第2話:人工ウイルス

「待ってたぞ、浪川。えーっとそっちは浪川の彼女ちゃんか」

「早く説明してくれ、橋本。何が起きた?」

 デートを切り上げ帰って来た二人は、都市大学付属病院に着くと、本館にある一般出入り口ではなく西棟へ向かった。そこから各科の控え室やカンファレンスルームがあるフロアへと上がる。そこに、彼らを呼び出した張本人が待っているからだ。

 前回ゲーム昏睡事件が起きた時は、ロビーやナースステーションに人が押し寄せ随分と騒がしかったが、今はそういった患者や家族のパニックのような気配は感じられない。しかし、病院全体にピリピリとした空気が漂っているのは、那由ですら感じることができた。

 行き来をする医者や看護師たちの足取りが心なしか早く、表情も強張っている。二人を待っていた橋本という黒髪の男性はやや視線を彷徨わせると「ひとまず休憩室に行こう」と、二人を促した。


 橋本が休憩室と呼ぶ部屋は、実際には「職員食堂」という看板が取り付けられた広々とした部屋だった。食堂の割には机も椅子も少なくやけに薄暗いことから、もう食堂としては使われていないのかもしれない。実際壁にかけられたアナログ時計は三時半を指したまま動きを止めており時計として機能していない。MCCで時間を確認すればまだ午後二時を回ったところだった。

 恭人たちが慣れたように端の方の椅子に座るので、那由もそれに倣って適当な椅子に座る。それから、橋本という男を横目に見た。左目の下に泣きぼくろがあり、背は恭人よりやや低め。二人の会話の様子と真新しい白衣を着ていることから、恭人と同じ立場……都市大学医学部の学生で研修中の身だと思われるが、どうして自分を即座に彼女だと気付いたのかは分からない。恭人であれば人の属性を一目で勘ぐることができそうだが、彼の場合は勘ぐったというよりは最初から知っていそうな口ぶりだ。小声で恭人に「誰?」と問うも、どうやらその声は橋本にも聞こえていたらしい。

橋本はしもと直樹なおき、こいつの同期だし君とも何度か顔を合わせてるんだけどね……那由ちゃん」

 と、呆れたように言われてしまう。

 那由としては本当に記憶になかったのだが、もう二週間以上病院で過ごしているのだ。多少は顔を合わせたこともあったのかもしれない。今聞いた「橋本」という名前さえ、明日になれば忘れてしまいそうだが。


「いいか、落ち着いて聞けよ」

「お前こそ落ち着けよ」

 興奮しているのか僅かに震えている橋本の手を一瞥した恭人が一言漏らす。橋本はそれには気にせず言葉を続けた。

「原因不明のウイルスが病院内で蔓延した」

「それは電話で聞いた。で、症状は?」

 原因不明のウイルスが蔓延して大変なことになったから戻ってこい、そう言われてデートを切り上げ帰ってきたのだ。

 果たして何が起きているというのだろうか。

「鬱だ」

「え?」

 あまりにも端的な二文字に恭人もすぐには理解ができない。

 思わず聞き返してしまった。

「感染するとうつ病の症状を引き起こすウイルスが蔓延したんだよ」

「は?」

 そんな馬鹿なことがあるか、と恭人は思った。

 精神に干渉するウイルスなど聞いたことがない。例えばインフルエンザウイルスに感染した影響で幻覚や幻聴の症状が現れるといった事例なら有名だ。

 しかし、うつ病を引き起こすウイルスなど聞いたことがない。

 ただ、目の前の同期が嘘をついているようには見えなかった。

 恭人は自分の知識を寄せ集め、状況を理解しようと努める。ただし、今ここがまたシミュレーションシステムの中なのでは、と疑えばどんな事例も可能になってしまうので、それは除外するとして。

「えーっと、うつ病は様々な外的要因により神経伝達物質のセロトニン、ノルアドレナリン、ドーパミンの量が減少したりはたらきが低下すると発生する病気だ。確かにそれらの物質の量を人工的にいじれたとしたら、抑うつ症状や不安症状、意欲の低下などを引き起こすことができるかもしれない。でもそれはウイルスなんかで引き起こせるものなのか? というか、そんなウイルス聞いたことがない」

 那由は恭人の言葉を理解しようと努める傍ら首を傾げる。那由にとってウイルスとはコンピュータ上で活動するものなのだが、ここでは人間の身体に影響を与えるものの話をしている。それがなんだか不思議だった。そもそも、自分はこのような話を聞いていいものなのか少々疑問に思う。

