一日目 ♡ーA

 十月十五日、七時五十分。

 腕時計で時刻を確認してから、担任の注意事項に耳を澄ませつつ、表紙に「私立桜日高等学校第三十二回文化祭『桜紅葉祭』」と記されているパンフレットのページをめくる。

 各種部活やクラスの展示内容、学外の客に向けた校舎案内図、体育館で行われる演目のタイムテーブルと、生徒会が制作したパンフレットはかなり良く出来ていた。

 何ともいっても一番目を引いたのは、見開きのページ。ポスターがそのまま転写されているそのページが紹介していたのは演劇部だった。

 被告人席には、エプロンドレスに身を包み、頭の上の黒いリボンが特徴的な少女が立っており、その周りを猫や兵士、トカゲや玉子が取り囲むように座っている。少女の正面に立つトランプの女王の目つきは、端正な顔立ちには似合わぬ、険しいものだった。

 そんなイラストの上には「桜日高等学校演劇部定例発表会『不思議の国の被告人』」なるタイトルが、小洒落たフォントで表記されている。

 キャスト一覧には、逸見、岸山、原、名波、斎藤、松林……と見知った名前が並んでいるがその中に、自身の名前はない。そんな当然の事に胸の奥が少し痛む。

 豊倉から聞いた話によると、今年度の脚本は、演劇部の生徒が執筆したものではなく、なんでもこの学校と縁のある、若手の小説家が手掛けたとのことだった。

「――くれぐれも文化祭中は最上級生の自覚を持ち、羽目を外すことの無いよう宜しくお願いします」

 担任の言葉を聞き流しながら、ぼんやりと思考していると、いつの間にかホームルームは終了していた。

 パンフレットを四つ折りにして、ポケットへとしまったところで、

愛川あいかわ、少しいいか?」

 教卓の前にいる担任に名を呼ばれた。そのまま、教卓へと向かう。

「茜先生から頼まれたんだが、愛川、開会式が終わったあと部長会に出てもらうことはできるか?」

「……別に構いませんが、なぜ僕なんでしょう。部活はとっくに退部しているのですが」

「どうも、いまの部長会の会長が欠席してしまったらしくてな。代わりの人材を探すくらいだったら、去年の会長に頼んだ方が楽だからとのことだ」

「了解しました。教室はどこで」

「音楽室でやるそうだ。すまないが、よろしく頼む」

 担任は説明を終えるなり、教室を去った。

 つられるようにして廊下へ出ると、既にクラスメイトは思い思いの行動を始めている。携帯端末を利用して連絡を取り合うもの。気の合う友人同士でじゃれあうもの。委員会活動へ向かうもの。まさに十人十色ともいえる光景だ。

 とりあえず、開会式が行われる体育館にでも向かおうかと考えたところで、ズボンのポケットに入れていた携帯端末が振動した。どうやらメッセージが入ったようだ。

 豊倉『開会式サボっていまから会いませんか』

 豊倉『少しお話したいことがありまして』

 豊倉『音楽室で待ってます』

 一秒だけ迷ってから、体育館へと向かう生徒たちの流れに逆らうように、歩を進める。

 目的地である音楽室は、北校舎の五階に存在している。

 南校舎が通常教室で構成されているのに対し、北校舎は、化学室やパソコン室など、授業や部活で使用される特別教室によって構成されている。無論、音楽室もその例に漏れない。

