16.純も過ぎれば酷なもの
フェヌグリークは残っている仕事を引き継ぎ、ミュゼは再び外出の為の身支度をする。
その間にディルは、シスター達には過酷な力仕事をして回った。薪割りも高所仕事も、ディルにとって難しい事ではない。
肩下げに着替え一式を詰め込んだミュゼは、酒場に戻る為にディルの姿を探す。彼より先に、建物の外に三人並んで上を見上げているシスター達を見つけて声を掛けた。
「ディル様ならあちらよ」
「……へ!?」
シスターが指差したのは屋根の上、申し訳程度の鐘が付けられた小さな鐘楼。そこに梯子も無く登り、鐘を磨く白銀の男の姿。
ずっと昔に梯子が壊れて以降、もう使われていない筈の鐘だ。朝と夕方に時間を伝えていたものだというが、最早手付かずの鐘は錆も埃も付き放題だろう。それを丹念に拭いているディルの姿に、ミュゼが慌てる。
「なんであんな事させてるんです!?」
「わざわざ申し出て頂けたのよ。あそこまで届く梯子なんて、もう無かったけど……」
「ディル様ったら、この外壁の桟とかに足を掛けてスイスイ上って行くんだもの……。私もあと三十歳若かったらねぇ」
「貴女が三十歳若くても駄目よ、あんなにお似合いの奥様がいるんだもの。袖にされて終わりますよ」
「「「おほほほ」」」
何がおほほだ、とミュゼが歯噛みする。あの男を見くびっている訳では無いが、彼だってただのヒューマンだ。間違いが起きる可能性だってあるのに。
シスター達の中でディルが神格化されているようだが、ミュゼにとってはまだ生憎そうではない。地上でミュゼがわたわたしている間に、ディルの鐘磨きが終わったらしい。
「……」
ディルは無言で地上のミュゼ達を見た。そして、手を横に振る動きをしている。
『そこをどけ』。
言葉でなくて動きで伝えられた彼の言葉に、四人がそっとその場から後退る。
「ひっ」
女性四人が充分離れた頃を見計らって、ディルが――跳んだ。
合図も無く鐘楼の柱を蹴って空中に身を投げ、結んだ白銀の長い髪が靡く。それはまるで翼のように空に広がり――、着地と共に、毛先が少し地に触れる。
模範的とも言える体勢で着地した時の音の、重いものが落下する時のドン! という音だけが現実のもののようだった。彼が床に着地した瞬間、衝撃を肌に感じた。地面は揺れていないのに、体が揺れる。
幻想的に見えた景色は一瞬だ。あとは気味の悪いほどに無表情な男がいるだけ。
「……」
「きゃー!」
黄色い声はシスターのものだ。年甲斐もなく、というか本当に若返ったかのように盛り上がっている。
ここまでするのかと、ミュゼの動揺が顔色に隠し切れない。シスターに格好良い所を見せたかったのか、それとも効率を考えて飛び降りただけなのか。ミュゼの判断は付かない。
「……ディル様、そんな事する人だったの? 幾らなんでも、あんなとこから飛び降りたら危ないよ」
「……」
「聞いてる? ねぇ、聞いてるの?」
ミュゼがやんわりと注意するも、ディルの視線は孤児院に向いたままだ。暫くそのまま沈黙が流れ、やがてディルの瞳はシスターのうちの一人に向く。手に持っていた汚れた布巾も喜んで受け取るシスター。
「シスター」
「はいっ!」
「夕方になる頃合いに、我の名を出す客人が来るであろう。込み入った話が出来る者に応対して貰いたい」
「はいはい! 承知しました!!」
シスターの声が元気だ。最近何かあるごとに年を言い訳にしているというのに。
案の定ディルは詳しく語る事もせず、そのまま孤児院の敷地内から出て行こうとする。荷物は無かったとはいえ振る舞いが自由過ぎて、ミュゼと同行する為に来たのではないかと首を傾げたくなる。
シスター達に頭を下げて、慌ててディルの背中を追うミュゼ。詳細は伝えていないのに、シスター達は笑顔で見送ってくれた。
「ちょっ……待ってよディル様!」
「何だ?」
「なんで一人で帰ろうとしてるの。掃除してくれたりしたのは有難いけど、本当にただの同行じゃん」
「逃げる心算は無いのであろ。我は、汝の時間を拘束する我が妻に代わり、孤児院の手伝いを申し出ただけだ」
「……マスターの代わりに? なんだそれ、ちょっとは悪いって思ってくれてるの? そんで原因であるマスターの代わりに手伝い……って、ディル様ったらマスターの事大好きじゃん」
感情の薄い男に、そんな揶揄が通用するとは露ほども思っていなかった。
けれど、ディルは言葉を呑み込み、押し黙り、視線を彷徨わせる。その顔色に変化は無いが、明らかに挙動不審になっていた。
「……せぬ」
「……え?」
「でなければ、結婚などせぬ、と。……言ったのだ」
ざり、と靴底が砂を踏む大きな音がした。ディルは構わず、足早に酒場に向かってしまう。
先程と比べて格段に歩幅が小さくなったミュゼ。呆然とその背中を見送る。
「……へ? 何、今の」
惚気られた――と理解出来たのは、ディルの背中が遠くの街角に消えてからだ。
「おかえりー。……どうした、遅かったな」
ミュゼが未だに現実味のない現実を突きつけられたまま思考が戻って来ない。歩いているうちに、無意識に酒場に戻り着いているような状態だ。
え、とミュゼが正気を取り戻したのは、閉まる扉が鐘を鳴らした後だった。振り返っても、古い木造の扉は外の世界と酒場とを遮断していた。
「ディルの方が先に帰って来るし、何かあったかなって見に行こうと思ってたところだよ。荷物、持って来たんだろ?」
「……あ」
「部屋の準備はしてるから、夜まで自由にそこで過ごしていいよ」
