第7話:利用価値

「ご、ゴウさん……」

 また、一人になってしまった。

 正確には、はぐれたのだ。

 赤嶺愛奈は途方に暮れた目で周囲を見渡す。あんな高身長でガタイがいい男などそうそういないはずなのに、何故か見失ってしまった。

 せっかく少しは彼に近づけたと思った矢先であったのに。

 これもまた、何か理由があるのか、ただ単に彼女がのろまだっただけなのか、判断がつきにくいところである。

 それとも、今度こそ置いていかれたのか。

「……ゴウさんは悪い人じゃないはずです」

 そう信じている。彼のことは苦手としていたが、本当は悪い人物ではない。それは重々承知のことだ。

「絶対に一人ではいかせない」

 拳に力を入れ、力強く宣言する。ぶつぶつと独り言を言うことはもはや気にしなくなっていた。どうせ、誰も聞いてはいない。

「へえ、どこに?」

 否、いた。

 しかも聞いたことのある声がする。

「教えてほしいな、愛奈さん」

 目の前でにこりと笑う顔が恐ろしい。

 愛奈は最初に彼に会った時と同じように、ひっと小さく悲鳴を上げた。


「わ、私たちは市民の安全第一に暴行事件などを取り締まっているだけです。それ以外の動きは今のところ何一つしていません」

 愛奈は声が震えているのを誤魔化すように、必死に声を張り上げた。動揺しているとばれないよう、視線や手の動きには気を配る。

 現在彼女は、先ほど兵藤と昼ご飯を食べた人工公園のベンチで、何故か恭人に言い寄られていた。

 先ほどまで一緒にいた少女の姿はここにはない。

「本当に?」

「ほ、本当です」

 彼は、愛奈が兵藤から教えられた情報を聞きたがっているようだ。しかしそれは、絶対に外部に漏らすべきではないというのは愛奈でも分かる。だから、大きくかぶりを振った。

「でもさ、そういうのって生活安全課とかそういうものがするんじゃないの?」

「非常事態だからいいんです。街の平和を守るのに何課も関係ありません。私の上司はこんな事態に陥る前からこんなことばかりしています」

 それはそれでどうかと思うが、愛奈がつっこんでいては会話が進まない。

 元からそれほど広いベンチではないが、恭人は先ほどから妙に距離を詰めてきている。これ以上避けようとすればベンチから落ちてしまうギリギリの距離で、愛奈は何とか彼と距離を取ろうと足掻いていた。

 彼の方を向けばすぐそこに顔がある。それがなんとも居心地が悪い。

 恭人は整った顔立ちをしている。モデルをしていると言われても驚かないし、ビジュアルだけで彼に恋をする女性など後を絶たないだろう。仕草一つ一つもまた妙に色気があるというべきか、さぞ女性慣れしているということも容易に想像がついた。

 だからこそ、距離を取りたかった。ろくな男性経験などない愛奈にとって、そういうタイプの男性は一番の天敵なのだ。意図が読めない。兵藤とはまた別の意味で怖い存在だった。

「まあ、時間はいくらでもあるんだけど。最悪夜まで持ち越せば好都合かも」

「え?」

「夜に男女がすることといえば……分かるでしょ?」

 耳に息がかかるほどの距離で囁かれる。背中にぞくりとしたものが走った。

 艶めかしい言葉の響きと誘惑するような声色。作られたものだと分かっているのに、顔まで熱くなってくる。

「分かりません」

 愛奈が焦ったように答えると、恭人はうっすらと笑った。

「それはいい。無知な子を蹂躙してゆくのもまた面白い」

「面白いって……っ」

 しかも自分の方が年上なのに、何故か年下のように扱われているような気もする。

 耳に直接息がかかり避けようとすると、今度は顔を強引に恭人の方へと向けられた。

「逃げないで……気持ちよくしてあげる。俺に従順になって何でも喋ってしまうくらいにね」

 頬に添えられる手がゆっくりと愛奈の顔の輪郭をなぞる。すぐ側にある唇が甘い言葉を吐く。ぞくり、と身体に走ったのは嫌悪ではなかった。

 正面にあるその端正な顔から目を離せない。沈黙だけで愛奈の心は熱い欲情の中へと少しずつ沈められていくようであった。

「可愛い」

 極め付けのように言われると、脳が蕩けて自分を制御できなくなる。

 自分は本当にこの男にいいようにされてしまうかもしれない……その予感があるのに、逃げられない。知らない感覚に眩暈を覚え、重なりかけた吐息を受け入れようとして……彼女の僅かに残った理性が彼を突き飛ばした。

