第5話:再会

「……っ」

 恭人は、何か恐ろしい夢を見た気がして身体を起こした。手にはじっとりと汗をかいており、鼓動がやけに速い。

 ゆっくり身体を起こして周囲を見渡し、ここが内科の控え室に備えられたベッドの上と気づいても、恭人の緊張は解けないままだった。

 あれから頃合いを見て、橋本に「父親と話し込んでいたら遅くなったからそのまま内科の控え室で寝る」とメッセージを送った。

 そうして父親にだけ軽く「感染した」と伝え、内科控え室のベッドを使わせてもらったのだ。珍しくあの父親の顔が動揺していたな、と思い出す。それほどまでに今の自分は異常だったのだろうか。

 夜は明けており、既に日差しが部屋に入り込んでいる。随分と長く眠れたのだろう。当たり前だ、睡眠薬をやや多めに服用したのだから。

 父親が止めなかったことから、間違った量を服用したわけではないはずだ。現に、壁に備え付けられた時計を見れば午前九時前。眠りすぎたというわけでもなさそうだ。

 今日も病棟を周れるか? と、恭人は自分に問いかけてみた。

 いけると信じたい。しかし、身体は鉛のように思い。

 頭には靄がかかっており、冷静な判断ができるとは思いがたい。

「はは……」

 医者を目指す自分がこんなことでいいのか、と思っていると、乾いた笑いが溢れてくる。自分の中の神経伝達物質分泌に異常が起きているだけ……何度そう言い聞かせようと、心は正常に動かない。虚無感に襲われ、空っぽになっていく。

 しかし、どれだけ辛かろうと九時になれば医師や看護師がこちらに入ってくる。それまでに動かなければ……と、身体を起こすと、タイミングよくノックの音がした。

 看護師の稲葉さんあたりが早くにやってきたか……そう思ってなんとか表情だけでも取り繕うとしていたが、入ってきたのは思いがけない人物だった。

「あ……」

 さらりとした黒髪を揺らしながら、こちらに真っ直ぐ向かってくる青いワンピースの少女。それは紛れもなく自分が愛するプログラマー少女で。

 幻覚かと疑うが、目の前の少女の輪郭はあまりに鮮明だ。

 何故来たのか、どうしてここにいると分かったのか……そんなことを聞く前に、恭人は手が触れる距離まで来た那由を両手で強く抱きしめていた。

 温かい感触が、僅かに胸を満たす。

 離さなければ……と思うのに、身体が言う事を聞かなかった。

 それほどに、精神が限界に近づいていたらしい。

「恭人のお父さんから聞いた。随分弱っているみたいだね。でもそれはウイルスにより操作されているだけ。所詮紛い物だから」

 抱きしめられても動じず、いつも通り淡々と告げる那由の言葉一つ一つが、何か甘いものになって自分の中に落ちてゆく。そんな感覚がした。

「知ってる。知っているけど、どうしようもできない」

「だろうね」

 抱きしめた那由の首筋からは、どこかで嗅いだような甘い香りがする。ひどく懐かしくなるそれに、胸が締め付けられる思いがした。

「でも、もう大丈夫。それも終わるから」

「え……?」

 終わるとはどういうことだろうか。恭人はまだ働かない頭で考える。

 この事件の犯人が見つかったのか? だとしても、まだこのウイルスの対処法はない。一週間を過ぎるのを待つしかないとも言われている。

 だとすれば、犯人が逮捕されたところで所詮しばらくはこの苦しみは続くのだろう……そう思って那由を抱きしめる腕に力を入れると「痛いんだけど」と文句が落ちた。那由は恭人がどれだけ弱ってもいつも通りらしい。