ミュゼがまごついていると、アルギンは側に寄って来て様子を見る。
おかえり、と。
……ずっと、誰かに言われたかった。でも、誰でもいい訳じゃない。特定の関係がある、誰かに。
「……持って、来たよ。でも、……なんか、昨日今日で疲れてて……体調悪い」
「はぁ? おいおい勘弁してくれ、疲れてるだけならいいけど病気じゃねぇだろうな」
「んな訳無いじゃん。こんな色々起きて体調悪くならない方がおかしいって話だよ」
似ている顔、と言われた二人が交わす言葉は荒くても険悪な空気になる事は無い。
心配性だな、と言うミュゼの顔が照れ臭そうに微笑んでいた。アルギンに心配されるのが、悪くないとさえ思っている。
「馬鹿言え、そんな状態でアタシ達と行動出来ると思うな」
でも、ミュゼの心はその一言で冷たく突き放されたようになる。
確かに、一員となる話はミュゼから言い出した事だ。それを審査すると情報したのがアルギンだった。ミュゼなど、アルギンにしてみればどうなったって何の影響もない人物。
少しだけ浮かれていた。この酒場に近付けて、ミュゼが今まで気付かなかったくらいにほんの少しだけだったけど。簡単に心が動く自分に、ミュゼが歯噛みしたその時。
「おー。悪い二人とも、ちょっとこっち来てくれないかー?」
アルギンが、階段に向かって声を出す。
誰かが一階に下りて来たのだ。階段の軋む音に気付いたミュゼもそちらを向いた。
肌が隠れた足許は二人分、服装はズボンとスカートと別々だ。
正しくは一人はワンピース。黒の長袖一枚の、重苦しい服装。
「――……」
ミュゼの口が半開きになったまま閉じない。この二人の存在も、話に聞いていたから。
下りて来た二人はミュゼの存在に気付いた。掛けられた声が自分達に向いているのにも。
もう一人のズボンを穿いている女性は茶髪だ。ワンピースを纏った金髪の女性と比べると、素朴な外見をしている。
「マスター、そんな大きな声出さなくても聞こえますって」
「どうしたんですか、お客様ですか?」
「客ってーか……まぁ、うん。今のところは。ちょっと体調悪いらしくて、病気じゃないか診てやってほしいんだ。疲れかも知れないけど。紹介するよミュゼ、この二人は医者なんだ。こっちの金髪がユイルアルト、こっちの茶髪がジャスミン。そんで二人とも、こっちがミュゼな」
医者と紹介されたのは階段から下りて来た女性二人。そのどちらも、およそ世間一般に存在するような医者の姿とは掛け離れていた。
アルギンから言われたのは軽々しいお願い。その一言に、黒のワンピースを着たユイルアルトが眉間に皺を寄せた。
「疲れかも知れないけど診ろって……、なかなか無茶なお願いしますね。普通の医者なら、病気じゃないのを病気だって言えないんですよ」
「う……」
「疲れてるってだけかもって話なら良い物有りますよ。少し苦いけど疲れが吹き飛ぶお茶です」
「そ、それヤバイやつだったりしない!?」
ミュゼが悲痛な心からの声を出す。酒場に関わった途端薬物中毒は勘弁してもらいたかった。
しかしその声に目を丸くした二人は、互いに目を合わせた後に噴き出した。
「そんな訳ないじゃないですか、疲れてるだけの人にそんなものお勧めしませんよ」
「……あ、そ、そう」
「あのさぁミュゼ、本当お前さんアタシ達を何だと思ってんだ」
笑いと不満が同時に起きる酒場一階に、なんとなく居心地が悪くなるミュゼ。自分の知識との齟齬がある世界が気持ち悪い。そんな場所に、自分が話題の中に居ることも。
話から逃げたくて、適当な話題を探す。今の話と絡めて、逃げられそうな話題。
「そういえば、マスターも疲れてるって話だったろ。ディル様が朝方言ってたぞ、組み手の疲労でまだ寝てるって」
「……」
「……」
「……」
「だから私よりマスターの方が、そのお茶飲まなきゃいけないんじゃない……って、なにその顔」
ミュゼが口にした言葉に、女性三人が固まっていた。特に何かが起こった訳でも無いのに凍り付いたようだった。
一斉に固まった女性陣に困惑の表情を浮かべているうちに、一番最初に動き始めたのは茶髪のジャスミンだ。咳払いをしつつ、流し目のようにしてアルギンに視線を送る。
「……ええっと、その。はい、そうですか。マスターにもお茶を出しておきましょうかね。はい。……在庫は二ヶ月分しかないのでほどほどにして頂けると助かるのですが」
「…………」
「常用しても良くないんですけどねぇ、マスター」
金と茶の医者二人に言われて、アルギンがその場に顔を覆って蹲る。小さく震えているような気がするが、ミュゼにはアルギンが急に体調を崩したように見えた。
「え、どうしたのマスター? やっぱり疲れてるの? そんだけ激しかったの組み手って。その割にディル様ピンピンしてたけど」
心配したミュゼだったが、それは追い打ちとなる。
医者二人が、ミュゼの肩をぽんと叩いて階段へと誘導した。
「マスターの疲れが抜けないのはいつものことですよ、さてお茶を取りに来てくださいねぇ」
「お茶って……わ、私そんなにお金持ってなくて」
「後からマスターに一緒に請求するから大丈夫です」
二人の声がやや笑ったように震えていたような気もするが、アルギンを心配するミュゼはそれどころではない。
階下のアルギンはまだ動かない。
ミュゼの体が二階に到着した後でも、階下から物音が聞こえる事はなかった。
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