第6話:コンピュータウイルス
カチカチと、壁に付けられたアナログ時計の音が響く。文字盤が木でできた、あまり見かけないタイプの時計だ。アンティークな物を好む医者でもいるのだろうか。とはいっても部屋の隅に備え付けられたソファーは最新の柔らかな合成素材で作られており、誰もがおもわず頬ずりをしてしまいたくなってしまうような近代的な触り心地だった。
内科医専用の休憩室。二人は、控え室のさらに奥にあるその部屋を勝手に利用させてもらっていた。
部屋の奥に置かれたソファーに座ってぐったりとする那由の元へ、二人分のコーヒーを入れてきた恭人が戻って来る。
「ほら、これ食べろ」
「え?」
慌てて顔を上げた那由の眼前に恭人が差し出したのは、昨日彼が栄養食に飽きたときに食べると言っていたサンドイッチだった。
「手伝ってくれたお礼」
「でも……」
「人の好意は素直に受け取れ」
恭人は袋を雑に開け、強引に那由の口へと突っ込んだ。昨日も似たようなことがあったような気がする。
それがもう、遠い昔のようだ。
白いパンにチーズとレタスとトマトと魚の白身を揚げたものがぎゅっと挟み込まれている。咀嚼をするとチーズがその他の具材に絡み、まろやかな味が広がる。パンも思った以上にふわふわで噛んでいて心地がいい。
たかがサンドイッチなのに、不覚にも幸福感に包まれてしまった。
一つを全て食べ終わると、ついつい二つ目に目がいってしまう。こちらは魚の白身を揚げたものの代わりにツナマヨが挟み込まれていた。溢れんばかりの具材を見ただけで味覚が刺激される。慌てて目を逸らすが、それを恭人に見られてしまった。
「いいよ、食べて」
苦笑を漏らされ、少しだけ苦い気持ちになりつつも、恭人は既に固形栄養食を食べており、そのサンドイッチを食べない予定でいるらしい。
結局、那由はその好意に甘えて頬張ることにした。
「慣れないことをするって結構疲れるよな。何度か研修で来たとはいえ……専門家の付き添いなしっていうのは初めてだし」
恭人は自虐的な笑みを浮かべてそう呟いた。
那由には手際よく処置をしているようにしか見えなかったが、彼なりに苦労していたのだろうか。
ツナマヨとチーズの絡み合いに舌鼓をうちつつ、ぼんやりとその言葉を聞いていたが、
「まだ、顔色悪いな」
と、恭人は那由の顔を覗きこみながら言った。
「まだ……?」
顔色が悪いと告げられた記憶がない。敢えて言わなかったのだろうか。那由は少し首を傾げる。
「本当はこの後やってもらいたいことがあったが、やっぱり今日は休んで明日……」
「大丈夫」
顔色について悩んでいた那由は慌てて恭人の言葉を遮り、やや強引に身を乗り出した。
「やれることは今、やろう。で、事態を収めよう?」
このまま状態が変わらないのは、そろそろ疲れてきたのだ。
記憶がないというのもまた、辛く感じる要因かもしれない。
「無理は……するなよ。お前にまで体調を崩されたら困る」
「うん」
心配はさせたくないと笑ってみるが、どうも恭人のようにうまくはいかない。
表情筋とはなかなか思い通りに動かせないものらしかった。
◆ ◆ ◆
赤嶺愛奈は目の前の上司を見て戸惑っていた。
表情は相変わらず変わらない。寧ろ少し眉間にしわをよせている分、余計にそのいかつさが際立っている。獲物を前にした熊か何かのようだ。ただ、彼は別に怒っているわけではないのだろう。
今の彼は、おそらく悲しんでいる。
それは、過程を見ていたからこそ分かった。
先ほどまで愛奈の上司……兵藤豪は無法地帯と化した街で人助けをするために奔走していた。
怪我人は病院へ誘導し、喧嘩は警察手帳という権力を振りかざしてでも止めに入り、盗みには厳重注意という処置をする。力のないお年寄りには手を貸す。
彼は顔の割に情が深いのだ。
そして、その流れのまま泣いている子どもに声をかけたその時。
「不審者だー」と大声を出され、さらに泣きながら逃げられてしまった。
周りの人間もその子どもの所為でびくびくと彼を見ている。