 口元を抑え、立ち上がる。まだ心臓は鼓動を早め、脳がその甘美な沈黙から抜け出すのに僅かに時間を要した。

 それでも落ち着くと立ち上がり、一歩距離を取りながら植え付けられそうになった変な気持ちを払拭するように叫ぶ。

「や、やめてください訴えます」

「冗談だよ、愛奈さんは可愛いな」

「は、はあ!?」

 自分の心を弄び操作するように次々と繰り出される、からかうような口調と熱い口説き文句。何の会話をしていたのかさえ、思い出すのに時間がかかった。身体の熱を冷ますため深呼吸をして、やっとのことで口を開く。

「そもそも何故、あなたに警察の機密情報を話さなければならないのですか?」

「協力したいからだよ。愛奈さんが素直に教えてくれればこっちも重要な情報を教えてあげる」

「重要な情報?」

 恭人はにやりと笑った。

「こればかりは警察も知らないんじゃないかな」

 もったいぶるような調子に苛立ちと恐怖が交じり合った感情を抱く。どうにも先が読めない。またあの手を使われたら逃れられないという不安も存在する。

「は、はったりかもしれません」

「ははは、まあそうだ」

 やんわりと得意げに笑う様さえ決まっていると、一瞬思ってしまったことに動揺を隠せず、なんとか顔を背けた。

「あ、あなたといると不快な気分になります」

 もう一歩退き、ここから立ち去ろうとする。これ以上彼と関わっていては危険だと頭の中で警鐘が鳴っている。

「待ってよ」

 しかし、その腕を強引に掴まれた。


 愛奈の腕は、女性にしては細くない方である。警察官になるために鍛えたその腕にはしっかりと筋肉が付いている。しかし、恭人は片手でそれを軽々と握った。振りほどけないほどの力で。これが男女の差かと、愛奈は落胆し、再びあの手が使われるのではないかと思った。

 しかし、今度は強引に顔を引き寄せられたりはしなかった。

「ごめんね、酷いこと言いすぎたみたい。だから、落ち着いて」

 恭人が少々困惑した表情になる。

「ちゃんと、話を聞いてほしいな」

「恭人……さん?」

 先ほどとはうって変わった愁いを帯びた瞳がなんとも言えない。冗談半分でからかっていたことを本気で反省し、今度こそ真面目に交渉する気になった……そんな風に見える。

 どれだけ知的な顔をしていたって相手は年下だ。

 そんな相手に焦ったり怒っていたり自分は大人気なかったのかもしれない。次々と、そんな考えに移されてゆく。

 彼の憂いに満ちた表情、悲哀の感情が溢れる年下独特の目は、愛奈の心を強く打った。誘惑されたときよりもずっと、心を動かされる。


 愛奈は大人しく再びその場に座った。座らざるを得なかった。それが例え誘導だとしても、こんな目をされると立ち去りにくくなった。

「俺は思うんだ。このネットワーク全体の不調は、何か人為的なものが関わっているんじゃないかなって。いや、そもそもその証拠を見つけてしまったと言うべきかな」

「証拠?」

 愛奈も、ネットワークの不具合は人為的なものだという認識を強めていた。

 故に、気になる。

「それ以上は交渉次第。でも、素直に話してくれるって信じている」

 今度は耳元ではなく、顔を向かせられ真正面から。恭人は眼鏡を外し、真っ直ぐに愛奈の目を見つめている。距離が、どんどん縮まる。

「や……」

「俺と愛奈さんの仲だもんね」

 そんな仲であった覚えはない。しかし恭人にそう言われると段々そうなのではないかと思えてきてしまう。不安を掻き立てられ、欲情させられ、激情させられ、同情させられ、本当の彼を見失い……彼への対処方法が完全に分からなくなる。

