第10話:真実

 いつかの記憶。

「プロジェクト長、警察からの依頼だ」

「警察?」 

 那由が顔を上げると、金田が机に電子パットを置いた。ビルのワンフロアを使ったオフィスのような空間。モニターが設置された机が並べられ、二十人ほどの人間が黙々と作業をしている。那由は、彼らの動きがよく見える、一番窓側の端に座っていた。プロジェクト長という肩書き故か、彼女が特殊であるからか、一人だけ机が離れて設置されている。その代わり面積が広く、様々な私物が置くことが可能だ。因みにそこに積まれた大半はコンピュータグラフィック関連の書物と大量のメモリチップだった。書物の中には図書館で借りたものも混じっている。

「公的機関から依頼がくるだなんてどういう風の吹き回し?」

 そう言いながら情報が書かれた電子パットを手に取りスライドさせながらざっと目を通す。

 犯罪者に出回っている逃走用シミュレーションソフト。それを上回る追跡用シミュレーションソフトを作ってほしいとの依頼だった。なかなか骨の折れそうな仕事だと思いながら膨大な量の文章を集中して読み進める。故に、資料を読んでいる間金田がにやりと笑ったことは気づけなかった。

「なるほどね」

「できるか?」

「うん、勿論」

 カタカタとキーボードを打ち一つのプログラムを開く。

「逃走用シミュレーションソフトを作ったのも私なんだから」

 防犯のための警備ソフトを作ったこともある。一般市民が利用できるような体調管理ソフトや栄養バランス管理ソフトも作ったことがある。病院で役立たせるHO2システムの一端を担ったこともある。一方で逃走用シミュレーションソフトや催眠ソフトといった犯罪を助長するようなソフトを作ったことがある。

 名前のないプロジェクト。それは他の追随を許さないような高度なシステム、ソフトを作り上げ他の機関に流す知られざる組織だ。優れたプログラミング技術を持つ者だけを集めた社会の中の裏組織。依頼されれば悪にも善にもなる。そもそも、善悪の区別などどうでもいい、そんな組織だった。

 松井那由はこの名前のないプロジェクトのプロジェクト長だった。

 彼女は組織の中で一番若い。しかしながら、一番技術があった。普段はそれぞれが細々とした依頼をこなすが、大きな依頼が来た際は彼女が作業計画を立て、全員に仕事を振って「名前のないプロジェクト」を始める。実際は彼女一人で大部分の作業を賄っているが。

 一方金田は外部から依頼を受けたり違法な行為を警察から誤魔化す参謀のような役割を持っていた。一応那由の部下ということになっているが、この組織の中での本当の権力者は金田であり、那由もそれは十分に理解していた。

「期待しているぞ。今度は人の役に立つソフトだ」

「役に……」

「社会に見捨てられたお前が唯一人の役に立てるのはこの組織の中だけだ」

 さらに、プロジェクト長である那由をこの組織に縛り付けるのもまた、彼の重大な役目であった。

「別に能無し一般人の役に立ちたいと思った事はないよ」

 冷たい目をしてそう告げて、小さく溜息を吐く。

「でも、課された仕事はやらなくちゃね。それくらいしか私の存在価値はないんだから」

 那由はちらりとコンピュータグラフィックについて書かれた本の山を見た。

 本当にやりたいことと、仕事は別のものだ。

「頑張るよ」

 首元に左手を添えながら、無表情でそう呟いた。

 そんな、いつかの記憶。


「う……ん?」

 那由が目を開けると、まず白い天井が見えた。ゆっくりと身体を起こすと無意識に首元に左手を添える。

 並べられた机と、そこに置かれた電子モニター。見たことのある景色だ。次第に頭が働いてくる。

「お、気が付いた」

 見渡していると、椅子に座りせんべいを頬張っていた男が那由に目を向け笑った。

「恭人のお父さん……」

 この病院の医院長であり内科医。そして恭人の父親である浪川敦志。もういい年だろうに、白衣を着崩した格好がどうにも似合っている。恭人とは流石親子といったところだ。ボロボロとせんべいを食べこぼしているところは流石にかっこ悪いが。

 部屋全体を見渡すと、昼間来た内科の控え室であることはすぐに分かった。自分が寝ていたのは部屋の隅に置いてあるソファーのようだ。一体何故ここで眠っていたのか。少しずつ記憶を繋げてゆく。

「ああ、那由ちゃん命を狙われているっぽかったしちょっと別室で隔離」

 敦志にそう言われてやっと全てが繋がった。

 自分とそっくりな患者が殺され、自分も殺されそうになったその時のこと。

 彼が恭人からどこまで聞いたのかは分からないが、自分の名前や狙われていること自体は簡潔に伝わっていると考えてよさそうだ。

「体調はどう? 顔色はまだ悪いみたいだけど」

 一通り診察はされたのかもしれない。見ると自分の服は少しはだけている。

「診察ついでに一応脈拍と脳波を調べさせてもらった。HO2は使えないけど、ネットワークに接続する必要がない旧式の機械を引っ張り出せばなんとかいけたからね。夢でも見ていたのか脳波の動きは活発だったよ。つまり那由ちゃんは医学上普通の人間だと断定できる」

