一日目 ♧-A

 人生において最も緊張した瞬間とはいつだろうか。

「――続きましては、開式の言葉を生徒会長、四葉咲よつばさきさんにお願いします」

 インテリ眼鏡という言葉がよく似合う司会から、マイクが手渡される。手先が震えて仕方がない。膝も笑っている。全く、こういうのは俺の仕事ではないというのに。

 緊張をごまかすように、わざとらしいくらい大きな深呼吸を行う。先ほどまで吹奏楽部の演奏により盛り上がっていた体育館は、司会の言葉によって静まり返っていた。

 沈黙をかき分けるようにステージの中心へと向かう。ああもう。いまほど、昨日に戻りたいと思ったことはない。それができれば俺は間違いなく咲のお願いを断りに行く。

 スポットライトが自分を照らす。いまこの時、世界の主役はオマエだといわんばかりに。

 光り輝くステージの上から生徒たちを見下ろす。床に座るといったラフな形で話を聞いてくれるならともかく、出席番号順にパイプ椅子に座られると、入学式や卒業式のようなかしこまった感が出てしまって、よりやりにくい。

 ステージの中央に到着すると同時に、優に八百人を超える桜日高等学校の生徒すべてが、俺に注目する。

 この中に、俺が四葉咲でないと気付く人間は存在するのだろうか。

 俺は質問したくなった。

 人生において最も緊張した瞬間はいつですか、と。

 その問いに、四葉成よつばなるであればこう答える。

 双子の弟の影武者として、生徒会長の仕事を務めるいまこの瞬間であると。



 昨日、十月十四日。

 一人きりの夕食を終え、食器を洗っていると玄関の戸を開ける音がした。車の音がしなかったことから、帰宅者の正体の予測は容易だった。

「ただいま。成」

「おかえり。咲」

 俺と瓜二つの顔をした弟はリビングへ入るなり、制服にしわがつくのもいとわずソファに寝そべった。

「珍しいな、咲がこんなに遅く帰ってくるなんて」

 時刻は二十一時近く。普段の咲ならば、とうに帰宅している時間だ。

「……色々あってね。慣れないことはするもんじゃないよ」

「お前、生徒会長になってから忙しそうだったもんな。ま、今日はゆっくりすればいい」

 俺は咲をねぎらうために、冷蔵庫から取り出したスポーツドリンクを渡す。

 咲はありがとうといって受け取ると、横になったままスポーツドリンクを少しずつ口にした。どうにも具合が悪そうだ。

 何となく心配になって顔色をうかがうと、咲は露骨に目をそらす。

 弟には何か困っているときほど、迷惑をかけるのを嫌がって、そっぽを向く悪癖がある。

「咲、何かいいたいことがあるんだったらいってくれ」

 困ったときは正直にいう。両親が離婚した時に、二人で決めた約束だった。

 弱弱しい口調で咲はいった。

「もし明日、僕の体調がよくならなかったら、代わりに成が学校に行ってくれないかな」

「欠席の連絡なら自分ですればいいだろ」

「違う。中学の時みたいに、成が僕に入れ替わって『四葉咲』として学校に行ってほしいって意味」

 予想だにしない言葉が咲の口から出た。

 一卵性双生児の一般的な特徴に御多分漏れず、俺と咲の顔は鏡写しのようにそっくりだった。アルバムを見返しても、俺自身、自分と咲の区別がつかないほどに。

 そんな特性を利用して俺たちは、こんな遊びをしたことがある。

 入れ替わりゲーム。

 俺、四葉成が四葉咲に。

 弟、四葉咲が四葉成に。

 それぞれ入れ替わって、いつまで気づかれないでいられるかという遊び。

 始めた当初は、二人の間でにわかに盛り上がったものの、いつのまにかやらなくなっていた遊び。

 その理由は実に単純だった。

「いままで、誰にもバレたことないんだから、問題ないよ」

「それはそうだが」

 正直、いまだって入れ替わってもバレない自信がある。咲もまた、同じことを考えているからこそ、こんな馬鹿みたいな頼みをしてきたのだろう。

 だがしかし、こちらもおいそれと首を縦に振るわけにはいかない。

「俺だって、明日は学校なんだけど」

「成が時々、工業高校さぼって遊びに行ってること、僕は知っているからね。父さんが知ったらどう思うか」

 じろりとにらみを利かせる咲。今度何かやらかしたら小遣い減額の宣告を父から受けている身としては、なかなかに痛いところを突かれた。

「代わりに行けといわれても、進学校の勉強に、俺が付いていけるわけがない。ノートを取るのも精いっぱいだ」

「その辺は大丈夫。うちの学校、明日から二日間、文化祭だから」

「だったら別に、俺が行く意味もないだろ」

「それならば良かったんだけど、いろいろ仕事があって。生徒会長が出ないと立ち回らないものも多い。生徒会の人たちに、迷惑をかけるわけにはいかなくてさ。それに成だって、自分の高校にも文化祭があれば良かったっていってたじゃないか」

