9.邪魔者退散(物理)
「申し訳ありませんわ、アルギン様。お店もあるでしょうに、忙しい貴女様が送迎してくださるなんて」
アルカネットがやっと起き出した時間帯には、ミュゼとフェヌグリーク、送迎役のアルギンは星空の下にいた。
春の夜はまだ肌寒い。アルギンの手持ちのストールを二人に貸した上での帰宅の途中だ。軽い酒でほろ酔ったフェヌグリークは機嫌よく、ミュゼは幾らか飲んだにも関わらず素面と変わらない態度。
「いーんだよ、店は閉めたし閉店作業はアタシの信頼する店員に任せたし、アルカネットは疲れてるのもあって酔い潰れやがって夢の中だからアタシが出なきゃな。淑女の送迎も名誉の内だ」
「やだマスターさんってば、淑女だなんて」
男である兄より紳士的な扱いを受けているフェヌグリークは、僅かに赤みが差す自分の頬をわざとらしく包んで見せた。
まだ頭巾を取らないミュゼは、寒がりな振りをして深く被り直す。借りた薄茶色のストールは、アルギンが着ている上着と同じ色。
「でも、本当に良かったんですか? お代は兄からもう貰ったなんて」
「アルカネットはそのつもりで金を出してたからな。酒の場での男の意地は素直に受け取って置いてくれないか。それでも悪いって思ったら、アルカネットに金とは違う形で返してやってくれ」
「私もそれなりにお酒を頂きましたが、前払いされたお代は足りたのでしょうか。アルカネット様も随分飲んでいらっしゃいましたが」
「足りた足りた。大丈夫大丈夫」
ミュゼの言葉に、返答とは裏腹に乾いた笑いで返すアルギン。
三人が歩く道は舗装されておらず、砂利を歩く軽い音がその場に聞こえる。
「――こうして、貴女様がお出になる為に潰したのですものね?」
足音が、止まった。
一拍遅れて砂粒の上を滑るような足音が聞こえて、消える。
「……潰した、って。おいおい、確かに飲ませ過ぎた気はしてるけど。アイツはいつも強い酒飲んだりしてるから大丈夫かなって思ってたよ」
「出発より早い時間にいらしてからの、孤児院の手伝い。音の鳴る作業はしないとしても、子供達を預かる場所での仕事は重労働も多いです。あの方を五番街の中だけとはいえ往復させて、手伝わせて、疲労の果てに深酒ですか。酒場の店主様でしたらお酒の量は見誤らないのではないでしょうか? ……だって、貴女様にとってアルカネット様は『特別』な筈ですもの」
「……シスター、何言ってんだ? アタシは別に、そんな」
「ああ、臭い臭い。私の鼻が、とんだ悪臭に嗅覚を乱されてしまいます」
ミュゼはその場で鼻の前に掌を翳して、科を作って見せた。わざとらしいまでの被害者面だ。
「流石、裏ギルド『j'a dore』のマスター、アルギン様ですわね?」
「――は」
ミュゼがそう指摘したが、フェヌグリークは何事か分かっていない顔だ。どうしてこの二人が急に言い争いを始めたのか、軽く酔った頭では理解が及ばない。出て来た単語も鼓膜を滑るだけだ。
それと分かる挑発も、わざとらしい嘲りも、アルギンには通用しない。困ったように首を傾げて笑って、少し大袈裟に身振りを加えた。
「ちょっと、何のことだ? 裏ギルド? 確かに店の名前はそれだがよ、んな大層な話は知らねぇよ。どうしたんだいシスター。酔っちまって空想癖でも出て来たのか?」
「空想癖。……ああ、空想癖だったら良かったんでしょうね。私も、私の――育ての親も、貴女達のせいで全てを狂わされたのに」
ミュゼからの怨嗟の言葉が出た途端、アルギンの表情が変わった。
全てを知っている者からの言葉でしか有り得ないそれを聞いた瞬間に、灰茶の瞳孔が暗闇のそれより大きく開く。
頭巾を被っているのは、素性を知られたくないからだと思っていた。生きていればそういう事だってあるだろうし、酒場なんて人の集まる所に来れば尚更に。
それが、自分に対してだなんてアルギンは思っていなかった。
「……ミュゼ、いや、ミョゾティス」
「はい」
