羨望 1
ウミモ通りは港につながる。灯魚杜有数の港で、朝の市場には新鮮な海産物が並ぶ。
毎朝、少し潮の香りの風を顔に受けて登校は始まる。道を歩くと、私を止めようとでもしているのか向かい風が吹いてきて。髪の毛が空中に流れていく。
緩やかで何もない。幸せだ。戦火に包まれるような時代に生まれなくて本当によかった。
道は広いから駆け出して翼を広げて、どこか遠い場所にでもいってみたい。比喩ではない、ただただ、翼を広げて服を蹴破って、今は隠れている背中の突起物も全部晒して、化け物みたいな状態で逃げてみたい。楽しそうだと思う。
三つの邸宅を通り過ぎると、他よりも一回り大きな屋敷の門が見える。私はそこで待つ。門番も慣れているから、お互い頭を下げるだけ。気楽だ。
じっと、待っていると、また風が吹いてきた。目はもう覚めているが思考が落ち着く。
「…いってきます!」
あ、声が聞こえた。うん、知ってるか。
「ヘリー、おはよう」
「おはよう。メネダ」
そう、うん、あの子。メネダ・ドルテ・ゲルダ。私の数少ない、いや、唯一の、貴重な、稀な、奇妙で異質な、友人。恐ろしいひびきだ。だけど、この子の容姿は彫刻のようで、計算されたようで、ゾッとする虹彩で、きらめく金髪で、流星で、深い美しい青の目で、美術品そっくりだ。
メネダの足先から踵まで、指先から背骨まで、綺麗に門の外へ生まれでる。
「遅れてはならないから、はやくいきましょう」
月の微笑みをたたえて、メネダは歩く。ああ、早く、彼女の隣に立たなければ、今にも私の居場所はどこにもなくなる。
自分の存在はそれくらいの薄い価値だ。まあ、仕方がない。ロクな努力も、類稀なる才能も、美しい容姿も、何も持っていないから、誰にも覚えられることはない。仕方がないけど、泣きたくなってしまう。
「…ヘリー?」
「あ、うん。行こう」
唇が乾いている気がしていたが、別にそんなこともなかった。さあ行こう。歩こう。歩かなければ、ほら、歩け。
ヘリャータは黒い靴の爪先を一歩前に踏み出した。それを見てメネダは安心したように笑った。ころころと可愛らしい声が続ける。
「そういえば今日、朝起きたらロオズが日記を書いていたの」
「人形のかいた日記、なんて、五十年経ったらすごい価値がつきそうだね」
「日記自体よりも価値のあることがあったわ」
「え?」
「ロオズがね、気まぐれを覚えた」
「……………そ、れは、おめでとう? 本当に『普通』から離れていくね」
「そうね。うん。たしかに、私が小さい時よりずっと感情豊かになってきてる」
記憶をなぞって踊り出しそうに歩くメネダ。先に進んでしまう彼女をヘリャータが追いかける。道路の石を蹴って、カツンと靴の裏の音がした。
「ねえ、ヘリー」
青い空と港から遠ざかる道を背景に、メネダが振り返った。急に止まった彼女に合わせてよろけそうになったヘリャータはもう一回黒い靴が蹴った音を立てたのが小さく耳に届いたことを無視して、目を合わせた。
「私は、異常なのかしら」
ヘリャータの黄色い瞳の縁がぐわっと広がり、背骨がよろけの追加効果でぐぎゃりとくの字に折れた状態のまま、息が口から這い出た。
「…は…?……異常………?……」
「そう、異常」
平坦なおうむ返しをするメネダの海の目から視線を離すことなく、ヘリャータは真っ直ぐに立ち直る。背中からのそよ風がまた頬に触れて、潮の香りを思い出させた。
「君が異常だなんて、何をいっているんだい? 今朝メイドに何か言われた?」
首を傾げて垂れた髪を耳にかける。黒い鞄を持ち直して、メネダの隣に立った。
「そうよねえ。よかった」
憑き物の落ちた笑顔でメネダは歩き始めた。
「いつも変なこときいてごめんね」
「大丈夫、君は異常とは程遠いよ」
「うん!」
あー、心底羨ましい。こうやって、どこまでも異常じゃないこの子が、どこまでも羨ましい。きらきらの笑顔が眩しくて、綺麗で、目が潰れてしまう。昼も夜も一人で兼ねてしまうこの子の隣に、立てる人はいないんだろうな。
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