第1話:我儘
都市大学附属病院の病棟では、朝食は午前九時に出されると決まっている。そして、それが片付けられるのは大体午前十時過ぎ。
この病院の内科病棟は、現在稼働している一般病棟全体の中で最も年季の入ったフロアだったのだが、この病院の医院長であり内科医長でもある彼の父、浪川享志の勝手な要望により、つい先日リフォームされた。
一般的な病院の天井や壁は無機質で白一色のものが多いが、ここの病室は天井の一部に木の板が張られたり、壁にもクリーム色のラインが入っているなど、見る者によっては温かみを感じる仕様になっている。また木の枠で作られた窓から吹き込む初秋の風は、透明な電子ブラインドにより一番心地よいと感じられる量に調節されている。
温度や湿度は常に一定に保たれており、扉もそれを保つために外気を遮断する仕組みになっているが、恭人はこの厚い扉に少々懸念を抱いている。開けるのも面倒であることながら、中にいる患者もなんとなく密閉感を感じてしまうかもしれない。
入院生活ほど患者がストレスを感じる要因になるものはないだろう、というのが彼の考えで、居心地の良さを徹底しなければならないと常々思っている。
いろいろと思うところがあるものの、今日ここへ来たのは父親に文句を言うためではない。慣れた足取りで角にある一人部屋に辿り着くと、軽く扉をノックをした。しかし、返事がない。
何となく中の様子を察しながら肘で扉を開け、それから部屋の状態を確認した。
大学の研修で訪れたため、内科病棟の一人部屋は何度も訪れた事があるが、ここまで散らかった病室はそうそう見ない。
使い捨ての洗顔道具や服やタオルが雑に投げ捨てられ、備え付けのクローゼットの下にはいくつかの紙袋が乱雑に積まれている。自分が言える立場でないのは分かっているが、もう少し整理整頓をしろと言いたい。
ただ、ここある大体のものは、この一人部屋を使う病人のために、恭人が店に出向いて買ってきたものだった。
決して流されているわけではないと言いたい。ある案件のために外に出られなくなった病人に同情しなかったというのは嘘になるが、それでも僅かな同情心だけで物を買い与えるほど彼は優しい性格ではない。
女性に物を貢ぐこともあるにはあるが、それはそれ相応の見返りを求めてのことだ。
彼がこの病室を使う少女に物を買い与えるのには別の理由があった。
「おい、貧乳」
身体的特徴で名前を呼ぶも、黙々とMCCを操作する少女には聞こえていない。彼女は現在イヤフォンを付け、プログラムと五感をリンクさせるタイプのゲームをやっているらしい。だとすれば操作中は簡単にこちら側の声を聞くことはできないだろう。
恭人は改めて少女の姿を見つめた。
黒く艶やかで、肩甲骨より少し下程度に伸ばされた髪を一つにまとめ、黒縁のPC用眼鏡をかけている。服装はブラウス型のグレーのワンピース。そこに、淡い水色をした薄手のパーカーを、袖を通さないまま羽織っている。
腕には小型のHO2を付けており、腕に付けられた管が薬品の入った袋へと繋がっているため、一目で患者だと判断することができる。患者識別用のコードが付いた紙製のリストバンドもちゃんとつけている。しかしながら少女は患者用のベッドではなく、来客用の椅子に座り、スリッパをはいていない素足を抱えるような体勢でゲームに勤しんでいた。
彼女は「名前のないプロジェクト」と呼ばれる、あらゆるネットワークを掌握する裏組織のプロジェクト長をつとめていた天才プログラマー、
大層な肩書を持つが齢は今年で十九歳。見た目の年齢はそれ以下で、体型も幼い。
それでも淡々と端末を操作するその表情は一切の感情を表に出さない無表情で、子どもとは程遠い姿であった。
「おい」
恭人がもう一度呼びかけても返事はない。
「おい、暇人」
彼は呆れた顔でゲームに没頭する那由に近づくと、その柔らかな頬を横に強く引っ張った。
