第8話:いたずら電話

「さて、言ってみたものの本拠地をどうするか……」

 四人は人気のない路地裏から抜けた。相変わらず、人がごった返す街並だ。未だ帰宅難民が絶えないのだろう。そんな異様な光景だが、少しばかり変化が起きていた。

「皆、そろそろ疲れたのかな」

 あれほど溢れ返っていた暴動も罵声も殆ど聞こえない。多少ざわついてはいるが、何とも言えない沈黙が流れている。少なくとも、隣で喋っている人間の声さえ聞き取りにくかった状態は既に終わっていた。

 ただ、火が消えたように動きを止めた人々が溢れる光景はやはりいいものとは言えない。そこにいるのは生きた人間のはずなのに、生気を感じられない。全てを諦めてしまったかのような表情をしている者もいる。

「これはこれで……辛いです」

 愛奈は兵藤の影に隠れるように歩きながら額を押さえた。いくら頑張って暴動を止めたとしても、この状況が続くのであればやはりいい気はしない。結局この問題を解決するためには、ウイルスを放った犯人を捕まえるのが手っ取り早いのか。

 しかしそれでも、食べられてしまったデータは復元できない。悪人を捕まえることが必ずしも物事をいい方向へ導くとは限らない。

「そうだね……新たなデータをプログラミングし直して、ウイルスに感染していない第三のスーパー人工衛星でも使って……そうするとなんだろう……プログラマーたちにがっつりお金が入るね」

 犯人の狙いがそれであれば、随分とコストに似合わないことをしていると思う。


「危ない」

 突如低い声が飛び、同時に何かがぶつかる音が響いた。

 那由が振り返ると、兵藤が金属の棒のようなものをその逞しい腕で支えている。その先には棒を振り下ろしたらしい女性の姿があった。ハイヒールを履いた、三十歳程度のスーツの女性だ。少なくとも日常的に暴力行為を行う人物には見えなかった。

「……どうしてこんなことをする」

 兵藤は静かに尋ねた。相手は金属棒を片手で受けた兵藤を、異質なものを見るような目で呆然と見つめていたが、

「やらなきゃ、いけないから」

 とぽつりと答えた。随分と虚ろな目をしている。

「子どものために食糧が必要なのか? それとも自分自身に限界が来ているのか?」 

 兵藤が静かに問う。一般市民に対して彼は優しい。たとえ相手が暴力を振るってきたとしても。

「一般市民は暴動を起こす……」

「え?」

「暴動を起こし、傷つけあう。そういう、シナリオ……」

 無表情で呟くその女性には、人間らしさというものが見られない。

「これが噂のアンドロイド?」

 那由がまじまじとそれを観察する。

「いや、今までのアンドロイドはもっと高性能で……人間と見間違えるほどだったはず」

 彼女は、明らかに人間離れしている。言動共に。

「アンドロイド……」

 話を聞いて半信半疑だった愛奈も、目の前の光景にはそう思わざるを得ない。このレベルのアンドロイドなら今時珍しくない。ただ、それがこんな街中にいていいものなのか問われると、明らかにおかしいように感じてしまう。

「市民は、暴動を起こす」

 女性は再び繰り返した。

「シナリオ通りに……」

 しかし次の言葉は、それが発したものではなかった。すぐ目の前にいる高齢の男が虚ろな目で四人を見つめている。

 他の帰宅難民たちが座り込んでいる中、呆然と立っていた四人は目立ったのかもしれない。気が付いたら、幾人もの人に囲まれている。否、人ではなさそうな者たちに囲まれている。

 少し相手の容姿を変えれば、まるでB級のゾンビ映画でありそうな光景だ。

「シナリオというのは……このアンドロイドたちに組み込まれたプログラムのことなのか?」

 そのアンドロイドは暴動を起こすというプログラムを施されていたのだろうか。

「一般市民は暴動を起こす……それってさっきまでの状況だよね。多分……これらはその状況を模倣するようにして、上手いこと市民に紛れていたんだと思う」

 先ほど市民に馴染んでいたのも、彼らの行動を上手く真似ていたお陰だ。

「でも市民が疲れ果てて動かなくなったら自分たちが浮いてしまって今に至るのか」

 ある意味、彼らにとってのエラーだ。

 市民の行動に合わせていたのに、ずれが生じて目立ってしまった。そしてそれを修正する術も持たない。

「そういえば、暴動を起こす前は一般市民と同じように戸惑っていたはず……」

 恭人はぐるりと現在の状況を確認した。今までのアンドロイドは周囲にしっかりと合わせていた。それが機能しなくなってしまった。

「時間の問題だったんじゃないかな。彼らが持っている市民と同化するっていうシナリオは、目まぐるしく変わる周囲の環境変化についていけなかった。所詮その程度のプログラミングだったってことだよ」

 那由はふんと鼻で笑った。自分だったらもっと上手いプログラムが作れると考えているかのようだ。

「あ、あの、どうするのですか?」

 びくびくと震えた声を出しながらも、愛奈は襲ってきたアンドロイドを確実に回し蹴りで薙ぎ払った。

「もう、これ、対処のしようがないというか……」

 性格に反して、愛奈の身体能力は高いようだ。目もキョロキョロと虚空をさまよっているが、確実にアンドロイドを蹴散らしている。これならばしばらく身の安全は保たれるが、そういう問題ではない。

 このアンドロイドたちをどうするべきか。ここで疲れ果てている市民をどう守ればいいか。

「放っておけばいい」

 恭人がさらりと答えた。

「で、でも他の方々に危害を加えたりしたら……」

「私も恭人に賛成。そのうち彼らは動けなくなるよ」

 那由は首に手を添えながら、虚ろな目をしたそれらをじっくりと観察する。

「システム的に限界がきているんだよ。人間に似せなければならないのに、それが不可能の域に来ている。そろそろショートするね」

 正常な働きは失われた。意思を持たない暴徒と化せば危険だが、その動きすら次第に緩慢になってきている。

「奴らは本当になんだろう……あのウイルスに関わっているとしたら、一体どんな目的で……」

 那由はいつもの癖をしつつ、首を傾げる。

 大したプログラムではなかったにしろ、そこそこの数はいる。彼らは一体どこから湧いてきたのだろうか。病院での一件では、人間が突然アンドロイドにすり替わったようにしか思えなかった。さらに、臓器などの身体の造りも人間そのものらしい。


