第6話:真犯人の言い分
「まあ俺はなんとなく予想がついていたけどねー」
浪川淳志は白衣を脱いて姿勢を崩しながらも、やや厳しい眼差しで目の前の相手を見つめた。
「俺にだけ当たりが強かったりとか、酒をやめろだとか勤務中の菓子をやめろだとかいろいろ口うるさくて」
それはどう考えても自業自得だろう、とここにいる誰もが思う。
那由は左手を首筋に添えてそっと二人の男を見た。
無表情で立ちすくむ痩せた長身の男と、それにまるで不良が金でもたかるかのように絡む男。齢五十を越えた男同士がやるには違和感がある上に、清潔感漂う閑散としたこの心療内科医の控え室という場所にはなんとも不釣り合いだ。
那由、恭人、結は、心療内科医の控え室にあるパソコンで今は亡き犀川の名を語っていた真犯人の正体を知ると、病院内で奔走していた浪川淳志を呼んだ。これは結の判断だ。疲れた大学院生の一時の気の迷いとは違う常習的で悪質な犯行。流石にこれだけは、この病院の最高責任者を呼ばずにはいられない。病院の職員が犯罪に手を染めていたという、あまりに後味の悪い真相が出てしまった以上は。
「何故です、槙原先生」
午前の診察を終え、心療内科医の控え室に静かに入ってきた槙原に、恭人が悲痛な声をかける。
心療内科医の卵である彼が最も慕っていた医者、槙原雄大。彼こそがこの事件に関わる真の黒幕であり、人をうつ状態にさせるSNDウイルスを橋本に売った犯人だった。
にわかに信じられる話ではない。けれど那由のハッキングが、確かに彼を黒だと示していた。ならばそれを信じるしかない。那由の腕が確かなことは、恭人がよく分かっている。
彼は日頃から自らの電子パットを使い医療従事者の裏掲示板を運用しながら、違法な薬品を売る相手を探していた。
もう既に、裏も全て取れてしまっている。
恭人の声を聞いても、やはり槙原は眉ひとつ動かなかった。落ち着き払って彼に視線を移し、それから彼の隣に立つ結に目をやった。
「生きていたのか」
彼は結のことを知っているようだが、結の反応は薄かった。どうやら彼女は槙原のことを知らないか、もしくは覚えていないらしい。
「ええ。アメリカの研究所でSNDウイルスのワクチンを作ってました。死は偽装です」
「息子が随分と取り乱していたんだ。演技の可能性はないと思っていたんだがな」
「息子には真相を伝えませんでしたから」
結は微笑んでこそいるが、発せられる声は氷のように冷たかった。ポツポツと続いた会話が彼女の一言で締められると、また虚しい沈黙が続く。
「まあ立ち話もなんだし座ろうじゃないか」
そう言って折りたたまれていたパイプ椅子を壁際から取り出した淳志にも、いつものようなおどけた調子が見られなかった。ただ黙々と皆にパイプ椅子を配っている。那由は場違いな場所に来てしまった気がしてそっと恭人を見上げるが、彼もまた冷静でいるようには見えない。
「座りなよ」
広げられたパイプ椅子のひとつを彼の背後に置いて座るように促す。それに対する返事はない。黙って座って足を組んだまま、恭人は再び槙原を見つめた。
やはり最悪な集会だ、と那由は思った。パイプ椅子に座って向かい合った大人たち。それが、言葉を交わさないまま火花を散らしている。無視して颯爽と部屋を出たい気分にもなったが、ここまで巻き込まれたからには早いところこの気まずい集会を終わらせた方がよさそうだ。
「ええっとまず……このウイルスを巡る事件は二回起きているよね? 一回目は結さんが罹患した三年前。あれの犯人は貴方?」
「ああ、正解だ」
那由は、何故自分が進行しているのだと内心疑問に思いながらも順番に尋ねていくことにした。最初の質問の答えは肯定だ。
「それは何故? うつ病に対する新薬の研究でもしたくなった? それとも……個人的な恨み?」
そう言って、那由は相手の顔をじっと見つめる。やはり、眉ひとつ動かされない。恭人ならきっとこれだけで答えが分かるのだろうな……そう思って隣を見るも、彼の表情からも何も読み取れない。自分はデジタル分野でやれることだけをやって、こういう駆け引きみたいなものは任せてしまいたいのに……どうして肝心な時にこうなのか。
文句を言いたい気持ちになりながら「どっち?」と再び尋ねると、
「俺への恨みか」
と、淳志が答えた。
「……正解だ」
