第5話:病棟巡回

 刑事二人が去った後、那由は小さく溜息をついて再び恭人に向き合った。

「……それで、あなたはどうするの」

 このまま内科の控え室にとどまっている必要もないため、いい加減自分達も動きださなければならない。ただ、那由はついてきただけで特に策もないため、ここから先どうするかはほぼ恭人の意思次第になる。

「俺が一番やりたいのは……患者のメンタルケア。でも、多分俺はまだ母親のことを引きずっていて、完全に私情に飲み込まれている。こんな状態でそれができるとは思えない。だから、普通に内科医のたまごとして手伝いをするか……病人のフリをしているアンドロイドもどきを見つけるか……」

「ああ、さっき言っていたやつだね」

 彼と彼の父が言っていた人間ではない患者。それは昨日街でも目撃した違和感のある人間たちのことらしい。

「稲葉さん、不審な患者の資料ってありますか?」

「ああ、うん……ちょっと待って」

 恭人は三十代そこらの女性看護師に話しかけた。随分親しげな様子だ。この部屋に躊躇いなく入ったことや、彼らに不審な目を向けられなかったことから察するに、ここへ来たのは初めてではないのだろう。

「あった、これよ」

 稲葉という看護師はコンピュータに残っていたデータをモニターに表示させる。元から入っていたデータを表示させるくらいなら今もできるようだ。

「これは……脳波か」

 三人の患者の脳波の状態が一度に画面に表示される。

 表示された波は、同じ形を描いていた。

「脳波って?」

 形が全く同じであることは分かるが、那由には脳波というものが具体的にどういったデータなのかまでは分からない。

「脳波はニューロンの活動による活動電位の振動で……まあ、これは脳が今どのように動いているかを知るデータと思ってもらえばいい。人の脳は安静時ですら活発に情報処理を行っていて、脳波の動きが止まることはない。一般的には外部の頭皮から観測するものだが、今表示されているのはHO2が演算により簡易的に割り出したものだ。でも……簡易的といったってこんな風に重なるなんて異常すぎる」

 いくら単調な動きであろうと、脳波の動きが百パーセント重なるなどということはあり得ない。恭人は言葉を噛み砕きつつ那由にそう説明した。

「三人の脈もこんな感じ」

 稲葉が次に表示させたのは脈拍のデータ。

 やはり、何故か波の動きがぴったり重なっている。

「因みにこれは昨日の午後一時頃のデータ。ここでせんべいを食べながらゲームをしていた医院長がふと気が付いたのよ。調べてみたらこうなっているのは昨日の正午から。その時から突然特定の人物のデータが単調になり、一致した」

 まだ地震が起きる前のことだった。

 医院長が勤務時間中にゲームをしていたというのは、やはり恭人からすると許せることではないのだが、そのお陰で分かったこともあるのだから複雑な気分にもなる。

「正午……それって」

 それは、那由がふと自分の記憶がないことに気が付いた時刻とほぼ一致していた。

 偶然だろうか。それとも何か……その時間に秘密があるのだろうか。

「街で俺が見かけたアンドロイドもどきたち……それらに話しかけた時の反応も、正午以降に関する質問の回答がどうも機械じみていた」

 昨日の正午。その時何かが起きたことは間違いないのかもしれない。

 しかし、急に患者が人間からアンドロイドにすり替わるなどという非現実的な話は聞いたことがない。一体どんなトリックがあるのか。現段階では分からない。

「正午以降、地震以前のデータがあるなら俺は別に一人一人の人間の顔を伺って本物か偽物か見極めるなんて途方に暮れる作業をしなくていいわけか」

「そうだね」

 一体あれが何者なのかは置いておいて、その分析は別の人物に任せればよい。殆どを彼の父が見抜いて見捨てた可能性もある。

「因みに、解剖はしたんですよね?」

「ええ、例外的にね。司法解剖の先生が見た限り本物の臓器だそうよ。でも、このご時世そんなもの人工的にいくらでも作れるからね……精密機器が動かない限り詳しいことは分からないわ」

 専門家が目視した程度では判断が付かないほどには彼らは人間であるらしい。

 けれど、人間と断定するには違和感が多い。


「じゃあ、やっぱり内科医のたまごとして病棟を巡るか。稲葉さん、予備の白衣二着ありますか? あと父さんが作ったマニュアルもあれば貸してください」

「ええ、あるわ」

「二着?」

 稲葉は棚を漁り、綺麗に折りたたまれて白衣を取り出す。もう一着を誰が着るのか……それは恭人の視線ですぐに分かる。

「えーっと……私も?」

「助手くらいならできるだろう。人手はある方がいい。それともナース服のほうがよかったか?」

 さっさと準備を始める恭人に、那由は仕方なく付いてゆくしかない。今ここで断っても行き場などないのだ。病気についての知識はさっぱりないことは確かだが、雑用程度ならこなせるだろう。