善意で声をかけたのだ。ショックを受けたのは勿論のこと。泣いている子どもを救うことが出来ずさらに泣かせてしまったことに罪悪感も抱いているようだった。
彼は終始無言であるが、やるせない気持ちに浸っているのは分かる。
「ご、ゴウさん、そろそろお昼にしましょう。えっと、暑いですし休みましょう」
部下として何か気をきかせた言葉を言えればいいのだが、愛奈は彼の顔を怖いと恐れている人間の一人であるため、その方面でのフォローはできそうにない。
兵藤はそうだな、とぼそりと呟き頷いた。
相変わらず彼の纏う空気は堅苦しい。しかし少しだけ、脆い一面が垣間見られたような気がした。
中途半端な緑化政策の元で人工的に作られた公園のベンチへ腰を下ろす。気温を感知し温度を変えてくれる機械仕掛けのベンチも今は単なる無機質な椅子だ。座ると低温やけどでもしそうな熱を感じた。いつもなら暑さを感知して地面に備わったいくつもの小さな噴水から水が出るようになっているのだが、その機能も現在失われている。
愛奈はクールビズに乗じて夏用の薄手のジャケットを羽織る程度に着て、白のカッターシャツに黒のパンツという簡易な格好をしているが、兵藤はしっかりと上着を着てネクタイまで絞めている。視覚的にも暑苦しい。しかし、どんな時でもしっかりと決め込むのがまた彼の良さだと同僚たちは言っていた。
「あ……」
ここで愛奈は、重大なことに気が付いた。携帯していた固形の栄養食……それは朝子どもに盗まれてしまっていたのだ。昼ご飯の時間が遅くなったため、ただでさえお腹が空いている。一層、やるせない気分になった。
暫く項垂れていると、隣から無言で手が伸びてくる。
「え?」
兵藤の大きな手に、固形栄養食が一つ乗せられていた。
「もしかして、これ、私に?」
無言で頷き肯定される。
「あ、あ、ありがとうございます」
愛奈はまだ何も言っていなかった。それでも、この上司は愛奈の異変にすぐに気が付いたらしい。しかも、数少ない食料を分けてくれたりして。
彼は顔ほど怖い人ではない……それは分かっていたつもりだ。
しかし、何を考えているか相変わらず読めない。市民のことを考えているのかもしれない。はたまた部下である愛奈たちのことを考えているのかもしれないし、子どもを泣かせてしまったことを憂いているのかもしれない。
分からない。が、そろそろ彼を理解したい……そう思った。
「ゴウさんって、昔は警察官じゃなかったんですよね」
ひとまず、何気ない会話の導入を装ってみる。しかし返事がない。
「どうして、刑事になったんですか? 私は、その……最初交番のお巡りさんになりたかったんです。小さい頃MCCの地図機能が使えずに迷子になって……その時助けてくれたお巡りさんのことが忘れられなくて……でも、必死に勉強してたらキャリア試験に受かっちゃって、飛び級でこんなところへ……私に何の実力があるのか見当もつきません……なんて」
自虐ネタを加えつつ、それとなく尋ねてみる。
兵藤はやはり黙っていた。黙って煙草を取り出し、火をつける。彼はアナログ式の煙草を未だに愛用する数少ない人間の一人だ。
二、三度ふかせた辺りでやっと彼は口を開いた。
「この世界は止まっている」
「……え?」
いきなり世界などという単語が飛び出し、愛奈では理解が追い付かない。
自分の聞き間違いかと思ったが、そうとしか聞き取れなかった。
「それは、どういう……」
「今の人間は画面の中ばかり見ている。精巧にプログラムされた機械に頼ればなんでもできると思っている。さっきのお前もそうだ。地図機能が使えずに迷ったなど……道を歩くには地図機能が必要だという前提で話を進めている」
確かに、そうだ。道に迷ったのは地図機能の操作能力不足……そう決め込んで、自分の方向感覚の鈍さについては触れていない。
