番外編:ききかんり

「……よし」

 新宿郊外のタワーマンション最上階。浪川家の所有フロアの一室に、本日届いた荷物を置く。

 元々この部屋は、空き部屋という名のゴミ置場のような使われ方をしていた。

 この家はどこもかしこも綺麗なように見えるけど、居住者は恭人のお父さんと恭人。ここまで綺麗なのは流石におかしいと思っていたら案の定、所有物を乱雑に置く部屋を用意していたらしい。買いだめられたお菓子、使わなくなったタブレット、空になった段ボール、空き瓶、空き缶、割れたグラス、衣類……等、目も当てられないようなものまで含め、これらが六畳ほどの部屋に詰め込まれていたのだ。

 これは私でもドン引きするし、綺麗好きな結さんなら尚更だ。

 冷ややかに怒りを放った結さんは恭人のお父さんと恭人をすぐに呼び出し、全て捨てるようにと指示を出した。本当に、力関係が明確すぎる家庭だ。

 こうして綺麗になり、床や壁にもホコリひとつなくなったような部屋は、新しいベッドと机が用意され私の部屋として使われることになった。それまで一緒に寝ようという結さんの誘いを断ってリビングのソファーで眠っていたので、部屋をもらえたのは純粋にありがたいし、ここは厚意に甘えて使わせてもらうことにする。

 そして、せっかく作業机を得ることができたのだから、やらなければならないことがある。

「ふふ……最新のモニターとルビー社のデスクトップPC……最高」

 机の広さやコンセントの位置もしっかり計算した上で発注したので、ケーブルの長さもばっちりだ。お気に入りのトラックパッドも用意したし、サブモニターの配置もオッケー。そうなれば、あと必要なパーツはひとつしか無い。

「早速買いに……」

 と、カバンを肩にかけ扉を開いた瞬間、目の前に結さんが立っていて一歩退きそうになる。

「ど、どうしたんですか?」

「んー? ごきげんな声が聞こえたからつい、ね」

 黒髪をひとつに束ねた結さんはそう言って微笑む。この人は、自分の夫や息子には冷たいくせに私に対してはやけに優しく接してくる。多分身寄りも無く息子の恋人でもある私を気にかけてくれているのだろうけれど、流石にちょっとくすぐったい。ていうか、年上の女性から優しくされてた経験とかないし。

 でも、やっぱり居場所をくれてご飯も用意してくれる結さんの厚意を完全に断ち切ることはできない。そうして私はまた、彼女に流されていくことになるのだけど。

「ところで、どこか行くの?」

「あ……はい、少し」

 結さんは私の鞄に目を落としていた。そういえばこの家に来てからまともに一人で外出するのは初めてかもしれない。近くのコンビニくらいなら行く事はあっても、今から行くところはコンビニとはちょっと比べものにならない。

「出かけるなら、恭ちゃんも連れて行って」

「え……でも、恭人は……」

 恭人は今日、病院の実習に行っているはずだ。だから別に彼の帰宅など待たずとも……と思うのに、結さんの視線が痛い。一人で行くのは危険だとか、そういう具体性を持って言われたのだとしたら反論の余地はあるのに、柔らかい口調で妙に断定的に言われると本当に断りづらい。

「大丈夫よ、恭ちゃん今日午前中だけだから」

「え……?」

 そんなこと言われていたっけと思って呆然としている間もなく、ガチャリと扉が開く。

 本当に、彼女は侮れない。


 その一部始終を渋々恭人に話すと、まあ反対されることもなく、 

「で、どこ行くの?」

 と尋ねられる。

 彼は着ていた黒のシャツの上に白のパーカーを羽織って、既に準備を始めていた。

「秋葉原。PCのキーボード買いに行こうと思って」

 彼の姿を見た後、なんとなく自分の服装を眺める。薄黄色のワンピースの上に濃いブルーのカーディガン。とりあえず、変ではないはず。

 この人の隣に立つとどうしても自分の姿が気になってしまう。

「キーボード?」

「せっかくデスクトップおける作業スペースもらえたでしょ? だから周辺機器いろいろ揃えたくて。モニターとかは通販でいいんだけど、キーボードは実際に自分で触って決めたい」