「ああ、勿論自然界にそんなウイルスは存在しない。でも、人工的なウイルスであれば不可能……ではないだろ」

 恭人は顔をしかめた。不可能、とは言い切れないのだろう。

「神経伝達物質を生み出す細胞を宿主として増殖するたんぱく質と核酸の塊……そんなものを生み出せばいいのか? まあ確かに現代の技術なら絶対的に不可能とは言えない。でも、百歩譲ってそんなウイルスがあるとして、何故それがうちの病院で広まったと分かった? いやそもそも、誰がそんなウイルスの存在を知っているんだ?」

「恭人」

 捲したてる恭人のパーカーの裾を、近くに座っていた那由が引っ張る。

「少しは落ち着いたら?」

 那由の静かな声に、恭人は口を閉ざした。確かに自分は冷静さを失っていたと思い直す。うつ病というワードには人一番敏感になってしまってならない。これも、自分の母親を失ってしまった原因だからだろう。

「そのウイルスの存在を知っている人がいたんだ。うちの病院でやたらと抑うつ症状が見られる患者が増えていたことを受け、その人が患者の粘膜を調べた。そして、そのウイルスに感染していることを突き止めた」

「誰なんだ、それは……」

 恭人の言葉に、橋本は小さく息を吐き「怒るなよ?」と前置きをする。

 なんのことだと言いたげな恭人の前で、橋本はただ一言、

「お前の父さん」

 と、告げた。

 その途端、恭人は反射的に橋本の服の襟に掴み買った。

 言わんこっちゃない、とばかりに橋本は顔を逸らす。

 仕方がなく、那由が再び恭人のパーカーを引っ張り、引き剥がすことになってしまった。

「恭人、今の怒るところじゃないでしょ? 精神病に疎いあなたのお父さんが何故それを知っていたかは別として、珍しく自分から事態の対処を行なっている。それって悪い事ではないんじゃない?」

「ああ……確かにそうかもしれない」

 那由に言われて恭人は少しずつ橋本の襟を掴んでいた手の力を抜いていく。

「父さんのことを言われた瞬間頭に血がのぼる癖は治さないといけないな」

 恭人が自虐的な笑みを浮かべれば、橋本が大げさに頷いてみせた。

「そうだぞ浪川。普段冷静なお前が感情的になるのは誰も見たくない。なあ、那由ちゃん」

「え、あ……うん、そうだね」

 那由は恭人の様子を見ながら適当に相槌を打つ。確かに恭人が感情的になったために事態が進まず面倒くさいと思った経験もあったが、今の自分は完全に部外者だ。どうでもいい、というのが率直な意見だが、ここは相手に合わせておいた。それくらいの気遣いも、今の那由になら多少はできるのだ。

「で、なんでうちの親父はそのウイルスのことについて知っているんだ?」

「ああ……なんでも生み出したのが都市大学付属薬学研究所らしく……そこにツテがあって知っていたとか……」

「は?」 

 恭人の声が、再び低くなる。先ほどは身を潜めた怒りが、また表面上に湧きあがろうとしていた。

「あのさ恭人、精神不安定なのも大概に……」

「母さんの勤め先だ」

 声をかけた那由を遮り、恭人ははっきりとそう告げた。

「恭人のお母さんの……?」

「鬱ウイルス……母さん……まさか」

 何かに気づいて部屋を飛び出そうとした恭人を、再び那由が引き止める。

 以前だったら顔面にコーヒーでも浴びせていたかもしれないが、残念ながら今ここにそのような便利な液体はない。

「何度も言うけど話を最後まで聞かずに感情的に飛び出さないでくれる? あなたの目的は自分の父親に母親のことを問いただすこと? そうじゃないよね、恭人」

 那由の言葉に、恭人はゆっくりと頷いた。

「ああ……そうだな。今は過去のことじゃない。今後のことだ」

「うわぁすごいな那由ちゃんって。頭に血が上った恭人を言葉で引き止める事ができる奴なんてそうそういないぜ?」

「……そう」

 那由はベッドに座りなおして恭人を見る。さっきまで自分が恭人に翻弄されっぱなしだったというのに、これでは格好がつかないと思う。医学的知識がある二人ほどではないものの、那由にもそれなりに今起きていることは理解できた。

