一日目 ♧ー7
学校を出るころには、辺りはすっかり暗くなっていた。
朝にも増して肌寒くなった風が、熱くなった頬を冷ます。その隣で、ジャージ姿の結愛がくしゅんと小さなくしゃみをした。衣装が濡れてしまったがために体を冷やしてしまったらしい。
「……今日は大変でしたね」
「ああ。明日はどうなることやら」
体育館の裏口で揉めていた二人の仲裁から戻ると、体育館は喧々囂々といった様子だった。
詳しいことは分からないものの、演劇部のリハーサル中にセットが壊れたらしく、その際、岸山が怪我をしたらしいという噂を桐生から聞いた。
茜先生も演劇部の方にかかりきりになってしまい、結局、着ぐるみの件についてはなあなあになってしまった。
「衣装の方は大丈夫なのか?」
「……分かりません。汚れはどうも落ちなさそうですし。明日また業者の方に替えがないか連絡することにはなったのですが」
結愛の表情が曇った。
彼女のいうとおり、衣装の汚れは酷いものだった。
リハーサルの再開を手伝った際に、結愛の衣装を見る機会があったが、あれだけ汚れが染みついてしまっては、替えを用意しないと厳しいだろう。そもそも裾があれだけ破れてしまっていては着ようがない。
「それに恭介先輩の怪我によっては、明日の発表会もどうなるか……。去年の愛川先輩みたいなことにならないといいんですけれど」
事故後、岸山は怪我の様子を確認するため病院へと向かった。演劇部に関係する仕事をいくつか残して。
だが演劇部では去年も似たようなトラブルがあったらしく、どこか手慣れた様子で事態に対処していた。
しかし、演劇部だけでは手が回らないことも少なからずあったため、だいやと共に手伝いをしていたらこんな時間になってしまった。
「でも、だいやと四葉くんが手伝ってくれて助かりました。私一人だけじゃどうにもできなかったので」
「別に僕は何もしてないよ。だいやの方が、ずっと頑張ってくれていたと思うんだけれど」
「だいやの話になると、咲くんはいつも謙遜しますよね」
「まあ、幼馴染だから」
幼馴染だからこそ、だいやのことはそれなりに理解している。彼女が、誰かを応援していたり、常に周りに気配りしている姿を見ていると、自分のことを尊大に表すのはどうにも躊躇われるのだった。
「本当、四葉くんはだいやのことが好きなんですね」
冗談めいた口調で結愛が俺に問う。
実際のところ、咲がだいやのことをどう思っているかは分からない。
しかし、俺にもこれだけはいえる。
「――まあ。だいやがいなければ、僕は自分に自信を持てなかったと思うよ」
「そう、ですか」
結愛が小さくうなずくと会話はぴたりとやんだ。
なにか不味いことをいってしまっただろうかと気をもみつつ、別れ際、結愛は俺の前に出ると、
「明日、文化祭が終わったあと少し時間を貰っていいですか。今日、体育倉庫で伝えられなかったことを話させてください」
だから、明日も学校に来てくださいねと、少し悲しそうな顔でそう告げたのだった。
疲労困憊とは今日のような状況を指すのだなと考えながら帰路へとつく。何といって結愛と別れたかも思い出せない。
咲に文句をいってやろうという怒りの意志のみが、足を進める動力源だった。
精神的にも肉体的にも疲弊しきった体で最後の力を振り絞り、自宅の玄関のドアノブをひねる。
「あれ」
だがしかし、玄関には鍵がかかっていた。
げんなりとした気分で開錠をして家へと入る。家のどこにも明かりはついていない。
咲は既に寝ているのだろうか。もしそうだとしても、文句の一つくらいは言わせてほしいところだった。
「おい、咲。いるのか」
ノックもせず、咲の部屋の戸を乱暴に開ける。
綺麗に整えられた布団。
閉められた窓。
人の気配はない。
病院にでも行ったのだろうかと考え、即座に否定する。わざわざ夜に病院に行く必要なんてない。体調が悪化し、夜間診療に赴いたとしても、こちらに連絡の一つや二つ入れるのが四葉咲という人間だ。
咲のベッドのシーツに触れる。
冷たい。この温度だと、ベッドを出て数時間は経過しているはずだ。
では、咲は仮病だったのだろうか。だったら何故、咲は俺という影武者を立ててまで、『四葉咲』を学校へと向かわせた?それに昨日の咲の体調は随分と悪かったように見えた。
そんなことを考えながら、なんとなしに、机の上を見やる。
そこには、便箋のコピーが置かれていた。
視界に認めた途端、腹の底をゾッとする感覚が走る。
理論や理屈ではなく、本能的に異常を理解する。
読まない方がいい。知らない方がいい。
胸の内で、危険信号が灯る。
頭では十分に理解している。しかし、気が付けば俺は、その便箋を手に取っていた。
そして、一目見て後悔する。
文字列に込められた悪意に、自らの顔が歪むのが分かった。
内容に反して、記された文字がひどく丁寧であることがおぞましい。
ぞんざいな字で記されていた方が、よっぽどましであったかもしれない。
そして、その手紙には、たった一人だけ、個人の名前が記されていた。
岸山恭介。
彼に対する、誹謗中傷、人格否定。
曰く、後輩に手をふるう人格破綻者。
曰く、女教師に手を出す色情魔。
曰く、不当な判断を下す差別主義者。
そういった内容が一枚の便箋に記されていた。
何故、こんなものが咲の部屋にある。
分からない。
弟のことが、――四葉咲のことが、全くわからない。
四葉咲は岸山恭介に何をした?
呆然と弟の部屋で立ち尽くす俺の背後から、
「ねえ、成。何してるの?」と、声がした。
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