第2話:名前のないプロジェクト

 都市大学附属病院は三十四の診療科を持つ総合病院で、本館、東館、西館の合計三棟から成り立っていた。長い歴史の中で何度も改修工事が行われており、内部の造りはやや複雑になっている。外来患者の対応がある本館の一階から三階までは案内表示も多くそれなりに分かりやすい作りとなっているが、病棟の方はそうもいかない。特につい先日の医院長のリフォーム計画によって、本館四階に設けられた内科専用病棟は導線が複雑化しており、初見では自分の病室に戻ることさえ難しいとされている。

 そんな造りだからこそ、一般の入院患者が東館にある病院関係者専用の領域に辿り着くのは至難の業だ。初見の那由が内科の控室に一人で向かうなど難しい話だった。

 勿論、何度も病院へ足を運ぶ関係者となればどこへ向かうのも容易い。

 それでも、内科医長であり都市大学附属病院の医院長でもある浪川敦志の息子、浪川恭人は、道に迷っているかのような足取りで病棟を行ったり来たりしていた。

 那由との口論の後、一度気分を落ち着かせようと近場のファミレスで一服し、ついでに昼食も食べて戻ってきた。何となく表から入っていく気になれず、ロビーを通らず関係者専用の東館裏口からこっそり潜入するような真似をして、結局この内科病棟へと戻ってきたのだ。

 時刻はもう午後二時を回っていた。階下から何か騒がしい声も聞こえるが、そんなことに気をひかれないくらいに、頭を悩ませていることがあった。

 朝の、病室での僅かな言い合いを思い出す。あれは一体どちらが悪いのか。

 おそらく、あの場面しか見ていない第三者からすれば、圧倒的に那由が悪いことになると思う。

 彼女は周りの人間は自分の思い通りに動くと思っており、違った行動を取ると非難する。あまりにも自己中心的な性格だ。

 けれど、その性格が身に着いたのは、あの年齢でプロジェクト長という仕事を任されていたということが大いに関係している。さらに、幼いころから人との対等な関わりが持てず、その辺りの振る舞いを学ぶ機会がなかったこともあるだろう。

 それに、那由の性格がいかにねじ曲がっていたにしろ、言ってはいけない言葉くらいはある。

 那由にとって辛い記憶。それを仮にも精神医学を学ぶ自分が引き出してしまってどうするというのだ。

 あの時、那由の表情は見えなかった。俯いてしまい、一切顔を見せようとはしなかったのだ。それでも、那由が目を逸らしていた傷口を言葉によって抉ってしまったのは事実だ。

 一体今彼女はどんな気持ちでいるのか。できるだけよく考察して把握して、その上で対策を練ってから……謝りに行きたい、と恭人は考える。

 すぐに悪かったと非を認めるのは性格的に合わない。

 大人気ないと言われても、認められないところはある。

 恭人は大きくため息を吐くと、病室の方へ歩く向きを変える。けれど少し行ってまた立ち止まり、そこに設置されていた自動販売機で缶コーヒーを一つ買った。一度頭を冷やして冷静にならなければ、普段うまくいくこともうまくいかなくなる。それを、立ち止まることの理由にした。

「まったく、何で俺は……」

 いつの間に自分は、松井那由の世話をするような立場になっているのか。

 そもそも、松井那由とは自分にとっての何なのか。

 コーヒーの苦みが舌の裏にやけに残ってしまっている。あれほど身勝手で周りのことを考えない自己中心的な少女なのに、放っておくことはできない。

 彼女は周囲のことを考えないが、それと同様かそれ以上に自分の保身を考えない。

 いとも簡単に自己を犠牲にする。それを知ってしまっているから、目を離していられない。

 だからこの数日間、柄にもなく彼女の要望に応えながら監視するような真似をしてきた。

 また、彼女は自己中心的とはいっても、なんだかんだで周りを放っておけないことも知っている。ただその放っておけない気持ちのことを那由自身は理解できていない。理解できないまま全てを抱え込もうとする。それもまた、危なっかしくて見ていられない。