「相変わらずコンピュータ関連にだけはこだわりが強いな」

「何か文句でも?」

「ううん、那由らしくていいと思うよ」

 ……ほんと、口だけはうまいんだから。調子が狂う気がして目を反らす。いつから、こんな風になったんだっけ。


 出会ったときは巨乳が好きだからお前は論外とか失礼なこと言ってきたりだとか、私の前で平気で女子高生ナンパしたりだとか、犯罪者なんじゃないかと疑ってきたりとか……ほんと、散々なこと言ってきたのに。最近はもう優しいことしかしてこない。

「私らしいってどこが?」

「自分の好きなことにどこまでも真っ直ぐで手を抜かない辺り、かな」

「……そう」

 ほんと、言い返せない。ずるい。


 車出そうか、という恭人の言葉はひとまず断った。秋葉原の繁華街に車で出るのは結構至難の技だ。

 電車は得意じゃないけど乗れないわけではない。最短ルートとは程遠いけど、乗り換えもないし確実に座れるよう、新宿から山手線を使うことにした。

「そういえば」

「ん?」

「那由って俺のどこが好きなの?」

 突然電車でなんてことを聞き出すんだこの人は、と呆然とするも、周囲は皆音楽を聴いているか寝ているかで恭人の言葉が届いているのは私だけだ。ていうか、そうじゃなかったらこの場でそんなことを聞いてこない。

「前言わなかったっけ?」

「あー、あの病室で泣きながら言ってたやつ? 危険な時頼ってもいいと思えた相手が俺だったって?」

 一野の一件でボロボロになった後、病室で恭人に告白され、それに答えた。

 その時言ったことは嘘じゃないし、今だって感謝している。

「どうして好きになったか、じゃなくて俺のどこが好きなのか聞きたいんだけどなー」

 ああ、この目は確実に私のことをからかっている目だ。いつもの癖で首元に手を当てていたのを慌てて下ろし、それからじっと恭人を見つめる。相変わらず整った顔をしている。そりゃあ次々と女性を落とせるはずだ。相当頭も切れるし、細やかな気配りもできる。毒を吐くときもあるけど、本当に辛い時は絶対に助けてくれるという安心感もあるし、実際いつもそうだった。

 普段は人を客観視して近づかないくせに、患者さんには優しい。そういうところも好感は持てる。

 けど、それを口にするのは……とても、憚られる。

「顔と性格」

 だから、全部をまとめることにした。

「ふーん、凡庸だな。今まで接してきた女性みんなに言われてることだ」

「……それはよかったね」

 今、一瞬なんか嫌な感じがした。今まで接してきた女性……それと同列に扱われるのはなんか嫌だな。これがもしかして嫉妬の感情なんだろうか。ああもう、自分が感情に左右されるのってたまらなく嫌。常時理性的に考えたい。

「そういう恭人は……」

「ん?」

「いや、なんでもない」

 私のどこが好きなのか、なんて尋ねれば秋葉原に着くまで永遠に羅列されそうで怖い。けど、恭人は私が聞きかけたことをもう察してしまったらしい。

「好きなことに対してまっすぐなところ。どこまでも純粋なところ。照れ隠しが下手なところ。折れない心と強かさ。いい意味で一般常識から外れた感受性。プログラミングしている時の楽しそうな顔。たまにしか見られない安心しきった寝顔。艶やかな髪。青くて宝石みたいな瞳。ていうか全体的に可愛い。あと、」

「もういいって」

 私は恭人のパーカーを引っ張る。もう心が十分に満たされている。これ以上褒められるのはここでは無理。バクバクとうるさく脈打つ心臓を押さえつけて、窓の外を覗く。まだ、五反田。先はまだ遠そうだ。