「知っている」

 それは、那由自身が一番よく分かっている。

 この状況を誰よりもよく分かっている。

「私、どれくらい寝ていたの?」

 正確には気を失っていたと言う方が正しいのだが、那由は眠っていただけだということにした。気を失ったとなっては少々格好が悪い。

 おもむろに窓の外を見る。空は赤い。まだ夕日が出ている。それならば、それほど時間は立っていないということだろうか。

「ああ、あれはあてにできないよ」

 そう言って敦志は時計を出した。アナログ式の文字盤が付いた懐中時計だ。随分とアンティークな品物を持っている。

「これも、止まっている。そして、天体の動きも止まっている」

「え?」

「本当はもう五時間くらいは経っていると思うんだけどね」

 五時間経っても、夕日は沈まない。ネットワークは関係がないはずのアナログ時計が動かない。

「時間が止まっている……とでも?」

「体感的にはそう思わざるを得ない……街はより一層パニック状態だねー」

 それにも関わらず敦志は落ち着いている。彼の人柄故だろうか。

「まるでゲームのバグみたい……ってね」

「バグ……」

 それは金田が言った言葉とも重なる。自分の存在がバグだとすれば、時が止まったのもまたバグ。

「那由ちゃんは、消えていた記憶が戻ったんだって?」

「うん、全部戻った」

 嫌な記憶も全て、自分の元へ帰ってきた。

「その上、この不可解な現象についても分かっているみたいだね」

「まあね……大体私の責任だから」

 最後の言葉は少しだけ小さく告げる。

「でも、もう大丈夫。全部終わらせる」

 那由は、自分に言い聞かせるためにもそう強く宣言した。


「やっぱり似ているなあ」

 ふと、那由を見ていた敦志が呟いた。せんべいは食べ終えたのか、手に着いたカスをその場にぱっぱと払い那由に向き直る。

「え?」

「那由ちゃんは結ちゃんに似ている」

 結ちゃんとは、彼の亡くなった妻であり、恭人の母親の名前だったはずだ。

 似ているとは、どういうことだろう。

「私、あなたたち親子の好みとはかけ離れているって話だったけど」

 主に胸囲の部分が好みではなかったはずだ。

「いや、結ちゃんの胸もぺったんこだったよ。流石に妻になる女性はね、胸の大きさで決めたりはしない」

 女性を見てすぐに胸の話を始めるような男でも、そこはしっかりとしているらしい。那由には少々意外だった。

「まあ、見た目の問題だけじゃなくて、中身の話。結ちゃんも、自分の中にしっかりと芯の通った人だった。言いたいことはビシバシ言う。俺や恭ちゃんが何かしようものならきっちりお説教されちゃった。それでいて、自分の悩みは一人で抱え込んで誰にも話さない」

 敦志の顔は惚気るような表情から一転、寂しげな影を落とす。

「もし結ちゃんがもっと自分のことを話していたら、一人でいってしまうことを防げたかもしれない。全部一人で抱え込んじゃって……結ちゃんは自己がしっかりしているからこそ、自律できない生活が嫌だったんだろうね」

「なるほど……」

 那由は、結という女性の気持ちも分からなくはないと思ってしまった。故に、やはり自分はその人に似ているのかもしれないと思う。

「ところで、恭ちゃんのことどう思う?」

「え?」

 唐突に切り出されたためからかっているのかと思ったが、敦志の声は妙に真剣だった。

「どうって……とりあえず性格がいいとは言えないと思うよ。女性関係もいい加減だし、口も悪いし人は騙すしずる賢いし……」

 父親の前でもお世辞を言うつもりはない。

「なかなか酷い言われようだね。まあ、事実だから仕方がないかあ」

 そして父親も、否定する気はない。うんうんと頷いている。ただ、このまま貶すのみでは流石に申し訳ないような気がした。首元に左手を添え暫し考える。

「まあ、一応フォローすると……患者さんのことを心配したり、状況を打破しようと努めたりする優しい一面もあると思う」

「ほお」

 母親の死を受け、同じような事態を二度と起こさないようにと励むひたむきな部分もある。那由はやっと分かった。彼が自分を心配したのは、自分が彼の母親に似ているからだと。知らず知らずのうちに、重ねられていたのだ。