「俺は、アンドロイドと今回の事件は別物だと思っている」

「何故?」

「人間が突然アンドロイドにすり替わることなんて考えられない。彼らはとっくの昔にアンドロイドで、脳波から何まで完璧な人間らしさを保っていた。でもそれは、この異常な一件で狂い始め、人間を模倣できなくなり、次々にアンドロイドとしての頭角を現し始めた。どう? これが俺の考え」

 確かに、それならば筋が通っている。環境に完全に適応するアンドロイドも、この異常な事態についていけなかった。そのため次々と人間らしさが剥がれ落ちていった。

「でも、病院のデータからすると、地震が起きる前……昨日の正午の時点からアンドロイドたちの脳波や脈のデータが一定になっている。これはどう説明付けるの?」

「別に地震が全てのはじまりという訳ではないんじゃないかな。天気予報のシミュレーションだって、一ヶ月も前から行っているのに急に外れたんだ。システムエラーは徐々に始まっていた……とか」

 この言葉は自信なさげだ。彼にも全てが分かる訳ではない。

 筋は通っているが、どうも那由はすんなりと受け入れられなかった。

「シナリオ……ね」

 周囲に適応するシステムのことをそう呼んだのか。それとも別の意図があるのか。

 いずれにせよ、その言葉が妙に引っかかった。

「この事態も犯人のシナリオ通りってとこなのかな」

 少なくとも街がパニックに陥ることくらいは分かっていただろう。現在犯人はその様子を見てほくそ笑んでいたりするのだろうか。

 一体、何のためにこんなことをしたのか。結局謎は解けない。


「暴動を……」

 段々、アンドロイドの言葉も少なくなってくる。老若男女様々な人間が、同じような目で突っ立っている。

「気味悪くなってきた」

「早く行こうか」

「そ、そうですね……ゴウさん」

「……ああ」

 四人は奇妙な者たちを横目に、足早に通り抜けた。分からないものと長時間対峙していても、状況改善に関して効率が悪い。


「で、ここに戻ってくると」

「人もいないし隠れるにはいい場所だ」

 那由は目の前にある白い建物を見上げた。

 昨晩寝床として使った都市大学付属病院の医学部棟。確かに人が寄ってくることもなく安全な場所だが、あの倉庫にいくためには長い階段を上る必要がある。小さくため息をついていると、恭人は何故か階段口の方ではなく、まっすぐにエレベーターホールに向かった。

「え……エレベーター? だって昨日は」

「いや、いつもは監視カメラを恐れて階段使ったんだけどさ、そもそも監視カメラが機能しないんだからエレベーター使えばいいことに気がついた」

 那由の疑問に恭人はさらりと答える。それでは昨日自分が息を切らしながらなんとか階段を上ったのはなんだったのかと言いたいが、それ以上に恭人が毎回あの階段を上り下りしているというのも衝撃だった。そんな運動を繰り返ししていれば健康的な体つきにもなる。

 そんなやりとりをしながら一日ぶりにやってきた倉庫は、四人が入るとかなり狭く感じるが、気にしていても仕方がない。那由は物が置かれていない手前の角に座ると話し合いを始めた恭人と兵藤をぼうっと見つめた。


「あの……」

 愛奈は、冷めた顔で男達のやりとりを見る那由に小声で話しかけた。那由への恐怖心がないわけではないが、このまま沈黙を続けるのもきつい。そう思っての判断だ。

「恭人さんは、その、変な人ですね」

「何かされたの?」

「い、いえその……まあ」

 愛奈の顔が赤くなるのを那由は変わらない表情で見ていた。本末転倒だが、そんな反応をされたことで、愛奈の羞恥心は余計に増してしまう。

「いや、されたのではなく、される寸前というか、えっと結局鎌をかけられただけのようなのですが」

「別にあなたが恭人とどんな関係になろうと私は知らないし、恭人は実際変な人間だと思う。まあ、あれは巨乳とあらば誰だって口説くようだから頑張った方がいいよ」

「わ、私はあんな人好きにはなりません」

 つい、大声が出てしまう。本音であるはずなのに、単なる強がりのようにも思えてしまった。愛奈の調子は未だ恭人に狂わされたままだ。

「あなたは、よくあんな人と一緒にいられますね」

「……まあ、こちらもいろいろ利用させてもらっているし。私は貧乳だから口説かれないし」

「利用……」

 貧乳という点に愛奈が何を言っても嫌味にしかならないため置いておいて、利用という言葉にはひっかかった。

「さっきも二人は言っていましたね。警察を利用すると」

「うん、そうだね。利用できるものは利用した方がいい」

「協力ではなく?」

「相手の利益は考えず自分の利益だけ考えて手を結ぶことを協力と言っていいならそう呼ぶことにするよ」

 愛奈は小さくため息を吐いた。容姿的には那由の方が年下に見えるが、堂々とした冷徹な態度はどうもそう思えない。ただ、この冷静さがどこか寂しげであるようにも感じられた。

「あなたが記憶喪失だということは、聞きました」

「そう」

「あなたは、昔からそんな性格なのでしょうか」

「知らないよ、記憶喪失なんだから」

 那由は呆れたように溜息をついた。

「友達と助け合ったりとか、協力したりだとか、そういう経験はあなたにもあるはずです」

「どうだろう……こんだけ冷めている私も、昔はそんなことをしていたのかなあ」

 愛奈が必死に言葉を投げかけても那由の反応は芳しくない。

「昨日の正午以前は、私も普通に自分の生活を送っていたのかな。記憶が無くなったと思って調べていたら唐突に地震が起きて、こんな状況に……なんでこういろいろと重なるかな」

