第9話:目覚めない患者
「どういうことだ」
犯罪者が自ら現れると予告した時刻。その時になっても彼女は現れないことで、刑事部部長室にいる岬は険しい顔で叫んでいた。
「向こうから言っておいて……一体どんな意図が」
厳重な警備の元、待ち構えていたのに侵入者がやってくる気配は微塵もない。
あそこまで言って怖気づいたのか、それとも来られなくなるような事態が起きたのか。
「松井那由……何を考えて……」
そうして岬は右往左往して、やがてまたどこかへと電話をし始めた。
「金田さん! あの、松井那由は死んでいないって本当に……いや、確かに俺が話した相手は彼女で間違いないと思いますけど一体何を……病院?」
眉間にしわを寄せた険しい形相は消え、呆然と足を止める。
「何故それを言わないんですか! とりあえず、見に行きましょう。どこの病院ですか? はい……分かりました」
岬は電話を切ると同時に、乱暴に扉を開けて走り出した。
最後まで彼は、自分の正体や目的を明かすことはなかった。
もはや警察組織のことなどなんとも思ってはいない。気に留めてはいない。
だからこそ、気が付かなかったともいえる。
彼の後ろを追う、二つの影を。
「ゴウさん、岬が出てきました。病院に向かう……ようです。方向的には……都市大学附属病院の可能性が高いですかね」
MCCで会話をする男の胸ポケットにはテザリング用ルーターが入っている。
彼は捜査一課の一員、兵藤の部下の一人だ。
兵藤は今まで自分が抱えていた気持ち、そして自分が追いかけていたものを一つ残らず彼らに伝えた。
躊躇いの気持ちも大きかった。それによって彼らからの信頼を失ってはどうしようかと執拗に悩んだ。しかし、そんなことで揺らぐほど、部下たちの兵藤に対する思いは弱くなかった。
兵藤豪の忠実な部下たちは彼の一声に率先して名を挙げた。誰一人として引き下がったり彼から離れようとしたりはしない。
どんな危険な仕事だろうと、大変な仕事だろうとやってのける。彼の気持ちに答えて見せる。彼らは皆そんな強い意志を持っている。
捜査一課のメンバーはただ彼の優しさに惹かれているのではない。彼の強さにも理解を示そうとしている。
「なんか俺たち今久々に刑事らしいことしているよな」
「ああ! でも、この事件が解決したら嘘ついていたゴウさんに飯でも奢ってもらおうぜ」
「はは、賛成」
刑事たちはそんな言葉を交わしながら尾行を開始する。
捜査一課は本当の意味で一つになった。後はひたすら追うのみだ。
兵藤が部下に声をかけたおかげで、相手の動向を逐一知ることができる。全ては恭人の策の内だ。敵に回せばなかなか厄介な相手だろうと那由は思う。
「都市大学附属病院……一体何のために」
そこは、恭人の父親、浪川享志が医院長を務める病院である。そして先ほどまで彼らがいた場所でもあった。
ターゲットは何故かそこへ向かっているという。
一体何が目的なのだろうか。あの場所なら恭人の父親を頼って怪しい人物を排除してもらうこともできるかもしれないが、連絡手段はない。実際に足を運ぶしかないだろう。相手の意向も知らないまま動くのは良策とは言えないのだが、これ以上は術がない。
「あ、あの……」
皆が押し黙っていると、愛奈がおずおずと手を挙げた。
「合っているかは、その、自信が無いんですけど……あの人たちは那由さんがてっきり死んだものだと思っていたんですよね。でも、実は、病院で治療を受けて助かっていた……とか。怪我なのか病気なのかは分かりませんが」
「ああ、それだ!」
愛奈の推理は珍しく的を射ている。
「そこで治療を受けたならデータが残っているはず。組織の連中より先に情報を奪うとするか」
恭人が立ち上がった。これで、動くための明確な目的ができた。
「うん」
それにつられて、那由も立ち上がる。
「いや、お前はここで待っていろ」
しかし、唐突に出鼻をくじかれてしまった。
「え?」
「そんな疲れた顔をして行くまでもないことだ」
