白狐の嘆き

 真冬の境内を駆け抜けていると、だんだん寒さが体の芯へ食い込んできた。まだ少ししか進んでいないのに、耳が、尾が、ちぎれそうに痛む。僕、寒がりなんだけどなぁ。

 ため息を吐こうとしたけれど、父さん——稲荷神から忠告されたことを思い出し、あわてて口を閉じた。

『半神は気配を消す事は出来ても、ため息だけは隠せない。舌打ちもだ。特に、結界と結界の外の境目にいる時に悪感情を外に出してしまうと、穢れを引き寄せてしまうのだ。』

 あの時、父さんの顔が暗かったのは何故だったんだろう。聞けずじまいのままここに来ちゃった。あーあ。


 手水場の裏から森の中に駆け込むと、少し雪が遮られるようになった。風は吹きつけてくるけど、ちょっとはマシかな。

 そういや、ここの木もよく枯れずに生きてるよね。百年も呪われてるんだよ?僕なら寒くて倒れちゃう……。

 深く積もった雪に足跡を残さないように、ゆっくりと進む。

(音が鳴ったのはこの辺のはずなんだけど……。おっかしいな、ここに飛び込んだとたんに音が止んじゃったよ……。ため息なんてしてないのになぁ。)

 鍛錬で身につけた〈聡聴〉を頼りにやって来たものの、異音はここにきてぱったりと止んでしまっていた。


 と、ふいに背後に気配を感じる。振り返ると……。

 (なんだ、思ったより遅かったね。)

 (何だ、は余計だ。悪かったな、遅くて。)

 不服そうな声が、耳に——ではなく、脳内に響く。

 吹雪で乱れた黄金の毛並み。知性と強さを感じさせる黄玉色の双眸。右前足には〈破魔ノ弓矢〉。

 兄ちゃんだった。

 僕と心の声で会話できるのは、兄ちゃんだけ。どうやらホンモノみたい。

 (それより白狐、森に入ったんだから火を消せ。この辺は結界が弱くなってるようだから、気取られないようにしないといけないぞ。)

 (はいはい。僕に気取られたヒトのセリフとは思ないけどね!)

 (……。)

 バツの悪そうな顔でもぞもぞする兄ちゃんを横目に、提灯の白い炎に雪をかける。白い光は淡く揺らめいて消え去った。残像が視界でざわめく。

 《カタ、……コトン。》

 あ、異音が鳴った。まさか兄ちゃんが来たから?……なんて、ね。

 闇の中で、僕らは少しずつ前進した。

 森に入ってからちょっと時間が経ったから、〈聡瞳〉も闇により慣れてきた感じがする。光は無いけど、雪片のひとつひとつがハッキリと捉えられた。

 葉っぱひとつない木々でいっぱいで、ちょっと不気味な感じもするけど。

 《カタ……ン……カタ……コッ。》

 (……なあ、白狐。)

 (何、兄ちゃん。)

 (どうやら俺達は、かなり異音の源に近付いてきたらしい。今のうちに、〈匂い落とし〉をしておくぞ。)


 (……えっ。)


 ウソじゃない、僕はその場で凍りついた。


 (邪気払い?嫌だよ!……僕が寒がりなの、兄ちゃんだって分かってるでしょ⁉︎)

 (諦めろ。俺だって……。でも、ほら、前に聞いただろ?〈匂い落とし〉をしなかったせいで敵に気取られて、一瞬で呪い殺されたヤツの話。ホントかどうかは分からないけど、やらずに死ぬよりやって凍える方がまだマシだろ?)


 ガ——————ン。


 脳内に絶望の鐘が響く。

 (じゃあ何?このかわいいかわいい白狐くんを苦しめても良いと思ってるの?ヒドイ!この非情者が……うっうっ。)

 (お、おい白狐。なんで俺を非情って言うんだよ。元はと言えば、父上がお前に言った話だろ?……やるしかねーんだよ。)

 この僕が愛くるしい顔を歪ませてまで〈匂い落とし〉を嫌がるのには理由がある。

 邪悪なモノには、人間の〈匂い〉が興奮する原因となる。匂い、といっても、汗とか香水とか、そういうのじゃない。人間なら誰でも発している、邪悪なモノにしか分からないフェロモンみたいなものなんだ。

 でもそれは人間だけの話。神は生き物ではなくて、ある種自然の一部でもあるから、〈匂い〉なんて出すことは無いんだ。っていうか、出そうとしてもムリ。

 でも、僕らは半分人間。うっすらと、ほんの少しだけ〈匂い〉が身体に染み付いているんだ。

 しかも、この〈匂い〉が邪気と混ざるとさあ大変。邪悪なモノを誘う、より危険な香りに変わってしまうんだ!

 そこで便利なのが雪——特に、新しく降り積もったやわらかな雪。その雪の中に……ああ、そう……僕が嫌がる理由、分かった?


 〈匂い落とし〉。

 それはつまり、「雪の中に潜りこむこと」なんだ……。


 (いやだっ……嫌だあああ!さむい!ザームーイー‼︎うわあああああ!!!)