 そして那由は半ば強制的に病棟へと駆り出されることになった。


  ◆    ◆    ◆


「お医者さん、ありがとう」

 その少女は、ベッドに座ったまま那由に礼を言った。資料を見る限り年齢は八歳らしい。

 ただ体温を測って記録をつけただけなのに礼を言われるとはむず痒い心境だ。そもそも自分は医者ではないと心の中で思う。子どもにそのような区別がつくはずはないが、やはり勘違いされるのは恥ずかしい。

 機械による患者の容態記録は地震が起きた午後三時頃で止まっている。それ以降の記録は全て手書きだ。担当医師も定まらないため紙に記録したものは患者の元へと置いていき、次にやって来た者がそれを見て再び記録をしてゆくというシステムである。

 こんなアナログな仕様が使われたのはいつぶりなのだろうか。医院長である浪川敦志が提案しなければ誰も思いつかなかっただろう。その自由奔放な態度には疑問を投げかけずにはいられないが、非常事態への対処法はしっかりしている。


 那由と恭人は現在小児病棟へ来ていた。

 小児科長はどうやら事態についていけず、次々に患者が死んでしまうことの責任に耐えられずに逃げてしまったらしい。

 故にここは人手不足でもあり、指示不足なのだ。

 病気の基礎的知識は恭人にも一応あるので、緊急性の高くない一般病床にいる患者相手なら医療行為外の範囲でそれなりの対処はできる。那由は言われた通りの簡単な作業をこなすだけでよかった。

「なんだか、嬉しいな」

「え?」

 体温を計り終えた幼い少女が笑った。

 こんな事態に、一体何を言っているのか。そんな那由の疑問に反し、少女は心の底から楽しそうな様子だ。

「今までお医者さんって点滴の袋替えに来たりご飯持ってきたりしてくれるくらいで、あんまりお話もしなかったから……」

「ああ……」

 先ほど恭人が言っていた。患者に寄り添う医者はもう殆どいない。大体機械に指示される通りに動くだけ。

 病院全体は混乱状態でとても平和とは言えないが、病室に籠っている彼女にはそもそもそれが分からないのかもしれない。

「ゆう君たちにはお父さんやお母さんのお見舞いがあるけど、私にはそれもないし」

 ゆう君とはこの六人部屋の一番奥で寝ていた男児のことだろう。彼らには見舞い客がいる。けれど、この少女にはいないらしい。

「ふーん……どうして?」

 どうでもいい、一瞬そう思ってしまったが、流石にここは親身になって聞かなければならないと思い直す。

「私、孤児院育ちなんだ。でも……孤児院の先生たちは他の子の面倒をみることだけで精一杯で、病気の私は一人ぼっちなの」

「孤児院……」

 なかなか珍しい境遇だ。しかしその言葉がどうも引っかかった。頭の中で「孤児院」という言葉を反芻する。

 どうして引っかかるのか。思い出せそうで思い出せない。

 孤児院といえば、自分が記憶を失った渋谷の交差点のところにタワーマンション型の孤児院があるが、そこに何か繋がりがあるのだろうか。六歳になると個室が与えられ、そこで一人で生活させられる場所。その知識は、どこで得たものだっただろう。