すると、槙原も固く結んでいた口を開いて口癖となっている「正解」を口にする。かつての事件は、彼の淳志に対する恨みの気持ちから起こされたものらしい。
「お前は医院長になっておきながら、心療内科の患者に対する配慮というものがなっていなかった。精神病への理解が足りていないのだ。どれほど苦しんでいる患者がいようと機械的な対処しか行わない。ならば自分の妻が患者になれば少しはその考えも変わると思った」
この生真面目そうな男が淳志のことを恨もうとするのはよく分かる。彼の対処に納得いかないのも事実だろう。しかしながら、越えてはならない一線を越えたのもまた事実。
「そんな……そんな理由で……うつ病のことを最もよく理解していなければならないあなたが、母さんのことを病気にするなんて……」
恭人の拳に力が入る。事実を認めてもなお、信じられないという気持ちが強いのだろう。
那由は初めて見る恭人の姿に息を飲む。少なくとも、いつもの冷静な彼の姿はすっかりなりを潜めていた。
「亡くなった薬学研究所の犀川先生は私の恩師だった。少しボケの始まった彼からウイルスを盗むのは簡単だ。それをもって浪川の細君を罹患させた」
槙原は恭人の言葉には敢えて答えず、経緯と方法だけを黙々と告げる。
どんな質問にも全て丁寧に返していた恩師のそのような姿に、再び恭人は表情を固め、それ以上何も喋れなかった。
「……でも、あなたは結さんを殺す気はなかったんでしょ? 一週間すればウイルスが消滅することは知っていたし、三種類の神経伝達物質を向上させる薬を投与すればひとまず安定させられる……それを分かっていたから」
那由は、彼らを下手に刺激しないよう、慎重に言葉を選ぶ。きっと三年前のそれは、嫌がらせの一つのようなものに過ぎなかったのだろう。結を苦しめてしまうがそれは一週間だけのこと。後は元どおりだと、そう信じていた。
そのため、結が死んだというニュースが飛び込んできたのは予想外だったはずだ。
一週間経って結の体調は治るも結局犯人は分からずじまい。でもそれに懲りた浪川淳志は精神病に対する考え方を改めた……そうなるのが、彼の脳内でのシナリオだったのだから。
しかし現実は、シミュレーション通りに上手くは動かない。
「そうだな、彼女が亡くなったというニュースが入ってきたのも誤算だったが……何より妻を亡くしたというのに、浪川淳志の態度は相変わらずだったことが私にとって一番の誤算だった」
恭人の話では、淳志は妻が死んでも大して心療内科の患者への対応が変わらなかったのだという。病室には相変わらず閉塞感があって、ストレスケアもできていない。ただ、暫くは流石の槙原も強くは出られなかったようだ。自分のせいで人を間接的に殺してしまったのだから、当然の心理だった。
「大変遺憾であったが、息子の方も精神科医を目指すことにしたと小耳に挟み、多少は変わるのだと納得しようとした。父親が駄目でも息子がなんとかしてくれるかもしれないと思った。最初はな」
槙原の顔に影ができる。最初は彼に、そして恭人に期待をした。
では、今は? 何故違法なサイトを立ち上げ、橋本をたきつけるようなことをしたのか。
容赦なく入ってくる直射日光の量を、電子ブラインドが自動的に調整する。暫くはその機械音が小さく鳴り響き、また無音に戻ってしまった。那由は再び左手を首にもってきて、続きを考える。
彼が浪川淳志に恨みを持つ理由などいくらでも挙げられる。患者のメンタルケアに気を配れていないことに加え、仕事をすぐにサボることや酒癖の悪い事、会議に出ずに院内のパソコンでゲームをしていること……考えてみれば枚挙にいとまがない。さらに……普段からそんな態度を取り続けているのに、彼は優秀だった。いざとなれば機転を利かせて病院を動かせるほどに頭がキレる。だからどれだけサボろうが結局皆に一目おかれてしまうのだ。
出る杭は恨まれる、それは那由もよく知っていることだった。なにせつい最近まで身を持って体験してきたことなのだ。努力している人間よりも少しよく出来てしまう人間は、それだけで恨まれるには十分だった。
「浪川淳志も……そしてその息子も……お前たちは私のストレス値を随分と上げてくれた」
「俺……も、ですか?」
ここで名前を挙げられ恭人の顔が再び青くなる。
彼を慕っていた学生も、彼のストレスの要因になっていたなど、誰が思うだろうか。