 それがまた、恭人の心を僅かに軽くする。

「えーっと、言っておくけどここはシミュレーションシステムの中でも夢でも恭人の幻覚でもなんでもない」

 そう言いながら那由は少し伸びをして、恭人の頬を引っ張った。それはちょうど、恭人が那由によくやっていた仕草と同じだ。

「うん……?」

 一体何を言いたいんだ、と恭人が首を傾げると、那由は「入ってください」と、扉の方に声をかけた。

 ここはシミュレーションシステムの中でも夢でも恭人の幻覚でもなんでもない……那由がそう言わなければ、恭人はそのいずれかだと思っただろう。現に、今でもそう疑っている。

 那由の合図で入ってきた人……それは、恭人が三年前に失ってしまったと思っていた自分の母親……浪川結だったのだから。


「積もる話は後。まずは大人しく注射されて頂戴。あ、免許の有無はこの際不問でお願いね、大丈夫ラットには沢山してきたから」

 と、流れるように告げながら大きなボストンバッグから注射器や小さな容器に入れられた液体を取り出した結は、机に常備されている消毒液をガーゼに垂らして恭人の腕を軽く拭くと、躊躇いなく注射針を静脈に刺す。新米看護師が慎重に血管を探すような無駄な間さえ与えない。こんな手際の良さがありながら、ラット相手の経験しかないというのは疑わしいところだが、それよりももっと聞きたいことはある。いつ口を開けばいいのかと考えていると、那由にペットボトルの水を渡された。起きた時から口の中がカラカラに乾いていたことに気づいていなかった。そのことへの配慮も、結の思いつきだろうか。


「実はね恭ちゃん、私が死んだっていうのは嘘だったのよ」

 注射を終えた箇所にテープを貼り、全ての処置が終わった後、結は軽い調子でそう切り出す。

「みたいだな……」

 本当に死んでいたとしたら、目の前にいるのは一体なんなんだ、という話になる。自分の母親をその辺のそっくりさんと見間違うはずもない。そう思っているうちに、少しずつだが身体を覆っていた陰鬱な感覚が抜けていくのを感じた。

「SNDウイルス……ああ、恭ちゃんがかかったウイルスの俗称なんだけど、このSNDウイルスの即時性の治療薬を開発したの。元々神経伝達物質に作用するだけの弱小人工ウイルスだから、簡単に除去できるのよね。まあウイルスを除去するだけであって、本来このウイルスを使って見つけたかったうつ病の画期的な治療法はまだ見つかっていないけど」

 結の言葉を恭人は一つ一つ飲み込んでいく。

 SNDはおそらくセロトニン、ノルアドレナリン、ドーパミンの頭文字だろう。

 自分が今投与されたのはそのウイルスの即時性の治療薬。だから再び三種類の神経伝達物質の分泌が正常に行われるようになり、次第に心身の調子が戻りつつある。

 そしておそらくこの治療薬を作り出したのは自分の母親だ。どこか誇らしげな様子から確信できた。那由に対して自分の母親と似ていると思ったことは何度かあったが、やはり彼女たちはどこか似ている。

