第3話:破壊魔
それは、今から三年前。
那由がまだ高校一年生で、渋谷駅前のマンション型孤児院で暮らしていた時のある夕暮れのことだった。
この日は随分と冷え込み、那由の手も寒さで真っ赤になっていた。その震える手には自室のカードキーが握られていたのだが、呆然と突っ立ったままそれを床に落としてしまった。
「え……」
と声が漏れたのは部屋の前に立って暫く経ってからだ。
部屋が間違っているのではないかと確認するが、部屋番号に違いはない。間取りもあっている。そもそも自分のカードキーで開けたのだ。間違っているはずがない。
しかしそれが自室だと思うには少々抵抗があった。
自室だったはずのそこには、家具も、電化製品も、装飾品も、私物も、ゴミさえも何もなかった。いや、何もない訳ではない。
那由が愛用していたルビー社のパソコンだけ、空っぽの部屋にぽつんと取り残されていた。
「えーっと」
十六歳の那由は、当然のことながら今のような冷静さを持ち合わせてはいなかった。首元に左手を添え、何が起きたか考えようとしたが、結局落ち着くことができず、部屋の中へ入り中を見回った。備え付けのクローゼットの中もユニットバスの中もコンロの下の棚の中もやはり何もない。
ここの孤児院は六歳以上の子どもに1DKの部屋を提供し、子どもたちはそこを自分の部屋として生活することになる。共同食堂や共同浴場もあるが、中学生くらいになってくると、自炊をし、自分の部屋の風呂を使うことが普通になってくる。孤児院といいながら、ほぼ下宿所のような扱いだ。那由もまた同様で、六歳のころから十年間この部屋を使い、現在は学校から帰って来るとずっと自室へ籠るという生活を続けていた。料理は残念ながらできないので、コンビニの弁当や固形栄養食品を食すことが主だったが。
そんな見慣れた自室の気配はもうない。
那由はフラフラと部屋の中心にぽつんと置かれた自身のパソコンへ向かい、電源を入れた。家具が消えたことも一大事だが、それよりも焦るべきことがあった。
「まさか……まさかまさかだけどっ」
かじかんだ手でキーボードを叩き、デスクトップを呼び出す。そして、顔を青くした。そこに保存してあるはずのデータが見当たらない。まだバックアップを取っていないものを含めて全てが消えている。
自分のパソコンと取り換えられている、ということはないと思った。キーボードの印字のすり減り具合が記憶と同じだ。
「コンピュータ内のどこかにはせめて……」
焦りながらコンピュータ内をくまなく検索してみるが、やはりなんのデータも見つけらない。
「何で……」
那由は震える声で呟き、そのままカタカタと指を動かしていたが、ぴたりと手を止め、
「初期化されているだけ……なら」
と小さく呟いた。
そして、コントロールパネルを開き、再び指を動かす。
「完璧な消され方をしていなければ、もしかしたら、復元可能……だよね……」
自分を奮い立たせるようにぶつぶつと言いながら、ひたすら記号のような言語を打ち込む。タンッとエンターキーを叩くと、文字が勢いよく画面を流れ始めた。
「よし、復元システム作動……」
那由は自分の首元に左手を添えて画面を凝視する。そして、数分経った頃に大きく息を吐いた。デスクトップには那由が保存していたファイルが次々と表示されていった。選択すれば、ちゃんと中身があることも確認できる。
「よかった……途中かけのプログラムもあったし、もうおしまいかと。ま、結局そんなものか」
安堵の言葉を呟いた後、落ち着いていていいわけではないことを思い出す。何故部屋のものが全て消し去られ、データも完璧ではないにしろ、消されてしまっていたのか。
きょろきょろと周囲を見渡す。他に、何か手がかりになるものはないか。エアコンまで丁寧に外されてしまっているため、部屋が冷え切っている。風が凌げるくらいで、温度は外と同じほどではないかと思えたほどだ。いつもなら作業中に被る布団も、今はもうない。
そもそも、これは誰がやったのか。
空き巣だと考えるには無理がある。
このマンション型孤児院はエレベーターがあるエントランスホールへ入るときにもカードキーが必要になる。勿論那由の部屋を開けるにも、専用のカードキーがいる。それに、防犯カメラだって存在する。一体どうすれば、職員の目をかいくぐってここまでやってきて、そして家具を含め全てを外に持ち出せるというのか。