少なくとも恭人にはその自覚は全くなかった。
「内科医から心療内科医に志望を変えるに当たって、勉強しなければならない知識はいくつもある。それなのに君は……たった一ヶ月でそれをおおよそ習得してしまった」
恭人が小さく息を吸う。尊敬していた人間から疎まれていたと知った時ほど残酷な心境はあるだろうか。
どうやら槙原は、浪川親子の優秀さを恨んで、このような愚策に出てしまったらしい。定年間近でアシスタントもなく後ろには期待の新人がいる。いくら努力をしたところで医院長には手も届かない。そんな環境が、彼の負の面を突き動かしてしまったのだ。
那由には、そんな彼の心境も、そして浪川親子の心境もはっきりとは理解できない。馬鹿げている、という一言が今にも口をついて出そうだ。
ただ、普段は見られないほど衰弱しきった顔の恭人が気になり、そっと彼の手に自分の手を重ねた。いつも彼がしてくれた時のように。
「だから憂さ晴らしに……医療従事者の裏掲示板に書き込む人たちに、かつての都市大学付属薬学研究所が作り出した試作品やウイルスを売るようになったのね」
結が僅かに目を細めて槙原の目を射る。
彼女は自分も開発に関わったものが悪用されていること、それに怒りを感じているのだろう。その気持ちは那由にも分かった。自分のプログラムを自分の知らないところで悪用される時ほど怒りを感じる時はない。
「うまくやっていたつもりだった」
槙原は、亡くなった犀川という男の元からくすねたものを、売りさばいては金にし、ストレスを発散させていたのだろう。
「少し前までは……出世では負けたが専門分野では勝てると思っていた。それなのに息子にその専門分野でも追い抜かれようとしている……ひどくいただけない展開だと思った」
「そこに、恭人を恨む学生が現れた。だからあなたは掲示板を介して彼に接触し、SNDウイルスを売って使い方を伝授した」
それはもう、医者の所業とは思えない。とりわけ精神科医の所業とは。
橋本を利用し、淳志の妻を、恭人の母親を殺したトラウマ級のウイルスを自分の病院に流し、そして恭人も罹患させるという最悪な手口。それがいとも簡単に行われてしまった。
「あの研修医をスケープゴートとしてうまく利用できたと思ったのだが……どこでバレたのだか」
「使用されているサイトさえ突き詰められれば、あとは運用元のIPアドレスを探知するだけ。これくらい多少機械に強ければ誰でもできる」
那由はさらりと言ってのけたが、勿論誰でもできる所業ではない。けれど、相手は然程コンピュータに強いたちではないようで、素直にその言葉を受けたようだった。
「全く腹立たしいことだ。こちらがどれだけ努力をしようとお前たちのような異常な存在が悠々と上をいく。こちらはいつも損をしてばかりだ」
今まで平坦だった槙原の言葉に、僅かな力が篭る。それは、那由にも分かる変化だった。同時に、握っていた恭人の手が小刻みに震えていることにも気づく。
納得がいかない、そう思った。
もしこれが逆の立場だったら。那由が責められている状況だったら、恭人は真っ先に立ち上がって反論していることだろう。それなのに今は、恭人はその言葉を真正面から受け入れようとしている。
きっと、尊敬している人間の言葉だからだ。そんな感情的な問題で行動を起こせないだなんて、やはりいつもの恭人ではなかった。
「馬鹿じゃないの?」
那由は静かに呟いた。何故皆が沈黙しなければならないのか、こんな重苦しい空気にならなければならないのか分からない。結も、淳志も、恭人も、一体何を気にしているのか那由にはさっぱり分からない。
「どれだけ相手が恨めしかったって、犯罪に手を染めていい理由にはならない。それに……恭人は少なくともあなたのことを尊敬していた。この、巨乳以外の大半の人間にはまず舐めてかかる恭人があなたのことを尊敬していて、今もなおつっかからないでいる。それだけ珍しいことなのに、そんな教え子を恨むってどんな精神しているわけ?」
「な、那由?」
「恭人も、何を気にしているのか知らないけど、文句があるならちゃんとぶつけたらどうなの? 少なくともあなたは被害者でしょ? 結さんも」
今まで那由は人の感情を推し量るなどしたことがなかったし、他人のために怒るというのもこれが初めての体験だった。本当は言葉を選んだ方がいいのだろうが、生憎那由にはそのような器用なことはできない。だから、思ったままを伝えれば、恭人が那由の手を握り返した。
