第4話:制限時間

 着信音を鳴らすMCCと、金田や鶴木の顔を交互に見つめる。

 何故一野からの着信があるのか……そもそも、何故彼が電話をかけられるような状態にあるのかが、那由には疑問だった。

 組織に人を送り込むことが主たる鶴木の仕事だが、さらに組織に関わった人間を社会的に抹消するのも鶴木の仕事のはずだった。何故一野が悪質なプログラムをゲームに送り込めるほど野放しにされているのか。鶴木はこの現状を知っているのか。

 いろいろ聞きたいことはあるが、ひとまず電話を取る。すると、いやにはっきりとした声が聞こえてきた。

「久しぶりだな、プロジェクト長」

「一野……何故あなたが」

「何故? そんなの復讐のために決まっているだろう」

 薄々予感していた言葉がかえってきて、思わず画面に映した彼のプロフィールを見つめる。

「あなたを組織から追い出した私への復讐? なら、何故ゲームにウイルスを撒くなんていう愉快犯のような真似を……まさか」

「こうすればお前たちが食いついてくれると思ってな」

 この男は自分たちを動かすためにわざと流行中のゲームを利用した?

 だとすれば真の目的は何だろうか。那由は必死に頭を働かせる。

 高塚や上里のように、彼にもまた専門分野がある。彼が得意としているのは捕獲だ。捕獲者スパイダーの名を持つ彼は、自分の元にやってきたプログラムやウイルスを捕まえて無力化してしまう。自動で消えてしまうデータも、彼の捕獲プログラムにかかれば無力化した上でデータを取得することができた。ただ、収納庫の高塚がいればある程度の情報は補完できるため、必要かどうかと考えると微妙な能力でもあった。自慢の捕獲プログラムも常時働かせることができず、データが入ってきた時に実行することで初めて捕まえることができる。例えば、彼がデータを実行していない時に、彼のコンピュータに那由お手製のデータを食すプログラムを放てば、捕獲プログラムごと食べられてお終い。その程度の能力だった。

 しかし、もし相手がプログラムをコピーしようと口を開いて待っている時にプログラムを送り込んでしまったら……捕獲は免れない。

 蜘蛛の糸に向かってきた虫のように捕獲され、無力化される。そして、情報を丸ごと奪われてしまうのだ。

「もしかして、私のデータを食すプログラムを……」

「ああ、捕まえさせてもらった」

 彼は自身のコンピュータに巣を張って、那由がプログラムを送り込むのを待ち構えていた。それが分かって身震いする。

 何故自分はこんな不用心なことをしてしまったのか。数日の入院生活で頭も鈍ってしまったのか。

 相手の手口がまるでただの愉快犯のようだったから油断していた。それが自分を陥れるための罠という想像をしていなかった。プログラミングにおいて必要不可欠な「予測」を怠っていたのだ。

 否、起きてしまったことは起きてしまったことだ。ここからこの現状をどう打開できるかを考えなければならない。

 もう一度データを食すプログラムを送り込んでも、相手が蜘蛛の巣を張っている状態ではまた無力化されて終わり。それならどうすればいいか。

「それを使ってどうするつもり?」

「どうする? そうだなあ……あらゆるネットワークにこいつを忍び込ませてこの国を破壊するってのも悪くないかもしれないな。ああ、スーパー人工衛星にでもこれを送り込めばこの国は一発で沈むか?」

「そんな……」

 それは、先日実行された仮想現実作成プログラムの内容のようだ。しかし三か月前に辞めた一野がその内容を知っている訳はなく、おそらくただの思い付きなのだろう。それでも、そうなった後の東京の状況を知っているが故に、ゾクリと寒気のようなものを感じた。

「どうして、そんなことを」

「言っただろう、復讐って。このはた迷惑なプログラムで社会を混乱に陥れた後お前の名前を公開する。そうすればお前の人生は一瞬にして終わる。自分を排除してきた社会からさらに排除されるんだ。なあ、今俺がどういう気持ちか分かるか? お前の思い付きのような指示で組織から外され人権を奪われた俺の気持ちがなあ!」