 人間をうつ病にする人工ウイルスが病院内で出回っている。それは恭人の母親が所属していた研究所で生み出されたものらしく、恭人の父親はそのウイルスの存在を知っていた。まだ事実関係は分からないが、彼の父親が母親関係で何かを恭人から隠していたと知った時点で、恭人の怒りのボルテージは上がるようだ。難儀な家族だ、と那由は思った。

「それで……治療方法はあるのか?」

「自然治癒、それだけだそうだ。実際このウイルスの増殖スピードは早くなく、自己免疫さえ機能すればすぐに死ぬ。一週間もあれば、代謝の遅い老人でも自然に完治するらしい。症状も微熱と抑うつ症状……意欲の低下とか不眠とか食欲低下とかその程度だから、普通の人はなんとかなる」

 それほどまでに恐ろしいウイルスではないらしい。那由は安心した、と言いたかったが、恭人の顔色は変わらない。

「普通の人は……か」

「どうしたの?」

「元々軽度の抑うつ症状が現れていた人間がそのウイルスに感染したら、余計に症状を悪化させる恐れがある。あと、元々発症していなかったとしても、なんらかの外的要因によるストレスを抱えてさえいれば、それも相まって症状が重症化することも考えられる。そしてウイルスが体内で死滅したところで慢性的なうつ病にかかってしまうかもしれない。心の問題は完全に数値では測りきれないほど未知な領域だ。誰がどんな風に重症化してどんな行動に出るか分かったものではない」

 だから病院内はあんなにピリピリとしていたのか、と那由は納得した。どこで感染患者が自傷や暴動に走ってしまうのか分からないのだ。

 険しい顔をする恭人をちらりと見た後、橋本は続ける。

「それと、厄介なのは空気感染をするってことだ。一日以上続く微熱と身体の怠さ。それを感じたら感染を疑え、だってさ。それと何故うちの病院にそんなウイルスがやってきたか、その理由はまだ分からないし、医院長は外部や他の患者に漏らすつもりもないようだ」

「まあ、そんなことが患者に伝わったらよりパニックになるし……治るまでは賢明な判断だろうな」

 恭人は額を抑えて俯いた。

 事件が起きれば犯人探しをするのが普通だが、医者は時に真相よりも優先しなければならないことがある。

「俺たち研修の身も手伝いをしろということだな」

「ああ。心療内科の槙原まきはら先生の許可も出ている」

「分かった」

 恭人は橋本と共に立ち上がった。やっと、自分がすべきことに気づいたらしい。取り残された那由は、ひとまず自分の病室に戻ろうかと立ち上がるが、恭人に軽く肩を掴まれた。

「何? ああ、今聞いたことは他の患者に言ったりネットでリークするなんてことしないから安心して仕事に行ってきて……」

「那由、暫く病院には来ないでくれるか?」

「え……?」

 来ないも何も自分は入院している身で、少し前まで自分が住んでいたアパートもいつの間にか解約されて戻ることはできない状態なのだと、そう思ったが、目の前に一枚のカードキーを差し出されてすぐに意味を理解した。

「ウイルスが病院から消えるまで、病院に近づかないでほしい。事務には外泊扱いにするように伝えておく。あとこれは俺の家の鍵だ。住所はメールで送っておくから」

「……何それ」

 出会った当初は、使えるだとか利用できるだとか堂々と言い放って、散々自分をこき使ってきた。シミュレーションシステムの中のことではあるが、病院巡回のアシスタントのようなこともしていた。それなのに、何故今になって彼は自分を離そうとするのか。

「那由ちゃん、浪川は君を守りたいんだよ」

 橋本という那由にとっては初対面の男にそんなありきたりな言葉を吐かれても納得はできない。ただ、自分が彼らの言いつけを破ったところでできることというのは大してあるわけではなかった。

「……じゃあ、パソコンだけ持って出るから……鍵、借りてくね」

 那由はそう言うと、廊下に出て彼らとは別方向に歩き出す。

 病院から出ろと言われれば従う。

 けれど、このまま自分だけ役立たずで終わりたくもない、そう思うのが那由の性分だ。

「医者が今できないこと……やってあげようかな」

 那由はMCCを握りしめながら一人そう呟いた。


◆  ◆  ◆


「あ、いたいた那由ちゃん!」

 大声で名前を呼ばれた那由は、顔をしかめながら振り向く。

 そこには、ジーンズに白い長袖Tシャツというラフな出で立ちの高塚たかつかそらと、清楚な黒いワンピースを着た上里かみさと里香りかの二人が立っていた。二人とも、名前のないプロジェクトの元構成員だ。側に止まっている水色の軽自動車が彼らの足となったものなのだろう。変わらない彼らの姿に、那由は僅かに肩を落として微笑んだ。