 もう流されてしまった方が楽……段々とそんな考えがはびこってゆく。

「愛奈さん」

 そして、再び唇の正面で囁く低い声に、愛奈の限界はやってきた。

「話します! 話しますから!」

 鼓動が激しい。どうにかなってしまいそうだ。それほどに誘導されかけた。彼は恐ろしい男だ……そんな認識を強める。

「うん、ありがとう。そうしてもらえて嬉しいよ。早くしないとあの貧乳に遠ざけてもらった愛奈さんの上司が帰ってきちゃうかもしれないからね」

 恭人が緩く笑う。どうやらこれこそが、彼の素顔らしい。まんまと流されてしまった。

 さらに、上司とはぐれた原因も彼の策略の内だったとは。もう言葉にならない。

 ただ、一度言ってしまったことは言ってしまったこと。素直に従うしかないのだろう。きっと何度断っても同じことの堂々巡りなのだから。

 愛奈は相手にも伝わるほど大きな溜息を吐いた。

「分かりました……といっても私が理解した内容は少ないですが……」

「いいよ。愛奈さんが知っている限りの情報で」

 結局は何もかも恭人の計算通りに進んでしまったようだ。愛奈はただただ自分の芯の弱さを実感し、再び溜息を吐いた。


  ◆   ◆    ◆


 恭人が愛奈の口を開かせる作戦を行う少し前、那由は道端に跪いていた。

「なんで私がこんなこと……」

 誰にも聞こえないような小声で呟く。

 手に抱えるのは昨日自分が飲み干した空のペットボトルだ。

 下を向きつつちらりと真横に視線を向ける。そこには、この場に似合わない暑苦しい真っ黒なスーツを着て、背筋をぴんと伸ばして歩いてくる男がいる。その後ろをびくびくと付いてゆく女も。

 今から那由は一芝居打たなければならない。本来芝居めいたことは恭人の持ち技であるはずだが、彼は彼でやることがあるらしい。

 那由が演じるのは、飲み水を失い熱中症になりかけて倒れそうな少女という役だ。それも薄幸そうであると尚良しだとか。

 ただし本当は水分をちゃんと取ること、本当に倒れそうになったら中断すること、と加えられた。

 注文が細かいと口論になったが、結局引き受けてしまった。これは、兵藤と愛奈を分担させるための作戦なのだ。家に帰れない人々でごった返す街中、あのびくびくと歩く女性を迷子にするのは案外簡単だろう。かといって、那由がうまく兵藤の気を引けるかどうかは別問題だ。

 こうしている間にも相手は近づいてくる。覚悟を決めるしかないだろう。


 那由は手に持っていたペットボトルを思い切り転がした。

 まずこれで兵藤の気を引く……つもりだった。しかし、コントロールは外れ、兵藤の後ろ、愛奈の元へ飛んでゆく。

 軌道をある程度計算して投げたはずだった。どの角度で力を加えればうまいこと相手の足元へ転がるか、相手の動きも考慮しながら投げたのだ。しかし、いくら計算したところで手首がうまく使えなければ意味がない。肝心の自分の身体能力を考慮していなかった。頭で理解しているからといって急にコントロールがうまくゆくわけではない。

