エピローグ

 那由が目を覚ますと、すぐに小刻みな電子音が頭に響いた。

 身体を起こすと腹部に鋭い痛みが響いたが、やがて少しずつ和らいで、今の状況を把握してゆく。

 寝ていた場所はベッドの上。頭の位置を上げるため以外の目的のない、寝心地の悪い枕。薄っぺらいシーツにかけ布団。真っ白な天井にはいくつかのLED照明がつけられているが、明かりは灯っていない。代わりに電子ブラインドの隙間から陽の光が舞い込んでいる。

 自分の左手にはHO2システムのコードと点滴のチューブが取り付けられ、ベッドサイドに置かれた画面には体温や心拍数を表わす線が表示されていた。

 那由は画面から目を離し再び部屋を眺める。純正のHO2システムがあることから、ここが病院であることは間違いないだろう。入院をしたことはないが、このシステムの制作には一枚噛んでいる。そんなことを考えながら順番に情報を整理していく。

 ベッドは一つしかないことから個室か……あるいは集中治療室のようなものかもしれない。分厚い扉の向こうが見えない限りそれは知りようがない。

 ここはどこなのかもう少し詳しい情報を知りたかったが、コードやチューブのせいでベッドから立ち上がるのも難しいようで、ぼんやりと白い天井を見つめた。

「えーっと……なんかいろいろ記憶が飛んでいた気がする」

 呟いて腹部を見る。自分の記憶が正しければ、確かプロジェクトメンバーの金田に刺されたはずだ。その後病院に運ばれたのだろう。傷口は塞がってるようだが、ではこの大がかりな装置はなんだろう。単なる傷を塞ぐための治療ではなさそうだ。

「思考のシミュレーションシステムを持ちだして逃げようとして金田にまんまとやられて刺されて……病院に運ばれて……それから……」 

 そこからの記憶が曖昧だ。ただ、自分が誰であるかは理解できる。

「松井那由、十八歳、AB型……誕生日は九月十八日……名前のないプロジェクトのプロジェクト長……」

 それでも何か重大なことを忘れているような気がしてならない。那由はいつもの癖で左手で首元を触ろうとしてチューブに邪魔をされ、不快な顔をした。すると丁度その時扉がノックされ、やがて看護師が入って来る。

「あ、目が覚めたのね!」

「え……」

 若い看護師は困惑する那由を他所に嬉々とした表情で「先生を呼んでくるわ」と駆けていく。

 その後、脳神経外科医がやってきて脳波が止まってしまったこと、そしてそれを電気ショックを基にした治療によって回復させたことを説明した。

 止まってしまった脳波は即座に対応すれば元に戻る。昔は後遺症を残さずに脳の動きを回復する確率が高くなかったが、現在の技術ではほぼ百パーセント通常通りに戻せるといっていい。問題は対処の速さだが、外科手術を終えたばかりの那由の身体をHO2システムに繋いでいたおかげで情報の伝達も早く、すぐに医者が駆けつけられたらしい。

 その後いくつか検査を受け、点滴のチューブが外されると、車いすでなら病院内を出歩いていいという許可が下りた。


 しかし、那由は何かが腑に落ちない。腹部を刺され運ばれて助かったところまでは分かる。しかし一体どこで脳波が止まってしまうようなことが起きたのか。脳について考えていると、自然に自分の作ったシミュレーションシステムのことについて思い出した。組織の者たちはあれを実行したはずだ。それをどうしたのか、あれは無事に終わったのか。それとも未だに皆の脳の片隅を繋いで実行中なのか。

 車いすは手元のリモコンを使って自由に移動させられるタイプのものだったが、こういった機械を物理的に操作することが不得意である那由には少々難しい。プログラムの世界なら誰にも負けないが、手先の器用さにおいては組織どころか一般社会においても下位である。

 こんなことに手を煩わせるくらいなら、と車輪部分を手で動かして進むという原始的な方法を取る。勢いよく進めすぎると軽量合金と床が擦れて何かが削れるような音がした。これが不良品だったということにしておく。