「セキュリティーシステムによって厳重に完備された街。逃走シミュレーションソフトに対抗するための追跡シミュレーションソフト。これによって刑事の仕事というのもずいぶん減って楽になった。そもそも、現実の世界で犯罪を起こそうと考える人間自体も減ったが」
そして、そんな世の中だからこそ捜査一課は隅に追いやられた。
現代の犯罪はサイバー犯罪が主流。それに対しても数々の防御プログラムが作られている。その攻防戦だ。
「俺が昔いた企業は……機械に溺れていた」
兵藤は、セキュリティーシステムを管理する企業で働いていた。元は、自衛隊という政府直属の組織だったのだが、その名は世間から忘れられてきている。
現在では武力抗争など起きず、自然災害も事前に察知できてしまう。かくして仕事を失った自衛隊は働き方を変えた。身体を使った訓練も行うと共に、他国が武力を行使して攻めてくることを想定して作った不審物発見のためのシステムを応用した、巨大なセキュリティーシステムの管理を行うようになった。
現在の自衛隊の活動はそれがほぼ主流だ。
政府直属のセキュリティーシステム管理企業。
キャッチコピーは『これさえあれば警察いらず』
勿論、このキャッチコピーは警察の反感を買い、今でも双方は仲が悪い。
セキュリティーシステムは街を守るための絶対的な防御壁だ。
不審な人物がいようものならすぐに見つけ出し即座に管理会社に連絡する。人間の目よりもカメラの目の方が優れているのは確実で、街中のカメラの個数は年々増え続けている。
勿論、そんなセキュリティーシステムを潜って犯罪を起こそうとする輩もいるため、慢心はできない。そのために新たなシステムを作り出し、壁を増やし……そんなことを繰り返していた。
ただしその反面、自衛隊は昔とは異なり自らの身体を使って犯罪を防いだり市民を守ろうとはしなくなってしまった。
兵藤は趣味の一環として身体づくりを行っていたものの、実際は機械による防犯の方が確実であると思っていた。
しかし……システムの機能点検のために出向いた街で……その考えは揺らいだ。
マンションが並ぶ郊外のベッドタウン。そこは特にセキュリティーシステムがフル稼働する場所であった。住民の穏やかな生活を守るため、最先端の技術が使われている。
たが、そこにあるのは穏やかな生活とはかけ離れたものだった。
無機質なマンションが規則正しく並ぶだけの簡素な街。
人工的な公園さえも存在しない。
そして、住人同士がすれ違っても挨拶一つなく、街中に冷たい空気が流れている。自治体のようなものも存在しないらしい。
必要がないからだ。
木々や公園は視界を悪くするだけのため必要がない。
住人同士の付き合いなどなくても不審な人物は追い出せるため必要ない。
それよりもインターネット上で作れる友人の方に皆執着する。
家族が帰ってきても出迎える人がいない。
淡々と、安全な生活が繰り返されるだけ。
兵藤は今まで知らなかったその街の様子に愕然とした。そして、恐怖した。
自分たちが作り出したかったのは、こんな街だったのか、と。
兵藤はその日頭を抱えながらオフィスに戻るための街を歩いていた。
機能点検は無事に終わった。異常はなしだ。
けれど、心にわだかまりは残る。以前点検に来た者は何も思わなかったのだろうか。
そうだとしたら、あまりにも非情だと思った。
コミュニケーションなど必要ないと言ってしまえばそれまでだ。けれど、本当にそれが正しいのか。先人たちが築き上げてきた人間関係というものは、こんなにも簡単に失われていくのか。
悶々としながら歩いていると、兵藤の前に一人の男が現れた。
夏日にも関わらずきっちりとスーツを着込んだ中年の男。そんな男がお年寄りの荷物を持ち笑顔で話をしながら歩いているのだ。兵藤は、あんな風に誰かが談笑している姿を見るのは久しぶりだと思った。それほどに、周囲の人間関係が枯渇していたのかもしれない。
「彼が、俺の最初の上司だ」
その男は警察官だった。事件など見当たらなくとも、街へ出向き、人々と関わる。アナログタイプの刑事だった。兵藤はすぐに彼に惹かれた。自分が探しているものはそれだったと、一目で分かったという。