「狂わされた、って、どういう事だ。お前さんの育ての親って、誰だ?」
「……名を出しても、貴女は分からないでしょう。貴女の旦那様であるディル様も同じ」
「アタシは、お前さん達に何かしたのか。帝国の出身か? それとも、アタシが関わった国の出身? それとも」
問い掛ける声が、震える。
「アタシが――守り切れなかった、アタシの」
今でも心を苛む、アルギンの記憶。
震える声が続きを紡ごうとした時に、無粋に砂利を踏む音が三人の耳に届いた。
足音は不快な悪臭さえ伴い、下衆た声が鼓膜を揺らす。
「よぉ、お嬢さん方。こんな夜中に女だけで出歩くなんて、なんとも不用心なこった」
アルギンはミュゼの言葉に動揺した表情のままだったが、ミュゼに言われる前から気付いていた悪臭が近寄って来るのに正気を取り戻す。うえ、と吐き気さえ催す顔で男の声を聞いていた。
ご丁寧に人数を合わせるように、現れた悪臭は三体。どれも煙草のようなヤニ臭さと、暫く入浴していないような黴と体臭の合わさった臭いを漂わせている。これで気付くな、という方が無理な話で。
「折角の美人さんが夜中にどうしたのかなー?」
「夜の散歩なら付き合うぜぇ、今ならひとりずつやさしーく相手してやるよ」
「……」
こういった手合いに慣れていないのか、フェヌグリークが後退する。馴れ馴れしい態度もそうだが悪臭が生理的に受け付けない。
油断してるのは女が三人と侮って近付いて来た相手側に他ならないのに、性差で有利に立っていると思っている来訪者にアルギンが溜息を吐いた。
「……間に合ってんだが。他に同伴者が無い夜の散歩だったとしても、お前さん達みたいなのはお呼びじゃねえな」
「またまたぁ」
追い払うかのように、胸の前で手を振る。あっちいけ、という言葉の代わりになりそうな動きは男達の嘲笑を誘った。
「こんな時間に外にいるなんて、遊び相手探してるのと一緒だぜ?」
「静かな良い場所知ってるから、とりあえず場所移そうや」
「……はー……」
話が通じない。
込み入った話をしている最中の無粋な邪魔者は、普段から遠慮したい所ではある。それも今回は事務的な話とも違う内容だったのに。
頭を抱えるように髪を握りこんだアルギン。その手を離して、どうにか穏便に男達に離れて貰おうと声を出す。
来るな。
少なくとも、今だけは。
「間に合ってるっつってんだろ。場所移してどうしようってんだ」
「どうするって? っへへ。そんなの、行ってみなきゃ分からねぇな?」
穏便に――とは、行かなかった。
男達が三人とも、ほんの小刀程度の刃物を出した。果物を切る程度にしか使えなさそうな長さだが、一般人にとっては充分凶器だ。
ひ、と息を呑むような音がフェヌグリークから聞こえた。年若い彼女が身勝手な男達に何かしらの要求を受けるなんて無かっただろう。アルカネットのような自警団員の兄を持っていれば尚更。
男達が武器を出した時点で、その末路は決まっている。あーあ、と疲れ切ったような溜息を吐いたアルギンが最後の念押しとして忠告の言葉を発しようとした、その時。
「おいお前ら、そんな事したら――」
どうなるか分かってるのか。
そんな陳腐な文句が口から出る事は無く、驚きで声が止まった。
アルギンが男達に声を掛けるより早く、男達が自分達の優位を疑うより前に。
ミュゼの頭巾の下に隠れていた金髪が覗いて毛先が跳ねる。
「へ」
気の抜けたような声は男のものだ。その声を発した口から塞がれる。
正確には、顎下から棒状の何かを振り上げられ――天を望むかのような姿勢で、後ろ向きに倒された。
鈍い音がしたが、男の一人はその一撃により昏倒した。身動き一つしない、見事な気絶っぷりだ。
「……え」
今度の声はアルギンのものだ。視界の中で急に動いたミュゼが、それまで何も持っていなかった筈なのに長棒を持っていた。なんだあれ、と頭で思えど声に出ない。
「間に合ってるって言われてんだろ、クズ野郎共。邪魔すんじゃねえよ」