「入らなかったの?」

 高塚が指を指すのは、どこにでもあるチェーンのファミレスだった。

 狭い駐車場の入り口に五メートルほどの高さの看板があり、黒字で店名が書かれている。ビルの合間にあるオレンジ色の屋根の建物は、そこだけ時間が一昔前に戻っているような印象を受けた。

「あまりこういうところ入ったことないから……」

 那由は一人で食事を食べる時も、カウンターで注文する式のカフェか、食券機のある定食屋にしか行くことがない。このように入店と同時に店員がやってきて、来店人数や希望座席について聞かれる店には馴染みがない。そんなところに入っていかずとも生活できると思っていた。今日、高塚から待合場所にファミレスを指定されるまでは。

「元プロジェクト長といえども所詮は子どもね」

 髪をかきあげながら上里が不敵に微笑む。

「はい……そうですね」

 那由は嫌味にも取れるそれを肯定した。

「私は賢いだけの子どもにすぎない。そのことはあの事件でよーく分かりました」

 顔色を変えずそう告げる那由に上里は目を丸くし、それから口元が弧を描く。

「何があったか全部は聞いていないけれど、心変わりがあったようね」

「ねえねえ二人とも。夕方になる前にとりあえず入ろうよ」

 時刻は四時前。丁度店内も閑散としているが、五時になれば夕食目当てにやってくる客も増えるだろう。それまでに入りたいという高塚の言葉は、彼がこういう店に慣れているのだということを匂わせていた。

 その姿に上里が謎の笑みを浮かべているのはなんとも言えないが。


「お待たせいたしました」

 と、白シャツにオレンジのリボンの女性店員が運んできたのは、メロンソーダの上にバニラアイスクリームが乗ったクリームソーダが3つである。一リットル以上はあるだろうメロンソーダの量に那由は息を飲んだ。特に何かが食べたいわけでもなく、高塚が注文するというクリームソーダを頼んだだけだが、こんなにも巨大だとは想像していなかったのだ。上里が高塚と同じものを飲みたいというのは今に始まったことではないのでこれこそ特に何も言うまい。

「それで、那由ちゃんはどうして私たちを呼んだのかしら?」

「ああ……」

 那由は難攻不落のクリームソーダに手をつけるのをやめ、机を挟んで反対側にいる高塚と上里の姿を順に見る。本当は呼んだのは上里だけだったが、上里が「あの子もいないと嫌」という主張をしたせいで高塚も呼ぶ羽目になったのだ。別に高塚がいても不都合はなかったため拒む必要もない。

「本題はメールで送った通りです」

「本題っていうからには別件もあるのね?」

「はい。まずは二人から組織がどうなったかについて聞きたくて」

 那由がプロジェクト長を務めていた名前のないプロジェクトは、鶴木によって解散させられ、亜美の手によって存在していた事実すら消されつつある。中には過去の悪事が露見して逮捕された者もいるが、恭人によって庇われた那由は勿論のこと、高塚や上里といった能力の高い主力メンバーは逮捕に至らなかった。

「僕たちも詳しくは知らないよ。どうして僕たちが自由の身なのかも、金田かなださんや鶴木つるきさんがどこに消えたのかも。まあ一つ言えるのは……全部金田さんの思惑通りだったってことかな」

「おそらく仮想現実シミュレーションシステムを成功させたあたりで凡その目論見は達成したと思ったのね。一野の事件が起きる前からプロジェクトを解体する準備も進んでいたんじゃないかと思うわ」

「そう……」

 金田。それはもう二度と名前を思い出したくもない那由の実父の名前だ。実の娘を刃物で刺してトラウマを植えつけたり、極悪犯というレッテルを貼って那由を組織に縛りつけようとした。そんな彼が今どこにいるのか……それはきっと組織の誰も知る由のないことだろう。

