第4話

たしかに、妻、と彼は言いました。私は慌てて、彼の端正な顔を真っ直ぐに覗き込みました。

「お待ちください旦那様。私たち、お互いのことを何も知らないじゃあありませんか」

「身体のことはよく知っているよ」

「そうじゃなく」

「君がアンナで、元掃除婦で、周りから蔑まれて来たことも知っている」

「それは、」

「君が美しいことも知っている。ほかに何か、つがうのに必要なことがあるだろうか?」

 旦那様は言います。言いながら私を抱きます。

 これまでのことも、これからのことも、聞きたいことは山ほどあったのに、それら全てを、複数回のセックスでうやむやにされていきます。

 裸の彼は、天から遣わされた使者のようでした。美しい、作り物の彫像のようでもあります。けれど彫像と違うのは、性欲を持ち、それを真っ直ぐに私に向けていることでした。


「旦那様は私のことをご存知かも知れません。けれど私は、あなたを知らないのです。それなのに、妻だなんて」

「もう、妻だ」

「せめて、お付き合いをしましょう」

 そう言い募る私を押し開きながら、旦那様はおっしゃいました。

「ならば恋人になろう、アンナ。僕はロジャー。ロジャー・アントン」

 教えてもらったばかりの名前を、私はまともに口にすることができません。旦那様は次々と、ご自分のことを話されました。

 好きな食べ物は特にないが、嫌いな食べ物はピーマンであるとか、ご自分の事業がいかにわが国に必要不可欠であるか、とか、昔飼っていた飼い犬の名前はジュリエット、だとか。私にもわかる簡単な話から、想像もつかない難しい話までを織り交ぜて、彼はずっと語っていました。その間私は、彼に揺さぶられ、意識が朦朧としていたわけですが。


 旦那様は──ロジャー様は、そういうお人でした。

 偏執的なまでに何かを愛したら最後、その衝動が尽きるその時まで、行動をやめない人でした。



「アンナ。夕食の準備ができたようだ。降りておいで」

 私はがくがく震える足を動かして、ようやくいつもの質素なブラウスを纏いました。彼はそんな私の肩を抱き、共に階下まで降りてくださいました。



 階段の下ではメイド達がずらりと整列して私たちを出迎えます。ドアマンがおり、わざわざドアを開けずとも勝手に扉が開きます。食事をするためのテーブルは、私が想像したような形ではありませんでしたが、その上に、2人分の豪勢な食事が並んでおりました。

 何より、使用人の誰もが、私の顔をじろじろ見たり、逆に、そっと目を逸らしたりなど、しないことが、顔の傷の存在をまるで気にしないのが一番の驚きでした。私は癖で背を丸めかけましたが、ロジャー様は私に「顔を上げて」とおっしゃいました。


「あなたは美しい」


 誰もが私たちを見つめていました。私を醜女と呼ぶ人は、ここにはいませんでした。


“私はとても素晴らしいひとに愛された”と。

この時、思ったものでした。


この時は。

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