 ただでさえ存在を公にしてはいけない組織。そこからあぶれてしまえば情報漏洩を防ぐためにも厳重に管理され二度と日の目を拝めない生活を送ることになってしまう。ここにはそういう噂があった。しかし実際クビになったものがどうなったのか、那由には一切知らされていなかった。殆どの人間はコンピュータ関係の犯罪を犯して組織に目を付けられた人間で、その罪が公になって逮捕されるのがオチだと思っていたが。

 高塚も、上里も、もしかしたら重大な犯罪を犯して組織に連れ込まれたのかもしれない。それを隠すという条件でここにいるが、那由が追放すればたちまち牢屋行き。その可能性もある。

「あなたは今どこにいるの?」

 尋ねながら、上里からもらったIPアドレスを利用して位置情報を割り出す。少なくとも牢獄から電話しているわけではないようだ。

「どこ、か。どうせストーカー女の手でも借りれば分かるんだろ? 来れるなら来てみろよ。場合によってはプログラムの実行を止めてやる。ただしタイムリミットは五時だ」

「五時って……」

 そこで、通話は切れた。現在時刻は四時前。制限時間は一時間程度ということか。

 位置情報が正しければ、公共交通機関を使用して四十分少々で行けるはずだが、そのための準備は何一つできていない。できれば遠隔で戦いところだが、一応元組織の人間だけあって一時間で勝敗を決めるのは難しいだろう。彼の能力が伊達ではないことはちゃんと分かっている。

 那由は席を立つと、プログラマーたちを観察している金田と鶴木の元へ行った。

「ねえ、三か月前クビにした一野から連絡がきた。私のデータを食すプログラムをスーパー人工衛星経由でばらまいた後、私の名前を公開しようとしているらしい。心辺りは?」

 厳しく問い詰めれば金田は呑気に自分の髭を撫でた後、

「ああ、そんなことも言っていたな」

 と嘲笑うように呟いた。ただでさえ自分を刺した男の顔など見たくもないのに、このように挑発的な態度を取られると余計にイライラとする。

「どうなの? そんなことになったら組織的にもまずいんじゃない?」

 なんとか怒りを抑え込んでそう尋ねると、金田は首を傾げた。

「何故だ?」

「え?」

「データを食すプログラムで社会が混乱に陥ったところでこのプロジェクトにそれほどの打撃はあるか? お前の名前が公表されるのは痛いかもしれないが、そこは鶴木が警察に根回ししてやる。まあ、お前は二度と外の道を歩けなくなるかもしれないがここに籠って大好きなプログラミングをすることならできるだろう」

 金田が言っていることは理解できた。

 もし一野がプログラムを実行したところで、この男は痛くも痒くもないそうだ。

 社会がどうなろうと、那由がどうなろうと、関係ない。

 那由が社会的に死んでしまおうとプログラマーとして使えるならそれでいいのだ。

 確かに那由は身寄りもなく孤児院育ちで大した人間関係も構築していない。今更指名手配犯になろうが世間を騒がせようがそこまで痛くもないかもしれない。 

 しかし、もう一つの方がそうではない。

 もしデータを食すプログラムがあらゆる場所に広がったら?

 あの、仮想現実の中のようになる。建物には入れなくなり、お金も払えなくなり、食材も思うように手に入らない。そしてもし、病院が機能しなくなってしまえば……本当に、多くの命が失われることになる。それが自分のプログラムのせいで起きるなんて、想像しただけでも恐ろしくてたまらない。

 組織の構成員たちはじっと那由たちのやり取りを見つめている。仮想現実の時もこうして二人が言い合いをし、ひと悶着があったのだ。プログラムは実行されシミュレーターが導き出したデータも手に入ったが、その背景で那由と金田の間にどのようなやり取りがあったかは知らない。那由がデータを全て消去しようとウイルスを流したことも、金田が高塚の力を借りてそれを復元したことも知っているが、では何故那由が数日間ここへ来なかったのかも金田の目論見も全くと言っていいほど知らないのだ。知らない上に聞ける雰囲気でもなく、久々に出社して平然と仕事をしだした那由に従うしかなかった。

