第5話 安定の理

 冬。


 少年は布団から出るのが辛かった。毎年のことだから、精神的には慣れているが、肉体的にはどうにもならない。なんとか寒さを感じないで済まないものかと考えて、色々試してはみたものの、どれも失敗に終わったといって良い。本当は、暖房なりストーブなりを使って、部屋を直接暖めるというのが、解決策として最も優れているのだが、彼はその手段を嫌った。とにかく、空気が停滞するのが嫌なのだ。だから、真冬なのに窓を全開にしていて、部屋が完全に冷えきっているという状況だった。


 それでも、いつまでも布団に入っているわけにはいかなくて、目を覚ましてから一時間ほど経過した頃、決死の覚悟で彼は布団の外に出た。立ち上がるなりその場で足踏みをし、意味もなく歯ぎしりをしてみる。すぐに着替えれば良いだけだが、冷たい部屋の中にある、冷たい洋服箪笥の中に収納された衣服は、きっと冷たいはずだから、着替えるのも躊躇だと言わざるをえなかった。


 インターホンのチャイムが鳴る。


 寝間気姿で応答するわけにもいかないから、少年はとりあえず上着を羽織って玄関に向かった。両親はとっくに仕事に出ているから、応じられる者は彼しかいない。


 ドアを開ける前に、覗き窓から向こう側を見る。


 湾曲したレンズの先に、よく知る姿が立っていた。


 こちらの様子が見えるのか、彼女は小さく手を振っている。


 チェーンを外してドアを開けると、少女が笑顔で挨拶した。


「おはよう」


 少年は声を出すのが面倒で、一度頷くだけで挨拶を済ませる。


「まだ寝てたの?」少女が尋ねる。


「うん、まあ……」少年は答えた。


「もっと早く起こしに来ればよかった」


「そうだね」


「上でどたばたしたら、起きるかな?」


「イヤホンを付けているから、起きないと思うよ、きっと」


 少女は何の断りも得ずに部屋の中に入ってくる。昔から同じマンションに住んでいるということで、このようなことは日常的だった。ただし、少年の方から彼女の部屋に押しかけることはほとんどない。少女の行動力が自分のそれを遙かに上回っていることを、彼は昔から知っていた。


 少年は、着替えるために自分の部屋に戻る。少女は澄ました顔でリビングに入っていった。


 着替えを済ませて、自分もリビングに向かおうとしたとき、再びチャイムが鳴った。


 踵を返し、彼は玄関に向かう。


 覗き窓の向こうを見ようとした瞬間、ドアが勢い良く開いて、少年はその先に倒れそうになった。しかし、伸びてきた細い腕が彼の体躯を掴み、重力の影響を受けて脚が地面を離れるのを阻止される。


「おはようございます」


 頭上から声がして、顔を上げる。


 寝ぼけ眼の焦点を合わせてそちらを見ると、女性の顔がそこにあった。


「朝から災難ですね」彼女がいつものように無表情で告げる。


 身体を支えられていた手を離され、少年は地面に両足をついて立った。


 正面に立つ彼女にじっと見つめられる。


 家の中から足音がして、少女がこちらに顔を出した。


「あ、貴女も来たんだ。おはよう」少女が挨拶をする。


「おはようございます」数秒前に言ったのとまったく同じメロディーで発音し、女性は一度頭を下げた。


「上がりなよ。別に汚くなんかないからさ」


 そう言って少女は女性の手を引っ張り、二人揃って室内に入っていく。


 ドアが閉まる。


 そのまま、静寂。


 忘れかけていた冷たさが全身を覆い、少年は身震いをして部屋の中に戻る。


 リビングでは、少女がコーヒーとトーストを女性に提供しているところだった。少女は、この部屋にあるものをだいたい把握している。少年の把握の度合いは、せいぜい少々といったところなので、むしろ彼女の方がよく知っているかもしれない。


「朝ご飯は食べました」テーブルの前に行儀良く座った姿勢で、女性が言った。


「まあ、いいじゃん」少女が応じる。「明日の分だと思って食べればいいんだよ」


「食事と睡眠は、貯蓄することができません」


「美味しいよ、それ」そう言って、少女は両手を広げる。「ご賞味あれ」


「冬休みの宿題は、終わりましたか」首を一周させて、女性が言った。この場にいる全員に向けて言ったようだ。


「まだ」キッチンで自分の分のコーヒーを用意しながら、少年は答える。


「私は、もうすべて終わりました」女性は言った。「この学校では、宿題の量はあまり多くないようです。一日と半日で終わってしまいました。期待していた分、少々拍子抜けした面があります。貴方は、このような状況で何の不満もないのですか?」


「別に」少年は簡潔に応答する。


「私も、まだ、全然やってないなあ」女性の向かい側で、少女が呟いた。「あ、そうだ。じゃあさ、今から教えてよ。私、宿題持ってくるからさ」


 女性は少女を一瞥すると、暫くの間そのまま彼女を見つめていたが、やがて首を上下に動かした。


「いいでしょう」


 女性の応答を聞くや否や、少女は指を鳴らして部屋を出ていく。玄関のドアが開く音がして、それから閉まる音がした。


 少年は女性の隣に座って、コーヒーを啜る。


「今日はどんな勉強をする予定ですか?」女性が質問した。


「今日は勉強はしない」少年は答える。「今読んでいる小説が、あと少しで終わりそうだから、それを読む」


「私は、三平方の定理の復習をしたいと思います」女性は宣言した。「先日、微分、積分の問題を解いたのですが、その際に、知識が欠けていることに気づきました。これは、大変な事態だと思われます。このような状態を長期間継続していると、学習した意味が完全になくなります。早急に覚え直す必要があると言えるでしょう。そのために、まず、三平方の定理の基礎項目をノートに書き出し、それを繰り返すことで、知識の定着を図りたいと思います」


 沈黙。


「そう」少年は目だけで彼女を見て、それから小さく頷いた。「頑張って」

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恋愛小説 彼方灯火 @hotaruhanoue0908

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