「……そういえば」

 愛奈が思いついたように外を見た。

「結局、地震とネットワークの不具合って無関係だったんですよね?」

「確かに、ネットワークの不具合は悪質なプログラムの仕業だったし。いや、でも……偶然重なったって訳じゃないかも」

「え?」

「犯人はシミュレーションシステムで予め地震が起こる日時を確認していた。そして、地震と同時にプログラムを人工衛星に送り付ける。そうすることでパニック状態の街にさらにパニックを上乗せすることができる」

 那由の説明には筋が通っていた。だとすると犯人は街をひたすら混乱に陥れたい愉快犯か。愛奈は自分の中のよくない推測に思わず身震いをした。


「おい、貧乳」

 先ほどまで兵藤と話していたはずの恭人が急に那由と愛奈の間に割って入る。先ほどまで表情の乏しい顔で愛奈と会話をしていた那由は、嫌悪感を隠すことなく顔に出した。

「何?」

 自分では自分のことを貧乳と呼べるものの、やはり他人から言われるといい気はしない。

「出番だぞ」

 恭人は、そんな那由の表情など意に止めず、兵藤のMCCを手渡した。

「え?」

「今度はしっかり演技をしろよ」

 再び何かを任されるらしい。

「自信はないんだけど」

「大丈夫、お前にならできる」

 演技は彼の得意分野で、自分にはできる気がしない。そう返そうとしていると、不意に頭をぞんざいに撫でられた。

 そんなものはどうせ上っ面だけの、相手を乗り気にさせる言葉と動作だとは分かっている。しかし、理解に反して那由の身体は固まった。

 頭に乗せられた手は、自分よりも随分と大きい。そして僅かに温かさも伝わってきた。けれど、気になるのはそれではない。もっと記憶の根底にある何かが、この感覚に反応している。

「ん? どうした?」

「い、いや、なんでもないよ」

 慌てて恭人の手をどかし、兵藤のMCCを両手でしっかりと握る。

「教えて。作戦を」

 そして、落ち着いた声を取り戻しながら尋ねた。

 何故自分が固まってしまったのか、何に反応したのか、その理由は分からない。ただ、今はそれを気にしている場合ではない。

 困惑は、無理やり別の場所へと押し込めた。


   ◆    ◆     ◆


 刑事部部長長嶋が君臨する警視庁刑事部部長室では、依然八人のスーツ姿の男たちが事態の解消を部屋の中で待ち望みにしている状態だった。

 時折長嶋の大きなため息が部屋に響くが、それ以外の音は何もしない。

 もう何度目か数えることのできない溜息が聞こえたとき、ふいに静寂は破られた。

 大きな電子音が鳴り響く。それは、長嶋の腕からだった。

「電波が……通っているのか」

 兵藤によって持たされたテザリング用のルーターは順調に作動しているらしい。ルーターを持つ者同士の電話やメールのやり取りは可能になっていると兵藤からは聞いていた。それでも、彼に連絡が来たのは今回が初めてだ。


 一体誰からだと、画面に表示された名前を見て、それからげんなりとした顔で項垂れる。

 表示された名前は兵藤豪。そんなことだろうと思った、と長嶋は心の中で舌打ちをした。

またどうせくだらない連絡だろうと思ったが、取らなければいつまでたっても鳴り続けるだろう。特別拒否するための理由もない。部下も見ている。

 長嶋は仕方がなくMCCを腕のリングから外すと通話ボタンを押し、耳に当てた。直後、通話中を知らせる紫の光が点灯する。

「もしもし、どうし……」

『やっと出た。遅いよ、どうせろくでもないこと考えながら部屋で屯っているだけだろうに』

 ここで、思いもよらぬことが起きた。 

 耳に当てたMCCの端末から聞こえてきたのは兵藤の声ではなく、透き通った少女の声だったのだ。思わず自分の端末と表示されている名前を二度見してしまう。

『あー、えっと、あなたの部下の身柄は預かった』

 長嶋が何も返せないでいると、その声は何かを読むような調子で思いもよらぬことを言う。最初、長嶋は怪訝な顔をし、それが嘘であると考えた。あのガタイのいい男が少女ごときに簡単に捕まる訳がない。

 しかし、では何故彼の番号から見知らぬ少女がかけてくるのか。

『疑おうがどうだろうが別にいいけど……もっと驚くべきことを言うと、私はこの一連のネットワーク不具合を引き起こした犯人なんだよ』 

 少女は薄く笑いながらそう言った……ように聞こえた。

「犯人?」

 長嶋は同じ言葉を反復することしかできない。

『そう、犯人。私は人工衛星にデータを食すウイルスを流してそれを経由する全てのネットワークに感染させた。それで街は崩壊寸前』

「データを食す……ウイルス?」

『そう、なんならそのプログラムを送ってあげてもいいよ? あなたたち無能に解析できるとは到底思わないけどね』

 嫌味たらしく馬鹿にする言葉は様になっている。この声の主は何者であるのか、本当に犯人だと言うのか。あまりに唐突すぎて信用できないが、それでももしかしたらと思ってしまう。兵藤の端末を使ってかけてきたところからも、本当に彼を捕らえたのではないかと思えてしまう。

「……何故それをここに伝えてきた?」

 この口ぶりでは自首をするつもりには見えない。では一体何故犯人自ら警察に電話をかけてくるのだろうか。

『そりゃあこの街全てを人質にとって身代金を要求するため……とでも言うと思った?』

「違うならなんだ」

 兵藤の堅苦しさも嫌いだが、この少女のわざと回りくどく話しているようなこの喋り方もまた不快だった。頭を掻くと髪がはらはらと落ちてくる。ストレスは絶頂に達していた。

『笑おうと思って』

「は?」

『私のウイルスでパニックになった何も知らない人間たちやいつも何食わぬ顔で椅子にふんぞり返って何もしないお偉いさんたちに一泡吹かせたくて。そうして慌てている様子を嘲笑いたくて。それで電話をかけた』