「痛いっ」
ようやく那由は反応を返す。恭人は溜息を吐いて、いったんそれを置くように告げた。
那由も渋々ゲームの画面を落としてイヤフォンを外す。
「言われたもの、買ってきたんだけど」
恭人は手に持っていた重い荷物をベッドの上へ投げ出した。ボスン、と重たい音が鳴る。雑な扱いだが、段ボールと緩衝材で厳重に包装されているため中身にはあまり影響はないだろう。
「ああ……」
那由は僅かに表情を変え、すぐに荷物に飛びついた。次第に口角があがり、テンションが上がってきたのが見て取れる。恭人はそんな那由の表情を久しぶりに見たような気がしていた。もしかしたら「現実」で見たのは初めてかもしれない。
「最新版?」
「勿論」
「高かった?」
「気にするなんて珍しいな」
恭人は息を吐いて、財布を出した。
財布、と銘打ってあるがそれは小型で薄っぺらい電子機器だ。銀行から下ろしてきた手持ち金がデータとして全てここに入っている。
恭人は数字が表示されていた画面を操作して、買い物の履歴を出した。
「お前が今使うMCCや服とかの日用品、洗顔とかの消耗品、それからこのパソコン……併せてざっとこんなもん」
「ああ……余裕」
那由は首をこきりと鳴らし、段ボールを剥ぐ作業に戻った。
「お前、自分の口座に金はあるといっても財布もカードも本人確認するもの全部奴らに取られているんだろ? 本当に大丈夫なのか?」
「大丈夫。いずれ銀行のシステムハックして私の口座から恭人の銀行口座に金を移す」
「それだと結局お前が金を下ろせないだろう」
「まあ……ね」
銀行のシステムをハッキングするという非常識な言葉にはいちいち反応しない。それよりは、金を正規の方法で下ろせていないことが問題だ。
「まあ結局……私があそこへ戻ればいい話なんだけど」
那由はボソリと呟き、ベッドの上に眼鏡を投げ捨てた。度は入っていない。長時間一点を見つめる作業をしても目が疲れない程度の効果を持つ安物の眼鏡だ。
それが危うくベッドから転がり落ちそうになるのも気にせず、再び黙々と包装用の布を取ってゆく。そして、やっとその本体を引き出した時、無言で目をしかめた。
「どういうこと?」
「は?」
無表情、というよりは睨むような表情で恭人を見る。恭人は那由の手の中を再度確認した。
「もしかして……パソコンならなんでもいいと思っている部類でしょ?」
「最新型の、薄型パソコンを買ってきたつもりだけど」
恭人は那由の意思が分からず、とりあえずそう答えた。
キーボードを収納して軽々と持ち運べるタイプのパソコン。渋谷駅前の電子公告板でも散々宣伝をしていたものなのだ。間違えるはずもないと思っている。
しかし、那由は虫でも見るかのような蔑みの表情で恭人を見ていた。
「馬鹿なの?」
ぼそりと低い声で言い放つ。開け放たれた窓から入ってきていた秋風も、この時ばかりは息をひそめたように思われた。
「は?」
唐突な罵りの言葉に恭人は嫌悪を露わにする。それを一度心の底にしまい込み冷静に彼女の言葉を理解しようとするが「馬鹿なの?」という一言に対して他の解釈を見つける方が難しい。
「一体俺のどこが馬鹿なのか分かりやすいように説明してくれますか? 那由さん」
「これ」
恭人が顔をしかめてワザとらしい丁寧な口調で問い掛けるのも気にかけず、那由はノートパソコンの裏面に刻まれている四角いマークを指さした。
「……テトラ社のマークだよな」
「そう、テトラ社のマーク」
テトラ社とは、コンピュータを販売する世界的な二大企業の一つである。まさか、と恭人は目をしかめながら那由を見る。
「ルビー社がいいだとかそんな馬鹿なことを言うんじゃ」
「そっちの方がいいに決まっているでしょ」
当然のことだというように那由は言い放った。ルビー社とは、その二大企業のもう片方である。