言葉選びは粗暴で、乱雑。なのに自分の口から出たものじゃなくて、アルギンが状況に置いて行かれた。
現状の理解にかかった時間は、アルギンでもほんの二・三秒程度だ。けれどその間に別の男が鳩尾に一発と横っ面に喰らってまた地に転がる。
「……は!? ちょ、ちょっとシスター!?」
「あん!?」
止めようと叫ぶアルギンを余所に、ミュゼはドスの利いた返事をしながら三人目の手持ちの武器を弾いていた。小刀は夜空の星のように一瞬輝きどこかへ消えた。
男達は女三人だと完全に油断していたのが災いし、最後の一人もミュゼによって砂利の上に倒れ込む。
「……あー……」
流れるような、見事な手際だった。
ミュゼはさして荒れてない息で、溜息を一度だけ着くと長棒を折りたたむ。そのままシスター服の裾をたくし上げると、露わになった太腿に装着していたベルトに差し入れた。
「……うん。……えっと、シスター・ミュゼ」
「はい」
「薄々気付いてたけど。……お前さん、腕に相当覚えがあるね?」
「薄々? いつ頃から」
「足音。酒場でも外でも、お前さんから足音が殆どしない」
わざわざ指摘するほどの事でも無かった。けれど満足そうにミュゼが口端を緩める。そのままアルギンの側まで近寄ると、スカート部分を両手の指で軽くつまんで、改めて淑女の礼をしてみせた。
「お見苦しい所を失礼いたしました、アルギン様」
「……いや、そんなの良いよ。お前さんの本性、さっきの戦闘中に見えたから。……それより、さっきの話だけど」
ぎこちなく話題を振るアルギンと、優位に立っているつもりなのか余裕綽綽のシスター・ミュゼ。
二人が顔を合わせている間に、砂利が鳴る音が聞こえた。
「ってて……くそ、うげ、いてぇ……」
「………」
「……」
二番目にミュゼの攻撃を喰らった男が起き上がっていた。よろめく足で、小刀も落としたらしく素手だ。
フェヌグリークは怯えた顔をするが、アルギンとミュゼは一瞥をくれた後また向かい合う。
「シスター、討ち漏らしてんぞ」
「これは失礼。ですけどもう私が手を出さなくて宜しいんですよね?」
「出された飯は最後まで食うのがアタシの酒場の流儀だよ。……とは言っても、横から掻っ攫ってったのはそっちだしなぁ」
「おい!」
男は完全蚊帳の外である。この状況に唯一恐怖を覚えているフェヌグリークは迷った挙句にミュゼの影に隠れようとし、またミュゼも顔は向けないながら腕で背に誘導する動きを見せる。
「し、シスター・ミュゼっ、マスターさんっ。あっち、あっち男の人がっ」
「だからアタシは止めたんだよ。なのにお前さんと来たら聞きやしねぇ」
「こういうものは早い者勝ちではないでしょうか? お零れしか与えられずに拗ねるお方でも無いでしょう?」
「おいって言ってんのが聞こえねえのか!!」
無視され続け、ついに男が叫んだ。
耳障りな悪臭男に、アルギンとミュゼが苛立った顔を向ける。この夜の暗闇の中では、表情まで見えなかっただろうが。
「「ちょっと黙ってろ!」」
二人の声は綺麗に重なり。
「んだとこの」
男の怒声は、途中で途切れる。
怒りで注意が散漫だったこともあるだろう。しかし背後から近づく影は足音ひとつさせていないから、何があっても気付かなかったかもしれない。
背後から側頭部に向かって、綺麗に入った蹴り。それは先程のミュゼの一撃と比べものにならない威力で、男の体が横に吹き飛んだ。
吹き飛んだ軌跡をなぞるように、この夜闇の中で銀色が閃いた。それは、男のものとは思えない程に美しい、結んでいない白銀の長髪。
「――汝等」
文字通り男を蹴飛ばした男は、涼やかな声を呆れの色に染めている。
「騒がしい。少しは時間帯を考えるが良かろう」
それはミュゼもフェヌグリークも酒場でその姿を見た、アルギンの夫であるディルだった。
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