第3話:新たな出会い

「ほんと、無駄に大きいよねこの病院」

 那由は都市大学付属病院のホームページを見ながら嘆いた。小さな開業医がなくなりつつある今、総合病院のニーズは高まっているが、それでもここまで大きな病院は珍しい。大規模な医療設備と三十四の科が一つの総合病院に集まっている。それだけのことが、作業を行うにあたっては非常に面倒くさい。よくこれだけの規模の施設を問題なく運営できるものだ。それを考えれば恭人の父の手腕もなかなかのものかもしれない。

「一応病院自体が保有するPCは百七十二台ってところまでは分かったけど、誰がどれにアクセスするのか、職員の動きをシミュレーションして割り出すのにまだ時間がかかりそう」

 気づけば、一度は増えたファミレス内の人口が、また少なくなっており、窓の外を闇が覆っている。

 高塚と上里の二人は途中で食べ物を頼んでいたらしいが、那由はそんなことは忘れてのめり込んでしまっていた。高塚にもらったポテトを頬張りながら、夜明けまでになんとか犯人を絞り込む術がないかと考える。

「ねえ、二人とも……アメリカミシガン州にある薬学研究機構について調べてたら……とんでもないこと、見つけちゃったんだけど」 

 すると、高塚が自分のノートパソコンを見つめながらそう呟いた。

「え?」

「発表された論文の一部に名前が載っているのはすぐに見つけたけど、裏をとるのに時間がかかっちゃった。でももう確定だ」

「犯人が分かったってこと?」

 もったいぶるような高塚の言葉に那由が画面を覗く。そこにあったのは想像もしていない名前だった。

「嘘……」

 同姓同名の別人なのでは、と疑うが、高塚が裏を取ったというなら間違いないのだろう。こういう作業においても、那由は高塚や上里の腕を割と信頼している。

「こっちも、那由ちゃんが絞り込んでくれた都市大学付属病院の百七十二台のPC、大方追跡が終わったわよ。内科のPCがやたらとゲームの攻略サイトに飛んでいたのは気になったけれど……それよりも気になる動きをしているのが一台あった」

 那由が途方もないと思っていた作業を、上里はお手製の追跡プログラムにより短縮させてしまったらしい。やはり侮れないな、と那由は思った。

「高塚の方も気になるけど後回しとして……その不審な動きっていうのは……?」

「Psychiatry」

 上里は、艶やかなイントネーションでそう呟く。

「あ……」

「まあ、あながちこの事件で利益を得そうな部類の人たちではあるけど」

 人をうつ病にするウイルスの研究をしていた今は無き都市大学付属薬学研究所のサーバーに、事件が起こる前にアクセスしていたPC。それは、都市大学付属病院心療内科のものだった。

「でもまだ遠隔操作の可能性までは消しきれていないし、裏はとれないわ」

「大丈夫。ひとまず心療内科に近い人間から裏を取っていこう。医長から初めて……」

 もう一度、容疑者を絞り直して、必要とあらば電子端末の方からも情報を得ていく。外れだったらやり直すまでだ。プログラマーには技術は勿論のこと、粘り強さというのも必要不可欠だった。

 本当は、犯人が薬学研究所のサーバーにアクセスしていたかどうかも疑わしいところだった。アクセスせずとも、必要な情報を既に持っていれば犯行に及べる。しかし、可能性がある限りは調べてみる必要があり、たまたまその調査が怪しいIPアドレスにヒットしたのだ。今回は本当に運がよかったといっていい。これが外れた場合、徹夜で二日ほどかける覚悟もしていた。その頃には二十四時間営業のファミレスといえども追い出されてしまうかもしれないが。

「ねえ、この人にはどうするの?」

 高塚が自分のPCを指差す。確かに、アメリカミシガン州の研究機構に載せられたその名前も、見逃してはいられないものだ。

「……まあ、無関係とは言いづらいし、コンタクトをとっても……」

「分かった!」

 那由の言葉を聞くや否や、待ってましたとばかりに高塚がMCCに番号を打ち込み電話をかけ始める。既に電話番号まで把握しているとは驚きだ。一体どこから個人情報を盗んだというのか。そして行動の早さも恐ろしい。

