第4話:不安の種

 那由は、目の前に現れた女性に暫し目を奪われた。

 さらりと長い黒髪の、年齢不詳の大人の女性。桃色のカーディガンは彼女の色白さを際立たせ、立ち姿はどこか儚げにも見えた。

「それで、私が生きていると知っている日本人は淳志さんとお葬式屋のお兄さんくらいなものだけれど……あなたたちは?」

 彼女は、自分が恭人の母親だということを肯定した後、さらりとそう続ける。

「まあまあひとまず座って」

 高塚は、恭人の母親……浪川結を那由の隣に座らせた。その途端、ふわりと花の香りのような甘い匂いが漂う。

「私たちは、現在都市大学付属病院で起きている人口ウイルス事件の犯人を探している。そうしたらたまたまアメリカの研究機構が見つかり、たまたまあなたの電話番号が分かって……」

「ふうん……たまたま?」

 那由の言葉に、結が突っ込む。先ほどの笑みとは違い、何かを見透かしたような用心深い表情だ。

「……都市大学付属薬学研究所のサーバーをハッキングして最近アクセスしたIPアドレスを探ったらミシガン州の薬学研究機構にたどり着いた。そこの論文の一部にあなたの名前が載っているのを発見し、高塚が裏を取りあなたの電話番号を入手してかけました」

 那由は、今自分たちがやっていたことを端的に説明した。この際端折ったり隠したりしても無駄だと判断したのだ。相手だって、今まで自分は死んだものだと偽っていた存在。やましいものがあるのはきっとお互い様だろう。

「なるほど。同じファミレスにいたのは……どうやら偶然のようね」

「あなたが何をしていたのかは知りませんが……おそらくお互い病院の近くで長時間かかる作業をしようとしていたんでしょう。そうすればまあ、場所も限られてくる。二十四時間営業のファミレスは安価だし好都合……被る確率は高くなっているといってもいい。とはいえ大きな偶然だと思いますけど」

 初めて喋るにも関わらず、那由はこの女性に対し話しやすさを感じていた。きっとこの女性はどこまでも情報を飲み込んでくれるし、無理のない範囲で理解をしてくれる。その感覚は、恭人に対するものと非常に似ていた。

「それで、あなたたちは誰?」

 その質問には、那由は暫し答えに迷った。人もまばらになったこのファミレスに警察がいるとも思えないし(実は先ほどまで愛奈達がいたが)、今のところ誰かに追われてなどいない。自分のことについては話しても構わないが、二人はどうなのか……と、那由はそっと目配せをする。すると上里が微笑んで、

「IT関係の仕事仲間です。違法か合法かに関しては触れないでください」

 と、告げた。仕事仲間……それは、那由には浮かばない上手いかわし方だった。

「そう……違法なお仕事ねえ。で、さっき恭ちゃんの名前が出てたけど……あの子と関わりがあるのは……」

 そう言って結は三人を順に見つめ、

「あなたね」

 と、那由に視線を合わせた。何でもお見通し……そう言いたげな視線にやはり既視感を感じる。

「そうですね……まあ、腐れ縁というか……」

「那由ちゃんは恭人くんの彼女だよ」

「た、高塚?」

 それこそ適度に流そうとしたのに、高塚が見事にバラしてしまい、那由は慌てる。今すぐにでも逃げたいけれど、結が外側に座っているためにどうすることもできない。

「へえ……あなたが」

 自分はそもそも恭人好みの容姿でないとか、恭人のようにきちんとした家系には不釣り合いだとか、違法行為に手を染めている人間に息子を渡さないとか、そんなことを言われたらどうしようかと柄にもなく焦る。恭人の父親にであれば、どんな態度もとれたのだが、この得体の知れない女性に対してはどう対応したらいいのか分からないというのが那由の心境だ。

 何と答えればいいか言葉を探していると、思いもよらない行動をとられた。

「え……」

 結に、抱きしめられたのだ。

 先ほどまで感じていた甘い香りが一層強くなり、那由の頭を一度真っ白にしてしまう。顔を埋めることになった胸は、思ったよりも柔らかな感触がなかったが、それでも恭人とは違う女性らしさを感じられた。

「恭ちゃんに何かされたら何でも相談してね」

 そして、降ってくる言葉も思いもよらないものだった。

「あの、なんで……」

 何故、自分の息子を下げるような言葉を言うのか、那由には分からない。ただ一つ明確なのは悪い印象は持たれていないということ。何故か知らないがいきなり抱擁するくらいには心を許されているのだろうか。

