黒狐の聴力

 「ふああ……っ。」

 眠い。眠過ぎる。お陰で柄にもなく間抜けな欠伸が出てしまった。

 何せ暇だし、やる事が無い。退屈過ぎて眠気が抑えられないのだ。

「ふぁああー……。」


 って、これじゃあ俺が白狐みたいじゃないか!

 俺は白狐とは違うんだ、これくらいで寝るわけ、無い……んだよ……。


 ……っ、駄目だ駄目だ!

 こんな床の上で寝たりしたら、あとで白狐にからかわれてしまう。それでは兄としての面目が保てない。

 とは言え、今眠らずに夜を迎えて、境内の見回り中にうたたねでもすれば、にやにや笑われる羽目になるだろう。

 (仕方がない。なにかあった時の為に、仮眠しておくか。……、な。)

 心の中で言い訳しつつ、畳の上に布団を敷く。布団からあたたかい日向の匂いがした。また欠伸が出かける。いかんいかん。

 俺達には神の血が流れている。お陰で、本来なら数ヶ月眠らなくても生きていける体になっているのだ。しかし、眠るのが好きな白狐にはそんな事関係無いらしい。だからって十五時間も寝なくたって……。

 まぁともあれ、白狐と俺は違う。俺は睡眠嫌いの性質たちだし、ここに来てからは一度も眠っていないのだ。

 (とうとう身体も限界、か……。)

 半神であれど、疲れは溜まる。布団にもぐりこんだのも束の間、真っ暗な世界へ意識が落ちていった。



 …………。



 《カタ。》

 ……はっ。


 ……何かの音がした。異音に鋭い耳が、深い眠りから意識を呼び戻す。

 俺達の聴力は半端では無い。神の血が流れているという事もあるが、小さい頃から鍛錬を重ねた事で、より能力が引き出されるようになったのだ。

 この力——父は〈聡聴そうちょう〉と呼んでいた——は、こと異音に関しては千里離れた所でもつかむ事が出来る。まあ何でもかんでも聴いていたら耳がやられてしまうので、今は力を抑えているが、便利な能力なのは間違いない。

 (……もしや、結界を狙う悪霊だろうか。百年の呪いに関係があるモノなのか?)

 〈聡聴〉を持たぬ者にとっては、ただの物音。しかし俺の耳は、それを敏感に聴き分け本能を呼び醒ました。

 今迄この神社にやってきたものと言えば、異音すら立てられないような弱い奴ばかり。異音を立てられるのは、力がある証なのだ。


 《コトリ。》


 再び音がした。やはり怪しい。

 手元に引き寄せてあった羽織を、静かに着込む。と同時に、壁に立て掛けておいた〈破魔ノ弓矢はまノゆみや〉を掴んだ。どちらも俺達の為に作られた特別な衣と武器だ。闇色をしたそれらは、僅かににぶく紅の光を放っていた。

 壁に掛かった一枚の大きな水墨画をめくる。

 絵が隠していたその後ろには、古めかしい扉があった。人ひとり通れるか否か、という微妙な大きさ。隅が黒ずんだそれをガタゴトと引くと、四角く切り取られた闇が現れた。……狐火神社には、境内のあちこちに繋がる隠し戸がいくつもあるのだ。

 音を立てないように、静かに足を踏み入れる。思いの外乾燥した空気が身体を包んだ。

 湿っているかと思っていたが、そうでは無かったらしい。少々ほっとしつつ、俺は本殿へ繋がる闇を駆け抜けた。


 が。

 秘匿された通路は、思っていたより短かった。

 ものの数歩で目の前に壁が現れ、顔面ぎりぎりで突っ込むのを踏み止まる。

 聡聴と同じく鍛錬によって鋭くなった視力——父曰く〈聡瞳そうどう〉だとか——に感謝しつつ、戸を静かに開ける。

 と、これまたぎりぎりに白狐が佇んでいた。

 俺と対の真紅の羽織を着込み、腰から〈破魔ノ刃はまノやいば〉(こちらは白銀に発光していた)を提げている姿は、さながら武人のよう。左手には〈神ノ焔かみノほのお〉と呼ばれる、俺達にしかつくれない特殊な白い炎を灯した提灯を携えていた。

 引き戸じゃなかったらどうするんだと思いつつ、黙って目線を送る。

 しかし弟はそれを合図と受け取ったらしい。銀鼠の双眸を煌めかせる。

 「うん、分かってるよ兄ちゃん。行こう。」

 ……。

 「……?」

 ……行くか。

 「うんっ!」


 俺達は、闇と雪が入り混じる空間に飛び出した。


 境内に続く石段を軽快に飛び降りつつ、白狐が宙返りした。風が白狐の銀灰の髪をなぶる。羽織が体内に吸われる様に消え、代わりに白銀の毛並が全身を覆った。真っ白な雪に提灯の光が反射して、どこか神秘的な景色が広がる。凍てついた空気を切り裂いて駆ける。

 白狐は、稲荷神の力を発現させ、狐の姿と成った。

 長い尾を優雅にたなびかせ、左の前脚で提灯を器用に掲げながら三本足で走って行く。

 ……我が弟ながら、格好良いな。ついつい兄バカが出て口元が緩んでしまう。

 おっと、見とれている場合では無い。俺だって変化出来る。

 「フッ!」

 くるり。宙返りをする。

 羽織と共に体温が一気に消滅し、冷たい風が吹き付ける。

 けれどそれも一瞬。ほとんど同時に、体が燃えるように熱くなった。黄金の毛並が体を覆った証拠だ。

 俺も稲荷神の力を発現させ、狐の姿と成ったのだ。

 〈破魔ノ弓矢〉を右前脚に持ち(俺は左利きだからな)、白狐を追って俺は銀世界を切り裂いた。

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