 この男の身勝手さにはもう言葉も出ないが、徹頭徹尾利用されたままで終わってしまったのは何とも悔しい。

「で、どうして私たちみたいな組織の主要メンバーは逮捕されずに残ったんだろう」

「あの人は優秀な人間を利用しても使い捨てたくない人だからじゃない? だから那由ちゃんも生かしたし、追跡者ストーカーの私も収納庫クローゼットの彼も残した」

「なるほど」

 上里の言葉に納得する。どれだけ那由のことを傷つけても、使えるところはとことん使い、逃すことはなかった。それはプロジェクトが解体されても変わらない。

「もしかして……あわよくばまたプロジェクトが立ち上げようなんて思ってるかも」

「やらないよ、もう」

 高塚の言葉に首を横に振る。

「あんな悪趣味な娯楽はもうたくさん。それよりもコンピュータグラフィックいじっている方がよっぽど楽しいし」

「あら破壊魔クラッシャーとは思えない発言ね」

「好きでやってたんじゃないよ。効率を考えてやっただけ。まあ、楽しかったけど」

 コンピュータウイルスを作成して相手のサーバーのデータをまるごと破壊してしまう。それが、那由の得意とする技の一つだった。やらされた仕事をしていただけではあるが、やはりプログラミングは好きなことの一つだ。楽しんでいなかったというのは嘘になる。

「ひとまず金田の思惑が今この状況を作り出すことなら、私たちが警察に目をつけられる心配はないか」

「そうだねー。僕はもうびっくりだよ。住んでいたアパートが何故か退去扱いになっていた時は本当に焦ったし」

「全部鶴木さんの仕業でしょうね。本当、いつもどうやっているのかしら」

「鶴木……」

 サングラスをかけた、怪しげな勧誘担当。それが鶴木という男だった。

 孤児院に住んでいた那由の居場所を奪い、無理やり組織に引き込んだ男。他にも病院を勝手に退院扱いにしていたりと、最後まで手口が読めなかった。

 組織の人間の大半は、この鶴木に強制勧誘されてきたし、組織にそぐわないと判断された際も、鶴木に「処分」されたらしかった。

 今回組織が解体される際も、鶴木が裏で大掛かりな処理をしたらしい。

「鶴木は今、どこに?」

 金田と並んで主犯格と言える彼もまた、警察に捕まってはいないだろう。

 あの男が背後に立った時の寒気は今でも忘れられない。

「さあ。追跡は私の得意分野だったけど、金田さんもあの人も見つけられずじまい。それより那由ちゃん、気になるのだけれど」

 クリームソーダのストローをくるくると弄びながら上里は微笑む。

「何?」

「鶴木さんのこと、好きだったんじゃないの?」

「……それは」

 上里の言葉に那由は一度言葉を止める。ありえない、と一蹴したかったが、そうもできない部分もあった。

 人を好きになる気持ちなどよく分からない那由だが、恭人を好きになった今、鶴木に対する気持ちは確かにそれに近かったかもしれないとは思うのだ。

「鶴木は、初対面で私を必要と言ってくれた。孤独な高校生だった私にはその言葉が救いの言葉か何かに感じられたんだと思います。必要としてくれる人がいるなら、その人のためにも頑張ろうと……確かに、思ったかもしれない」

 高校生の那由にとって、鶴木は恐ろしくもあり、救世主でもあった。しかし、それも昔の話だ。

「それでもその時の気持ちは所詮紛い物だと思っている。ただ縋る相手がいなかっただけ。本当の好きって気持ちはどういうものか、私にもやっと分かったから」

 胸元に手を置き、息を吐く。あのように縛られる感覚はもういらない。

 そんなことをされなくても、自然とその人の役に立ちたいと思う……そんな気持ちの方がずっと心地がいい。

「那由ちゃん、変わったね」

 既にクリームソーダを飲み終えた高塚がはにかみながらそう言った。八重歯を出して笑う彼のことを上里がうっとりと眺めていることには触れてはならない。

「変わった?」

「昔の那由ちゃんよりもずっと生き生きしてるし、目も輝いている。恭人くんとの出会いはやっぱり那由ちゃんをいい方向に変えたんだなって思うよ」

「……うん、そうだね」

 見返りなんてなくても、自分を助けてくれる人。那由を、那由として見てくれた人。そんな恭人に出会い、那由の意識も変わった。まだ恋人として接するには抵抗があるが。

「やっぱり恋って偉大だねー。僕も恋してみたいな」

 高塚の発言に、那由は思わず上里を見つめる。妙に目をぎらつかせているのは見間違いではないだろう。彼女の一方的な片思いがどうなるのか、その辺りは他所でやって欲しいと那由は思った。