「そう……だな。槙原先生、俺はあなたのことを、精神科医の卵として尊敬していました。そんなあなたがあんなウイルスを使っただなんて知った時は怒りの気持ちよりはまずショックで……なんと言えばいいか分からなかった。俺のことそんな風に思われていたというのも悲しかったし……でも、そんなことを抜きにして、あなたのやったことは犯罪だ。しっかりと罪を償ってもらう必要がある」
少なくとも違法なものをやりとりしていたサイトが残っている以上、彼をなんらかの罪に問うことはできる。一時の出来心でやってしまった研修医とは違うのだ。もう、後戻りはできない。
「そうね。私も犯人を怖れて一旦死んだふりをして、大事な旦那と息子と離れて暮らすはめになってしまったんだもの。全ての賠償請求をしたいくらいだわ」
結も小さく頷いてそう言い放つ。
「ああ。分かっているさ」
槙原は静かに呟き頷いた。いずれはバレると彼も知っていたのだろう。知っていて、それでも感情は止められなかった。
だから復讐に走ってしまった。
「やっぱりストレスケアっていうのは大事だねえ」
淳志が発した空気を読まない最後の一言は、されどかなり的を射た発言であった。
◆ ◆ ◆
翌日には、大凡の片付けは終わっていた。槙原は違法薬物取締法違反という名目で逮捕され、芋づる式に彼のサイトで商品を購入した医師たちが逮捕された。恭人たちが見逃した橋本も、結局はその流れで逮捕に至ったらしい。
なお、都市大学心療内科医の医長の枠は暫く空けておくことになったそうだ。それは会議で浪川淳志がきっぱり断言したことらしく、その間の事務的な対応も一旦彼が行うということになった。その後任が誰になるのか、誰も口にはしないが皆検討はついている。
恭人は、その一部始終の記録をMCCで確認すると、都市大学医学部研究棟から外に出た。
窓の角度が変わり、窓ガラスが傾いた陽の光を綺麗に反射させている。左右対称に並んだイチョウの木はすっかり色づいて、落葉している様子も見られた。
恭人が肩にかけている大きめのショルダーバッグには、彼が今まで鍵の壊れた研究室の一室に置いていたあらゆる私物が詰まっている。今まで父親を避けてここに寝泊まりしていることが多かったが、それも終いにしようと決意したためだ。
未だに父親の性格は許せないし、自分に黙って母親と手を組み、彼女の死を演出したことも納得はいっていない。それでも避け続けるのはやめようと思った。一人で突っ走っても結局は何も生まれない。この一件でそれはよく実感した。
テンプレ通りに行動するのはやめろ、と元同期に言われたが、おそらくその通りだ。人間の心を掌握したいのであれば、全てが自分のシミュレーション通りにいくという自信を捨てるべきだった。
新宿の外れ。都市大学付属病院から車で30分ほど移動したところにあるタワーマンションの最上階に、浪川家の住居がある。あまり人が生活することがないせいか、部屋の中は散らかることなくきちんと整頓されており、共用スペースとなるリビングさえ、ガラス板のテーブルの上には何も載っておらず、合成皮のソファーにも傷一つないような状態だ。ひどい時は街を一望できるガラス張りの一片が全てカーテンで覆われており、一週間以上真っ暗な状態に保たれていることもある。食器棚のマグカップにも茶渋一つなく清潔なまま仕舞われているが、これも掃除が行き届いているわけではなく、むしろ人が生活していないという大きな証拠だった。
恭人はそんな自宅の風景を思い出しながらエレベーターを降り、指紋認証とパスコードで扉を開ける。カードキーは那由に渡したままであった。
やはり土一つ落ちていない玄関を見ながら靴を脱ぐと、見慣れない靴が二組綺麗に並べられているのが分かる。黒いスニーカーと、白のパンプスだ。二組、というのが少々予想外だったため、廊下の奥にあるリビングの扉を思わず見つめた。防音が施されている扉からは何の音もこぼれてこない。だからこそ自室で勉強をするには丁度良かったが果たして……そう思いながら躊躇いがちにリビングの扉を開く。
そこには、ソファーの上で戯れる二人の女性がいた。
「那由……と、母さん……」
一体何を、という言葉までは出てこない。