 そして本人は無自覚な、内面からくるその危なっかしさに自分は……

 ぐいっとコーヒーの最後の一滴を飲み干し、思考の最後を押しとどめた。この先を、今はまだ考えるべきではない。


「……に、はやく……」

 ふと、廊下の角からセーラー服を着た高校生くらいの少女がふらふらと出てくるのが見えた。彼女は手元のMCCの画面に夢中で恭人の姿など見えていない。

「こら」

 恭人は丁度空になった缶コーヒーの容器で少女の頭をコツンと軽く叩いた。

「うひゃぁ!?」

 それほど強くは叩いていないが、少女は大げさに身を反らした。二つに結んだ黒髪が揺れ、見開かれた大きな瞳が恭人を捉える。

「あ、えっと」

「前を見て歩け。患者にぶつかったらどうする」

 これが患者であれば恭人もこのような対応をしないが、どうも見た目からして見舞人か何かのようで、そうであれば特別優しくする必要もない。少女は素直に「ごめんなさい」と頭を下げ、再びMCCに目を落とした。

「歩きながらゲームか?」

 那由よりわずかに身長の低いその少女に声をかけつつ缶コーヒーの容器をゴミ箱へ投げ入れる。すると少女は言葉に詰まりつつ、

「お兄さん、バイオパンク……って知ってます?」

 と尋ねてきた。

「バイオパンク?」

 恭人は眉間にしわを寄せ一体何のことだと問おうとしたが、やがてどこかで聞いたことのある単語だと気が付く。

 バイオパンクは、近年流行り出した人の五感を引き込む疑似体験型のアプリゲームの中でも、よりリアルを追及した本格的なバトルゲームだと国内で大きな評判を得ている。風の吹く感覚から痛みや痺れ、浮遊感といったものまで疑似的に感じることができ、さらにグラフィックもリアルで一つ一つのパーツが精巧に組み立てられている……というのを、昨日那由から熱く語られたのだ。

 恭人はあまりゲームに興味がない。現実主義というほどではないが、ゲームという虚構に時間をかけるのを無駄に思ってしまう。那由も似たようなものだと思っていたため、ゲームに夢中になっているのを物珍し気に見ていたのだが、どうもゲームをすることというよりは精巧に作られたゲームの機能、プログラムの方に興味を持っていたらしい。あれから、その機能に関しては思う存分堪能できたのだろうか。

「今、そのゲームが人の意識を取り込んでいるってニュースになってて……えっと、この病院にも倒れた人たちがいっぱい運ばれてきていると思うんですけど」

「え?」

 恭人は慌ててネットでバイオパンクと検索した。

 確かに、ゲームをしていたプレイヤーたちが次々と倒れ救急搬送されているとニュースになっていた。確かにすれ違う医療スタッフたちがなんとなく慌ただしそうにしているように感じたが、そんな事件が起きていたとは気づかなかった。普段は周囲の様子を常に気に掛けるようにしていたが、他のことで頭がいっぱいになってしまっていた。

「そんなことは可能なのか?」

 確かに人の脳の片隅を勝手に使って大がかりなシミュレーションを行う悪趣味なプログラムはあったが、たかがゲームが人間の意識を取り込むなど信じられない。

「分かりません。でも……ゲームをプレイしようとすると倒れちゃうはずなのに、対戦だけはいつも通り行われていて……まるで倒れたプレイヤーたちが本当にゲームの中に入っちゃって戦っているみたいだなって」

 少女はMCCの画面を見せて必死に事の重大さを訴えようとする。バトルビデオと書かれたページには、次々と新しいビデオが投稿され続けているようだ。恭人は目の前の少女を頭の上から足元までじっと眺めた。

「……で、お前はどうしてこんなところにいる? 搬送された人間が病棟に運ばれてくる気配はないからそれ関係の見舞客じゃない。腕に患者取違防止のリストバンドも付けていないから当然患者でもない。その制服は桜華女学院高校のセーラー服か……金に困っている可能性もないな。ゲームのことで何か重大な手掛かりをつかんでいるなら警察に行けばいい話。この件で助けを求めるとするならば警察かプログラマーくらいだ。だとすれば何故病棟にいるのか……」