 少々落胆し、そして落胆したことに疑問を感じる。

 自分は何に落胆しているというのか。


「那由ちゃん、君になら恭ちゃんを任せられる」

「……え?」

 敦志の真剣な眼差しとぶつかり、訳が分からないと首を傾げる。

「恭ちゃんのことをよろしく頼むよ」

「……何となく言いたいことは分かったけどそれは男性の親が女性に言う台詞じゃないよね。それに、この事態が収まったら彼と私が行動を共にすることはないだろうし」

 所詮、一時の中。那由はそう思っている。

 ただ、自分で言っておいて、心のどこかが痛んだような気がした。

 やはり、その理由は分からない。

「だから、丁重にお断りさせていただきます」

 珍しく敬語で断りを入れる。

 すると、敦志は待ってましたとばかりににやりと笑った。

「そう言うと思った。あの息子に那由ちゃんみたいないい子をまかすのは勿体ない。どう?おじさんのところにお嫁に来ない?」

「それこそ丁重にお断りさせていただいきます」

 遠慮なく、嫌悪を顔に出す。

「はは、冗談だって」

 敦志は笑いながら違う違うと手を振ってみせる。どこまで本気でどこまで冗談だか分からない。


「そういえば、恭人は?」

 埒が明かないが黙ってしまうと沈黙が辛いため話題を変えてみる。それでも結局、恭人のことになってしまった。

「そろそろ帰ってくるよ。最初は那由ちゃんに張り付いていたけど、ちゃんと仕事をしてくるって言いだしてさ。どういう風の吹き回しだろう。まあ恭ちゃんが頑張ってくれているお蔭でパパはここでサボっていられるんだけど」

「まったく、親子揃って……」

 親子……その言葉が悲しく那由の心に響いた。

「まあいいや。とにかく恭人が帰って来次第、話したいことが……」

「父さん、一般病棟の回診は一通り終わったけど……」

 那由が呟いたその時、タイミングよく聞きなれた声が入って来た。

 病棟を周っていたためか、再び白衣を着ている。

 近づいてきた恭人は那由を見ると目を見開き、

「良かった……」

 と一言安堵の感情が籠った声を吐いた。

 那由はそんな恭人からそっと目を逸らした。気を失い心配をかけたというのは恥ずかしいが、それでも本題に移らなければならない。

「ごめんね、私の所為で、みんなを巻き込んだ……」

「別に、俺は気にしていないよ。そもそも自分から首を突っ込んだんだし」

 恭人の言葉に、那由は首を横に振る。

「私の責任ってのはやっぱり大きいの。あのさ、多分これが最後のお願いになるんだけど……」

 那由は真っ直ぐ恭人を見て少しだけ寂しそうに笑った。最後……その部分を強調する。

「種明かしをしたいの。今から言う人たちを集めてほしい」

 やっと、真実が分かった。やっと、この一連の出来事に終止符が打てる。

 地震の後の渾沌とした世界。もしくはふと記憶がないと気づいた昨日の正午から始まった世界。

 何故か時間が止まってしまったこの世界。

 全てが説明できる時が来た。

 記憶を取り戻したことで、やっと全てを明かすことができる。那由は小さく拳に力を入れた。本当にきついのはここからかもしれないと思いながら。


◆   ◆   ◆


「集まってくれてありがとう」

 那由はぐるりと周囲を見渡した。そうしながら、まるで推理小説の最後のシーンのようだと思った。日の沈まない赤く染まった窓をバックにして、堂々と内科控え室のソファーに座る。その左隣に恭人が、右隣には敦志が座り、机を挟んだ向かい側に兵藤と愛奈、そして彼らに挟まれて金田と岬が座っている。彼らの手にはしっかりと電子手錠が付けられていた。

 計七人。真相を話すのはこのメンバーで十分だろう。那由はそう判断する。

 組織の男二人は、無理を言って警察から連れてきてもらった。彼らも終止符を打つためには必要な人間だと判断したのだ。

「そこの二人は一応自己紹介でもしておく?」

 那由はかつて部下であった二人に声をかけた。

「そこはプロジェクト長様の仰せのままに」

 しかし金田はわざとらしい言葉で茶化す。その返答に、那由は眉間にしわを寄せた。

「……分かった。じゃあそこの髭面の男が金田。名前のないプロジェクトを実質的に仕切っていた人で、私のお目付け役……いや、拘束役かな。そこにいるのは……何だっけ? まあ多分ろくなプログラムなんて作っていないんだろうけど」

「岬だ! お前に頼まれてアンチ警備プログラムを制作して、今は警察のスパイとしてさらなる情報を……」

 岬が声を上げるが、那由はしれっとした顔で、

「ああ、あのプログラムなら穴が多すぎたから私が直しておいたけど」

 と答えた。岬が絶望の顔を向けるのも気にしていない。

「それに、身体を張って潜入調査をするのはプログラマーとしての腕が二流、三流で使い物にならない駒くらいだし」

 言ってから岬の涙ぐんだ顔を見てさすがの那由も気まずくなったのか、

「まあ与太話はこれくらいで」

 と切り上げた。

 相変わらず皮肉がお上手で、と囁く金田の声も無視をし、

「じゃあ……本題にうつるよ」

 と、ぐるりと皆を見渡して仕切り直す。

「多分、これが推理小説の謎解きシーンだったら、回りくどく関係のなさそうなところから入ってぐだぐだと帰納法でも使いながら結論を出すんだろうけど、私は面倒だから最初に証明する解を提示してから説明するけどいいかな」