恭人は珍しく協力を断った。最初は利用できるとさえ言っていたはずなのに、次第に那由の扱いが慎重になってきたようだ。
那由にも原因の心当たりはあった。昨日の脱水症状しかり、今日の精神的不安定な状態といい、彼に弱さを見せている。恭人は那由が倒れないようにと一応配慮をしているようだ。それは彼が医者としての知識を持ち合わせていることもあるのだろう。それは素直に賞賛に値する。
「私の体調ならもう大丈夫だから」
「まあ、それもあるが」
どうも今の彼は歯切れが悪い。那由から少し視線を外して会話をする様子も、今までは見られないものだった。
「奴らに見つかったらどうするつもりだ? おそらく顔も正体もばれている」
「ああ……そうしたら……それを好機とみなして全部聞き出す。正々堂々と対立するよ」
その考えには至っていなかったが、すぐにそんな答えが口から出てきた。
那由は自分がなかなか頑固な性格であることを確信していた。自分の意見を曲げない……というより柔軟性に欠けると言った方が近い気がする。しかし、気づいたからと言って曲げる気にもならなかった。
「言っておくけど……今回ばかりは俺も演技とか策略とかそういうのじゃない。本気で心配しているんだ。ねえ、愛奈さん」
「あ、う、うん」
愛奈は突然話が振られて戸惑ったが、大きく頷いた。
「那由さんは具合も悪そうです。だから、無理していく必要はないかと……悪者を捕まえるのは私たち刑事に任せてください」
「腑抜け刑事なんかに任せていられない!」
愛奈を真っ直ぐに見て告げられたそれは、強がりでも何でもなく那由の本音だった。彼女の口の悪さ故に飛び出した言葉だが、グサリと愛奈の心に突き刺さった。
「大丈夫です。私だって警視庁の捜査一課の一人なんですから」
あまり説得力のない言葉だ。ひとまず二人の説得では那由を抑えつけることはできない。
「ゴウさん……」
愛奈は期待を込めた目で兵藤を見つめた。
彼ならばガツンと一言言えるだろうか。否、言って欲しいという目だ。
「……どうしてそこまで行きたい?」
対する兵藤は、低い声でゆっくりと那由に尋ねた。
「俺たち刑事は現場に足を運ぶのが仕事だ。しかしお前は刑事ではない。自らが行く必要はない。お前は現場では無力に近い」
無力……それは正しい、と那由は思った。プログラムには強いが、敵となるかもしれない人物と対峙した時、果たして那由はどのように自分の身を守れるのか。足手まといになるかもしれない。
「……真実を確かめたい。それだけじゃ、だめ?」
那由はゆっくりと息を吐き、ぐるりと三人を見渡す。
「自分の身がどうなってもその責任は自分にある。覚悟はできている。ただ、確かめたいの。あと少し……あと少しで思い出せそうな自分の過去を」
どうしても、譲れない気持ちがある。どれほど役立たずだと、足手まといだと言われても、無理を通したい理由がある。
「お願い」
頭は下げない。敬語も使わない。ただ真っ直ぐ兵藤を見つめた。
「……分かった」
それに、兵藤は頷いた。
「すべての責任は自分でとれ」
偽善的な優しさが優先していればここで何が何でも那由を止めただろう。それをしなかったのは、本当に那由と向き合い気持ちを汲んだから。
これには、恭人と愛奈も諦めるしかない。
「大丈夫」
やっと自分の意志が通ったことに、那由は安堵の溜息をついた。
「じゃあ、早く行こう」
ここから附属病院に近いと言っても、グダグダ喋っていれば遅れてしまう。那由は皆をせかすように部屋を出た。
未だ煮え切らない表情をしているのは恭人だ。
「恭人さん、大丈夫ですか」
那由を説得する恭人の目は本物だった。それは、彼に一度口説かれた愛奈だからこそ分かる。あれとは違う。先ほどの恭人の目には、嘘偽りのない彼の感情そのものが表れていた。
おそらく恭人の中で那由は既に特別な存在なのだろう。それくらいは愛奈にも察しがつく。
「お前こそ付いてくる意味はあるのか」