「俺は自衛隊を即座にやめて、警察官を目指した。そんな柄ではないかもしれない。でも、機械ではできないことをしてみたかった。本当はああいうのは交番勤めがやるようなものだろうけどな」
愛奈は、気づけば兵藤の話に聞き入っていた。
彼が現場へ足を運ぶことにこだわる理由は……街へ出向き街の人々に目を向けるその理由は……そんな過去が関わっていたらしい。
「彼は言った。この世界は止まっていると。生きてはいないと。人と人のコミュニケーションが枯渇している。だからせめて自分たちは足を動かす。機械では防げない犯罪を未然に防ぐため努力を欠かさない。彼は、最大のセキュリティーは人間同士の絆だと……殉職するその日まで言い続けていた」
「殉職……されたのですか」
このご時世、滅多に聞かない言葉だ。一昔前の刑事ドラマでも見ていなければ分からないだろう。
「子どもを庇って車に轢かれた」
「……そうですか」
車の安全装置が正常に働かなかったのか……そう思ってはっとする。また機械の所為にしている。これは、飛び出した子どもの過失。そして、その子どもを兵藤の上司は身を挺して守ったのだ。
この世界は止まっている。ならば、自分たちが動かなくてどうする。
「と、いっても結局はこんな機械に頼っているからなんとも言えないがな」
兵藤はテザリング用の黒いルーターを手で弄びながら呟く。
実際に足を運ぶよりも電話やメールの方が確実に早い。
しかし、それらが全て機能しなくなった今……自分たちは初めて気が付く。
いかに自分自身の力で生きてこなかったかを。
「昨日見た自衛隊は、それはそれはパニック状態だった。身体を使った訓練を怠り、機械に頼りきりだった自分たちが築き上げたものは皆役立たない。辛うじて使えるのはこのルーターだったが、この混乱状態で使い道も分からない。だから、俺が貰ってきてやった」
そして彼は、冷静にこれを使いこなしている。
「そういえば、何故無線LANを利用するようになったんですか? 情報漏えいを防ぐためって言っていましたけど、自衛隊は防御において絶対的な自信があったはず……セキュリティーにおいても、他のデジタルな分野においても」
愛奈が尋ねると兵藤は急に押し黙った。
急にやってきた沈黙に、自分は何かいけないことを言ってしまったのだろうか……と、愛奈は背に冷や汗をかいた。
単独の時に彼を怒らせることだけは勘弁だ。
「あ、あのもし何かおかしなことを言ったようなら……」
「上には上がいる」
「え?」
「自衛隊でも太刀打ちできない組織は存在する。それは犯罪組織ではないが……今回の事件にも絡んでいるのかもしれない」
警察を馬鹿にするほどに自信のある組織でも、太刀打ちできないような組織。
そんなもの、愛奈には見当がつかない。
「もっと広い範囲で、日本のネットワーク全体を支配する奴らがいる。様々なシステムやソフトを次々と作り出し、より世間を機械化してゆく奴らが」
兵藤の眉間にしわが寄る。初めて聞く深刻そうな声は、何者かに聞こえることを恐れているのか随分と小声だった。
「……まあ、俺も全貌は知らないが、そこの侵食を防ぐため、秘密裏に使用しだしたのが旧来のネットワークに接続する無線LANだ。でもそんなもの、大して意味を為さなかったかもしれないが。奴らは恐ろしい。しかしこの状況を打破できるのは、また奴らだけなのかもしれない」
唐突にスケールの大きな話を聞いてしまい、愛奈は呆然とする。
現代日本にそんな組織があるなど、捜査一課に入った後も一度も聞いたことがない。
「ネットワークを支配……あの、もしかしてその組織が今回のネットワークの不調に関係があったりするのでしょうか」
ふと、思った。それほどの大きな組織ならば、国中を巻き込むような大きな騒動も人為的に起こせるかもしれない。
「……それはまだ分からない。ただ、この事態をどうにかできるとしたら奴らだけだ」
