一輝の友人

ペチカ

 

   一輝の友人


 

 一輝かずきは奇妙な生徒である。いまどき往年の名作純文学を教室の隅でひとり読みふけり、誰とも話そうとはしない。ほかの生徒はみんな最初はこの異質な物体を気味悪がり、ある種の怖れのような気持ちで影から馬鹿にしたが、そのうち何もいわなくなった。

 一輝は成績がいい。かといって特段目立ちすぎる順位というわけでもない。きっかり学年で十番目から十五番目の間を階段をのぼったりくだったりするように静かに行き来するのだった。順位表を見るみんなの視界の端に映っていたが誰も口にはしなかった。

 一輝はよく見ると顔がいい。目はすずやかで切れ長である。鼻梁は高すぎないがすっきりとした陰影で主張はしない。唇はうすくてそのくちが何を言うのかじっと聞きたくなるような色合いである。肌は白くも黒くもない。ところどころに思春期の差す、若い細やかな肌である。

 一輝はまるで一度も自分の顔を鏡で見たことがないかのようにみえた。自分の容姿を意識しない彼のしぐさは徐々に彼の周りに独特の空気の層をつくり、彼は次第に教室のなかで不可侵の王国を建国した。その王は彼自身であり、そして国民もまた彼ひとりなのだった。

 なんにせよ一番奇妙なことは別にある。それはぼくが彼の友人であるということだった。ぼくは何の努力もなしに彼の王国の門のまえに立つ機会を手に入れたのだ。ぼくは毎夜そのまったくの不思議に驚きながら眠りについた。ぼくは胸いっぱいに驚きを吸いこんだ。その鮮烈なかおりが薄まることはなかった。


 そんなある日一輝はぼくを家によんだ。

 一輝の家は全部が白かった。アパートの外観は白一色で、玄関のドアも白、壁紙も白、靴箱も白、リビングにつながるドアも白だった。リビングのカーテンも白だった。不思議とすべてがまぶしくなかった。

 ぼくたちは唯一白くないフローリングをあるいて一輝のへやにむかった。しじゅう和菓子のような光沢のない甘いにおいがしていた。

 一輝のへやに入るとき、瞳のかたちが歪むかのような錯覚をおぼえた。一輝のへやは青かった。深い青の、魚やヒトデが海をおよぐ柄のカーテンが目についた。机と床は木目だったが、ブルーグレーの壁紙や青いベッドカバーや青いカーペットが、まるで人間の皮膚と体内がまったく様子をかえるような清潔な乖離感をささやいていた。

 ぼくが久しぶりに色をみた気がしてくらくらしていると、一輝は飲み物を淹れてくるから座っていてと言いのこしへやをでた。こうしてぼくはつかのま一輝のへやをじっくりと観察する機会を手にいれた。

 一輝の本棚には几帳面に作者のタグがついていて、その補助線どおりに小説が並べられていた。赤川次郎三島由紀夫永井荷風夏目漱石。そのタグは五十音順でもなければなにか他の規則性があるようでもなく、ぼくは一瞬それを解き明かそうとしたが諦めた。

 そうして座った姿勢のままあちこちを眺め、青いカバーの電灯や学習机に敷かれたフィルム、このへやのどこにも埃がついていないことに気づいたあたりでドアが開いた。紅茶の良い香りが漂ってきてぼくは姿勢を正した。

「ごめん、これしかなかったんだ。準備していたんだけど、……」

 一輝は申し訳なさそうにそう言ってトレーをへやの真ん中にある丸テーブルのうえに置いた。陶器の鳴らす音が所在なさげにひびいた。ぼくはありがとうといった。

 それからぼくたちは宿題をした。分からない箇所をきくと一輝は慣れない様子ながらもわかりやすく教えた。一輝は先にひと段落ついた様子でノートをとじ、ティーカップにくちをつけ、テーブルに置き、そのふちをじっとみつめた。一輝はゲーム機をもっていない。電子機器の類ももっていないから一輝の連絡先は家の固定電話のみだった。

 唐突に一輝がくちをひらいた。「ねえ、三島由紀夫が好きっていっていたよね」ぼくはうなずいた。といってもおそらく一輝ほど読みこんでいるわけではなかった。「どれが好きなの」ぼくは潮騒だといった。「どうして?」ぼくは三島由紀夫にはめずらしく幸福な小説だからだ、というようなことをもっとへたに説明した。一輝はたしかにと同意した。