「え……?」

 少女は次々と出てくる言葉に困惑するかのように茫然と恭人を見つめる。

「一体誰に何の助けを求めに来た?」 

 恭人はそれを無視するように、自らが導いた質問を投げかけた。

 身近に昏睡したという人間がいる相談をしたいだけなら、わざわざ病棟まで上がってこない。では何故この都市大学附属病院の本館四階内科病棟にいて、ゲームのことを口にするのか。本当は一つだけ勘づくものがあったが、自分から口にするのは憚られた。だから敢えて尋ねれば、

「松井那由さんという方に……ゲームの犯人を捕まえてもらうために来ました」

 と、密かに予想していた通りの答えが返ってきた。

 この少女がどこの誰だかは分からない。ただ、ゲームのプログラムが暴走していて、それに困っている素振りをし……なおかつこの病院の内科病棟にいるなどというのは、彼女と関係があると推測するのが妥当だった。入院患者の全てを把握している訳ではないが、確率で考えればこんな限られたスペースに助けを求められるようなゲームシステムに長けた人間がそう何人もいるとは思えない。

 彼女と関わりがあるとすれば組織の関係者だろうか。

 恭人はすぐに反応を返さず、慎重に言葉を考えた。

 そんな人間は知らないと言って逃げる手もある。面倒事は避けて通りたい。事件のことを解決するのは普通に考えれば警察のはずで、恭人が首を突っ込む必要もないことだ。それでも、自分は関係ないと言い切ることが今の恭人にはできなかった。

 そもそも松井那由という患者を無病状態で入院させているということが、もう公にされてはまずいことで。

 そう頭の中で言い訳をして、

「どうして那由がここにいることを知っている?」

 と、尋ねることにする。

「それは……その、那由さんのお父さんに聞きました」

「は?」

 那由は孤児院出身だ。親の顔は知らないと言っていた。それに那由をこの病院に入れたのは恭人たちで、外部の人間は関わっていない。

 だからその言葉は嘘だと分かっている。もしくは那由の父を騙る人間が現れこの少女に教えたのかもしれないが。

「あの、那由さんがいる病室を知っているんですか? だったら教えてください」

「……こっちだ」

 まだ心の整理はついていないが、それでも那由が再び面倒事に巻き込まれそうなら止めなければならない。

「それで、お前は一体誰なんだ?」

林道りんどう亜美あみ、桜華女学院高校の二年生です」

 それが本名なのか、纏っている制服が本物なのか疑い出したらキリがないが、一先ずこの少女のことは亜美と呼ぶことにする。

 那由より二つ下だが彼女より胸が大きい。そんなことを言えばどんな反応をされるだろうか。

 

 先ほどまでパソコンのことで言い合いをしていた一人部屋の扉を開ける。しかし、中はもぬけの殻だった。

 トイレに行ったわけではないことは分かる。院内用スリッパは投げ出され、元から履いていたらしい黒いスニーカーが消えている。

 HO2のコードは垂れ、点滴の管もそのまま投げ出されて、先端のカテーテルから零れた液体が小さな水たまりを作っていた。床に点々と血が落ちているのは静脈に繋がっていたカテーテルを強引に抜いたからだろう。針を直接刺すのではなく、針を刺したところにカテーテルという細い管だけを残すタイプの点滴のため、血管を大きく傷つけるようなことはないだろう。しかし、無理に抜けば出血もするし菌が入る原因にもなる。状況が分かる身としては想像しただけで痛い。医者の立場で考えるなら今すぐにでも連れ戻して消毒をしたいと思ってしまう。