「で、えーっと、そろそろ本題に移ろうかな」

 昔話も一通り済んだため、早速三人で集まった本当の理由に移らなければならない。時刻は五時に近づいたようで、家族連れが何人か店内に入ってきており、いつの間にか店内が騒がしくなっている。

 これくらい周囲がざわついていた方があまり聞かれたくない話をしやすい。彼らにとってなかなか都合のいい環境だった。

「メールで見たよ。都市大学付属病院で謎のウイルスが蔓延している。それの発生源を調べればいいんだよね」

「そう」

 那由が二人を呼んだのは、医者たちが表立って探せない犯人探しをするためだった。どうせ彼らは患者の対処で精一杯だ。であるならばこちらが裏から探してあげれば少しは事態の収拾が早くなるのではないか、そう思った。

 断じて面白いから首を出すわけではない。

 自分が部外者扱いされるのが腑に落ちないから、という気持ちは多少あるかもしれないが。

「ウイルスが作られたのは都市大学付属薬学研究所という話だけど、その研究所は研究資金が足りなくなったという理由で二年前に解散している。だとすれば犯人はどこの誰でどのように広めたのか」

 那由の方でもある程度探ってみたが、いまいち成果が得られなかった。

「ねえ、質問なんだけど、なんでその研究所は人を鬱にするウイルスなんて作ったの?」

 高塚の質問に那由はキョトンとし「そんなことも分からないの?」という言葉を必死で堪えた。そういう人を皮肉る癖はもうやめようと決意したばかりなのだ。

「当初の目的は病気の治療のためだと思う。そのウイルスをラットか何かに感染させ、うつ病の効果的な治療方法を探るの。実際近年人工合成ウイルスでのそういった実験も盛んになってきたし、投薬治療や予防接種でも人工ウイルスは活躍している」

「でも、それならウイルスじゃなくてもいいんじゃないの? 強いストレスを与える装置だったり、電波とかでも……」

「それは、私がコンピュータウイルスを作るのと同じ理由なんだけど……ウイルスっていうのは、相手に取り付いて、勝手に増殖して勝手に被害を増やしてくれる便利な存在なの。一度放てばこちらがアクションを起こさなくてもいい。だから実験には好都合な道具になるんだろうね。まあ、病院で拡散されたとなればたまったものじゃないだろうけど」

 那由はデータを破壊する際に直接手を下すのではなくウイルスを流す。その方が確実で楽な手法だと知っているからだ。今回病院にウイルスを流した犯人も、同じような思考の持ち主なのだろうか。もしも大量にうつ病患者を生み出した上で病院の動きをシミュレーションしようなどと考えてはいないだろうか。そうであれば那由が言える話ではないがあまりにたちが悪い。

「人を鬱にする……ね。私はあなたのことが心配なのだけど」

 ゲーム事件の際、那由は一野からの暴力を受け、さらに金田からショックな事実を伝えられ、もはや自立すら難しい状態で名前のないプロジェクトから引き上げることになった。車を出してくれた高塚と終始付き添ってくれた恭人の存在がなければ、那由はここまで回復しなかっただろう。

「まあ、その節は……お騒がせしました。確かにあの時はいろいろショックで数日は寝込んだけど、今は一通りまともな生活ができる。だから大丈夫なのに……事件が起きた途端、恭人に遠ざけられた」

「それだけ那由ちゃんが心配ってことだよ。恭人くんは優しいね」

 高塚の元には、いつの間にか新しいクリームソーダが届いていた。那由はまだ半分ほどしか飲んでいないのに、あまりにペースが違う。

「……まあ、その話はいい。今、最近薬学研究所のサーバーにアクセスしたコンピュータのIPアドレスを探っているんだけど、結構数が多くて追跡しきれない。そこで出番なのが上里さん」

 このまま自分の話に持っていかれると面倒なので、那由は無理やり話を戻した。

「なるほど。私の追跡技術が必要ってわけね」

 上里里香は追跡者ストーカーという二つ名を持っているが、これは高塚に非常に執着心を持っていることから来るわけではない。確かに普段の振る舞いのそれもストーカーじみているのだが、ここでの名前の由来は彼女の得意分野にある。彼女はある場所にアクセスしたIPアドレスを全て追跡し、必ず正体を掴み情報を入手する。その追跡技術には那由もでも及ばない程だ。