 彼女の発言は常識や道理を逸脱している。愉快犯でもこんなことをスラスラと言ってのけるだろうか。どうも正気だとは思えない。怒りの感情は冷め、今度は急激な恐怖を感じた。

『どうせあなたたちはプログラムされたありとあらゆるシステムやソフトがなければ生きていけない。警察だって機械に頼りっきり。それなのに、そんなことも気に留めず、のうのうと生きている。もううんざりだよ。本当に偉いのは誰なのか、教えてあげようと思ってさ』

「……自分のしたことが何か分かっているのか?」

『データを食すプログラムをスーパー人工衛星に潜ませただけだよ? 分かっているよ、それくらい』

「馬鹿にしやがって」

『そうだね。馬鹿にしている』

 怒鳴っても効果はない。諭そうとしてもおそらく効果はない。ただ薄気味悪く笑っているだけの相手を想像して、眩暈を覚えた。

「どうすれば……」

『どうしようもないよ。それにしても……あなたたちのところ以外にも、いろんな機関に電話をかけているんだけど、一番反応がつまらない。もっと反論してよ。言質をとってみてよ。一体どんなウイルスだか気にならないの? どんな手を使ったか気にならないの? 本当にそれだけで街がこんな状態になるのかって問い詰める気にはならないの?』

 まくしたてあげるように言われる。自分たちのところ以外にも、電話をしているらしい。

 兵藤がどれだけの機関にルーターを渡しているのか長嶋は把握していない。少なくとも彼らを束ねる所轄には連絡がいっているだろう。それなのに、彼らから連絡は来なかった。既に刑事部は見捨てられているのかもしれない。長嶋はやや自虐的に考えた。

「では、何故俺の部下を拘束した?」

『一番頑張っていたからだよ。一番、組織の一員である私を捕まえようとしていた』

「組織……!」

 危惧していた言葉が容赦なく飛び出してきた。

『危うく尻尾が捕まりそうだったし、そろそろ出てきてもいい頃合いだと思ったから拘束させてもらった。ああ組織って何のことか分かる?』

「名前のないプロジェクトか……」

『私は組織の元一員。でもそれが煩わしくなって抜け出して一人で今回の事態を起こした。だから彼に私の元いた組織に干渉されたらとっても困るんだ』 

 敢えてプロジェクト名には否定も肯定もせず、少女はそう答えた。しかし、おそらく長嶋の推測は正しいはずだ。

『というか、そもそも組織側から私に干渉してくる頃合いだと思うんだけど一向に何もない。どういうことだろうね』

 それは、長嶋の知ったことではない。

『私、今からそちらに向かうからさ、組織の人間呼んでおいてよ、刑事部長さん』

「無茶なことを言うな。うちにそんな力はない。大体奴らとは連絡がとれない」

『果たして……そうかな』

「え?」

『その部屋にいるあなたの直属の部下にでも聞いてみたら? それじゃあ、一時間ほどしたらこの兵藤って男と赤嶺っていう女刑事連れてそっちに行くからね』

 そう言って、電話は一方的に切れた。


 長嶋は暫く茫然と自身のMCCを見つめた後、慌てて周囲を見渡した。

「刑事部長、一体誰から……」

 彼が何かよくない知らせを受けていたことは、じっと座っていた八人の男達にも伝わってきた。

「……この一連のネットワークの異常を生み出した犯人と名乗る女から電話が来た。彼女はあの名前のないプロジェクトの元一員だ、と言っている。嘘か本当か知らないがな」

 部屋の内部がざわつく。ここ一番のざわつきようだ。「名前のないプロジェクト」という聞きなれない名称について戸惑うものもいた。

「一時間後にここに来るだとかほざいている。もし本当に犯人なら捕まえるまで。そうでなければ公務執行妨害で捕えればいい」

 どっちにしろ権力を行使して逮捕をすればいい。そんな気持ちでいる。少女の要求はさらさら呑む気がなかった。

「刑事部長」

 すると、一人が少々大きな声で彼を呼んだ。

 それは、まだ幹部に成りたての若い男だった。今朝組織に協力を仰げばいいのではないかと提案してきてもいる。名を岬といったはずだ。

「本当にその女は組織の人間なのでしょうか?」

「どちらであろうと関係はない。単なる愉快犯かもしれない」

 彼は最早疲れ切っている。何を聞いてもいい加減な回答しか返ってこない。そう思った岬は席を立ち彼に近寄った。

「一度、その電子端末を貸してください」

「は?」

 一体何を言いだすのか、と長嶋が目で問いただすも分かりはしない。

「お願いします」

 頭を下げられるが、彼の意図が分からず呆然としていると、

「貸せと言っているんだ」

 と、岬は途端に命令口調になった。下手に出ていた時の真面目な様子は見受けられない。急に人相を変え、目を見開き威嚇する様子で吐き捨てた。

「な、なんだその口の利き方は!」

 そう叫ぶ長嶋の手からMCCを奪い取ると、爪を使って中のメモリチップを抜き、新たなチップを挿入する。そして何やら打ち込んだ後、彼の端末のパスコードを解いた。そして再びチップを差し込む。

