第1話:初デート

「デート行かない?」

「……え?」

 松井まつい那由なゆは、聞きなれない言葉に思わずタイピングの手を止めた。そして、来客用の椅子を逆向きに置き、背もたれに身体を預けるようにしてこちらを見る眼鏡の男の顔を不思議そうに見つめる。

「なにそれ」

「だから、デート。交際している男女ならデートくらいするでしょ?」

 交際……それもまた、聞きなれない言葉だった。

 確かに那由は彼、浪川なみかわ恭人きょうとに告白をされ、それを受け入れた。両想いの男女、即ちそれは交際しているという括りになるのだろう。世間一般の言葉を用いれば、那由は恭人の彼女であり、恭人は那由にとっての彼氏なのだ。

 しかし、だからといって然程恋人らしい行為などしてきてはおらず、那由は基本的に病室に篭ってプログラムを作って遊んでおり、恭人は忙しい医学生。そういうイベントが発生するなど、意識すらしていないことだった。

「ずっと引き篭もっているし、いい気分転換になると思わない?」

「でも、デートなんてしたことがないし」

 どう振る舞えばいいのかさえ、知識がない。そう思い、那由はそっと恭人から目を逸らす。

「大丈夫。那由はただ俺が行きたいところについてきてくれればいいから」

「……分かった」

 那由自身はこういったことに滅法慣れていないが、初対面の時に趣味は女遊びだと公言していた恭人であるならば要領も得ているのだろう。

 秋も深まり色づき始めた窓外の紅葉を眺めながら、那由は紺のカーディガンを羽織った。

 それからベットを降り、久々に室内用の緑のスリッパではなく、黒いスニーカーに履き替える。

 鏡を見て前髪を雑にピンで留めると、ブルーのワンピースの乱れを直した。 

 そうして顔を上げると何故か恭人がじっとこちらを見つめていて一歩後ずさる。

「な、何?」

 何かおかしなことでもしただろうかと怖気づいてしまうのは、やはりこれから慣れないことをしにいくためだろうか。

「せっかく綺麗な髪なんだからさ、もっと丁寧に扱いなよ」

「な……っ」

 恭人は囁くようにそう告げると、那由の髪を手に取りそっと口付けた。そして、ベットサイドに置いてあった櫛でゆっくりと那由の髪を梳かし、ヘアピンで優しく留める。

「これでよし」

 ぽんぽんと頭を撫でられ、何が起きたのか分からずに呆然とする。

 浪川恭人という男は、自分にこんな風に触れてくる人間だっただろうか。こんな風に甘く囁く男だっただろうか。

「行こうか」

「う、うん?」

 差し出された手に躊躇いつつ自分の手を伸ばせば、ぎゅっと指を絡められる。

 今日の恭人はいつも白衣ではなく、白いパーカーの下に皺のない薄いオレンジのシャツを着ており、ズボンもいつものようなジーンズではなく、黒のスキニーを履いていた。

 病室に来るより前から……このデートを企てていたと考えていいのだろう。 

 消毒薬の匂いが充満する廊下を抜けて、平和なロビーを通り過ぎて病院の外へ出る。彩った紅葉の木々に目を向ける余裕もなく、那由は繋がれた手と恭人の顔を交互に見つめていた。

 このデートには、おそらく何かしらの意図がある。先ほどの所作にしてもそうだ。普段ならあのようなことは絶対にしてこない。

 初対面時から失礼なことは散々言われた。貧乳には興味ないと散々言われたし、言い争いもした。使えるやつだとも言われたし、正直最初の印象は最悪だったと思う。そしてそれは向こうも同じはずだ。

 ただ、那由が作ったシミュレーションシステムを無事乗り越え、ゲームを巡る犯罪の解決に携わり、一緒にいるうちに……いつの間にかこのような関係になっていた。

 掌が熱を持つ。那由だって同じだ。彼のことを都合のいい人間だと思っていたのは事実だし、馬が合わないと思ったことは何度だってあった。けれど、辛い時に絶対に手を離しはせず、それどころか闇の中から引っ張り上げてくれた彼のことを、気がついたら好きになってしまっていた。