「その説明が面倒くさい」

 那由の言葉に恭人がつっこみを入れる。こんな場面だというのに二人の間には不思議とピリピリとした空気はない。

「うん、ごめん。じゃあまずは信じられないかもしれないけど事実を言うよ。今私たちがいるここ……この世界は、現実じゃない」

 現実ではない。現実の世界ではない。

 次々と起こる異常な事態は、現実での出来事ではない。

 那由は、そんな非現実的な言葉を、堂々と言い放った。


「は……え?」

 一旦間をおいて、間抜けな声を出したのは愛奈だ。それも、何を言っているのか理解が追い付かず、つい漏れてしまっただけのような状態だ。呆然と口を開いている。

「夢みたいなものだよ。だって現実にあり得る訳がないでしょ? 大地震が起きた直後のシステムテロ。謎のアンドロイドのような人間たち。同じ人物が二人。そして、時間が止まった」

「そ、それはそうですけど、でも夢って……誰の……いや、これは私が見ている夢ってことですか?」

 異常事態が解明されるかと思いきや、それが全て夢と言われてしまった。すぐには納得できない。

「まあ、夢というのは例えに過ぎない。正式名称はある事象が起きたとき人間がどのように動きどのような思考をするかをシミュレーションする『思考シミュレーションシステム』。もしくはこう言った方がいいかな。『シミュレーターによって人々の意識をリンクさせることで生み出された仮想世界』とか」

 聞きなれない言葉をつらつらと並べられ、愛奈はやはり口が開いたままになっており、恭人も信じ難いことを聞いたような、神妙な顔をしている。皆、反応はまちまちだ。

「信じられないかもしれないけど、これは紛れもない事実。今東京の人間の五分の三くらいの意識の断片がプログラムに取り込まれていて、この世界を現実だと思って動いている」

 那由がそう言うと岬がふんと鼻で笑った。

「三分の二だ」

「そんなに……!?」

「いや、あまり変わらなく……ないか?」

 恭人が呆れたように口を挟む。

 五分の三と三分の二。たった十五分の一の差だが、彼らの世界では大きいのかもしれない。

「それは予想外だった……より限界に近づけたのは事実だけど、そこまで高性能に出来ていたなんて……」

 那由はごにょごにょと小さく呟き、暫し考え込んだ。

「まあ、いいや。東京都内の三分の二の人間の意識の断片はこの仮想現実に入り込んで、実際にここを現実だと思い込んで存在している」

「あれ?じゃあ残りの三分の一の人たちは?」

 当然湧いてくる疑問。その人物たちはこの仮想現実にはやってきてはいないのか。

「東京の三分の一と、東京の外の人間たち全てね。容量的にそこまでの人間を繋ぐことはできない。即ち仮想現実に呼ぶことはできない。警察とか病院関係者とか特にデータが欲しい人間達は全員取り込んでどうでもいい人たちを切り捨てることにするけど……だからといってその人たちがいなくなってしまうと途端に現実感が薄れちゃうからね。替え玉を用意させてもらったんだよ」

「あれか……」

 すぐに、答えは見つかる。幾度となく疑問視してきたのだ。

 よく見ると違和感を覚える人間たちならいた。アンドロイドと称したりもした。

「あれは、ゲームでいうコンピュータユーザー。NPCとか言ったりするよね。東京外の空間に出られたら、敏感な人間は唖然とすると思うよ。全部コンピュータが動いているだけ。生身の意思を持った人間はいない」

 那由は見てもいないことをはっきりと断言する。

「あのNPCの作りは不完全。臓器なんかはそのまま反映されるけど、脳波や動きが一定調子で周囲に完全に馴染むことはできない。ただ自分でNPCを馬鹿にしたのは恥ずかしいなあ。自分の失敗を自分で認めているようなものだよ。多分メインじゃないから手を抜いたんだろうけど……ああ、このプログラムを作ったのは全て私なんだよ」

 少し不服気味に、しかし少しばかり得意げに那由は言った。

「え? このプログラムって……」

「だから『思考シミュレーションシステム』の全貌を作り上げたのが私」

 この大がかりな仕掛けを作った張本人は、記憶を失っていたこの少女だった。


「何故そんなことを」

 兵藤が尋ねる。何故、世の中を陥れるようなことを。愛奈も前のめりになってそれを聞きたそうにしていた。

 那由はしばらく考えたのち、

「馬鹿で愚かな人間たちが何もできずにうろたえるところを観覧するため」

 と、秘密事を話すかのように、唇に人差し指をくっつけてにやりとして見せた。

「な……」

 そんなことのためにこの少女は……兵藤は眉間にしわを寄せ苦々しい顔を浮かべる。

「……あの、冗談なんだけど」

 あまりに素直に受け入れられてしまい、那由は恐る恐る訂正した。

「え? 冗談なの?」

 恭人にまで真剣に返されてしまい少々落胆する。そこまで酷い人間に思われていたとは思わなかった。

「……まあ、仮想現実で何が起きても所詮仮想だし、馬鹿な人たちが困り果てようと別にいい……くらいには思っていたかもしれないけどね」

 那由は苦手なはずの演技が思いの外信じられてしまったことに苦笑いを浮かべた。

「こシステムはさ、ある事象が起きたとき人間がどのように思考し、行動するのか、そしてそれがどのような結果を生むかを観測するためのシステムなんだ。今回は地震が起こり、その後全てのネットワークが停止するという事象が起きた世界だったけど、実は他にも様々なパターンが用意されている。日本の財政が崩壊するものだとか、宇宙人が責めてきたりとか、人間に突如超能力が芽生えたりとか荒唐無稽なものまで様々」