 パンフレットによると、明日の一般公開日、音楽室では、楽器体験教室や、ミニコンサートが開かれるとのことだが、学内開催日の本日、開催される企画は存在しない。

 つまりは、人がほとんど来ない教室を豊倉は指定したのだ。

 浮足立った熱気に満ちていた南校舎に比べ、日の当たらない北校舎は随分と冷え切っていた。しかしながら、この寒さがいまばかりは心地よい。

 音楽室のドアに手をかけるとカギはかかっておらず、すんなりと開いた。長机の上に腰掛けている待ち合わせ相手は、音楽室のカギを弄んでいる。

 豊倉は、僕が到着したことに気がつくと、驚いたような表情を浮かべる。

「まさか愛川くんが本当に来るとは思いませんでした。意外と不良なんですね」

「不良はそっちもだろ。いいのか。豊倉は責任ある立場だろうに」

「別に一人くらい、いないところで分かりはしませんよ。どうせこの後、ここで部長会やりますし、五分前行動の強化版みたいなものです」

 どうでもよさげに答える豊倉。彼女に意外とドライな一面があることを知ったのは、いまのような関係になってからだ。

「それで。わざわざ呼び出した用はなんだ」

「愛川くんに会いたかったから」

 そんなことをさらりといってのける豊倉。秘密主義な彼女にしては随分とストレートな好意に、柄にもなく心音が高鳴る。

 だがしかし、その発言は冗談であったようで、

「と、いいたいところなんですが――今日、こんな物が部室においてありまして」

 豊倉が取り出したのは、淡い青色の便箋だった。

「なんだ?ラブレターか?」だとすればいまどき、随分と古風な趣味だ。

「そんなロマンチックなものじゃありませんよ。むしろ正反対といってもいいかもしれません」

 豊倉は苦笑いを浮かべて、僕の言葉を否定する。ようやく冷静になれた。

 便箋を受け取り、内容を確認する。

 一読して、いや、一読するまでもなく、僕は豊倉に「――何ですかこれは」と尋ねていた。

「誹謗中傷兼、脅迫状、とでもいうのでしょうね。無論、屈するつもりは一切ありませんが」

 豊倉は怒りのためか、少し眉をひそめる。

「演劇部の部員たちは、この手紙について何か知ってるんですか」

「私が、最初に見つけてそのまま回収したので、知っている人はいないと思います。もっとも犯人を除いてですが」

 その言葉を聞いて、僕は豊倉が一つの仮定に至っていることに気が付いた。

「まさか。部員たちの中に犯人がいるとでも?」

「可能性の話ですけどね」

 豊倉は小さく呟くと、そのまま僕と目を合わせる。

「愛川くん。良ければ少し調べてもらえませんか」

「豊倉がそれとなく部員に聞けばいいだろ」

 豊倉の立場であれば、それくらい造作ないように思えるのだが。

 しかし、豊倉は長い黒髪をぶんぶんと揺らしながら、首を横に振った。

「内容が内容ですし、できれば内密に片づけたいですから。私が直接部員に聞いたら余計な文脈が生まれるでしょう。それだったら、愛川くんが部員たちに事情を尋ねてもらった方がマシです」

 それに、と豊倉は付け加える。

「愛川くんなら、岸山くんのために動いてくれるかと思いまして」

 岸山。岸山恭介きしやまきょうすけ。演劇部副部長。

 誹謗中傷兼脅迫状に、唯一記されていた個人名。

「――先ほど、部員には伝えていないといいましたが、彼は例外です。私も伝えるのは心苦しかったのですが」

「……あいつなら、こういうの気にしないんじゃないのか」僕は便箋をはじく。

「正直、その辺を探ってほしいところです。岸山くんも、愛川くんにだったら言えることもあるでしょうし」

「それだけか?」

 僕の言葉に、豊倉は表情を固くする。

「たしかに、僕が岸山に探りを入れるのは納得できる。だけど、いまの僕は部活を退部した身だ。もう部外者といってもいい。内密に解決したいのだったら、僕よりも逸見あたりを頼るべきだろ」

「愛川くんに期待しているからですよ」

 何をいっているのか分からないとばかりに、豊倉は首をかしげた。

「君。部活にいる時からこういうの得意だったじゃないですか。お願いしてもいいですか?」

 豊倉は柔和な笑みを浮かべた。

 その表情に伝えようと思っていた言葉を見失う。

 こういうのを惚れた弱みというのだろう。

 あるいはいいように使われているともいえるだろうか。

「――分かった。できる範囲で調べておく」

「何かわかったことがあったら、メッセージをください。くれぐれも直接話すのはナシですよ」

 ようやく豊倉の表情から、緊張感が消えたように見えた。便箋は僕が持っていることになった。

 教室に備え付けられた時計を確認すると、ちょうど開会式が始まろうとする時刻だった。いまからでも体育館へ向かおうと考えた、その時だった。

「部長会までまだ時間もありますし。いつもみたいなことしましょうよ」

 豊倉は、僕の体に腕を回すと、体をぴったりと密着させる。

 ようやく僕は、彼女が待ち合わせ場所に人気がない音楽室を指定した理由を理解する。なるほど、こっちがメインか。

「おい、そういうのはもうやめた方が――」

 先に動いたのは豊倉だった。

 最初は、親鳥が雛に餌を与えるかのように短く。 

 唇を合わせるうちに、お互いの舌が混ざり合い、境目が消えてゆく。

 十分な酸素を取り入れるために、一時的に豊倉から口を離すが、彼女は口がさみしいのか続けて、僕の首元に口づけをする。まるで、愛川総司の所有権は私にあるといわんばかりに。

 そのことに被虐めいた恍惚を覚える一方で、どうやってこの痕を隠そうかと悩んでいる冷静な自分がいるのも事実だった。

 そして、何かを期待するような濡れた瞳と目が合った。

「――この関係も明日までですから。いいでしょう?」

「よくはないだろ。色々と」

 僕は密着する豊倉の体から離れる。

「――せっかく、本命と一緒になれるんだろ?未練がましくいつまでも僕で遊ぶな」

「それとこれとは話が別ですよ」

 完璧な文章も、完璧な絶望も存在しないように、完璧な人間など存在しない。

 誰にだって後ろ暗くて、不健全な一面がある。

 だから僕たちはお互いを利用しあう。

『愛川くんが、自分を認められるのならば、私は何だってします』

 全てを失ったばかりの僕に豊倉はそういった。

 彼女の言葉は正しかった。

 言葉を使い、体を使い、心を遣い、豊倉は僕の価値を証明した。

 僕が豊倉に抱くそれは、ある種の信仰なのだろう。とはいえ、天岳先輩と一件からある程度たってなお、想い人がいる人間と不道徳な関係を築いているというのは、我ながら情けなくもあった。

「もしかして、妬いてるんですか。意外と可愛いところありますね」

 そんな僕の思いもつゆ知らず、豊倉はチェシャ猫のようにニッコリと嗤うのだった。

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