 しかしここで、思いもよらないことが起こる。

 高塚のMCCから発信音が流れた瞬間、通路を挟んで斜め前にある机から大きめの着信音が流れたのだ。偶然、にしてはできすぎている規則的な着信音は、高塚の電話に誰かが出た瞬間にプツリと消えた。やはり、偶然ではない。

 何故、アメリカのミシガン州の研究機構に所属しているはずの人が日本に、そしてここにいるというのか。あまりにできすぎていないかと疑いながら、那由は慎重に彼らの会話に耳をすませる。

 無意識に首元に当てられていた左手に、僅かに汗が生じた。

「もしもし……すみません、僕高塚って言うんですけど」

 いきなり自己紹介を始めた高塚に、相手は何も答えない。戸惑っているのか、こちらの出方を窺っているのかも、さっぱり読めない。

「あの……恭人くんのお母さんですよね?」

 通話口と、そして直にも声が聞こえたらしい斜め前の席の人物は、立ち上がってこちらを振り返る。

 恭人のお母さん、高塚にそう呼ばれた女性は、驚いて呆然としたりこちらを警戒する素振りをしたりもせず、「ええ、そうよ」と、一言呟き微笑んでみせた。

 

◆  ◆  ◆


槙原まきはら先生、現状を伺いに参りました」

 恭人は同じ研修生の橋本と共に心療内科医長槙原雄大ゆうだいの話を聞くため、心療内科医の控え室に顔を出した。

 白髪が目立つ還暦間近の槙原だが、その齢を感じさせないほどピンと背筋を伸ばし、部屋の端に置かれた椅子に座って電子パットを使いながら、ずらりと並んだデータに目を通している。ややくぼんだ目の奥にある瞳には、鷹を思わせるような険しさがあると恭人は思う。しかし一度患者の前に出るとその鷹も身をひそめるというのだから不思議だ。

 槙原はこの病院の心療内科医長である他、都市大学の非常勤講師としても登壇しており、精神科医を目指す恭人は度々世話になってきた。橋本は内科志望なので槙原との関わりが多いわけではないが、一般教養で授業を受けたことならある。

「よく来てくれた。ひとまず座ってくれ」

 槙原は、ようやく電子パットから目を離すと、恭人たちに座るよう促す。そして、冷蔵庫から麦茶を取り出し透明なグラスに注いだ。

「あ、手伝いますよ」

 と、橋本が前に出るものの、彼はその助けを断った。

 槙原はアシスタントや担当事務のような者を側に置かず、ある程度のことは自分でこなす。人手が少ない割にやることの多い精神科医長ならではの仕事ぶりを、恭人は尊敬していた。性格も厳格そのもので、よく怠けている自分の父親にも喝を入れてくれている。それが効いているかどうかはさて起き、そういう細かいところにも好感が持てた。息子として、もっと手加減なしで厳しく責めて欲しいと思う。

「槙原先生、あの……俺たちはどうすれば……」

「浪川くん、うつ病が発症する仕組みを答えてみなさい」

 槙原は、口を開いた橋本の言葉を遮るように、恭人にそう尋ねる。

「……なんらかの外的要因によって神経伝達物質のセロトニン、ノルアドレナリン、ドーパミンの三種類が減少することで起こるとされています。勿論それは一説にすぎませんが、今回のウイルスの場合、この神経伝達物質を減らすことで擬似的な抑うつ状態を生み出している」

「うん、正解だ」

 当然のようにツラツラと答える恭人に橋本は最早驚く気すら失せていた。入学時は同じ内科志望だったというのに専攻を変え、今では質問にも淀みなく答えられる。普段は女遊びばかりやっているのにここまで優秀なのはやはり父親似なのだなと思った。勿論、そんなことは恭人には口が裂けても言えないが。

