人工ウイルスと病院救出マニュアル

プロローグ

「ありえない」

 男性は、静かな声で呟いた。

 皺のついた白衣に黒い影が落ち、重たい沈黙が続く。

 壁も天井も白く塗られた個室。電子ブラインドは夜空を綺麗に隠し、消毒液の匂いが混じった空気はどこか寂しく感じられた。

「それがありえるの」

 簡易ベッドの上で身体を起こした女性は、やや悲しげに、けれど迷いのない口調でそう返す。そして、さらりと長い黒髪を耳にかけながら、男の目を真っ直ぐに射た。氷のような視線に中年の男性は身じろぎする。年こそ重ねているものの、若者に負けない端正な顔には疲れの色が見えた。

「だって、そんなウイルスがもし存在するのだとしたらそれは……」

「うん、バイオテロだって起きるかもね」

「何故、そんなものを」

 震える男を横目に、女性はMCCを操作しはじめたが「何故」という言葉を聞き、顔を上げて首を傾げた。

「何故? おかしなことを聞くのね。それでもあなたは医者なの?」

「……」

 一切淀みのない、罵るようなその声に男は再び一瞬怯み、それから口元に笑みを浮かべた。こんな時でも彼女は変わらない。そのことに僅かな安心感を抱いてしまった。本当は落ち着いてなどいられない状況にも関わらず。

 彼は浅く深呼吸をし、それから躊躇いがちに口を開く。

 適量に調整してあるはずの蛍光灯の光が、やけに眩しく感じられた。

「人工ウイルスは既存のウイルスの治療のために作られることが多い。ワクチン作成や治療のために、インフルエンザウイルスやヒトロタウイルスの人工合成が行われたのが皮切りとなって、様々な人工ウイルスが作られるようになった。しかしそれはあくまで既存のウイルスを模倣しているだけだ。そんな、前例のないウイルスを人工的に作るなど……」

「同じことよ。治療困難な病気の研究をするため意図的に『その病気』を引き起こさせるウイルスを作った。例えばこのウイルスを用いて動物実験をすれば、『その病気』の画期的な治療策を見つけられるかもしれない。とても合理的な研究だと思わない?」

 語りながら、女性は自身のMCCの画面を見せた。

 そこには、とある病気の死亡者数とこの国の死亡者数の比率についての変遷が分かるグラフが表示されている。そんなもの表示されなくてもそれくらいのデータは頭に入っている……そう思いながら、男は画面から目を背けた。

 分かっているのに、これ見よがしに見せつけられるのには参ってしまう。

「しかし……実験動物に使うだけの予定だったそれに……君は感染した、と」

「ええ。ちょっとした事故なのよ。残念なことに」

「……本当に?」

 男性の言葉に、女性は口を閉ざす。凛とした瞳には、その先を話すまいとする決意が見られた。

「さっきまでウイルスの存在自体を疑っていたあなたが今度は研究所を疑うのね」

「優秀な君が手違いでウイルスを逃し感染……なんてあるとは思えない」

「買いかぶりすぎよ。それに、もしそうだったとしたらあなたはどうするの?」

「研究所を訴える」

「そんなウイルスが発見されたと、あなたの力で告発できるの? まず世間は信じてもらえないし、下手したら信用を失うわよ? ねえ、医院長さん」

 狼狽える男性を見て、女性は何故か楽しげに微笑んだ。

 それから緑色のスリッパに足を通してベッドを降り、窓に近づいて電子ブラインドを操作する。

 すると夏の夜風が狭い病室の中にふわりと舞い込み、僅かに消毒液の匂いを薄めていった。

「あなたは多くの患者さんを救う役目を持っている。それなのにこんな一人のために時間を費やしていてもいいのかしら」

「でも、」 

 男は、自分が発した言葉を飲み込む。女性の言い分も分からなくはない。しかし素直に頷いてしまってもいいものなのか、自分では判断できない。

 月明かりに照らされた女性の顔が、直視できない。

「あなたと恭ちゃんには、たくさんの命を救って欲しいから。心配しなくても、私は大丈夫」

「結ちゃん……」

 男は手を伸ばして、しかしその手を彼女の方に届かせることはできず、「また明日」と言葉を残すと、くるりと背を向けて重たい病室の扉を引いた。


 この女性、浪川結なみかわゆいが命を落としたと知らせが院内に入ったのは、実にこの二日後のことだった。

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