「じゃあ全然違う話をしようか。那由はどうしてプログラミングが好きになったの?」

「小学校の授業でやったとき、楽しかったから。だから自分でも勉強して、ハマっていった」

 算数も理科も英語もそれなりに得意ではあったけど、自ら進んで勉強しようって思うほどじゃなかった。テストで百点取れればそれでいいって感じ。でも、PCに関しては違った。

 技術の科目でエクセルのマクロを使ったり、フローチャートを組み立てた時、こんなに多くの可能性がある分野があるんだって感動をして……それから自分で図書館にいったりして勉強をするようになった。

「へえ。因みにプログラミングで一番得意なことは?」

「そりゃ勿論ウイルスを……」

 自ら編み出したデータを「食べる」ウイルスのことは大分気に入っているんだけど、流石にそれはこの場でいったらまずいだろう。誰も聞いていないように見えて、万が一聞き耳を立てている人がいても困る。

「ウイルスを、解析することかな」

「ふうん、それは社会の役に立ちそうだ」

 絶対わかっているくせに、感心したようなふりをする。やっぱり性格の悪さの片鱗がにじみ出ている。

「そういう恭人は? いつから医者を目指してたの?」

「んー? どうだろう、物心ついたときから自分は医者になるんだと思ってたな。父さんも……今は亡きじいさんも医者だったから。あと母さんが元々持病持ちで身体が弱くてさ、それも治したいって思ってたから」

 なんだろう……すごく、美談だ。なんか負けた気分。

「結さんの身体はもう大丈夫なの?」

 恭人や恭人のお父さんは結さんの身体は弱いと言っているけど、私が見る限りとてもそんなか弱い人には見えない。

「あー、いや大丈夫ではないんだけど……母さんはお前に似て隠すのがうまいから」

「私に似て……って」

「今日もそうだ。本当はお前が心配だけど自分が外に出られる体調じゃないって分かっていたから俺に頼んだ。てか自分がいつ倒れてもいいように父さんや俺のスケジュールを勝手に把握している」

「へえ……」

 とても体調が悪そうには見えなかったけど、巧妙に隠していたとは。

 しかも隠すために頭を使っているのだというから隙が無い。まあ、恭人や恭人のお父さんがいれば大丈夫だろうっていう安心感はあるけど。

 急に電車から人が降りだしたと思ったら東京駅についていたみたいで、すぐに扉が閉まる。やっとあと二駅だ。

「そういえばその癖、いつからしてるんだ?」

「え?」

 恭人が私の左手を指差していたのに気付き、慌てて手を下げる。また、いつもの癖をしていた。

「よくある口を隠す癖というのは、中身を知られたくないという人間の防衛本能からきていると言われている。顎に手を当てるのも、女性の場合はやっぱり自分を隠そうとしている時だな。位置的には近いし似たような意味合いにも見えるけど……実は結構興味深かった」

「……無くて七癖っていうでしょ? 気づいたらしていたんだから仕方がないよ。考え事している時につい首に手を触れちゃうみたいなの」

「ふうん……つまらない」

 きっと出会い立ての私を面白おかしく観察していたときから気になっていたんだろうけど、こればかりは私にも分からないのだから仕方がない。

 そうこう言っている間に電車が止まり、気づけば秋葉原にたどり着いていた。


 ここは昔からオタクの街だと言われているけど、そのさらに昔から家電製品の街でもあった。そのおかげで今はここに大型の家電専門店がいくつか建っている。

 プログラマーにとっては宝の山だけど、私がここへ来れたのは学生時代の一度だけ。その後は組織から大量にコンピュータの周辺機器を支給されたし、行くきっかけがなかった。

「そういえば、一からパソコン作ったりはしないのか? よくいるだろ。パーツを買い集めて組み立てるマニアが」

「エンジニアでしょ? 私はそういうのはできない。パーツの知識はあってもね」

「へえ。自分の手でやりたい派かと思ったのに」

「……機械音痴なの、私」

「え?」

 恭人が珍しく間の抜けた声を出す。まあ、驚くよね、普通は。

「パソコンやMCCを操作することはできるよ? あれは頭さえ使えばどうにだってなるから。てか、なるように作られている。でも、自分で解体したり組み立てたり、あと例えば電動車椅子を操作したり、ロボットを操作したり、そういうのはできない。内部の仕組みは分かっているんだけどね」