「母さんは、今までどこに……?」

「アメリカのミシガン州にある薬学研究機構よ。淳志さんの斡旋でねー」

「じゃあ俺が参加した葬式は?」

「お葬式やさんに頼み込んでやってもらったの。遺体の損傷が激しいからって理由で死体は見れなかったでしょ。でもあの式場に置かれていた箱は空っぽ」

「飛び降りたってのは?」

「淳志さんが流した嘘ね。恭ちゃんが取り乱してくれたお陰でみんなが信じてくれた。ちょっとだけ申し訳なかったけど恭ちゃんには秘密にしておいてよかったわ」

 恭人は、母親の死を偽装するために、両親からいいように使われたらしい。そのことに、言葉も出てこない。しかも「ちょっとだけ申し訳なかった」ときた。

 母親の死で何が変わったかというと、自分の精神病に対する価値観が変わったというくらいで、寧ろそれはプラスにはたらくものなのだから恨んだり憎んだりする理由はない。

 しかし、あれだけ泣きわめいて墓の前で手を合わせてきたあの時間を返して欲しいと思う。嬉しい再会のはずなのに、今すぐ母親の……いや、父親の顔面を殴りたくなる。

 しかし、もう一つの質問はきちんと聞いておかなければならなかった。

「どうして死を偽装する必要があったか、でしょ?」

 相手の心を読むのは自分の得意分野だが、何故か母親にはいつも心を読まれてしまう。そしてそれは数年ぶりに再会した今でも変わらないことらしかった。

「私も当時感染したの、SNDウイルスに。ううん、感染させられたのよ……多分研究所の誰かだと思うのだけど……それを淳志さんに話したら、実験と称して命を狙われる前に去った方がいいということで大掛かりな渡米を行わせてもらった。警察に言えなかったのはまだ認可されていないウイルスを説明するのにまず時間がかかり、その間に私が利用されてしまうかもしれないから。どう? 知りたい情報は全て分かったかしら?」

 ベッドの柵に手をかけて、結が不敵に笑う。両親は最初から今までずっとグルだった。おそらく恭人の様子も逐一報告されていたのだろう。それを思うと今度は頭が痛くなりそうだ。

「それで、那由と一緒にいたのは……?」

 一度遡った話を今に戻す。

「那由ちゃんが私のことを見つけてきたのよ」

 結は那由の肩に手を置いて微笑む。那由がそれを避けずにおとなしくされるがままになっているのは珍しい。一体この母親はどんな魔法を使ったのだろうと、少し恐ろしく感じた。

「都市大学付属薬学研究所のサーバーに最近アクセスしたIPアドレスを探知したら、怪しいものが三つ見つかった。その一つがミシガン州の研究機構のパソコンで、そこが出した論文の一つに浪川結という名前を発見……あとは個人情報をいろいろ探し出して電話をかけた」

「丁度那由ちゃんがいたファミレスに私も潜伏していたの。遅かれ早かれ私たちはちゃんと出会っていたかもしれないわね」

「ふうん」

 やはり那由はちゃんと事件のことを調べてくれていたようだ。そのことはやはり嬉しく思う。例えそれが一人でなく名前のないプロジェクトのかつての仲間を使っていたとしてもそれはいい。ただ同じ事件に向き合っていた……たったそれだけのことが何故か誇らしい。

「で、怪しいアドレスのもう二つは?」

 次は、気になる事件の方を突き詰める。

「一つはここ……都市大学付属病院の内科コンピュータからのアクセスだった。でもそれは事件後。十中八九恭人のお父さんがアクセスしたんだと思う」

「なるほど」

 普段は指示だけ出してあとは怠ける自分の父親が、今回は司令塔となって病院を動かしている。サーバーの方も勿論調べてみたのだろう。研究所がおかしな動きをしていないか、と。しかしもうとっくに潰れてしまった研究所は何も行動を起こしてはいなかった。

「もう一つは?」

「都市大学付属病院心療内科のコンピュータ」

「え……?」

 恭人の脳裏に、心療内科医長の槙原の顔が浮かぶ。いつも適当な父をしかってくれる厳格な恩師。まさか彼が……と、絶望しかけ、あまりに早急な判断だったと気付いた。

「まだ槙原先生が犯人と決まった訳ではない、だろ」

「そう。あの心療内科医がうつ病の画期的な治療方法を開発するための実験として病院内にウイルスをばらまいた……そういうこともきっと大いにあり得る。けど、百パーセント黒じゃない。証拠を押さえないと」

「そっか……でも早くしないと……空気感染をするウイルスなんて、放っておけばすぐに……」

「ああ、それなんだけど」

 恭人の言葉に結が口を挟む。

「あのウイルス、空気感染なんてしないわよ」

「え?」

 那由も少し難しい顔をして、いつものように左手を首筋に当てている。

「体内に取り込むとほぼ百パーセントの確率で症状を発症するのは厄介だけど、あの人口ウイルスは飛沫感染が限界。といってもSNDウイルス単体じゃくしゃみや咳の症状は殆ど出ないから、せいぜいウイルスが付着したものを口に入れるか、ウイルスがついた手で粘膜に触れるか……くらいね」