すぐに犯人だと疑ってかかるのはよくないが、ネットワークを広く支配している彼らならば、この事態の原因くらいは知っている……もしくは解決の糸口を見つけられると考えられる。
「なら、今すぐその人たちにコンタクトをとって……」
「いや、それは難しい」
愛奈の言葉を、兵藤が重々しく否定する。
「どうしてですか?」
愛奈にはまだ分からない。例え政府だったとしても、何か根拠があれば警察の権限を利用して踏み込むことはできる。なのに警察が容易に接触できない組織など……
「奴らは自分たちの尻尾を掴ませないからだ。向こうは勝手にこちらの情報をハッキングして攫って行くが、自分たちの情報は漏らさない。幹部から依頼を受けて一時的に警察と協力したことはあるが」
「協力?」
「逃走用シミュレーションソフトに対抗するための追跡用シミュレーションソフト。あれを作ったのは奴らだという噂がある」
追跡用シミュレーションソフトお陰で、犯人逮捕はますます楽になった。愛奈にとっても、あれは便利なシステムだ。
「な、何のために?」
「知らん」
「え……」
「ただそれは、いくらでもそちらには協力してやるからこちらについては探るな、という意思表示に思えるな」
一度は協力してくれた人たちが、本当に悪質なことをしているのだろうか。
警察の目を忍ぶような何かを行っている組織なのだろうか。
愛奈が今聞いた限りだと、どうもピンとこない。
「あの、何故それをみんなの前で言わなかったのですか?」
それが分かっていれば、協力してその組織を探すことができるかもしれないのに。
尋ねると、兵藤再びは眉間にしわを寄せた。愛奈に話したことが間違いだった……そう言いたげな表情だ。
「刑事の勘が騒ぐ……奴らに触れたら最後、ただでは帰れないだろうと」
「な……」
「だから、この件は俺だけで執り行う。全ては俺の責任だ」
そう言って、兵藤は急に立ち上がりスタスタと歩き始める。
「ちょ、ちょっと待ってください!」
それではあまりにも、一人で背負うリスクが大きすぎる。
「捜査一課の人間は、皆ゴウさんを信頼しています。力になりたいと思っています。だから……」
「だからこそ、だ」
愛奈は慌てて立ち上がり、歩調を早める兵藤を追いかけた。
彼は堅物である前にあまりにも強情で、自分たちの知らないまま何かを行おうとしている。
今愛奈にできることは、置いて行かれないこと……そして、
「なんとか、したい」
誰にも聞こえない声でそう呟くことだけだった。
◆ ◆ ◆
「流石病院、ハイスペック」
独り言ちた那由の言葉はどこか浮かれていた。
キーボードを叩く音もまた軽快だ。
いくら最近のMCCのスペックが優れてきているといっても、所詮は小型端末。容量には限界がある。
多量のデータ処理を必要とする作業は設置型のコンピュータが必要不可欠だ。それに、電子端末に付属するキーボードよりも、パソコンに付随するキーボードの方が断然操作しやすい。
那由の手も、その感覚を覚えているようだった。
「楽しい」
言葉通り楽しそうな笑みを浮かべながら、軽快なテンポでキーボードを叩き続ける。
彼女が使っているのは恭人の父親、浪川敦志の職場用パソコンだ。
パスコードは例にもよって例の如く非合法な方法で解除した。今回は四桁の数字のパスワードではなかったため多少時間はかかったが、それでもやっていることは同じことである。
「お前、何やっているんだ?」
椅子に腰かけ肘をつきながらカタカタと音を鳴らす指先を暫く眺めていた恭人は思わず尋ねた。画面上に流れていく文字。全く知らない記号の羅列だが、意味はあるのだろう。
しかし、那由の態度で分かる。彼女は……
「このパソコンのスクリーンセーバーのグラフィックって独特なんだよね。一見不規則に見えるんだけどおそらくフラクタル性があって……だから解析してみたの。そしたら……ほら、こんな数式が……」
「……楽しいか?」
「うん」
言っていることはさっぱり理解できないが、彼女は完全に趣味に走っている。恭人が提案した当初の目的とは違う。