「でもね、孤児院の先生は優しいんだよ。テストで百点取ったら褒めてくれるし、髪もね、結んでくれるの」

 見舞いに来ないというエピソードから悪い印象を与えてはいけないと思ったのか慌てて弁明する少女。

「そう……」

 やはり何かが、確実に那由の頭をよぎった。

「あのね、よかったら、これ」

 少女は那由の異変には気付かず、棚の中から櫛を取り出して無邪気に差し出した。

「先生みたいに、髪を梳かしてくれたら嬉しいなって」

 それは医療業務外の頼み事だ。流石にそろそろ次の子の元へ移らなければならないと思ったが依然恭人はカルテを見ている。

「いいよ」

 那由は湧き上がる妙な感情を抑えつけて櫛を受け取った。

 孤児院、そして先生。その響きに何故か嫌悪に近い感情がある。けれどそれが一体何なのかには辿り着けない。

 後で恭人に頼み渋谷の孤児院に行けば何かを思い出せるのだろうか。

「お医者さん?」

 櫛を持ったまま固まっている那由に少女が声をかける。

「ううん、今やるね」

 頼まれたことはきっちりやらなければならない。那由は少女の髪を手に取りそっと櫛を通してみた。

「んんー気持ちいい」

 少女の髪は随分と絡まっている。長らく梳かしていなかったのかもしれない。

 苦戦しながらなんとか梳いていくと、髪は幼児特有の滑らかさを少しだけ取り戻した。

「ありがとう!」

 そして、満面の笑みで礼を言われる。

「うん、お大事に」

 那由は言いながら視線を逸らした。この幸せそうな顔を、これ以上見ていたくないと思った。

 善行をしたはずなのに、何故か胸が痛む。

「おまたせ。次の病室行くぞ」

「うん」

 やっと恭人からの声がかかり、那由は逃げるように病室を離れた。


 様々な子どもがいた。医者を怖がる者。喜んで向かい入れる者。体調が悪そうな者もいれば、何故入院しているのかと疑問に思うほどに元気な子どももいる。

 そんな子どもたちの相手にも慣れてきた二人が次に入った病室は、一人部屋だった。広々とした、しかし私物も何もないシンプルな部屋のベッドの上には、ごほごほと苦しそうな咳をする十歳ほどの男の子がいる。

「大丈夫か?」

 恭人がカルテを見るより先に少年に近づいた。

 少年は咳をしつつ首を横に振る。

「肺をやってるな……」

 そう呟いて恭人がゆっくり背中を撫でるも、咳をする度小さな体が屈折する。

 那由は、見慣れない真剣な恭人の横顔をじっと見つめた。

 人に失礼なことを言ったり、興味のない相手には干渉もしようとしない恭人だが、ちゃんと人を心配する優しい一面もある。それに比べて自分は幸せそうな少女を妬むような感情を抱いた。この差が今になってそこはかとなく虚しい。

 那由がそう考えている間にも少年は呻き、そして、一際大きな咳をした。

 その途端、彼の口から勢いよく血が飛び出した。単純に喉を傷つけてしまったのか、肺に原因があるのか。

 布団と衣服に真っ赤な血痕が付着する。そして、口からぽたりぽたりと漏れる血液。

「あ……う……僕、」

「大丈夫、今拭こうな」

 恭人は動揺を表に出すこともせず、あらかじめ白衣のポケットの中にいくつか用意してあった殺菌済みのガーゼを取り出し、泣きそうになる少年の口の周りを丁寧に拭いた。

「おい貧乳、カルテ取ってくれるか」

 それから少年の背中を撫でつつ、助手と化した那由に声をかける。しかし、返事がない。

「どうした?」

 振り返って様子を伺うと、

「あ、うん」

 那由はやっと置いてあったカルテを慌てて恭人に手渡す。しかし、その動きはどこかぎこちない。

「お前……」

 恭人は何かを言おうとしたが、結局何も言わずに少年の手当てや処置に専念した。

 那由は今、一瞬全く身動きを取ることができなかった。息をすることすら忘れそうになるほど、身体が固まった。

 今度は妬みの感情とは程遠い。おそらくこれは恐怖だ。

 真っ赤な血液や、依然として衣服に付着している血痕。

 それが、何故か直視できない。見るだけで心臓の動きが早くなるようで、生きた心地がしなかった。

 自分は血を見るのが苦手なタイプなのだろうか……そう考えつつ、那由は少年から必死に目を逸らした。彼は大量出血をしている訳ではない。ガーゼで拭き取れる程度だ。なのに、何故か震える程に恐怖を感じてしまう。

「終わったぞ」

 恭人の声ではっと顔を上げると、少年は落ち着いた様子でベッドに寝ていた。自分がどれほどの間俯いていたのかは分からないが、一通りの処置が終わったらしい。

「一定時間おきに咳を押さえる薬が必要らしい」

 恭人はそう説明しながら、手伝わなかった那由を責めることも心配することもせず、自然な様子で病室を出て、那由も部屋をあとにしたところで静かに扉を閉める。

 何気ない行動が、一番患者を刺激しない。こちらが慌てふためいていたら患者にも不安を与えてしまう……そう思っての対応だろうか。

「大丈夫か?」

 病室から離れた場所まで来て、初めて恭人は神妙な顔で尋ねた。

「だ、大丈夫」

 答えてみるも、那由はあまり自分でも自分の状態が分かっていない。

 自分が何に恐怖しているのかもよく分かっていないのだ。そもそも記憶がない。

 震えた声を出す那由を恭人は暫く見つめていたが、ふんと鼻で笑うと、

「よく考えたら素人には刺激が強すぎたかもな。病棟巡りは」

 と、いつもの馬鹿にする調子で言った。

「別に……確かにちょっと血を見るのは苦手みたいだけど……平気だよ」

 那由は、少々反抗心を掻き立てられて言い返す。

「あと一室だ。先に休憩していてもいいけど」

「ううん、あと一室くらい大丈夫」

 ここまできたら意地だった。恐怖を心の隅に追いやって恭人の目を見つめる。

「役に立ちたいから」

 那由はそう付け加えてから再び俯いた。自分で言っておいて、その言葉には何故か妙な重みが感じられた。

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