 不器用ってわけじゃないけど、向いていないんだと思う。恭人も「意外だな」と呟いていた。

 そんなことを話している間に目の前に十階建ての巨大なビルにたどり着く。最近リニューアルされた日本屈指の家電製品専門店。

 入り口のやたらと眩しい電飾から目を離し、とりあえず足早に三階のPC専門コーナーに向かおうとした時、

「あれ、恭人くんじゃない?」

 と、女性の声がした。

 明るい茶髪をくるくる巻いて、胸元を大きく開けたシャツを着た女性。さらに、そんなのでよく歩けるなと称賛してしまいそうなほど高いピンヒールの靴を履いている。まつ毛もやたら長く、唇は艶やかな赤に染まっている。まあ、一言にいってメイクが濃い。でも、それでも周囲の目を引くほどにこの人が「可愛い」ということくらいは分かった。

「ああ、皐月さん」

 恭人は女性の顔を見て、にこりと当たり障りの無い笑みを浮かべる。どうやら知り合いらしい。

 というか……開いたシャツの間に見える谷間のあたり、どう考えても恭人の好みだ。

 趣味は女遊びと平然で言いのける恭人のこと、おそらくあの女性はその遊びの一人だろう。

「もー! メールも全然くれないんだもん寂しかったよぉ」

 抱きつきそうな勢いで迫る皐月という女性。

「すみません、忙しいもので」

 恭人がそう言ってスマートに身を引こうとしても、その手を取り、

「ねえ、今晩久々にどう?」 

 なんて小声で囁き始める。なにそれ、嫌だ。

 出会った当初はこの人がどこの誰と遊んでいようがどうでもよかったけど、今はどうでもよくない。

 けど、下手に自分が絡んでもいけないような気がして、黙って見ていることに歯がゆさを感じていると。

「すみません、俺複数人と関係を持って詐欺を繰り返している女性とはちょっともう付き合えません。デート商法、結婚詐欺、パパ活、あとネズミ商法にも手を出していますよね? まあ片親の家系で貧しいくらしをしてきたのでそれを補うためといえば聞こえはいいですけど、今はブランドものや高い化粧品を買うなど私利私慾のために使っているのがほとんど。ちょっと俺はそういう女性のパトロンにはなれませんので」

 と言って恭人が女性の手をやんわりと解く。そうして、複数の野次馬に囲まれ呆然としている女性を置いて、私を小声で呼んで歩き出した。だから、急いで彼を追いかけその場を後にする。まあ……彼らしいといえば彼らしい回避の仕方だった。


「よく知ってたね、そんな情報」

「人と接する時は相手の弱みのひとつやふたつ握っておかないと、いざという時大変だろ」

「もしかして今まで関係を持っていた女性全員……」

「うん、身売りするような女性の弱みなんて全部知ってる」

「なるほど」

 ああいう場をどう回避するのかと思ったら、ちゃんと手札を持っているらしい。それにしてもあんなことを大勢の前で言われた女性も気の毒だ。そういえばシミュレーションシステムの中でも司書の女性が同じような手を食らわされていた気がする。あんまり覚えていないけど。

「でも……」

「ん?」

「今の人、可愛かった……よね?」

 肌も綺麗で、目も大きくて、きっと私よりもずっと可愛い。そう思っていると恭人は不意に吹き出して、

「お前まさか、嫉妬?」

 と笑い出す。

「違う……けど、不安なだけ」 

 恭人の顔が見られなくて俯く。こんなことばかり考えていて情けないけど、私は他の綺麗な女性たちに勝てるものを持っているとは思えない。そう思っていると恭人は私の顎に指を滑らせて、くいっと上を向かせた。