「ええっと……自分でやりたいと名乗り出たのは誰だっけ?」
「分かってるよ。ちゃんと、同時進行してる。面倒くさいからコンピュータに自分で計算させていただけ。ほら」
那由はキーボードを叩いて、先ほどまで開いていたものとは違う画面を表示させた。そこにはひたすら英語や数字の記号が流れている。
「不思議だよね、自分に関する記憶は一切ないのに、こんなことだけできちゃうなんて」
那由には依然記憶がない。自分の名前すら分からない。
それなのに、コンピュータに関する知識は人一倍だ。恭人も知らない知識をすらすらと並べることができるし、頭の中でプログラムを組み立て実行することができる。
「まあ、ごゆっくり」
恭人はまた何やらカタカタとやりだした那由を横目に見つつ、マグカップで二杯目のコーヒーを飲んだ。現在の時刻は午後三時。地震からもう丸一日経った。この時間はどうも眠くなるが、流石に言いつけた身である自分が寝てはいけないだろうという義務感くらいは持っている。
那由が真面目に作業をしているのならば……だが。
このパソコンの所持者は未だここへくる気配がない。余程脅しが効いたのか、今更責任感に掻き立てられたのか、はたまた病院の外へ逃げたのか。
恭人からすれば逃げたという説が一番正しいように思える。親子は似るものであるという言葉が正しいのならば、自分と同じように父親にも逃走癖があるのではないだろうか。眠気を覚ますためにそんな取るに足らないことを考える。
ただ、いずれにせよ今は彼がいない方が好都合だ。
存分にパソコンを使うことができる。他の看護師たちにはいろいろとお願いを言って出て行ってもらったのは少々申し訳ないが。
「まあ、元気になったようならよかった」
「え? 何か言った?」
「いや、別に」
今の那由には、先ほどまで顔を青くしていた面影がどこにもない。
病室を周っていた時はその華奢な身体が倒れてしまうのではないかと不安になったが、ひとまず今は心配の必要がなさそうだ。
「にしても凄いこと思いつくね……スーパー人工衛星をハッキングなんて」
その凄いことを実行に移しながら、那由は呟いた。
恭人が那由に頼んだ仕事。それが、この国のネットワークを司るスーパー人工衛星のハッキングである。
このシステム全ての乱れは一体何から生じたものなのかはっきりしていない。人工衛星との通信が途切れたのか、何らか理由で電波が妨害されているのか、人工衛星そのものが不調なのか。
様々に考察できるが、手っ取り早いのは人工衛星自体を疑うことだ。だから一度、人工衛星を探知して調べてみることにしたのだ。
残念ながら恭人にはそれを思いついても実行する能力がない。
だから、これは完全に那由頼みである。そもそも、彼女がいなければ考え付かないような作戦だった。
元々恭人は一連のネットワークエラーに関して自分から関わる気持ちなどなかった。せいぜい暇つぶし程度にパニック状態の街を眺めていただけだ。しかし、病院の状態を見て、完全に目的は変わった。病院をこのまま放置するのは彼のポリシーに反する。もう呑気に静観はしていられない。自分のできる限りのことを尽くすしかない。
再び、キーボードを叩く那由を見つめる。
こちらにはそのためのいい手駒がいる。この調子で動けば、もしかしたら……そこまで考えて小さな疑問を抱いた。
手駒? はたして、本当にそうだろうか。
機械に詳しく、明らかに一般人ではない知識を持っている。そして、難しいプログラムをカタカタと難なく組み立ててしまう。今の状況で使うにはもってこいの相手だ。
しかし、そのためだけの単なる手駒だと思っているなら、自分がここまで気を使うことはなかっただろう。時折記憶を取り戻しかけて青くなる顔を気遣うことはなかっただろう。勿論医者の見習いとして病人は放っておけないという意識もあるが、それともまた種類が違う。
恭人はこの少女を見る度に、今まで人を見る時とは別の何かを感じていた。