「職員の仕業……もしくは外部のそういう組織とのグルの可能性もあり」
那由はここの孤児院の人間をそれほど信用していない。世話をしてもらっている身でそう思うのは申し訳ないかもしれないが、彼らは金さえ積めば、何でもしてしまう人間だと思っている。
大金と共に預けられたた子どもは異常に待遇がいい。金へがめついことがよく分かる。だからこそ、謎の泥棒の片棒を被ったとしても納得はいく。
しかし、ただ家具を盗むだけではなく初期化したパソコンを一台部屋の中央へ置いてゆく意味が分からない。
「私のデータ狙い……にしては、初期化の方法が単純すぎる……試されている? いや、そんなまさか……」
自分で口にして馬鹿らしいと思った。あまりにも自意識過剰すぎる。いくつかコンピュータグラフィック関連のプログラムや、データのセキュリティー系プログラムを作り、ウェブ上で多少の金儲けはしているが、所詮その程度である。誰が那由のプログラム技術を試そうとするだろう。那由は自嘲気味にくすりと笑った。
その直後だった。
那由の背中にゾクリと冷たいものが走る。寒さの所為ではない。もっと、得体のしれないものが後ろから近づいてくるような感覚だ。
「そのまさかですよ」
真後ろから声が聞こえたとき、那由は振り向かなかった。振り向けなかったのだ。
耳元に触れた息に身震いする。振り向いてはいけない、本能がそう悟っているのが分かった。
「誰……?」
「私の名前は鶴木と言います」
鶴木という名前に心辺りはない。那由は逃げるように一歩前に出た。すぐ後ろに立っている男から少しでも離れたかったのだ。しかし、目の前には壁しかない。逃げようもなかった。
「これは、その、あなたの仕業?」
「はい。まあ、私の属している組織の仕業、ですね」
「組織……?」
自分の足が震えているのは寒さのためなのか、恐怖のためなのか、それさえ分からない。冷静に考える暇も与えてもらえない。それほどの威圧感が彼にはあった。
「私たちはあなたのプログラミング技術を高く買っています。松井那由さん、あなたが作るプログラムは芸術作品といってもいいほど、性能の高いものです。完璧で無駄がない。そして入り込める穴もない。現在も試してみましたが、初期化からデータを復活させるまでのスピードも素晴らしい」
鶴木は間髪入れずにすらすらとそう告げた。
「そんなの、普通……」
「それが普通と言ってしまうところが、あなたが普通ではない証拠ですよ」
まるで、自分の周囲が彼の言葉で囲われていくようだと思った。彼の言葉に何も答えることができず、深くものを考えることさえうまくいかない。
「あなたも気が付いているでしょう。自分が周りとは違うということを」
那由は首を振った。必死に否定しようとする。しかし、言葉が出てこない。
「あなたがどれほどいい成績を取ろうと周りはあなたに目もくれない。どれほどのプログラムを作っても周りはあなたのプログラムにしか興味がなく、あなた自身を評価することはない。彼らは常に低い場所で群がっている。あなたはそれを上から見ているうちに、周りは愚かだと気が付いた。誰もあなたを褒めないのは、誰もあなたに追い付けないからだ。あなたは特殊。群れを成さねば生きていけない社会の一般人とは別のもの」
「それは……」
確かに、那由は周囲から褒められることが一切なかった。いい成績を取ってもそれが当たり前。那由が周囲よりもレベルが高いことが当たり前だった。幼い頃はそれが辛かった。ずっと認めてほしいと思っていた。が、今は違う。彼の言葉は間違っていない。
所詮周囲はその程度でしかない。自分が作ったプログラムに群がるだけで、自らそれを生み出そうとは考えない。見下したことがないわけではなかった。
「私たちと一緒に、社会のゴミたちを嘲笑いませんか?」
「え?」
ゴミ、という言葉に抵抗を覚える。流石に自分はそこまでは思っていない、と考える。しかし、本当にそうだろうか。自問自答が脳内を占拠する。
「ゴミというのは言い過ぎですか? あなたもきっと心の片隅では感じていたはずです。自分のことをないがしろにしてきた奴らと生活を共にすることはありません。あなたの力で社会を翻弄しましょう。それはきっと、あなたにとってもプラスになるはずです」
その言葉は積極的というよりは、淡々としていた。けれど、確実に那由の中へと浸透している。抵抗心は次第に失われてゆく。