「つまり、ゲームみたいなものってことか?」

 メモリを入れ替えれば違ったストーリーをプレイすることができるゲームのようなもの。恭人はそう考えた。

 那由は暫し黙り首元に左手を添えて考えた後、

「うん、確かにそうかもしれない」

 と、頷いた。ただ、少し不満そうでもある。

「恭人の喩えは結構的を射ている。ただ、ゲームと違うのはそこに現実を投影しているということ。病気を患っている人間はそのままそっくり症状を引き継ぐ。怪我なんかも同様。その世界で一定量以上の血を流せば、その世界の中では死に至るし、ウイルスに感染しても同じ。餓死だってする。眠らないと意識が朦朧としてきたり、喋り続けると喉が痛くなったりもする。その他の欲求もそのまま。心拍数の変動も体温の上昇や低下も状況に左右されて変わっていく。システムに意識の断片がリンクされた人間は、このシステムの中で本当に生きているかのように活動するし、死ぬこともある。といっても、たとえ仮想現実の中で事故にあったとしても、現実の身体に影響があるわけではないし基本現実の身体が死ぬことはないけどね」

 那由の表情がやや不満そうになったのは、そんな高難易度のプログラムがゲームと一緒にされたかららしい。ここは現実と地続きのような世界。ゲームというにはリアルすぎる。

 那由はその辺りを詳しく説明してから、小さく溜息を吐いた。

「まあ、さっきも言っていたけど流石にNPCにまで完璧な人間らしさを持ってくる配慮はなくてさ……それが彼らはアンドロイドなのではないかと疑われる原因になった」

 プログラムに不審だと思われる穴があった。製作者にとってはそれが気に食わないらしい。

「完璧な人間の中身を作るのは難しい。心理学でもまだまだ解明できない人間の深層心理がある。それをプログラムで再現出来てしまったらたまったものではないだろ」

 恭人が少し不満げに言う。那由が自分のプログラムをゲームに喩えられることを不満に感じるように、恭人もまた、人間の心理をプログラムで作ろうとされることに不満を感じるようだ。

「ところで、それが始まったのは……昨日の正午だな」

「うん。病院の記録で生きた人間が突然アンドロイドみたいになってしまった昨日の正午が全ての始まり」

 人間がアンドロイドに変わってしまったのではなかった。そもそも世界自体が変わってしまったのだ。やっと悩んできた大きな謎が一つ解けた。しかし、世界という大きな括りで考えなければならないなど誰が気づくだろうか。恭人は少々やるせない気持ちになった。どう足掻いても正解に辿り着けそうになかった。

「地震という出来事が大きな境目ではなく、その三時間前から世界は変わっていた……か」

 苦し紛れに、そう呟く。


「なんだか狐につままれた気分だなあ」

 敦志が唸った。自分たちが今こうして喋っている世界。それは、現実ではない。化かされたような気にもなる。

「俺たちは幻覚を見せられているのか……あれ……? なら、現実世界の俺たちはどうなっているんだろう? そもそも意識ってどうやってリンクしているのかな」

 夢のようなものだと那由は言った。ならば、当然現実の世界だって存在している。そこの自分たちは一体どうなっているのだろうか。

「現実世界の私たちは……今も普通の生活を送っているよ」

「どういうことですか?」

 即座に愛奈が問う。

「人間の脳は普段の生活において全てがフル活用されている訳ではない。普段は活性化されていない部分もあるし、ある程度他のことを考えながらでも行動ができるようになっている。今はその活性化されていない脳の一部を使わせてもらっている状態なんだ。何かを行っている片隅で、脳の一部がこちらの世界へトリップしているとでも言えばいいかな。今も現実の愛奈さんは交通整備の真っ最中かもしれない」

「……ええっと」

 愛奈は何とか理解をしようとするが、まだ繋がらない。

「ゲームに例えるならば自分の意思を完全に反映させたアバターがオート機能で動いている状態かな。自分の分身が、別世界で勝手に動いているって感じ。またゲームに喩えたら製作者が怒りそうだけど」

 恭人はすぐに那由の方に目をやる。

「別に、分かりやすくなるなら比喩としてゲームだと言ってもらって構わない」

 少し拗ねたように那由は答えた。

「それで……意識をリンクさせる方法の説明もするね。少しややこしいけれど、仮想空間制作ソフトを例にとれば分かると思う。一つの端末から電波を放ち、人間の視覚を司る部分に干渉して幻影を見せる娯楽用ソフトを知ってる? 原理はそれと一緒。仮想空間制作ソフトは個人用のMCCでも利用できるけど、仮想現実を制作するシステムはもっと巨大な、東京全域に影響を及ぼす媒体を利用して、電波を放つ。そうして脳波に干渉して人々の脳の一部分を繋いでいってリアルタイムで仮想現実を見させ続ける。どう? 言葉にしてしまえば簡単でしょ?」