「あのさ那由、俺がお前のこと可愛くないって言ったこと今まであった? シミュレーションシステムの中で会った時も貧乳とは言いまくったけど、それ以外の容姿について貶したことなんて一度も無いだろ? 俺は相手を騙そうとしている時以外は基本正直なんだ。だから、信じて?」

 そういえば……確かに、恭人に貶されるとしたら「貧乳」か「お前冷たいやつだな」くらいで、その他の容姿に対して何か言われたことはない。ならそこは……せめてそこは、恭人の眼鏡にかなっているということだろうか。

「それに」

 恭人は私の首元に手をやり、かけられているシルバーのチェーンを指で引っ張る。服の中に隠していた指輪が見えてしまった。

「これ、大事にしてくれてるんでしょ? 俺も同じだよ」

 恭人がくれた婚約指輪。法的にはなんの拘束力も持たないそれを、私は首に、恭人は指につけている。

「うん……ありがとう」

 今度こそ、目を反らす。今少しだけ安堵してしまった。そのことがどうしても私を複雑な気持ちにさせる。

 まあ、そんなことより。

 ここは念願の家電屋。早くPC用キーボードを買いにいかないと。


「おおお!」

 左右の棚にずらりと並ぶキーボードを目にして、思わず感嘆の声を上げてしまった。

 ケースとか外付けハードとか気になるものはたくさんあったけど、組み立て系は自分でできないので買うつもりはない。でも、キーボードは別。これだけは自分で触って選ばないと。

「んー、やっぱ旧型のメンブレン方式の方が手になじみやすいけど、あー、まあパンタグラフの方でも……いや、やっぱスタンダードに静寂性の高い静電容量無接点のやつでも……え、なにこの薄型始めて見る!」

 棚を眺めながら気になったものをタイプして触感を確かめ、次々と見て回る。見覚えのあるものから初めて見る型まで全て揃っていて秋葉原の凄さを感じざるをえない。作業用、ゲーム用、仕事用……なんて丁寧に分けられて、解説がついているものまである。今まで一切使ったことのないメーカーのものだけど、手を出してみるのもありかもしれない。いやもうキーボード二台持ちとか……流石にそれはないか。

 私がするのは基本プログラミング。今後は全然できなかったコンピュータグラフィックとかモデリングとかやってみたいし、より作業が捗る究極の一台を見つけたい。

「楽しそうでなにより」

 そう言って恭人が苦笑いしてるけどこれは仕方がない。やっぱり好きなものはちゃんと選んで買わないとね。


「にしても心配だよ」

「何が?」

「お前が楽しそうにキーボードを選んでいる時、何人の男性客がお前のことを振り返っていたことか」

「……え?」

「んー、まあいいけどさ」

 レジでキーボードを買って、明日には家に届くよう宅配手続きを済ませた後、近くで待っていた恭人のもとに向かうと何か嫌味に近いようなものを言われた気がしたけどよく理解はできない。まあ重要な話題でもなさそうだから受け流すことにした。

「何か食べて帰る?」

「え、お昼なら食べたし」

「ティータイムだよ。適当に喫茶店かカフェ探して……」

 そう言って恭人はMCCを取り出す。すると、紫の光が点灯していた。着歴が残っているようだ。

「……病院からだ。ごめん、ちょっと掛け直してもいい?」

「うん、どうぞ」

 離れたところで電話をし始める恭人を置いて、少しだけ店内を見て回ることにする。ずっとキーボードばかり見ていたけど、PC部品からMCC用アクセサリまでワンフロアだけでも本当にいろんなものを売っている。ソフトウェアの方なら何個か関わりがあるものもあるけど、ハード面となると全てが新鮮だ。イヤフォン一つで棚を埋められるほど種類があるのも圧巻。最近はまたノンワイヤレス性のイヤフォンが流行りだしたらしい。下のオーディオ専門フロアはどうなっているんだろうかとエスカレーターで降りてみたその時。