 抵抗もむなしく、可哀想な僕は、兄ちゃんと新雪に全身をうずめることになった。

 あまりの苦しさに泣きながら暴れていると、兄ちゃんが冷たい目で睨んできた。無慈悲に降りしきる雪も、僕の体を凍えさせる。

 《コンッ……コトンッ……。》

 (おい。ジタバタしてないで、無心になれ、白狐。そうだ。そのまま、しばらく心を無心にして……。)


 (ああああああああああ嫌だああああああああああ!!!!)

 (だからあああああっ!大人しくしろおおおおおおっ!)

 (……グスッ……グスッ……。)


 …………。


 (よし、そろそろいいぞ。)

 (や、やっとおわった……はひぃ。)

 凍死寸前で意識が飛びかけていた時、やっと許しの声が掛けられた。

 (にいちゃんもうぼくしゃべれない……。)

 (いや喋れてるだろ。俺も寒いんだよ、我慢しろ。丸焦げにならないと〈匂い〉が落ちないって言われるよりまだマシだろ?)

 「あーあーそーですか。どーせ兄ちゃんには何も分かんないでしょーよ。どーせ僕なんて寒がりの甘えんぼですよ。〈匂い〉が落ちるなら、丸焦げになる方を選ぶよ……。ブツブツ。」

 (狐。……っ狐。……白狐ってば、おい!)

 「ぅんにゃっ、何?」

 (ぅんにゃって何だよ、ぅんにゃって。……じゃ無くて!何でもろに声出して喋ってんだよお前。気取られるだろっ!さっさと潜った痕跡消せよ。)

 (へーへー。僕に気取られたヒトのセリフとは思えないけどね!)

 (……さっきと一緒じゃねーか。)

 ふっふっふ。言い返せないくせに。

 むくれている兄ちゃんを横目に、尾で雪をならす。〈匂い落とし〉の跡は見事なまでに消え去った。僕だって気取られないように出来るもんねーだ。


 と。


 「カタ……ガタッ。ガタガタガタ……!」


 あの音が、ふいに激しい音に変わった。激しく、強く、存在を主張する。

 同時に、どこからか何かを焦がしたかようなにおいが漂い始める。

 (なんだろ、この臭い。どこかで嗅いだことのある気がする……。)

 (白狐、そんな事言ってる場合か!やはり気取られてしまったのか……ああっくそっ、急ぐぞっ!)

 (……うん。)


 より速く、より静かに木立の中を疾駆する僕らの影。

 枯れた腕を伸ばす木々の上にも、踏めば沈み込むような足元にも雪は降りしきり、着地した瞬間から絶えず積もっていく。

 「ガタガタガタッ、ゴ——————ッ。」

 また音が変わった。今度は地響きみたいな重低音。行く手の方に、小さな紫の光がぽつりと灯った。気のせいかな?その光が視界に入った瞬間、雪が強まった気がした。

 異臭もどんどん濃くなってきていて、気を抜くと倒れてしまいそう。どこか甘ったるい空気を含んでいて、かなり気分が悪くなる感じ。この臭い……もしかして……。


 音が、光が、においが近付くにつれ、全ての元凶がはっきりと姿を現した。「それ」は黒光りする石で出来ていて、紫色に妖しく発光していた。

 (これって。)僕は思わず呟いた。

 (これは。)兄ちゃんも同時に呟いた。

 (こんなモノ……無かった……はず……。)驚きのせいで、語尾が頼りなく消える。

 僕は今更ながら一歩、一歩と「それ」に近付くほど、吹雪が強まっていることに気付いた。強烈な邪気が渦巻き、言いようのない恐怖で足取りが重くなる。


 「それ」は、小さな祠だった。


 昨日の晩の見回りでは、祠はもちろん、音も邪気も見当たらなかった。なのに、今になって急に出現している。

 出来てから間もないはずの祠は、苔におおわれていた。

 「ゴ——————ッ……ザザザッ、ドサドサドサッ‼︎」

 驚きでぼうっとしていると、突然祠の中から大量の氷のつぶてが飛び出した。夜空に舞い上がったかと思うと、僕たちの頭上に一気に降りかかる。避ける時間もなく体中に氷のつぶてが食い込んだ。

 「うわああああっ⁉︎」「び、白狐⁉︎大丈夫か⁉︎いででででっ‼︎」

 慌てふためいて逃げまどう。痛いよ!コワイよ!油断しすぎたぁ……!

 そんな僕らを笑うように、紫の光がより強く輝きだす。それに反応するように、吹雪も激しくなる。異臭も濃厚に吹き荒れる。

(ここが寒いのは、この祠のせいなのかな?それとも……祠の中に邪悪なモノが……?)

 氷のつぶてがさらに激しく降ってくる中、必死に考える。

 と、その時、今までの光が暗闇に思えるほど強烈な紫の光が放射された。太陽だってこんな強い光は出せないはず!僕らが人間なら失明してるんじゃないかな。けれど、何も影響がなかった訳じゃなくて、さすがは半人の体、あっという間に目が眩んでしまった。

 あの音はもう地面を揺らすほど轟いている。耳の中にビンビンと嫌な響きをまとって、ムリヤリ耳の中に侵入してきた。体がやけに重く感じる。

 (もう——耐えられない!)

 そう思った瞬間。


 「バアアアアンッ!!!!」


 音と光が炸裂した。


 祠からひときわ強い風が吹いて——。

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