 那由は暫く机に手を置いて俯いていたが、やがて大きく机を叩くと、自分のMCCなど必要最低限のものだけ持って部屋を出ていった。

 遠ざかっていく背中を、高塚だけが追う。

「待って那由ちゃん、一人で行くの?」

 長い廊下で声をかけられ、それでも那由は振り返らなかった。

「うん、どうしても止めたくて。罠だとしても行くしかない」

「でも」

「ああでも……何かあったらあの人にだけは伝えておいて」

 那由の言う「あの人」のことを、高塚だけは察することができた。普段からあらゆる情報を収集している高塚は、那由がこの数日間どこで何をしていたのか把握している。那由もそれが分かったから敢えて高塚にそう告げたのだろう。

「……分かった」

 高塚は踵を返すと「あの人」に接触する準備を始める。


 ◆   ◆   ◆


「つまり那由にクビにされた一野という男が名前のプロジェクトの興味を惹きつけるため敢えて目立った事件を起こし、那由のデータを食すプログラムを奪う。そしてそれを社会に流して那由を犯人に仕立て上げ、復讐を行おうとしている、と」

「いやー、流石ですねお兄さん」 

 恭人は亜美の拙い説明を纏め上げると、改めて尋常ではない事件が発生していることに危機感を覚えた。

 このままではあの仮想現実の中と同じような状況になる。人々が混乱状況に陥り病院のシステムも全停止するような悪夢が現実のものになってしまう可能性がある。それは何としてでも止めなければいけない。しかし、どうやって?

 今警察を呼んだところで意味がない。那由は今どこまで把握しているのか。そして組織は動く気があるのか。

 話始めて二時間ほど経ってしまったのは亜美の説明がゲームの説明にまで脱線したり、那由らしきプレイヤーの話になったりと回りくどかったためだ。それでもなんとか軌道を修正し、カウンセリングのような要領でじっくりと話を聞いてしまった。

「あの……お兄さんにとって那由さんはどんな人ですか?」

「俺にとって?」

「はい。その、那由さんって昔はずっと一人ぼっちだったので……お兄さんみたいな人が近くにいるのが意外というか」

「昔って……」

「あ、私昔は孤児院にいたんですよ。そこで那由さんを見たっていうか……そんな感じです」

 組織繋がりかと思ったが、孤児院での繋がりもあるのか。いよいよこの亜美という少女の正体が怪しくなってきたが、ひとまず質問に関する答えを考える。

 自分にとって那由はどんな存在か。

 胸も大きくなければ好みの女性のタイプでもない。いつもどこか冷めていて我儘で意地っ張りで人間としては欠点だらけだと思っている。それでも目を離すことができなかった。それは彼女が危なっかしいからという理由だけではない。それは自分でも自覚していた。