 この男はほんの数秒で、彼のMCCを自由に使える状態にしてしまった。

 そして整えられた髪を少々乱しながら、慣れた手つきで黙々と端末を操作する。

 そして、すぐに兵藤の番号へリダイヤルした。紫色の光が点灯する。


『もしもし』 

 数回のコールの後、電話に出たのは長嶋の言っていたように少女の声だった。

「その声は……」

 すると、目を見開き険しい顔をしていた岬の表情が一転する。

『さて、誰でしょう』

「……何故お前が」

 冷たく、抑揚のない声。

 それは彼にとって十分聞き覚えのある声だった。そして、信じがたい声でもあった。

『何故とは? どういう意味で?』

「何故、生きている?」

 ゆっくりと尋ねる岬は、恐怖に震えているようにも見える。

『……さあ、何故でしょう。そんなことより、他に聞きたいことは?』

「……どこまで知っているんだ」

 深くは情報を与えず、やはり抑揚のない声で語りかける声に気味の悪さを感じながら、再び問い掛けた。

『少なくとも、あなたが私を恐れていることは知っている』

「お前を恐れていない人間なんていない。プロジェクト長……松井那由」

『……それは褒め言葉としていただいておく。じゃあ一時間後そちらに向かうから、仲間を寄せ集めて待っていてね』

 そして、電話は一方的に切られた。

 知りたい情報は何一つ漏らされなかった。ただ、彼が危惧していた人間が電話口に現れたことだけは分かった。


「何故、あいつが……」

「おい!」

 電話が切れてからも呆然としている岬に、長嶋がドスのきいた声をかける。彼がただの新参者の部下ではないことは十分に分かった。それに、簡単にMCCのパスコードを解いてしまう腕前……こんなものを持ちあわせるのは十中八九あれに関わっている。

「お前も、名前のないプロジェクトの人間か」

「そんなことはどうでもいい」

 当たり前のことを聞くなと言った調子で言葉を遮られ、怒るタイミングすら逃してしまう。そもそも岬は最初から長嶋の部下ですらなかったのだ。

 岬は、今度は自分のMCCを取り出し、何やら操作した。そして徐にに耳に当てる。

 数秒後、彼はそれに向かって話しだした。

「もしもし……岬です。はい、それが……松井那由からの電話が……え? そちらにも既に……では、彼女は生きて……」

 そう話しながら彼は部屋から出ていく。

 皆、唖然としていた。

 電話は使えない。現在は無線LAN用のルーターがあるからこそ通話可能だが、彼の電子端末はそれに繋いではいない。そして、そこから離れていってしまった。なのに、会話をしている。

 一体、どんな手を使っているのか。

「そうだ、スーパー人工衛星だ」

 長嶋が目を見開いた。

「人工衛星は三つある……俺たちが普段繋いでいたスーパー人工衛星がウイルスによってはたらかなくなっても、一般人には知られていない三つ目の人工衛星にリンクすればあるいは……」

 知る者ぞ知る日本の三つ目のスーパー人工衛星。組織の人間はそれを利用しているのだとしたら、彼らは通信も可能であれば、他の様々なソフトも利用可能だろう。

 自分たちが何もできず取り残された世界で、彼らは普段通り機械を操り、慌てふためく自分たちを見て見ぬふりをしていた。先ほどの電話の少女と同じだった。

「人を……馬鹿にしている」

「そうだ、お前たちは馬鹿だ」

 声が聞こえてそちらを見ると、態度を取り繕うことなどとっくにやめてしまった岬が、通話を終えて立っていた。

「でも、いいモルモットになる」

 人間のことを実験動物呼ばわりするなど、先ほどの少女と同様に狂っているとしか思えない。

「奴は一時間後にここへ来ると言った。ならば必ず捕まえろ。そして、それ以上詮索するな」

 部下だと思っていた男からの指図には流石の長嶋も簡単には頷けない。しかし、

「そうすれば事は上手く収まる。俺たちが秘密裏に使っていた第三のスーパー人工衛星を市民にも使えるように計らおう」

 そう言われてしまうとそれ以上の策を出さない限りその提案が断りにくい。

 何が起きているのか理解が出来ぬまま、刻一刻と時は過ぎてゆく。

 止まっていた刑事部部長室の時間が、急速に動き始めた。


  ◆    ◆     ◆


 那由は兵藤のMCCを握りしめながら暫く呆然としていたが、やがて我に返ったようにそれを兵藤に手渡し、忘れていた息を吐いた。

「お疲れ」

 恭人の言葉に頷きを返す。

 全部で六回電話をした。一つは同じ場所からのリダイヤルだ。

 話す言葉は殆どが台本でできている。それ以外は嘘とごまかしのみで相手と会話をしなければならない。 

 心理戦など得意でない那由にとってそれは苦行だった。


 那由がやったこと、それはいたずら電話だ。

 自分が犯人だと名乗り出て、相手の反応を見る。何らかのリアクションがあるか探る。

 台詞回しはほぼ恭人の台本通り。時折目の前にMCCに書いたメモを出され、その通りに喋る。

 あとはなるべく相手を嘲笑うように、性格悪そうに振る舞ってできるだけ相手を煽ること。

 知らない単語が飛び出して来たら何も反応を返すことなく次の会話に移ること。

 それだけは徹底するように言われた。


 電話をかけた先は兵藤が昔所属していた自衛隊……もとい現セキュリティーシステム管理組織、サイバー犯罪に特化した警視庁の捜査二課、東京都知事、警視庁所轄、そして警視庁刑事部長だ。

 何故そこに電話をかけたのか、理由はいたって簡単である。恭人が、そこに組織のスパイがいるのではないかと踏んだからだ。

 完璧な情報を得るためにはハッキングだけではどうしても不十分である。制圧する組織の情報を全て把握するためにはやはり潜入して堂々とデータを盗むのが一番。だとしたら今挙げた主要機関のうちどこかには組織のスパイがいる。恭人と兵藤が話し合った結果そういう結論が出た。そして、彼らをあぶりだすために犯人のふりをして、こちらからも堂々と電話をかけさせてもらった。