「もう、組織に……」

 と、亜美が呟く。

 私物も、恭人が買ってきたテトラ社のノートパソコンも置きっぱなしだが、それでも那由は恭人が告げた通り組織に戻ってしまったのだろう。それだけは確信できた。

「やっぱりお前は組織の関係者か」

「いや、私は……関係者じゃないですけど……でも、組織のことは知っています。那由さんがどんな人かも」

「それを那由の父親から聞いたというのか?」

「そういうことにしておいてください」

 まだ亜美が何を知っているのかは分からないが、少なくとも彼女にとって何かよくないことが起きているのは分かる。では、自分はそれにどう関わるべきか。

「で、お前が天才プログラマーの手を借りてまでして捕まえたい犯人というのはどんな奴なんだ?」

「それが……すっごく大変で……ていうかお兄さん、那由さんと知り合いなんですか?」

 亜美は今更気づいたとばかりに首を傾げる。本来なら病室に案内される前に尋ねているべき質問だ。

「そうだな、知り合いだ」

「じゃあ、那由さんを助けてください」 

 亜美は恭人の言葉を聞いて頭を下げた。彼女の目的はゲームに細工をした犯人を見つけることではなかったのか。

「助けるって……」

「あの犯人の狙いは那由さんだけど……那由さんはそれに気が付いていない。早くしないとあの人は」

「待て、一度落ち着いて整理させろ」

 恭人はベッドに腰掛けると亜美にも椅子に座るように言い、MCCでノートアプリをを開く。

 話の方向性が定まらない少女を相手にするなら、言葉を一つ一つ丁寧に拾って道筋を立ててやらないと埒が明かない。

「お前が誰かは後だ。知っている情報を全部吐け」

 そう言って指で机を叩く。自分の些細な一言が大事に繋がってしまったかもしれない……内心でそう焦りながら。


 ◆   ◆   ◆

 

 恭人が那由の不在に気づく三時間ほど前、彼女は鶴木と共に病院の駐車場まで来ていた。

「見覚えはありますか?」

 不意に鶴木がそう尋ねるため何かと思うが、すぐに質問の意味を理解した。

 二人の前には青色のワンボックスカーが停められている。一見、どこにでもあるごく普通の日本車だ。ナンバープレートも正規のもので、怪しいところなど一切ない。実際、車検も受けている合法的な車だ。

「うん」

 那由は頷いた。懐かしくもなんともない。この車に乗せられたことがつい昨日のように思い出せる。結局ここへ戻ってしまうのだと言う虚しさをひしひしと感じた。

 この車に初めて乗った、まだ背丈が一回りほど小さかった自分を思い出す。自分の手元には何も残らず、抱いているのは困惑と諦め。

 その瞬間から那由の人生は完全に狂ってしまったのだ。

 過去の記憶を重ねながらぼーっと車を眺めていると、助手席の窓がゆっくりと開いた。そして、そこから男が顔を覗かせる。運転席の方からわざわざ身体を伸ばしているため少々無理のある体勢のようだが、それでもその男はにこやかな笑みを絶やさなかった。決して、金田や鶴木のようなわざとらしい笑みではない。屈託のない、犬のような笑みで那由を見ている。

「やっほー、乗って乗って!」

 着崩した白いカッターシャツの上からグレーのパーカーを着た茶髪の男は元気よくそう声をかけた。

 ここまで鶴木と一定以上の緊張感を保ってきた那由は、少しだけ調子を崩されたように感じる。

高塚たかつかそら……」

「はい!」

 思い出すように名前を呟くと、呼ばれたと思ったのか、男が大きな声で返事をする。

 歳は今年で二十歳という、組織の中では那由と最も年齢が近い男だ。ただ、精神年齢はおそらく那由寄りもずっと幼い。組織の中で一番と言ってもいい。

 一見すると、彼はとてもプロジェクトに見合う人物には見えないのだが、ちゃんと実力を伴っており、しっかり役割を与えられるほどには組織に必要とされていた。プログラム面で役に立たないために警察へ潜入捜査に駆り出された男とは格が違う。

 那由は後部の扉から車内へと入った。奥へ詰めると、続くように鶴木が入ってくる。余分なものなど置かれていないごく普通の車内。否、あまりにもシンプルで逆に不安さえ覚えてしまうような車内だった。

 キョロキョロと車内を眺め、車の四隅に四台の監視カメラを見つける。二台は車の外を映しており、もう二台が車内をくまなく映している。死角はない。別にここで暴れようなど考えてはいないが、何となく窮屈に感じられた。監視された生活など、今更どうということはないはずだったが、僅かな空白が自分の緊張感を奪っていたのかもしれない。