 それはさておき、どうしたものか。

 自分のMCCは何故か部屋になく、那由は今、非常に自分の力を発揮できない状態だった。何か電子端末があれば那由にできないことはないと言われるが、逆に電子端末がなければ彼女はあまりにも非力だ。

 ガタガタと車いすを進めつつ頭を悩ませていると、目の前に黒い服を着た男が現れた。

 急に現れたその男は足を揃え、直立不動の状態で車いすが進んでくるのを避けようとしない。そして、

「プロジェクト長」

 と一言言い放った。

 その姿と呼び方に一瞬、自分を刺した金田の姿がよぎったが、それとはまた違う男だった。室内なのにサングラスをかけた、聴衆の面前で自分は不審ですと主張しているような男だ。彼のこともまた知っている。

「……鶴木、どうしたの?」

 彼が自分の前に現れたのであれば内容は大体決まっていると思いつつ声をかけた。すると相手もそんな那由の推測を予想していたようで、

「お察しの通り、勧誘に」

 と小さく告げて薄っすらと笑った。目も見えないその口元だけの動きがどうにも気持ち悪い。

「シミュレーションは終わったの?」

「はい。それは勿論無事に。これに目を通してください。気が向いたらご連絡くださいね」

「連絡しないとまた来るくせに」

 その言葉には何も答えず、男は去っていった。

 後姿もまた性能の悪いアンドロイドのようで気持ち悪い。

 彼もまたプロジェクトにおいて、那由の名目上の部下である鶴木という男だった。彼は勧誘担当だ。嫌な手口を使って使える人材を組織に連れ込む。那由もまた、孤児院から無理やり追い出すという手口で組織に引き込まれた。

 那由は組織を裏切り逃げた。組織の参謀は彼女を刺した。それでも、彼らは結局那由を必要とするらしい。そもそも組織の大半の人間は金田の行動や実行内容を知らないだろうが。

 那由はふっと息を吐き、一番近くにあった休憩所まで車いすで移動すると、そこの隅で受け取った封筒の封を開いた。メールにしなかったのは、紙媒体はここまで役に立つと告げる皮肉を継続しているためか。それとも那由が現在電子端末の類を持っていないのを知っているためか。

 推測は置いておき、長々と連なる文章を眺め……やがて息を飲んだ。

 そこに書かれていることは、シュミレーターが計測したデータとそれから導き出される簡易的な資料、それからシステムの終了の方法についてだった。

 その観測結果の方はともかくとして、終了の仕方があまりにも非人道的だった。

「私の脳を中心に人々の意識をリンクさせて……それで私の脳波停止によってシステムを強制終了させた……ってこと?」

 手紙に書かれた内容を短く要約すればそのようなことだった。冷や汗が流れる。

 自分は危うく死ぬところだったのだ。否、それはないのかもしれない。病院にいる以上HO2システムと繋がっていることはほぼ確実で、即座の対応ができる。そのため脳波が止まってもほぼ何の問題もなかった。

 裏で組織を操る金田はそこまで読んでいたのかもしれない。

 システムの中で誰と出会い何をしたのか、どんな会話をしたのかは、機械の観測結果だけでは分からない。年齢や性別や職業などの属性ごとに行動や感情が点数化され、数値として残るだけ。個を特定することもできない。また、シミュレーション中のことは人間の脳にとっては夢のようなものなので、那由の頭の中にはもう残っていない。けれどおそらく金田はまた厭らしくにやにやと笑っていたのだろうと推測できた。あの髭面を思い出すと吐き気がする。

 自分を組織に勧誘した勧誘専門の鶴木も苦手だが、裏で那由を縛り付ける金田は最も苦手な人間であり、今回刺されたことでさらに苦手の度合いが増した。向こうで会話をしたということすら考えたくない。