 那由を利用して。


「すごいです」

 愛奈が尊敬の眼差しで那由を見た。

 最初はたどたどしさもあったが、最後刑事部長に直接電話をかけたときはほぼ完璧な演技といってよかった。

「犯人そのものですね」

「案外こいつが犯人かもしれないぞ」

「ちょっと……」

 那由はぐったりとソファーに凭れていた。堂々とは振る舞ったが、それは必死の演技にすぎない。数十分の間に異常なほど精神をすり減らしてしまった。

「いろいろ知りたいことはあるけど……まず私自身の情報が少し分かった」

 スピーカーをオンにしてあったために彼女と相手の会話はこの倉庫にいる人間全員で共有できている。

「名前のないプロジェクトのプロジェクト長、松井那由」

 『名前のないプロジェクト』という名前が出てきたのは計三回。松井那由という言葉が出てきたのは計一回。疑ってかかった方がいいかもしれないが、最後の相手は完全に錯乱状態で嘘を言っているとは思えない。それでも演技をしていたというのなら称賛に値するが、那由の名前を偽ることにメリットはない。

「これは、ほぼ確定事実として捉えてもいいの?」

「うん、いいと思う」 

 那由の問い掛けに恭人が頷く。彼の返答には迷いがなかった。

「それよりお前死んでいるらしいな」

「死んでいると思われている、の方が正しいと思うんだけど」

 いきなり何故生きているのだと聞かれたときは言葉に詰まってしまった。なんとか誤魔化しをきかせたが、知らない情報を問われても答えられるはずがない。

 ただ、それを前提に考えると組織から探されなかったことは納得だ。死んだはずの人間を探そうとする者などいるはずがない。

「松井那由ね……」

 自分の名前が誰か他人のもののように感じる。なゆ、という変わった響きもしっくりはこない。

「で、何故私は死んだことになっているの?」

「さあ。まあ反応からすると奴らはお前が死んだことに関して悲しいと思っていないようだな。寧ろ死んでいてくれた方が都合が良かった……そんな風に言っているようにも聞こえる」

 恭人の何気ない推測は確実に那由の心を抉った。自分は死んでいて構わない存在……そんな風に思われていた。そんなことを聞いて快く思う人間などいないだろう。那由も例外ではない。

 相手との関係がどうだったのかは分からないが、何故生きているのだと問われるのは流石にショックだった。

「しかもプロジェクト長ってなんだか偉そうな肩書きも持っちゃって」

「一番虚を突かれたのはその点だよ」

 プロジェクト長。肩書き的には相手よりも上の立場のようだが、相手の態度的にはそんなもの微塵も思わせなかった。一体何が何だか余計に分からなくなり、頭を抱えたくなる。代わりに左手を首元に添えた。

 そうして小さく息を吐いた那由の頭に、この一大作戦を始める前と同じように恭人の手が乗った。

「まあ、思った以上の情報が得られた。これで次の作戦に進めるよ。いきなり無理な要求をしたのにすごいな。ありがとう、那由」

「え……」

 ふいに出た褒め言葉に、思わず間抜けな声が出てしまう。

 散々『お前』や『貧乳』と呼ばれてきたのに突然ここで先ほど判明したばかりの本名を呼ばれる。否、それは別にいい。彼に褒められたことの方が那由にとって大きかった。

 彼が人を褒めることがあるなんて思えなかった……それも今はどうでもいい。

 人から褒められることなど滅多になかった。

 覚えていないのに、何故かそんな気がする。

 同時に、先ほど呆然としてしまった理由も分かった。励まされることもまた、されたことがなかったのだ。

 断片的に記憶が蘇ってくる。


 いつの記憶だろうか。

 ビルのような、マンションのような、無機質な建物の中。

 テストで百点を取り喜んでいる子どもがいた。それは、病室で会話をした幼い少女にそっくりだ。百点のテストを大人に見せ、堂々と笑顔で自慢をし、頭を撫でられている。純粋無垢な、いかにも年相応の笑みだった。

 そしてそれを……遠くで見ている自分がいる。容姿は幼く、その少女と同じくらいだ。輪郭ははっきりとしないが、それでも那由自身だと分かった。

 手に握られたのは同じく百点の答案。勇気を振り絞り、その二人に近づいてゆく。心の中で警鐘がなった。それ以上はダメだと記憶が訴えかける。しかし、幼い那由に心は届かない。

『先生、私も百点』

『あらそう。いつも通りね。それに比べてゆりちゃんは頑張ったじゃない。いつもはもっと低いのに……』

 那由の自慢は、簡単に流されてしまった。

 同じ百点の答案用紙なのに、扱いが違う。

 あの子は頑張ったと褒めてもらえるのに、自分はいつも通り。当たり前。

 同じように頑張っても、評価されない。

 次こそは褒められよう、そう思うのに百点以上の結果を残せない以上それは不可能で。

 そっと首元に左手を添えた。

 そんな記憶が走馬灯のように駆け巡る。


 一体あれはどこなのか。あの人物が誰なのか。それは分からない。正しい記憶かも分からない。しかし、その孤独な感情だけはどうにも頭に残っていた。

「大丈夫ですか……えっと、那由さん」

 ぼうっと目線を彷徨わせていた那由を心配し愛奈が覗き込む。

 話には参加していなかったが、兵藤も同じように心配そうな目を向けている。

「うん……平気。ちょっと疲れたみたい」

 心配してくる好意が痛い。段々と、感情や感覚だけ蘇ってくる。


「本当に、私が犯人だったとしたら?」

 ぽつりとそんな言葉が溢れる。

 電話口で語った言葉。それが妙に真実味を帯びていたのは、事実だったからだとしたら? まだ憶測に過ぎないが、可能性を考えると怖くなってくる。

 病院でつきとめた、あのデータを食すプログラムには見覚えがあった。あれは、本当に自分が作ったものなのではないだろうか。だから、あんなにも見覚えがあった。感覚が覚えていた。