「放っておけないやつ、かな」

「なんですかその解答」

 亜美が口を尖らせる。彼女はどんな解答を期待していたというのだろう。

「そういうお前こそ何者なんだ。重要な要素に思えなかったから後回しにしていたがそろそろ教えろ」

 見た目は普通の高校生。頭もいいとは思えない。しかしどこかで見たような既視感がある。

 彼女の話に出てくる那由の父親とは誰か。そして組織とどういう繋がりがあるのか。

「私は……」

「恭人くん!」

 亜美が何かを言いかけた時、突然病室の扉が勢いよく開き、茶髪の背の高い男が姿を現した。

「……誰だ?」

 恭人は自分の記憶を手繰り寄せるがこんな男に遭った覚えはない。適当に遊んだ女性の顔なら忘れている可能性はあるが、男となればそういう事情もないだろう。

 扉を閉めると、その男は恭人に近づく。そしてまるで元気を失くした犬のような目をして、

「那由ちゃんが危ない」

 と、告げる。 

 何故恭人がここにいると分かり、那由と面識があることを知っているのか。

 疑問に思うことは多々あるが、ひとまず再び

「お前は誰だ」

 と尋ねる。すると彼は慌てて、

「僕は名前のないプロジェクトの高塚天だよ」

 と、あっさり自分の名前と肩書きを名乗った。

 プロジェクトの人間ならば那由の病室を知っていてもおかしくないが、何故自分の名前も知っているのか。彼らの情報網が少々恐ろしくなる。

 ただ、固まっているわけにもいかない。

「危ないって今どういう状況だ? こちらは一応一野という男が那由の作ったプログラムを使って悪さをしようとしているというところまでは知っているが」

 それ以上の情報はまだ知らない。

「え? 何で知って……いや、それより那由ちゃんが、一人でその一野って男の元へ向かっている。五時までに行かないとプログラムを実行するからって」

「五時って……」

 自分のMCCで時間を確認した。時刻はもう四時半を過ぎようとしている。

 もう、あと三十分しかない。しかも一人で犯人の元に向かうなど不用心にも程がある。

 プログラミング勝負ではなく直接会おうとするだなんて明らかな罠。それに那由は気づいていないのか。

「那由ちゃんがね、何かあったら『あの人』に伝えてって言ってたの。それは多分恭人くんのことだと思うから……」

「那由が、そう言ったのか」

「うん」

 だとすれば、どんな理由があれそこに向かわなければならない。

 おそらくその「伝えて」というのは、病院の退院処理のことや私物の廃棄についてのことを考えての言葉だ。助けに来てほしいなどと言ったつもりはないのだろう。それでも、そこは都合よく解釈させてもらう。

「いろいろ聞きたいことはあるが後だ。早く案内してくれ」

「う、うん。車で来てるから……あれ? その子は」

「……金田さんから組織のことは聞いています。私も連れて行ってください」

「金田?」

 それは、自分の目論見を達成するために那由を刺した極悪非道の組織の参謀の名前だ。

 亜美の口からそんな男の名前が飛び出すとは思わず、彼女の顔を二度見するが、高塚を見る目は真剣そのものだ。

「金田さんに……分かった」

 こうして那由の病室を後にして、三人で一野の元へ向かうこととなった。


「お前は俺のことをどこまで知っている?」

 高塚が運転する車の後部席に乗り込んだ恭人は淡々とした口調でそう尋ねた。まだ彼には聞きたいことが沢山ある。ひとまず何故自分のことを知っているか、どこまで知っているかは聞いておきたかった。

「浪川恭人くん。六月二十日生まれのA型。都市大学医学部で内科の知識を学ぶも、母親の自殺を経験して一転、心療内科を目指す。現在都市大学医学部六回生で二十四歳。父親は都市大学附属病院の医院長の浪川享志で、恭人くんはその後を継ぐことがほぼ確定しているようなもの」

「まあ……それくらいは知っているか」

 プロジェクト長の松井那由をかくまっていた人間だ。組織の人間にそれくらいの素性がばれているのはおかしくない。

「趣味は昼寝と女遊びだって自称してる。好きな女性のタイプは巨乳。ただ、那由ちゃんに会ってからその方面には手を出していない。基本的に他人には興味はない。相手が困っていても効率を考えて手を差し伸べないこともあるタイプ。でも、患者さんや精神面で弱っている人は放っておけない」

 しかし、恭人が納得しかけたところで高塚はペラペラと続きを述べた。

「な……」

「父親との仲は良好とは言えない。浪川享志は自分の妻が自殺するほどに追い詰められていたことに気が付かなかったから。父親は患者に対する考えがなっていないと今も感じている。そんな関係からか家には帰らずに大学の研究棟の鍵が壊れている倉庫の一室で寝泊まりすることが多い。その部屋の場所は……」

「もう、いい」

 恭人は項垂れた。多分彼はどこまでも知っている。これ以上話されたらプライベートのかなり深いところまで、現在隣に座っている亜美にもばれてしまう。

「組織の人間にはそこまで知れ渡っているのか……?」

「ううん、金田さんと鶴木さん以外の一般メンバーは知らないと思うよ。僕が物知りなだけ。なんたって僕は収納庫クローゼットだからね」

 ハンドルを握って前を向いたまま高塚は自信満々にそう答えた。それは那由の「破壊魔クラッシャー」のような肩書きのことだろうか。

「一番情報を保有しているってことか?」

「うん。僕にはそれくらいしかできないから、それくらいのことに関してはスペシャリストになろうと思って。データってさ、パソコンっていう小さな箱におさまるものじゃないんだよね」