 空気感染は、結核、水疱瘡などの感染方法で、空気中に漂う微細な粒子を吸い込むことで感染してしまう非常に厄介な感染方法だ。感染経路を断つには患者を隔離するしかない。

 一方飛沫感染はインフルエンザなどに見られ、くしゃみなどから飛び出した飛沫を吸い込むことで感染する。しかし飛沫は水分を含んでいるため、くしゃみの射程圏内にいなければそのまま落下してしまい、直接ウイルスを吸い込む可能性はまずない。冬になると満員電車や学校のクラスでインフルエンザが流行するのは、ウイルスが付着したものを触れた手で食事などをしてウイルスを体内に取り入れてしまうからだ。ただしそれも、感染者が咳やくしゃみをしてウイルスを体外に放出している場合に限る。飛沫感染の要素を持っており、なおかつ咳やくしゃみの症状を出さないウイルスであれば……感染の恐れは著しく減少する。

「もし空気感染なんてしていたら、病院内はもっとパニックよ。恭ちゃん医者のたまごなのに……そんなことも分からないの?」

「な……っ」

 冷たく言い放った母親の言葉は、どこか那由の態度にも似ており棘がある。久々にこの手の嘲笑を直に受け取ってしまった。

「発症率がほぼ百パーセントだとは知らなかった。だから不顕性感性……ウイルスは体内にいても発症していない患者がいるんだろう……って勝手に解釈していた」

「推測で動くなんて恭ちゃんらしくないわね」

「ああ……ちょっと頭に血が上っていたんだよ。母親が死んだ病気が蔓延しているかもしれないって思ったからな」

 恭人の嫌味にも、結はどこか楽しそうだ。

 その様子が、恭人の怒る気力を削ってしまう。

「ウイルスが付着しているものを触った手で口を触る、ウイルスが付着しているものを口に入れる……そういうことをすれば、確かに感染する。病院のトイレのドアとかに少し付着させておくだけで、誰かしらが感染するでしょうね。恭ちゃんはちゃんと手を洗っているのかしら?」

「洗っているし念入りに消毒もしている。ていうか空気感染って情報はどこから……」

「うん、それ、私も気になっていたんだけど」

 恭人は那由と目を合わせる。今病院内で蔓延しているウイルスの説明を聞いた時、二人は一緒にいた。そしてそんな説明をしたのは……

「飛沫感染を空気感染と言い間違えたのかもしれない」

「そう? 内科医の卵が?」

 また一人、怪しい人間が増えた。それに、病棟に入る際は消毒を欠かさない恭人は、一体どこで感染したというのだろう。

 さらにウイルスの入手経路も気になるところだ。


「まあ、その答えはもうじきわかる……行こうか」

「行くって……どこに」

「ついさっきね、心療内科医の控え室の方に警察が来た」

 那由は少し声のトーンを抑えて囁く。

「警察? もしかしてウイルスのことを……」

「ううん、それは伏せてある。ウイルス関係じゃないよ。どうやら心療内科医の控え室入り口に設置してある監視カメラが誤作動を起こしたらしくてね、点検に来たんだ。カメラの」

 こんな時に監視カメラが偶然誤作動を起こしたとは思いにくい。勿論偶然の可能性もゼロではないだろうが、今の那由の口ぶりで何をしたのか大体わかった。

「お前もよくやるよな」

「褒め言葉として受け取っておくよ」

 監視カメラの誤作動が起きればセキュリティー会社か警察のどちらかが動くが、病院のような公共施設には一部警察管轄の監視カメラがあり、それが誤作動を起こした場合、警察が動くことになっている。