 一体何故か。そんな心理学のようなことは、画面に向かってばかりいた那由にはあまりに難しい問題だ。


 電車を乗り継いで向かった先は、若者が集うショッピングモールだった。

 勿論那由には馴染みのない場所である。

 服や日用品などを必要に駆られたものがある時だけ出向いたことはあったが、基本的に買い物は一人で行くものだったので、隣に人がいるというのは慣れないし、どのようなペースで歩けばいいのか分からず困ってしまう。

 人混みも然程得意ではなく、すれ違う人となるべく目を合わせないように意識をしてしまった。亜美のお陰もあって組織は消滅したし、警察が組織についてさらに調べまわっているという噂も聞かない。きっと自分を追うような人間ももういない。ましてや学生時代のように、あからさまに疎まれたり悪口を言われることもないだろう。

 けれど長年染み付いてしまった癖はなかなか抜けきれないものである。

 しかし、あまり縮こまっていては連れてきてくれた恭人にも一応失礼だと思い直す。彼の目論見は未だ分からないが、あまり嫌そうな顔をするのも気がひける。

 そう思っていると恭人が顔を覗き込んできたため、反射的に顔を上げた。

「新しくできたパンケーキ屋、チェーンだけど結構美味しいらしくて。行ってみない?」

「……分かった」

 恭人のその提案を断ったところでまた別の案が出されるのは分かっていたし、甘いものは好きだ。そう思って那由は頷く。

 ティーンズ向けのアパレル専門店街を通り抜けエスカレーターで地下一階に降りると、このフロアはどうやら飲食店街となっているようで、パスタやハンバーグなどの匂いが店の外にまで漂っていた。昼時よりやや前なこともあって、上の階よりは人が少なく、那由は幾分か安心することができた。

 さて、恭人が言うお目当のパンケーキ屋だが、那由でもすぐに見つけることができるくらいには行列ができている。やけに派手な女子たちが屯しているのが一目で分かった。

 そこに並ぶのかと思うと別の案を提示したくなった那由だが、恭人は迷わぬ足取りでその店へ向かい、レジ前に立っている女性に「予約した浪川です」と伝える。そうだ、彼は都合のいいくらい要領のいい人間なのだ……と、今更ながらに思い出した。

 人気と分かっているならば最初から並ばないよう手を打つことくらい、息を吸うようにやってのけるだろう。那由は小さくため息を吐いた。


「いいところでしょ?」

「……うん」

 アンティークな壁紙と床が西洋の古民家を思わせるような、落ち着いたクラシックが流れる店内で、那由は運ばれてきたいちごのパンケーキと恭人の顔を交互に見た。那由を見つめる恭人の目には僅かに熱がこもっているように感じるのは気のせいだろうか。

 気を取り直そうと白い生地のパンケーキにそっとナイフを入れる。その途端、パンケーキは柔らかに形を崩して切れる。それに生クリームをつけて口の中に入れると、噛まずとも口の中で蕩けていく感覚がした。柔らかくて、甘い。トッピングの甘酸っぱいベリーもほどよいアクセントになって、これがこの店の人気商品だということは言われなくても分かった。

「口に合うようでよかった」

「私、何も言っていないんだけど」

「顔に出てる」

「……そう」

 なんだか恥ずかしくなり、隠れたくなったが、壁際のソファー席に座っている今の那由に逃げ道などなく、もう食べることだけ専念しようと決める。

 昔は固形栄養食だけで生活している時期もあり、こんな美味しいものは滅多に口にできなかった。だから、今こんなに優しい音楽の流れる店で、ふかふかのソファに座り、柔らかく甘いパンケーキを食べることはあまりに幸せなことだ。同時に、ここに連れてきてくれた人がいることも。