「プログラミング系の情報処理の面で優れているといったらルビー社に決まっているでしょ。テトラ社なんて素人向けの安易なハードウェアを作り出して儲けているだけにすぎない。全然使いものにならない。馬鹿じゃないの? そんなことも分からないなんて」
「お前は俺に喧嘩を売ってるのか?」
恭人は那由から一歩下がり、口角を上げた。笑っているのではない。怒りに震えているのだ。恭人が使うパソコンは昔からテトラ社だった。
「あんな使いにくいものをパソコンと呼ぶ方がおかしいんだ。複雑なコンピュータの仕組みを分かりやすくしてくれたのがテトラ社のパソコンだ。パソコンと聞いて思いつくのはそっちしかないだろう」
「へえ。あなたは医者なのにテトラ社のパソコンに甘んじているわけ?」
「薬や症状の表を作り出すにはテトラ社のパソコンの方がやりやすいんだよ」
「そうだね、画面が見やすいからね。でも、それを抽出して今後の資料を導くためのシミュレーションを開始するにはルビー社のパソコンが最適なわけ」
間髪入れずに二大企業のパソコンの特徴を上げる。
テトラ社とルビー社のどちらが優れているかはさておき、那由は自分が望んでいたルビー社のパソコンが届かなかったために憤慨しているらしい。
「MCCはルビー社のものを使っているくせに」
那由は恭人の腕を指さした。
腕にはめられたリング。そこに装着された小型の電子端末、MCC。その特徴的なフォルムは、ルビー社独自のものだった。テトラ社の電子端末は万人受けこそするが、デザインはそれほど凝られていない。そのため若者はデザインを重視してルビー社のMCCを買うことが多い。
「MCCみたいな小型の電子端末はルビー社の方が使い勝手がいいんだ。でも、表やグラフ、文章を作るパソコンは断然テトラ社がいい」
「分かった。恭人がそういう使い方を重視するなら別にいい。でもそれは百歩譲ったとしても、私はプログラミングを行うからルビー社のパソコンがいいの。分かる?」
「そんな要望聞いていなかった」
「言わなくても常識なの。少なくとも組織にいたころは」
会話がヒートアップし、那由の腕に付けられた管が揺れる。
「なら、組織に戻ればいいだろう。お前の個人情報諸々もそこにあるんだからな」
恭人はそんな言い合いをしていたためか、ついそう口走ってしまった。
「な……」
那由が口を開いたまま固まる。そのまま数秒ほど沈黙が部屋を包んだ。
恭人が失言をしたと思った時にはもう遅い。
「うん、そう……だね」
と、那由は小さく呟きながら俯いた。
「出てって」
静かに、しかし強く言い放つその言葉に、恭人は上手く逆らうことができなかった。
その時の那由の表情にも、重苦しい心情にも、今回ばかりは向き合うことができなかった。
◆ ◆ ◆
「はーぁ」
那由はカタカタと指を動かす。散々テトラ社のパソコンを馬鹿にしたが、使えないわけではない。多少プロセスは違うが、プログラミング用の画面を出し、カタカタと文字や数字を打ち込んでゆく。その指に迷いはない。
「よし」
と呟くまで一切止まらずに指を動かし続けた那由は、タンッと大きくエンターキーを鳴らし、パソコンに自分のMCCを接続した。
「動きのパターンは大体把握できたし、道具のデータも取れた。後はシミュレーションシステムを起動させて……マクロ使って同じステージをループさせていれば簡単に素材が溜まる……っと」
那由は電子端末に入れたゲーム、バイオパンクを起動させると、また少しパソコンの画面を操作していく。
すると複雑な式が画面を流れ出し、操作をせずともMCCのゲームの画面が自動的に動き出した。