 この説明ならば、愛奈でも納得することが出来た。仮想空間制作ソフトなら知っている。一時期日本でもかなり流行したのだ。

 家にいても海外旅行気分を味わったり、友達同士で自分の想像する世界を見せ合って遊んだりする。あのアプリは近くにいる人間全員に仮想の空間を見せることができる。それのもっと規模が大きいバージョンと考えればいい。

 といっても、それが言葉通り簡単に実行できるものだとは、とてもではないが想像できなかったが。


「で、結局そんなことして何がしたいの?」

 今度は恭人が尋ねる。こんなに凝ったプログラムは、一体何のために作られたのか。それこそ人々を陥れるためにも見えてしまう。

「ええっと、天気の予測システムとか、交通量の予測システムとかって、どうしてほぼ完璧な予測を繰り出すのか知っている?」

 那由は質問をしつつ、ぐるりと皆を見渡した。

「愛奈さん」

「え? わ、私?」

 そして、一番分からなそうな人物に聞いてみる。

「そりゃあ、プログラミングのお陰で……」

「そういう意味ではなくて」

 これは、一点もあげられない回答だ。

「データだ。数十年、数百年と積み上げてきたデータを参照し、現在の状況と正確に照らし合わせることで完璧なシミュレーションを可能にしている」

 兵藤が部下の代わりに正答を述べた。

「その通り。完璧な予測にはデータが必要。もう、分かったかな」

 愛奈は未だに首を傾げている。

「言ったでしょ?『思考シミュレーションシステム』って」

「ああ、なるほど」

 納得したように声を上げたのは敦志だった。

「人間の思考や行動まで完璧にデータ化しようという魂胆かあ。それが実現できたら確かに凄い」

 敦志は肘を机につきながら称賛する。愛奈の頭上には、相変わらずハテナのマークが浮かんでいた。

「そう。今回のシミュレーションの目的は、出来事に対する人間の行動や思考をデータとして所得すること。そのデータが集まれば、既存のシステム、ソフト、プログラムの精度をより生身の人間に適した構造に変えられるし、さらなるシミュレーションシステムの構築にも繋がる」

 完璧な予測システムを作るには多くの資料、記録が必要。今起きているのは、人間の思考、行動に関する新たなデータを得るためのシミュレーション、実験という訳だ。

「様々な予測システムが誕生する中で、どうしても予測不可能だと言われるものがあった。それが、人間の感情や行動について。でも、私たちはそんな不可能と言われるもののデータ化を実現させることに決めたんだ。不規則に動く人間の心理さえもプログラムの内に入れる。それを作る理由についてあえて挙げるならば……興味本位って感じかな。人類の限界を超えるような挑戦。名前のないプロジェクトはそれに挑戦しようとした」

 その素晴らしいシステム作りの根底にあるのは、社会の役に立つといったような前向きな理由ではなく「興味本位」らしい。

「ただ、このプログラムには問題があった」

 那由は金田を見つめた。彼は終始言葉を発さず、にやにやと那由を見つめている。

「さっきから黙っていないで答えたらどうなの?」

 彼も全てを知っているのに、何も言わない。説明の全てを那由に投げ出している。

「このプログラムを作ったのはお前だ、プロジェクト長。全てお前の責任。解説も全て任せる」

 金田の言葉に、那由は悪態を吐きたい気持ちをぐっと堪えた。ここでキレても意味はない。


「このプログラムにはバグが発生する可能性が極めて高かった」

「バグって……那由さんが二人いたり、今みたいに時間が止まってしまったことみたいなものですか?」

「そう。どうしてこんなことが起きたかは後で説明するけど、これがまた厄介事を引き起こす。それに気が付いた私は……」

 止めようとしたのだ。このプログラムの実行を。しかし、結果はこうなってしまった。

「……止められないばかりか、バグを増やしてしまった」

 自分で発するには厳しい言葉。自らの罪を吐露しているような気分になる。

「どういうことですか?」

「一つのバグが発生すれば、それが新たなバグを呼ぶ。今回の引き金は私が二人いると認識されてしまったこと。時間が止まったのはそれが原因」

 未だ、空は真っ赤に染まっている。日が沈む様子は見られない。

「うまく説明できないけど……数学の問題解いていてさ、長い長い式の途中でほんの少しでも計算を間違えると答えは大きく変わってきちゃうでしょ? それがどんなに単純なミスだとしても、少し狂えば全てが変わる。プログラムもまた同じ。一つのほころびが発見された。それだけで、プログラム全体が狂ってしまう。まあ、その前にプログラムってのは動き方が分からなくなると自動的に停止してしまうんだけどね。時間が止まったのは何故だと思う? 今はプログラムが部分的に固まってしまった状態なんだ」