「浪川くんの言う通り、モノアミンとも総称されるこの三種の神経伝達物質が減少することにより、うつ病に近い症状を引き起こされているようだ。セロトニンの減少による緊張感や焦燥感。ノルアドレナリンの減少による意欲の低下や興味の消失。ドーパミンの減少による楽しみの喪失。そしてこれらが掛け合わさったことによる不安感、食欲の低下、活動性の低下、さらに思考や認知能力の低下、気分の落ち込み、情動の減少。現段階ではそういった変化が確認されている」

「でもそれは、うつ病とは異なりますよね?」

 橋本は、一息で症状を言い切る槙原に向けてそう尋ねた。それは、内科医長の浪川淳志が橋本に告げた言葉でもある。身体自らが不調状態を作り出すのが精神病の厄介なところで、外的要因そのものが身体をいじってしまうのは風邪と変わらないと、内科医の視点からも彼は断言していた。

「正解だ。人為的に起こされたそれは、単なる脳内神経の異常に過ぎないと私は考えている。しかもそれは持続性のあるものではなく、一週間もすぎれば完治すると言われている。普通なら」

「普通なら……ですか」

 どこか含みを帯びた槙原の言葉を橋本が繰り返すと、恭人が横から口を出す。

「さっきも言ったが……まず、元々うつ病にかかっており治療中の患者。元から神経が弱っている彼らが感染すれば症状が悪化するのは目に見えている。それからうつ病予備軍。入院患者なんてストレスが溜まっている人間がほとんどだ。ストレスという外的要因が合わさった時、ウイルスの影響がなくなっても症状が持続……つまり本当のうつ病にかかってしまうリスクが高い」

「ああ……」

 恭人はよく患者にかかるストレスについて気にしている。それは、橋本も元よりよく知っていた。入院生活のせいで精神病を患うリスクのある患者をなんとかして守りたいというのが恭人の思いだったが、今回は彼にとっては最悪な展開になってしまっただろう。その焦りようが橋本の方までひしひしと伝わってくる。

「正解だ。やはり浪川くんはよく学んでいるようだな」

 正解だ、というのは彼の口癖なのだろう。槙原は感心したように頷いているが、鷹のように鋭い瞳は依然変わらない。

「しかし今はこのウイルスに対する薬があるわけではなく、個々への対処ができないのが現状だ。既存の薬は長期治療を視野に作られたものであり一時期的なものとなるとどうすればいいか……神経伝達物質の働きを操作できる即効性の薬が開発されればいいのだが」

 ただでさえ患者が見分けにくい上、きちんとした対処法がない。悪化のリスクはあるが、どの患者が悪化するのかは見当がつかない。

 老人も子どもも健康な若者も関係ない。よりストレスを抱えている人間の方が危ない。

 そんなもの、どうやって見分ければいいというのだろうか。

「少なくとも……自傷や自殺に走る患者は止めなければならない、ですよね」

 恭人の表情が陰る。

 彼の母親が入院中に精神を病んで自殺したというのは、橋本ですら知っている有名な話だ。恭人がピリピリとしている要因には、そのことも大きいのだろう。

「うん、正解だ。既に緊急用のマニュアルも用意した。君たちにも共有しよう」

 そう言って槙原は再び電子パットを操作する。二人のMCCに、対処マニュアルが共有されたという通知が表示された。

「ただし、くれぐれも無理をしないように」

「もちろんです。医療従事者が感染したら元も子もないですもんねー。任せてください。何かあったらすぐに連絡しますので」

 橋本は、あまり人に見せられない表情をしている恭人の背中を押して、足早に心療内科医の控え室から退出した。普段は感情的になったりなどしない友人だからこそ、余計に感情を顕にした時が恐ろしい。ひとまずクールダウンさせようと、休憩室を目指すことにした。