「いや、ないだろ」

 恭人は呆れたようにそれを否定した。

「警察にいたスパイの男はデータを食すウイルスについて何も聞いてこなかった。むしろ、何故知っているんだと尋ねてきた。つまりあいつはそれについて知っていて、お前はそれについて知らないはずだった。そして、奴らの中でお前は死んだ状態。この事件の犯人は名前のないプロジェクトである可能性が高まり……お前はそれに参加していない可能性が高い」

 冷静な推理だった。否、それはよく考えれば分かることだった。

 しかし、本当に無関係なのだろうか。疑惑はどうも拭えない。

「私はあの組織のプロジェクト長だとか言われちゃっているけど、そんな人間が本当に無関係なのかな」

 あまり自分がそんな立場だとは思えないが、もしそうだったとして、その立場の人間なしでことが進むのだろうか。これに関しては恭人もすぐには口を開かなかった。その組織の実態が分からない以上なんとも言えない。


「憶測に過ぎないが」

 ここで重々しく口を開いたのは兵藤だった。

「名前だけのリーダーというものがある」

「名前だけ?」

「名目上その人物をトップに置くが、実際に指揮を執るのは別の人物という制度だ。特に危険な仕事を行う組織では取られやすい。もしトップの人間が狙われその身に何かがあっても組織全体のバランスは崩れない。もしくは……組織のトップという立場を与えることでその人物を縛り付ける」

 組織という形態について兵藤はやけに詳しい。真剣な眼差しはやはり並の人間よりも威圧を感じるが、もう皆慣れてきた。

「どういうこと?」

「反逆をしそうな人間、逃げ出そうとする人間を持ち上げることでその人物を事実的には拘束する」

 持ち上げることで拘束する。自由を奪う。何とも理不尽な方法だった。

「なるほど。兵藤さんもそうなんですね」

 同情するような恭人の言葉に兵藤がぴくりと反応する。

「ちょ、ちょっと恭人さん! ゴウさんはそうじゃなくて、ちゃんと人望が厚くて……」

 愛奈が慌てて弁解しようとするが、兵藤は思わぬ表情をした。

「ゴウさん?」

 彼は薄くだが笑っていた。

「その通りだ」

「え? だって……」

「キャリアでもなく経歴も浅い俺が一課の長にされたのは、単に下の立場であれこれ自由にされるのが煩わしかった、それだけだ。人望を得なければならない立場上、部下に無理を強いれなくなってしまった。今回だって本当は……」

「皆を巻き込んで組織を叩き潰しに行きたかった、ですよね」

 恭人の答えが当たっていたのはやはり兵藤の表情で分かる。

「兵藤さんは委縮しきっている。自分の優しさが認められたならそれを前面に押し出していくべきだと思っている。でも本当は、その状態に満足していない。そうですよね?」

 熱く語り掛けるような恭人の言葉。それが演技か否かは分からないが、何かが兵藤に届いたのは確かだった。

「お年寄りや子ども……一般市民に優しくするのはあなたの本心です。でも、部下に対してはどうですか? 本当は根性のない意気地なしの部下を叩いてやる気を出させたいとは思っていませんか? 一体何に怯えているんですか?」

 恭人は愛奈の方に視線を向けた。兵藤もそれにつられる。

「ほら、そこに人についていくことしか出来ない意気地なしの刑事がいますよ。交番のお巡りさんのような優しい……易しいことだけやっていればいいと思っている刑事がいます」

 恭人の熱弁を聞いていた愛奈はやっと理解をした。愛奈は、顔は怖いけれど実は心の優しい兵藤という人物像に期待をしていた。彼は誰に対しても本当は優しいのだ、そう思うことでうまく彼と付き合っていけると思っていた。しかし、それは彼を縛り付けていたに過ぎない。