 パソコンの画面が固まってしまったり、突然電源が落ちてしまったり、それは全てプログラムが上手く機能せずに自分で止まってしまったから。今回もまたそれと同じ。

「それはおかしくないかい?」

 敦志がいつもより少し真面目な顔で尋ねた。

「プログラム自体が止まってしまったのなら、俺たちがこうして動いていることもないと思うんだけど」

 時間が止まるというのは、粒子レベルで万物の動きが全て止まることを指す。けれど彼らは動いている。それでは、本当に時間が止まったと言えるのか。

「このシステムを実行するにあたって作動しているプログラムってのは一つだけじゃないの。この背景となる世界を構築しているプログラム。人々をリンクさせるプログラム。NPCを配置するプログラム……複雑なプロジェクトだけあって、いくつものプログラムの合わせ技を行っている。もう、そのうち殆どのプログラムは固まっていて……でも未だに動いているプログラムがある。それが、人々の意識をリンクさせているプログラム」

 那由は自分のこめかみを指差した。

 一番厄介なものが残ってしまった。世界は止まってしまったのに人々が思考したり行動したり欲求を感じたりすることは可能な世界。いくら行動を起こしても考え抜いても何も起こらない世界。

 様々なプログラム停止の結果、このような世界が生まれてしまったのだ。世界の時間はまるで止まったかのように見えるのに、人間だけはまだちゃんと動いているような世界が。

「で、そろそろ気にならない? 私が二人いた理由」

「あ、はい! 気になります!」

 一番声を上げたのはやはり愛奈だった。この部屋の中で一番理解が追い付いていないのは彼女だ。しかしそれは彼女の頭が悪いからではない。他の理解力が高すぎただけ。彼女が質問をしなければ、そのまま高度な理解の元話がどんどん過ぎていってしまう。

「私があの時二人存在した……その理由は」

「記憶障害のため」

 続く言葉は恭人が淡々と答えた。

「恭人?」

 自分の言おうと思った言葉が遮られ、那由は呆然としながら恭人を見た。

「俺の理解の範疇に過ぎないけど、そもそも人々の意識をリンクする理由って、その人物自身の情報をデータ化して、仮想現実に配置させるためだろ。容姿も人間関係も思考も記憶も全て元の世界とそっくりそのまま持ってくるための手順。記憶と寸分違わぬ世界にきたからこそ、俺たちはここが仮想現実だとは思えなかった。そんな中、全く意識がない人物がいたとしたらどうする? ある一定の知識は持っている。自分の容姿も分かっている。けれど昏睡していて意識はない。その人物は仮想現実においてどのように存在する?」

「意識がないからこそ、元の場所には存在することはできない、でしょ?」

 那由が答えた。それが、自分の中の答えだと思っていた。

「残念、不正解」

 けれど簡単に否定されてしまった。

「その人物の意思が一時的になかったとしても、他の人間がその人物を認識していれば彼らの記憶通りに修正されてそこに存在するはず。意識を『繋ぐ』理由には多くの人の記憶を照らし合わせて、より一層精密な真実を作っていく意味も含まれているだろうからね。そうじゃないと那由みたいな存在がたくさん生まれてしまう」

「確かに……」

 意識がなかっただけで別の地点に現れることになれば、仮想現実は途端に現実味を失う。製作者である那由よりも、恭人の方がぺらぺらと説明を続けていく。那由は少しだけ悔しく感じた。

「だからさ、明白な意識がない人間の意思は仮想現実に反映されないんだよ。病院で昏睡状態に陥っている人間が別の場所で目覚めることはない。意識を繋いだところで意識がない人間の心理状態は反映されず、看護師たちがその患者をそこにいると認識しているために、そこで昏睡し続けることになる」

 だから、滅多なことがない限り現実世界と矛盾は起きない。

「でも那由は違った。那由は意識がないまま眠っていた訳ではなかった。もしそうだとしたらあの病院で寝ている那由がこの世界に存在するだけ。こんな風にこちらの世界ではっきりと意識を持って動くことはまずない」

「確かに……」

 説明されて、やっと分かった。

「じゃあどうして……」

「多分那由はこの世界に移る前に一度意識を取り戻している。けれど、おそらく生死の境目に陥るような怪我を負ったという事実を脳が全否定したんだろうね。襲ってくる死という恐怖から逃れようとした時、人は記憶を自ら排除することがある。とにかく病院にいる自分を全否定。そしてここにいたるまでの自分も全て否定していった。明確な自発的意識の元でな」

「自発的……」

 記憶を失ったのが自らの意思だとは気が付かなかった。自分が一度意識を取り戻したなど自分では思いつかなかった。

「そしてここが重要」

 恭人は他の聴衆を気にせず那由の目を見つめた。

「那由は自分で自分の悲惨な過去から何までを自分自身で全て忘れ去って、そして昨日の正午。意識を仮想現実に飛ばされた際に病院とは別の全く無関係の地点に自分を配置した。無意識だけど意図的に病院という地点から逃げた。現実から逃げた」