恭人の母親、浪川結は赤いリボンを使って那由の黒髪を細かく編みこみながら、見たこともないほど満面の笑みを浮かべている。恭人の記憶の中での母親は、息子や夫の愚行に対して向ける冷たい目を向けるか、もしくは訳ありげな微笑を湛えて見守っている程度でしかなかったため、そんなご満悦とばかりの無邪気な顔をしているのは衝撃的だ。
対する那由も、特に抵抗するでもなく、MCCを弄るわけでもなく、結にされるがままだ。時折くすぐったそうにしながらも、じっと編み終わるのをまっていた。
「あら恭ちゃん。ねえねえ那由ちゃんの髪すごいのよ。サラサラで普通に編んでもすぐ解けちゃうから、こうやってリボンを間に入れているの」
「え……あ、恭人……?」
那由は今恭人に気がついたらしく、ややぼんやりとした表情で恭人を見上げる。まるで寝起きの表情だった。
「いつの間に仲良くなったんだ?」
ショルダーバッグを机の横に放り出しながら、恭人は結の手元を見つめる。那由は然程人付き合いが得意ではない。無防備に触れられるがままになることは、おそらくとても珍しいことだろう。自分の母親が一体どんな手を使ったのか、考えても思い当たらない。
「いつだったかしらねー、はい。おわり」
ちょうど編み込みおも終わったようで、結は嬉しそうに那由の頭を撫でている。恭人はため息をつくと、ソファーに座る那由の前に膝をついた。
彼女は暫くここで暮らすことになった。もうこれ以上無理に入院をさせるわけにもいかない。結も帰ってきたことで恭人がいなくても大丈夫だろうとは判断できるが、ここまで距離を縮めているとは思わなかった。どういう手法を使ったのか知りたいが、それに言及するのは今でなくてもいい。
「俺さ、間違えてたんだ」
リボンのついた那由の黒髪を見つめ、それから彼女の青色がかった瞳を見つめる。
「何を?」
「お前ほどではないにしろ、やっぱり自分の考えは正しいって疑っていなかった。でも、正しいだけじゃだめなんだ。正攻法や正論じゃ分かり合えない相手もいる。それは恋愛においても同じだ」
恋愛、という言葉を聞いて那由が一瞬身を引こうとしたのが分かる。
那由はまだこの手の話題に慣れていない。知識としては知っていても、そもそも対人関係自体が希薄だった彼女にとって、それ以上の距離の詰め方は慣れない上に不安でもあるのだろう。恭人はそれを分かっていながらも汲み取ろうとはしていなかった。今まで通りのデートでなんとか押し流せるだろうと思っていた。だから、否定されたのだ。
「那由、俺ともう一度デートしてくれない?」
「で、でも……」
那由の目が彷徨う。今この場から逃げたそうに、所在なさげに手を動かすが、目の前に恭人が座っている以上、どこにも行けそうになかった。
「行ってらっしゃい、那由ちゃん。大丈夫。恭ちゃんももう強引なことはしないわよ」
「もうって……何かを知っているような口ぶりだな、母さん」
結はそっと那由の背中を押す。彼女がどこまで知っているのかは分からないが、やはり実の親に応援されているのは心強い。
再び那由を見つめると、コクリと小さく頷かれた。誘いに乗ってもらえたようだ。
◆ ◆ ◆
浪川家を出てエレベーターに乗ると、恭人はいくつも並んだボタンの中で一番下のボタンを押した。
「えっと……地下?」
「うん、車乗ろうと思って」
「免許持ってたの?」
「ATだけな」
そんな会話をしているうちに地下に着く。どうやらここが入居者の駐車場になっているらしい。
こうして話している間も、那由の緊張は収まらなかった。
地下駐車場という仄暗い場所でどれほど恭人と距離を詰めていいのか分からない。恋人という立場、そしてデートという名目でなければいくらでも落ち着いていられたのに、この変な関係のことを意識すると、内心穏やかではいられない。
恭人は黒い小型のボックスカーの前で、慣れた手つきでキーを開けると那由を助手席に招く。中はやはり綺麗に清掃されており、消臭剤のフローラルな香りがした。どうせ女ウケがいいのだろうな、と思う。助手席には柔らかなクッションが敷かれており、ご丁寧にブランケットまで用意されている。
「大丈夫、ちゃんと洗ってあるから」
「そう……」
じっと見つめていると恭人に苦笑された。なんだか悔しく思いながら、那由はそれを丸めたまま膝に乗せる。きっと気遣いとしては百点満点なのだろうが、どうにもそれがむず痒くてならない。