兵藤は恭人に対しそう尋ねた。今度は恭人の方も見ず、淡々と問い掛けている。
那由には真相を知りたいという明確な理由があった。自分が今回の事件に関わっている可能性もあると考えている。
しかし、恭人は一体どうしてその場に向かうのか。
恭人がこの事件の真相に近づく意味は一体何だろうか。
勿論早くネットワークを普及させることで患者を助けたいという気持ちが一番だが、それなら自分が行く必要はない。それでも今、現場に向かいたいのは……
「ふん」
沈黙の後、彼は鼻で笑って兵藤の言葉を一蹴した。
「腑抜け刑事さんたちに任せておけませんから」
その言葉は那由の素直な「腑抜け」発言よりも嫌味ったらしいが、棘はなかった。現に、彼は比較的穏やかな笑みを浮かべている。
「素直じゃないですね」
愛奈もつい笑ってしまう。
任せる、というのは事の始末の話ではないだろう。
目の前で足を速める少女に目を向ける。事態が進むにつれて様子が悪化していく彼女。今の彼女を止められる人間はいない。彼女は自分の記憶を取り戻すまで必死になって突き進むだろう。無我夢中というレベルではない。
「全く、最初の頃の冷静さはどこへ行ったのか……」
それもお互い様か、と心の中で呟きながら、恭人は那由の小さな背中を追った。
太陽の位置はピークを過ぎたが、それでもまだじりじりとした熱気がアスファルトの地面の上で行き場を失っている。
彼らが再び赴いた都市大学付属病院の広々としたロビーは、未だ騒然としていた。相変わらず座る椅子すら見つけられない状態だ。
「数ある病院の中でもここだっていうのは運命なのか、はたまた関連性でもあるのか」
医院長の息子である恭人は、病院内部ではそこそこ顔が効くらしい。総合窓口にいる事務の女性に慣れた様子で話しかけ、データ管理システムを呼び出してもらった。
新たに情報を追加することはできないが、今まで保存したデータを閲覧することはできるようだ。そこで松井那由の名前で検索をかけてみる。
しかし、
「出てこないね」
どこの科にもその名前は見当たらない。やはり見当違いだったのだろうか。
その時、兵藤のMCCが着信を知らせた。
表示されたのは、先ほど岬の情報を連絡してきた彼の部下だった。現在も岬を尾行中のはずだが、朗報か、それとも悲報か。兵藤は静かに腕のリングから電子端末を外し、電話に出た。紫色の光が点灯する。
『もしもし……あの、岬が都市大学附属病院の敷地に……』
走っているのか、荒い呼吸音が混じった声で彼は言う。
「いつだ?」
兵藤はなるべく冷静に対応しようとしていたものの、待ち望んでいた情報にすぐに食いついてしまった。
『丁度今建物の入り口に達したところです』
まさに危機一髪。なんとか先回りをすることができたようだ。
「俺たちは今病院内部にいる。ここからの尾行は任せろ……それと、ありがとう」
兵藤は、小さく呟いて電話を切った。
それを見た愛奈は密かに笑う。兵藤は、確実に今部下を頼ってくれている。そして、心の底から礼を言ってくれている。きっとこれは、いい傾向なのだろう。
少しずつだが、愛奈の兵藤嫌いは治りつつあった。
「例の男が建物に入ってくる。皆、気を引き締めろ」
兵藤が電子端末を腕のリングに戻し目を入口へ向ける。つられるように皆そちらを向くと、総合窓口に足早に近づいてくる人物が見えた。
「一端隠れろ」
兵藤の指示は早かった。皆を物陰に隠れさせ、やってきた男を監視する。すぐに話しかけはしない。ある程度泳がせて様子を見るのだ。
「おい、外科に身元不明の患者が入院していた記録はないか。腹に刺し傷を負っている」
刑事部長長嶋の下で警察のフリをしていた組織の男……岬は、窓口の女性に大声でまくしたてた。
周囲の人間はぎょっとして彼の方へとふりかえる。必死な様子と場違いな大声には誰だって反応してしまうだろう。
「あ、あの、失礼ですがあなたは……」
事務員の女性はいかにも不審な男に不信感を表わす。
慎重さが足りなかった……岬が自覚した時には遅い。