「あなたの居場所はもう私たちの組織しかありませんよ」
そして、ついにはすんなりと、那由の心の中へと入ってゆく。
「私の居場所……組織……」
「あなたの力が必要です。松井那由さん」
「私が、必要?」
「はい、勿論です」
その言葉が決め手だった。那由の心は鶴木に掴まれてしまった。
那由はゆっくりと振り返る。自分の背後では、サングラスをかけた怪しい男が那由に向かって微笑みかけていた。
「あなたは優れた人間ということを周囲に思い知らせましょう」
「……私が優れているのは知っている」
那由はそう答え、鶴木と距離を詰める。
「よく考えれば私の家具を撤去している時点で……自分たちの元へ引き込むことは確定しているようなものだよね?」
「はい。流石頭の回転が速い。助かります」
彼は上から見下ろす形のまま、淡々と那由を褒めた。
それが罠だとは分かっている。けれど、既にそこにしか道が作られていなかった。自分はそこへいく運命なのだと感じざるを得なかった。
自分は優れている。周囲は劣っている。考えればシンプルで、悩んでいるのが馬鹿らしくなった。
「よろしくお願いします、鶴木さん」
那由がそう告げると、彼は首を横に振った。
「敬語である必要はありませんよ。私はあなたの部下ですから」
「え?」
「松井那由さん。あなたは、今日をもって私たちのプロジェクトのプロジェクト長へと着任しました」
恭しく頭を下げられ、那由はしばらく呆然とした。それは、部屋がもぬけの殻だと気づいたときよりも大きな衝撃だったかもしれない。
「なんだ。組織って言ったって結局無能ばっかりじゃん」
その後組織へ入り、いきなりプロジェクト長として席を与えられた那由はそんな言葉と共に大きくため息を吐いた。
「遅い……それに、ここも、ここも穴だらけ……こっちは余分な式が多い。まどろっこしい」
プログラムに目を通してはそう嘆き、カタカタと修正を加えてゆく。
「おいお前、いくらプロジェクト長だからといってあまり調子に乗るんじゃねえよ!」
「それは、私よりもレベルが高くなってから言って欲しい言葉だけど」
組織へ入って数日、那由の目からは既に光が失われていた。
あれから鶴木や金田から様々な指南を受け、一般社会はいかに堕落しているか、そして組織がいかに優れているかを語られた。
けれど、入ってみれば組織にも自分より劣っている人間ばかりであり、自分がプロジェクト長になったことも納得できるような気がしていた。
全てのことが馬鹿らしく思えるようになり、那由の感情は黒く塗りつぶされていった。
名前のないプロジェクト、と組織に名前を付けたのも那由だった。元々何か別の名前があったのだが忘れてしまった。
名前を付ける必要のないプロジェクト。略して名前のないプロジェクトだ。
「自分たちはこんなことができる。だからすごい」というのは低能な考え方で、「これくらいなんてことない。自分たちにとってはいたって普通だ」と思いながらやれるくらいがちょうどいい。それに見合わない人間は切り捨て、使える駒だけを残した。
十六歳からの約三年間で、那由は人に命じ、仕事をさせる術まで覚えていた。
勿論那由自身が仕事をしていない訳ではない。部下の作ったプログラムの修正、彼らができないと判断したプロジェクトの請け負い、通常業務。一般構成員よりはるかに多い量の仕事をこなしていた。
金田も意図的に那由の仕事量を増やしていた。これは単に那由を組織に縛り付けるためだろう。
那由は組織から監視付きのアパートの一室を与えられて暮らしていたが、仕事が長引くことが多く、職場で寝泊まりすることが絶えなかった。疲れなどとれやしない。
自分もまた駒の一つであると、嫌でも認識するようになっていった。
タン、と自分がキーボードを叩く音で我に返る。どうやら全員に役割を与え終わったようだ。那由は自分に割り振った他人の三倍はある仕事を確認し、そして再び手を動かす作業に入ろうとして……
「那由ちゃん!」
と自分に迫ってくる男に気が付く。
「はい、抹茶のシュークリーム」
呆然としているうちに手渡されるシュークリーム。皮の部分まで緑色になっている。高塚天は、ピンク色のシュークリームを貪りながら、子犬のようなきらきらとした目で那由が食べるのを待っていた。
「……食べればいいんだね」