 そもそも自分は病院で眠っていたのだ。誰かと何かを話すことなく一方的に殺された可能性もあるが……

「まあ、いいや」

 手紙の最後にはまた組織に戻ってこないかという類の文章が書かれていた。

 那由を一度排除して利用しておいてなお、彼女の力を搾取したいようだ。

 しかし、那由の方もまたあの組織くらいしか居場所がないことも確かである。

 そう考えてどこか……頭の中のどこかでひっかかるものがあった。大事な何かを忘れているような、不思議な感覚だ。

「あー最悪」

 この気持ち悪い感覚も全ては自分が作ったプログラムのせいなのだと考えると虚しさは加速する。

 手紙を破りゴミ箱へ放り投げると、ゴミ箱の中で機械音がした。おそらく中でごみを砕いているのだろう。ゴミ箱とシュレッダーが合わさったタイプのゴミ箱は、こういう施設内では珍しくない。

 振り替えることもなく車いすを動かし、周囲も見ないで角を曲がる。

 そうして感情に身を任せて強引に進もうとしたせいか、対面から真っ直ぐ歩いてきた者に危うくぶつかりそうになった。

「ごめんなさ……い」

 言葉を止めたのは躊躇いのためだ。

「いや、こちらこそ患者さんにぶつかりそうになるような真似……を」

 相手も言葉を止める。そして、暫く那由を見つめていた。那由も同様相手の男を見つめる。

 理由も分からないまま、ただこの男が気になった。

 茶髪で眼鏡をかけた、身長の高い男。着ている白衣には研修という名札がついている。中に着込んだ黒いシャツはよれよれになっているが、それをうまく着こなしているところが、端正な顔立ちも相まって女子に好かれるのだろう。

 那由はいつもの癖で、左手で首元を触った。彼は一体何者かを考える。おそらく全く知らない人間ではない。けれど組織の人間や孤児院の関係者とは思えない。それに相手もまた、那由のことをまるで知っているかのように見下ろしている。

「那由」

 唐突に自分の名前を呼ばれて再び呆然とする。やはり彼は知り合いなのか。だとすればいつ、どこで会った? 

「松井那由……そうだな、得意分野はプログラミング。特にデータを食すウイルスを作ることが自慢」

 また、当てられた。一般人なら知る由も無い彼女オリジナルのウイルスについてまで。たじろぐ那由の表情を、その男はまじまじと観察する。

「あたりか……だとすればあの記憶は正しい」

「えーっと……」

 那由の表情から自身が発した言葉が正解だと読み解く洞察力。何かを考える利発そうな表情。自分もこの男を知っているのに……この都市大学付属病院で研修を行う「学生」を知っているのに……あと少しのところで出てこない。  

 必死に考えていると、相手は那由の視線に合わせるように屈んだ。急に目の前に現れた端正な顔にどう向き合えばいいのか分からず顔をそむけようとすると、ふいに両頬を横に引っ張られる。