彼は胸元から警察手帳を取り出そうか迷った。内部事情を知るために違法な経緯で得た警察手帳は持っている。しかし、今警察として自分を通しても後々面倒なことになるだけのような気がした。どうせ、すぐにばれる。
迷っていると、彼の背後にもう一人、スーツ姿の男性が立った。
顎髭を生やしたひょろりと背の高い男だ。
いつの間にそこに現れたのか岬も窓口の女性も気づかず、二人は同時に驚く。
すると男は観察するように受付の女性を見た。
「金田さん……」
岬が小さくその男の名を呼と、
「大変失礼いたしました……彼の無礼をお許しください」
金田と呼ばれた男は深く頭を下げる。見かけによらず礼儀正しい仕草だった。
「外科に入院している腹に刺し傷がある身元不明な女性を教えてください。私たちはその患者の同僚で、彼女を探しているんです」
丁寧な物言いをされると、事務員も断る理由を見つけられない。情報を提示するのも彼女の仕事である。
不信感は残るが、渋々、といった調子でキーボードを叩く。
「分かりました。外科ですね……といっても地震の後のデータは残っていませんが」
「二日前の記録で十分です。おそらく二日前の夜にこの病院に運び込まれたのだと考えられます」
断定的な日付が告げられる。受け付けの女性はその言葉の通りに何度かキーボードを操作し、情報を絞り込んだ。
「ああ……いました。二日前の夜、郊外のベッドタウンで倒れているところを発見され運ばれた身元不明の女の子……」
「彼女は、退院したのですか?」
「いえ、記録にはありません」
「地震の後に退院したために記録がないとか」
その言葉に、受付の女性ははっきりと首を振る。
「地震の後、十分な診断も出来ないことから患者さんの退院を認めたケースはありません」
それが都市大学付属病院の方針なのだろう。何度も発せられたような機械的言葉に、彼らは目で合図をし合った。
「病室を教えてください」
「ええっと……二階の223号室ですね……」
「ありがとうございます」
すぐに、男たちは外科の病棟へと駆けてゆく。周りの患者などには一切目もくれない。
「あ、あの病院内で走っては……」
呆気にとられた彼女の声は、残念ながら届くことはなかった。
勿論、彼らを追いかけて走る少女にも、さらにそれを追う三人組にも、何も言うことができなかった。
「何とかして……」
誰でもいいから、この事態を収束させてほしい……興奮冷めやらないロビーを見渡しながら、受付女性は机に項垂れそう願った。
那由は、突然現れたスーツの男を追いかけるのに必死だった。あの髭面の男を知っている。記憶の片隅にしっかり彼の姿がある。『金田』という名前の響きもぼんやりとだが分かる気がした。
決して好意的な印象ではない。どちらかといえば……なにかよくない恐怖のようなものを掻き立てられる。けれど、だからこそ追いかけなければならなかった。
おそらく彼は那由の記憶を取り戻すためにも、真相に近づくためにも重要な人物に違いない。
根拠はないが直感でそう分かった。だから追いかけるしかない。
点滴を連れて歩いている患者に、車いすで移動する患者。パジャマ姿の子どもや弱々しい老人。そして慌ただしく動く医師や看護師。何度か人とぶつかりそうになりながら、ギリギリの状態で避け、夢中で廊下の角を曲がる。自分がここまで俊敏な動きをすることができるのが不思議だった。一時的に大量のアドレナリンが出て感覚を麻痺させているだけかもしれない。
ここまで駆けてきて疲労が全くないわけではない。病院内は廊下であろうと温度が均一に保たれているはずだが、じわりと汗が滲む。もしくはそれは恐怖のための冷や汗か。
階段を上り、壁に手をついて立ち止まりそうになりながらも、気持ちだけで追いかけ続けた。
それも全て、真実を知るために。
息も切れ切れになった頃、ようやく男たちは病室の一つに入っていった。那由も同じく、周囲を気にすることもなく病室に駆け込む。