バイオパンクは五感と連動するタイプのソーシャルゲームの中でもかなりリアリティを追及した質の高いゲームとして評判だ。そのギミックやシステムが気になり、昨日からプレイを始めてみたのだが、これがなかなかに面白い。映像は完全3Dで、操作する人間が見たいと思った方へ視点が勝手に動くようになっている。だからこそ、その場にいるような臨場感を味わえるのだが、臨場感を語るならそれだけではない。歩けば風が頬を撫でるような感覚がするし、跳びあがれば浮遊感がある。殴られれば相応の痛みがあり、血の臭いまで感じた。MCCの電波が触感に随時作用しているのだ。イヤフォンを付けて一度ゲームを始めれば、その世界にのめり込んでしまい、外から声をかけられても簡単には気づけない。このゲームにはそれ程のリアリティがあった。
オンライン対戦が主流だが、一応シナリオモードというのもあり、身体強化が自由に行える主人公が生物兵器を作る悪の組織と戦う話が展開されている。このシナリオモードのストーリーをクリアする度に自分や装備の強化に必要な素材が手に入るので、課金をせずに強くなるにはストーリーを何度も周回する必要がある。
那由は今コンピュータで簡単なプログラムを組み、操作しなくても自動で周回が行えるように細工をした。昨晩から頭の中で考えていた構想だ。慣れないパソコンだが十分もあれば易々と実行に移せる。
「ゲームを作るのも面白いかもね」
那由はそう言ってベッドに仰向けになった。
久々に指を動かせたのはやはり楽しい。けれど、それだけの生活に甘んじていてはいいわけではないことは分かっている。
腕に付けられた管が煩わしい。本当はもう付ける必要のないものだった。
そもそも、那由はもう入院する必要もないのだ。
一時は原因不明の脳波の停止の原因を探るとかで脳外科医に掴まったが、結局分からないまま内科に引きずり込まれた。
恭人が実の父親である内科医長の浪川敦志にどう説明をしてくれたのかは分からないが、彼は那由の行き場が見つかるまで理由を付けて病院に留まらせると言ってくれた。HO2システムと外されないままの点滴はそのカモフラージュである。血液に流し込んでいるのはただの生理食塩水のようなものらしい。
あまり病院内をうろつくと流石に仮病がばれる危険性があるため、病室から殆ど出られない。そのため那由は恭人を遣いに出し、様々な生活用品を手に入れた。生活に必要のない雑貨もいろいろと揃えてもらった。
彼が文句を言いつつ那由に従ってくれていたのは、そのカモフラージュの協力のためだと思っている。自分から話を持ち出した以上、途中で見捨てることはできなかったのだろう。が、そんな彼に組織へ戻れと言われてしまった以上、もうどうしようもない。
那由は腕に付けられたHO2システムと、血管に刺さっている点滴の管を強引に引っこ抜いた。流石に正規の手順を踏んでいないためか血が溢れてくるが、近くにあったティッシュを何枚か手に取って雑に傷口を押さえる。
「組織ねえ……」
那由はそっと首筋に手を添えながら上を向いた。
自分が昔所属していた組織……通称名前のないプロジェクト。
それは、孤児院にいた那由をそこから追い出し、プログラマーとして強引に彼女の居場所を作った非合法的な組織だ。
彼らは法に背くようなプログラムも平気で作り売り出す。自分たちの作ったプログラムに対抗するようなプログラムを作ることもある。
例えば犯罪者用に作った逃走シミュレーションソフトとそれに対抗するため警察用に作った追跡シミュレーションソフト。この相反するソフトを同じ組織が作ったと言うのは裏組織の中の笑い話だ。
彼らは自分が作ったプログラムにおける責任は一切負わない。自分のプログラムが引き起こす犠牲は特に考えない。那由も同じような考えを持ち、その組織に加担していた。名目上はプロジェクト長などという優れた肩書きを持っていたが、それらしいことをしたとは思っていないし、それ相応の威厳があるとは到底思えなかった。
ついこの間は半殺しにされ、脳波の停止まで追い詰められた。それを全く引きずっていないといったら、笑えるくらいに大きな嘘になる。事実、そこまでしてしまう組織が怖いからこそ、那由は病院に閉じこもっていたのだ。