 階下の方から大きな悲鳴が聞こえた。

 

 悲鳴の出どころはすぐに分かった。入り口自動ドアのすぐ前だ。だって、大きな野次馬の人だかりができているから。

 本来ならこういうのは近づかないんだけど、暇だったこともあってエスカレーターを降り、ついその人だかりの中を覗いてしまった。そして、私の中に二つの大きな衝撃が走った。

 一つ目。まず、人が倒れている。そして脇腹から……血を流している。それだけでも怖くて仕方がなかったけど……二つ目、驚くべきことにその人はさっき恭人に迫っていた皐月という名前の女性だった。

 茶色の髪が乱れて床に広がり、高いピンヒールは脱げ、折角のお洒落なシャツが赤く染まっている。

 しかし野次馬たちは完全に見ているだけで動こうとしない。 

 お腹から血を出して倒れている……それは、以前私も経験したことだ。

 郊外のベッドタウンで金田に刺され、痛くて苦しくて仕方がなくて、でも誰も助けがこなくて……そうして、どんどん目の前が真っ暗になっていく。そうして段々冷たくなって……

 一気に嫌な光景がフラッシュバックをして、腹部の痛みが蘇り、すぐに吐き気が込み上げた。

 でも……苦しいなら尚更……この人を放っておいてはだめだ。

 私は、この人を放っておけない。


「誰か救急車呼んで! それと、店舗用HO2があればそれも用意して」

 私は震える声を堪えて店員さんを探し、必要機材の手配をお願いする。

 それから女性の側に膝をついて「大丈夫ですか?」と問いかければ、彼女は微かに目を開いた。それでも意識は絶え絶えという様子だ。

「店舗用HO2です」

 若い男性店員さんはそう言って小型の黒いトランクケースのようなものを持ってきた。面積がいくつ以上か忘れたけど、それなりに大きな商業施設なら、もしものための店舗用HO2の常備が必須になっている。病院のものほどハイスペックではないけど、ないよりはマシだ。

 早速ケースを開いて、それから綺麗に並べられた機器を見る。モニターのついたバッテリーらしき小型の黒い箱。先に吸盤のついたチューブ。腕時計のようなリング。その他コードとか針みたいなものとかもろもろ。

 どうしよう……どれが何なのかさっぱり分からない。


 システムの内部にどんなプログラムが書かれていて何ができるのかは分かるのに、肝心の装着方法や操作方法がさっぱり分からない。適当にやって壊してしまうのも怖いし……本当、ここに来て自分の苦手分野に直面してしまった。一応蓋の裏に使い方説明が書いてあるけど、どの文面がどの操作に対応しているのかそれすらよく分からない。説明書を読めば誰もが組み立てられると思わないでほしい。

 でも、呆然としている間にも出血は止まらない……どうすれば……


「まず、それを腕につけて」


 固まっていると、不意に誰かが私の背中に手を触れてそう囁く。誰か……っていうか、恭人だ。

 電話はもう終わったらしい。いや、騒ぎを聞きつけて終えてきたのかも。

「で、今回は明確に傷口が分かる外傷だから、これを傷口近くの血管に当てる」

 言われるまま大きな腕時計のような器具を女性の左腕につけたあと、彼女の服を少しまくって、傷口付近にゴム製の吸盤のようなものをつける。

「で、それをこっちの機械に繋ぐ」

 それを小型バッテリーのような本体に接続。緑の明かりが点灯した。

「電源を入れて、容態を外傷に設定」

 また、教えられるままモニターをタップして容態を設定する。途端に、画面上に次々と数値が表れ始めた。

「よし。あとはプログラムが自動で傷口を判定して、」

「傷口付近の血管を一時的に収縮させる」

「正解」

 よくやった、とばかりに恭人が私の背をぽんぽんと叩く。システムの仕組みの方ならよく分かっているのだから、これくらいは言えて当然……だけど、本当それ以外が駄目だ。恭人の助言がなければどうなっていたことか。というか、恭人がやった方が早いのにわざわざ私に操作させた辺り計算的……なんだろうか……だめだ、よく分からない。