那由は彼の前でシュークリームを齧った。甘いものは好きだ。糖分は疲れた脳の回復に役立つ。柔らかな皮から溢れるような抹茶のクリーム。確かに、おいしい。が、それ以上の言葉はない。おいしいことに理由を付ける意味が分からない。那由は「ありがとう」と呟き「それで、作業は進んでいるの?」と尋ねる。すぐに高塚は苦笑いをしながら肩をすくめた。
「ま、期限までに終わればいいんだけどね」
那由はそう言いながら食べかけのシュークリームをいったん置き、再び画面に向かった。
彼が那由のペースを乱してくることは昔から変わらない。それを無意識にやっているのだというから、余計に煩わしかった。
「那由ちゃん」
と、次に彼女を読んだのは高塚天ではなかった。凛とした大人の女性の声。那由は再び顔を上げて目をしかめた。
「
ばっちりと化粧をした背の高いショートヘアの女性が、ピンク色の唇を意味ありげに釣り上げる。
那由が敬語を使う相手は多くない。いつだったか、那由は敬語を使うことを辞めたのだ。他人を敬うという行為が心の底からどうでもよくなってしまった。そのため、年上であっても大抵呼び捨てだったのだが、彼女だけはさん付けで呼ぶ。
別に彼女を尊敬している訳ではない。ただ「呼べ」と命令されたのだ。
「そのシュークリーム、私にも頂戴」
ぐっと顔を近づけられ、囁くように告げられる。
「別にいいですけど」
那由は食べかけの緑色に染まったシュークリームを彼女に手渡した。特別食べたいと思うものでもなかった。お腹も特にすいていない。
「ありがと」
彼女はそういってその場でシュークリームを頬張ると、何事もなかったかのように自分の席へ着いた。
「……ストーカー」
那由はぼそりと呟く。
彼女は別にシュークリームが食べたくて仕方がなかったわけではないだろう。彼女がこの抹茶のシュークリームに執着したのは、その送り主にある。
席に着いてパソコンに目を落としたかと思えば、すぐに向かい側の席に座り必死にキーボードを叩く青年をうっとりと見つめる。
上里
那由は職場恋愛に対して何かを言うつもりはないが……高塚天があまりにも自分にべたべたしてくるため、上里里香に敵視されていることには問題を感じている。
それでも、上里もまた使える人材であるため、前線から外せなかった。
結局、仕事の面で使えるか使えないかだ。人間関係がどうなるかなど、那由が気にするところではない。那由はシュークリームを食べたためにぱさぱさしてきた口内を気にしながらも、再び頭を仕事に集中させた。
「あー……そういうことか」
そして、午後三時半。日差しはやや西に傾き、それに合わせて傾きを変える電子ブラインドの機械音を背後に聞きながら、那由は机に両肘を付けて気だるげに唸った。その場に投げ出した作業用眼鏡がカタリと音を鳴らす。
「んー? どうしたの、那由ちゃん」
自分の仕事を終え、高塚天を眺める作業に専念していた上里里香が珍しく独りごちる那由に反応した。
「いや、期待が外れただけですよ」
「期待?」
今回のプロジェクトの目的はゲームに人の意識を取り込むというバグを起こしている犯人探しと、そのバグの解析の二点だった。他の構成員には犯人捜しの方を行ってもらい、那由自身はバグについて探っていたのだが、残念なことが分かってしまった。この事件に犯人なんておらず、ゲームのAIが意思を持って人の意識を取り込んでいた……といったことが起きていればまだ面白かったのだが。現実はもっと呆気ない。
「プレイ画面を開いた人間が意識を失い、そのプレイヤーのアバターがオンライン上でバトルをしている。それだけ見れば確かに人の意識がゲームに吸い込まれたように見えるかもしれない。けれどやっていることはもっと単純。バイオパンクに人々を昏睡状態にする電波を忍び込ませ、プレイ画面を開いた人を昏睡させる。そしてそのプレイヤーのキャラクターをオートで動くようにする。たったそれだけのこと」
自分が作ったシミュレーションシステムのようなことが起こっていたのなら解析も楽しくなりそうだと思ったが、そんなこともない。
人を昏睡状態にする怪電波なら、違法なものが世に出回っているのでそれを利用するだけ。よく流通しているタイプなら効果は四時間ほどで終わるだろう。もう目を覚ました人間もいるかもしれない。昏睡したプレイヤーのアバターが勝手に動くようにするのだって、同じ動きのパターンを繰り返すプログラムでも作って感染させればできないことではなかった。今頃機械的で面白味のないバトルビデオが量産されているはずだ。