「大体のことは淳志さんから聞いているもの。遊んでばかりだった恭ちゃんが、彼女ができたお陰で大人しくなったって。でも恭ちゃんあれで結構面倒くさい性格してるから心配で……大丈夫? あの子に変なことされてない?」

「だ、大丈夫ですけど……あの、恭人はあなたが生きていることは知らない……ですよね? だって入院中に精神を病んで……あ」

 恭人や淳志は確か、浪川結は精神を病んで入院中に飛び降り自殺をした、といったことを話していた。精神を病んだ……といえば、那由たちが今まさに追っているウイルスと話が結びつきそうだ。

「そう御察しの通り、私は三年前ウイルスに感染したの。ううん……感染させられた。実験対象にするため……かどうかは分からないけれど可能性はある。だから淳志さんは地位と財力にものを言わせて私を自殺したことに見せかけ、アメリカに逃してくれたってわけ。偽のお葬式を開くことと……恭ちゃんを騙し切ることが一番大変だったみたいね」

 あのウイルスが悪用されたのは今回が最初ではなかった。かつても被害者がおり、そのことが隠蔽されたというのが驚きだった。

「何故その時犯人を訴えなかったんですか? 捜査依頼を出したりとか……」

「人をうつ病にするウイルスなんて前代未聞なもの、簡単には信じてもらえないでしょうし、それを説明している間私が研究所にいつ狙われるか分からなかったからよ。淳志さんもそれなりの地位がある訳で、下手なことして地位を落とせばより状況が不利になるもの」

 確かに、そう言われれば結と淳志の行ったことは合理的な処理だったのかもしれない。

「恭人に秘密にしていたのは?」

「本当は話そうかと思ったのだけど、あの子が取り乱したり父親に楯突いている姿を見せたほうがより研究所の方も私が本当に死んだって信じてくれやすくなりそうじゃない? だから利用させてもらったの」

 息子を利用する……それはひどく無慈悲な行為に見えるが、全く悪びれる様子はない。それが合理的だからやった、そう言いたげであるし、那由が同じ立場になってもそんな判断を下しそうだと思った。そして、恭人でも。

 この親にして子あり、というのはこういう時に使うのだろうか。

「で、あなたは犯人を知っているんですか?」

 那由はじっと結の目を見つめる。聞きたいことは非常に多いが、まずは重要なことから一つずつ解決していこうと思った。

「あの薬学研究所に所属している誰かだとは思っていたのだけど単体では特定できなかった。私は元から身体が弱くて入退院を繰り返していたから、感染させるには丁度いいと思ったのかもしれないわね。で……あなたは次にこう聞くと思うの。『あなたは何故戻ってきたんですか?』って」

「な……」 

 見事に当たっていた。そうやって人の心の中を見透かすのは恭人の得意分野だと思っていたのに、こんなにも綺麗に先を読まれてなんだか負けてしまった気分だ。

 高塚は既に苦笑いを浮かべているし、上里はなんだか退屈そうにしている。

「そのウイルス……一応研究所ではSNDウイルスって言われているんだけど、それの抗体を作ることに成功したのよ。といっても、うつ病を治すのではなく、悪さをしているSNDウイルスを排除するだけのものなんだけどね。それができたのはちょっと前で、もう少し研究を続けていたかったんだけど、淳志さんからこっちで事件が起きたって言われて抗体と一緒に戻ってきたの」

「でも、院内に犯人がいる場合下手に動けないので様子見として近くで待機している……と」

「その通り」

 結は微笑んで、那由の頭をぽんぽんと撫でる。子ども扱いをされているようなのに、少しも嫌な気持ちが湧いてこないのが悔しい。この女性といると調子が狂わされてしまう、と那由は思った。

「どうやら犯人はまだ見つかっていないようね」

「そうですね。恭人からも連絡がない」

 那由は自分のMCCを確認した。

 恭人から自分の家に行っていいとカードキーを渡され追い出されたが、彼も那由が素直に家に帰るとは思っていないだろう。メッセージで住所が送られてきてはいるが、それっきりだ。那由の前で自分たちは犯人を探している余裕がないと会話したのも、おそらく裏から探してみて欲しいという思惑があったのだろうと、今になって気づく。

 自分と恭人はいつかのシミュレーションシステムの中の時のように共闘関係だ。そしてその共闘相手からの連絡が一切ない。便りがないのはいいことなのか……それとも、何かあったか。

