8.酒は飲んでも


 ――ディルが動き出したのは、ミュゼ達が来店してから十五分ほど経った後の話。

 それまで自身の子供達の寝かしつけに絵本を読んでいた彼は、薄手の本四冊を読み終えた所で双子の寝息を確認。二人の頬を突いても起きなかったため、無事に子供達が寝室に使っている二階の部屋から抜け出た。

 まだ遅い時間でも無しに、客席の方は騒がしさが減っている。いつもならば酔客の機嫌のいい笑い声が聞こえてくるはずなのだが。


 その勘は確かに、七年ほどをこの酒場で暮らした男のそれだった。




「っでねぇー? 今日だって二人の事お風呂に入れてくれたり、今だって寝かしつけしてくれてんだけどさぁ! もう本っ当ーに素敵な旦那様なんだ!! アタシディル好き! 大好き!! 愛してる!! 旦那様としても素敵だけど強いし格好良いしあんなに最高な人いる? アタシの話黙って聞いてくれたり、短気なアタシの事よく見てて注意してくれるし、アタシあの人と結婚出来て本当に幸せだし、なんならもしいつか死んでも生まれ変わって何回だって結婚したいって思ってるしずっとずっと好きでいて欲しいって――ほらアルカネット酒空だぞもっと飲め」

「…………」

「もっと我儘言ってくれて良いって思うんだけど、その件で前喧嘩した事もあって。いや喧嘩って言うか私が一方的に勘違いしたり怒ったりした時もあって、アタシの旦那様としてとっても苦労してると思うんだけどそれでも一緒にいるからアタシ愛されてるよねぇ。それで」

「あ、ディル」

「ディルぅー!!」


 五分以上長々と続く、店主アルギンの惚気話は唐突に終わった。

 酒を勧められて三杯目、もう酒も惚気も一杯一杯という時にディルが二階へ続く階段から姿を見せたのだ。

 ディルの姿を指摘すれば、盲目的に夫を愛しているアルギンは飛ぶように彼の元へと走っていく。


「……」


 結構な頻度で似たような光景を目にするディルは、カウンターから走って来る自分の妻の姿を確認。

 抱き着いて来ようとする体を避け、軽くいなし、妻の体の向きを反転させた。


「わ」


 くるりと半回転するアルギンは、そのまま両肩を抑えられてディルの隣に並ぶ。まるで踊らされているようだ。

 濃さの違う、夫婦の銀色の髪が揺れる。店内の灯りに照らされる銀色は、少しばかりの暖色を伴って輝いた。


「煙草臭い。また吸ったのか」

「……えへ」

「医者より禁煙を言い渡されているであろ」

「いやーんごめんディル、許して。愛してる」

「誤魔化すな」


 客から抑えた歓声が上がる。この時間まで残っている客は、夫婦の仲を酒の肴にして――もとい、理解が多い暇な常連ばかりだ。夫婦の愛の結晶である双子が寝た後なのも、ディルが客席に顔を出した事から気付かれている。

 アルギンの惚気の効果で、客は半分と少しにまで減っていた。耳に心地良い歌でなし、夫を賛美する語りはだいたい内容が同じなので飽きられている。

 夫からの耳に痛い注意を受けて、アルギンが苦笑いを浮かべた。愛の言葉を投げてもディルの視線は冷たい。


「……話は、ほんのちょっとだけ聞いた事……あったんだけど」


 酒場で初めて飲む、甘い果実酒を傾けながら。

 フェヌグリークは強烈な印象ばかりを残す夫婦に、どう感想を言っていいのか分からなくなっている。

 アルカネットは、関係者が恥ずかしい姿を見せている事に頭を抱えている。

 ミュゼは。


「なかなか面白い人達――ですよね、シスター・ミュゼ」

「……」

「シスター?」


 名を呼んだのに返事が無い。

 彼女の様子がおかしいのは、店に入った時からだ。

 フェヌグリークの言葉に応えられず、深く頭巾を被り直すミュゼ。その頬に、雫が流れたように見えた。


「え」


 かと思えば、酒器に残っていた酒を一息で煽る。水であるかのように喉に流し込んだ彼女は、酒器を持つ手で頬の雫を拭き、そのまま軽く挙げた。


「マスター・アルギン」

「はいよ?」

「お代わりを頂戴しても宜しいですか?」


 客からの注文だ。

 ディルの手はアルギンの肩から離れ、アルギンの足は既に動き出している。ミュゼの後ろを通り過ぎる時に、彼女の手にあった酒器を攫った。

 流れるような動きだ。夫婦ともに息の合っている行動。カウンターに入ったアルギンは、手の中の杯をくるくる回しながら次の酒を問う。


「次、どんなのがいい? 同じのか別のか、甘いか辛いか」

「お任せします。マスターがいつも飲んでいらっしゃるものが良いですね」

「お、言ったね? 無事に歩いて帰れるくらいにしなよ?」


 深く話す事はしないが、アルギンとミュゼは酒を通じた話を少しだけ交わす。「あのお酒は」「あれは他国のものでね」とそこまではいいが、試飲を強要されるのは毎度アルカネットだ。

 軽い酒だけで済ませようとしたフェヌグリークは、その会話を横から聞いては物珍しそうな顔をする。子育て時間から解放されたディルは、いつの間にかカウンターの隅っこから新参の客と妻の姿を眺めている。