「ついさっき一課の強面の刑事がやってきて一通り点検をして……形だけだけど一応室内を調べていったよ」

「でも……証拠なんて見つけられなかっただろ?」

「うん。警察ではね。でも、来たって事実が重要なんだ」

 恭人にも、やっと那由が言いたいことが分かってきた。結は既に作戦を聞いたらしく静かに微笑んでいる。

「病院関係者用の方のMCCを見て」

 那由に言われた通り、恭人は遠ざけてあった病院用のMCCを取り出す。

 そこには、淳志による一斉メールが二通届いていた。

 一通は今朝九時ごろに送られたもので、もう一通はつい先ほど届いたものだ。

「あー『心療内科医控え室に警察が来ているため暫く近寄らないように』か。何で警察が来たかはまでは書かれていない……だとすれば、犯人は焦るだろうな。それで、もう帰ったという旨のメールもさっき来た」

「うん」

 恭人は深く息を吐く。もうあのような倦怠感や虚無感はない。立ち上がっても動悸や息切れもない。

「犯人は現場に戻る……なんて使い古された言葉だと思っていたが……行くか」

 警察が不具合の起きた監視カメラの点検に来た。しかし、それが何の点検なのかは傍目には分からない。すると、犯人は焦るだろう。もしかしたら証拠が……自分がパソコンでなんらかの作業をした痕跡を探されているかもしれない、と。

 那由が描いた筋書きにしてはやや婉曲的なのは、恭人の立案に触れたためか。

 少し口角を上げながら歩調を早める恭人に、那由と結もついていく。

「すっかりいつもの調子だね」

「ああ……お陰さまで」

 そんないつもの掛け合いをするのが心地いい。

 きっとそれはお互い感じているはずだ、と恭人は思った。


 心療内科医控え室にはすぐに着いた。昨日は病室と病室の間が、そして控え室と控え室の間が非常に長いものに感じられたが、今となってはなんてことはない。改めて、ウイルスの恐ろしさを知る。

 恭人は扉に手をかけると、一つ大きな深呼吸をした。

 もう、扉の向こう側にいる相手は分かっている。那由ですら勘付いているというのだから、自分が気付かないのがおかしかった。

 思えば、もっと早くに疑うべきだったのだ。

 何故ウイルスの説明をするために内科の控え室に連れて行くのではなく、わざわざ人のいない休憩室を選んだのか。

 麦茶を用意する槙野を手伝おうとした際にも違和感があった。何故あまり接点のない教授を即座に手伝おうとしたのか。

 何故恭人に缶コーヒーを渡す時、わざわざ口を開けてから渡したのか。

 何故病棟を回る際自分の側を離れなかったのか。

 今朝になり、共に行動する予定の友人が来ないのに連絡一つ寄越さないのは何故か。

 その答えは、もうすぐ見える。

「何してるんだ、橋本」

 恭人は扉を開けると同時に、室内にいる人物にそう声をかけた。

 その途端、パソコンに向かっていた男の肩がびくりと揺れる。

 恭人の同期であり内科医の卵、橋本。彼はゆっくりと振り返り、恭人と那由、そして結の姿を捉えた。

「浪川……お前、なんで」

「死んだと思っていた母さんが実は生きていて、ウイルスに効く即時性の薬を投与してくれたよ。缶コーヒーの淵にウイルスを忍ばせた犯人さん」

 冷たくいい放つ恭人の声に、橋本は一瞬身震いした。しかし、すぐに表情を戻す。

「何言ってるんだよ、何のことだか俺は……」

 どうやら、シラを切る作戦できたらしい。

「へえ……まあいろいろ思い当たる節はあるけど、全部知らなかったとか言い間違えたとかで終わってしまうんだろうね。その証拠が消えてしまえばの話だけど」

 那由は、橋本が座っていた椅子に近づき、画面を注視する。そこにはよく見かけるようなタイプのショップサイトがあったが、会員制になっているようで、カモフラージュ商品の裏で違法な医療関係の品が売られていることが少し目を通せばすぐに分かった。

「ふうん、SNDウイルスも売っている。警察に知られる前にPCのログを消そうって魂胆だね。でも残念。そんな素人の消去作業くらいじゃ、流石に警視庁捜査二課でも騙せないでしょ」