「ただ、都市大学付属病院心療内科のPCから事件前に研究所のサーバーへアクセスされたことは確認できたのよねえ」

 上里が気だるげにそう告げる。那由たちのやりとりに飽きているような気配がそこはかとなく伝わってくる。

「高塚、上里さん、協力してくれてありがとう。後は……こっちでやってみる。対価は必ず払うから」

 だから、那由は二人におずおずと頭を下げた。

 もう十分な情報が手に入ったと……そう判断したためだ。

 以前の那由であれば「もういいから帰って」と、ぶっきらぼうに言いそうなのに、随分と変わった……それは、那由自身でもよく分かっている。

「分かったわ。私たちの能力が那由ちゃんの力になれたならよかった。また集まりましょ」

「またね、那由ちゃん!」

 そう言って、二人は席を立つ。名前のないプロジェクトは、名前をつける必要がないくらいに、ただ目の前の仕事をこなすだけの、技術者たちの集まりだった。しかし今、三人は「仕事仲間」という確かな繋がりを感じたはずだ。

 もしかしたら今後彼らと仕事をすることが増えるかもしれない……那由はそんな予感を抱いた。


「さて、私たちはどうしましょうか?」

 気づけば時刻は夜十時に近づこうとしている。外を通る車の数も減っており、温度差で窓ガラスが僅かに白く曇っている。付近のビルの明かりも数が減っており、かろうじて遠目に見える都市大学付属病院も、入院病棟の明かりは殆ど消えているようだった。

「あの……恭人のお母さん……」

「結でいいわよ」

「ゆ、結さん……その、さっきから近くないですか」

 結は、肩が触れるほどに那由に接近していた。開きっぱなしのパソコンを覗き込んでいるわけでもなく、ただ単に那由にくっつく目的で距離を詰めているとしか思えない。彼女たちが座る赤いソファーは、詰めれば三人は座れる大きさのソファーだ。万に一つも狭いなどということもないだろう。

「那由ちゃん……でいいのよね? 那由ちゃんは何が不安なのかしら」

 不安……またもや心中を言い当てられてどきりとする。

「別に心を読んでるとかそういう訳ではないわよ。ただの母親の勘……みたいなものかしら」

 母親……その言葉で、那由は自分には母親がいないことを思い出した。

 というよりも、自分に母親がいないことを今まで然程気にしておらず、金田から母親の情報を一つも貰えなかった時も、何とも思わなかったのだ。自分を産んでいても、那由の人生の中で一度も接したことなど無かった。そんな人間を今更母親とは思わないだろう。だから、母親というその言葉の響きが、やけに不思議なものに思えた。

「ええっと、私は別に結さんの娘ってわけじゃないですし……」

「でも恭ちゃんの彼女なんでしょ? もう娘みたいなものじゃない。なんならお母さんって呼んでくれてもいいのよ」

 父親の方にも以前似たようなことを言われたような気がして那由は身じろぐ。どうして簡単にそこまで話が飛躍できるのか分からないが、もうそこに反論できる言葉が見当たらない。

「お母さんとはまだ呼べません。それから……不安なのは恭人のことです」

 那由は再びMCCに目を落とす。

 連絡が来ないのは犯人が見つかっていないからだと推測できるが、もしかしたら連絡ができる状況ではないのではないか……そんな風にも疑ってしまう。

「恭人は……あなたの事件を受けて以来精神的な病に関しては敏感で、今回ウイルスの件を聞いた時もいつもの冷静さを失いかけていた。勿論彼も立派な医者の見習いですし、大丈夫だとは思います。でもなんか……モヤモヤして」

「なるほど……那由ちゃんは優しいのね」

 優しい……まるで自分には一切関わりのない言葉に戸惑う。寧ろ冷淡だと揶揄されることの方が多々あった。

「違います……私今までそんなに人のこと心配するとか、してこなくて。他人事は他人事だって片付けていました。恭人のことだって出会った当初は無関心というか……まあこの人はこの人なりに上手くやるんだろうなって片付けていたんです。なのに今は気になって仕方がない」

 シミュレーションシステムの中で困っている人に会った時も、ゲームシステムの暴走で被害に遭っている人を目の当たりにしても、所詮は他人事だとどこか遠くからそれを見ている自分がいた。恭人に対しても、冷静な頭脳に取り乱されては事件解決が遅れると、その程度にしか思っていなかった。

 しかし、二つの事件を乗り越えた今、那由には確かな他者への「心配」や「不安」が芽生えていた。全てが自己中心的で効率だけを考えていた頃と比べると随分と変わったものだ。