 暫く、そのまま時間が経った。

 アルカネットが杯を開ける回数が増える。

 増える。


 増えて。




「……ん?」


 カウンターに臥せったまま眠りに入っていたアルカネットが起きた時には、既に店内が暗かった。

 厨房からの光が漏れる店内、蝋燭の数は少ない。それぞれの卓の食器は片付けられていたが、床はまだ掃除されていないままだ。

 大量に飲まされた気がする。強いものだけで四杯は飲んだ。薬草の味しかしないようなものも飲んだし、息を吐くだけで酒の味が戻って来る。頭も痛い。


「……う……ぁ」


 それもこれもあの馬鹿マスターが際限なく飲ませたせいだ。人の事を何だと思っている、と毒づく。

 頭を上げるのにも必死で、肘を付いて頭を抱えて周囲を見渡した。厨房から話し声が聞こえるから、店員姉妹が閉店後の処理をしているのだろうと理解した。

 妹は、そしてミュゼは――どうしたんだ、と思って目を凝らす。すると、暗闇としか思っていなかった店内にまだ一人客が残っているのに気付いた。


「うぉ!?」

「……相変わらず失礼だな、君は」


 眼鏡をかけた神経質そうな中年男だった。細身の眼鏡としてアルカネットの記憶にもある人物。近所で本屋を営んでいる男だ。ディルと多少の親交がある数少ない人物。

 他に客も居らず、店内も暗いとなれば閉店後なのにどうしてまだ居るんだ――という問いかけは彼が解消してくれた。


「君の妹君とご友人は少し前に帰ったぞ」

「は!?」

「アルギンが直々に送って行った。そして私は君が起きた時に、追って来ないよう見張っていろと言われた此処に居る。酒も回っているようだし、君が来た方が危険だとな」

「ばっ……、あいつ、余計な事しやがって!! 飲ませたの誰だよ!!」

「素直に飲む方が悪いのではないか?」

「女ばっかりで外出たら危険って、少し考えたら分かるだろうがよ!!」


 驚きと戸惑いに任せて椅子から立ち上がる。しかしまだ酒の残る状態では、足元と膝が同時に崩れた。大きな音を立てて、椅子ごと床に転がり落ちる。

 本屋店主は冷静な顔を向けつつ、何をしているのか見下げたような視線をくれていた。


「ったた……。くそ、まだ酒抜けないのか……」

「当たり前だろう、君が寝てから一時間も経っていない。今動くのは危険だ」

「今危険なのは俺じゃなくてっ……、!!」


 『今』は、特に何が危険なのかをアルギンも分かっている筈で。

 だからこそ俺にあの二人を迎えに行かせたんじゃないのか――そこまで考えて、酒で弱っていたアルカネットの思考が急激に働く。

 アルカネットの『仕事』を先送りにした理由。


「っ……、あのクソっ!!」


 アルカネットが飲まされた量は、常人なら酩酊状態になる程だ。酒場のマスターであるアルギンが、それを分かっていない訳が無い。

 指示に逆らえない。あの女が苦手なのはそれもあるからだ。指示でも命令でも、拒否権が無い。

 酒を飲めと言ったら飲む。女を迎えに行けと言われれば行く。


 人を殺せと言われたら。


 とにかく、今はフェヌグリークとミュゼの身に危険が迫っている。このまま倒れてるままじゃ駄目だ、とアルカネットが床低く移動する。三歩分、吐き気を堪えながら体を引きずって、それからなんとか身を起こした。それからは、扉に向かうまで早い。

 がらん、と乱暴な鐘の音が鳴る頃にやっと厨房から店員が出て来る。


「なんです、今の音――って、え」


 アルカネットが走る後ろ姿を、紫の衣服を纏ったマゼンタが見ていた。しかし追いかける様子はない。まだ店の中にいる本屋店主に視線を向けるが、彼は居残り賃として出されている珈琲を啜っていた。


「……マスターから、アルカネットさんが行かないよう言い使われてたんじゃなかったですっけ?」

「こんな枯れた中年に、あんな若い盛りの自警団員を抑えておける訳がないだろう? 骨を折られて終わりだよ」

「……うーん、マスターが聞いたら珈琲返せって言う案件」

「構わんよ。胃袋から直々にで良ければお返ししよう」

「やめてください」


 神経質そうに見える男だが、実際そうならこんな小汚い酒場になんて来ない。

 マゼンタが嫌そうな顔をして見せるが、そんな表情はこの暗がりを言い訳に見えない振りをする。

 二人が観客の居ない子気味良い漫才をしている間に、マゼンタの後ろからもう一人店員が顔を覗かせた。こちらは緑色のワンピースを着ている、切れ長の瞳をしたマゼンタよりも幾分年上らしい女性だ。手に泡がついたままなので、洗い物の最中だったのだろう。


「マゼンタ、今のは?」

「姉様、アルカネットさんが出て行っちゃいました」

「あー」


 こちらもこちらで間延びした声。何が起きているか理解は出来ても、その渦中に飛び込むつもりは無い。

 姉様と呼ばれた女性は考え事をする振りだけして、もう一度厨房へ戻る。


「マゼンタ、あと十分待て。洗い物が終わってない」

「私が待つのは良いんですけれど……、どうします? マスター帰って来て面倒な話になりません?」

「マスターも文句があるなら私と洗い場を変わってくれればいいんだ。それよりも風呂を沸かしてくれるか」


 食器同士の擦れる音が再び聞こえて来た。


「多分、また今から忙しくなるぞ」


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