 そう言って那由はキーボードを奪い、カタカタと操作をしていく。

「へー、医療従事者用の裏掲示板なんてあるんだ……子どもみたい」

 画面が切り替わると、よく見るネットの掲示板のようなレイアウトが表示され、難しい言葉を書き連ねる人々のやり取りがずらりと並んでいる。違法な医療行為へ踏み出そうとしている旨の相談や、ライバル医師への悪口など、内容は様々だが目も当てられないものばかりだ。

 那由はその中から橋本が書き込んだものをピックアップした。

「『ライバルの研修医を陥れたい。T大学付属病院の医院長の息子だ』か……陳腐な書き込みだね。それに対して現れたのが『そいつの母親を殺したウイルスを売っている』という名無しの人間からの書き込み……そこから個人チャットに移動」

「な……そのログはもう消したはず……」

「言ったでしょ? そんな素人の消去作業くらいじゃ……いくらだって復元できるって」

 那由はそう言って、淡々と画面を切り替えていく。いとも簡単に行っているが、それが高度な技術だということは、恭人には既に分かっている。

「個人チャットで明かされた名前は犀川桐夫。彼は元都市大学付属薬学研究所の所長だと説明しサーバーのアドレスを貼る。それをあなたは見に行き、次第に話を信じていった……馬鹿らしい」

 そこで、薬学研究所のサーバーに訪問履歴が残ったのだ。

「あとはウイルスを手に入れ、院内のいたるところに付着させ、パンデミックを待った……と」

 心の底から呆れるような那由の深青の瞳に、橋本は言葉も出ない。念のため恭人は一部始終を録音しているが、段々可哀想にもなってきた。

「心療内科のパソコンを使ったのは、裏サイトへのアクセス履歴がバレないようにするためだな。内科医のパソコンは父さんがよくゲームで利用しているし……自分のパソコンではどこかでバレてしまわないかという心理的な不安が働いた。幸い槙原先生はパソコンではなくタブレット派で、あまりパソコンを触らない上、心療内科は人手不足で殆ど控え室に戻らない。だからお前はその時間を利用してここのPCを利用した」

 恭人もここへ来るまでに大方予想できたことをつらつらと告げる。

 すると、もう逃げられなくなったと思ったのか、橋本は急に態度を変えて彼らを睨んだ。

「け、警察に言う気か? それなら俺だってそこのお前の彼女のことを警察にチクるぞ。変な関係者権限使って病院に居座らせているだなんてどう考えてもおかしい。きっと言えば何か出てくる……そうだろ?」

 まくしたてるように告げる橋本の言葉に、恭人は眉ひとつ動かさなかった。動揺したら負けだ、そう判断したためだ。しかし那由の方はどうか。気付かれないようにそっと那由に視線を向けると、彼女は何故か笑みを浮かべていた。

「面白いね、やってみればいいよ。それであなたの罪が軽くなるわけはないけど? そもそも私とあなたの罪なんて天と地の差があるし」

 那由の言葉に、橋本は顔を青くする。橋本は、自分の罪の方がよっぽど重いものだと誤解したのだろう。しかし、本来の意味は逆だった。 

 違法なルートで違法なウイルスを購入し、病院患者の一部を罹患させただけの橋本に比べ、那由は犯罪を助長させるようなプログラムをいくつも生み出している。規模の差は比べ物にならないが、今は誤解させたままの方が都合がいい。

「安心しろ。別に俺はお前を警察につきつけようとは思っていない。母さんが持ってきたワクチンで患者の症状も無事治る。何人もの患者を苦しませたのは心が痛むが、死者が出なくてなによりだしな」

「ふうん。自分が苦しんだことは棚にあげるんだ」

「お前が話の腰を折るな」

 那由はキーボードをカタカタと操作したままイタズラな笑みを浮かべる。彼女も随分と変わったものだ、と恭人は思った。

「父さんにもお前が犯人とは伝えるが、内科医になるコースはちゃんと用意してもらうから安心しろ」

「は……? そんなこと……」

 就職の道も絶たない。けれど事実は伝える。そんな仕打ちに耐えられる人間はどれだけいるだろうか。

 自分の上司となる人間も、同僚も、関係者の多くも、彼が意図的にウイルスをばら撒いた犯人だと知っている。その中で働けと言う。いくら罪が許されているとはいえ、居心地が悪いどころの話ではない。