「赤嶺愛奈」

「は……はい」

 フルネームで呼ばれ、怯えながら返事をする。

「お前の昼飯、本当は盗まれたんじゃないのか?」

 図星だった。

「なんで……」

「自ら恵んだなら普通はそう言うだろう。少なくともびくびくとする理由はない。後ろめたいことがあったから言わなかった」

 兵藤は分かっていた。それなのに言わずに自分の昼ご飯を差し出してきていた。

「何故盗ませた」

「そ、それは……突然取られて反応できなくて……」

「何故怒らなかった。何故追わなかった」

「だって、あんな小さな子……」

「子どもなら盗みをしていいという法律でもあるのか?」

 初めて、彼が怒鳴る声を聞いた。いくらだって怒鳴り散らしていいような顔をしているのに、彼は自分たちの前で怒る姿を見せたことがなかった。

「犯罪を取り締まるのが刑事だという観念を忘れてどうする」

 愛奈の目には涙が堪っていた。思わず一歩退いで震えあがっている。しかし、兵藤は言葉を止めない。

「俺が怖いなら、事件が怖いなら、何もできないなら、刑事なんてとっととやめてしまえ。お前は刑事失格だ」

 厳しい一言が放たれる。

 わざと怒りを促すような恭人の言葉よりも、よほど恐ろしい。無関係の那由でさえ、恐怖を感じてしまう。だとすれば愛奈は相当のものだろう。

 皆の想像の通り、愛奈は今にも泣きそうだった。

 しかし、目をこすり、なんとか涙が流れるのを堪えている。嗚咽が漏れることをなんとか堪えている。

「そう、ですよね……」

 少し間を置いてから、か細い声が漏れた。

「私は刑事失格です。勇気もない、臆病で力不足で……それなのに努力もしていない。自分で自分のことを刑事失格だって言って、でもそれだけです。努力をしてこなかった」

 だめだだめだと言いながら、そこから抜け出す努力はしなかった。何かを成し遂げようとする強い志など皆無だった。

「ゴウさん……いえ、兵藤課長…………ありがとうございます」

 愛奈は、深々と頭を下げた。

「叱ってくださって、ありがとうございます。それに、私のことを見捨てないで見てくださって、ありがとうございます」

 遂に、堪えていた涙がぽたりと零れる。

「もう一度、チャンスをください」

 頭は下げたまま、声を張り上げる。

「私、頑張ります、から」

 その言葉は途切れ途切れになり、語尾は消えてしまった。情けなく思ったのか、愛奈の顔は真っ赤になっている。

 恭人はその様子を見て薄っすらと笑った。そして、兵藤に目配せする。彼の言わんとすることは、兵藤にしっかり伝わった。

「その言葉、本当だな」

「……はい」

「本気で、俺についてこられるか?」

「はい!」

 どんな優しい言葉よりも、厳しい叱りの言葉の方が、愛奈の心を打ちのめすと同時に大きく動かした。

 他人の口から漏れた刑事失格という言葉。それは、愛奈がいつも口にするものとは重みが違った。そして、二度と言われまいと思った。

「このまま刑事失格でいるのは嫌です」

 兵藤に心の底から認められたい、そんな思いが芽生えた。

 彼の本心は、確実に愛奈に響いた。


「俺を……嫌いにはならないのか……」

 兵藤は一通り怒りをぶつけた後、ふと危惧していた言葉を漏らした。

「私、ゴウさんのことは正直前から苦手でしたから……」

 涙を袖で必死に拭いながら愛奈は笑う。

「今更叱られたくらいでどうとも思わないし、いつ叱られるか分かったものではないって思っていたので、なんだかその時がきてすっきりしているんです」

 その言葉は強がりかもしれない。しかし、愛奈が兵藤に対して今まで以上に恐怖を抱くことはなかった。

「何より、ゴウさんの言っていることは正しいです。腑抜けなのは事実です。ガツンと言われても、ああそうかって納得できます。頑張ろうって思えます。だから……もっと言っちゃってください。私にも、他の皆にも。それが正しいことならば、皆ゴウさんについていきますから」

 今度は、愛奈が説得をする番だった。

 本心を出したところで、壊れない人間関係もある。

 実はもう一つだけ、愛奈が兵藤を受け入れた理由があった。

 彼は、怒ると地を踵で叩く癖がある。しかし、今の彼にはそれが見受けられなかった。即ちこれは愛奈を思う故の説教であり、怒り任せに怒鳴った訳ではないということだ。それが分かるからこそ、余計にこの上司の素晴らしさを実感したのだ。


「さて……お前の場合はどうだろうな」

「私?」

「お前と部下の場合は」

 恭人は昨晩離したソファーをくっつけ、二人掛けの大きなソファーにすると、那由の隣に腰掛けた。

 那由をプロジェクト長と呼んだ男の声は、どう考えても那由より年上で、敬語も使ってはいない。特別那由を尊敬している訳ではない。那由の一声が組織に影響を及ぼすようにも見えない。一体、何故自分にはそのような立場が与えられているのか。

 やはり名目上のリーダーだったのか。那由はいつものように首元に左手を添えてじっと考えた。

「その癖、随分としみついているんだな」

 恭人がふいに呟いた。

「え?」

「考え事をするとき、いつも首元に左手を当てているだろ」

「ああ……そうみたい」

 記憶喪失になっていなければ、その癖をわざわざ考えることもしなかっただろう。

 恭人はすっと那由の首に自分の手を当てた。

「え?」

「お前……緊張しているのか?」

 手を離し、首を傾げて恭人は言った。

「緊張?」

「脈が速くなっている」

 自分では気が付かなかったことにはっとする。再び手を添えると、確かに速くなっているような気がした。

「まあ、知らない事実がたっぷり入り込んでいたしな」

「うん……」

 あまり知りたくなかった情報まで舞い込んできた。流石に全てを正面から受け止めるのはきついものがある。

 死んだと思われていた自分。犯人かもしれない自分。

 そんなものとは向き合いたくない。

 沈んだ表情をしていると、ふと恭人の両手が顔に近づき……那由の両頬をひっぱった。ふにゃりと頬はよく伸びて、那由の顔を歪ませる。

「はにふんの」

 午前と同じような状態になり、文句を垂れる。しかし、正しい発音はできない。恭人はそれに吹き出した。

「変な顔」

「きょ……恭人のせいでしょ」

 やっと離された頬を抑えてそう告げると、おかしそうに笑われる。

「うん、脈は戻った」

「え?」

 恭人は再び那由の首元に手を当て、にっこりと笑った。どうも緊張をほぐしてくれたらしい。那由は顔を背けた。この男から親切にされると気持ちの悪さを感じる。心の中から何かよく分からない感情がこみ上げてどうも精神が安定しないのだ。


「あれ……恭人……時間!」

 ふと思い出して叫ぶ。刑事部長に電話をかけたとき、恭人からの指示で一時間後にあちらへ向かうと宣告した。しかし、その時間まで残り十分。うかうかと話をしている場合ではなかった。

 一体そこまで出向いて何をするかは分からないが、行くと言ったからには守らなければならないだろう……那由はそう思った。

 しかし、恭人は何食わぬ顔である。

「行く必要はない」

「なんで?」

「犯罪者が警察に行ったら捕まるに決まっているだろう。そんな馬鹿な犯罪者がどこにいる」

 それは確かにそうだ。しかし、その台詞を那由に喋らせたのは恭人だった。

「来ると言っていた人物が来なかったとき相手がどう動くのか……それを確かめさせてもらう」

 つまり、嘘も作戦の内だということだ。

「ずるい……」

「賢いと言って欲しいな」

「じゃあずる賢い」

 那由はずるずるとソファーに身体を預けた。では、焦らず様子見ということか。

「あれ? でもどうやって動向を観察するの?」

 恭人は意味ありげな表情で那由から顔を背けて虚空を見ている兵藤に目を向けた。

「そのためにあの腑抜け刑事を説得したんじゃないか。ちゃんと部下に指示を与えるようにと」

 どうやら、それも策の内であったらしい。

 彼はにやりと意地の悪い笑みを浮かべた。

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