 名前のないプロジェクトはネットワークを支配する組織だ。どんな電子媒体にも忍び込み、どんな情報でも盗み、どんな情報でも壊し、どんなプログラムでも創る。そこに善悪は関係ない。彼らがネットワーク上でできないことなどない。しかし、高塚はそれだけではおさまらないという。

「今の恭人くんの情報とかは僕が集めて僕がこの頭で記憶している。こうやって僕の頭に収納しちゃえば簡単に盗まれないし、いつでも引き出せる」

「収納って電子上の話だけじゃないんだな」

「うん、そっちでも勿論収納するけど、三次元上にデータをもってきておいた方が便利なこともあるから……まあこれも僕の特技の一つ。これがなかったら僕は……那由ちゃんに、捨てられていたかな」

 高塚の声のトーンが急に落ちる。

「捨てられていた……か」

 現在追っている一野という男がまさにその状態だろう。

「僕はね、何で自分がプロジェクトの一員になっているのか分からないんだ」

 交差点を大きく右折し、ビルの谷間から抜け出す。

「たまたまちょこっとプログラムが組めるだけだよ? ハッキングも下手だし、みんなみたいに独立したプログラムを組むことも苦手。だけど、組織に入っちゃったらもう社会に戻ることはできない。捨てられれば人生終了。だから、必死にしがみつくしかないでしょ? 僕を捨てたら一緒に莫大な情報も捨てることになる……そうやって脅せば組織は僕を捨てられない」

 信号機が黄から赤に変わる瞬間を駆け抜ける。ビル街を抜けた辺りから車が走るスピードが上がってきていた。

「お前が那由に馴れ馴れしい態度なのも……」

「んー……まあ、それは捨てられないためもあるけど……それだけじゃないよ。那由ちゃん、人間っぽくないでしょ?」

「…………ああ」

 取りようによってはひどい悪口だが、恭人は高塚が言わんとしていたことを理解できなくもない。那由には人間味がない。ひたすら成果だけを求められて殺伐とした環境の中で育っていれば、人間味も道徳心も育たないのは当たり前だ。

「でもね、組織の頭良い人たちは那由ちゃんのすごさに圧倒されてそういうのに気が回らなくて……だから僕は、那由ちゃんを『プロジェクト長』じゃなくて、『那由ちゃん』って呼ぶことに決めた。少しでも那由ちゃんが人間っぽくなってもらえるようにって。でも……」

 法定速度を易々と超えるスピードを出しながら、高塚は依然として同じ調子で話し続ける。

「でも、僕がいくらそうやったところで那由ちゃんは変らなかった。それどころか金田さんとか鶴木さんに労働を強いられてどんどん表情が無くなって……でも今日帰ってきた那由ちゃんを見たら、那由ちゃん、変わってた」

 恭人は高塚の手元を見つめていた。表情は見えない。けれど、彼の言いたいことは手に取るように分かる。彼は単純な人間だ。那由や、金田のように面倒な思考をしていない。

「恭人くんに会って、那由ちゃんは変ったよ」

 高塚は車内の空調音に紛れそうなほど小さな声で呟いた。

「……それは、那由を変えたかったお前にとって悔しいことだったか?」

「うん。でも、別に僕が変える必要なんてなかったから。那由ちゃんが……那由ちゃんが人間っぽくなってくれたならいいことだよ。多分」

 車が車線を変更し、徐々にスピードが落ちてゆく。目的地の付近へ着いたようだ。

「僕は、那由ちゃんはプロジェクト長に向いていないと思ってる。あ、これは秘密だからね!」 

 薄暗い駐車場に入り込み、やっとブレーキがかかる。

 時刻は四時五十九分。随分と古ぼけたビルに辿り着いてしまった。

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