 心情を言葉にしたせいか余計に不安が増したような気がして、那由の手が震える。すると結は那由の左手をぎゅっと握って「場所を変えましょうか?」と声をかけた。

 深夜のファミレスは自分たちともう一客ほどしかいない。

 秘密の話をするにも段々不向きになってきた。

 それも加味して、那由は結の言葉に頷いた。慣れることのない重たい不安も、彼女がいたからこそ耐えることができた。そんな気がしてならない。


 那由たちが向かったのは恭人から住所を教わった浪川家の住居だった。適当なネットカフェなどに入るよりかは、与えてもらった場所を使用する方が都合がいい。タワーマンションの最上階にあるそこは、指紋認証とカードキー、どちらでも入れるようになっている。

「懐かしいわね……まだ住んでいたなんて」

 中に入って間取りを確認したところ立派な4LDKのようで、奥に広がるリビングダイニングはホームパーティーでもできそうなほどの広さがある。ただ、どの部屋もモデルルームのように家具が置いてあるだけであり生活感がない。淳志は普段の態度を見るに割とだらしのない生活をしていそうではあったが、菓子の類なども見つけられなかった。

「二人とも、ほとんど家に帰っていないんじゃないかしら」

 那由が知る限り、恭人は都市大学医学部の研究棟の一室を住処にしているらしい。よくサボっていると言われる淳志も案外病院を住処にしているかもしれない。

 せっかくいい家に住んでいるのに勿体ない、と那由は思った。これだけ静かで居心地のいい場所があれば心地よく作業ができるのに、と。

「それで、犯人は分かりそう?」

 リビングのソファーに座るよう促され、話の続きを尋ねられる。

「都市大学付属病院の心療内科のPCからアクセスされた形跡がある以上、まずは心療内科医長の槙原雄大を怪しむべきだと思います。でも、黒じゃない」

 那由は先ほどまとめたは医療従事者リストから、槙原の名前を思い浮かべる。

 調べたところ心療内科医は数が少なくアシスタントもいない。ならまずは医長から疑うべきだが、院内に設置されたパソコンなんて誰でも操作できそうだ。身バレを恐れ、誰かが敢えて別の科のパソコンを使ったというのも、ありえなくはない。可能性がある限り切り捨ててはいけないのはこうした作業においての鉄則だ。

「そうなのね……それで、ここからどう追い詰めていくの?」

「……それは」

 IPアドレスを辿ることはできたが、使用されているパソコンが複数の人間に操作される可能性がある場合、画面の内側から絞るのはそろそろ限界かもしれない。後は現場に行って調べるくらいしか成す術がないだろう。

「ここまで来たら警察の仕事なのかな……現場に行って、指紋や監視カメラから……あ、カメラ……」

 那由は再びノートパソコンを取り出すと、カタカタと急いでキーボードを打ち始めた。

「都市大学付属病院の監視カメラは……警視庁刑事部捜査一課管轄……ならば」

「もしかして警察のサーバーをハッキングするの?」

 那由の手の動きをじっと見ていた結が問う。

「ううん……そんなことはもうしません。あの人たちは聡い。だから敵に回すのではなく……味方についてもらう」

 那由の口元が不敵な笑みを浮かべた。警察を利用するというのはいつぶりだろうか。

 違法なことはしたくないと思いつつも、少しばかり楽しくなってくる。

「ウイルスのことを教えるってこと?」

「いえ……ちょっと別のアプローチです」

 那由は勢いよくプログラムを組み立てていく。その楽しげな表情を見て結は微笑み立ち上がる。今夜は長くなりそうだ。温かいコーヒーでも入れてまだ得体の知れない彼女を眺めるのはきっと楽しいだろう……そんな風に思いながら。


◆  ◆  ◆


 都市大学付属病院には一般病床の内科、外科、産婦人科、小児科の病棟と、精神病床、合わせて五つの病棟が存在する。

 恭人と橋本は専攻の関係で内科の病棟ばかりに足を運んでいたが、今回やってきたのは外科病棟だ。主に手術を控えた患者が多いこの病棟は、自分たちが知る病棟よりもどこか閑散としており、眠りについた患者の呻き声なども内科よりは聞こえてこない。そもそも、面積に対して患者の人数が少ないということも物寂しさを感じる理由の一つだ。

