2.夫婦関係者は顔を見合わせ


「……ん?」


 時間は流れて既に正午近く。

 やっと起床し、部屋にしている二階から下りて来た黒髪の男が一人。酒場の客席の指定席に、それぞれ座っている人物が三人。

 まだ酒場として開店していない『J'A DORE』。この時間に、我が物顔で居座る面々に男も見覚えがある。……見覚え、どころか知人以上の関係なのだから。

 この三人が、昼と言うにはまだ早いこんな時間に揃っているなんて珍しかった。


「今起きたんですか、アルカネットさん」

「……あー」


 アルカネット、と声を掛けられた黒髪の男は、肩より上で切り揃えた黒糸の間に指を差し入れた。気まずそうにがりがりと掻いて視線を逸らす。

 体に密着するかのような暗色の服は、うっすらと彼の立派な筋肉の付き具合を布の上から主張していた。


「昨日は居残り作業あったから、帰るのも寝るのも遅かったんだよ。夕飯の時、俺居なかっただろ」

「確かに居ませんでしたけど。……自警団そんなに忙しかったんですか?」

「昨日は事務担当が休みでな……。体も頭も使ったんだからこっちはくたくただって」

「へぇ」


 自警団に所属していて、仕事に行った時には毎度疲労を顔色でも訴えるアルカネットは、自分に話しかけて来た紫髪の男に視線を向けた。

 優雅に珈琲のカップを傾ける彼は涼やかな表情で、話をそれ以上掘り下げる気はないという風を装っている。黙っていれば優男のような顔も、小憎らしい態度も、毛先を遊ばせている髪の間から覗く長い耳もアルカネットが初めて出逢った時から変わらない。ゆったりした線の服の趣味だって。


「そっちは暇そうだよな、アクエリア」


 アクエリア、と呼ばれた紫髪の男が鼻で笑う。


「暇? ……そんな訳ないじゃないですか、と言いたい所ですけどね……。まぁ、暇に見えても色々と忙しいんですよ。あの夫婦……というかアルギンさんは色々頼み事して来るし」

「………」


 言葉を濁すアクエリアを横目に、アルカネットが瞳を細めた。


「色々、な」


 含みのある言い方をしながら、黒髪を揺らしつつ厨房へと向かう。ありものの食事にありつくためだ。基本的に好き嫌いの無いアルカネットは、いつも誰かの手によって用意されている食事を文句言わずに食べる。

 そんな背中をぼんやり見ていた、円卓のひとつに陣取る二人のうち、毛先が肩に掛かる茶の髪を持つ女性が何かを思い出したかのように立ち上がった。


「アルカネットさん! ごめんなさい、さっき火を消してしまいました!! もう皆食事終わってるのかと思って……!」


 厨房から「えー」と少々不満そうな声が聞こえる。

 よりにもよって今日の食事は余熱含めて火が必要になる料理だ。今から火を入れて温めた所ですぐに食べられるものでもない。

 謝罪の言葉を並べながら、ぱたぱたと厨房に小走りで向かう茶髪の女性。その背中を見たアクエリアも立ち上がった。


「仕方ない、貸しですからね」


 彼もまた同じように厨房に向かい、暫くして出て来たのは茶髪の女性だけ。

 しょんぼりした様子で座っていた席へと戻ると、彼女と同じ卓についていた金髪の女性が微笑んだ。


「なんで今日に限って消しちゃったんだろ……」

「良いじゃないですか、アルカネットさんが起きて来ないのが悪いんですよ。火事になると危険ですから、私としては問題は何も無かったと思いますけど?」

「……ありがとう、イル」


 イル。金髪の彼女はそう呼ばれたが、それは愛称だ。ユイルアルトという名を持つ彼女の金の髪は背中に届くまであり、着ている服は黒一色のワンピース。


「何か言われたら私が言い返しますよ? 悪いのはジャスじゃありません、って」


 ジャス、と呼ばれたそれも愛称で、ジャスミンという花の名を持つ彼女は照れ臭そうに笑った。味方をしてくれる親友の存在が嬉しくて、口許がつい緩んでしまう。


「……いいの。アルカネットさん、そんな事言う人じゃないもの。優しい人だし」

「そうですか? ……ふふ、ジャスがそれで良いなら私にだって異論はありません」

「私が悪いのも分かってるから。それより、アクエリアさんが厨房行ったけど……大丈夫かな」

「大丈夫じゃないですか? あの人、料理もお上手ですからね」

「そうじゃなくてね、その」


 ジャスミンが何かを言いかけた瞬間、厨房から「おわっ!」と野太い悲鳴が上がる。

 同時、どこからともなく漂う何かが焼け焦げた異臭。

 暫くして手に盆を携えてパンプティングを運び出てくるアルカネット。その袖口が燃えて、やや短くなっていた。


「……貸しどころか、新しい服買わせるぞアクエリア」

「男に服買っても楽しくないですよ。どうせ貴方似たような服幾つも持ってるでしょう、そっち着てなさい」

「自警団の仕事舐めてるのか。これまで何枚も破いてるよ、俺は激務担当だからな」

「……激務担当、ねぇ」


 アクエリアもまた、含みのある言葉を残す。

 アルカネットが運んだ盆に乗るパンプティングは、少々焦げの色が強いが充分食べられそうな程に焼けていた。席に付いた彼が、そのまま食事を開始する。

 穏やかな時間の雰囲気に釣られたジャスミンが、ふと浮かんだ疑問を解消するべく口を開いた。


「そういえば、今日マスターはどちらに行かれたんですか? 私達が起きて来た頃にはもういらっしゃらなくて。ディルさんの姿も見えませんし、そういえば他の皆も居ませんね」