「今度はどこに行くの?」
「人のいない、静かなところ」
変な気分を紛らわそうと尋ねたことにそんな返答がきたため、また嫌な想像が浮かぶが、
「大丈夫。今は那由の怖がるようなことはしないから」
と、また苦笑される。
「別に怖がっているわけじゃないけど」
那由は強がりにもならない言葉を吐いてシートベルトを締めると、運転席に乗り込む恭人を見つめた。
正直なところ、那由はあまり人ごみが好きではないし、電車に乗るのも疲れる。だから、車というのは助かった。そんな心境も全て読まれているのかもしれないが。
ゆっくりと車が動きだす。地上に出たところで恭人が少し窓を開けると、秋の風がふわりと舞い込んで頬を撫でた。
「改めて……ありがとう、那由」
「え?」
那由が窓の外の街路樹に目をやり、どう話題を繋げればいいのかと必死に考えていると、恭人が静かに呟いた。
そのまま車は大通りに入り、ピっと短い電子音が鳴った後、自動運転に切り替わる。
「お前がいなかったら……俺はもうダメだったかもしれない」
「ああ……別に……最終的には結さんのワクチンがあったからなんとかなった訳で私は大して……まあ犯人探しには貢献できたかもしれないけど」
「そうじゃなくて」
ハッキングには高塚と上里の力も借りていたし、という言葉は敢えて言わなかった。組織の名前を出せばまたややこしいことになると思ったためだ。言葉を選んで告げた那由に対し、恭人はやんわりと首を横に振る。
「ウイルスで弱っていた時も、お前がきっと事件について調べてくれているっていう予測が、心の支えになっていた。そのことへのお礼」
「べ、別に……恭人が私にしてくれたことに比べればこれくらい……」
「へえ。恩返しってことか」
車が高速道路へ入る。静岡方面へ向かっているようだが、目的地に検討はなかった。恩返し……その言葉を頭の中で反芻し、那由は首を傾げた。それから恭人の顔を見つめ、
「違うよ」
と、ポツリと漏らす。
「え?」
「確かに助けてもらった分助けたいって気持ちはあるけどさ……それは違う。私は恭人のことが好きだから力になりたかった。ただそれだけ」
今まで散々な目に遭ってきた。殺されかけたり、直接的な暴力を受けることもあった。しかし、恭人はそんな自分を守ってくれた。それに報いたい、そんな気持ちも確かにあるだろう。
それでも那由はこの気持ちを、恩返しなんて押し付けがましい言葉で終わらせたくはなかった。
「ナルシストで、冷酷な時もあって、この人どうしようもないなーって思う時もある。第一印象もあんまりよくなかったし、すぐ人のこと貧乳とか言うし、他人のこと道具としか見ていないような時もあるし」
「……まあ、自覚は多少ある」
お互い、シミュレーションシステムの中で出会った時は、まさかこのような関係になるとは思っていなかっただろう。相手のことを使える駒程度にしか思っておらず、自分の問題を解決すること意外に興味はなかった。しかしその出会いが二人を変えたのは確かなことだった。
「でも、好きになった」
「どうして?」
「分からない。こればっかりはプログラムでも解析できないだろうね」
「そっか」
そこで会話は終わり、暫く静かな時間が続く。那由は座席の背もたれに頭を寄せ、小さく息を吐いた。
実は同じ質問を結にもされていたのだ。
犯人を見つける前日、防犯カメラを遠隔操作で誤作動させ、これで犯人も見つけられるだろうと一安心した後、彼女が入れてくれたコーヒーを飲みながら暫く恭人について話していた。
結は淳志から逐一恭人について聞いており、恭人に彼女が出来たのもぼんやりと知っていたと言っていた。そして、どうして恭人と付き合っているのかとも尋ねられた。試されているのかと一瞬様子を伺ったが、そんな意図はなく単純な質問のようで、結の表情は柔らかい。しかし、那由はうまく答えることはできなかった。
好きなところより悪いところの方がスラスラと口から出てくるし、容姿に惹かれたわけでも性格に惹かれたわけでもない気がする。しかし、ただ助けてもらったから好きになった……というのも違う気がした。
しかし、その後淳志から連絡がきて、恭人がウイルスに感染したと聞いた時、真っ先に飛び出そうとしてしまった。彼を助けたい……その気持ちがどこから来たのかはついに分からないままだったが、放っておけないと思ったのは事実だった。