「俺たちはお前を訴えない。あとは自分で選べ」

 恭人にじっと見つめられ、橋本は静かに項垂れる。選べと言われても選択肢は一つしかない。

 この病院から立ち去る。ただ、それだけだ。

 しかもそれを自ら選択させられるというのだから、いよいよ最悪な選択であった。


「あ……でも、俺がウイルスを塗布した場所は分からないんじゃ……」

「病院内の全ての扉や手すりを殺菌すれば済む話だ。その辺は父さんが指導したんだ、もう跡形もなく消えているだろう。そもそも空気感染ではない人工ウイルスなんだから死滅速度も速いだろうな。万が一罹患したやつがいても、ワクチンも用意されているから問題ない」

 もう事件への対策は完璧だ。だから、犯人を捕まえるまでもなかった。

「あーあ。やっぱすげえよお前はさ」

 橋本は項垂れ、それから何かを諦めたような顔で恭人を見つめる。

「テストじゃ楽々一位を取るわ、精神医学の方に転換してもすぐさま優等生になってちゃんと教授に気に入られるわ、ほいほい女を取っ替え引っ換えできるわ、おまけに父親は総合病院の医院長……ほんとろくでもない化け物だよな」

「それに僻んでこんな馬鹿げたことしたわけ?」

 那由はそっとパソコンのディスプレイを指差す。そこにはウイルスの購入画面が映し出されていた。

「最初は掲示板に愚痴を書いているだけだった……でも、あいつが……犀川が現れて俺をその気にさせた……そう、全部あいつが……あいつが悪いんだ」

「馬鹿じゃないの」

 ブツブツと小さく呟く橋本の言葉を那由が一蹴する。

「貴方が悪いに決まっているでしょ」

 例えそれを売った人間がいようと、買って行動を起こしたのは全て橋本なのだ。どう考えても彼に非がある。それを、那由は鋭い口調で突きつけた。

「……教えてくれ、最後に。那由ちゃん、君は一体何なんだ?」

 橋本は白衣を脱ぎ、腕から病院用のMCCを取り外した。もうここから出て行く、そんな意思が垣間見られた。

 たとえ優等生の友人への僻みで間が差しただけだとしても、やってはならないことはある。大学生ともなればその辺りの分別はつくだろう。

「私は……松井那由。そこの恭人の彼女だよ。それ以上は教えてあげない」

 那由の言葉に橋本は静かに微笑み、そのまま黙って部屋を出て行った。


「で、母さん。犀川桐夫って人間に心当たりは?」

 自分が同期から僻まれていたという事実には大して驚かず、恭人は事件のさらなる追求を急ぐ。院内での感染はもう絶ったといえども、ウイルスを所持している人物がいるのはいただけない。

「心当たりはあるけれど、その人は犯人じゃないわね」

 黙って若者たちのやりとりを聞いていた結は、恭人の質問を聞き何故か楽しげに微笑んだ。

「なぜ?」

「だって犀川さんこそ死んでいるもの。もう七十を超えた研究所の元所長兼名誉教授でね……二年前に肺を悪くしてぽっくり……って淳志さんが言っていた」 

 だとすれば、誰かが犀川という名前を使ってSNDウイルスを売買していたことになる。捜査はまた振り出しに戻る……ということは、勿論なかった。

「あー……犯人が分かったよ」 

 忙しなくキーボードを打ち続けていた那由が手を止める。

「電子パットなんてセキュリティ薄いので裏サイトをいじるって馬鹿なのかな……すぐにIPアドレスが割り出せた。まあ、恭人にとっては今度こそ嬉しくない展開だろうけど」

 那由はため息まじりにモニターを指差す。

 この時ばかりは、恭人も動揺を顔に出さずにはいられなかった。

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