 当初の目的とは外れペットボトルに気を取られたのは愛奈の方だった。

 こうなったら策を変えるしかない。

 人の密集地から飛び出し兵藤の手を強引に握る。

「来て」

 そして、一言告げてその手を引っ張ると、まるでひったくりのような手口で男を一人、愛奈の目前から連れ去ってしまった。

 後で恭人にシナリオと違うだろうと怒られてしまいそうだが、ひとまず二人を分断させたのだから結果オーライといったところだろう。


「お前は、病院にいた……」

「……そういえば顔ばれしていたね」

 人目につかなさそうなビルの隙間まで来て、気まずい沈黙を生む。

 顔がばれているのだから、演技など最初から無意味だった。薄幸そうな熱中症の少女など再現できなかった。

 おそらくこの作戦のシナリオ自体が恭人の策略だろう。大方こうなってしまうことを予測していて、尚且つ面白がって条件を付け加えたに違いない。

 さて、それはまた言及するとして。

「……ちょっと聞きたいことがあるんだけど」

 そう切り出してみる。

「俺にか?」

 が、反対に尋ねられて答えに詰まった。

 記憶を失ったと気づいてから、恭人やその父親、愛奈など数人と言葉を交わしてきたが、対面しただけで何かプレッシャーのようなものを感じたのは今が初めてだ。

 この男はおそらく口を割らない……そう考えた恭人はターゲットを愛奈に変えた。彼が愛奈に語ったことを彼女から聞けばいいだけの話なのだから。

 それさえこの男は読んでいる。雰囲気が、そう語っていた。

「私は、この事態を引き起こした犯人を知りたい」

「犯人?」

「さっきスーパー人工衛星を逆探知したら、とあるウイルスが発見された。それが衛星を経由するあらゆるプログラムを食し、今回の事態を招いたの」

 長ったらしい前振りをすることはやめて、単刀直入に分かったことを述べる。

「逆探知?」

「うん。私、こう見えても凄腕のプログラマーなの」

 自分で凄腕と言うのもおかしいと思ったが、記憶がない以上自分のその実力を自賛してもいいように思った。

 兵藤はその言葉を吟味しているのか、戸惑っているのか、何も言わない。だから手短に続ける。

「私は、あのデータを食すプログラムを作った人物に会いたい。会えば、何かが分かるかもしれない。だから」

「それが情報提供だとしたら快く受け取ろう。協力ありがとう」

 兵藤は那由の言葉を遮るように、一切表情を変えずに答えた。

「ただ、お前を捜査に関わらせることはできない」

 どうやら、既に言葉を先読みされている。那由は、上から見下すそのいかつい顔に、言いようのない焦りを感じていた。

「……どうして?」

「これは警察の仕事だからだ」

 彼はやはり頑固だった。それとも、何か思惑があるのだろうか。しかし、那由も一度目標を設定したら妥協することができない性分だ。そもそも犯人逮捕以前にしなければならないことがあった。

「お願い……どうしても、知らなきゃならないことがあるの」

 那由の第一の目標は、あくまで記憶を取り戻すということだ。失った記憶……そこには何か重要なものが隠されているような気がした。だから、少しでも情報が欲しい。

「危険だ」

「もうこれくらいしか術がない」

 流石に心身ともに疲れた。そろそろ現状を打破したい。そんな必死の思いで兵藤の目を見た。

 それから三十秒ほど、否、一分近くそうしていただろう。

「……そうか」

 彼はやっと短く言葉を発した。

「え?」

 少しばかりだが、その堅い表情もどこか和らいだように見える。

「それほどに熱い思いがあるのなら許可をする」

 どうやら、兵藤わざと厳しい言葉をかけて那由の反応を見ていたらしい。恭人にはめられ彼にも騙され……那由は気落ちせざるを得ない。

 しかし、ひとまずの信用を得ることができた。


「それで、そのスーパー人工衛星を逆探知したときの話を聞かせてもらおうか?」

「うん」

 那由は頷き、何から伝えていいか思案する。スーパー人工衛星をハッキングしたことは犯罪だろうか……いや、今の事態でそんなことを考えている暇ではないはずだ。ならばウイルスのことか……いや、国の人工衛星事情について伝えよう。最終的にそう結論を出す。

「この国には実はスーパー人工衛星が三つ存在しているんだけど……」

 そう切り出した途端、今度は胸倉を強く掴まれた。

「え……」

「お前、何者だ?」

 冷たい、怒りのこもった視線を向けられる。

 先ほどとは全く違う目だ。ぞくりと、背筋が凍る思いがして、一瞬身体が動かなかった。

「何者だ」

 再び問われる。何者だと聞かれてどう答えればいいのか那由には分からない。愛奈に聞かれたときにも戸惑った。自分の名前さえ覚えていないのだ。自分が何者かなどという抽象的な質問には答えられない。

