chapter.1 真実という花言葉
1.とある夫婦の日常
新暦776年 5月11日
ファルミアの丘、今年も花満開
国境沿いに位置するファルミアでは今、春の花が見頃になっている。およそ二十種類を数える花は色とりどりに咲き誇り、観光客の目を喜ばせている。
春の花は今月末までが見頃となっており、雨季を過ぎたら次は夏の花が植えられる予定。この機会に足を運んでみては如何だろうか。
――――O,Dennle
その日もアルセン国城下、五番街は晴天だった。
物語はその五番街に属する、三階建ての酒場――屋号を『J'A DORE』という――から始まる。
観光記事を載せた新聞は、数日前の客の忘れ物。酒場を経営している建物の内部、カウンターに置き忘れられた新聞は酒の染みをつけられ、店の関係者に見つかれば今日にでもゴミとして捨てられるだろう。
店内を掃除している人影はひとつ。黒髪をひとつに結んでエプロンと共に薄い紫色のワンピースを着た、少女と女性の境目であろう年齢の外見をした店員。
彼女はモップで床掃除を手際よく終わらせた後、額に浮かんだ汗を拭うようにしてひとつ溜息を吐いた。そして奥に続く廊下に向かって大声を出す。
「マスター! 床掃除終わりましたよー!!」
奥から「あーい」という女の低い声が聞こえた。起きてる、と店員が思いながらモップを片付ける。
すると、女の声が聞こえたのと同じ奥の部屋から、双子の幼児が飛び出して店員の元へ駆け寄って来る。年の頃は四・五歳、色の深さは違えど銀色を髪に宿した二人。
「マゼンタおねえちゃん、きがえたよぉ!」
「マゼンタおねえちゃん、にあうかなぁ!!」
二人とも色と形は少し違うがよく似通った、かっちりとした白い襟付きの服を着て揃いの手提げを持っていた。
温和そうな表情を浮かべた、長く鈍い銀髪をした幼児は青み掛かった薄紫色のワンピース。
吊り目がちの勝気そうな表情を浮かべ、肩口までで切り揃えた白銀の髪を持つ幼児は、鮮やかな青の上下、下は半ズボンになっている。
舌ったらずな口調ながらも元気な挨拶をした二人に、マゼンタと呼ばれた店員が笑顔を浮かべて迎える。
「うん、今日も可愛いよウィリアちゃんにバルトちゃん。朝ごはん用意してあるよ、ミルクは温める?」
「おねがいします!!」
「わたしはつめたくていいよー!」
「はーい」
幼児二人の相手をしながら、マゼンタがキッチンの中に入り込む。ウィリアとバルトと呼ばれた双子は、その後ろを付いて行った。
……そうして再び静かになった店内。
まるでその機会を見計らっていたかのように、店の奥、廊下向こうの扉が再び開く。
「足元に気を付けろ」
そこから現れたのは白銀の長い髪を一つ結びにした、長身で細身の男。既に白のシャツと黒のズボンを穿いて身支度は完了している。
その男に押されるように、寝惚け眼をした鈍い銀髪を持つ女が廊下に出た。服は寝間着の薄鼠色をした長袖ワンピース、若干着崩れた姿。髪の間からは男より少し長く細い耳が飛び出していて、彼女が長命種の端くれだと分かる。
「んー………」
二人が向かう先は風呂場隣の洗面台だ。ぺたぺた、と、素足の女が足音をさせながら半分夢の中にいるような喋り方で男へと話しかける。
「んー、ディル今日もありがとー……。かっこーいいー……。けっこんしてぇー」
「既にしている」
妻である寝惚けた女は、夫である男の言葉を聞くと「えへへへへ」と気の抜けた笑みを漏らした。
朝に弱い妻を洗面所まで連行するのは夫の仕事。二人がこの酒場で暮らし始めてから、今日まで続いている日課。夫からタオルを渡されて、覚束ない足取りで洗面所へとのろのろ入っていく。
桶に張った水で顔を洗い始める音を聞きながら、ディルと呼ばれた男が酒場客席へと向かった。
