【第三部】アルセンの方舟 ―国家公認裏ギルド交響曲―
不二丸 茅乃
Preface. 貴女を抱いて、業火に抱かれ
神の存在しない世界。
この世界を作り出したとされる創世神、そしてこの国の初代元首となった神は居なくなった。
初めは三柱居た神だが、生き物の欲に見切りをつけ、この世界から離れた神は二柱。
しかし、その欲望だらけの命に希望を見出した神だけは留まり続け、自分達で営みを続けられる頃合いを見て離れたと言われている。
最後まで人を見捨てなかった神がその心に最後に宿したのは、安堵か失望か。
それとも、完全なる神には不完全を誘発する『心』など無いのだろうか。
「……」
業火に包まれる石造りの部屋の中で、男が僅かにそれまで閉じていた筈の目を開いた。
既に体にも炎が移っているというのに、その一瞬だけは心だけが体から取り残されたように冷静だった。
業火を点した第三者――男は彼を友と呼んだ――は、既に室内から出て行っているようだ。最期を看取れと言わなかったのが悪いのだが、些か薄情に思える。
炎の渦に呑まれる中で、熱い、痛い、と感じる筈なのに、そういったものは何も感じない。ただ、腕に抱き締めた抜け殻の軽さだけを感じた。
地獄の中で六年間、離れて生きた妻だった。
既に息は無く、業火に巻かれても身動き一つしない。
男の体も殆ど動かなくなっていたが、指先が僅かに動いたので妻の体を小さく撫でる。
まだ口から出る溜息に、自嘲を混ぜて逃がした。
この世界は神も居ないのに地獄だけはあるのか、と。
たった一人の嘆きが地を揺るがして、これまでの絶望を覆せる訳もなく、終わらない悪夢が未来永劫続く空虚に耐えきれなかった。ただそれだけの話。
妻と離れ、いつ死んでもおかしくないような生活をして、最愛の人が居ない苦しみに身を焼いて。
それで、妻が生きていると知った希望と、妻が歩んだ絶望に耐え切れず死を望んだ現実との落差に男すらも死を選んだ。
命を、国を、世界を、全て呪った所で癒えない胸の瑕疵は、きっと死んだ所で消えもしない。
でも、全てを呪うほどの人生では無かった。死の間際に思うのは、これまで男を支えてくれた仲間たちの顔だった。
彼等の顔を順番に思い出して、それから口を開く。
「――神よ、若し存在するというのならば」
願ったって過去は変わりはしないし、未来永劫彼女のいない生が続く。
けれどもし、彼女が生きていられた世界がどこかに存在するのなら。
愛した人が、自分の代わりに生きる世界があったとしたら。
「我を、此の者の代わりに――」
願っても、何も変わらない。
けれど。
きっと、妻の歩んだ地獄を肩代わり出来ていれば、世界は今よりもっと優しかった筈だった。
少なくとも、死しても妻は自分の事を愛してくれたはずだから。
そう言ってくれた人がいたから。
願いを最後まで口に出そうとした瞬間、再び閉じかけた男の目の前に何かが見えた。
炎に包まれた自分と、事切れて燃える腕の中の妻を映す鏡のようだった。
男の視点がそれに移された時に、鏡像は姿を変える。
それは二人の記憶に残っている。互いに騎士として戦場に立っていた頃の格好をしていた。
「――……」
炎に包まれて焼け焦げる自分の指が、それに伸ばされた。自分を焼き尽すまで消えない炎は視界を揺らめかせるのに、鏡だけは輪郭を確かなものにさせながら其処に在る。
漆黒の枠で覆われた鏡は、光を眩い虹色に反射させる。
男の指が鏡に伸びる。その虹色に触れたくて、必死で手を伸ばしても届かない。
鏡の中の自分達の姿が動いた。自分達の在りし日の姿を映しているような不思議な感覚が男を襲う。
そうだ。
戻りたいのは、この時だ。
男が手を伸ばす。その映像が、二人に訪れる離別の瞬間を映すまでに触れなければならないような気がして、今にも途切れそうな命を、懸命に振り絞って。
震える手が届かない。逆の腕に妻を抱いて、嫌だ、と。待て、と、何度も心の中で繰り返す。
『本当に代わるだけでいいのかい?』
声が、聞こえた。
何処かで聞いた気もする。
耳に嫌に馴染んだ声は、男に問い掛けた。
何を、と返しかけた男だったが、掛けられた声に動きを止めた。
「――ちがう」
ほぼ即答だった。
妻は、自分達の身の安全を最優先に考えていたから戦場に残った。
そして、離れた。
男が妻を逃がして自分がその役目を代わりに担えば、きっと彼女は生きていただろう。
けれど、自分は死んだかも知れない。
「我は」
望んでいいのか分からなかった。
『もし』と『自分が』の世界を考えた。
でも本当の願いは別にある。男にとって、それは『欲張り』とも言える世界の話。
「妻と――アルギンと、生き残りたかった。離れたく、なかった。共に、生きたかった」
二人とも戦場で生き残って、それからも離れることなく、寄り添ったまま幸せに生き続けたかった。
それはきっと、大義名分に関係なく他の命を殺め続けた自分達には不相応な願い。
でも、口にするだけならきっと許される。
本当の願いを口にした途端、体は素直に動いた。
中指の先が鏡に触れた瞬間、鏡像が消えて鏡が枠と同じ漆黒に染まる。虹色の光が消えていく様を、ディルはぼんやりとした頭で見ていた。
漆黒に染まっているのは、自分の視界も同じだ。自分の死の訪れを感じながら、妻を抱き締めたまま床に倒れ込む。
「……アルギン」
名を呼んでも返事は無い。でも、もうそれでいい。
「言って、無かったな」
返事は無くても、そこにいる。
二度と離れずに済む。
「……死しても途切れぬ永遠を、今此処に誓う」
この先に待っているのが再び目覚めぬ事のない眠りでも、もう、寂しくない。
「愛している、……アルギン・
一番愛した人が、側に居る。
その言葉を最後に、神へと呪詛を吐いた唇はもう動かない。最後の願いも、届いたかなど誰にも分からない。
けれど神は身勝手な自己犠牲を愛したりはしないし、死したものに向ける労いなども持ち合わせていない。
『たったひとつ』を、願えばよかった。
男――名をディルという――の瞼は、閉じられて二度と開かなかった。
この世界では。
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