 今さらだがこの男の顔は随分と怖い。近くにいるとかなりの威圧的空気を感じる。本当に警察官なのか疑ってしまうレベルだ。彼が現在怒っているというのもあるかもしれないが、本能的に逃げたいと思ってしまった。

「私は……」

 何か言おうとするが浮かばない。むしろ、

「私が何者であるかは私が知りたいくらいだよ」

 そう答えるのが自分の中で一番適当だった。

 誰かが教えてくれるものならば、是非知りたい。名前だけでもいい。このまま貧乳呼ばわりも嫌だ。

「あなたたちに関わるなって言うなら別にいい。私が独自で調べるから」

 那由には、彼が何故怒っているのかが分からない。スーパー人工衛星が三つであると言ったことが原因だとしたら、何故怒るのか。日本のスーパー人工衛星は二つなのになんて寝ぼけたことを言っているのだ、と考えているのだろうか。いや、おそらく違うだろう。

 おそらく、何故それを知っているのか、と責めているようだ。

 日本のスーパー人工衛星が三つあることは重要な機密事項だ……という記憶がある。現に恭人も彼の父親もそのことは知らなかった。しかしそれを兵藤は既に知っていて、何故那由のような人間が知っているのかと逆上している……そう思えた。

 こうなったら素直に記憶喪失のことを話した方がいい。そうすれば穏便に話ができるかもしれない。もう少し情報を提供してもらえるかもしれない。

 今度はそんな風に考え、兵藤の顔を真っ直ぐ見据えた。

「私は、記憶がない」

 まだ、探り探りではあるが、彼の顔色をうかがいつつ、大まかな流れをかいつまんで話す。恭人と共にいたときは彼が殆ど向こうから察してきたため、あまり自分について話したことがなかった。

 二日目にして初めて、記憶喪失についてはっきりと口にする。そしてやはり奇妙な話だと思った。道の真ん中で気が付いたら記憶がない……そんな事例は知らない。それに自分は何故こんなにも機械に詳しいのか。何故こんなにスラスラと複雑なプログラミングが出来てしまうのか。考えても分からない。


 一通り話し終える頃には兵藤の手も那由から離れていた。

「すまなかった」

 そして深々と頭を下げられる。流石にそこまでされるとは思っていなかった那由は密かに戸惑ったが、気を抜いてはまた何をされるか分からないため態度には十分に気を付ける。

 現に、彼の顔は未だに険しい。

「日本のスーパー人工衛星が三つあると言うのは記憶を失う以前から常識的に知っていた知識……そうなんだな?」

「うん、多分ね」

 記憶を失う前のことを断定的には言えないけれど、少なくとも日本の人スーパー工衛星が三つあることは事実であると分かっていた。それが一般には知られていないことだとも覚えていた。

 兵藤は一つ大きく息を吐いた。溜息ともまた違う。気持ちを切り替えるような呼吸だ。

「お前は……あの組織に関わっている可能性がある」

「あの組織?」

 那由が尋ねると、兵藤は口を噤んだ。やはり、簡単には口を割らないのだろう。それこそ、恭人の出番だと思うのだが彼はいない。愛奈を口説くことに時間をとっているのではないかと那由は推測した。