「あの色ボケ共でしたら朝から外出したみたいですよ。俺の耳によく届くくらい幸福絶頂で出て行きましたね、アルギンさん」

「オルキデさんとマゼンタさんはこの時間なら買い出しでしょう? あの双子ちゃんは、ここ最近お出かけするんだーってずっと言ってたから多分それ」

「ん……? あの双子、もしかして双子だけで出掛けたってのか?」


 一人だけ、子供のみの外出を渋ったのはアルカネット。

 三人が、黒髪の彼を見遣る。『本業』が自警団員なだけに危険には敏感に反応する。


「最近は奴隷商人が城下に紛れ込んだって話もあるのに、油断が過ぎないかあの夫婦」


 同じ屋根の下で暮らす子供達だ。両親が揃っていても、アルカネットだって多少なりとも世話を焼いたことがある。

 あの双子だけじゃない。アルカネットは子供という存在と関わる時間は長かった。その誰もが、とても柔らかくてか弱い。

 危機感を露わにするアルカネットに対して、三人はどこか温度差を感じる反応を返す。


「……奴隷商人、って言ったって。あの双子ちゃん達が、自分達だけで外に出たいってゴネてたの聞きましたよ」

「この辺りは顔馴染みの方が多いみたいですし、怪しい人が居たら気をつけてくれるんじゃないですか?」

「ソルビットさんとの待ち合わせ場所らしい公園、行くまでの道には馬車も入れませんしねぇ。かわいい子には旅をさせよ、ですよ」

「お前らな……」


 寛容なのは彼等の長所だが、その長所が不用心という短所に取って代わられないといい――アルカネットが皮肉を心の中だけで呟いた。

 そんな皮肉も、声帯を通らなければ誰にも伝わらない。他の三人が、それぞれ自分の部屋へと散っていくのを食事を続けながら見た。

 欠伸をしているアクエリアは、この後またひと眠りでもするのかも知れない。

 ユイルアルトとジャスミンの二人は、死ぬまで終わらない仕事に精を出すのだろう。


「……」


 平和だな、と、確かに思う。

 酒場で、能天気な顔をしている女マスターと、その配偶者である男。二人の間には双子が産まれて、酒場にも酒場の外にも仲間がいる。

 マスターもその旦那も、アルカネットは苦手だった。でも双子は子供として愛らしいから構ってやりたくなる。

 なんとなくぎこちない住まいの環境以外を、アルカネットはそこそこ気に入っていた。

 気に入っているのに、何かが、気持ち悪い。


「……ふぅ」


 原因は分かっている。本業ではない『副業』のせいだ。

 口にする事も憚られる副業に従事しているアルカネットは、食事が終わると溜息を吐きながら立ち上がる。食器を厨房に引いて行き、流しに置いたら片付け完了。

 その帰りに、自分の部屋当てに郵便か何かが届いていないか確認する。――封筒の類は何も無かったが、奥の方には何度も乱雑に折り畳まれてしわくちゃになった紙片が一枚入っていた。


「……は。……アイツ……」


 差出人の名は無かったが、この字の汚さは酒場店主であるアルギンのものだ。

 読める字を書け、と言ったら本当に最低限読めるだけの書置きを残して行く。

 小さな、短い文章が綴られた紙片なのに丁寧に両手で持って、声に出さずに視線で読む。


 『アルカネット 例の場所 今晩 落としてくれ』


 例の場所。

 今晩。

 落とせ。

 その文章の意味が分かるのはアルカネットだけだ。寧ろ、他の者に分かられてはいけない。

 手紙の差出人に文句をつけようにも、奴は伴侶と共に浮かれた外出の真っ最中だ。暫く戻って来ないだろう。


「あー……、もう……何で今日なんだよ、あの馬鹿……」


 痒くもないのに頭を掻く。爪を立てて、怒りと不満を痛みで誤魔化すように。

 自分もまた、自警団員としての仕事が休みな今日はまた惰眠を貪りたかったのに、今から夜までの仮の予定を組み始める。

 夜に『落とす』として、それまでにしておかなければいけない事は幾つかあった。伴侶の居ない気楽な身分といえど、守りたい相手は存在している。

 考える事は山ほどあっても、この手紙の内容が今最優先になった。そしてこの内容を完遂しないと、どんな目に遭わされるか分かったものではない。


「給料……孤児院、それからだな」


 自分の一日の行動を決めたアルカネットは、紙片を二つに千切った。部屋に戻った時に、部屋にある火種で燃やすことにする。


「よし」


 よし、と口にした、その声に全然気持ちが入っていない。

 出来れば、今日は日が沈むまで寝ていたかった。それをあの女に邪魔されて、気分は悪くなる一方。

 でも、それに至る出来事は自分が願った話でもある。


 手の中に握りしめた紙片と共に、部屋に向かうために階段を上る。

 そうゆっくりもしていられない。軽い身支度を済ませると、誰に何も言わずにアルカネットは酒場を出て行った。

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