「都合のいい奴ら」
一度は組織を追われた。それなのに、利用をし終えたらプロジェクト長として組織に戻ってくるようにと言ってくる。普通だったらそんな話には乗らない。けれど、実際彼らが那由を必要とする以上、彼女の居場所はそこにしかない。
そうなるように、初めから仕組まれている。
「はーぁ」
那由は再び大きな溜息を吐いた。
画面を見れば、武器を強化するには十分な資材が集まっていた。ひとまずここでプログラムを停止させる。
「後はまた今度でいいか」
腕の出血は止まっていないが、大した痛みでもないとパーカーを羽織って隠す。
システムが気になり興味本位で始めてみたゲームだが、対戦モードはなかなかハマるものがあった。
機械の操作は苦手で格闘ゲームには手を出していなかったが、頭を使えば然程大きな動作をすることなく勝てるのは面白い。自分の名前をもじった1060という適当なプレイヤーネームで昨日からプレイを始め、もう上位のレート戦に食い込むことができたのは少し自慢だ。
身体を起こし、一人部屋を出る。ずっと部屋に閉じこもっていたため随分と身体が鈍ってしまった。伸びをすると関節が音を立てる。それよりも、足元が若干覚束ない方が問題かもしれない。ゲームの中では激しく動いていても、現実に反映される訳ではないのだ。同時にゲームの中で傷ついても自身の身体が傷つく訳ではない。だから、攻撃による痛みを電波を通して疑似的に感じても怯むことは一切なかった。
ふと、クローゼットの下に並べられた紙袋たちを見る。
「ま、お金は払うし」
買ってもらった服を置いていくのは勿体ないような気がするが、組織に戻れば自分の服をはじめ私物が全て戻ってくる。
結局、それらを手にすることなく、那由は病室の扉を閉めた。
妙に小綺麗な内科の病棟を通り過ぎ、ひとまず内科医の控室でも探そうと思ったが、あまり病棟の方に出ていなかったせいか自分がどこにいるのかさっぱり分からない。案内表示を見ても患者に必要な情報しか乗っておらず、スタッフの控室のことなど分からなかった。暫く歩いてみると、今度は自分の病室がどこにあるかさえ分からなくなってしまい埒が明かない。病院という建物内ではMCCの地図アプリだって役に立たないというのだからもどかしかった。
主治医に何も言わず勝手に抜け出すのは流石に悪いと思ったが、最悪恭人が話をつけてくれるだろうか。
諦めてエレベーターを使って一階に降りると、そこは何故か人で溢れていた。
処置室と書かれた部屋の前に大勢の医者や看護師が集まり、ストレッチャーに乗せられた者たちが外から次々に運ばれてくるような状態だ。年齢は中高生くらいの子どもが多いだろうか。付添人だけでなく、別件で病院に来たはずの患者たちも野次馬のように集まっている。
あの時の仮想現実の中ほどではないにしろ、混乱状態だ。
「なにあれ」
一体何が起こっているのか。那由は遠くから人だかりを見つめつつMCCを操作してインターネットを開いた。
そして、最近発生したニュースについて検索する……までもなく、検索サイトの一番上に彼女が求める情報ががしっかりと書かれていた。
『相次ぐ昏睡症状』
現在、人々が突然意識を失い倒れてしまう事件が次々と発生しているという。
その理由は不明とのことだが、SNSを覗いてみると、患者たちは皆バイオパンクというゲームをやっていたのだと騒がれていた。さらに、バイオパンクに意識が取り込まれてしまったのではないか、とも。
「バイオパンクか……」
視覚や聴覚だけでなく、電波を通して嗅覚や触覚にも疑似的な感覚をもたらすため他人から声をかけられてもすぐには反応できないあのゲーム。そうやってゲームにのめり込んだプレイヤーたちの意識がゲームに飲み込まれたのではないかと、そんな噂が広がっているようだ。