先ほど結に編んでもらった髪にそっと触れる。結は自分のことを実の娘かのように甘やかしてくれている。勿論那由には実の親の記憶などなく、本当の親子の関係というのは分からないが、散々頭を撫でられ心地よくなったのは確かだった。その感覚を思い出していると、次第に眠くなってくる。
「いいよ、もう少しかかるから眠ってて」
何故かそれを悟ったらしい恭人にそう言われて、那由はそっと目を閉じた。車の僅かな揺れとゆるやかに入ってくる秋風、そして膝に乗せたブランケットの手触りがとても心地いい。恭人の手がそっと頬に触れた気がしたが、それが現実のことなのか、夢の中の出来事なのかは、眠りに落ちる直前の那由には分からなかった。
次に那由が目を覚ました時、車はすでに停車しており、その前方には湖が広がっているのが見えた。もう日が大分傾いており、水面が薄くオレンジ色に染まっている。どうやら高速道路の無人サービスエリアのようで、湖を囲うように立つ木の柵の周辺どころか、駐車場全体を見渡しても人の姿は見られない。静岡に向かっていたことと今の時間から湖の正体を推測し、少し前この辺りに新たな道が作られたことを思い出した。だから、人がいないのかもしれない。
そこまで考えてから那由は車を降り、車のボンネットに凭れて水面を眺める恭人に近づいた。
「綺麗でしょ?」
「……うん」
隣に並ぶより前に尋ねられて、静かに頷く。
そして、東京とは違う澄んだ空気を吸い込んだ。確かに他に人もおらず落ち着く場所だ。
「デートスポットか何か?」
「いや、一人で来たことが一度あるだけだ。こういうのの方が好きかと思って」
「……まあ、確かに」
人が多いよりも、よっぽどこういう場所の方が好みだった。手を繋いだり、甘いパンケーキを食べに行くわけでもないが、少なくともこちらの方がちゃんとした息抜きにはなる。
「あのさ、那由」
「な……」
何、といいかけて続きが出なかった。こちらを向いた恭人の腕が背中にまわり、強く抱きしめられたためだ。心臓が強く脈を打ち、息をするのを忘れてしまいそうなほど身体が熱を持つ。逃げようにも、到底振りほどけそうになかった。
「これからも俺の側にいて欲しい」
「う、うん」
耳元で聞こえる声に、身体が震える。胸の奥の方までが熱くなり、それ以上言葉が出てこない。必死に何かを考えようとしているのに、頭の中が真っ白になってゆく。
「愛してる」
「……っ」
あまりに自然な流れで一瞬身体が離れ、そのまま唇にキスを落とされる。やはり手慣れているじゃないかとぎゅっと目をつむり、それから首元に違和感を覚えて視線を落とす。そこには、小さなリングのついたネックッレスがかけられていた。
いつの間につけられたのか、那由は全く気づかなかった。
「……これ、指輪?」
よく見れば、リングの中心に青色の石がはめられたそれは指輪のようだ。
「手につけるとタイピングの邪魔になるとか言われそうだったから」
そう言って恭人は自分の左手を出す。全く気付いていなかったが、薬指には那由と同じ型の指輪がはめられていた。
「これって……」
「婚約指輪」
「なっ」
足を引こうとして車に足が当たり、さらに逃げようとして湖を囲う柵にぶつかる。
「何してるの」
「なんでもない」
緊張と焦りと恥ずかしさで真っ赤になった顔をそらし、那由はそっと指輪に触れる。
高校二年生の頃……組織に入らされた頃は、自分はこのまま組織に飼われプログラムを生み出し続ける人生を送るのだと思っていた。間違っても親しい人間など作れないと、そう思っていた。それなのに、気付いたら婚約ときた。
本当に、人生は何があるか分からない。
「嫌なら拒否してくれてもいいよ」
「い……嫌じゃない」
そう言って那由は、恭人をじっと見上げる。
これから何が起きるかは予想できない。それでも、彼となら大丈夫だと、根拠はないが確信めいたものがあった。
「……よろしくお願いします」
「こちらこそ」
再び恭人が屈んで那由に視線を合わせ、そっと頬に手を寄せる。
湖に沈んでいく夕日が、重なった二人の影を鮮明に伸ばしていた。
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