 かつてそんなことを口にした覚えはあるが、それとこれとは、まったくもって別問題な気がする。それに、俺には迷惑をかけてもいいのか。

「だとしても、たかが文化祭だろ。別に授業についていけなくなるってわけでも、」

 その時だった。

「頼むよ。成」

 いい切る前に、咲は俺の腕を強く掴んだ。

 咲の口調からは、これまでに一度も聞いたことの無い、鬼気迫るものを感じた。

「――分かった。ただし、体調がよくなったら自分で行けよ」

 なんとも咲らしくない気迫に負けて、俺はしぶしぶそう答えた。

「わかったよ」

 ようやく安堵を浮かべる咲を見て、何だかんだいいつつも、弟の提案に乗ってしまう俺は甘いんだよなと、内心、自虐する。

 しかし、この時、俺は咲に確認しておくべきだったのだ。

 何故、咲がらしからぬ行動を選択したのか。その真意を。



 生徒会長の仕事とはいえど、俺に代理を頼むくらいだから遊んでいるだけで良いだろう――なんて考えはどうも甘かったらしい。

 学校に到着するなり、学年、性別、立場を問わず、あれはどうなった、コレはどうなっていると尋ねられる。

 開会式の挨拶や、写真撮影、来場者案内、それにSNSへのPR投稿や、細かい事務作業まで手伝うことになっていたとは。これらの仕事を、咲は準備段階から一人で回そうとしていたのだから体調を崩すのも当然といえる。

 とにもかくにも、帰ったら絶対に何か一言いってやろう。そんな決意を胸にする。

 だが、いまはそれよりも目の前の事態に向き合うべきだ。

 逃避にも似た一瞬の回想から、意識を現実へ戻す。

 ステージ中央。

 体育館が暗幕で閉め切られていることもあって、スポットライトに照らされている壇上からは、生徒の顔はろくに見えやしない。

 それでも、無数の視線が俺の肌を貫いていることは感覚で分かる。

 これほどのプレッシャーはいままで、体験したことはなかった。

 ブレザーのポケットから、手汗ですっかりくしゃくしゃになった原稿を取り出す。

 舞台袖で、何度も繰り返し読んだ原稿。

 原稿自体は咲が用意していたため、それを読むだけで事足りるのは幸いだった。

 問題は俺自身が、これだけ大勢の前で話すことに慣れていないことだけ。

 緊張と共に、かつて咲と話し合った入れ替わりのコツが頭をよぎる。

「他の誰よりも自身が四葉咲であると信じ切ること」

 そんなことを俺はかつて、咲に伝えたことがある。口調や振る舞いというのは、意外とどうにでもなる。しかし、自分自身が己の存在を疑っていては、その迷いが他人に伝わる。

「俺がどうするか」ではない。「咲ならばこうする」と考えろ。

 四葉咲は緊張などしない。

 四葉咲は慌てなどしない。

 四葉咲は恐れなどしない。

 四葉咲を演じきれ。

 マイクに入らないように浅い呼吸を一回。

 ふっと軽く息を吐き、流れのまま言葉を紡ぐ。

「みなさん。おはようございます」

 静寂に包まれた体育館に己の声が響く。少しだけ声が裏返った。

「――本日は天候にも恵まれ、絶好の文化祭日和となりました」

 坂を転がりだしたら止まらないように、俺も止まることは許されない。

「――また、二日目には、演劇部による発表会もあります」

 よどむことなく喋り続ける。館内の熱気はいまや最高潮に達し、あと一言でも話せば、空気がたっぷり詰まった風船が破裂するかのような盛り上がりを見せることだろう。

 そして最後に一言。

「それでは、桜紅葉祭を開催しまずっ!」

 噛んだ。

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