 那由は、目立たないよう押し殺すような溜息を吐いた。


「ねえ、那由ちゃん」

 車を発車させた高塚がご機嫌な声で那由に話しかける。組織で那由のことを名前で呼ぶのは彼ともう一人くらいだ。決して舐めているというわけではない。寧ろ、誰よりも那由を慕っているのだ。忠犬のように、純粋に。

 彼のことは昔から苦手だったが、プログラミングの面で非常に役に立つ人材だったため作業効率のことを考えると左遷もしにくかった。

「何?」

「おやつ買ってあるんだけど、シュークリームはイチゴか抹茶どっちがいい?」

「へ……?」

 あまりに無関係な話題を振り出されたため、那由は呆けたような情けない言葉を出してしまった。

 そもそもシュークリームはカスタードクリームを使ったものが一般的だったはずだ。その選択肢がイチゴと抹茶というのがよく分からない。それは百歩譲っていいとしても、やはりこの張りつめた空気の中でする話だろうか。何気なく鶴木を見ると、口元が震えているのが見えた。サングラスがあるため目元は見えないが、どうにか笑いをこらえている様子のようだ。

 高塚天……彼は組織の中でも群を抜く厄介者かもしれない。那由がそう認識して表情をひきつらせていると、ふいに彼が大きくハンドルを切った。

 ミラーに写っている彼の表情は無邪気な笑顔そのもので、ドライブを楽しんでいる子どもの様でもあった。ただ、彼は楽しむためだけにわざわざ道を外れるようにハンドルを切ったわけではない。

 車が自動車専用地下道へと入ってゆく。大通りから細道に入る地味な地下道であるため、道行く人でさえなかなか気が付かない。気づいて入っていったとしても、ただ普通に地下道として通り抜けて、大通りの反対側へ着いてしまうだけだ。

 彼らを乗せた青色の自動車は、飛ぶような勢いで地下道を進み、緩やかなカーブを無視して直進した。普通であれば壁に衝突してしまうところだが、その心配はいらない。車は見事壁をすり抜けて中へ入った。壁、というよりは壁の立体映像なのだが。

 何もない空間に作り出された立体映像はギリギリまで近づいても映像ということが分からない。そこに手を触れようとしてみて、初めて気づくようなレベルだ。コンクリートの質感や光の当たり方、全てが計算され、見事にそこに馴染んでいる。

 この映像に隠されているのが、名前のないプロジェクトが使う秘密通路の入り口だ。

 もし後ろから車がきていたとしても、カーブの途中にあるため、スピードさえ上げればそこを曲がっていっただけに見えてしまう。

 国土交通省には根回ししてあるため、点検などが行われる心配はない。

 あとは隠された道を真っ直ぐに進み、狭まった駐車場に青色の車を停めるだけだ。

 徒歩でビルに向かう場合には、こんな大掛かりな隠し通路は必要ないのだが、自動車は目立つためにあえてこのような隠し方を選んだのだ。それと、ただ単に通路を隠す先端技術を使用したいという組織の趣味もあるだろう。寧ろ後者の方が強いかもしれない。


 車を降り、専用のエレベーターに乗る。どこにでもあるようなエレベーターだが、このエレベーターの行先は一つだけだ。そのため、エレベーター内にボタンは存在しない。扉が閉まると同時に上昇を始めた。

 念には念を入れた秘密の場所だが、それでもよその人間がたどり着いてきたときに対処するため、ここにもまたいくつもの監視カメラが存在している。那由の知る限りこの場所を知ってしまった一般人はまだいないが、おそらく知ってしまえば社会的な居場所を奪われ、永遠に組織に飼われる羽目になってしまうのだろう。それはある意味、那由も同じようなものであるのだが。

「那由ちゃん、シュークリームは……」

「抹茶」

 騒ぐ高塚を黙らせるために一言答え、エレベーターが止まるのを待った。このタイミングもまたよく知ったものだ。

「私の机は……」

「元のままに」

「そう」

 思った通りの鶴木の言葉に息を吐くと、いくつも並んだ扉の一つへと入る。白い廊下に並んだ同じような扉。どことなく、病院や教室に似ている。だから那由は以前、都市大学の医学部研究棟に入ったときにデジャブを感じたのだ。今となってははっきりと分かる。何度行き来した場所か分からない。身体が覚えているとはまさにこのことだと思った。