 そう考えるとまた顔が熱くなって、ハチミツのパンケーキを食べているはずの恭人の方を見ることができない。一体彼はどんなつもりで自分を見ているのか想像もつかない。

「そういえば、この前発表された都市大学理工学部の論文のことなんだけど」

 不意に、聞き覚えのある話題を出されて那由ははっと顔を上げる。

「コンピュータウイルスの変遷についての論文のこと?」

「そうそう、それ。なかなか興味深いなって思ったけど、那由的には信憑性ってどんなものなの?」

「ソースの信憑性って面から言えばほぼ百パーセントって言っていいんじゃないかな。そもそもPCウイルスっていうのはマルウェアっていう悪質なコードの総称の中の一分類で、他のファイルに寄生して増殖するタイプのコードを指す。ワームやトロイの木馬、ブラクラといった類との違いを最初に事細かに語って定義をはっきりさせているところは読み応えもあったし流石都市大学の院生だけあるなと思ったよ。過去のウイルスについてもよく調べられているし。でも、近代のウイルスについての言及や今後の展望がちょっと弱いかな。ウイルスを作る側としてはもっと抜け目を無くして欲しかった。あの程度じゃまだ隙を掻い潜ってどんなウイルスでも送ることができ……」

 尋ねられ、ウイルスを作っていた側として考えていたことを思わず口にし、それからまんまと乗せられたことに気づく。

 得意分野を楽しげに語る那由のことを、恭人は慈愛に満ちたような優しい目で眺めている。それが、あまりにもくすぐったい。

 昔は自分が語っていると、専門知識は分からないなどと言って非難したのに、今ではその素振りすら見られない。

「な、何……?」

 思わず水を飲み干しながら尋ねれば、

「那由が楽しそうに喋っているのって可愛いなって思ってさ」

 と、悪びれずに言われてしまう。

「可愛い……?」

 そんな言葉、告げられたことがなかった。思わず、グラスを落としそうになる。

「そうやって慣れない言葉に狼狽えているところも可愛いし、幸せそうにパンケーキを食べている姿も可愛かった。もっと言えば、手を繋いでいる時照れて脈が早くなっていたのも可愛かったな。掌からすら脈拍を感じるなんて相当だ」

「……も、もうやめてよ」

 恥ずかしすぎて絞り出した声も次第に小さくなっていく。眼鏡の奥の恭人の瞳に自分が映ることすら、恥ずかしい。

 彼の目的は一体なんだろう。自分をここまで狼狽えさせるには裏があるのではないか? 自分の恋人になった男にさえそんな疑問を抱いてしまう。

「それじゃ、そろそろ行こうか」

 気づけばパンケーキは空になっていて、恭人がさらりと伝票を手に取る。

「あ……」 

 デートでは男性が奢るものだというのが一部の人間たちの中では常識というが、さらりと会計を済まされてしまうとなんだか居たたまれない気持ちになる。そして、自分が恭人の「彼女」なのだということを再び意識してしまう。

「さてと。この後はどうしようか、那由」

 店を出ると、恭人は改めて訪ねてきた。

「疲れてきたし……そろそろ帰ってもいいんじゃないかな」

 しかし、もうこれ以上この恭人と一緒にいる自信なんて那由にはない。自分にはデートなど早すぎたと息を吐けば、不意に恭人の顔が近づき、そのまま額がくっついた。

「なっ」

「うーん、熱はないようだけど……慣れないことして疲労が溜まっちゃった? じゃあ、もう少し休憩できるところ、行こうか」

 そうして、また手を繋がれる。

 心なしか周囲の視線までもがこちらに集まっているような気がする。

 それに……那由はようやく気づいてしまったような気がするのだ。恭人の言動に対する、この違和感を。


「……ここって」

 休憩三十分で二千円、というピンク色の看板が目に痛い。ビルとビルの間に突如現れた十階建てほどの豪勢な作りの建物には、ここが一体何の施設なのかは書かれていない。けれど、世間に疎い那由であっても、西洋の城のような三角の屋根や窓の奥に見えるピンク色のカーテンなどからこの施設の正体について感づいてしまう。

「行こうか」

 と、有無を言わせぬ顔で颯爽と歩き出す恭人の手を、那由は必死に払った。

「待って」

「大丈夫。痛いようにはしない。ただ身を任せてくれれば気持ち良くしてあげる」

「そうじゃなくて」

 那由は近く恭人からまた一歩、距離をとった。

「貴方の巧みな演技力はよーく分かったから! もうやめて」

 那由は叫ぶ。今まで感じてきた違和感の正体をようやく掴めてしまった。

「演技?」

「そう、演技。どういうつもりか知らないけど、私の『疲れた』なんて軽率な嘘に恭人が乗るとは思えない。恐らく今のは他の不特定多数の女性に使う誘い文句なんでしょ? 私はそういうの、乗る気ないから」

