エピローグ

「名前のないプロジェクト」

「え?」

「って、聞いた事ない?」

 浪川結は内科のカンファレンスルームでポテトチップスを齧りながらパソコンでゲームの攻略ページを見ている浪川淳志の背後に音もなく立つと、開口一番にそう尋ねた。その後、彼のパソコンを問答無用でシャットダウンさせてしまう。

「……なにそれ?」

「さっきまで警察から事情聴取受けていたんだけど、その時顔の怖い刑事さんに聞かれたの。名前のないプロジェクトって聞いた事ないかって。なんか監視カメラの誤作動がどうのこうのって言っていたけど……」

 結は取調室でのことを思い出す。

 ウイルスの生成に関わっていたということで、念のため警察から話を聞かれることになったのだが、特に結が罪に問われることはないと踏んでいたので、顔の怖い男刑事が来た時も気軽な気持ちで、寧ろ壁に見える電子ブラインドの奥には一体どんな刑事がいるのかと想像を膨らましながら話を聞いていた。その時に聞かれたのだ。「監視カメラの誤作動は、どこかからの遠隔操作で起きたのではないか……そう推測されるのですが、心当たりはないですか?」と。

 勿論、結は首を横に振った。結は昨日久々に都市大学付属病院へと戻ってきたのだ。なんなら誤作動の事すら少し耳にしただけだ、と嘘を吐いた。犯人は隣で楽しそうに監視カメラをハッキングしていたが、そんな身内を売るようなことはしない。売ることで何かメリットがあれば遠慮なく情報を提供するが、メリットが一切ないのであれば必要以上のことを告げる気はなかった。

 すると刑事は言ったのだ。名前のないプロジェクトという組織の名を聞いた事はないか、と。

「勿論私は耳にした事はないし、素直に知らないって答えたわ。けれどまあ……引っかかるものがないわけでもない」

「ははは、珍しいね、結ちゃんがそんな曖昧な物言いをするだなんて」

「淳志さん、ポテチ床に落とさないの」

「……はい」

 結に睨まれ、淳志はポテトチップスの袋を脇に避ける。彼らの家が綺麗なのは勿論家に人が帰っていないのもあるが、彼女の目を思い出すと淳志が容易に菓子を食べられないからでもあった。浪川家において、結に逆らえるものは誰もいない。

「世の中には知らない方がいいって事もあると思うんだ」

「それが淳志さんの答え?」

「警察は真相をひたむきに追うんだけど、俺たちは都合のいい結論だけ見た方がいい場合だってある。非合法でも人の命を救えるのならそちらの方がいいってことも起こりうるだろうしね」

「あ、今少し見直したわ」

「少しって……」

 結はうっすらと微笑むと、淳志の隣に腰掛ける。

「恭ちゃんの彼女の那由ちゃん。あの子ね、きっと普通の子じゃないと思うの」

「ふうん……まあ確かに言葉はいろいろキツイけど」

 淳志に話しながら、結は那由に出会ってからを振り返る。ファミレスで会った時点で、普通ではない事をしているのは分かった。しかし、それ以上に興味が湧いてしまったのだ。だから監視カメラを意気揚々とハッキングし始めた時も何も言わなかったし、それが事件の解決に繋がるのであれば好都合だと思った。コーヒーを入れて那由を眺めながら、ただ面白いと、それだけ思ったのだ。

 しかしその後話していく内に、結の那由に対する印象は変わっていった。

「普通じゃないけど、それ以上になんだか苦しそうだった。脆くて、崩れそうで、それでも折れない芯を持った強い子。きっと恭ちゃんはあの子のそういうところに惚れたのね」

 あの手この手で那由の広いパーソナルスペースに攻め入ってみたが、やはり肝心な部分には触れられないままだった。彼女の心の奥底が、外敵を拒んでいる。それでも彼女はなんとか応えようとしてくれているのだから可愛いと思った。

「私ね、あなたと恭ちゃんの幸せについてはどうでもいいと思っていた」

「え、酷くない?」

「だって人は自分で幸せになるものだもの。私は関係ない。でもね、那由ちゃんには幸せになって欲しいなって思うのよ。まあそれを成し得るのは恭ちゃんかもしれないけど」

 そう言って結はすっと窓の方を見つめる。

 那由をデートに誘った恭人は今度こそ成功させているのだろうか。三年間騙し続けていた息子をほんの少し心配してみる。それも大半は那由のためだが。

「さて淳志さん、四時からは会議でしょ? 準備をしなくて大丈夫なのかしら?」

「なんで俺のスケジュール知ってるの……?」

 結は淳志の背中を叩いて立ち上がる。

 きっとこれからの生活はまた面白くなる。

 シミュレーションシステムは使っていないが、それは確かな予測だった。

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