 扉を開いた先にあるのは、規則正しく並んだ机や、無機質な天井に貼りつけられた蛍光灯や、電子ブラインドが付けられた大きな窓。どれも、欠伸が出るほどに見飽きたものだ。

 部屋の隅にガラクタのように積まれているのは最先端技術を駆使した最新電子機器の数々だ。これは構成員の一人が趣味で集めているものだが、どうも最後に見たときより種類が増えているように思う。使えないものも多いのだから捨てるようにと言ったが、結局その人物は粘って譲らなかった。結局、ガラクタばかりでも見ようによっては面白いから、という理由で容認することにしたのだ。

 一通り部屋を見渡してから、思い出したように自分を待ち構えるように座っている十数人の人間を見る。殆どが男だが、二人ほど女性の姿も見えた。どれも見覚えはある。名前まで覚えていない人間もいるが、それはその程度の人間だったということだ。

 一番隅に座っている男が顎髭を撫でながらにやりと含みのある笑みを見せる。この人間はよく知っている。嫌という程に。

「お帰りなさい、プロジェクト長」

「ただいま、金田」

 那由は細身の髭面の男が差しだす電子パットを受け取り、目を通しながら席に着いた。

 他の構成員とは違う、窓際に隔離された大きめの机だ。ルビー社のパソコンが二台と電子端末が三つ。電子パットは十枚ほど詰まれ、隅には紙で出来た本もある。あまり片付いているとはいえない。

 ただ、その片付いていない状態がそっくりそのまま残されているというのが、なんとも不気味であった。

 ぽすんと僅かに沈む椅子。那由は二台のパソコンを立ち上げ、パスワードを入力した。それと同時に電子端末を操作する。以前データを大幅に消してしまったが、調べものをすることはできる。またアプリを作り直さなければならないと思いながらも、金田に渡された電子パットの内容を理解し、解析し、そして答えを出す。

 時間にして十分程度。那由は脅威の集中力によって通常のプログラマーでは一時間程度、プロジェクトの人間でも早くて三十分はかかるような内容を瞬時にこなしてしまう。

 周囲の人間からすれば、内容を理解するための時間があるように見えない。しかし実際はあらゆることを同時進行で考え、操作しているのだ。その感覚は彼女にしか分からない。

 那由はタンっと大きくエンターキーを鳴らすと、光を宿さない瞳で皆を見つめた。

「依頼主はサイバー犯罪を取り締まる警視庁捜査二課。対象はオンラインゲーム『バイオパンク』。目的はゲームの異常性の解析と異常を起こした犯人捜し。役割はそれぞれのコンピュータに送るから仕事を始めて。役立たずは邪魔だから自信のない人は先に消えるように」

 一息で言いきって冷めた目でモニターを見る。

「それじゃあ、名前のないプロジェクトを始めるよ」

 名前のないプロジェクトを始める……それが全ての合図だ。


 この組織では大きく分けて二種類の仕事がある。個別に行う小さなプロジェクトと、組織を総動員して行う大きなプロジェクトである。この大きなプロジェクトこそがこの組織の神髄であり、目的であり、存在意義である。

 プロジェクト長の那由の指示があれば、個別の小さなプロジェクトは全ていったん中止し、割り振られた仕事をしなければならない。

 名目上とは言われても、彼女がプロジェクト長であるのは変わりがない。彼女の指揮無しではプロジェクトは成り立たないのだ。もっといえば、この仕組みを作った本人が那由であり、元々大きな統制力のなかったこの組織に名前のないプロジェクトと名付けたのもまた那由だった。仕事に関して彼女の右に出る者は存在しない。

 ピンと空気が張りつめ、空調の音さえ聞こえなくなったように感じられる。

 この瞬間ばかりは、はしゃいでいた高塚も息を呑んでおとなしく机に向かった。

 窓の外には無数のビルが背を競うように並んでいる。このビルもその一つで、彼らが占拠している最上階以外は外から簡単に出入りができる普通の商業ビルだ。電子ブラインドの隙間から取り込まれた僅かな風を背中に感じながら、那由はふとここへ入って来たばかりの頃を思い出していた。

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