 MCCで間取りを確認しつつ、一つ一つ病室を巡っていた恭人たちが次に入ったのは、四人部屋にも関わらずベッドが一つしか使われていない寂しい病室だった。そこに、目の手術を控えた高校生くらいの少女が、ひどく浮かない顔で病室にただずんでいる。カルテでは事故により片目の視力が落ち、レーシック手術を待っているとのことだが、まるで両目が見えなくなったかのように、彼女が纏う空気は重たく暗いものだった。

 電子ブラインド越しの月光を浴びて物憂げに俯く黒髪の少女は、生きているのか心配になるほどに儚く見える。

「どうしました?」

 と、恭人が当たり障りのない声をかければ、彼女はやや目を伏せて、それから何とでもないと言いたげに首を横に振った。

 腕に付けられたHO2システムが、彼女が微熱を出していることをリアルタイムで医者の方に送信している。微熱程度であれば翌日の診察の時に様子を伺うというのが通常の対応なのだが、今は単なる微熱では終わらせられない状況だ。罹患した患者はまず微熱が出るというのが今回のウイルスの特徴のためである。

 槙原のマニュアルにより、医者や看護師たちは少しでも異常を見かけたらすぐに病室へ行くようにと定められている。

 なお、ここでこの病院の誰もが驚くことが一つあった。今回このマニュアルを元に指示を出し、現状のデータを逐一チェックしている司令塔は、病院の医院長を務める浪川淳志なのである。普段は問題が起きても指示だけ出してのんきにせんべいを食べながらゲームをしている男がどうしてこんなにもやる気を出しているのか、大嫌いな槙原のマニュアルに従っているのか、疑問に思う者も多々いる。しかし、恭人だけは確証を得ていた。おそらく今広まっているウイルスは自分の母親を……彼の妻を殺したものなのだ。だから、彼は躍起になっているのだ、と。

 この時恭人はまだ、自分の母親が生きていることは知らない。知らないからこそ、この未知のウイルスに強い憎悪を感じた。正しくは、感じようとした。


「消灯時間もきています。おそらく手術前でナーバスになっているのでしょうが、まずはお休みになってください」

 恭人がそう言うも、少女はやはり浮かない顔だった。年配の女性から幼い子どもまで、多くの人間はおおよそ恭人の微笑みで落ちてしまうのだが、彼女はそうもいかない。

「眠れないですか?」

 恭人が尋ねると、少女は僅かに首を縦に振った。肯定だ。

 不眠、と後ろに立っている橋本が電子カルテにメモをする。

「では、軽い睡眠導入剤を処方しましょうか?」

 そう伝えると、彼女は声を出さずに、しかしそれを望むような表情をした。

「分かりました。では看護師が後ほど向かいます。それまで無理をなさらず待っていてくださいね」

 そう言い残し、橋本と共に病室を出る。こういったやりとりを何度も繰り返してきた。身体の不調を訴えかける者もいれば、無気力状態になったり、感情的に怒り散らかしたり、今のように不眠に苦しめられる者もいる。精神的ダメージを与えてくるウイルス……これが生物兵器化などしてしまった暁には大変なことになるだろうな、と恭人は思った。正確には、思おうとした。

「とりあえずHO2で異常反応があった患者は大方チェックできたって感じか……あ、上の階でまた微熱が……」

 橋本は電子カルテを操作しながら息を吐く。手当たり次第に薬を処方していいわけではなく、きちんとした見極めも大事だ。だからこそ、この作戦は骨の折れるものであった。

「疲れたならお前は休んでいていいぞ」

「いや……ここで俺一人休むのも流石になあ」

 恭人の言葉に、橋本は苦笑いを浮かべる。

「ていうかサボリ魔のお前に俺が休めなんて言われる日が来るとは思わなかったよ」

「悪いな。患者のこととなると俺もサボってはいられないんだ」

 恭人はそう言って電子カルテに目を落とす。どうやら上の階には内科の看護師が向かったようだ……そう思った矢先、何かが倒されるような大きな物音が聞こえた。

 ガシャン、と耳を覆いたくなるような金属音が鳴り響く。

「何だ?」

「器具を乗せたカートが倒されたような音だな……」

 そう言いながら、すぐさま歩き出す。何が起きているのなら対処しなければならないというのもあるが、それよりも騒ぎは早めに鎮火しなければ患者が不安がってしまうというのもある。