「ぼく、好きな小説家はころころ変わるけど、じつは今三島由紀夫が一番好きなんだ。鏡子の家ってあるだろ。まえに読んだときはそうでもなかったんだけど、最近三島由紀夫の人生を図書館で調べてから急に面白くなってさ。あれは彼の人格がよっつに分解されて、それぞれの思想の行きつく場所は必ず破滅だっていう、作者本人の予言みたいな予感を、すごく正直に吐き出しているんだね。ぼく、三島由紀夫好きだなあ。ちょっと体を鍛えてみたくなったもん」

 そう一息に言って一輝はわらった。ぼくは一輝が「鏡子の家」の「収」みたいに、きれいな顔のまま筋肉の塊みたいになったところを想像した。それはなかなかに面白かった。

 そのとき、一輝がいっしゅん不安そうな顔をしたことをぼくは見逃さなかった。ぼくがわらうまでに空いた一瞬のすきまに、なにか消極的な意味づけをしたのかもしれなかった。ぼくは一輝とかかわるたびにこういう意外ないちめんを発見した。一輝は他人に興味がないのでも他人とかかわるのが面倒くさいのでもおそらくない。ただ心のどこかに深い溝のようなあきらめがよこたわっていて、それを越えてゆくだけの跳躍力がないのだった。そういうあきらめを、ひとつのガラスの壁のような排他的な力に——教室で一輝のことを格好いいと噂しはじめた女子たちや、下品になることにかけては微塵のためらいもなくせる男子たちの誰をも話しかける勇気さえもてなくする程の撥ねつける力に——かえるのは、ひとえに一輝のもつ美しさだった。それは一輝の容姿の美しさでなく、その魂の表面にある美しさだった。

 ぼくはときどき、自分のなかにあるひとつの願いに気づくことがあった。それは、その表面の向うがわを覗きたい、という欲望だった。ぼくは熟しきった柿の実をつつくように、一輝の魂にふれるぼくを瞼のなかにみた。そのたびにぼくは、一輝の顔をまっすぐにみることがすこしだけ難しくなるのだった。

 

 ぼくたちは夜の七時になった時計をみてリビングに向かった。相変わらずだれもいなかったが、一輝は冷凍食品のピラフをだしながら一緒にたべないかと誘ってきた。ぼくはそうさせてもらうことにした。

 一輝が電子レンジでピラフを温めているあいだ、ぼくはリビングの隅にある棚に一枚の写真があるのをみつけた。そこには小学生くらいの一輝と、一輝の母親らしき女性、そしてもうひとり中学生くらいの女の子が写っていた。どこかの公園のようにみえた。三人とも写真を撮るときのわらい方をしていた。

「あんまりじっと見ないでほしいな」

 一輝が、背後からそう云い放った。その声は普段と変わりない、独特のやわらかな声だった。ぼくは微笑むこともできずにふり返って一輝をみた。一輝は背中の向うでレンジからピラフを取りだし、テーブルに持ってきた。

 ぼくたちは食べながらNHKのスポーツ中継やらニュースやらをみた。海外の野球チームの好プレーのダイジェストでは、抑制されたキャスターの解説にべつのキャスターが相槌をうっている。一輝がその内容をどの程度みているのかはわからなかった。音量はじゅうぶんに聞こえる程度の、しかし最低限の大きさだった。

「姉がいるんだ」一輝は話しはじめた。「むっつ上なんだけど、今は遠くの大学に行ってる。すごく頭がいいんだ」それはキャスターのもつ指揮棒にせーのでタイミングを合わせたような、自然な切り出し方だった。「小説を読むようになったのは姉さんの影響でね、中学を卒業してすぐ母さんに隠れてバイトをはじめて、そこから少しずつ買いあつめたぶんを、本棚ごとぼくにくれたんだ。だから、たまに文章に鉛筆で線がはいっていて、ああ、あの人はここを読んで感動したんだなってわかって、そういうとき……」

 そこで言葉がとぎれた。一輝は泣いていた。声も出さず、唇を一文字に結んで涙をこぼしていた。ぼくは一輝の魂が、この数十秒のどこかで一度ふわりと宙に浮き、それからまた落ちたのだと直感した。その加速度は極限まで柔らかくなった一輝の魂を心の底面に押しつけ、いまほんの少し潰れるようにしてどこかが破けたのだ。

 ぼくは一輝のせなかをさすった。ぼくはかれの魂がきょうやわらかくなるまでの文脈をまったくといっていいほどしらなかったが、一輝の横顔をみつめながら、ただこう思っていた。ぼくはもうすこしかれの隣にいなければならない。かれの王国をいつか壊して、そして言わなければならない。きみは自由なのだと。きみはもうそこから跳べるはずだと。

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