後ろで那由を呼ぶ声があったが、それも耳に入らなかった。それほどに必死で、目の前しか見えていなかったのだ。普段の那由とは違い、明らかに視界が狭くなっていた。全く、頭が働いていない。
けれど病室に入ったところで、夢中に追いかけ続けていた男たちから意識が急に外れた。視界が明確になり、即座にさーっと血の気が引いてくる感覚を味わった。ベッドに横たわっているその患者を見た瞬間、身の毛がよだつほどの恐怖を覚えた。
この病室は一人部屋で、入り口から見て左側の壁に隣接するような形でベッドが置いてあり、入り口から見ればまず患者の足の方が目に入る。広いとはいえないが来客用の椅子を二つほど並べるだけのスペースはあり、見舞い品や荷物を置けるような棚もある。しかしそこにものが置かれた様子はない。右側の壁には小さい窓がついており、カーテン越しに日が降り注いでくる。
視線を動かし患者の顔を見た那由は声を出すことができず、切れ切れになった自分の呼吸音だけが響き渡るのを感じていた。二三度瞬きをし、幻覚ではないかと確認するが、結果は変わらない。恐ろしいものが身体を這いあがってくるように感じ、思わず腹部の辺りを押さえた。
「なにこれ」
ポツリと呟くことができたのは、たったそれだけだった
そこにあったのは、あまりに信じられない光景で、目を疑うしかなかったのだ。
「那由!」
後ろから走って来た恭人が那由の手を掴む。それはわずか数秒の間であったが、那由には一、二分のブランクがあったように感じられた。
「一体何が……」
固まった那由の視線を追った恭人もまた、目の前の光景に唖然とした。
ベッドの上の患者に視線が釘付けになる。
黒い髪がベッドの上で広がり、HO2システムと点滴が繋げられた白い手はだらりと力なく投げられている。この時期にしては少し厚めの布団を被っているため見にくいが身長はそれほど高くない。そして、随分と痩せている。
目は閉じられ表情は分からないが……見たことのある顔をしていた。
恭人は一度那由を見て、そしてベッドの上の少女に視線を戻す。
それを、何度か繰り返した。
けれど抱く感情は同じだ。何度考えても何度見ても変わらない。
ベッドの上にいる少女は那由と瓜二つの容姿をしていた。
寧ろベッドの上にいるのもまた松井那由だ。
そうとしか思えなかった。
唖然としたのは病室に駆け込んだ四人だけではない。先に病室へ入ったスーツ姿の男たちもまた、呆然と二人の那由を見比べていた。
とても現実とは思えない。
双子やクローン、アンドロイドなど考えられる可能性はいくつもある。しかし、そんなものにしては、あまりに瓜二つに見える。
「矛盾が起きた……」
髭面の男、金田がそう呟いた。
「バグだ」
立ち尽くす那由を見てそう呟く。
「どうしてここにいる?」
問われても、何も答えられない。記憶も失っている上に、もう何が起きているのか訳がわからない。そして、やはり相手は初対面の男ではないことがはっきりした。彼を見ているだけで吐き気を感じた。その理由はまだ分からない。
「知りたいのは、私の方だよ……」
那由のこの言葉は、誰に向けたものでもない。もう、何から考えればいいのか、何をどのように解釈すればいいのか分からないのだ。
金田は、今度は眠っている那由に目を向ける。
ただ事態に混乱していただけのように見えたが、よく見ると彼の口元は僅かに吊り上がっていた。まるでこの状況を面白がっているかのように。
「あれだけ深く刺したんだ。傷はやはり簡単には治らないだろう」
「刺した?」
兵藤が怪訝な顔をする。刺したといはいったいどういう意味か。
「ああ。こいつのこの腹の傷は確かに俺がやったものだ。死んだと思ったんだけどなあ。間一髪病院に運ばれているというのは運がいいと言うべきか」
にやにやと笑いながら軽々と罪を白状する。先ほどの礼儀正しさはない。
これは、完全に殺人未遂の容疑で逮捕できる発言だ。それを警察の目の前で堂々と言ってのけている。