 後は、そろそろ槙原の鷹のような険しい視線から逃げ出したかったというのもある。


「ごめん。ちょっと私情が出てた」

「うん、ちょっとじゃないけどな」

 橋本は、途中の自販機で缶コーヒーを二人分買って休憩室の椅子に腰掛けると、蓋を開けた片方を正面に座る恭人に手渡した。彼は、相変わらず整った顔立ちをしている。明るめの茶髪も、たまに付けているシルバーのピアスも、あまりチャラチャラとしたイメージを持たせないまましっかりと似合ってしまうのだから恐ろしい。少し前までは女の子を取っ替え引っ替えするという、全国の大学生が真似したくても真似できない最悪な遊びを繰り返していたが、その悪趣味も一ヶ月ほど前から急に息をひそめた。それは十中八九彼に彼女が出来たのが原因だ。

「那由ちゃんは今頃浪川の家に着いたのかな」

「ああ……どうだろ」

 彼は病院内に不明な人工ウイルスが蔓延していると知るや否や、那由という少女に鍵を渡し、自分の家に入るようにと伝えていた。余程彼女のことが大事で、信頼していることが伺える。

「まあ……帰ってないと思うけど」

「え、なんで?」

「そういう奴だから」

 そう言って恭人は表情を綻ばせる。その理由は、橋本には分からなかった。

「そういえばお前は那由について聞いてこないな。あいつが理由不明な入院を続けていたことくらい気づいていただろ?」

「ん……あー、まあな」

 橋本が知る限り二週間ほど入院している彼女は、特に具合が悪いように見えないにも関わらず退院する気配がなかった。勿論、具合が悪くないように見えて、大変な疾患を抱えている患者は多くいる。内科医を目指す橋本はその辺り十分承知していたが、それでも那由はそういった部類ではないと勘付いていた。そもそも長期入院が必要な患者は療養がメインの病院に転院させられてもおかしくない。それが同じところに居座っている時点でおかしかった。

「まあ、初めて会った時から訳ありなことくらい気づいてたし、講義の態度はともかく医療のことに関してはめちゃくちゃ真面目なお前が大嫌いな医院長の息子特権を使ってまでして病院に居座らせているんだ。俺だってちゃんと気を使う」

「橋本お前……気味悪いくらい俺のこと知ってるんだな」

「気味悪いってなんだよ」

 確かに、大学に進学してから恭人とは長い縁があった。最初は医院長の息子と仲良くしておけばラッキーなことがあるかもしれない、くらいの気持ちだったが、気づけば長い付き合いだ。

 だから、恭人の真面目さも不真面目さも熟知している。そんな彼が側に置いて匿っているのだから、あの那由という少女は特別なのだと、簡単に察することができた。

「お前が深く詮索しないタイプでいつも助かっているよ」

「……俺が浪川に勝てる点といったらこのスルー能力しかないからな」

 浪川恭人という男は、非常に計算高い性格をしている。ちゃんと自分の利益不利益を考えた上で行動しているのは流石だといつも感心していた。橋本は無害……そう思っているからこそ、彼にも秘密を一部分見せられるのだろう。

「けど、彼女の前であんまり計算高いのもやめておいた方がいいぞ」

「え?」

 恭人は、何のことだというばかりにポカンとした声を出す。

「俺もあの子のことはあんまり知らないけど、お前のそういう計算し尽くされたテンプレみたいな行動、全然効かないんじゃねーの?」

 橋本の言葉に恭人は暫し沈黙した後「ああ……なるほど」と頷く。

「心当たりあったわけ?」

「ああ。デートで『気持ち悪い』って罵られた」

「おいおい……」

 先行き順調そうな友人の先行き不穏な一面を見て苦笑いをする。そうしているうちに、恭人も大分いつもの調子を取り戻したようだった。

「よし、俺たち研修生ができることも多くないとは思うけど……病棟の見周りに行くか」

「オッケー。じゃあちょっと内科から必要なもの借りてくる」

 橋本が元気良く立ち上がり、恭人も続こうとしたその時だった。

「……あ」

「え?」

 恭人が、フラフラと椅子に座り込む。

「どうした? 浪川」

「いや……ただの立ちくらみだと思う。いくぞ」

「お、おう」

 今度は自分を先導するように颯爽と歩き出した恭人に対して、橋本はもう言葉をかけられない。ただ、明らかに今のはおかしかった……そのことだけははっきりと分かった。

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