熱心にパソコンを覗きこむ頭。忙しなく動かされる小さな手。
目つきがあまりに冷たいことを除けば顔立ちの整った美少女の部類に入るだろう。しかし胸の大きさを含め幼さの残る外見は自分の好みではないはずだ。それなのに、心のどこかで……何かがひっかかっている。
「できた」
恭人がモヤモヤと巡らせていた思考を遮るように、那由が小さく呟いた。
「やったことのない操作だし多少頭を使ったけど、まあこんなものでしょ」
一体どうしたのかと詳細を聞いたとしても、分からないことは間違いないため尋ねはしない。今まで考えていたことは頭の隅に追いやり、黙って画面を覗いた。
「で、何が分かった?」
「ちょっと待ってね……今独自のプログラムを作ってあちらに送って、返ってくるか確かめている。ほら、来た……んーっと……」
画面に表示されるのはパソコンのスクリーンセーバーのように見えるが、先ほど見せられたものとは種類が違う。
「いろいろグラフィック変えて作ってみたのを、あちらのサーバー経由で表示させるっていう滅茶苦茶非効率で無意味なプログラムなんだけど」
自ら新しく作ったデータを一度スーパー人工衛星の方に送信し、受信する。そうすればあちらが正常に動いているかどうか確かめることができると考えたらしい。
「うん、今のところちゃんと受信しているし……」
そこで、那由の言葉が止まる。
「え……?」
「どうした?不調か?」
那由は慌ててカタカタとキーボードを打った。しかし、表情は固まったままだ。
「ウイルス」
ぽつりと単語を口にする。
「食べられちゃう」
「は?」
食べられる、とはどういうことか。
「データそのものを食べるウイルスだよ」
「食べる……ってのは比喩表現か」
「まあ比喩っていえば比喩なんだけど、ただ単にデリートするのとは違って、噛み砕いて飲み込んじゃうから、復元はもう不可能。そんな、高性能ウイルス……」
小さくエラー表示が出て、記号の羅列が次々と消えていく。
「しかもこんな細かなプログラミング……一体、誰が……いや、そもそもの元凶がこれなんだ」
ブツブツと呟いていた那由の中で、何かが繋がったようだ。
「俺にも分かるように説明してくれるか?」
人より多少物分りがいい恭人でも、流石に専門外のことは全く分からない。
「えっと……多分、スーパー人工衛星の中に、データを食すウイルスが仕組まれていた。人工衛星経由で働くソフトやプログラム、ネットワークなんかが動かなくなったのはデータをウイルスに食べられてしまったから。よく考えたらおかしいんだよね。例えば家の鍵なんかにしても、セキュリティー会社自体の接続はできなくたって、それ単体の働きまで失われるのはおかしい。全てのデータが、食べられているからこそ、全く機能しなくなってしまうんだ。まあ大雑把な解釈はウイルス感染と同じ」
セキュリティーシステムも、天気や気温のシミュレーションシステムも、HO2システムさえ、ウイルスに食べられた結果働かなくなってしまった。
「ん?でもMCCやそのパソコンは一応動くよな」
それならば、インターネットや電話回線を利用する手元のMCCや、今那由が使っているパソコンが全く使えなくなってもおかしくない。
「MCCやパソコンみたいな機器はオンライン作業とオフライン作業が別の媒体になっているの。画面は共有しているけど内部は二つの小型コンピュータが存在しているって感じかな。オンラインの方が壊れても、オフライン操作の方まで侵食されなかった……多分そんなところだと思う」
またしても、恭人の全く知らない知識をさらさらと並べられた。那由はもうそんな自分の知識自身に疑問を覚えてはいないようだ。左手を首元に当てつつ夢中になって語っている。
「で、そんな問題のプログラムだけど……まあ、簡単に作れないすごく複雑なつくりになっているってこと。一体誰がこんなことを……新手のテロとか……」