 逃げたという言葉が虚しく響く。

「私は……逃げた、か」

 那由はやや自嘲気味に呟いた。

 自分が目を覚ました時の現状が受け入れられず、現実から逃げた。それが現在の結果を生んだらしい。

「いや、いい判断だったと思うよ。記憶の残る錯乱状態じゃどうすることもできなかったんだろうから」

 恭人はそういって、今度は周囲を見渡した。

「ただ、病院関係者は名前は知らずとも那由がそこに入院していることを、事実として、データとして知っている。だから、意識はないまま眠っている那由の抜け殻が存在する羽目になった。かくしてこの仮想現実において松井那由という人間が二人いる状態が出来上がった訳だ」

 那由でも導き出せなかった解を恭人は具体的に、学んできた知識も利用して説明した。敦志は息子の説明に思わず拍手をしている。


「なるほど……でも、生死の境目に陥るような出来事って一体……」 

 ベッドの上にいた那由は怪我を負っていたらしかった。では、一体那由に何があったのか。愛奈はただ単純な疑問を口にしてしまった。そして、はっと気が付く。

「それは……」

 那由の言葉の語尾が震えている。忘れたいと強く思った記憶。今更自分の言葉で伝えるのは難しいだろう。

「あ、あの言いたくなければ……」

 愛奈は慌てて止めた。あまりに軽率な発言だった。しかし、那由は自らの腕を強く握り、そして愛奈の目をしっかりと見た。

「言う……言うよ。言わなきゃ話も進まない……」

 まるで自分に言い聞かせるように繰り返す。そして、大きく息を吐き、部下の二人に目を向ける。

「このプログラムが危険だと知った私は企画自体を止めようとしたの……でも、その策略は失敗。追い詰められた私はその男に刃物で刺され重傷を負った」

 迷いなく金田を指さす。

「このプログラムを作ったのは私自身。けれど、実行したのは私以外の人間たち。私を排除し、そして計画を遂行し続けた。このプログラムは欠陥品。このままだと多くの犠牲を生む可能性がある。なのにこの人たちは、多少の犠牲は必要ないなんて……言って……」

 奪われ、勝手に始動されてしまったプログラム。やるせない気持ちが大きい。

「でも、元はといえば私の責任なんだ。私が、皆を巻き込んだ」

 那由にとっての一番のショックは、刺されたことではなく、このプログラムが実行されてしまうと分かったことだった。

 全てから逃げてしまいたかった。

 自分がプログラムを作った張本人だったという事実。

 これからよくないことが起きるという事実。

 けれど、全て思い出してしまった。


「この仮想現実は、同じ人物が二人いる……いや、それだけならいい。その同一人物が出会うという決定的非現実を抱えたことによってバグを起こし停止してしまった。外の世界から直せるならともかく、データしか見ていない外の人間達たちが止めてくれるとは思えない。私たちの意識の一端はこのどうしようもない世界に閉じ込められたまま。終わりはない」

「ん? そもそもこのプログラムには終わりが存在したのか」

 那由の言葉に敦志が首を傾げる。

「そうだよ……地震があって二日目の深夜0時、このプログラムは終了し、皆の意識の一部も解放され、全てを忘れ去るはずだった。でも、その夜が来ない」

 未だに夕日で真っ赤に染まった空。

 いつまでたっても夜は来ない。

 確実に人々の精神はすり減ってきているのに。

 食料も尽きてきてしまうのに。


「さて、どうすればいいでしょうか」

 皆にわざとらしく尋ねている那由。それはいつも通りの調子のように見えた。

 けれど、隣にいる恭人は分かっていた。那由の手が震えていることに。彼女がただ強がっているだけだということに。

 しかし今ここで指摘することは彼女のためにはならない。彼女も自分の本心が怯えていることくらい気づいているだろう。見かけ上は強く冷静で、しばし毒舌な「松井那由」という人物像を無理やりにでも保っていないと、この場を乗り切れる気がしていなかった。

「答えはそこの、私の部下が知っているはずだけどね」

 那由は部下という言葉を強調する。権力を握っていても、年齢は彼の方が圧倒的に上でも、那由の部下であるのは事実。彼女にとっては、欠陥品であるプログラムを実行に移した愚かしい人物であることに変わりがない。

「勿論知っているが、お前はそれを実践する気なのか?」

「うん。そうだよ」

 那由の口調にどもりはない。


「そもそも私はあなたたちに文句を言いたいんだよ」

 いつまでも弱音を吐いているわけにはいかない。

「言うなら言えばいい。言うだけなら自由だ」

 今更文句や恨みつらみを並べたところで無意味。効果はない。それは分かっている。

 けれど、言わなければ気は済まない。

「みんな、少しだけ時間を頂戴」

 愛奈を見て、兵藤を見て、敦志を見て、そして恭人を見る。

「はい、大丈夫です」

 愛奈は空元気のまま肯定し、

「好きなようにしろ」

 と、兵藤も小さく呟く。

「どーんと怒りをぶつけちゃえ」

 敦志は相変わらず机に肘をついたまま那由を見上げ、

「うん、大丈夫」

 恭人も那由の目を見て頷いた。

 那由は周囲の反応を確認し、前に座る男に向き直った。二度と見たくもないような顔。けれど、ここで目を逸らしたら負けだ。

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