あまりの大胆さに唖然としてしまった。既に狂っているのか。それとも捕まらないという絶対的な自信が持てる何かがあるのか。
「まあ……この傷じゃ起きられないよな」
それは、憐れみの視線だった。何かを悟ったような視線にも見える。
「いい加減に……」
愛奈は言葉が出てこない。目の前の男が、分からない。
得体のしれない何かに遭遇したような恐怖を感じる。
「いや、傷は治っているよ」
そんな中で比較的落ち着いた声を出したのは恭人だった。手には紙に書かれたカルテがある。電子カルテが使えなくなったため、医療従事者が情報伝達に使えるようにと紙のカルテが各病室に設置されている。それは外科の病室でも同じことだった。
患者の症状が分かるそれを、恭人は注意深く眺めた。
「治っている?」
「うん。運ばれてきた直後の手術でほぼ傷は塞がっている。ていうかそうしないとまず今生きていられないだろうね。今この患者が眠っている原因は不明。ひとまず栄養と水分を補給するために点滴に繋いでいるみたい。別の病棟に移動する予定もあったそうだよ。まあ……原因の追求は完全に後回しになっちゃっているけど」
現在の彼女は昏睡状態だ。病院の体制がしっかりしていなければ、地震の後HO2システムが働かない中点滴の入れ替えができず、命が危うかった可能性も考えられる。この病院に運ばれたのは幸運だった。
「意識が戻らない……か。なるほど、やはり面白い……」
「面白い?」
金田が笑う。
一体この奇妙な状況の何が面白いのか。この中で比較的落ち着いていると思われていた恭人から、わずかにピリピリとした空気が放たれていた。
「何が面白いんだ」
恭人は再び尋ねる。
「お前は面白いと思わないのか? 同じ人間が、ここに二人いるという現象が。しかもこれは誰かの妄想ではない。確認できてしまった事象。シュレディンガーの箱は開かれた。そして、そこには生きているどころか二匹の猫が入っていた。なんともまあ面白い話じゃないか」
確かに、信じられない現象ではある。
しかし、今ここでそれを面白いと称す男は不気味でならない。
「松井那由……お前はどこまで分かっている?」
そう聞かれても、那由は言葉を発することのできる状態ではない。
気味の悪い現状に、眩暈さえ覚えた。
足が震え、顔も真っ青になっている。傍から見れば彼女もまた病人のようにしか見えない。
実際、気を付けなければ意識が飛びそうな、そんな調子だ。
「そうかそうか。流石のプロジェクト長様でも分からないときたか。ますます面白い。さあて、そろそろ本体を仕留めてしまうとするか……」
金田はそう言って眠っている方の那由に近づくと、素早く懐からナイフを取り出した。
そして、何の前触れもなく、無駄のない動きで、包帯の巻かれた腹に……深々と、ナイフを差し込んだ。
その間わずか三秒にも満たない俊敏な動作だ。
その後唖然とする皆をよそに、ナイフは何度も何度も突き立てられる。内臓を抉るかのように差し込まれ、血液が止めどなく溢れ出してシーツを赤く染めていく。
一瞬だけ、眠っている那由の顔が歪められた気がした。
けれど、それだけだ。慌てて恭人が近づくがやはり皮膚が大きく割かれていて、身体に触れれば体温が急速に下がっていくことだけは感じた。HO2システムが機能しないため具体的な出血量や脈拍は分からない。とにかく輸血をしなければならない。輸血をして、臓器の損傷具合を確認しながら手術をしなければ。しかし、備え付けられたナースコールも、すぐに医者や看護師を呼べるスタットコールも機能しない。手術室に運んだところで、機械が動かない今この状況を正しく把握して処置できる医者などいるのか。
ベッドから血が滴り落ちていく。
蘇生の術がない。
恭人は為す術のない現状に膝をついた。もう彼女の脈はない。それだけが、確かな事実だった。
「いやあああああああああっ」
いち早く叫んだのは愛奈だった。目の前で人が刺された。そんなことは信じたくないと言わんばかりに。