 首元に左手を添える。自分は何ができるのか。

 簡単には口を割らない。ならば、小さなことから一つずつ紐解いていった方がいいだろう。


「あなたは、その組織を嫌っている?」

「ああ」

 それは、反応を見れば分かる。

「対立していたの?」

「いや、向こうは俺たちのことを毛ほども気にしてはいないだろう」

「警察のことを気にしてはいない……」

「いや、奴ら以外の市民全般を人として気にしてはいない、そんな組織だ」

 それは酷過ぎる。そう思ってはっとした。混乱した街を見た時の那由もまた、そのような考え方を持っているかもしれない。

 自分でも疑ってしまう程に冷めた考えをしていた時が、あったかもしれない。

 組織……ということは少なくとも複数人で構成されていたのだろう。そしてそれがどのような集団なのかと真剣に考える。

「彼らはプログラミングを得意としていたんだよね?」

「……ああ」

 自分の特技を考えれば少しは分かる。恭人のように鋭い洞察力がなくとも、ある程度は推測可能なことだ。

「『それ』は、一体何?教えてよ。私はきっと、それに関わっている」

 確信できる。そんな大きな力を持った組織があるのなら、それに自分が属していたのなら……少々恐怖心もあるが、知りたいと思う。むしろ知って楽になりたい。

 しかし、待てども待てども今度こそ彼が口を開く様子は見えない。

「喋ったことで……私が傷つくと思っている?」

 ふと思い立って聞いてみる。

「寧ろ忘れていた方が好都合だ……なんて」

 那由は、昨日恭人とした会話を思い出していた。

 何か記憶に留めたくないことがあり自発的に記憶を閉じ込めたのだとしたら、思い出した時必ずしも幸せになるとは限らない。不幸になる可能性の方が高い。

 しかし、知らないがための、このもやもやした感情も大概我慢できない。

 例えそれがどんなに残酷な過去であろうとも向き合っていた方がいいと、少なくとも今の那由にはそう思える。

「教えてくれないのは、あなたのエゴだよ」

 その組織を嫌っているからこそ話さないのだとしたら、それは彼の自分勝手な感情である。それに付き合ってはいられない。

「どうなの? 警察のおじさん」

「兵藤だ」

「……兵藤さん」

 目を見る、というよりも下から睨むように彼を見続ける。

 すると、驚くことに彼の方から目を逸らしてしまった。

「俺も、その組織に詳しいわけではない。どうしたら連絡がとれるのか、本拠地はどこなのか分からない」

「え?」

 それでは、一体どうやって接触を図ろうとしていたのか。

「だからお前に大した情報をやることはできない」

 那由の顔に明らかに失望の表情が表れる。警察でさえ知らない。ならば、もう手立てはないではないか。

「ただ、一つ分かるのは奴らがこの状況をほくそ笑んで見ているということだ。こんな状態になって奴らが何も動いていないはずがない。俺は奴らが犯人であるか、もしくはこの状況になった何らかの理由を知っていると推測している」

「知っていて対処できないという可能性は?」

「そしたらお手上げだ」

「はあ……」

 随分と断定的かつ柔軟性に欠ける理論だ。しかし彼が言うと何故か説得力がでてきてしまう。

「少なくとも、奴らが何も動いていないはずはない。動いているものは必ず何かアクションを起こしている。あとはその尻尾をつかむだけ」

「で、その尻尾は見つけたの?」

 無言が返された。結局、無計画ではないか。無能なのはあの女性刑事だけでなく彼も同じ。歳を重ねて威勢もよく心優しい善人だからといって、特別能力が優れている訳ではない。そう、那由は思った。

 しかし、本当にそうだろうか?

 この無言は、否定の無言だろうか。肯定……とはまた違うが、彼は何かを隠している。

「尻尾は目の前にある。掴むか否か」

 重々しく口が開かれた。一瞬理解できなかったが、すぐに合点がいった。

「私……か」

 兵藤が捜査の上で見つけた尻尾は那由自身であるようだ。彼女を人質に組織に訴えかければ、向こうからアクションが返ってくるかもしれない。那由の記憶を取り戻せたのならば組織についての情報を何もかも引き出せるかもしれない。

「でも、私があなたと出会ったのは偶然であって、あなた自身が組織の尻尾を捕まえたわけじゃないよね。やっぱり考えが浅すぎる……」

「無線LAN」

「え?」

「あの組織の人間ならば、無線LANという普段使わない機械に食いつき、いずれ接触を図ってくるのではないかと思っていた」

「ああ……」

 彼も侮れない。すぐに先ほどの認識を改める。

 彼は、しっかりとプログラマーを釣るエサを用意していた。それに興味を持ったのは記憶喪失の少女だったが、それでも組織との接点を掴むことができたと考えると一つの成果だろう。那由が組織の人間だと確定した上で成り立つ話だが、何かが繋がっていると考えてよさそうだ。ならば、那由の存在はその謎の組織を引きずり出すのに都合がいい。