 恭人は、そう自分に言い聞かせた。言い聞かせなければいけなかった。

 一つ上の階だからと足早に階段を上る橋本の後ろ姿を見ながら、気づかれないように自分の胸のあたりをぎゅっと掴む。

 先ほどから原因不明の動悸が治まらないのだ。そんなこと、絶対に表には出さないが。


 事態は、それほど深刻なものではなかった。

 錯乱状態になった老体の男が「ここから出してくれ」と叫び病室内で暴れたらしい。彼を宥め、やや強引にベッドへ連れ戻す役目を恭人たちが担い、看護師には安定剤を処方してもらい事なきを得る。本来ならばちゃんと彼と話し、入院しなければならない理由を理解してもらう必要があるのだが、今回に限ってはそれを行わずに出てきてしまった。

 恭人は落ち着いて眠りについた老人の顔を見る。あまり穏やかな顔とは言えない。ウイルスへの感染とは関係なく、実際入院生活に疲れていたのだろう。それが、ウイルスのせいで怒りとなって表に出ただけだ。

 もしかしたら、ウイルスが死滅した後も彼は慢性的なうつ病に罹患してしまう可能性がある。そうしないためにはどうしたらいいか……普段ならいくらでも考えられることが、あまりに難しく不可能な問題に感じられた。

 それほどに今の恭人は頭が回らない。

 しかし、回らないという自覚があるだけ幾分かマシと言えた。


「よーし、今度こそ終わりだな」

「ああ、そうだな」 

 伸びをする橋本の言葉に、恭人は電子カルテを覗きながら答える。俯く事で顔色を見せないためだ。

「浪川お前、夜はどうするんだ?」

「休憩室に戻って眠る。お前は?」

「じゃあ俺もそうしようかな」

 そんな話をしながら、休憩室を目指して歩き出す。それはごく自然な会話に見えた。見えるように、している。

 この時も恭人は、自分を襲う寒気と気だるさを表に出さないように必死になっていた。

 動悸がする。頭が回らない。解決策が浮かばない。

 恭人を襲うのは、そんな生ぬるいものではない。

 このままウイルスが広がってしまえば大変なことになる。とにかく患者のケアを第一に考えなければ……という当初の思いは漠然とした不安となって心に残っただけで、もう動いてもどうしようもないのではないかという虚無感が恭人の心をひどく満たしているのだ。なんとかいろいろと患者のことを考えてみたのに、最後は靄のかかった不安に収束し、頭が回らなくなってしまう。

 動くことが怠い。階段を上ったり屈むのもきつい。食欲も湧かず、呼吸だけが浅くなっていくような妙な息苦しさがあった。

 微熱が出ているのも自分で確認した。おそらく恭人は例のウイルスに感染しているのだろう。だからうつ病に似た症状が出るのは仕方がないことで、自分の心の中に芽生えた不安や気だるさ、憤りみたいなものは全て紛い物。一時的に神経伝達物質を操作されているだけ。そう思おうと努めても、どうにも気分がすぐれない。

 いくら思考を変えようとしたところで感情に異常をきたしていればどうしようもできない……その辛さを、今身をもって体感している。

 熱が出た時にふと不安になるようなあの感覚を何倍にも濃くしたような恐怖。それに身体が支配されてしまっている。

 本来ならば、それを隣の友人に言って休ませてもらうべきなのだろう。

 しかし、それは憚られた。一つは、前線から外れてしまうことに対する不安がある。自分のあの体たらくな父親までもが動いているのに、自分だけ仲間外れにされるのはプライドが許さない。

 そしてもう一つは、この友人を信じていいか分からなくなったのだ。

 それが、ウイルスによる焦燥感が生んだ思い込みなのか、自分の頭がはじき出した確固たる危機感なのか、それを判別することは恭人にはもうできない。

 ならば、とMCCを腕のリングから外すが、すぐに戻した。

 那由に……自分の恋人に連絡をしようとすれば、そこにはきっと弱音が混じってしまうと思ったためだ。彼女は今きっと、恭人の思惑通り躍起になってウイルスをばらまいた犯人を探しているだろう。せめてその進捗を聞きたいが、そんな事務的な連絡さえ、今はとることができない。

「あ……ごめん、内科に行った時に忘れ物したみたいだ。先行っててもらっていいか?」

「んー? 浪川が忘れ物なんて珍しいな。じゃあ行ってるな」

「ああ。先寝てていいから」

 恭人はそう言うと、休憩室へ向かう分かれ道でくるりと踵を返した。申し訳ないが、この友人を今信用することはできない。となれば……いけ好かないが、頼れる人間はあれしかいない。

 そんな気持ちで内科の控え室を目指す。もう既に自分は狂ってしまっているかもしれないと自嘲しながら。

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