そのウイルスがどう仕掛けられたかは分からないが、今回のネットワーク全体の不調は全て、一つの精巧なウイルスがもたらしたものらしい。
「なら、そのウイルスを排除すれば……いや、それじゃあだめか。壊されたデータは……」
「食べられた」
「……食べられたデータは元には戻らない」
那由にとって『壊された』と『食べられた』は別物らしい。
「壊されたくらいなら、簡単に復元できるから」
その簡単とは、一体どのレベルの範囲だろう。
「再起不能か……一体誰がこんなことを」
誰が、何の目的でこの国のプログラムを一斉に停止させてしまったのか。それはまだ分からない。
「まあ、なんとかこのプログラムを部分的にコピーすることに成功したからこれを読み取って……」
那由はパソコンの画面から目を離さないままに喋る。
今の彼女の集中力は並大抵ではないだろう。
「あれ……?」
隣で画面を見つめる恭人に目もくれず暫く操作を続け、そして再び手が止まる。
「なんか、見たことあるような……」
「え?」
「こんなのきっと、テロ行為に使われる兵器のようなプログラム。世間に出回っている可能性はまずない……と思う。でも……」
那由は首に左手を添え画面をスクロールしていたが、やがてぶつぶつと呟き始める。
「やっぱり、自分の目で見たことがある……記憶にはないけど、でも、感覚が覚えている。このプログラムにはどこかで出会ったことがあるんだって。実行していることは残酷だけど、理路整然とした綺麗なプログラム……あと少し……あと少しで思い出せそうなのに……なんだろう、これ」
記憶を思い出そうとしているのか、那由の顔がしかめられる。恭人は黙ってそれを待つしかない。彼女が対面している問題には今のところ踏み込めない。
「一体これを作ったのは誰なんだろう」
困惑、というよりは単純に興味を示す顔。その相手に会えば何か手がかりがつかめるかもしれない、そう思っているのかもしれない。
「……相手は市民を境地に陥れた残酷なテロリストかもしれないぞ」
恭人は一応忠告を挟んでみた。
「それでも、会ってみたい」
しかし案の定、その言葉は効果がなかったようで、那由は無謀に近いことを言い出した。
その人物に会えば何かが思い出せるかもしれない。そして、この事態の全貌が分かるかもしれない。おそらく、那由はそんな期待を抱いている。
「どうするつもりだ? どうやってその人物を探す? その天才プログラマーに繋がるネットワークだってウイルスに壊され……食べられているわけだろ?」
無謀な策は否定してかかるが、やはり那由は聞いていない。記憶を取り戻せるかもしれないチャンスを前に思考が暴走しかけている。
「繋がり……そうだ、三つめのスーパー人工衛星……」
那由が呟く。一つ目、二つ目は機能しておらずとも、知られざる三つ目のスーパー人工衛星は機能しているかもしれない。けれど、それが何になるのだろう。既に壊されたデータは元に戻らない。犯人がその三つ目を利用しているとしても、今からアクセスしてたどり着けるのか。
恭人には、メリットが感じられない。
「よし、物理的に探すか」
悩んだ末、そう提案した。
「どうやって?」
「……犯人を突き止めるには最適な機関があるだろ」
窓の外を見る。
まだ日は高い。行動を起こす時間はある。
悪人を捕まえる……そのための機関は確かに存在している。けれど、
「あの弱虫刑事に頼るの?」
那由の脳裏に浮かぶのは死を恐れて涙するいい大人だ。
「いや、干渉したいのはその上司」
その泣き虫刑事の上司は、この混乱状態下で無線LANを利用するという策が浮かぶくらいには頭のきれた人間だった。
「でも、そいつが簡単に口を割るとは思わないからな。さて、どうするか」
恭人の頭で組み立てられるのは那由とはまた違った式。会話力を使った現実でのシミュレーションだ。
「いや、やっぱり部下の方でいいんだ」
思案の末、恭人はそう呟いた。
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