 しかし、そのように結果オーライだと考えるのは那由だけのようで、兵藤はどうも浮かない顔をしていた。

「お前が悪い人間には見えない。だからこそ、協力を仰ぐことはできない」

「……利用なりなんなり勝手にしてくれて構わないんだけど」

 どうやら兵藤はまだ出会ったばかりの少女を既に保護対象に入れようとしているらしい。しかし那由にはここに善意を持ち込む理由が分からない。

「一般市民に危害を加える訳には……とか思ったりしていないよね? もしそうだとしたら、私が言うのもなんだけど……あなたは刑事失格だと思うよ」

 誰よりも市民のことを考える、心優しい刑事。しかし、優しさだけではいつまでたっても真相にはたどり着けない。刑事として生易しすぎる。

「大体私、悪い人かもしれないし」

 最初は恭人の戯言程度だと思っていたが、その可能性は次第に高まってきていた。自分のこの知識は一体何に使われていたのか……よくないことなのではないのか。そんな予感がする。

「まあ、それでも怖気づいているのなら私は勝手にさせてもらうよ」

 そう言って那由が兵藤から目を話して振り向くと……すぐ背後に人がおり、目線を上げるとニヤリと人が悪い笑みを浮かべているのが分かった。


「いや、それは勿体ない。共同捜査といこうよ」

 こんな嫌味な笑みをする人間はなかなかいないと那由は思う。刑事二人を分断させるために分かれた恭人が、いつの間にか戻ってきていたらしい。この路地裏をすぐに見つけたとは思えないため、多少は探す手間もあっただろう。

 彼の後ろにはびくびくと怯えている女性刑事の姿もある。交渉は成立したということなのだろうか。しかし、恭人の背後に隠れて震えている理由は那由には分からない。

「この能無し二人組と?」

「の、能無しって!」

「お前、いくらなんでも能無しは酷いだろ。無能とか使えないとかオブラートに包んで言わないと」

「包んでないよね」

 恭人が来たことで那由もいつもの調子を取り戻したが、今度は二人とも、警察のことを言いたい放題だ。兵藤はともかく愛奈はますます震えている。

「まあ情報は搾取できたし、一応警察という名の『権力』が後ろ盾に合った方が助かる」

 恭人は完全に権力を道具扱いしている。向こうが自分たちを利用しないのならば、こちらが勝手に利用させてもらう……そういった意図も感じられた。

「こいつを囮に使おう」

「……いいよ」

 そして恭人は、遠慮なく那由を指さした。那由も反論はしない。先ほど自分も同じことを思ったからだ。

「お、囮って……どうやって?」

 微妙に恭人と距離をあけていた愛奈が、ゆっくりと兵藤の方に移動しながら尋ねる。

「どっかで見ているかもしれない組織の奴らに言うんだよ。お前たちの組織の一人が重大な情報を漏らそうとしているぞって……ん?」

「どうしたの?」

 自信ありげに言った恭人が言葉を止めた。

「お前は少なくとも昨日の正午以降、その組織と連絡は取っていない。奴らはお前のことを探そうとしたりしていないのか? 重大な情報を握って逃亡する可能性だってあるのに」

「うーん……実は私は下っ端中の下っ端で何も知らないとか? でも、それなら実は情報を盗んでいますとかはったりをかませばいいや」

 それは違う、と恭人は思った。現に彼女はスーパー人工衛星の秘密を知っている。それだって簡単に漏らしてはいけないであろう情報だ。この事態の中で連絡がつかないとなれば組織の人間は間違いなく彼女を探すはず。しかし、悩んでいても始まらない。まずは試してみない限り何も起こらない。

「一手、打つぞ」

 恭人は三人を見渡した。

 目の前にあるのは策に乗る気のある那由、兵藤に戸惑いの目を向ける愛奈、そして険しい表情を崩さない兵藤。頼りない面子にも見えるが、実際はこれだけの手札があれば十分だ。

「何をするの?」

「そうだな……いたずら電話、とでも言おうか」

 恭人は、パソコンの画面を見つめている那由と同じくらいに楽しそうな表情で爽やかに言い放った。

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