「ウィスタリア、コバルト」
その頃にはもう双子も客席へと朝食を運び早速食べていた。今日の食事はパンプティングとグリーンサラダ。焼くまでの工程は、双子の母親が前日から用意していたものだ。
名を呼ばれた二人は、声の主であるその白銀の男へと視線を向ける。
「はぁい」
「なにー?」
二人とも口端にプティングの欠片を付けていた。返事をする双子に、男が目を細める。
「味はどうだ」
「おいしいよ!」
「おいしー!」
「そうか」
それを聞いた男は、どことなく嬉しそうだった。しかし、男と同じ髪の色をした幼児の口から出てきた言葉で、男が固まる。
「このパン、ぱぱがきったやつだよね! かたちバラバラだからすぐわかったよ!!」
「………………」
「で、でもおいしーよ!!」
すぐさまもう一人の幼児から補完が入る。しかしそれは男への慰めにはならない。パン以外を用意したのは男の妻なのだから。
そして固まる男を余所に、先程まで寝惚け眼を晒していた妻が着替えまでの身支度を整えてやってきた。
「よし、今日もアルセンは晴れてるな!!」
先程の半睡眠状態とは打って変わって元気な様子を見せる妻の姿に、男は視線を向けた。
双子も女の登場に笑顔を更に深めて出迎える。
「ままおきたぁ!」
「おいしーよままぁ!」
「良かった、二人ともいっぱい食べるんだよ!!」
ママと呼ばれた女は、双子の言葉に満面の笑みになって鼻歌を歌いながら二人の近くに座る。そうして揃った四人は、夫婦とその子供達というひとつの家族だった。
その家族の側に、マゼンタが近寄る。手には二人分のパンプティングを持っていた。
「さ、二人の分も焼いておきましたよ。熱いうちにどうぞ」
「ありがと、マゼンタ」
「……ああ」
「いいえ、私は焼いただけですから。あとは皆さんが降りてくればいいんですけどね……」
マゼンタはそう言って酒場のホールから繋がる階段の先を見た。この建物の二階以降は貸し宿をしており、食事は有料になるが提供も可能だった。貸し宿使用の面々は基本的に用事が無い限りはこの一階で朝食を摂る。
そこそこ気心の知れた面子ばかりだ。だから大体の起床時間も把握しているけれど、今日に限っては全員降りてくるのが遅かった。
「寝てるんだろ、気にするな。それより、こんな時間から働かせて悪いなマゼンタ。後はいいから、マゼンタも食事摂ってくれ」
「マスター……。そう思ってくれるのならもう少し早く起きてくれたら嬉しいんですけど?」
「……いや、本当悪い」
珍しく反省した様子を見せる『マスター』に、マゼンタが肩を揺らして笑う。
「冗談ですよ。でも、今度三日くらいお休み頂きますからね」
「お、珍しいね。どっか行くの? お金渡すからお土産買って来てくれ」
「もう、そんなことばっかり」
黒と銀、髪にそれぞれの色を宿した女二人は仲の良さそうな姿を見せている。そうこうしている間に双子が食事を終えた。自分達で食器をキッチンまで片付けに行って、それから少し遅れてディルが自分の食器を引いていく。
マスターと呼ばれた女は、マゼンタがその場を去った後もゆっくりとした所作で食事を進めて行く。今日のパンプティングは甘さ控えめ、朝食としては丁度いい。けれど子供達のおやつにするには渋いかも知れない、と、そんな考えを巡らせながらひと匙ずつ口に運ぶ。
食器を片付けた双子と父親がキッチンから出てきた。無邪気な双子は母親の元へと駆け寄る。
「ままー!! いってきます!!」
「ままー! いってきまーす!!」
その後ろを付いてきた父親は手にタオルを持っていた。双子の汚れた口許を順番に拭いていく。
清潔にして貰った双子は、それぞれが座っていた椅子に引っかけてあった手提げを持って、父親に礼を言ってから店の外に駆け出して行った。