そして、無我夢中でナイフを持った男に特攻しにゆく。
兵藤はそれを止めるのに精いっぱいだった。相手は刃物を持っている。いくら格闘術を学んでいる刑事といっても、この錯乱状態で近づいていっても怪我をするだけだ。
「嘘……嘘だ……嘘ですよね?」
呆然とする愛奈の口から乾いた言葉が漏れる。
彼女は刑事だが、このような現場には全く慣れていない。それは兵藤も同じこと。
認めたくない。そう思っても無駄だ。
目の前で人が殺されたのは、紛れもない真実なのだから。
那由とそっくりな、鏡写しのような少女の命が、ナイフひとつで呆気なく奪われてしまった。
それはもう、取り返しのつかない現実のことだった。
「あ……」
取り乱す愛奈とは違い、ただ立ち尽くしていた那由は、急にガタガタと震えながら、流れ出る血を見つめた。その表情は何かを思い出したような顔であり、同時に思い出したものがとてつもない恐怖であるかのような顔だった。
やがて呼吸が乱れ、その場に崩れ落ちる。駆け寄った恭人が辛うじて身体を支えなければ、後頭部を床に打ち付けていたかもしれない。
まだ、なんとか意識はある。しかし理性が残っているというよりは、非情な現実や襲ってくる恐怖に、なんとか意識を繋ぎとめられている状態のようだった。
「そうか、本体は意思の方か」
金田が何を言いたいのか周囲は分からない。もう一人の組織の男、岬も呆然としていた。何もそこまでしなくても、という顔をしている。
「こっちを殺るか」
そんなことはお構いなしに、金田はナイフを持って倒れ込む那由を狙おうとした。
「そこまでやる必要はありますか?」
「こいつはバグだ。存在してはいけない存在……早くデリートした方がいい」
それは、まるで那由を人としては扱っていないような言葉だった。ナイフをきらりと光らせ、笑みを浮かべながら近づく。しかし、今度こそ刑事が許すはずがない。
金田に近づき、地に押さえつける兵藤。そして岬に見事な回し蹴りを食らわす愛奈。彼女は兵藤のお陰で何とか取り乱した状態からは脱したが、それでも、今にも泣いて地面にへたりこみそうな顔をしている。
一つの殺害を、目の前で許してしまった。刑事としてなんという屈辱だろうか。少なくともこの殺人犯たちを許しておくわけにはいかない。
「捕まえるなら捕まえればいい。どうせこの世界もあと数時間で終わりだ」
無法地帯と化した街。機能しない政治。患者を十分に助けられない病院。
食料もうまく手配されない。この事態が一体どの程度の規模で起きているのか情報も入らない。確かに、世界は崩壊する寸前かもしれない。
「何故、そんな平気な顔をしている」
狂っている、と兵藤は思った。殺人犯は大体思考のどこかが狂ってしまっている。けれど彼は際立って異常。捕まることを何とも思っていない様子だ。
「それは……」
蹲っていた那由から、途切れ途切れに言葉が漏れた。
「彼は……人を殺しては、いないから」
「もしかして、あれはアンドロイド?」
兵藤が、ベッドの上に横たわり血を流し続ける少女に目を向ける。彼女も、恭人がアンドロイドと呼んでいる、人間とは思えない存在なのだろうか。
「ううん、あれは恭人の言うアンドロイドとはまた違う……でも、似たようなものかもしれない」
「何だ、やはりお前は何も気が付いていなかったのか」
金田はここへきてなお、呆れるような目で那由を見る。
「うん……少し記憶を失っていた。でも、今……全部思い出した」
あれほど知りたがっていた記憶を、このような状態で思い出してしまった。那由は真っ青になったまま腹部を赤く染める自分とそっくりな少女を見て、それから金田たちを見て、最後に恭人を見上げた。
「ごめん、少し眠る……その後、説明するから」
「那由……?」
那由は恭人に許しを請うように告げた後、彼に凭れかかるようにして気を失った。
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