 疲れたと言ったら笑い飛ばすか、適切な休息方法を提案してくるのが恭人だ。あのように額を合わせるだなんて意味のない行為をするはずがない。発熱の有無を確認したいなら手で触るだけで十分だ。

「……ふうん」

 恭人は暫し沈黙したのち、口元に笑みを浮かべた。

「何?」

「面白いなと思ってさ。普通のやつならパンケーキの辺りで落ちてくれるのに、あれを経験してまだ警戒心を解かないとは流石」

「お褒めいただきありがとう……で、結局何でこんなことしたわけ?」

 那由は恭人からまた一歩距離をとった。

 落ちるも何も彼らは恋人同士なのだが、いかんせん言い合いばかりしていた時間の方が印象的だ。警戒が解けないのも仕方がない、と那由は思う。

「……今から言うことは本当のことだから信じて欲しいんだけど」

「うん」

 恭人は小さく息を吐きながら、那由を促し建物の前から少し離れる。流石にここで言い合いをするのは気まずいものがある。

「お前病室じゃプログラミングばかりで全然外出ていなかっただろ? それと、あの事件が終わって以来妙に塞ぎ込んでいるようにも見えた。だから気分転換をさせたかったってのが本当の理由」

「じゃあ別にあんな演技したりこんなとこ連れてこなくてもよかったんじゃ……」

 普通に外出て普通にご飯でも食べるくらいでちょうど良かったのではないかと那由は思う。

「好きだから」

「……え?」

「好きな人間だから口説きたいし可愛い顔を見たい。残念ながらこれは俺の本音だ」 

 技術に走ったところはあったが、デートに誘ったこと自体は彼のありのままの望みだった。

「き……」

「ん?」

「気持ち悪い」

「え?」

 しかし那由は顔に拒絶の色を浮かべ、再び恭人から一歩距離をとる。

 やはり、恭人から自分に対して口説き文句がくるのには違和感しかない。当初は貧乳だと罵り、自分の前で高校生をナンパしようとする素振りまで見せていた。それなのに、今になってその好意が自分に向いているというのが、恥ずかしくもあり受け入れられなくもある。

「ま、少しずつか……」

 恭人がそう呟いていると、彼のMCCから着信音が流れた。何の変哲もない、規則的な電子音だ。

 恭人は表示された名前を一瞥し、眉をひそめ、それから電話を切るか一旦迷った末に通話ボタンを押した。

 那由は、仕方がなくそれを待つしかできない。

 好意を向けられるのは嫌なことではない。それは分かる。

 彼のことが好きなのも本当だ。しかし、自分にはまだ乗り越えられない警戒心がある。疲弊しきって合理的判断力を失った時は彼に縋ったが、意識がはっきりとしている時は別だと思った。そんなに簡単に彼の甘い言葉に乗せられるのは腑に落ちない。

 そんなことを考えていると、電話をしていた恭人の顔が次第に険しくなっていることに気がついた。

「何で、そんな状況に……? 分かった、すぐ戻るから待ってろ!」

 最後は叫ぶようにして電話を切るった恭人は、腕のリングにMCCを嵌め、それから那由に視線を落とす。

「あなたがそれだけ取り乱すってことは病院絡み?」

「ああ……厄介なことが起きているらしい。ごめん、デートはまた今度にして戻る」

「うん」

 よかった、これでひとまずデートは終わった……那由はそう思って息を吐く。

 しかし、本当にこれでいいのか。自分はまだまともにデートができないような状態でいいのか、それを疑う自分もいる。

「まあ、ひとまずは……」

 何やら騒ぎが起きているようだ。それの解決に向かうのが妥当だろう。

 彼らは用済みとなったピンクの建物を置いて、やや足早に駅へと向かった。

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