 上里はノートパソコンを机に出すと、那由が入手したサーバーの情報を画面に映し出した。元々は研究所の設備や論文について掲載されたサイトだったようだが、犀川さいかわ桐夫きりおという名前で研究所を閉じるという旨の文章が残された状態のまま更新の形跡は一切ない。ただ、一切アクセスのないサイトかというとそうではなかった。

「ふうん……もう使われていないサーバーにしてはアクセスが多いようね。ま、研究機関だもの……他に移った研究員や同類の研究をしている人間がいくらでもアクセスするでしょう。この中から不明のアドレスを抽出して……私お手製のプログラムちゃんを仕掛ける、と」

 上里の追跡プログラムは彼女以外には分からないようロックがかけられている。那由のデータを食すウイルスや高塚の記録技術も同じで、他の人間には絶対に手札を明かさない。名前のないプロジェクトは、使い物にならなければ組織に切り捨てられる。だからこそ、組織の上層部に食いこむ者たちは、自分の得意分野を独占し、切り捨てられないように手札として残しているのだ。一野のようにそれを利用しようとする人間も一定数いるが。

「うーん、怪しいのが三件出てきたわ」

 上里は指を三本立てて自分の頬に当てる。

「三件?」

 那由と高塚は表示された画面を覗き込んだ。

「怪しいと判断した動機は?」

「一番はアクセス方法。後は累計ページ閲覧数や各ページへの滞在時間みたいな細かな点をあらかじめシミュレーションしておいたプログラムと自動で照合するの。まあ、これ以上はどれだけ信用している人間にも教えられない機密事項よ」

 例え相手が高塚であってもその内容は教えられないらしい。それでも那由は上里の言葉を信用することにした。彼女の腕が確かなことは今まで散々見せつけられてきたことだからだ。

「三つのうち一つはアメリカの研究機関か……後の二つは都市大学附属病院からのアクセスみたいだけど……」

 高塚は画面を目でなぞりながら表示されたデータを確認してゆく。

「なんで都市大学付属病院からなんだろう」

「多分一つは恭人のお父さんだと思う。あの人は何故かウイルスを作ったのが研究所だって知っていた。だから研究所が動いていないか確認するためにアクセスをした」

「ああ、なるほど」

 だとすれば、都市大学付属病院からのアクセスは疑う必要はないかもしれない。そうなればアメリカの研究機関か、と那由が推理をしていると。

「日付を見てちょうだい」

 と、上里に言われた。

「あ……」

 日付を見れば、片方は今日の午前、おそらく事件発覚後にアクセスしたものだが、片方は一週間も前のアクセス履歴だ。これは明らかに事件が起きる前のものだろう。

「都市大学付属病院で事件が起こる前、都市大学付属病院のパソコンからアクセスされた形跡がある……と」

「めちゃくちゃ怪しいね!」

「うん」

 高塚は嬉しそうだが、那由は内心面倒なことになった、と思った。見知らぬ人間に対してはいくらでもこちらからアクションを仕掛けられる。情報を取得するウイルスを流してもいい。しかし都市大学付属病院はいろいろ顔が割れているために下手なことをし辛い。

 問題が起きている今、向こうの電子端末の動きを遠隔で停止させる、ということもしてはならなさそうだ。

「アメリカの研究機関の方は?」

「んーっと、これはミシガン州の薬学研究機構だね。研究内容は多種多様でウイルスに関することもある……取り立てておかしなことをしている様子はなさそうだなー」

 高塚が早速ノートパソコンを立ち上げて確認している。ホームページの文章は全て英語で記されていたが、高塚には問題ないようだ。那由は二人の経歴を知らない。あんなにも馬鹿そうな言動をしているが、おそらく知能指数は侮れないのだろうと思った。プロジェクトの下っ端はともかく、彼らの前で気を抜くことはできない。