ただ、その悪戯を現在流行中のこのゲームに仕込む判断は評価できる。人の五感とリンクするこのゲームでそのような現象が起きれば、勘違いされることも無理はない。だとすれば犯人は世間を騒がせたいだけの愉快犯か。
「上里さん、追跡はできたんですか?」
「ええ、勿論。大量のプレイヤーデータの中からアクセス数が異常なIPアドレスを探すのは苦労したわ」
「流石
上里里香は独自プログラムを使い目的のIPアドレスを見つけることを得意としていた。そこでついたあだ名は
「じゃあ後は……」
異常データのデリートなら既に実行した。あれはゲーム中に蔓延したウイルスのようなものなので、それを消去するプログラムを薬のように投与すればいいだけ。ただし、犯人側がデリートに気づき同じ施行を繰り返してこようとするのは困る。
犯人を捕まえるのは警察の仕事だろうが、あまりこちらの手を煩わされたくない。
那由は気だるげに画面を見つめながら何かを考えていたが、ふと何かを思い出した顔になり、
「壊すか」
と一言呟いた。
それはあまりに淡々としていて抑揚のない、特別な意味など含んでいないように発された言葉だ。
けれど組織の者たちは皆、一瞬にして息を呑む。
参謀役の金田や勧誘役の鶴木はただ目を細めるだけだが、プログラミング関連の作業を担当する構成員の反応はもっと大げさだ。
上里はびくりと背筋を震わせ、高塚も口を開けたまま手を止めた。先ほどまで部屋に鳴り響いていたカタカタという作業音は一瞬にして消え失せた。
「どうしたの? 作業、続けてよ」
那由は怪訝そうな顔で告げた後、眼鏡をかけ直し再び指を動かし始めた。那由のタイピング音を筆頭に再び狭い部屋に音が鳴り出す。けれど空気は相変わらず重苦しい。
天才プログラマー松井那由。名前のないプロジェクトのプロジェクト長。彼女にはまた別の異名が付けられていた。
『
彼女に破壊できないデータはない。どれだけ厳重に鍵をかけられていようと、徹底的に破壊する。この組織内だけではなく、こういった一般には公開できないプログラムを作る者たちの世界では少し名の通った破壊魔だった。
ただ「消す」のではない。その名の通り「壊す」もしくは「食べる」と表現されることもある。那由自身もこの食べるという表現を気に入って使っていた。彼女の「データを食すプログラム」はいっそ芸術的とも言われるような完璧さだと称されている。
那由の破壊は通常の消去という作業とは根本からして違う。単純な初期化では、腕のいい者がいればデータの復元が簡単にできてしまう。データを他のメモリなどに保存してあればますます効果がなくなってしまうだろう。
那由は一度自分のコンピュータのデータが初期化されたとき、簡単にデータが復元出来てしまったことに歯ごたえのなさを感じた。そこで暫しデータの消去方法を考えることにしたのだ。
コンピュータは深い海のようなところである。
光を浴びてゆらゆらと輝く綺麗な水面の下には、光が一切届かない未知の部分が広がっている。那由は個々のプログラムを魚に例えることにした。
どうしたら魚を効率よく捕まえて殺すことができるのだろうか。
魚が岩の影に隠れてしまうと探し出すのは非常に困難になる。光が見えない程深くまで逃げていってしまうと探し出すのは体力勝負になる。けれどそうやって追いかけっこをしても一度に捕まえることができるのは一匹のみだ。これではあまりに効率が悪い。
初期化は海の表面をすくい上げているだけに過ぎない。上から眺めてすっかり生物がいなくなってしまったと勘違いしているのと同じだ。意味がない。
大きめの網を用意して捕まえに行っても必ず一匹、二匹は網をかいくぐって逃げてしまうし、広い海の中、全ての魚を網だけで捕まえようとは無理な話だ。それに先ほどから自分の負担が大きすぎる。これでは自分がいつか溺れ死んでしまって終わりだ。
自分の労力は必要最低限に抑えたい。那由は大して持久力がない。長時間の遠泳は無理だ。勿論、海は例えであり持久力など関係はないが、結果としてその思考はいい方にはたらいた。
自分で海の底に潜るのが億劫なら作ってしまえばいいのだ。魚たちを食べるとびっきり強い生物を。
