぜそのような頼みをしたのかは分からないが、それでも、この邂逅が四葉の手によってもたらされたのならば、感謝すべきなのは間違いなかった。

 僕の見送りを先輩は固辞して、そのまま帰っていった。

 教室には僕一人だけになった。

 それを実感すると同時に、全身が脱力感に襲われた。体に余計な力が入っていたことにいまさらながら気づく。

 携帯を確認すると、補永からメッセージが届いていた。

 『剣が事件の真相を突き止めたそうです』

 文化祭ももう終わろうとしている。

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