「あの二人は朝から元気だねぇ……」
「以前より楽しみにしていた様だからな」
「まー……ねぇ……」
双子には一週間前からとある人物との約束があり、その為に外出した。行き先も誰と会うかも何をするかも分かっている。両親共に、せめて目的地まで付いて行くと言ったのだが、双子の断固とした拒否と近くの公園で件の者と待ち合わせをすると手回しをされた事によって断念した。
夫婦だけになった一階で、静寂が訪れた。しかし夫婦はどちらもそれに頓着せず、妻の方は食事を終えて食器を引いていく。
「アルギン」
厨房へ向かう途中、妻の名を夫が呼んだ。
「ん、なに?」
答える声は穏やかではっきりとしている。まるで先ほどまで寝惚けていた女のそれとは思えない。
「………、ウィスタリアとコバルトが居ないのは、久方振りであろ」
反して、夫――ディルの話し口は戸惑いと躊躇いで鈍い。
「……? うん、そうだね。いつもは大変だけどこう静かだとやっぱり寂しいなぁ。今日の夕飯何がいい? 今日はゆっくり作れるから何でも好きなもの――」
「………………いや」
ここまで躊躇いがちなディルを滅多に見ない妻――アルギンは小首を傾げる。
暫くの間場を支配していたのは静寂などではなく、どことなく気まずい沈黙だった。
やっと口を開いたディルは。
「……今は、何処も花の盛りだ。急ぎの用が無いのであれば、……その、七番街まで……散歩にでも行かぬか」
「――へ」
それは年に一回でもあるかないかの、夫からのお出掛けのお誘い。
途端にアルギンの表情が疑問符を浮かべていたものから明るい笑顔に切り替わる。
「ほんと!? 嬉しい!! 行く行く、今からでも行く! どうしようお弁当作る!? 何が食べたい? それとも向こうのお店で食べる? もういっそ今日は店も休みにしようか、あああ先に分かってたらいつもの格好なんてしないでお洒落したのに!!」
「……今提案したばかりだからな」
「ありがと嬉しいディル愛してる。急いで用意するから待っててね。書き置きとかしてくるから」
「書き置き?」
「酒場の仕込みとー、何処行くかとー、それから……『仕事』の事とか、ね」
ああ、とディルが納得した。この酒場では、飲食店としての顔とは別にもう一つの側面を持っている。
その厄介な面はアルギンを縛る鎖になっているけれど、ディルの隣に居るアルギンは毎日笑顔を浮かべていた。嬉しそうに小走りで準備とやらをしに行く妻の後ろ姿を、廊下の向こうに消えるまで見守っていた夫。
バタバタと音がして、暫く待つと小綺麗な服に着替えた妻がやってきた。日常着なのは同じだが、あまり袖を通さない新品に近い服。
手には数枚ほど紙を持っていた。ふたつに折り畳まれたそれらを、各部屋の郵便物を振り分ける為の箱に入れていく。
「ご飯は向こうで食べよう! 美味しいのがいいね、ディルは何が食べたい?」
「……別に、希望は無い。汝が選ぶが良かろう」
「良いの? じゃあさ、美味しいスープの店の話聞いたからそっち行きたいな」
二人は仲睦まじく、扉を開いて外へと出て行く。
扉が閉まった瞬間、カウンターの中にある郵便入れの中の紙片が折り目を開いた。
それはアルギンから、この酒場の貸し宿を利用しているひとりの人物宛ての短い手紙。
―――『アルカネット 例の場所 今晩 落としてくれ』
急ぎで書いたのが分かる短く悪筆な文章が綴られた紙片は、送り先の者の目に入ったら燃やされて消えるだけの運命。
それまでの間、文章を伝える為だけに存在する手紙。
誰もいなくなった酒場で、言葉だけが残された店内で。
子供さえもが暮らす酒場に似つかわしくない、血と刃物で彩られた世界が覗いている。
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