 HO2が女性の血圧状況や血中酸素濃度などを割り出して画面に表示させる。救急車が到達してすぐに迅速な処置が行える仕組みだ。

「誰かと待ち合わせの様子だったし私怨か何かがこじれたのかもな。まあ、犯人なんてすぐ捕まるだろ」

 これだけ街に監視カメラがあれば、きっと犯人はすぐに見つかるはず。だから、それは危惧しなくていい。

「この人も、数値を見る限り致命傷ではない。救急車ももう近づいているみたいだし、スムーズに機器を設置できたおかげで輸血もすぐにできる。後遺症も残らない。だからもう大丈夫」

 そうか……無事なんだ。それは、よかった。

「ありがとう、那由。迅速な対応をしてくれて」

 視界がどんどん滲んでいく。よかった、ひとまず死者を出さずに済んだみたいで。

 自分と同じように孤独なまま意識を失うようなことになる前に人を助けられたようで、本当によかった。


 大事に巻き込まれたくないし、救急車とか警察とか来る前に立ち去りたい。そう思って店の外まではこれたけど……駅に着く前に、急に歩けなくなる。

 今更になってまた、あの時のフラッシュバックがきた。

 腹部が熱を持ち、切り裂かれたかのような痛みが走る。それから吐き気。嘔吐感……とはまた違う、何かがつまって苦しい感じ。それが目眩に変わって、急激に身体が冷えてきて、体勢を保つのがきつい。

「きょう、と……きもちわるい」

 すがるように手を伸ばせば、その手をきゅっと強く握られる。

「那由、俺のこと見える?」

 何か言われているのに、理解ができない。ここ、どこ? なんでこんなに苦しいの? 分からない。自分が置かれている状態が分からない。

 完全に、思考回路が壊れている。なんで?

「あたま、はたらかな……こわ、い」

 意識が消えそう。それすらも恐ろしい。このまま死んでしまうんじゃないかとすら感じてしまって。

「……大丈夫、何も怖くない。家帰ってゆっくり休もうな」

 意識を手放したくない……のに、何故か急に身体が温かくなって、段々今いるのが夢か現実か分からなくなっていく。

 身体に力が入らない。

 あと、温かい。なんか……運ばれている……気がするのに、もう目があかない。それに何故か安心してきて。

 そのまま、温かくて安心する何かに包まれるまま……私の意識は急速に途絶えていった。



「……?」

 妙な倦怠感から目を覚まし、身体を起こしてみるとあまり見慣れない景色が広がっていた。白い天井。僅かに風と日の光が入ってくる窓。身体にかかっているのは青いチェックの掛け布団で、枕もまったく同じ模様だった。掛け布団と身体の間にはベージュのブランケットがあって、合成繊維の柔らかさが心地いい。それに……甘い匂いがする。

「起きた?」

 ベッドの下に座って端末で何かを読んでいたらしい恭人は、私の方を振り返り、そっと手を握る。

 簡素で片付いた机。テトラ社のデスクトップPC。変な形の置き型照明。そうか、ここは恭人の部屋で……私が今寝ているのは、恭人のベッドだ。

「なんで……」

 今の状況をもう一度反芻する。私がいるのは恭人の部屋。その前は……そうだ、キーボードを買いに出かけて……血を流している女性の応急措置を行った。それも、恭人の補助で。その後急に体調が悪くなって……フラッシュバックで気持ち悪くなって……頭が働かなくなって……

「血管迷走神経反射による失神」

「え?」

「一応、それがさっきの症状名。強い恐怖心から自律神経系が失調して脳に行く血液循環量を確保できなくなったがために起きた失神だ。吐き気、ふらつき、発汗による悪寒、視界のぼやけはその前兆症状。頭が働かなかったのは失神寸前だから」