「いひゃいっ」

「変な顔」

「なっ」

 ぐいぐいと頬を引っ張られて、笑われる。突然なんてことをするんだと怒りたくもなるが、

「現実でも相変わらず貧乳だなあ」

 と馬鹿にする声で、夢のようなおぼろげな記憶が徐々に蘇ってくる。

 渋谷駅から始まり、記憶喪失、図書館、地震、混乱、病院、警察……そして、恐怖。

 まだはっきりとしている訳ではないが、夢のようで夢ではない確かな記憶が、脳内から引っ張り出される。

 記憶がない中混乱した街を潜り抜けるにあたり、ずっと一緒にいた人間がいた。口の悪く、性格も決していいとは言えないが、自分を最期まで支えてくれた人がいた。

「恭人……」

「今気がついたのかよ」

 呆れた顔で浪川恭人は笑った。どうやら那由より先に思い出して今の行動に至ったらしい。

 引っ張られて赤くなってしまったであろう頬に触れて何か文句を言おうとするが出てこない。

 一度に記憶が戻ってき過ぎて処理が追い付かない。

「どうして分かったの?」

 自分は頬を引っ張られてやっと思い出したが、相手はそれより先に那由のことが分かったという。その理由について尋ねると、恭人は深くため息をついた。

「ショックの度合いかな」

「ショック……?」

「先に自分で命を絶った奴とそれを近くで救えなかった奴、どちらの記憶が鮮明かなんて説明しなくても分かりそうだけど」

 恭人は目の前で那由が刃物を腹に突き刺すのを見ていた。余程の恐怖だったに違いない。

「……ごめん」

「いいよ。今は脳波が止まった原因でも検査中?」

「流石未来の医者」

 那由は項垂れた。まさか彼と再会するなんて、そしてこんな風にシミュレーションシステムの中の記憶を蘇らせるだなんて思いもしなかった。彼には多少は申し訳ないことをしたし、そもそもあの時はもう会えないと踏んでいたから、今更彼とどう関わればいいのかも分からない。

「根回ししようか?」

「え?」

「脳について調べまくられて最終的に『思考のシミュレーション』のことについてバレると大変なんじゃない?」

 確かにそうだ。人の脳に干渉するのが危険なのは勿論のこと、それを行える機器が存在することや非合法組織から外注で手に入れたこともバレてはならない。さらに仮想現実の風景を現実に促すようにするためあらゆる監視カメラをジャックしたし、個人情報もデータとして入手している。どう考えても、全て表に出てはいけないことだった。

「できるの?」

「一応医院長の息子だし。あの適当親父なら適当に理由を付ければなんとかなる」

 それならば、頼ってもよさそうだ。

「なんか借りばかりつくっちゃうな……」

 那由の声が小さくなる。現実で出会って早々一方的に世話になるのは気が引ける。そもそもお互いが相互利用の約束をしていたはずだ。

「私にできることはある?」

「お前にできること……んー……」

 恭人は暫し上を向いて考え、そしてにっこりと満面の笑みを浮かべた。

「思いつかないから、思いつくまで側にいろ」

「命令された……」

「側にいなさい」

「変わらないよ」

 那由は再び俯き、今回ばかりは彼に勝てないと悟った。否、いつまでたっても彼には勝てないのかもしれない。

「そうだ、私も恭人に言いたいことがあって」

 那由が真剣な顔をし、顔を赤らめたことで恭人も真顔になる。その後の言葉を予測し、そして身構えた。

 那由は暫し口をもごもごと動かし、目の前の人物にしか聞こえないくらい小さな声で

「ありがとう」

 と口にした。

「え?」

「いろいろと……問題を解決するときに協力してくれたり、追い詰められた時に精神的に救ってくれたりしたこと……そのことに感謝の気持ちを伝えたくて。それは私をお母さんに重ねていたからこそかと思ったけど、私個人を見て助けてくれていたって知ったときは嬉しかったから。ちゃんとお礼を言いたかったのに、言えてなくて気持ち悪い感覚だった」

 あまり人に感謝の気持ちなど抱いたことがないためもやもやとしていたが、やっと伝えることができた。張りつめた空気を溶かすかのように安堵の溜息をもらす。

 それを見た恭人はきょとんと目を丸くし、やがて吹き出した。

「……何笑っているの」

「いやあ、お前が感謝の気持ちを言うなんてさ。これも幻覚? 仮想現実? そんな感じじゃないだろうな」

「失礼だね!」

「おいおい、車椅子に乗ったまま暴れるな」

 口げんかはやがて薄れ、お互い最後は仕方なさそうに笑い合う。

「じゃあ、まあ手配しておくから今日はこの辺で。あ、連絡先渡しておこうか?」

「うん……といいたいところだけど私のMCCここにないんだよね……多分手術の時に回収されていると思うし、ついでにそれも用意しておいてほしい。232号室にいるから」

「分かった」

 そんな会話を最後に別々の方向へと進んでゆく。那由は自分のもやもやとした要件を告げられたことですっきりとしたためか、悠々と車いすで廊下を進んでいった。だから、気が付かなかった。彼女とは反対方向へ進む恭人が一言、

「期待して損した」

 と少しだけ残念そうに呟いたことを。  

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