「ひとまず都市大学付属病院の医療従事者を片っ端から洗い出して容疑者を検討……アメリカの研究機構についても調べてみるか」

「ふふ。そういう地道な洗い出し作業、好きよ」

 上里が微笑む。確かに彼女はちまちまと相手を追い詰めるのが好きそうだな、と那由は思った。

「高塚は?」

「僕も情報集めるのは好きだよ」

「分かった。じゃあ私と上里さんで病院を、高塚にアメリカの方を調べてもらおう」

 那由もパソコンを取り出し準備を始める。すると、高塚が首を傾げた。

「那由ちゃん、いつものあれ、ないの?」

「あれ……?」

「そうね。やらないの?」

 二人に問いかけられ、那由は残りのメロンソーダを飲み干しながら左手を首に添えてそっとその指示語の内容を考える。

「あー……」

 そうして、いつも自分が何気なく口にしている言葉を思い出した。

 名前のないプロジェクトはもうない。今も、知り合い同士で集まっているだけにすぎず、正式なプロジェクトなどではないのだ。しかし、二人から意味ありげな視線を向けられていると、流すに流しにくい。言うだけならタダだ。拒む必要もない。

「……それじゃあ、名前のないプロジェクトを始めるよ」

 那由は周囲の客には聞こえないよう声量を抑えながらそう呟いた。



 同時刻。ファミレス内でこちらも声量を抑えながらひそひそと何かを話している男女の姿があった。

「鶴木先輩、それ本当ですか……?」

 短髪の若々しい長身の少女は赤嶺あかみね愛奈まな。警視庁捜査一課に在籍しながらも、臆病で強面の上司にびくびくとしている新米刑事である。

「うん。本当だよ」

 対面している男は、同じく警視庁捜査一課に在籍する鶴木つるきじゅん。愛奈の一年先輩にあたる男だ。

 彼らは今勤務中に着るようなスーツではなく、ラフな格好をしていた。愛奈は黒いシャツに赤いタイトスカート。そして赤茶のタイツを履いている。順は白い薄手のニットにジーンズという出で立ちで、スーツの時は僅かに固めていた髪もそのまま下ろしている。

「お父さんが行方不明なんて……」

「うん。もう長らく父親には会っていない。自分から出て行ったのか何かしらの事件に巻き込まれたのかどうかも不明。だからこそ俺は警察官になって父親を探そうと思ったんだ」

「そうなんですね! 流石鶴木先輩です。私も、そういう強い意志みたいなもの、ちゃんと持ちたいです」

「いやいや、愛奈ちゃんは今でも頑張ってると思うよ。ゴウさんを熱くさせるのも愛奈ちゃんだし……愛奈ちゃんには刑事の才能がある」

 順はアイスココアを飲む愛奈にそっと微笑む。たまたま休日が被ったためにたまたま二人でお茶をしている……愛奈はそう思っているだろうが、順の方に下心がないかといえば嘘になる。

 男が多くむさくるしい捜査一課において愛奈を狙う者は多い。だからこそ、年が近い者として距離を詰めたかったし、単純にこうしてデートがしたかった。

 勿論父親が行方不明だったために刑事になったというのも嘘ではない。何故自分達家族を置いて父が消えたのか、その真相を知りたかった。

「あのさ、愛奈ちゃん、もしよかったらこの後……」

 順が何かを言いかけた瞬間、二人のMCCが同時に音を鳴らした。反射的に覗けば、ショートメッセージが入っている。

「んー、休暇中だと分かっているからか仕事用ではなくて個人用の方にメール入れてくるところがずるい」

 順は苦い顔をして肩を落とす。

「行きましょう鶴木先輩、事件です!」

「うん……そうだね」

 少し前までは上司の兵藤ひょうどうたけしという男は、そういう機転を利かせてこなかったのだが、最近になって機械の扱いが格段に上手くなっているように思うのは気のせいだろうか。そう思いながら、愛奈に続いて席を立つ。

 勿論、休暇中だから行かないなんて選択肢はない。父親を探したい、愛奈を口説きたい、そんな思いはあるが、彼も兵藤豪という男に魅せられた刑事なのだ。事件を前にしたらひたすら真っすぐ突き進むしかない。 

 ノートパソコンを開き無言で作業をしている三人の客の前を通り過ぎ、カードで会計を済ませて店を出る。

「ここからの最短ルートは……」

 MCCで道を検索しながら愛奈と共に車に乗り込む瞬間、夕方なのにサングラスをかけた不思議な男が視界を通り過ぎて行ったが、振り返った時には、もう男の姿はなかった。

「どうしました?」

「ううん……なんでも。とばすからね」

「はーい」

 愛用の電気自動車を稼働させ、ナビ代わりのMCCをセットする。事件はチンピラの小競り合いらしいが、甘く見てはいけない。

 彼らの夜はまだ始まったばかりだ。

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