 そうだ、あの時自分に何が起きたか分からず怖くて堪らなかった。普段はそれなりに役にたつはずの思考回路が壊れてしまって、それがなによりも怖かった。

「どう? 怖くないでしょ?」

「うん、たしかに」

 それに答えをもらえたのは純粋に嬉しい。本当に、私のことを知り尽くされている感がある。

「あの、私どうしてここに……」

「近くに住んでる同じゼミのやつに頼んで車出してもらったから」

「……移動手段のことも確かに聞きたいことの一つだったけど、なんで私は恭人のベッドに?」

 広くて寝心地はいいけど、この家にはもう私のベッドもあるのに。

「お前の部屋、床にもベッドにも空の段ボールが乱雑に置いてあって邪魔だったから。ほんと片付け下手だな」

「ちょっと待って、あなたに言われたくはない」

 確かにちょっと出しっぱなしだったかもしれない。もしかしてこの家には結さん以外片付けができる人がいないのだろうか。

「そういえば結さんは?」

「ああ……母さんならおそらく病院だ」

「え?」

「多分自分が体調悪いから俺のことも追い出す必要があったんだろうな。俺がいたら絶対車で病院に送るって言うから」

 そこまでして、結さんは人に自分の身を頼むのが嫌なんだろうか。いや、恭人に面倒を見られるのが嫌なだけで、案外恭人のお父さんには甘えたりしている……のだろうか。いや、全く想像はつかない。


「それにしても、まさか那由が進んで人助けをするようになるとはな」

 確かに、昔はそんなこと考えたこともなかった。人を助けたところで無意味だって、自分になんの得もないって思うから。

 でも今回は……

「人助け……のつもりはなかったと思う。ただ、あの時の自分と同じように腹部から出血する女性を見て、今助けないと後悔するなって……なんとなく、思ったから」

「なんとなく……ねえ。騒ぎを聞いてかけつければお前が店舗用HO2の器具を握ったまま固まっているから二重の意味でびっくりしたよ」

「二重?」

「お前が人助けをしようとしていることと、使い方を分かっていないこと」

「だから言ったでしょ、機会音痴なんだって」

 あの機器は機会音痴に優しくない。開いたら音声案内が流れるような……昔のAEDくらい懇切丁寧なプログラムを組んだ方がいいかもしれない。

「体調は? もう大丈夫そう?」

「う……ん。多分」

 パニックになった時、ずっと恭人が側にいて声をかけてくれていたことは覚えている。またいつものように借りを作ってしまった。

「ていうか……手、なんで」

「ん? 最初に俺の手を掴んできてたのは那由の方だけど?」

 恭人はさっきからずっと私の左手を握っている。それに気づけなかった私も変だけど。

「倒れる前に俺に伸ばしてきたのも左手だった。多分那由の左手は首という急所を隠す安全のためのブレーキ……そのブレーキを預けてくれたというわけだ」

「勝手に人の癖まで読み取らないでくれる?」

 自分の癖のことなんて考えたことなかったのに、面白半分で読み解かれたのも恥ずかしいし、今の状況を解説されるのも恥ずかしい。

 だって確かに、今左手を握られているのはなんとなく安心するから。

 安心するし……なんだか幸せだ。空いてる右手で掴んだブランケットから感じた甘い匂いの正体を今更ながらに知ってしまう。

 好きな人の匂いは甘く感じるって……心理学とかに疎い私でも聞いたことがある。そこに科学的根拠があるのかは分からないけど。

「やっぱり……まだ少し、体調良くないから」

「え?」

「もう少しだけ、このままで」

 プログラミングをすることも好き。これから作りたいものがいっぱいあるから。

 たまに出かけて外の空気を吸うことも悪くない。

 でもこうして……好きな人と同じ場所にいられること。これも、また幸せで。

「了解」

 私の意図を察したらしい恭人は、夕日をバックに優しく微笑んだ。

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