最初は海全体に毒を放つことを考えたが、その毒に耐性のある魚がいては意味がない。また毒が波に流され消えてしまえばすぐに別の魚たちがそこで生きることができる。
そのため、やはりもっと大きな生物を送り込むしかなかった。
魚を一匹たりとも逃さず、新たにやってきた魚も噛み千切る。当初のイメージは鮫だが、イメージを海に固定する必要はないのだから犬でも虎でもドラゴンでも構わない。要は自分の手を然程煩わすことなくデータを皆殺しにできればいいのだ。
こうして生まれたデータを自動的に食すウイルスにより、那由は見事破壊魔としての名を手に入れることができた。このウイルスを構成する式は那由以外に知る者はいない。ウイルスを解析しようと近づけば、そのウイルスは自害してしまう。自己消滅プログラムを組み込んであるのだ。
また那由は自分の端末にこのウイルスの式を作って置いておくことはない。万が一にも盗まれたらおしまいだ。
この式だけは完璧に頭に入れ、毎回組み立てることに決めていた。
「いただきまーす、と」
プログラムを組み終え、抑揚のない声で呟きながらながらエンターキーを押す。すると那由のパソコンに文字が流れ出した。プログラミングが実行された証拠である。
このウイルスが犯人のIPアドレスに届けば相手のデータは全て白紙に戻るだろう。
「高塚、一応聞くんだけど」
「勿論データは収納完了だよ、那由ちゃん!」
一度は皆と驚いたものの、けろりといつも通りの反応をする高塚は手を振って合図をしてみせた。
「そう。ありがとう」
那由に壊せないデータはないというが、例外は存在する。
以前那由が皆のデータを壊し、再起不能にしてゆく中、高塚天だけはその完全なる破壊からは逃れることができたのだ。
通称
那由は仮想現実作成プログラムで金田とぶつかった際、徹底的に組織のデータを破壊したつもりだったが、一つだけ危惧していたことがあった。それが高塚天だ。案の定、彼の端末の中身だけは破壊できずにいた。
彼の腕前は知っていたし、それを考えてとびっきり難易度の高いものを作ったつもりだったが、彼のガードは如何せん硬かった。勿論、完全敗北はしていない。データのひとかけらが残されたのみだ。けれど金田が持っていた紙に印刷された文字列と組み合わせることで迅速なデータの復元が可能となったらしい。事件後、鶴木から手渡された報告書にはそう記されていた。
高塚は自分でプログラムを組むことはそれほど得意としていない。けれどデータを保存する腕前だけは人一倍だ。彼の
彼の那由への馴れ馴れしい態度も彼にとって那由がそれほど脅威ではないことから生じているのかもしれない、と那由は思う。
プログラミングにおける総合的な力では那由の方が圧倒的に勝っているため劣等感を抱くほどではないが、それでも意識はせざる負えない相手だ。勿論、味方にしておけば怖くもなんともない。自分が破壊する前の相手のプログラムを保存してもらう役目を担ってもらっている。
「あとはとっとと犯人の素性を調べて警察に突き出して終わりかな。アバターを自動で操作するプログラムをもうちょっと調べて使えそうならモノにするけど、それも大したことなさそうだし」
これで、自分も安全にプレイすることができるだろう。警察からの報酬も無事手に入る。
「あの、」
那由が自分のMCCでゲームを立ち上げていると、上里からもらったIPアドレスを元に使用者の情報を収集していた構成員が手を上げた。
「なに?」
名前は憶えていない。クラッカー上がりの気弱そうな男である。
「犯人が分かりました。こいつです」
わざわざ口頭で報告しなくてもメールで分かるだろう、と思いながら送られてきたメールを確認する。そこには顔写真と共にその人物の素性が羅列されていた。
「あれ……? 一野修二って、まさか」
皆、聞いたことのある名前にそれぞれ顔を見合わせる。現在この組織にいる人間の中で彼の名前を知らない者はいないだろう。彼は、三か月ほど前までこの組織に在籍していた人間なのだから。
「なんでこいつが」
そして三か月前、那由がクビにした相手でもある。呆然としていると、那由の組織用MCCが音を鳴らした。
画面を見れば予想通り……件の犯人からの着信だ。
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