SNSで個人が発信する情報など信じるべきではないことは分かっている。けれどなんとなく、その仮説は正しいのではないかと思えた。
仮想現実ではないにしろ、あのゲームには痛覚や浮遊感など人間のあらゆる感覚を引っ張れるだけのリアリティがある。それに意識を全てもっていかれてしまった人間がいてもおかしくない。
那由は次々と集まってくる白衣の集団を眺めていたが、ここから離れることを選んだ。人が集まる場所は見ていていい気がしない。
そんな風に思っていると……ぞくり、と背中に氷でもいれたかのような寒気が走った。
今まで記憶の隅に追いやっていた「嫌な感覚」がじわじわと身体を這い上がってくる。
「お困りですか? プロジェクト長」
そして、聞き覚えのある声が聞こえた。
振り返ってはだめだ、と那由は思った。振り返ればもう後戻りはきかない。決意はして病室を出てきたものの、あまりにも接触が早い。おそらく、もう待ち構えられていたのだと察する。
「うん、ちょっと自分の病室が分からなくなっちゃってね」
那由は振り返らないまま答えた。声が引きつりそうになるのをなんとか堪える。
「必要ありませんよ。プロジェクト長の退院手続きならもうこちらで済ませましたから」
耳元に吹き込まれるような息と、断定的な言葉。既に根回しは終わっていたらしい。丁度、あの頃と同じように。
「……そう。ありがとう、
那由はその声の主の名を呼んでゆっくりと振り返った。
見知った顔がそこにある。
相変わらず室内なのにサングラスをかけており、まるで不審者のようだ。彼の名前は鶴木
孤児院にいた那由の才能を見出し、名前のないプロジェクトに引きずり込んだのはこの男だ。彼はプロジェクトの中の勧誘担当という仕事を担っており、あの手この手で何人もの優秀な人材を組織へと送り込んだ。那由はその手口を何パターンか知っているが、中でも彼は強制的に相手の居場所を失くして引きずり込むことが得意だ。
那由が孤児院にいたという記録を消し、彼女の居場所を奪ったのも彼だった。そして今回は入院していた記録を消し、病院さえ退院扱いにしてしまうらしい。
一息ついた後、那由の顔からすっと表情が消えた。
能面のように無表情になり、思った以上に心の中が冷えていく。
真っ黒に染められていた時代の自分が、今の自分を上塗りしてゆくことを感じた。それは、居場所を奪われた所為なのか、この部下に出会った所為なのか。
「で、要件は?」
「話が早くて助かります」
那由はふっと小さく息を吐き、目を細めて鶴木を見つめた。組織が自分をわざわざ呼び寄せるのは、自分に何かをしてほしい時だと決まっている。不必要な時は放置をし、必要な時だけ駆り出す。那由はプロジェクト長でありながら、そんな都合のいい使われ方をしていた。
どこかの刑事の言葉を借りるなら……結局彼女は表のリーダーにすぎないのだ。実際は参謀役の金田や勧誘担当の鶴木が組織を仕切っている。
「バイオパンクというゲームを御存じですか?」
「まあ、暇つぶしがてらにやっていたよ。今回の昏睡事件とも関わりがあるんだって?」
「やはり話が早い。それに関わることですよ。まあ続きは……」
鶴木はそこで話を切り、わざとらしく左右を見渡した。周囲は相変わらず騒然としているのに、自分たちの周りだけは結界でも張られているかのように誰の視線も入ってこない。
「続きは、オフィスで」
「……分かった」
那由は左手でそっと首筋に触れた。やはりそこには一切の表情がない。ただ鶴木や金田が言った言葉を理解し、言われたことをし、言われた通りに動く。プロジェクトにいる以上、そうするしかなかった。
午後十一時過ぎ。恭人と言い合いをしてわずか一時間。
那由は都市大学附属病院の病棟から姿を消した。
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